あの世横丁ぎゃんぶる稀譚
序章 門倉いづる
半年前。
友達が、首から上をフッ飛ばして死んだ……。
私立 桜縁《さくらゆかり》高校の校舎裏には、一本の大きな桜の木がある。
樹齢何年だか誰も知らないが、戦争中にこの桜の下で旦那に別れを告げたお婆さんがいたというから、だいぶ昔からあったのだろう。
厳つくごつごつした樹皮は、男子がトイレで一服するのに重宝する百円ライターの火勢なんかではとても燃え上がりそうにない。
外周を結界のようにぐるりと囲んだ緑色のネットと、ところどころ欠けたコンクリートの校舎に挟まれて、その桜はぽつんと置いていかれた子どものように立っていた。
ひとつのベンチと錆びた焼却炉があるきりの校舎裏に、春になると桃色のじゅうたんが広がる。風が吹くと、散った花びらが螺旋を描いて舞い踊る。
骨も皮もありはしないが、そんな桜の木が俺にとって、首藤星彦《すどうほしひこ》の墓だった。
腕時計の長針は自分の役目をコンパスと錯覚してしまったように頂点を指している。
薄暗い桜の木陰で、俺は焼きそばパンのビニールを荒々しく破いた。
脇にはお茶のペットボトルと、バナナアップルジュースのパック。
赤ん坊の腕くらいの長さをした焼きそばパンをくわえながら、俺は紙パックの口を開けた。
このバナナアップルジュースというのは、『美味いもの足す美味いものは美味いとは限らない』と俺に教えてくれたありがたいジュースなのだが、首藤星彦、あの混ぜるなキケンをすぐ混ぜたがるあいつの性分と味覚のキャッチャーミットに剛速球でストライクを決めたらしく、知り合ってから終わりまで、首藤は飽きずに毎日これを飲んでいた。無論死ぬまで。カッコイイね。
だから、墓石に水やら酒やらをかけてやるよりも、昼休みの駄弁り場所として俺ら二人に選ばれていたこの桜に、やつが好きだった未知の液体をぶちまけてやる方が、よっぽど供養になると思ったのだ。
今にもしゅうしゅう煙でも出しそうな怪しげなジュースを、根元にそろそろと零していく。後ろから見ると俺が立ちションしているように見えるのではと戦々恐々なのだが、数年前に自殺者が出て以来、この校舎裏にわざわざやってくる生徒は少ないのだった。
ちょぼぼぼぼぼ、と土の布団から首を出していたミミズくんにジュースをかけていると、うしろからぱこんと頭を殴られた。
「そんなのかけたら、木が腐っちゃうでしょ、門倉くん」
「紙島《しじま》……」
腕を組んで、僕を見上げているややチビは、同じクラスの紙島詩織だ。変わったやつで、いつも真っ白いロシア帽を被っている。そこから溢れる豊かな栗色の髪は風を受けて気まぐれに波打っている。
その手には、なぜか演劇部のものらしい台本が握られている。それで俺の頭部を殴打せしめたらしいな。野郎。
「またピンチヒッターで部活の助っ人やってんのか? 暇人だなァ」
「環境破壊者に言われたくない……」
「破壊じゃないぜ、供養だよ」
「無意味なところは同じだよ」
未練がましい、と紙島は吐き捨てる。
どうやらちょっと怒っているらしく、髪と同じ色をした澄んだ双眸《そうぼう》は細められて眼光が鋭くなっている。
「前にも言ったと思うけど」
「うん」
紙島《しじま》に逆らっていいことはないので、素直に頷いておく。
誰かに言われたことを伝えるような、そんな心がどこかへ抜けたような口調で、紙島《しじま》は言った。
「門倉くんがどう思っていようとも、その桜の下に首藤は埋まっていないし、その幹にあいつの心は宿ってないし、バナナアップルジュースは木に悪いんだよ」
「――――」
「とにかくもうやめて。その桜が枯れちゃうと怒られるのは美化委員の私なんだから」
そう言って紙島はぐいっとロシア帽の位置を直した。
ぱちぱちと瞬きしながら送られてくる視線に責められ、俺はふいっと顔を背けた。
「まあ俺、桜って嫌いだし」
こいつとは時々、今でもこの桜の下で出くわすことが多いが、この話題に触れるのは初めてだった。
紙島は興味無さそうに流し眼だけを送ってきた。
「へえ……珍しいね。興味ないとかじゃなくて嫌いなんだ」
「ああ。だってさ……日本の花といえば、桜だろ?」
「うん、まぁ、そうかも」
「そこが嫌なんだよ。パッと『今答えろ!』と枕詞をくっつけて尋ねたら、みんながみんな桜って返すだろ。日本には元々、松、梅、藤、菖蒲、牡丹、萩、芒、菊、柳、桐、ほかにもたくさん固有の花があるのに、どれかひとつといったらいつも桜だ」
紙島は生返事しかしてくれないが気にしない。
「それってなんかひどくねーか。忘れ去られた花が可哀想だぜ。だから俺は桜なんか嫌いだから枯れたっていいんだ。首藤の墓参りのが大事だぜ」
「首藤が好きだったものを枯れさせて平気なの?」
はぁ、と大きなため息を紙島が零した。呆れを通り越して微笑んでいる。
「そんなこと考えながら桜を見上げるのは門倉くんくらいだろうね」
「変かな」
「変だよ」
「でもおまえだって変だぜ」
俺の反撃に、紙島はまた、へぇと気の無いようなフリをする。フリだよな?
「どこが変なのか言ってみてよ。まあ、門倉くんからしたらフツーの人ほどヘンに見えるんだろうけど」
「ふん。――おまえさっき、美化委員として俺の行動が許せないって言ったよな」
「言ったけど?」
「ホントにそうか?」
「――――は?」
「死んだ幼馴染の面影が残ってる場所がなくなって欲しくないから、が本音なんじゃないのか」
いつの間にか紙島は、ぞっとするほど人形に似た顔つきになっていた。
怒っている。確実に。
「だったら何?」
「俺は――首藤に戻ってきてほしいわけでもないし、悲しくも悔しくもない。俺からすりゃああいつはただの友達で、ふざけた連中が張ったピアノ線にバイクで突っ込んで首を三百メートル彼方までぶっ飛ばした珍しいやつで、いい暇つぶしの相手だった。それだけ。――未練がましいのはおまえの方だろうが」
いい音が鳴った。頬を左手で擦るとじんわりと熱を持っていた。
手の平を振り切った姿勢のまま、紙島詩織は、キッと俺を射殺す勢いで睨みつけた。
「門倉くんには、わからないだろうね」
立ち去る紙島の背を見送りながら、結構響く言葉だな、と俺は胸に手を当てた。
「ああ、そうだよ、わかるもんか」
しかしなるほど環境破壊か。俺は咲き誇る天然の傘を見上げた。
確かに俺は、この桜を破壊しようとしていたのかもしれない。
傷だらけの幹を見るたびに、たったひとりの友達を失ったという思いがするのは事実だ。
ああ、そうだ。
この気持ちを、敗北感と呼ぶんだろう。
首藤星彦が死んでから、俺の毎日は、ずいぶん味気なくなっちまった。
桜縁高校に入学した去年の春、俺と紙島詩織、そして首藤星彦は同じクラスになった。
俺らの担任はその年に初めて自分のクラスを受け持つことになったとかで、生徒よりもガチガチに緊張していた。早く友達が作りたくって調子に乗った誰かが『まさか本当にひっかかりはするまい』と仕掛けた黒板消しの落下トラップにひっかかりマトモに白粉にまみれ、黒板消しを頭のてっぺんに乗っけたまま何事もなかったかのように授業を始めたのは気合の入った現実逃避っぷりだった。
去年いっぱいで教師をやめてしまったのが残念でならないほど印象のいい先生だった。
その一件でクラスメイトたちの強張った首筋もいくらかほぐれたのか、誰もが気乗りしないであろう自己紹介もスムーズに進んでいった。
首藤星彦がなんと自己紹介していたのか、実はそれほどよく覚えていない。ただ漠然と背高ぇなあ、ぐらいのことは思ったかもしれない。
首藤は身長一八〇センチ。雑巾を絞ったように鍛えられた筋肉を持っていて、髪は短髪、眼だけがやたらと子どものようにきらきらしているやつだった。
俺の隣に座っていた木村が「すごいイケメン……」と恍惚した表情で呟いていたので、「おまえだってイケメンだよ」と耳打ちしてやったら新品の上履きに早くも靴跡をいただく羽目になった。木村とは中学が一緒だったので今でも時々喋る。バレー一筋で背中よりも長く髪を伸ばしたことがないらしい。男みてえな団子っ鼻をしょっちゅう気にしていた。
斜め前の席で鏡のようにピカピカの机にアンパンマンの絵を描き始めた首藤を見ながら、こういうやつがモテる顔なわけか、と俺は頬杖をついてその横顔を眺めていた。
友達を作るためにあれこれ努力するのが億劫で、入学してから二月ぐらい俺はぼんやりと過ごしていた。球技大会もその打ち上げもすっぽかしてマイペースな人、もとい協調性のないつまらんやつとの称号を頂戴した俺は、そのまま静かに高校生活を締めくくることになる、と自分でも思っていたし、そうなるはずだった。
気がついたら、首藤と友達になっていた。
なにがきっかけだったのか、べつに隠してるわけじゃないんだが、本当に覚えていない。まあ友達との馴れ初めなんてのはそんなものなんだろう。
かはっ、かはっ、と妙な笑い方をするやつがいたので横を見たら首藤がいた、という感じ。
俺と首藤は、来る日も来る日も校舎裏の桜の木の下でくだらないことを五限が始まるまでの五十分間を費やして喋り続けた。
やつの幼馴染の紙島詩織は俺とうまが合わないらしく、昼休みに姿を現したことはほとんどなかった。
退屈だったが、穏やかだったことも確かだ。
ある日、首藤がこんなことを聞いてきた。
「いづる、おまえ来世って信じる?」
俺は早くも飽き始めた購買のパンをくわえながら、
「来世? 信じてない」
「え、なんで?」
べつに信じてなきゃいけないわけでもねーだろ、と思ったが、まあ許してやることにした。
「だってさ、死んだら消えなきゃずるいじゃん」
首藤は腕を組んで小首をかしげて、全体的に斜めになりながらうーんと唸った。
「ずるいって何さ」
僕はこっそり首藤の弁当からから揚げを盗み取りながら答えた。
「ロックマンやってて、残り一機で、あと豆弾一発でボスを倒せる! ってときにやられちゃって、ああくそまた最初からかよぉって思ってたら、なんかしらないけどバグって数秒間無敵になってボス倒せても、それってずるいじゃん」
「あー」首藤は牛のように口をだらんと開けた。マヌケ面だってわかってんだろうか? 「なんとなくわかる」
「だろ。勝たなきゃダメだけど、勝ってイマイチ納得できないってすごくつまんないぜ。だから死んだら消えなくっちゃな。潔く」
「おまえはすげえなあ」首藤はにへらっと笑った。
「俺はそんなにサッパリはできねーや。ずるくてもなんでも、このまま死んだらすげえ困る」
「困る? なんかやりたいことあんのか?」
「いや、ないけどさ、やりたいこととか、好きなこと見つかってねーのに死んじゃうなんて嫌だろ」
「まあ……何だよ、それで来世の話を振ってきたのか?」
「うーん、そうかも……でもたぶん違うな」
だって、と首藤は笑った。
「来世があろうとなかろうと、俺が俺じゃなくなっちまったら、意味ねえもんな」
どこか首藤には、俺に通じるものがあったように思う。
あいつも同じことを思っていたのかもしれない。
そうだとしたら、なんだかちょいと、気恥ずかしいんだがな。
夏休みの終わり頃だったと思う。
補修に呼ばれて長い坂を登って登校すると、首藤が顔面を腫らしていた。眼の上に青タンが出来上がっていて、それを見た途端、思わず俺はゲラゲラ笑っちまった。すると机に腰かけていた紙島がキッと睨んできた。
「何が面白いんだよ、門倉くん」
当の本人の首藤こそヘラヘラのんきに笑っていたのだが、それを言い訳にすると余計にひどい目に遭いそうだったので俺は肩をすくめ、首藤の前の席に逆向きに座った。
「痴話喧嘩でもしたのか?」
「なっ――」紙島が夏でも外さないロシア帽をぐっと引き下げて、目元を隠す。
そんなおめでたい態度を取られてしまっててっきり図星かと思えば、にこにこと首藤が首を振った。傷だらけの面が破顔しているのは思い返しても不気味の一言に尽きる。陽気な太陽もドン引きするというものだ。
「実はさ、昨日、目の見えないおじいちゃんが公園で不良に絡まれててさ」
「目が見えないって――知り合いだったのか?」
「いや、杖持ってたし、それに視界が俺らと違う人って、やっぱ首の動かし方とか、微妙な雰囲気違うじゃん。差別するわけじゃないけど、わかっちゃうだろ」
「ああ――それで?」
それでも糞も答えは判り切っていたのだが。
首藤はかはっ、と笑った。
「助けてみた」
「捨て猫を拾ったみたいな軽い言い方しないでほしい」と紙島がぷんすかしている。イラついてるなら牛乳でも飲んでろってんだ。
「五人ぐらいいたんだけど、まあなんとかなるかーと思って飛び込んだまではよかったんだけど、いやあスタンガンは出てくるわバイクで轢かれかけるわ――まァ俺もバイク乗ってたから最初のひとりは轢いたんだけど――」
首藤は無免許で、兄のバイクをよく乗り回していた。四つ年上の兄貴とは一度だけ会ったことがあるが、瓜二つと言っていいほど似ていたので教師が首藤を発見しても弟かどうか判別できた試しはついになかった。
「で、勝ったのか?」
「門倉くん、そんなスポーツみたいに――」
「うん、じいちゃん守ってやったぜ」
「よかったな、おめでとう」
「ああ、一度やってみたかったんだ、人を助けるって」
うるさい蝉が鳴く外を見やって、首藤は目を細めた。
「でも、なんか、意外とどってことないんだな、こういうのも」
「だろ?」
それからすぐ、首藤は死んだ。
バイクで橋を渡る際に、張ってあったピアノ線に気づかずに通過したのだ。
フルスロットルで突っ込んだ首は、くっつきそうなほど綺麗な断面をさらして、後日、三百メートル先のゴミ捨て場の中から発見された。
誰かがそこまで運んだのではないか、犬や狐がくわえて持っていったのではないか、いろいろ噂は立ったものの、それもすぐに立ち消えた。
俺は本当に、首藤の首は夜空高くを舞い上がり、ゴミ袋の海に特攻をかまし生ゴミの飛沫を高々とブチ上げたのだと思っている。
それが一番、あいつの死に様としては、面白い話じゃないか?
俺は少なくとも、死んで周りにめそめそされるより、笑い話にでもしてもらった方が辛気臭くなくっていい。
そう思うけどな。
今日はクラブに顔を見せる気分にもなれず――俺にしてはあの奇妙なクラブをサボるなんて珍しかったんだが――ひとりで家路についた。
俺の帰り道には一本の十字路がある。
桜の木が街路樹として植えられていて、春になるとあまりの花びらに車がワイパーを使って通る。
よく十字路には魔が出る、といういわれがあるが、首藤が首なしライダーになってから三ヶ月くらい、実際の死亡現場と離れているにも関わらずこの辻にあいつの幽霊が出るという都市伝説が伝染病のように流行した。
地元の小学生があまりにも怯えるので(実際、見たという子どもが何人もいたらしい)、通学路として使用されなくなったほどだった。
そんな噂もすっかり雪と一緒に溶けてなくなってしまったように思えるが、世に心配性の絶えた試しはなし、いまだに人気は少なく閑散としたままだ。
まあ、どんな噂や迷信が蔓延しようと、べつに首藤が生き返るわけでもなし。もし本当にあいつの亡霊がいるなら、見世物にしたいところだけどな。
我ながら不届きなことを考えているのにも飽き、ふと横断歩道の向こう側を見やった。
赤信号から、青信号へと切り替わる。
木から溢れかえった桜の花が、風に煽られて俺の顔をしたたかに打つ。子供の手にまとわりつかれているようでうっとうしいその風の向こうに、誰かがいた。
背が高く、精悍な顔つきで、どこか子どもっぽく輝く両目
思わず右手を伸ばした。
あいつは向こう岸で、にやにや笑っている、ように見えた。
おまえ、どうして……。
そのとき、象の鳴き声を聞いた。
とうとう頭がおかしくなったのか、と横を見ると、突っ込んできたのはインド象でもなんでもなく、青いトラック。
運転席で、うとうとと帆を漕ぐ運転手の仕事の多忙さを暢気に想像して同情した瞬間、
あッ
五メートル下で俺が死んでいた。
白と黒の縞模様のど真ん中に、ひしゃげた卍のようになって、倒れている。
轢かれたときの衝撃で学校指定のローファーが両方とも見知らぬ明日に向かってぶっ飛んでいた。
鴉色のブレザーから、じわじわと血だまりが広がっていく。アスファルトに血の気を吸われて、顔色はどんどん白くなっていく。
それをどういうわけか俺は見下ろしているのだった。横を見ると青く点った信号機が顔のまん前にあった。複眼のようなシグナルに網膜が焼けそうだ。
まだ足があるか心配になって身体を見下ろすと、腹のあたりから血が滲み出していた。手で撫でてみたが痛みはない。
トラックが横転して、その余波で桜吹雪が巻き起こっていた。
午後の白い日差しを浴びて、花びらは気持ちよさそうにひらめいている。
ああ、もし来世があるなら花になるのも悪くない。桜は嫌だから、あやめにでもなろうかな。
そのとき、名前を呼ばれたような気がした。
きょろきょろした挙句に、眼下の死体を僕よりも近い距離で見下ろしているやつがいた。
紙島詩織だった。
「門倉――くん」
囁き声は本当に幽かで、そこから感情の色は何一つ読み取れない。
まさか悲しむわけはあるまい。できれば救急車でも呼んでほしいところだが、手遅れなのが残念だ。
桜に似た薄い唇が、何か言っている。
だがその言葉は、小さすぎて聞き取れない。
いや。
俺の耳が、何も聞き取らなくなっているのだ。
視界が四隅から、白くなっていく。
ゆっくりと鈍く、なまくらになっていく感覚。
ああ、やっぱり死ぬのね。
やり残したことが、何もないっていうのも、寂しいかな。
まあそれもひとつの人生。
そうそう上手くもいかないさ。
俺が万感の思いを籠めて死を受け入れようとして――
「おいこら」
鈴の鳴るような声に、邪魔された。
赤に点った信号機をベンチ代わりにして、妙な女子が座っていた。
そんじょそこらの女子じゃないことは一目瞭然で、そいつは昭和を終えて二十余年を経たこの無明の時代に、武者のような格好をしていた。青い衣を着て、すらりと伸びた手足を手甲、篭手、すね当てがそれぞれ守り、鉄と革でできた胸当てが胸元を覆っていた。青い衣と赤い武具をまとった姿は、動脈と静脈が絡み合ったようだ。
腰には朱鞘の太刀を佩いている。気分次第では斬ってやってもいいんだぞ、と言いたげに左手が柄に置かれていた。
格好こそ時代錯誤だが、その目つきは戦士のそれだ。腰の太刀で斬ってつけたかのような眼光炯々とした双眸、筆で引いたように細く整った眉、すっと通った柔らかそうな鼻筋――そんな怪人が、信号機に足を組んで座っていた。
一度見たら焼きついてしまって、二度と忘れられない記憶になりそうな予感がした。
もったいないことに人生にセーブデータは一つしかない。どんなに消したい跡でも、リセットは効かないのだった。
眠気はとうの昔に吹っ飛んでいた。
地上五メートルで、ふわふわ浮いたまま、俺は少女と見つめあった。
「……なんだよ」
眉をひそめて少女が居心地悪そうに信号機に座りなおすが、それはこっちのセリフだ。
「あんた、そんなところに座ってたら、信号が見えなくて下の人が困」
「そんなに太ってやしねぇッ!」
ガァンと篭手に覆われた拳が俺の顎を撃ち抜いた。一発で頭ん中に火花が炸裂した。見事なアッパーカットだ。できれば受ける側ではなく見る方に回りたかったけどな。
身体をくの字に折って顎をさすりながら苦悶に呻いていると、まだ怒り足りないのか殴り足りないのか、少女は拳をぶんぶん振っている。
「てめーなめやがって、人間のくせに……」
心なしか、肩口で乱雑に切られた髪が怒気を孕んで膨らんでいるように見えた。まるで鬼だ。
「人間……って、なんだ、じゃあんたは人間じゃないってのか」
俺が疑問を口にすると、少女は信号機に再び腰を下ろし、少し得意気な顔をした。ドヤ顔が様になっている。これは親に甘やかされて育ったタイプだ。まったく最近の若いやつらってのは困りモンだぜ。
「あたしは死んだてめえら人間をあの世に連れて行ってやる心優しい妖怪だよ」
「ふうん」
妖怪だか老害だか知らないが、心優しい人はすぐ人を殴ったりはしないはずだ。
俺の反応が期待値に比べて鈍かったのが気に入らないのか、少女はぐっと顔を突き出して、下から鋭く見上げてきた。スカートの長いセーラー服を着せたらスケバンが絶滅から再生するだろう。やつはぴっと手甲に覆われた手で眼下の死体を指差した。
いつの間にか救急車がやってきて、ぐったりした俺の体は担架に乗せられている。そばには紙島が付き添っていた。どうやら彼女の手配らしい、お礼を言いたいがあいにく死んでいる。
「てめえはトラックにドカーンされてバターンなったからそれを見てたあたしがぴゅーってやってきたわけだ」
夕方頃に三チャンネルでやってる子ども向け番組のガキどもがこんな喋り方をしていたような気がする。
「よくわかる説明だった」
「だろ?」んなわけねーだろ。
「で」
ドヤ顔を華麗にスルーして、
「俺はどうなる?」
死んだら心は消えるものと思っていたので、正直この状況にはいささか面食らっている。空中にあぐらをかいてあくびをかみ殺しながら答えを待った。
妖怪は、びっと僕の眉間を指し示した。
「おまえら人間は最近、科学とかいうわけわからんモノを信仰するようになって忘れちまったらしいが人間ってのはな、死ぬと魂がぽこっと出てくる。その魂は、死んでから七日間、あの世をウロウロした後、記憶と自我をなくして魂だけになる」
「魂が、魂だけになる?」
「うん。おまえらが生まれてくる前に『だったもの』、そいつに戻る。もうその頃にゃあ何の苦しみも悩みもない。自分が誰だったのかさえわからない。魂だけになった人間は、やがて転生してまた生き物として生まれる」
「へえ」
「なんだおまえ」
妖怪が不服そうに目をすがめる。
「ホントにわかってんのか?」
「わかってるよ」
「嘘つけ、ぜんぶ説明してないんだからわかるもんか」
「おおよそ把握していれば大抵はなんとかなる。これからあんたにあの世に連れていってもらって、七日間経ったら俺は消える。その後のことはわからない、野となれ山となれ人となれ、ってんだろ」
「う、うん」こいつたぶん、これ以上一気にまくし立てるとフリーズする。
勢いをつけて、ブランコから飛び降りるようにして赤い少女は信号機から宙に降り立った。
「それだけわかってりゃあいいや。わかってなくても連れて行くしな。ま、百戦は一撃にしかずだ」
「百戦もしてればなあ」
「あん? なんか言ったか?」
「いいや。じゃ、いくか。ところであの世ってここから何分くらい?」
「歩いて十分くらいだな。駅から近いぞ」
あの世は意外と身近にあった。
ひょいひょいひょい、っと妖怪は薄暗く埃っぽいビルの隙間を縫って進んでいく。その俊敏な背中を追うだけで、俺は息が切れてきた。運動不足だよなあ、と思い、それを解消する機会がないことに気づいた。はて喜ぶべきか悲しむべきか。
首だけで振り返り、妖怪は俺の醜態を嘲笑う。
「だらしねえなあ。それでも男か。嫁さんもらえねえぞ」
「死んでるしね」
「あははっ、そりゃそうだ」
やつの笑い方は子どもっぽい。そこにいるだけで楽しくて仕方ないという笑みだ。うらやましいもんだ。俺は思い出せる限り、そんな風に笑った記憶はあんまりない。
さて俺たちはあの世とやらを目指しているわけだが、妖怪の話によれば、あの世とはこの世の各地で繋がっており、そこを介して行き来ができるのだという。
このあたりでは、この駅前の路地裏ダンジョンがそのスポットらしい。
いつもは行き場を失った怪しい素性の連中が蠢いている路地に、なぜか今日に限ってねずみ一匹ごろついちゃいない。
「ああ、そうそう」と少女がどこからともなく一枚のお面を取り出した。それを受け取り、目に近づけてみる。何も刻まれていない。つるつるしたその仮面にはまぬけに伸びた俺の顔が映っているばかりだ。
「それ被っとけ」
「なんで?」
「それ被ってないと、七日間経っても魂が浄化されないときがたまーにあんだよ。鬼とか自縛霊なんかになりたくないだろ?」
「自縛霊は嫌だけどさ」被ってみると、ばかでかいコンタクトレンズをつけたように視界は良好なままだった。「鬼ならいいかな」
「バカ言うなよ。鬼になった魂はこの世に未練たらッたらで、あたしらが退治しなきゃいけねーんだぞ。おとなしく浄化されてくれりゃただで魂が手に入るんだから余計な真似されたくねーの」
「あんたは素直なバケモンだな。好きだぜ」
「妖怪な……おまえ喧嘩売ってんの?」気づけよ。
思わず破顔一笑してしまったが、俺の笑顔は仮面に阻まれて妖からは見えなかったようだ。しめしめ。
「あの世には、あんたみたいな妖怪がたくさんいるのか」
「いけばわかるよ」
「ふうん――」
いつの間にか下り坂になっている。しかし、路地裏に坂なんてあったろうか。首を向けると左右の建物は斜めに傾いでいた。ゴミ箱が滑り落ちることもなく四十五度で固定している。
ゆっくりと暗い奈落へと続く坂道を、俺たちは下っていった。
「なァ、妖怪さんよ」
ゆっくり闇に喰われながら、俺は尋ねた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「あんだよ」
姿はもう見えない。声だけが、波紋のように反響して返ってくる。
「半年くらい前にさ――首のない男が来なかったか?」
少女はいるかいないかを答えずに、
「友達か?」
とだけ聞き返してきた。
俺は答えなかった。
ふと耳を澄ませば、どこからともなく、音が聞こえてきた。その音はだんだんと大きくなっていく。
どんどん――ちゃか――どん――
ああ、これは祭囃子だ。
どこかで祭がやっている。
どんどんちゃかちゃか。
どんちゃかちゃ――。
半年前。
友達が、首から上をフッ飛ばして死んだ……。
私立 桜縁《さくらゆかり》高校の校舎裏には、一本の大きな桜の木がある。
樹齢何年だか誰も知らないが、戦争中にこの桜の下で旦那に別れを告げたお婆さんがいたというから、だいぶ昔からあったのだろう。
厳つくごつごつした樹皮は、男子がトイレで一服するのに重宝する百円ライターの火勢なんかではとても燃え上がりそうにない。
外周を結界のようにぐるりと囲んだ緑色のネットと、ところどころ欠けたコンクリートの校舎に挟まれて、その桜はぽつんと置いていかれた子どものように立っていた。
ひとつのベンチと錆びた焼却炉があるきりの校舎裏に、春になると桃色のじゅうたんが広がる。風が吹くと、散った花びらが螺旋を描いて舞い踊る。
骨も皮もありはしないが、そんな桜の木が俺にとって、首藤星彦《すどうほしひこ》の墓だった。
腕時計の長針は自分の役目をコンパスと錯覚してしまったように頂点を指している。
薄暗い桜の木陰で、俺は焼きそばパンのビニールを荒々しく破いた。
脇にはお茶のペットボトルと、バナナアップルジュースのパック。
赤ん坊の腕くらいの長さをした焼きそばパンをくわえながら、俺は紙パックの口を開けた。
このバナナアップルジュースというのは、『美味いもの足す美味いものは美味いとは限らない』と俺に教えてくれたありがたいジュースなのだが、首藤星彦、あの混ぜるなキケンをすぐ混ぜたがるあいつの性分と味覚のキャッチャーミットに剛速球でストライクを決めたらしく、知り合ってから終わりまで、首藤は飽きずに毎日これを飲んでいた。無論死ぬまで。カッコイイね。
だから、墓石に水やら酒やらをかけてやるよりも、昼休みの駄弁り場所として俺ら二人に選ばれていたこの桜に、やつが好きだった未知の液体をぶちまけてやる方が、よっぽど供養になると思ったのだ。
今にもしゅうしゅう煙でも出しそうな怪しげなジュースを、根元にそろそろと零していく。後ろから見ると俺が立ちションしているように見えるのではと戦々恐々なのだが、数年前に自殺者が出て以来、この校舎裏にわざわざやってくる生徒は少ないのだった。
ちょぼぼぼぼぼ、と土の布団から首を出していたミミズくんにジュースをかけていると、うしろからぱこんと頭を殴られた。
「そんなのかけたら、木が腐っちゃうでしょ、門倉くん」
「紙島《しじま》……」
腕を組んで、僕を見上げているややチビは、同じクラスの紙島詩織だ。変わったやつで、いつも真っ白いロシア帽を被っている。そこから溢れる豊かな栗色の髪は風を受けて気まぐれに波打っている。
その手には、なぜか演劇部のものらしい台本が握られている。それで俺の頭部を殴打せしめたらしいな。野郎。
「またピンチヒッターで部活の助っ人やってんのか? 暇人だなァ」
「環境破壊者に言われたくない……」
「破壊じゃないぜ、供養だよ」
「無意味なところは同じだよ」
未練がましい、と紙島は吐き捨てる。
どうやらちょっと怒っているらしく、髪と同じ色をした澄んだ双眸《そうぼう》は細められて眼光が鋭くなっている。
「前にも言ったと思うけど」
「うん」
紙島《しじま》に逆らっていいことはないので、素直に頷いておく。
誰かに言われたことを伝えるような、そんな心がどこかへ抜けたような口調で、紙島《しじま》は言った。
「門倉くんがどう思っていようとも、その桜の下に首藤は埋まっていないし、その幹にあいつの心は宿ってないし、バナナアップルジュースは木に悪いんだよ」
「――――」
「とにかくもうやめて。その桜が枯れちゃうと怒られるのは美化委員の私なんだから」
そう言って紙島はぐいっとロシア帽の位置を直した。
ぱちぱちと瞬きしながら送られてくる視線に責められ、俺はふいっと顔を背けた。
「まあ俺、桜って嫌いだし」
こいつとは時々、今でもこの桜の下で出くわすことが多いが、この話題に触れるのは初めてだった。
紙島は興味無さそうに流し眼だけを送ってきた。
「へえ……珍しいね。興味ないとかじゃなくて嫌いなんだ」
「ああ。だってさ……日本の花といえば、桜だろ?」
「うん、まぁ、そうかも」
「そこが嫌なんだよ。パッと『今答えろ!』と枕詞をくっつけて尋ねたら、みんながみんな桜って返すだろ。日本には元々、松、梅、藤、菖蒲、牡丹、萩、芒、菊、柳、桐、ほかにもたくさん固有の花があるのに、どれかひとつといったらいつも桜だ」
紙島は生返事しかしてくれないが気にしない。
「それってなんかひどくねーか。忘れ去られた花が可哀想だぜ。だから俺は桜なんか嫌いだから枯れたっていいんだ。首藤の墓参りのが大事だぜ」
「首藤が好きだったものを枯れさせて平気なの?」
はぁ、と大きなため息を紙島が零した。呆れを通り越して微笑んでいる。
「そんなこと考えながら桜を見上げるのは門倉くんくらいだろうね」
「変かな」
「変だよ」
「でもおまえだって変だぜ」
俺の反撃に、紙島はまた、へぇと気の無いようなフリをする。フリだよな?
「どこが変なのか言ってみてよ。まあ、門倉くんからしたらフツーの人ほどヘンに見えるんだろうけど」
「ふん。――おまえさっき、美化委員として俺の行動が許せないって言ったよな」
「言ったけど?」
「ホントにそうか?」
「――――は?」
「死んだ幼馴染の面影が残ってる場所がなくなって欲しくないから、が本音なんじゃないのか」
いつの間にか紙島は、ぞっとするほど人形に似た顔つきになっていた。
怒っている。確実に。
「だったら何?」
「俺は――首藤に戻ってきてほしいわけでもないし、悲しくも悔しくもない。俺からすりゃああいつはただの友達で、ふざけた連中が張ったピアノ線にバイクで突っ込んで首を三百メートル彼方までぶっ飛ばした珍しいやつで、いい暇つぶしの相手だった。それだけ。――未練がましいのはおまえの方だろうが」
いい音が鳴った。頬を左手で擦るとじんわりと熱を持っていた。
手の平を振り切った姿勢のまま、紙島詩織は、キッと俺を射殺す勢いで睨みつけた。
「門倉くんには、わからないだろうね」
立ち去る紙島の背を見送りながら、結構響く言葉だな、と俺は胸に手を当てた。
「ああ、そうだよ、わかるもんか」
しかしなるほど環境破壊か。俺は咲き誇る天然の傘を見上げた。
確かに俺は、この桜を破壊しようとしていたのかもしれない。
傷だらけの幹を見るたびに、たったひとりの友達を失ったという思いがするのは事実だ。
ああ、そうだ。
この気持ちを、敗北感と呼ぶんだろう。
首藤星彦が死んでから、俺の毎日は、ずいぶん味気なくなっちまった。
桜縁高校に入学した去年の春、俺と紙島詩織、そして首藤星彦は同じクラスになった。
俺らの担任はその年に初めて自分のクラスを受け持つことになったとかで、生徒よりもガチガチに緊張していた。早く友達が作りたくって調子に乗った誰かが『まさか本当にひっかかりはするまい』と仕掛けた黒板消しの落下トラップにひっかかりマトモに白粉にまみれ、黒板消しを頭のてっぺんに乗っけたまま何事もなかったかのように授業を始めたのは気合の入った現実逃避っぷりだった。
去年いっぱいで教師をやめてしまったのが残念でならないほど印象のいい先生だった。
その一件でクラスメイトたちの強張った首筋もいくらかほぐれたのか、誰もが気乗りしないであろう自己紹介もスムーズに進んでいった。
首藤星彦がなんと自己紹介していたのか、実はそれほどよく覚えていない。ただ漠然と背高ぇなあ、ぐらいのことは思ったかもしれない。
首藤は身長一八〇センチ。雑巾を絞ったように鍛えられた筋肉を持っていて、髪は短髪、眼だけがやたらと子どものようにきらきらしているやつだった。
俺の隣に座っていた木村が「すごいイケメン……」と恍惚した表情で呟いていたので、「おまえだってイケメンだよ」と耳打ちしてやったら新品の上履きに早くも靴跡をいただく羽目になった。木村とは中学が一緒だったので今でも時々喋る。バレー一筋で背中よりも長く髪を伸ばしたことがないらしい。男みてえな団子っ鼻をしょっちゅう気にしていた。
斜め前の席で鏡のようにピカピカの机にアンパンマンの絵を描き始めた首藤を見ながら、こういうやつがモテる顔なわけか、と俺は頬杖をついてその横顔を眺めていた。
友達を作るためにあれこれ努力するのが億劫で、入学してから二月ぐらい俺はぼんやりと過ごしていた。球技大会もその打ち上げもすっぽかしてマイペースな人、もとい協調性のないつまらんやつとの称号を頂戴した俺は、そのまま静かに高校生活を締めくくることになる、と自分でも思っていたし、そうなるはずだった。
気がついたら、首藤と友達になっていた。
なにがきっかけだったのか、べつに隠してるわけじゃないんだが、本当に覚えていない。まあ友達との馴れ初めなんてのはそんなものなんだろう。
かはっ、かはっ、と妙な笑い方をするやつがいたので横を見たら首藤がいた、という感じ。
俺と首藤は、来る日も来る日も校舎裏の桜の木の下でくだらないことを五限が始まるまでの五十分間を費やして喋り続けた。
やつの幼馴染の紙島詩織は俺とうまが合わないらしく、昼休みに姿を現したことはほとんどなかった。
退屈だったが、穏やかだったことも確かだ。
ある日、首藤がこんなことを聞いてきた。
「いづる、おまえ来世って信じる?」
俺は早くも飽き始めた購買のパンをくわえながら、
「来世? 信じてない」
「え、なんで?」
べつに信じてなきゃいけないわけでもねーだろ、と思ったが、まあ許してやることにした。
「だってさ、死んだら消えなきゃずるいじゃん」
首藤は腕を組んで小首をかしげて、全体的に斜めになりながらうーんと唸った。
「ずるいって何さ」
僕はこっそり首藤の弁当からから揚げを盗み取りながら答えた。
「ロックマンやってて、残り一機で、あと豆弾一発でボスを倒せる! ってときにやられちゃって、ああくそまた最初からかよぉって思ってたら、なんかしらないけどバグって数秒間無敵になってボス倒せても、それってずるいじゃん」
「あー」首藤は牛のように口をだらんと開けた。マヌケ面だってわかってんだろうか? 「なんとなくわかる」
「だろ。勝たなきゃダメだけど、勝ってイマイチ納得できないってすごくつまんないぜ。だから死んだら消えなくっちゃな。潔く」
「おまえはすげえなあ」首藤はにへらっと笑った。
「俺はそんなにサッパリはできねーや。ずるくてもなんでも、このまま死んだらすげえ困る」
「困る? なんかやりたいことあんのか?」
「いや、ないけどさ、やりたいこととか、好きなこと見つかってねーのに死んじゃうなんて嫌だろ」
「まあ……何だよ、それで来世の話を振ってきたのか?」
「うーん、そうかも……でもたぶん違うな」
だって、と首藤は笑った。
「来世があろうとなかろうと、俺が俺じゃなくなっちまったら、意味ねえもんな」
どこか首藤には、俺に通じるものがあったように思う。
あいつも同じことを思っていたのかもしれない。
そうだとしたら、なんだかちょいと、気恥ずかしいんだがな。
夏休みの終わり頃だったと思う。
補修に呼ばれて長い坂を登って登校すると、首藤が顔面を腫らしていた。眼の上に青タンが出来上がっていて、それを見た途端、思わず俺はゲラゲラ笑っちまった。すると机に腰かけていた紙島がキッと睨んできた。
「何が面白いんだよ、門倉くん」
当の本人の首藤こそヘラヘラのんきに笑っていたのだが、それを言い訳にすると余計にひどい目に遭いそうだったので俺は肩をすくめ、首藤の前の席に逆向きに座った。
「痴話喧嘩でもしたのか?」
「なっ――」紙島が夏でも外さないロシア帽をぐっと引き下げて、目元を隠す。
そんなおめでたい態度を取られてしまっててっきり図星かと思えば、にこにこと首藤が首を振った。傷だらけの面が破顔しているのは思い返しても不気味の一言に尽きる。陽気な太陽もドン引きするというものだ。
「実はさ、昨日、目の見えないおじいちゃんが公園で不良に絡まれててさ」
「目が見えないって――知り合いだったのか?」
「いや、杖持ってたし、それに視界が俺らと違う人って、やっぱ首の動かし方とか、微妙な雰囲気違うじゃん。差別するわけじゃないけど、わかっちゃうだろ」
「ああ――それで?」
それでも糞も答えは判り切っていたのだが。
首藤はかはっ、と笑った。
「助けてみた」
「捨て猫を拾ったみたいな軽い言い方しないでほしい」と紙島がぷんすかしている。イラついてるなら牛乳でも飲んでろってんだ。
「五人ぐらいいたんだけど、まあなんとかなるかーと思って飛び込んだまではよかったんだけど、いやあスタンガンは出てくるわバイクで轢かれかけるわ――まァ俺もバイク乗ってたから最初のひとりは轢いたんだけど――」
首藤は無免許で、兄のバイクをよく乗り回していた。四つ年上の兄貴とは一度だけ会ったことがあるが、瓜二つと言っていいほど似ていたので教師が首藤を発見しても弟かどうか判別できた試しはついになかった。
「で、勝ったのか?」
「門倉くん、そんなスポーツみたいに――」
「うん、じいちゃん守ってやったぜ」
「よかったな、おめでとう」
「ああ、一度やってみたかったんだ、人を助けるって」
うるさい蝉が鳴く外を見やって、首藤は目を細めた。
「でも、なんか、意外とどってことないんだな、こういうのも」
「だろ?」
それからすぐ、首藤は死んだ。
バイクで橋を渡る際に、張ってあったピアノ線に気づかずに通過したのだ。
フルスロットルで突っ込んだ首は、くっつきそうなほど綺麗な断面をさらして、後日、三百メートル先のゴミ捨て場の中から発見された。
誰かがそこまで運んだのではないか、犬や狐がくわえて持っていったのではないか、いろいろ噂は立ったものの、それもすぐに立ち消えた。
俺は本当に、首藤の首は夜空高くを舞い上がり、ゴミ袋の海に特攻をかまし生ゴミの飛沫を高々とブチ上げたのだと思っている。
それが一番、あいつの死に様としては、面白い話じゃないか?
俺は少なくとも、死んで周りにめそめそされるより、笑い話にでもしてもらった方が辛気臭くなくっていい。
そう思うけどな。
今日はクラブに顔を見せる気分にもなれず――俺にしてはあの奇妙なクラブをサボるなんて珍しかったんだが――ひとりで家路についた。
俺の帰り道には一本の十字路がある。
桜の木が街路樹として植えられていて、春になるとあまりの花びらに車がワイパーを使って通る。
よく十字路には魔が出る、といういわれがあるが、首藤が首なしライダーになってから三ヶ月くらい、実際の死亡現場と離れているにも関わらずこの辻にあいつの幽霊が出るという都市伝説が伝染病のように流行した。
地元の小学生があまりにも怯えるので(実際、見たという子どもが何人もいたらしい)、通学路として使用されなくなったほどだった。
そんな噂もすっかり雪と一緒に溶けてなくなってしまったように思えるが、世に心配性の絶えた試しはなし、いまだに人気は少なく閑散としたままだ。
まあ、どんな噂や迷信が蔓延しようと、べつに首藤が生き返るわけでもなし。もし本当にあいつの亡霊がいるなら、見世物にしたいところだけどな。
我ながら不届きなことを考えているのにも飽き、ふと横断歩道の向こう側を見やった。
赤信号から、青信号へと切り替わる。
木から溢れかえった桜の花が、風に煽られて俺の顔をしたたかに打つ。子供の手にまとわりつかれているようでうっとうしいその風の向こうに、誰かがいた。
背が高く、精悍な顔つきで、どこか子どもっぽく輝く両目
思わず右手を伸ばした。
あいつは向こう岸で、にやにや笑っている、ように見えた。
おまえ、どうして……。
そのとき、象の鳴き声を聞いた。
とうとう頭がおかしくなったのか、と横を見ると、突っ込んできたのはインド象でもなんでもなく、青いトラック。
運転席で、うとうとと帆を漕ぐ運転手の仕事の多忙さを暢気に想像して同情した瞬間、
あッ
五メートル下で俺が死んでいた。
白と黒の縞模様のど真ん中に、ひしゃげた卍のようになって、倒れている。
轢かれたときの衝撃で学校指定のローファーが両方とも見知らぬ明日に向かってぶっ飛んでいた。
鴉色のブレザーから、じわじわと血だまりが広がっていく。アスファルトに血の気を吸われて、顔色はどんどん白くなっていく。
それをどういうわけか俺は見下ろしているのだった。横を見ると青く点った信号機が顔のまん前にあった。複眼のようなシグナルに網膜が焼けそうだ。
まだ足があるか心配になって身体を見下ろすと、腹のあたりから血が滲み出していた。手で撫でてみたが痛みはない。
トラックが横転して、その余波で桜吹雪が巻き起こっていた。
午後の白い日差しを浴びて、花びらは気持ちよさそうにひらめいている。
ああ、もし来世があるなら花になるのも悪くない。桜は嫌だから、あやめにでもなろうかな。
そのとき、名前を呼ばれたような気がした。
きょろきょろした挙句に、眼下の死体を僕よりも近い距離で見下ろしているやつがいた。
紙島詩織だった。
「門倉――くん」
囁き声は本当に幽かで、そこから感情の色は何一つ読み取れない。
まさか悲しむわけはあるまい。できれば救急車でも呼んでほしいところだが、手遅れなのが残念だ。
桜に似た薄い唇が、何か言っている。
だがその言葉は、小さすぎて聞き取れない。
いや。
俺の耳が、何も聞き取らなくなっているのだ。
視界が四隅から、白くなっていく。
ゆっくりと鈍く、なまくらになっていく感覚。
ああ、やっぱり死ぬのね。
やり残したことが、何もないっていうのも、寂しいかな。
まあそれもひとつの人生。
そうそう上手くもいかないさ。
俺が万感の思いを籠めて死を受け入れようとして――
「おいこら」
鈴の鳴るような声に、邪魔された。
赤に点った信号機をベンチ代わりにして、妙な女子が座っていた。
そんじょそこらの女子じゃないことは一目瞭然で、そいつは昭和を終えて二十余年を経たこの無明の時代に、武者のような格好をしていた。青い衣を着て、すらりと伸びた手足を手甲、篭手、すね当てがそれぞれ守り、鉄と革でできた胸当てが胸元を覆っていた。青い衣と赤い武具をまとった姿は、動脈と静脈が絡み合ったようだ。
腰には朱鞘の太刀を佩いている。気分次第では斬ってやってもいいんだぞ、と言いたげに左手が柄に置かれていた。
格好こそ時代錯誤だが、その目つきは戦士のそれだ。腰の太刀で斬ってつけたかのような眼光炯々とした双眸、筆で引いたように細く整った眉、すっと通った柔らかそうな鼻筋――そんな怪人が、信号機に足を組んで座っていた。
一度見たら焼きついてしまって、二度と忘れられない記憶になりそうな予感がした。
もったいないことに人生にセーブデータは一つしかない。どんなに消したい跡でも、リセットは効かないのだった。
眠気はとうの昔に吹っ飛んでいた。
地上五メートルで、ふわふわ浮いたまま、俺は少女と見つめあった。
「……なんだよ」
眉をひそめて少女が居心地悪そうに信号機に座りなおすが、それはこっちのセリフだ。
「あんた、そんなところに座ってたら、信号が見えなくて下の人が困」
「そんなに太ってやしねぇッ!」
ガァンと篭手に覆われた拳が俺の顎を撃ち抜いた。一発で頭ん中に火花が炸裂した。見事なアッパーカットだ。できれば受ける側ではなく見る方に回りたかったけどな。
身体をくの字に折って顎をさすりながら苦悶に呻いていると、まだ怒り足りないのか殴り足りないのか、少女は拳をぶんぶん振っている。
「てめーなめやがって、人間のくせに……」
心なしか、肩口で乱雑に切られた髪が怒気を孕んで膨らんでいるように見えた。まるで鬼だ。
「人間……って、なんだ、じゃあんたは人間じゃないってのか」
俺が疑問を口にすると、少女は信号機に再び腰を下ろし、少し得意気な顔をした。ドヤ顔が様になっている。これは親に甘やかされて育ったタイプだ。まったく最近の若いやつらってのは困りモンだぜ。
「あたしは死んだてめえら人間をあの世に連れて行ってやる心優しい妖怪だよ」
「ふうん」
妖怪だか老害だか知らないが、心優しい人はすぐ人を殴ったりはしないはずだ。
俺の反応が期待値に比べて鈍かったのが気に入らないのか、少女はぐっと顔を突き出して、下から鋭く見上げてきた。スカートの長いセーラー服を着せたらスケバンが絶滅から再生するだろう。やつはぴっと手甲に覆われた手で眼下の死体を指差した。
いつの間にか救急車がやってきて、ぐったりした俺の体は担架に乗せられている。そばには紙島が付き添っていた。どうやら彼女の手配らしい、お礼を言いたいがあいにく死んでいる。
「てめえはトラックにドカーンされてバターンなったからそれを見てたあたしがぴゅーってやってきたわけだ」
夕方頃に三チャンネルでやってる子ども向け番組のガキどもがこんな喋り方をしていたような気がする。
「よくわかる説明だった」
「だろ?」んなわけねーだろ。
「で」
ドヤ顔を華麗にスルーして、
「俺はどうなる?」
死んだら心は消えるものと思っていたので、正直この状況にはいささか面食らっている。空中にあぐらをかいてあくびをかみ殺しながら答えを待った。
妖怪は、びっと僕の眉間を指し示した。
「おまえら人間は最近、科学とかいうわけわからんモノを信仰するようになって忘れちまったらしいが人間ってのはな、死ぬと魂がぽこっと出てくる。その魂は、死んでから七日間、あの世をウロウロした後、記憶と自我をなくして魂だけになる」
「魂が、魂だけになる?」
「うん。おまえらが生まれてくる前に『だったもの』、そいつに戻る。もうその頃にゃあ何の苦しみも悩みもない。自分が誰だったのかさえわからない。魂だけになった人間は、やがて転生してまた生き物として生まれる」
「へえ」
「なんだおまえ」
妖怪が不服そうに目をすがめる。
「ホントにわかってんのか?」
「わかってるよ」
「嘘つけ、ぜんぶ説明してないんだからわかるもんか」
「おおよそ把握していれば大抵はなんとかなる。これからあんたにあの世に連れていってもらって、七日間経ったら俺は消える。その後のことはわからない、野となれ山となれ人となれ、ってんだろ」
「う、うん」こいつたぶん、これ以上一気にまくし立てるとフリーズする。
勢いをつけて、ブランコから飛び降りるようにして赤い少女は信号機から宙に降り立った。
「それだけわかってりゃあいいや。わかってなくても連れて行くしな。ま、百戦は一撃にしかずだ」
「百戦もしてればなあ」
「あん? なんか言ったか?」
「いいや。じゃ、いくか。ところであの世ってここから何分くらい?」
「歩いて十分くらいだな。駅から近いぞ」
あの世は意外と身近にあった。
ひょいひょいひょい、っと妖怪は薄暗く埃っぽいビルの隙間を縫って進んでいく。その俊敏な背中を追うだけで、俺は息が切れてきた。運動不足だよなあ、と思い、それを解消する機会がないことに気づいた。はて喜ぶべきか悲しむべきか。
首だけで振り返り、妖怪は俺の醜態を嘲笑う。
「だらしねえなあ。それでも男か。嫁さんもらえねえぞ」
「死んでるしね」
「あははっ、そりゃそうだ」
やつの笑い方は子どもっぽい。そこにいるだけで楽しくて仕方ないという笑みだ。うらやましいもんだ。俺は思い出せる限り、そんな風に笑った記憶はあんまりない。
さて俺たちはあの世とやらを目指しているわけだが、妖怪の話によれば、あの世とはこの世の各地で繋がっており、そこを介して行き来ができるのだという。
このあたりでは、この駅前の路地裏ダンジョンがそのスポットらしい。
いつもは行き場を失った怪しい素性の連中が蠢いている路地に、なぜか今日に限ってねずみ一匹ごろついちゃいない。
「ああ、そうそう」と少女がどこからともなく一枚のお面を取り出した。それを受け取り、目に近づけてみる。何も刻まれていない。つるつるしたその仮面にはまぬけに伸びた俺の顔が映っているばかりだ。
「それ被っとけ」
「なんで?」
「それ被ってないと、七日間経っても魂が浄化されないときがたまーにあんだよ。鬼とか自縛霊なんかになりたくないだろ?」
「自縛霊は嫌だけどさ」被ってみると、ばかでかいコンタクトレンズをつけたように視界は良好なままだった。「鬼ならいいかな」
「バカ言うなよ。鬼になった魂はこの世に未練たらッたらで、あたしらが退治しなきゃいけねーんだぞ。おとなしく浄化されてくれりゃただで魂が手に入るんだから余計な真似されたくねーの」
「あんたは素直なバケモンだな。好きだぜ」
「妖怪な……おまえ喧嘩売ってんの?」気づけよ。
思わず破顔一笑してしまったが、俺の笑顔は仮面に阻まれて妖からは見えなかったようだ。しめしめ。
「あの世には、あんたみたいな妖怪がたくさんいるのか」
「いけばわかるよ」
「ふうん――」
いつの間にか下り坂になっている。しかし、路地裏に坂なんてあったろうか。首を向けると左右の建物は斜めに傾いでいた。ゴミ箱が滑り落ちることもなく四十五度で固定している。
ゆっくりと暗い奈落へと続く坂道を、俺たちは下っていった。
「なァ、妖怪さんよ」
ゆっくり闇に喰われながら、俺は尋ねた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「あんだよ」
姿はもう見えない。声だけが、波紋のように反響して返ってくる。
「半年くらい前にさ――首のない男が来なかったか?」
少女はいるかいないかを答えずに、
「友達か?」
とだけ聞き返してきた。
俺は答えなかった。
ふと耳を澄ませば、どこからともなく、音が聞こえてきた。その音はだんだんと大きくなっていく。
どんどん――ちゃか――どん――
ああ、これは祭囃子だ。
どこかで祭がやっている。
どんどんちゃかちゃか。
どんちゃかちゃ――。
二章 あの世はちょいとごちゃついてる
ふと気づいたとき、門倉いづるはそこにいた。
夕暮れだった。どこかで誰かが読経をあげている。
むき出しの土の冷たさが靴下を通して伝わってきて、足元を見下ろすと靴を履いていなかった。トラックに跳ね飛ばされたときに、二度といづるの手の届かないところまで吹っ飛んでいってしまったからだ。
ブレザーの制服の下に着込んだ白いパーカーは、ありありと鮮血の跡を残したまま。あちこちに血や砂、擦り傷にまみれたその姿は喧嘩帰りのようでもあったが、そんな細かいことを気にする性格でもない。
いづるは、真っ白い仮面の裏で、眼を見開いて眼前の光景に見入っていた。
まっすぐ道が伸びている。果てしなく続いている。
アスファルトで化粧されていない、風が吹けば土埃が舞い雨が降ればぬかるむ土の道。
そこを闊歩するのは学生でもサラリーマンでも主婦でも教師でもない。
着流しの和服に懐手した狸が爪楊枝をくわえながら二本足でのっしのっし歩き、一本足を生やした唐傘がぴょんぴょんと跳ね、薄い和紙がその上に寝そべった天狗をすいすい運んで頭上を通り過ぎていった。
道の左右は、残骸から作り直したような、木造のバラック小屋や古い民家。どこの電力会社のものかまったく不明の電信柱は残らずへし折れて瓦屋根の中に突っ込んでおり、遠くに見えるビルはどれもこれも焼け焦げてモザイク柄だった。
青白い鬼火が無軌道に飛び回り、人面犬がくわえ煙草をしながらいづるをひょいと見上げ、女子高生が猫の耳をぴょこぴょこさせながら手鏡を覗いて前髪を気にしている。
どん、と背中を叩かれると、赤い戦装束の妖怪が、にかっと歯を見せていた。
「ようこそ――」
ぴっと頭上を親指で示し、いづるは顎に釣り針を喰らった魚のように上向いた。
商店街の入り口のように、アーチがかかっていた。掠れた文字で、そこには、「あの世横丁」と刻まれていた。
永遠に変わらない彼岸の国。死者が闊歩し妖魔が嗤う。
三途の川を渡った覚えは無いけれど、門倉いづるは確かに今、あの世の土を踏みしめているのだった。
「どうだ、あの世にやってきた感想は?」
うきうきした表情で少女に尋ねられ、いづるはふむふむと辺りを見回した。水槽の中にいるように辺りは蒼く暗い夕闇だ。
「いまって夜なのか?」
「おまえってヘンなことばっか言う死人だなァ。――ここに昼も夜もないよ」
「ない――?」
「夕暮れでもあるし、夜明け前でもある。ここでは太陽は地平線からちょこっと浮いたり、沈んだりするだけ。だから朝も夜も来ない」
「試験も学校も朝も夜もないなんて――」
「なんて?」
「すげえ――自由だなっ」
拳を振ってわななくいづるを見て少女は「おまえ面白いなァ」とけらけら笑った。
「ま、あとたった七日間だけどよ。せいぜい未練少なく往生してくれや」
じゃな、と手を振って立ち去りかけた妖の首根っこをいづるは「ちょっと待った」ぐいと引き寄せた。がぼっと少女の息が詰まる。
「な、何しやがる!」
「それはこっちのセリフだ。右も左もわからない可哀想な俺を置いてどうするつもりだったんだ?」
「いや、七日目に魂だけになったらもらいに来ようと思って。ダメ?」
「ムカつくからダメ。ガイドもしてくれないなんて妖怪ってのはケチなんだな」
「うっせえ。どうせおまえ、メシもいらないし眠っても意味ないし放っておいたっていいんだ。だからあたしはトンズラぐえー」
「だから待てって」ぐいっと引き寄せまた少女は顔を青くする。
「俺はこう見えて――」いづるはどんどんと自分の胸を叩いた。
「怖いのはニガテなんでね」
「はあ? あのな、あたしが見てきた限りでも、特A級でふてぶてしい死人だぞ、おまえ」
「そりゃあんたが子どもで経験不足なせいだろ」
「こどっ……」なぜか傷ついたように少女は髪をぐしぐしと手の平でかき回した。
「こう見えてもおまえよか年上だぞ」
「じゃあいくつなんだよ。言ってみろ」
いづるは悪びれもせずにそういうことを聞く。
「……十八」
「え? ケタが足りなくね?」
「うるさいなッ! あ、あたしは末っ子なんだよ」
「ああ、うん、なんかそんな気がした。甘やかされてる感じがするし」
「なんなのおまえのその余裕は……?」
がくっと肩を落とした少女を尻目にいづるがきょろきょろと百鬼夜行を眺めていると、
「――おい、飛縁魔《ひのえんま》」
少女が仏頂面を上げたので、それが彼女への呼び声だったのだといづるは悟った
飛縁魔と呼ばれた少女が顔を上げて大儀そうに振り返ると、学生服の少年がにへらっと笑って立っていた。
いづるは、顔面の中央に大きなひとつの目玉を埋め込まれた者が笑うところを今まで見たことがなかったので、それが笑顔なのか激怒なのかいくらか迷った。
鼻がなく、ひとつきりの大切な目玉は唇の真上から額にまで及んでいる。ぬらぬらと輝く虹彩は、蒼い夕闇のなかで泡のように揺らめいている。
「なんだよ、一つ目小僧」と飛縁魔がぶっきらぼうに言う。
「へへへ」
一つ目小僧は見かけによらず明るい笑い声を立てた。
「見慣れねえのっぺらぼう連れてるからよ、気になったのさ」
「用もないのに?」
「用もないのに、さ」一つ目のずぶとい視線がいづるを捉えた。
「やあ、人間。これから七日間、せいぜい楽しんでおいきよ」
いづるは押し黙ったまま、無遠慮に一つ目のなりを見ている。
「お化けのくせに学校があるのか?」
「へっ? ああ、これ」
バシン、と自分の制服の胸を両手の平で叩き、一つ目はどこか嬉しそうにその太く長い舌でべろりと己の顔をなでた。それを見て、飛縁魔が嫌そうに眉をひそめる。
「前に俺が案内してやった死人が着ていたもんでね……どうだい、似合うかな。お化けだって格好にゃあ気ィ遣うんだぜ」
「せっかくあの世までやってきたってのに、走れば疲れるし、服は選ばなきゃならんのか。なんだかガッカリだね」
「何、水が合わんでも清められちまえばたった七日間ぽっちの辛抱さ」
「そういうものかい」
「そういうものだよ。――なるほどね、飛縁魔とウマが合いそうな魂してやがら」
「飛縁魔って?」といづるが反問すると、
「あたしのことだよ」と飛縁魔が答えた。腕を組んで、なにやら意気投合しつつある死者と妖に仏頂面をさらしている。
「飛縁魔って……妖怪の名前だよな。そういやどういう妖怪なんだ、あんた」
「どうでもいいだろ、気にすんな」
「白黒はハッキリさせたいタチでな」
「ふん、おまえの性格なんぞ知るかハゲ」
「おかげさまでハゲる前に死ねたよ」
先ほどから、どうも飛縁魔の機嫌が芳しくない。いづるが小首を傾げて斜に構えると、一つ目小僧が馴れ馴れしく首に腕を絡ませてきた。
「人間、こいつはね、自分のことが嫌いなのさ」
「へえ」
「おい、一つ目――」飛縁魔の三白眼を一つ目小僧は涼しい眼でかわす。
「いいじゃないか、どうせ七日後には消える――まァ人間、おまえが飛縁魔を知らんのも無理はない。マイナーなレアキャラだからな。簡単に言うと、えらい美人の女妖怪なんだが、それに惹かれてひょいひょい近づくと血やら精やらを吸われてしまう――つまり男の敵だな」
ひゅんっ、と何かが閃いた。飛縁魔が太刀を抜き放ったのだ。
銀色の刀身に蓬髪が数本絡みついていたが、一つ目は軽く身を逸らせて話を続ける。
「昔ッから、優れた王様とかが見目麗しい女に惑わされて国をダメにしちまう話ってのは多いが、そんなときは飛縁魔が関わってるとされてるのさ。本当はそんな太刀なんぞ佩いてるような妖怪じゃねえんだがな」
「うるさい。あたしの勝手だろうが」
「――ってわけよ。ま、こいつは妖怪ん中でもはぐれ者だからな。刀は振り回す口は悪い可愛げはねえ――」
「ようしわかった一つ目。そんなに悪口が言いたきゃ目玉斬ッ飛ばして喋りやすくしてやらァ」
袈裟切りに飛縁魔は太刀を振り下ろしたが、一つ目小僧は身を翻して跳躍し、電信柱のてっぺんにしゃがみ込んだ。それを見上げて飛縁魔はペッと唾を地面に吐き捨て、いづるはふわふわとあくびした。
一つ目小僧は大きな一つ目で二人を見下ろしてにやにやと笑う。
「おまえの太刀筋なんぞ、お見通しよ」
「でけえのは目玉だけにしとけ、うすばか」と飛縁魔《ひのえんま》が睨んだときにはもう、学生服がはためく影さえ残さずに一つ目はどこかへ消えていた。
雲か煙か、とにかく白くてふわふわしたものの柔らかそうな手がいづるの袖を掴んでいた。
目と目がばちりと合う――といってもいづるは無地の仮面を被っているので、向こうの丸くて黒目がやたらと大きい双眸は、額のあたりを見つめていた。
「やあ」
「やあ」
「買っていかない?」
雲は、串に刺さった自分そっくりの雲を突き出す。焼けた砂糖のにおいがした。
いづるは財布を取り出して、五百円玉を雲の目玉の前にかざしてみたが、むくむくと雲が大きくなり始めてしまったので、どういうことかと飛縁魔のわき腹を小突いてみると、
「そりゃあおまえ、人間の金なんかで綿菓子喰おうなんざ煙《えん》々羅《えんら》も怒るさ」と肩をすくめられてしまった。
「煙々羅?」
「こいつのことだよ」と煙と目玉と腕でできた、子どもの落書きみたいな妖を飛縁魔は指差した。
「人間の金なんか捨てッちまえ。ここじゃ鼻ッ紙にもなりゃしねえ」
「うん、言われてみればそりゃそうだ。ここには金を発行する銀行なんかないもんな」
「金貸しは人間の仕事だぜ」
と煙々羅がどこからともなく煙草を取り出して、美味そうに共食いしていた。
「妖怪はそんなことしない」
「悪かったね」いづるは素直に頭を下げた。「じゃ、何で支払えばいい?」
「そうだね、うちは綿菓子ひと串、五十炎だね」
「円?」
「妖怪は金のやり取りもしない。魂をやり取りする。見てごらん」
親切な煙妖怪は、白い脂肪の塊みたいな手の平に赤色の硬貨を乗せていづるの前に突き出した。
硬貨は、人の親指より少し大きく、角と牙を生やした暗い男が描かれており、裏ッ返してみると、舌先が二つに分かれた陽気な女に出くわした。妖艶に笑っているが、その頭には鉄の環に三本の足が生えた鉄輪が被せられている。
どちらの面にも、一、と刻まれていた。
「お化けの国らしい金だな」
「これはね、金じゃない、魂の破片なんだよ人間くん」
「魂の――じゃあ、俺も七日後にはこうなるのか」
いづるは人差し指で、ちっぽけで退屈な未来をちょんちょんと小突いた。
「ああ。人間ひとりでだいたい、一万炎くらいかな。そこからは一魂って数えるんだ。妖怪は魂を喰わないと消えてしまうからね」
「じゃあ、綿菓子喰ってる場合じゃないぜ。あんたはおまんま食い上げだ」
「なら君は、靴下に穴が開いてても買い換えないのか?」
「うーん」
「だろうよ。――飛縁魔、いい魂をとっ捕まえたね。彼なら一魂どころか、五、六魂になるんじゃないか。拾いものだね」
「あははっ、そうだろ、日頃の行いがいいんだ」
飛縁魔はご機嫌でがま口財布から一枚の硬貨を親指で弾いた。弾丸のように放たれたそれは煙々羅の身体に突っ込み煙の飛沫をあげ、煙々羅《えんえんら》は満足げに瞼を開閉させる。
「毎度あり」
いづるの分は買ってもらえなかった。名残惜しそうに煙々羅の屋台を振り返りながら、いづるはぼそりと、
「働かざるものは喰うべからず、か」とぼやいた。
「世知辛いあの世だな」
妖怪たちは、煙々羅のように屋台をやっていたり、何をするでもなくうろついていたり、バラック小屋の屋根で寝ていたり、物陰からいづるをじっと見つめていたりした。
いづるにとっては物珍しい異国のようなもので、きょろきょろと首を振り回し、おやっと伸ばし、うおっと仰天し縮こまる。
「まるで子どもだな」呆れてため息をつく飛縁魔に、
「昔を思い出すね。何にも飽きなかったガキの頃を」といづるは大樹のような足が通り過ぎていくのを見送りながら答えた。
「ふうん」と飛縁魔は喰い終わった綿菓子の串を唇でぴょこぴょこ動かして、
「あたしは生まれたときからここにいッから、何が珍しいのかわかんねえや」
「そういうものだろ」
「そういうものかね」
「ああ」
「ちぇっ、あたしも人間に生まれれば、もうちっとハリのある暮らしができたのかな」
「退屈か、あの世は」
「つまらねえよ――耐え切れそうにない。あたしはね」
「人間も変わらねえよ。何をして死ぬまで過ごせばいいのかわからない」
「おまえは最期までわからなかったか?」
「ああ、だから、いまでも本当は退屈なんだ」
「あたしと同じだな――」
ぺっと串を吐いた。
「よし、あたしがいまんとこ、二番目に好きなことをしにいこう。おい、人間、おまえは金を何に使ってた?」
「ギャンブル」
いづるが即座に答えると、えッと飛縁魔が目を見開いた。
三章 妖怪 博打《ばくち》
ぱっと見た感じ、その河童《かっぱ》はサラリーマン風だった。うだつは上昇気流に乗っけてやっても上がりそうになかった。
くたびれた背広を着て、安い腕時計を巻いて、黄色く濁った目を遠くの方に向けていて、木で作った粗末な椅子に腰かけている。ハトにエサでもやっていれば完璧なのだが、あいにくあの世にハトは飛ばない。
「人間、おまえガキのくせにばくちが好きなんて感心なやつだな。褒めてやるぞ」
「いやべつに好きってわけでもないがな」
同胞を見つけて喜ぶ飛縁魔に対していづるは気のない返事をした。
「澄ました顔でみんなそう言うんだ。――おまえ、妖怪に生まれればよかったのになぁ。遊んで暮らせたのによ」
二人の細長い影が、うな垂れた河童の黄色い嘴に映った。
飛縁魔が「よっ」と気さくに声をかけると、河童は億劫そうに飛縁魔を見上げて、無造作に置いてあったミネラルウォーターのボトルを頭の皿にぶっかけた。ばしゃっと水がはねて、皿が瑞々しく潤う。
「あははっ、その顔だとまた負けたのか、河童よぅ」
「うるせえ。落ち目のやつを追い込むような真似するない」
「悪い悪い、怒るなって。ゲン直しにあたしと遊ぼう」
「遊ぶって?」
「ああ、あれやろうぜ、あれ。チンチロリン」
河童はごきごきと首を鳴らして盛大なため息をつく。磯くさい臭いがあたりに立ち込めた。
「サイコロはもういやだ。二度と振りたくない」
「そういうなってば」
「飛縁魔よ、おまえはサイコロに好かれてるからそんなことが言えるんだ。こんなもん――」
河童は小さな立方体を指先で弄んだ。いづるからは、五つポチと六つポチが見える。
「噛み砕いてやりてえ気分だ」
「どうせ美味くねえよ。だから、なっ、遊ぼうぜ」
飛縁魔の口ぶりからして、この河童はカモのようだ。
「そんなに言うなら――だがサイコロは振らない。だから代わりの遊びをしよう」
「代わり?」
「うん」
河童はごそごそとうしろの方から、小さな四足の卓を取り出して自分と飛縁魔の間に置いた。そこに三つの紙コップを逆さに伏せる。
「簡単だよ。ガキでもできる。こいつを」サイコロをひとつのコップに放り込み、ひょいひょいっと素早く入れ替えた。
「さ、どれだ。――これだけ」
「なんだ、簡単そうだな」飛縁魔が手甲に覆われた指をばきばきと鳴らした。
「またスッテンテンにしちゃうぞ、いいのか」
「もうどれだけ負けたって気にしねえよ……。一口五百炎だぜ」
さてやるか、と河童はサイコロを新たに取り出して、顔を近づけるようにして伏せたサイコロの中に指をいれ、出したときにはもう何もつまんでいない。ひょいひょいっと入れ替わっていく紙コップ。やる気のなさそうな河童の顔と、食い入るようにコップの行方を追いかける飛縁魔の眼差し。いづるは首をぐるぐる回してぼきぼき鳴らした。
河童が手を止め、三つの紙コップはものも言わず均等に並んでいる。
飛縁魔がううむと唸った。
「これだな」
一番左のコップを指で示し、河童が身じろぎした。
「本当にそれでいいのか」
「ああ、いいよ」
そおっと河童は、コップの縁に鼻を近づけるようにして中をうかがい、ふう――と息を呑んだ。
ひょいとコップを持ち上げると、木の台には何も乗っていなかった。
「あッ――」
「ほうら、俺をなめるからそういうことになるんだ。正解はこっちよ」
反対側の紙コップを持ち上げると、こてんとサイコロが四の目を出していた。
すると、飛縁魔の懐からがま口財布が飛び出して、勝手に開き、中から五枚の硬貨がくるくる螺旋を描いて飛び出し、河童のくすんだ背広のポケットに収まった。がま口財布がケタケタ笑うと中の小銭がかちゃかちゃと鳴り響き、飛縁魔がひっぱたくと、しゅんとして懐に戻っていった。
「よし、もう一回だ」
「やめとけよ――」といづるは言ったが、飛縁魔は頬を紅潮させて聞いちゃいない。鼻から煙々羅でも吹きそうな勢いだった。
「さァ来い!」
四回連続で外すと、それまでの陽気さはどこへやら、飛縁魔はむっつり押し黙り、河童を上目遣いに睨む様はチンピラそのものだった。ぼそっと、畜生ォ、とか、餓鬼ァ、とか、剣呑なセリフを呟いている。
「むしっといて俺が言うのもなんだがね、飛縁魔よ、やめとけや。今日はツカないんだよ」
「何言ってやがる。これから取り戻すんだ。ようし、一気に五千いくぜ。まさか断らないだろうな」
「お、おい――」
かえって河童の方がたじろいでしまっているが、水かきのついた手の平はちゃっかりしっかりサイコロをつまんでいる。
いづるはに腕を組んで飛縁魔の丸まった背中を見守っていたが、
「なぁ飛縁魔の姉御」
返事がない。
「おいったら」
「なんだよ。いま大事なときなんだ。綾がつくようなことしたら斬ッ飛ばすぞ!」
「俺にやらせてくれよ」
飛縁魔が肩越しに振り向いて、いやいやと首を振った。
「ふん、お子様はひっこんでやがれ」
「ひとつ違いだろうが。それとも俺に任せる度胸がないのか」
「あァ――?」
「うおっ」
飛縁魔は立ち上がった拍子に台と河童をひっくり返し、それにも気づかぬ様子でいづると真正面から向き合った。
「道理もわかってねえガキに任せられないのが、度胸がないってことになんでなるんだ」
「勝負事に年の差なんて意味ねえよ」
「あたしはおまえよりも強い」
「強い、弱い、というのも意味がないな。誰でも勝てるのがギャンブルだし、そうでなければギャンブルじゃないんだ。だから、俺が一生懸命この勝負をばくちにしてやるよ」
道行く妖怪たちがのっぺら坊と飛縁魔のいさかいを見物していた。
飛縁魔の赤い瞳が燃えていた。
「負けたら許さないぜ」
「合点承知」
尻についた汚れを叩いて台を元通りに立てた河童の前に、いづるはドサッとあぐらをかいた。
「さ、やろう」
「――ホントにいいのか、人間。妖怪に斬られたらちゃんとお清めされないかもしれねえぞ。最悪、鬼になるか、魂のカスを喰うだけの悪霊になっちまうかもしれねえ」
「あんたこそ、負けたらちゃんと払えるのか、五千炎」
「けっ、なんて面の皮の厚いガキだ――心配するな、人間と違って妖怪は、負けたら自分の魂で払う。足りなくなったらこっちが消えちまうがね」
河童が、いとしいものでも見るような目でサイコロを眺めた。
「やろうか」
「やろう」
逆さになった三つの紙コップのうち、ひとつをわずかに持ち上げて、押し込むようにサイコロをつまんだ指を押し込み、空になった指だけが戻ってきた。
ひょいひょいひょい、と三つの紙コップが乱舞する。飛縁魔がいづるのつむじに細い顎を乗せて、ごくりと生唾を飲み込んだのが、いづるには気配でわかった。
河童が、ぱん、とスラックスの膝頭を手で叩いた。
「さあ勝っても負けても恨みっこなしだ、坊主――」
「やなこった。負けたらあの世に朝が来るまで枕元に立っててやるからな」
「なっ、てめっ、性格悪いぞ!」
「ふふん――まァ心配するなよ。俺は負けない」
そういっていづるは、三つの紙コップすべてを持ち上げた。
波を凍らせたように煌く刃が、ぬめぬめした緑色の喉仏すれすれに押し当てられている。
河童は身動きできずに、空を仰いだまま、黄色く濁った目でいづるを見ていた。腰に差していた三寸ばかりの匕首(短い刀)を突きつける飛縁魔の顔色は激怒のあまり蒼白だ。
紙コップがどけられた台には、真ん中のコップがあったあたりに、白い粒子が澱んでいた。
いづるはそれを指ですくって、ぺろりとなめる。甘かった。
砂糖だ。
「ここは――」いづるも河童にならって空を仰ぐ。毒々しい群青色の闇に、点々と星灯りが点っている。
「暗いな。だからサイコロとポッチをつけた角砂糖も、阿呆には見分けられない」
「おいおまえいま阿呆って――」
飛縁魔を無視していづるは続ける。その口元には半月の笑みが浮かんでいた。
「河童のおっさん、あんたは邪魔な水かきがあるのに手先が器用だな」
「うう……」
「まず、角砂糖をつまんで、対面の俺らからは見えないようにコップに入れる。で、中でぎゅっと潰しちまう。当然、中にはバラバラになった砂糖が残りサイコロではなくなる。それを外にこぼさないように素早くコップを動かし、客に選ばせる。その中には砂糖の破片があるかもしれないし、ないかもしれない。もしあったら、あんたはそれを目でそっと、中にサイコロを入れたときのようにして覗き込み――息を呑む。そのときに、砂糖を一気に吸い込んじまったんだな」
「へへっ――」と河童は苦し紛れに笑ってみせたが、ちゃきんと飛縁魔の匕首が鳴るとまた大人しくなった。
「客が驚いている隙に、ああ正解はこっちだよ残念ッ、と別の紙コップを開けてみせる。新しいサイコロを忍ばせてね。何、外したショックで客は細かいところなんて見ちゃいない」
「――――」
「くくっ」
河童の懐から、いくつかのサイコロ型角砂糖を抜き取ると、いづるは一思いにそれをすべて砕いてしまった。拳から溢れて零れた砂糖の粒が、いづるの背後を通り過ぎた朧車のヘッドライトを浴びて虹色に輝いた。
くたびれた背広から、これまたくたびれた革の財布が飛び出し、そこから硬貨が礫のように飛び出した。
魂の雨が門倉いづるに降り注ぐ。その中で、のっぺら坊は、くくっ、くくっ、笑い続ける。笑い続ける――。
「――で、こいつ、どうしてやろうか」
匕首の刃先で、つんつんと河童の喉元に細かな傷をやたらとつけながら飛縁魔が言った。
中からボソボソと得体の知れぬ囁き声が聞こえてくるバラック小屋の前で、河童の命運は飛縁魔とのっぺら坊の掌の上をだるまのように揺れていた。
やつれた顔をキュウリみたいに伸ばした河童は正座させられたまま怯えた目で二人を見比べている。
「ふむ」つるりとしたお面をいづるはゆっくりと撫でた。
「まァイカサマして我らが姉御をまぬけ扱いした罪は重いな」
「ああ、重いさ。ダイダラボッチの踵落としよりも重いぜ、あんなチンケなトリックにあたしが引っかかるとなめ腐るなんざなァ」
「いや実際に引っかかって……うんなんでもない。俺がなにか言うわけないだろ。いやだなあ。だから姉御、匕首の向かう先が違う。河童を狙うんだって。河童」
「ああ、そうだったな」
音もなく匕首の切っ先が移ろい、逃げ出そうとしていた河童の行く手を阻んだ。
後ろから抱きすくめるようにして首に両手を回し、飛縁魔は器用に逆手に持った剣先を河童の鼻先でちらつかせる。うう、と低く河童が呻いた。
「知ってるはずだろ……?」
背筋が震えるような甘い声を飛縁魔は唇から溢れさせる。
「ばくちでイカサマはご法度だ。バレなきゃ済むがバレたらタダじゃァ帰れない。わかっててやってたんだろ? 斬られてもいいんだろ? そうなんだろ?」
限界いっぱいまで見開かれた河童の両目は頭の皿のように丸く、ただすぐそばを行ったりきたりする銀影を追って左右に振れている。果たして自分の辿り着く終着駅が生なのか死なのかを見定めようかというように。
河童の全身から汗が噴き出し、頭の皿はみるみる乾いていった。
「ち、違うんだ、飛縁魔。俺ァ――」
「何が違う? 言ってみなよ、何がだ?」
皿の下からはみ出す河童のザンバラ髪を手甲をはめた指がくるくると巻き取った。
爪が河童の頬を弱くかき、それが粗い皮膚を上っていき、短い下睫に触れる。いまにも汚れた白目に指を突き立てそうな気配だった。
「うっ――」
「あたしはなめられるのが嫌いなんだ。自分よりも偉そうなやつとか、威張ってるやつとかを見てるとな、無性に腹が立つ。唾をかけてこの脚で踏みつけてやりてえって思う。わかるだろ」
「わ、わかる。もちろん」
河童は小刻みに頷き従順さをアピールしたが飛縁魔の笑顔は張り付いたように変わらない。
「じゃあ、あたしがどれだけムカついてるのかも察してくれるな?」
「あ、ああ」
「ちょいと前、あたしが御山の泉で水浴びてたら狒々の馬鹿が覗きにきたことがあったけどよ――あの場所を仕切ってたのがおまえだってことあたしは知ってた。でも許してやったんだ。寛大だろ?」
狒々というのは、大きな猿の妖怪のことだ。
「すまねえ、悪いと思ってるよ……あれは狒々にも前々から借りがあって……そんなつもりじゃなかったんだ」
「どんなつもりだったんだ?」
「そ、そいつァ……そのぅ……」
「なァ河童――おまえがあたしだったら、許すか? バカにされて、アホだと見下されて、なけなしの魂かっさらわれてよ、なァ? 胸ん中からじんわり優しさが滲んで思わず許しちまうか?」
河童は息を詰まらせた。
いづるは腹の中でにやにや笑っている。
いよいよ飛縁魔は河童の背に胸を押し当て、その顎を左手で掴み、その嘴の中にするすると切っ先を滑り込ませていく。河童がくぐもった呻きを漏らして足をバタつかせるが、通りの妖怪たちは見てみぬフリで通り過ぎていく。
「火の閻魔が判決を申し渡してやる」
「あがっ、あがっ」
「このあたしをなめた罪は――こいつだっ!」
刀を引き抜いたかと思うやいなや、腰の入った一発が河童の嘴にぶち当たった。背広姿は背後のバラック小屋に音を立てて突っ込み、ガラガラと木材が崩れ落た。
中にいた禿頭の妖怪が慌てて飛びのいた拍子にちゃぶ台がひっくり返って中の茶が河童の皿にまともにかかったが、目を回した河童はそれきり身動きせずにぐったりしてしまった。
いづるは背筋を伸ばし、静かに河童に向かって合掌した。
「南無三」
飛縁魔は刀を鞘に納めて、にっと笑う。
「死んでねえって」
「まあ、気休めさ」
「へっ……あたしのこれこそ気休めだな。ま、いいや、これでケジメってことにしてやるよ」
「寛大だね、姉御」
「だろ? それにしてもおまえ――ガキのくせにギャンブルなんてよくやってたな」
「そんな大げさなもんじゃない。うちの学校にクラブがあってさ、ギャンブルクラブ。なんでも賭けの対象にするんだよ。テストで一番成績がいいやつは誰かとか、遅刻寸前に正門走ってきたやつが間に合うかどうかとか。一番面白かったのは不登校のやつが学校に復帰するかどうか、ってやつだったなァ。俺は復帰する方に賭けてたんだが、三ヵ月後にひょっこりやってきたときは思わず握手しちまったよ。相手は目をパチクリさせてたね」
「ちぇっ、なんか、面白そうだな。あたしも現世に生まれりゃよかったかな――」
暴れたりないと言いたげに首を鳴らし、これにて落着と閉じかけた幕だったが、そのとき、するりと舞台に滑り込んできた小さな影があった。
四章 あの世の国のアリス
飛縁魔と共に踵を返しかけたいづるの袖をつい、と引かれる。
「――うん?」
見るとそこには、十かそこらの金髪の少女が好奇心旺盛そうな夕闇色の瞳をきらめかせて、いづるのブレザーのカフスボタンのあたりを皺がよるほど握り締めているのだった。
「ねえねえ」少女が言う。「食べないの?」
「食べない?」
なにか恵んでくれるのだろうか。
お、と飛縁魔がいづるの肩に顎を乗せ、湖をゆく首長竜を見たような顔をした。
「アリスじゃん。どこいってたんだよ」
アリスと呼ばれた少女は、空色の着物に覆われた薄い胸を得意気に反らしてみせた。
「ふふふ、悪鬼羅刹うごめく修行の旅から帰ってきたのだー」
「物見遊山に現世でもうろついてたんだろ。迷子にならなくてよかったな?」
「ま、迷子になんてなるもんか! アリスはお化けだぞ!」
「と言ってるが、よぉのっぺら坊」
いづるはすぐ横にある飛縁魔の整った鼻筋に目をやった。
「うん?」
「お化けってのは怖いもんだろ。こいつのこと怖いか?」といって両手をゆらゆらさせ上目遣いに二人を睨み上げる少女を顎でしゃくった。
いづるはじぃっとアリスを見つめる。一秒、二秒経つごとに日焼けしたようにアリスが頬を赤らめ手の指を組み替え始めたがそれでも見つめる。
そして、
「それ取ってもらっていい?」
とアリスのかぶっていたものを指差した。
囲炉裏などで鍋に火をくべるときに使う鉄輪が、その三本足を天に向けて、金髪の上に乗っかっていた。
見ようによってはお姫様が冠をかぶっているようにも見えなくもない。
「これ?」
お気に入りのおもちゃを扱うように丁寧に、そっと鉄輪をアリスは少しだけ持ち上げてみせた。
「いいよ。はい」
鉄輪を外すと、霊験あらたかな御山の中を流れる滝のように滑らかな金髪が、ふわりと広がった。
その陶器のように白い額にいづるは手を伸ばす。
「?」
ぐしゃぐしゃ――と頭を乱暴に撫でると、アリスはびっくりしたように硬直し、一瞬後に目尻に涙を浮かべた。
「うぐっ」
「ちょ、バカなに泣かせてんだよ!」
「えッ」
いづるが思わず手を引くと、潮が引くように双眸から涙が溶けていった。
にやっと笑う。
「まだまだ甘いなァ、お兄ちゃん」
鉄輪を元通りに被りなおし、腕を組んで頭ひとつとちょっと分高いところにあるいづるののっぺら坊をいたずらっぽく見上げる。
「嘘泣きか……やるな」
「ふっ、まだまだ修行の身ゆえ……」
ぐっとのっぺら坊とアリスが固い握手を交わした頃には、飛縁魔は不機嫌そうに腕を組んでじろじろとその光景を眺めていた。
「なーに仲良くなってんだおまえら……」
「第三次接近遭遇ってやつさ」
「やつさ」おそらくアリスは言葉の意味をよくわかっていない。
「まったくこれだからお子様は困るんだ」
飛縁魔は両手を挙げてため息をつくと、片眉を上げて、
「それでアリス、なんか用かよ」
ぽかんとアリスはしばらく言葉をローディングしていたが、やがて顔をぱっと輝かせ、
「かっぱ寿司!」
と叫んだ。
「河童がブチのめされてるのが見えたから、みんなで河童を刻んでバラして三枚におろして海苔巻いておしょうゆつけて食べようと思ったの!」
三人が振り返ると、バラック小屋にはドデカイ穴と、その奥で頬杖を突きながら茶をすするぬらりひょんの姿があるだけだった。
「ああっ!」
眉をハの字にしてアリスは、
「河童逃げた……」
百万の怨霊に取り憑かれたようにがくっと肩を落として俯いてしまった。
延々と土の道につけられた逃げ足の跡を目でなぞりながら飛縁魔は、
「かっぱ寿司に巻かれてんのは河童じゃねえだろ……」
ぼそっと呟いた。いづるも同感だが、ちょっと食べてみたい気もした。
「河童って肉食かな。草食なら美味いかもしれない」
「あのおっさんの汗と体臭のしみこんだ腐肉なんか喰う気にはならねえがな」
「レモン汁かければたぶんいけるよ!」
アリスにとっては河童の肉はから揚げみたいなものらしい。
「そのうちコンビニで流通するかもな」
ぐるる、といづるの腹が獰猛に鳴いた。餓死はしないが腹は減る。
その音を聞きつけたアリスが何か言いかけたが、青い目がいづるの足元のなにかに気づくと一瞬前のことなど頭から吹っ飛んでしまったらしい。
「あ!」
「今度はなんだァ?」飛縁魔はあくびをかみ殺している。
「靴がない」
え、と足元を見下ろすと、白い無地の靴下は常世横丁の土にまみれて浅黒く汚れていた。
靴は現世に身体や穏やかな未来と一緒に置いてきてしまった。
誰も落し物を交番まで届けてはくれないし、取りに帰るための切符は絶賛売り切れ中だ。
アリスは着物の懐から、藁で編んだ一足の草履を取り出すと、揃えていづるの前に差し出した。期待に満ちた目でいづるを見上げている。
「くれるのか?」といづるが聞くと、
「うん、そのままじゃ外歩いちゃいけないもん」
満面の笑みが返ってきた。
「じゃ遠慮なく」
靴下を脱いで背後に打ち捨て、ぞうりを履いてみると少々藁の感触がくすぐったいが、なかなか履き心地がいい。
「嬉しい? アリス役に立った? ツイてる? 本日もラッキーデイ?」
「ああ、すごくね。ありがとよ。大切にする。たぶん」
「よかったぁ」
ふやけるような笑顔をアリスは浮かべて、すぐに照れたように顔を伏せてしまった。
「ねぇ、箒星のお兄ちゃん、あ、アリスと……と、と、とも」
アリスが一生懸命に繰ろうとした言葉を最後まで聞かずに、いづるはハテと耳と肩がくっつきそうなほどに首を傾げた。
「箒星?」
いくらかぶすっとしたアリスがついっといづるの胸元を指差す。そこには痛ましい血痕が、
「それ、星に見えるから、流れる星は箒星だから、箒星のお兄ちゃんは箒星のお兄ちゃんなの!」
真空に漂う星雲を封じ込めたように煌くアリスの双眸には、尾を引いて虚空を駆ける彗星に見えるのだった。
「よかったな、お兄ちゃん。ふん、どうせ七日間ぽっちのチャチな友情だけどな」
飛縁魔が意地悪くいづるの肩をどついたが、そこには若干の仲間はずれ感からくる八つ当たりがあるように見える。
あ――とみるみるアリスの顔が曇りその笑顔はなりを潜めてしまった。
「そっか……お兄ちゃん人間だから、あと七日間でいなくなっちゃうんだ」
「らしいね」いづるは肩をすくめる。
「じゃあ、アリスの囃子も聞かせられないね」
「囃子?」
「常世囃子か――」
飛縁魔の目に暗い炎が密かに宿ったが、いづるもアリスも気づかない。
常世囃子っていうのはね、とアリスは、背中で手を組み語り始めた。
「アリスがひとりでやる祭囃子なんだ。笛を吹いたり、太鼓や鉦を叩いたりして、それで、うまく成仏できなかった悪霊を鎮めるんだけど」
でも、と呟くアリスの声は、泣き出しそうに枯れていた。
「もうできないの」
「どうして。吹きたいなら吹けばいい」
「ううん、ダメ。だって、牛頭天王が許してくれないから、うるさいっていうから、アリス、常世囃子できなくなっちゃった――」
「ゴズテンノウ――?」
「あの世をちょいと前から、牛耳ってるやつのことだよ」
「おいちょっと待て、妖怪に階級制度なんかがあるのか?」
「強いやつが仕切る」
「すげえわかりやすいな」
「だろ。その代わり、弱いやつにはきつい――」
いづるは河童の、絞りつくされた雑巾のような河童の顔を思い出した。
「そいつが言うことにはみんな従うのか」
「強いからな」
「なぜ」
「強いからだよ」
「そんなにか」
ああ、と飛縁魔は暗い顔つきで頷いた。
「一月ぐらい前かな――っていっても昼も夜もねえから感覚だけど、ふらっとあいつは、どこからともなくやってきたんだ」
ゴズテンノウは、やってきたんだ。
飛縁魔とアリスは口を揃えてそう言った。
「あっという間に、それまでこの横丁を仕切ってた閻魔大王をブッた切っちまってさ。たった一本の刀で豪傑妖怪をバッタバッタと斬ってはバラし蹴っては砕きの大立ち回り。どこの馬の骨だか――牛の頭してっから牛の骨か――しらねえが、ひょいと現れた新参者にあたしらは負けちまったのよ。もっともあたしはその場にいなくて、帰ってきたら親父の屋敷が燃えてたんだけどな」
「親父って、」
「閻魔大王」
と、火の閻魔は言った。
「ゴミが燃えてら、と思って足で蹴飛ばしたら親父のひげ面でよ。びっくりした形相のままでやんの。ありゃァ一発で頭ハネられたんだな。情けねえったらありゃしねえ」
薄く笑いながらも、眼光の鋭さは和らいではいない。
「閻魔大王か――」といづるは、記憶の箱をひっくり返して妖怪やら幽霊やらのラベルのついたケースを開けてみた。
「やっぱり舌を抜くのか? 死者の魂を地獄いきにしたりとか」
「え? ああ、そんなことしねえよ。そもそも天国も地獄もないし。親父は鬼を退治するのが仕事だったから、そういう話が出来上がったんじゃねえかな。ま、どんな格好してたかだけは、牛頭天王に会えばわかるぜ」
「なんで」
「親父の袈裟を奪って着てるからさ」
沈黙の幕がどこからともなく垂れ下がったが、誰も無理して跳ね除けようとはしなかった。
飛縁魔の横顔は、どんな顔をしたらいいのかわからないのか、寝起きのようにぼんやりとしていて、いづるにはそれが寂しく映った。
「やっつけちまえばいいじゃないか」
飛縁魔とアリスが一斉にいづるを見た。まるでそこにいたのに気づかなかったような顔をして。
いづるは傾いた電信柱に背中を預けながら右手を持ち上げてみせる。見えないグラスを掲げているよう。
「飛縁魔の姉御がその刀でブッた斬ってもいいし、さっきの河童のようにその牛頭……天王? だかを、今度は魂ごとカモっちまってもいいじゃないか。ここでグダグダ愚痴るよりは早いぜ」
「箒星のお兄ちゃん、いけめん!」
アリスに尊敬の眼差しを向けられ、いづるはふっと鼻で笑った。
「だろ?」
「チッ……ナルシストめ、キショイんだよ」飛縁魔が顔をしかめる。
「言われなくてもそのつもりだってんだよ。ただ、いつ攻め込もうかってずっと考えてたんだ」
「……本当は?」
「斬ッぞ」
「ごめん」
「ふん。……おい、おまえ箒星ってなんだかわかるか?」
唐突に話題が変わるといづるは何を話してたのか忘れることがややあるので、これまでの流れを頭の中でうっすら反芻しながら、
「彗星のことだろ?」と答えた。
「そう、そして陰陽道ではな、箒星ってのは災いを表すんだ。知り合いの受け売りだけど」
飛縁魔はいづるのお面を透かして、その奥の素顔を見据えるような目つきになった。
「おまえは、あたしと牛頭、どっちの災いなんだろうな?」
行き交う妖怪の中に、いまにもいづるの姿は溶けて消えてしまいそうだ。
アリスが不安げな顔でいづるを見上げ、裾を何度も引く。
いづるは答えた。
「俺は誰の味方もしない。できない。だからひとりきりの、みんなの敵さ」
「気に入った――」
ふっと飛縁魔は笑い、通りの向こうへ流し目を送って、
「いくか」
そう決めた。
五章 牛頭天皇《ごずてんのう》
あの世横丁を抜け、大きな道に出て、その通りから北東の位置に牛頭天王の屋敷はあった。
観音開きの門の前に、やる気のなさそうな門番が二人ほど槍を構えて立っている。彼らの首から上は、栗毛の馬だった。
飛縁魔《ひのえんま》、アリス、いづるの三名を横目に確かめると黙って門を開けてくれるが、それきり諸行無常を思って虚空を見つめるだけだった。
「思ったんだけど」
いづるは荒れ放題の庭を見渡しながら、
「姉御《あねご》っていま家ないの?」
返事は無かった。アリスが裾を引いて、悲しげな顔で首を振る。
「ホームレスニート……」
「なんか言ったか?」
「いや、きっと空耳」
「ふん」
先ほどまで赤かった空は、暗い青に染まっている。それも直に束の間の日の出を迎えるのだろう。
屋敷の中から、にぎやかなざわめきが響いてくるが、何を話しているのかまではわからない。
飛縁魔は勝手に玄関から上がりこみ、勝手知ったるかつての我が家の廊下をずんずん進んでいく。
漆《うるし》塗りの廊下は埃が目立ち、襖は破れて骨組が見えている。アリスが障子を指で突いて目明き穴を作って飛縁魔にこっぴどく叱られた。
男たちのだみ声が近づいてくる。
「うちの親父さ――」
誰の声かと思った。いづるは面の下で息を呑んで飛縁魔を見やった。
その声は、細く小さく、か弱かった。
戦装束に身を包み、並みの男衆の軟弱な歯などに太刀打ちさせるとは思えない飛縁魔の声とは思えなかった。
いづるは、黙ってその声を聞く。
「ガタイがよくってさ。二メートルちょいくらいあったのかな。だからこんなちっさい家じゃ頭つっかえてばっかで、玄関から腰屈めて入るときなんか縁側からほふく前進で家入ってくるんだぜ? へびかよって話じゃん。姉貴たちがそれ嫌がってさァ。家ん中で邪魔にするもんだから、親父すねちゃって、よく屋根に登っていじけてたんだよ。まァ登るときにドタガチャうるせーからまた姉貴が怒るんだけど……あたしも現世で男に取り憑くばっかの姉貴なんか嫌いだったからさ、よく屋根の上で親父と並んで座って、夕焼けを見てた……」
飛縁魔は指の腹で、壁を撫でながら歩いていく。
「酒飲みだし笑うとうるせーしすぐつまんねー冗談言うし邪魔だしスケベだしロクな親父じゃなかったけどよ。……あいついなくなったら、この家、こんなに静かになっちまうんだなァ」
「宴会《えんかい》をやろう」
いづるの提案に、ん、と飛縁魔は前を向いたまま頷いた。
「そうだな、牛頭の野郎の首ハネたら、その頭蓋骨に酒注ごうぜ。死んだら未成年もなにもないモンなぁ」
あはは、と飛縁魔は笑ったが、その背中はとても小さく弱弱しかった。
廊下をぺたぺた進みながら、いづるは、敵のこと、牛頭天王のことを思った。
牛頭天王、それはその名の通り人身牛頭の魔人のことを指す。
病の神とも荒ぶる神とも呼ばれ、ヤマタノオロチを退治したとされる。 酒を飲ませて不覚に陥らせてから切り刻むなんて趣のある闘い方だといづるはついつい感心してしまう。ある種の卑怯だが、そこに意思や洞察が窺えるのであればそれは作戦であり穢れたところはひとつもない……たとえそれがどんな残虐な結果を招いたとしてもだ。
もし相手が本当に神であるならば、その力はどれほどのものなのだろう。チンピラ飛縁魔と死にたてホヤホヤののっぺら坊と幼女がどうこうできる相手なのだろうか。
それがどんな戦いであれ、もし本当に相手が神ならば太刀打ちできようはずもない。
その時が訪れたのなら、いづるは大人しくあらゆる災難を受け入れるつもりだった。
(こんなこと、飛縁魔に言ったら怒り出すかもしれねえけどよ)
神には勝てない。
それは変わらない。
いづるは特定の宗教に入信してはいないが、ある価値観を持っていた。それは彼が幼い頃から芽吹き始め、彼の背が伸びると共にその外観を鮮明にさせていった思考体系だった。
いわく、神とは場である。
山や川のように……あるいは学校や社会、経済や恋愛のように、それはそこに存在するものすべてに影響を与える代わりに自ら進んで誰かの味方をしないもの。条件といってもいい。支配でもある。
だが決して、倒したり、打ち負かしたりして悔しがらせられるものではない。
山を燃やして裸にしてしまったからといってそれは勝ちだろうか。
餓えるのは自分たちだし、それでその山の恩恵に与る人や獣を苦しめたしても倒されたのは餓え困る者たちであって山そのものではない。
神もまた、そうなのだ。
見えはせずとも、ただそこにある、透明の輝きを孕んだ川。
いづるにとって、神のイメージはそういうもので、だから彼はこれから闘う相手に勝とうとするなら、
そいつを神とは認めない。
ただそれだけのことだった。
同じ因果の中を彷徨うだけの、この宇宙に砕け散った星、無力な同胞……。
それならば、どんな時だろうと、いかなる災厄に塗れようとも、勝利の道は埋もれはしない。
いづるはそう信じている。
ギャンブルにのめりこむわけなのだった。
戦場候補地はごちゃごちゃしていた。
最初に見た印象は物置だった。ほこりがたまり、壊れた家具や家電製品が転がされている。綿の飛び出したソファや傾いたビリヤード台、黒と赤のマス目に消えかかってるルーレットテーブル、かさぶたみたいに割れて飽きもせず暗闇を映し続けるテレビ。
座敷の真上ではミラーボールがサイケデリックな光線をバラ撒いていた。
正確には超多角形のそれを『丸い』というべきかどうか、いづるはしばし見上げたまま考えこんだ。
すぐ隣で「おおー」とアリスがエサを待つ雛のように口を開けて奇怪な宝玉に圧倒されている。初めて見たのかもしれない。
開かれて雑草が生い茂った庭が覗く縁側から、夕日の暴力的な真紅があらゆる場所を侵略している。
座敷《ざしき》の片隅にはジュークボックスが置いてある。そこからガンガンとハードロックが流れ出してこの世への反逆を煽っている。
畳の上では、厚紙でできた長方形の札がいくつも散っていた。
色とりどりの花が描かれているものがほとんどだが、中には短冊や獣が混じっているものもある。裏は血で染めたように赤いが、それが元の色なのか斜陽の汚染なのかいづるにはわからない。
その中の一枚、紅葉に囲まれた猪がいづるたちを見上げ、葉をレンコンみたいな不均等の鼻でつついた。
花札だった。
その真上、花札の残骸を見下ろすようにして、ひとりの少年が立っていた。
おかっぱ頭をした彼は、とても色白で、桜の花弁のような唇をしていて、定規を中に仕込んだみたいに背筋をぴしっと伸ばし、置いていかれた子どものように部屋の真ん中にポツンと立ち、それでいて寂しいなんて拷問されて暗闇に覆われようとも決して言いそうにない頑固さをその目に宿していた。
あちこち悪ガキに引っ張られて伸びてしまったような真っ白な服――狩衣をまとって、月光のように鋭い流し目を三人へ注いでいる。
「飛縁魔とアリス……それに、死人か。やれやれ、まさに負け組って感じだな! 負け癖が移るから近づくんじゃねーぞ」
本当に声変わりしているのかと思うほど高く澄んだ声。
いづるはアリスを守るように半身になって一歩乗り出したが、当の彼女はあくびをしながら少年に手を振っていた。
「やっほー土御門のお姉ちゃん! ごぶさた!」
「オレは男だ!」
少年が真っ赤になって怒鳴ったがアリスはどこ吹く風、いづるの背中から顔を半分だけ出してくすくすと笑っている。
少年は魔性の金髪幼女に完全にあしらわれてしまっているわけだが、いづるに比べて相手にムキになってしまっているところが幼さを感じさせる。
飛縁魔がずいっと腰を曲げて、下から少年をねめつけた。柳の枝のように細い眉が小刻みに振動している。
「稀なやつがいたもんだ……なァ式打ちの土御門《つちみかど》ぴかあきら君よ?」
顔色はそのままに光明と呼ばれた少年はバリバリと髪をかきむしって、
「その名でオレを呼ぶな! どいつもこいつも!」
耐え切れぬとばかりに叫んだ。
うるさそうに飛縁魔が耳を押さえて一歩下がって、
「どっちのなにが気に喰わなかったんだよ?」
「まるまるぜんぶに決まってんだろ……」
額に手を当てて首を振り、
「陰陽師《おんみょうじ》は式を打つだけが仕事じゃねーし、オレの名前はミツアキだ。ちゃんと呼びやがれ」
「そのうち考えといてやるよ。で、さっきまでここでドンチャンはしゃいでた連中とその親玉はどこにいったんだ?」
「オレがまとめて祓ってやった……って言いたいところだけどな、残念ながらそうじゃない。客の天狗どもが帰るというんで牛頭天王は見送りに出て行った……妙なところで義理堅いバケモノだぜ」
「ふん、ここにいるのは敵情視察ってとこか? おまえ、ギャンブルは嫌いじゃなかったのかよ」
「妖怪風情とわきあいあいと遊ぶなんかゴメンこうむる。ギャンブルを通して牛頭天王のことがわかるかと思ったが、無駄だったみたいだな。会いたくもない顔にも出くわして踏んだり蹴ったりだ」
「陰陽師ならてめえの一日ぐらい朝っぱらに占っておきな。ご先祖様が嘆いちゃってるぜ?」
光明の秀麗な顔が険を帯びた。沸騰した侮蔑が声に宿り、聞くものの心臓を打つ。
「黙って媚びてな……女狐」
「てめえの先祖も狐じゃなかったか? 歴史のお勉強はおむずかちくていやいやか? あ?」
「土御門家千余年の歴史をいまここで語っておまえがどれほど卑しく矮小な存在かその骨と魂に刻印してやりたいところだが……勘弁してやる。今日はだりい」
「……くく、賢明だぜ」
声がした。
太く低く、地獄の釜の底のまた底から聞こえてくるような、怨念と妄執と結合した酸素を浴びてきたような、聞くものの魂を揺さぶる声だった。
「ここでドンパチやらかしたら俺が怒っちゃうからな……ウチん中だし。賢い光明もおてんば飛縁魔も囃子のアリスも、そんなの嫌だろ? できる限り仲良くしてこーぜ……なァ?」
いつの間にそこにいたのか。
いづるは瞬きひとつしていなかったというのに。
光明のうしろに、縮尺とあるべき位置と主の形を見失った、狂った影が立っていた。
牛。
黒牛の頭が、首の上に乗っていた。
その目は、冬のプールの色をした緑の瞳は、人間のもの。
天を突く二本の角はクワガタの顎に似て、細長く伸びた鼻には金の輪がぶら下がっている。
坊主が着る袈裟をまとい、首にはネズミの頭蓋で作った数珠を巻いていた。
ごき、ごき、と牛の頭をぐるりと回して、
「腹ン中の寄生虫みたいに、俺はおまえらと仲良くしていきてえんだからよ。ただちィとばかし、俺がわがままだけどな」
アリスがいづるの袖をぎゅっと握り絞めた。シワになるかな、といづるはどうでもいいことを考えた。
「いつ聞いてもてめえの発言は気取っててむかつくぜ……牛頭天王」
「珍しく坊やと意見が合ったな、あたしも同じ気持ちだ」
「よし、撤回する」
「おい!」
「冗談だって」
ぐふう、と牛頭天王が鼻息を吐き出した。それがどうやら笑いであるといづるはしばらくしてから気づいた。
「新しいお客はアリスと飛縁魔……それにのっぺら坊か。ハッ、どこで死んだんだか知らないがヘンな連中に魅入られちまったな、おまえさん」
「そうでもない。少なくとも、てめえよりかはマシだな」
空気が凍った。
アリスまでが目を見開いていづるの突然の暴言に硬直している。
「百戦錬磨の牛頭天王……俺は自分より偉そうなやつが嫌いだ。だから、ここであんたが姉御にボッコボコにされるのを眺めることにする」
いづるには答えず、ぐるり、と牛の頭が飛縁魔を向いた。
「俺を殺りにきたのか、飛縁魔」
「まーな」
「この一月、俺に勝てねえと悟っていたから何もせずにゴロついてたんだと思っていたよ」
「西部劇でよくあるだろ。向かい合ったガンマンの間を風に吹かれた紙袋が転がっていくのが……その紙袋が、ようやくあたしの前を通り過ぎた。それだけだ。いつでもよかった。ホントの話」
いづるは何より飛縁魔が洋画を見たことがあることに激烈な驚きを感じて息をするのも忘れていた。あの世はわりかしハイカラだった。
「刀でケリをつけてもいいが……ちょいと殺り合うには魂が不足気味なんでね。まず資本を稼ぐとするよ。それでケリがつくかもしれねーがな。おハナを引こうぜ、子牛くん」
腰に差していた朱鞘の太刀をぽいっといづるに投げ渡し、飛縁魔は綿の飛び出た座布団にあぐらをかいて、牛頭天王が対面に座するのを待った。
「仕方ない、オレが札巻きをやってやろう」
札巻きはプレイヤーが札に触れないように代わりに配ってくれる。
札、つまりカードはもっともイカサマが多い種目のひとつであり、公正なゲーム展開を保全するために山札にプレイヤーを触らせないことは高額のギャンブルでは当然の習慣だった。
しかしそれはいづるにもアリスにもできることで、ここで光明がらしくもなくその役を買って出たのは手持ち無沙汰になって仲間はずれになるのが嫌だったからだろうと、いづるとアリスはジトッとした目つきを鼻歌交じりに山札をカットし始めた若い陰陽師にぶつけた。
牛頭天王は、その小山のような身体を畳へと下ろし、
「どうして仲良くできないかね。ま、かくいう俺もだがな」
と言い、また鼻息を深く吐いた。
六章 花札勝負
門倉いづるは花札を祖父に習った。
よく、いづるの母は父と些細なことで――それは切なくなるほど何気ないことで――口論になっては、実家へ幼いいづるを連れて帰っていった。
母は決してめそめそ泣いたり、怯えて逃げ帰ったわけではなかったけれど、息子のために情けない道を選ばざるを得ないことを悔やんでいたようだった。だがいづるからすれば、父と母も、単なる同居人以上に思ったことはなかった。
夜の列車に乗って数時間、終着駅から飛行場の着陸ランプのように等間隔に並んでいる街灯のレールをふたり、手を繋いで歩いていくと、その果てにぽつっと祖父の家の灯りが灯っているのだった。
それを見るといつも握り合った母の手から急に力が抜ける。握力が、幼いいづると同じほどにまで戻ってしまうのだった。
祖父は、寡黙な人だった。
眉間に母とよく似た皺を刻んで、険しい顔をしているものの娘や孫を怒鳴りつけるような真似は一切しなかった。
ただ掠れ痛んだ声は不思議と耳に残響を残し、心地よかった。
祖母はすでに他界し、ひとりで住むには広すぎる瓦屋根の一軒屋の番人の趣味は、釣りだった。
よくいづるを川原まで連れて行っては一日釣竿を垂らしている。
魚のぬめぬめした鱗が苦手で鳥肌を立てていたいづるも、いつの間にか釣った獲物を桶に投げ込むことぐらいはひとりでやるようになっていた。
人を座らせるために川が丁寧に削ったような石に肩を並べて座すその背中は、もし彼らのうしろでそれを眺めるものがいたならば、人生の始まりと終わりを見ている気になったかもしれない。
祖父はよくこんなことをいづるに言った。
「釣りに腕なんかはホントは必要じゃない。釣れるかどうかは魚とか天気とかエサとか川とか、いろいろ理屈はあってそれを改善していくことはできても、やっぱり時の運なんだ。我慢して我慢して……。だからもし主を釣り上げたって、いづる、決して驕るなよ。ただ嬉しいと思っていればいい。感謝して……うぬぼれて川に引きずり込まれることのないようにな」
幼いいづるに、その言葉は鮮烈に刻まれた。
感動したとか、言うことを大人しく聞こうと思ったのではなく、精神発達形成時にふいに浴びせかけられた言葉がスッと彼の心の中に染み渡った。それだけだった。
以来、いづるは自分が他者より優れているか、劣っているか、そういった類のことに一切の興味を失っている。
そこまでの効果を彼の祖父が狙っていたのかどうかはついぞ知れないが、きっとそうではなかったろう。
いったい愛おしい孫を修羅にしようとする年老いた男がいるだろうか。いないだろう……。
ある日、まったくの一匹も魚が取れない日があった。いつもはちらちらと矢尻のような影を閃かせている魚たちはどこにも見えず、川はゴースト・リバーと化し水はサラサラと流れ続けた。
戦中、敵地でたったひとりで生き延びたという伝説を背負う祖父もこのときばかりは竿を投げた。夏の日は暮れ始めていたが、いま一時ばかりの猶予はあった。
祖父はミイラのように細く乾いた手で、懐から四角いケースを取り出し、いづるの前に差し出した。
「いづる、おハナ、引くか」
「おハナ?」
「花札だよ。世界で一番簡単な遊びのひとつだ」
自分の皮膚と同じくらいなった石の台に、祖父は慣れた手つきで花札を散らしていった。
「何、手札と場を見て、おんなじ花があったらくっつけて取れるんだ」
「ふうん。神経衰弱みたいなもん?」
「おう、そんなもんよ」
いづるは手の中で咲き乱れる花の中を右往左往し、
「でもどの花からくっつければいいのかわかんないよ」
祖父はかかかっと笑って、
「一番綺麗だと思った花でいいのさ」
祖父が笑ったのは、そのときが最初で最後だった。
優しくどこか不思議な気配を漂わせていたあの祖父は、どの花が、どの札が、一番美しいと思っていたのだろうか。
心の中にある遺影に両手を合わせながら、いづるはいつも、考えている。
いまここにいる者たちは、花札を見て美しいと思える者たちだろうか。
がらくたを避けて作られた場に八枚の札が散り、縁側の障子を開け放した座敷の中は風ひとつない。
片隅のジュークボックスが静寂を殺してばかりいて、花札に描かれた花々は身もだえするように揺れていた。
飛縁魔と牛頭天王は向かい合って座り、両者と均等の位置に光明が座している。
いづるとアリスは、後方を守る従者のように飛縁魔の左後ろに正座し、彼女の動向を見守っていた。
手甲を帯びた指が、手札から一枚の札を抜き出し場の一枚へと打ちつける。パシン、と打つ音はメンコと同じ。
手打ちを喰らった札はびっくりしたようにわずかに浮き上がると、カタカタと怯えて振るえ、やがて泣き疲れて動かなくなる。
飛縁魔の膝元に、すでに取った数枚の札が並べられている。
光明が山札から一枚めくり、それに描かれた同じ花を持つ札に打ちつけると、スッと音もなく札が飛縁魔へと滑っていった。
「こっくりさんみてえなもんだ。オレが一枚一枚の札に管狐をとり憑かせた……これで双方イカサマの類はできんぞ。覚悟しやがれ!」
光明はふんぞり返って威張れることが嬉しいのか口元をにやにやさせていて気味が悪い。美少年だから許されるのであってそうでなければ場の不興を買って叩き出されていたろう。どこか変質者じみた自重できてない笑みだった。
勝負が始まってから、飛縁魔も牛頭天王もロクに口を利かない。
ただ時折、お互いの獲得した札や手札をチラリと盗み見る気配があるばかりで、ほとんど場札しか見ていない。あたかも二柱の神が、創造した天地を遥か高みから見下ろしているように。
言葉にならない思惑が、飛縁魔の白い額と牛頭天王の黒い角を繋ぐ畳一枚分あるかないかの距離を往復し合っていた。
いづるはアリスに花札でもっともポピュラーな二人遊び『こいこい』について解説を入れながらも興味は飛縁魔の手札、そして見えない牛頭天王の手札に吸い寄せられて動かなかった。
「ねえねえ、箒星《ほうきぼし》のお兄ちゃん、よくわかんない」
「うん。なんで?」
「え……わかんないものはわかんないもん……」
アリスは涙ぐむ。が、今度ばかりは勝負に集中しているのか飛縁魔の鉄拳がいづるの空っぽの頭蓋を揺らすことはなかった。
「同じ花をくっつけて取ればいいんだよね。だったら飛縁魔はなんっ」
大事なことを言いそうになったアリスの口を手の平で塞ぐ。もがもがとアリスは抵抗するがいづるは固く押さえつけて離さない。
「手札のこと言ったらダメだろ」
不満げに、
「むうむう」
「つまらなくなるだろ?」
納得したように明るく、
「むう!」
いづるは離してやった。ぷはっとアリスは頬を赤らめ息を吸い込む。
いま、飛縁魔の手札には柳に燕の札があり、場にも柳に雨の札がある。膝元の札には、桜に幕、芒に月。場に菊に杯がある。
菊の杯を引ければ月見で一杯、花見で一杯で十文――あの世では十魂――となる。だが雨を引いてしまえば花見も月見も中止になっちゃうので役にならないというわけだ。
このガッカリ感はせっかく好きな子と一緒の班になった修学旅行の日にバスの中で発熱、サービスエリアで下痢嘔吐の挙句に衆目の雨を受けながら保護者に連れて帰られるくらいの無念なので、飛縁魔はどうしても柳に雨を場に放つわけにはいかなかったのだが、アリスにはそんな難しいことはまだちょっとよくわからない。
戦況は、飛縁魔。
傍らのアリスが浮いた魂貨を雲のようにふかふかした手の平の上でつついていじめている。
初っ端から花見で一杯をアガって飛縁魔の景気はよさそうに見える。牛頭天王はしきりに顎をさすっているし、札巻きの光明はどちらかというと飛縁魔の方の動向を気にしている。
「――めくったッ!」
声を上げたのは飛縁魔、菊の青タンを引いて月見に一杯花見で二杯。
ここで「勝負!」と言うだけで十魂の勝ち、もし魂ひとつ分を銃弾一発とするなら、十魂は手榴弾に匹敵する火力といえる。
そんなことは飛縁魔も承知している。だが、
「こいこいするか? それが醍醐味だろ」
牛頭天王が煽っている。牛の顔は表情を変えない。鼻輪の下から外見にそぐわない気安い声が流れてくるが、その主流にも親しみがあるとは思えない。あるわけがない。
飛縁魔は膝の上で空いた手の平を握り締め、
「こいこい!」
光明が眉をひそめた。
「正気か?」
うるせえばか、と剣先よりも鋭く輝く目つきで毒づく飛縁魔の手札から、松に鶴が覗いている。
芒《すすき》に月、桜に幕、松に鶴で三光役となる。花見月見に三光も加わればコールド・ゲーム並の大リードだ。
目を見開いているアリスが何か言わないようにいづるは脇腹をつねっていた。夕闇色の瞳には涙が表面張力の限界ギリギリで揺らめいていたが、泣き出すことはしなかった。
なぜそんなことをいづるがしたかといえば、さっきまで飛縁魔の手札にあったのは松に鶴ではなく松のカスだったからだ。
飛縁魔が、いづるが、アリスが、澄ました顔で黙りこくっている土御門光明を見やる。
一回だけだぜ――と光明は行動で己の心情を伝えていた。
オレの呪で札を一枚だけ替えてやった。牛頭天王には気づかれるようなしくじりはこの土御門光明には存在しない結果だが、勘違いするな、オレはおまえらの味方じゃない。牛頭天王を弱らせ、こいつを処分したらいずれは飛縁魔にアリス、てめえらの番が回ってくるんだからな。
場には、松のカス札があり、飛縁魔の番にさえなれば必ず三光確定の極限状況。
いまや四面楚歌《しめんそか》となった牛頭天王は、ううむ、と唸る。
牛頭天王はいまのところ、カス札六枚、種札一枚、短冊一枚。
狙える役はカス札を十枚集めてできる『カス』――そのまますぎるが――だけだ。
しかし場札も残り少なく、何もできずに飛縁魔まで番が回ってくる可能性は高い。十回やって七、八回は飛縁魔の三光となるだろう。
事実、この番で牛頭天王はカスを成立させられなかった。
パン、と袈裟の膝頭を大きな手で叩き、
「よし決めた。こうしてみよう」
一枚の札をサイドスローで場に放った。刺さりそうな勢いで宙を滑った札は、もう一枚の札にぶつかって、一瞬静止したあと、カタカタと笑うように震えた。
場札に重なる、
松に鶴。
飛縁魔の心の平野に何もかも吹き飛ばす大竜巻が荒れ狂った。
騙された。そう思ったのも無理はない。
まずいと思いつつも、いやグルならバレてもいいのか、いろいろな思惑をその赤い瞳に宿らせて、飛縁魔は光明を見た。自分を騙し、使い物にならない偽の光札を送り込み、それを捨てられない状況に追い込んだ張本人がどんな顔をしているのか確かめようとして、
般若のごとくゆがめられた光明の顔にぶち当たった。
本能で、直感で、わかる。
光明は、こちら側の味方だ。
善意かどうかはともかく、いやむしろ牛頭天王への悪意という形で飛縁魔に透明な助太刀をしてみせたのだ。
そうともこれ以上、常世の親分を新参者にさせておいて得なことなどこの若い陰陽師にはありはしないのだ。
消防士が燃えてる家に油をぶっかけるか?
土御門光明は、自分の役目や存在に嘘をつくようなプライドの薄い男ではない。
では、なぜ?
飛縁魔は考える。人間よろしく札をどこかに隠していてそれを持ってきたというのか。それができないように土御門光明は管狐を札に宿らせてくれたのではないのか。いやそもそも、もし事実ならば絞め殺すところだが、土御門光明が牛頭天王の手札に松に鶴があるにも関わらず、飛縁魔の松のカスに鶴を書き加えてしまったのだとしたら、いやそこまでバカなわけがない、グル説の方が百万倍も信憑性がある。それはもはや過失にせよ秘密にせよ裏切りだ。
あたしはいったい、どうなった?
裏切られたのか? 間違いがあったのか?
それとも。
負けたのか?
「姉御」
ハッとした。
「番だぜ。何か切らなきゃいけない」
「そう……だな」
手札が目に入ってこない。のっぺら坊の声も遠い。アリスがそわそわしている気配ばかりがやたらと気になる。
もう出せなくなった勝利の札を隠したまま、飛縁魔は、なすすべもなく無意味な札を切った。
牛頭天王は一言も口にはしなかったが、その山のように大きな姿は、
「だからやめておけばよかったんだ」
と言っているように、飛縁魔たちには見えただろう。
「アガリだ」
カス分の一魂を放るとき、飛縁魔の指先は、かすかに震えていた。
恐れよりも驚愕。
何十回のうち、たった一回の勝負でさえ、心の勝負は決まるのだ。
何が起こったのだろう、と飛縁魔はそのことばかり考えてしまう。
花見月見に三光の大物手を逃してしまったにせよ、失ったのはたった一枚の魂貨。
まだまだ勝負は長く逆転どころかそのときは優勢でさえあったのに、瞬く間にその地位は音を立てて崩れていった。
魂を払いながら、やはり、と飛縁魔は思う。
土御門光明をさえ、かの安倍晴明の末裔の彼をも謀る何かがあのときあったのだ。だがそれも突飛な考えというほかにない。
陰陽師が幻術を施すなら道理が通っているが、牛頭天王にそんな陰陽術の知識があるわけがない。
仮に他の陰陽師が、あの世をたむろしている玉石混合の彼らが牛頭天王にその術を伝えたとしても土御門光明の目を誤魔化せるほどの幻術を妖に伝授できるものが何人いる? 光明の幼馴染の賀茂桔梗《かもききょう》か? 現世で警官をやっているあのいけ好かない十六夜《いざよい》ワタルか? それとも躁病患者で歩く雑音の獅子法師?
飛縁魔に敗因があるとしたら、あとで考えるべきことといま考えるべきことを反対にしてしまったことだ。
みるみる間にがま口財布が薄く軽くなっていくのにも気づいていたかどうか、飛縁魔は暗く火の消えた目で、ただ札を切り続けた。
そして突然、牛頭天王がパタッと手札を畳に打ち捨てた。
「やめだ」
思わず飛縁魔は、捨てられた子どものような顔をしてしまった。
「なんでだよ。まだあたしの持ちダマはなくなってない」
「そんなこともわからなくなったか? おい飛縁魔、やっぱりおまえはここに来るべきじゃなかったな」
「な、なにを――」
「俺はね、おまえがこの一月、敵討《かたきう》ちに来ないのが最初は不思議だった。でもすぐにわかった」
飛縁魔が息を呑んだ。が、反論は口から出てこない。
「おまえは怖かったんだ」
「ふざけるな、だ、誰がてめえなんかを!」
「俺じゃない……勝つにしろ負けるにしろ、俺とケリをつけて訪れてしまうモノにだ」
「違う! あたしは、どんなモノが来ようが斬ッ飛ばす! それだけだ!」
「それが父親の死であってもか?」
びくっと細い肩が震えた。
「復讐が完遂されようが、返り討ちに逢おうが、すべて終わってしまえばおまえは死を受け入れなくっちゃならなくなる。おまえは俺に逆らわなかった姉貴たちと違って子どもっぽくて、バカで、まっすぐだ。だからそのふにゃふにゃの心じゃ、大好きだった閻魔大王がもう輪廻の向こうまでブッ飛んじまったことを認めることはできない」
「そんな、ことは」
ない、という言霊《ことだま》は尻すぼみに消えていった。
牛頭天王は審判を下す何者かのように立ち上がり、哀れな少女の妖怪を緑色に濁った瞳で見下ろした。
縁側から火炎のような夕日が、牛頭天王の袈裟《けさ》を赤く染め上げている――。
「そして思い出すんだな。抱えてる魂が少ないってことが、どういう意味を示すのかを? 破れた傘のように、そいつァもう役目を果たせないんだ。おまえの力になるという役目をな」
どこから現れたのか、その手には先端に輪がくくられた杖が握られていた。修行僧が持つような錫杖だ。
いづるは咄嗟《とっさ》にアリスを横抱きにして飛びのき、光明も一瞬の跳躍《ちょうやく》で天井に張り付いた。
だから、トラックの突進のような横なぎの杖を、置いていかれた子どものように呆然とした顔で受けることになったのは、飛縁魔ただひとりだった。
骨にヒビが刻まれる様が透けて見えるようだった。
ぞっとするような生々しい音を立てて、飛縁魔の戦装束をまとった身体は荒れ果てた庭へと転がり出た。ぬかるんだ土で滑ってまた転がる。ようやく止まったときにはゲリラ作戦を一週間継続中の潜伏兵士のように汚れきっていた。
縁側からずしん、と一歩、踏み出しただけで地面に太鼓を打ったような衝撃が走る。
牛頭天王は錫杖を肩にかけて、斜に身体を開き、そしてそれは闘う構えではなかった。
格下を屈服させる強者の態度だ。負けることを知らない王者の風格だ。もしそれを崩せるとしたら油断だけ……。
「姉御!」
「飛縁魔ぁ!」
いづるとアリスは片膝をつきうなだれている飛縁魔に駆け寄ったが、差し伸べられた腕を彼女は荒っぽく振り払った。
「こっち来んなばか……」
「でも」
「邪魔なんだよてめえら……」
朱鞘から白銀の太刀を抜き放ち、片手でぴたり構える。
「イライラしてんだ。好き放題言いやがってあの畜生野郎……斬ッ飛ばさねえと気が済まねえ」
牛頭天王は鼻で笑い、
「事実だろ?」
「そいつは」
ちゃき、と鍔鳴り、
「これから決めてやる!」
狼のごとく一声吼えると、飛縁魔は土を蹴って駆けた。風が暴れてアリスの金髪が舞い上がる。
牛頭天王はようやく杖を構え、その先端をチョイチョイと持ち上げてみせる。
カッと飛縁魔は双眸を見開き、右斜め上から稲妻の一太刀を浴びせかけたが、なんなく杖に阻まれ甲高い音が虚しく廃園に響き渡る。
ジュークボックスから流れるハードロックがいまさらのように大きく聞こえる。『Over Heat Heart Beat』。先月出たばかりの新曲。一年前にデビュー。誰に勧められたのだったか、いづるの部屋にもシングルが二枚だけ置いてある。
飛縁魔は空中で敵の杖を足蹴にして後転。
着地と同時に足元を刃で払う。縄跳び遊びの要領。
牛頭天王は巨体とは思えぬ俊敏さでひょいっと飛びのく。
その隙に飛縁魔は袂に手を突っ込んで何枚か魂貨を取り出し、バリバリと噛み砕いた。割れると中から青い霧のような何かが溢れた。それを喰らって赤い瞳がギラギラとぬめる。
だが、空中に跳ねるとは、なんという余裕。なんという油断。
身動きが取れない牛頭天王に、地面スレスレから対空ミサイルのごとく飛縁魔が発射され刀を突き出す。左手で阻まれる。腕は貫通、血飛沫、しかしその眼前で止まり震える刃。舌打ち。アリスの短い悲鳴。動けないのは飛縁魔となり、その首に牛頭天王の右手が伸ばされまだ地面は遠い。
「くそったれがァッ!」
刀を離し、伸びてきた腕に取りつく。するりと逆上がりの要領で右腕の上に逆立ち。そのまま延髄に揃えた膝を叩き込む。ぐ、と牛頭天王が呻いた。まだ地面には届かない。
打ちつけた膝をそのまま、両手で角を掴むとまた逆立ち、くるっと手を入れ替えて至近距離で牛頭天王と逆さに視線が合う。
いつの間に引き抜いたのか、空中に匕首が舞っていた。
「あ」
牛頭天王のマヌケな声。だがもう遅い。
流星のごとき速度で飛縁魔は膝を軌道に乗せる。ルーレットを走るボールのように、そして一発の弾丸と化した右膝の軌道の途中には匕首の柄。
その終点に、飛縁魔の膝が匕首を刃を蹴りこんだ。
ずぶり。
「うおおぉぉぉぉぉぉあああああぁぁぁぁぁぁ!」
牛頭天王の両足が大地を踏みしめ、切れずに膝をついた。
その黒い喉からは、真っ赤な柄が生えている。刃はしっかりと人間ならば頚動脈や声帯がある位置に埋まっている。
辛うじて両足で着地したものの、たたらを踏んだ飛縁魔が「どうだ見たか」という顔で牛頭天王を見上げ、
その鼻ッ柱に鉄拳を喰らった。
めりめりと音を立てて拳は打ち抜かれ、
「うぐぁっ!」
飛縁魔はいづるとアリスを巻き込んでどうッと倒れこむ。鼻血がぼたぼたと垂れている。
立ち上がらない。
すでに勝敗は決していた。
それを見て牛頭天王はゆっくりと匕首を自分の首から抜き取った。
血はついていない。ただ寝違えでもしたかのようにごりごりと首を回した。
「やれやれ、猿みたいに身軽な妖怪だな。戦闘タイプじゃないくせに……狒々かと思ったぜ」
「それだけ勝ちたかったんだろ」
牛頭天王はいま思い出したとばかりに、いづるを見た。
「ああ、なんだまだいたのか。そこをどけよ。せめて親父殿と同じ死に様をくれてやらないと可哀想だ」
いづるはどかなかった。ただ、
「なんのためにこんなことをする?」と聞いた。
「おいおい」牛頭天王は小山のような肩をすくめ、
「先に勝負をしかけてきたのはそっちだろ」
「違う。あの世の親分なんかになって、どうしようっていうんだ。何が目的だ。崇められたいのか?」
「それもいいな。ふふふ、ま! いろいろやってみようってことさ……よっと」
刺さったままだった太刀を引き抜き、膝をてこにしてバキンと割ってしまう。あ、とアリスが顔を曇らせたが、男二人は気づかない。
「できることはなんでもやる。それが退屈しない長生きってやつだぜ、違うか?」
「いまのままでてめえが、退屈しない暮らしってのができるとは思えないがね」
「何?」
牛頭天王も、仮面を被ったいづるも、お互いの表情を読めないままに言葉を交わす。
いづるは言った。
「王様なんて、世界で一番退屈な職業だと思うけどな」
牛頭天皇は深い重い息をはいたが、それだけだった。
そうだそうだ、とアリスがいづるの背中から野次ったが、牛頭天王に睨まれると光の速さで引っ込んだ。
「ふん、のっぺら坊、俺はこの杖でおまえを突いただけで永遠に苦しみ続ける鬼にしてやることだってできるんだぜ。知ってたか?」
白い仮面の奥で、いづるは笑った。
「痛みじゃ僕は止められないな。家畜じゃあないんでね」
「……。なんだ、おまえ?」
「のっぺら坊、らしいぜ」
「俺のことが知りたかったら」
いづるはぐったりと力を失った飛縁魔を背負い、肩越しに、
「勝負してもらうしかないな」
「おまえが? 俺と?」
「ああ。せいぜい薄汚い首を洗って待ってるんだな。姉御と一緒にすぐ逆襲にくる。どうやら俺のタイムリミットは、あと七日かそこららしいから」
「どうして……そんなことをおまえがする必要がある。あとたった七日で?」
「あとたった七日だから、悔いを残して消えたくないんだよ」
「そいつはご立派なことで。でも残念だったな、俺はおまえを見逃さない」
じゃき、と遊環を鳴らして牛頭天皇が錫杖を構えた。それを振るわれれば、いづるの身体など塀に激突する前に真っ二つに折れるだろう。
「俺に噛みついたら痛い目見るってわかってもらおう」
「べつに見逃してほしいなんて頼まねえよ」
いづるはポケットに手を突っ込み、手のひらサイズのパッケージを取り出した。生前愛用していたトランプだ。
封を開けて牛頭天皇の頭上に放ると、空中でトランプが散乱した。カラフルなモザイク柄が乱舞し、牛頭天皇の目を一瞬くらませる。
札の雨がやむと、すでにおさらばされていた。
七章 勝利のせせらぎ
妖怪を背負って歩くというのも妙な体験だった。
普通そんなものがうしろにいたらぞっとするところなのだろうが、いまいづるの背中でくたっと覇気なく首を垂れているのは戦装束を着ているというだけで何の変哲も無い自分よりひとつ年上の少女。
すぐそばでは金髪碧眼のお化けが砂利を草履で蹴転がしている。
ころっころと転がっていく小石、いったいどこへいくのか知らないが、せめて長く転がり続けていくといい。
栄養失調気味の背の低い草と、藁で編んだ古代のサンダルで踏むとぐさぐさ突き返してくる砂利がゆるやかに起伏している荒野をいづるたちは歩いていた。
川のない川原、といった按配で、気分が沈んでいれば地獄にも見えるのだろうが、いづるにそんなセンチメンタリティはなく、白仮面は波紋ひとつ起こらない。
夜になり切れない青い闇が三人を死体のように染め上げている。
あたりには人間も妖怪もいない。
ただどこかから、川のせせらぎが、絶え間なく聞こえてくる。
「う……」
背中で飛縁魔が熱に浮かされたように呻いた。その顔色は蒼白、頬はやつれて影ができ、吐く息はいまにも青く漂いそうなほどに細く弱い。アリスは心配そうに飛縁魔の顔を見上げた。
「う~ん……これホントに危ないかも……」
「血もたくさん出たしな……アリス、姉御に手持ちの魂わけてやれないか? このままじゃ姉御は消えちまうんだろ? さっきからなんかどんどん軽くなってるし」
いづるの提案にアリスはこくんと頷き、着物の袂から巾着袋を取り出した。
その中から一枚の魂貨を取り出して、飛縁魔のスロットにジュースを買うときのように流し込んだ。食べる感じはクッキー系のお菓子に近いのか、弱々しく魂貨を噛み砕く音が響く。急に頬に赤みが戻ることもなく、飛縁魔はまたがくっと首を垂らしてしまった。
「ダメか……症状的には貧血に近いのかな。やっぱり腹一杯魂を喰わせてやらなくっちゃな」
「うん……でもどうやって? いまから現世にいって死人案内しても間に合わないし」
あの世において死人案内とはいわばまじめに働くことに相当するらしい。妖怪たちは迷い込んだ死者を成仏させて魂を得、喰うなり賭けるなりするのだろうが、もうそんな悠長なことをやっている余裕はない。
けれどいづるの心に不安の霧は広がっていない。それどころかメラメラと闘志が湧いてくるくらいだった。
魂の集め方?
そんなことは決まっている。
問題は、といづるは考える。
脳裏に蘇るは花札、飛縁魔の凄烈な横顔、牛頭天王の首。
入れ替わった松に鶴の札(アリスから、あれは土御門光明の仕業だと教えてもらったが、状況的には彼しかいないということも、その態度と気配から彼がおそらくシロだということもいづるは初めから察していた)には、なにか仕掛けがある。
だがそれがいづるにはわからない。わかれば、目的地は変わるのに。進むべき道は、背後に広がっているというのに。
「おにいちゃん、がんばってね。もうすぐアリスんちに着くからさ。そしたらお茶を淹れてあげるよ!」
「紅茶?」
「抹茶」
「ふうむ」
いづるはあんまり聞いていない。
だからふと気づいたとき、とっくに逃げるのは手遅れだった。
群青色の宙に軌跡が幾筋も走っている。赤い、赤い鮮血のような跡が。太陽の涙のように、流れ星のように。
「鬼火だね」とアリスが不快そうに顔をしかめて、
「綺麗になれなかった魂はああなっちゃうんだ。妖怪にも人にも鬼にもなれない、可哀想な魂……」
それを見上げる西洋人形の顔立ちから、思わずハッとしてしまう大人びた雰囲気を感じたのはいづるの錯覚だったかどうか。
いづるはポリポリと頬をかいて、
「汚い星だな」
にやりと笑って見せると、突如鬼火のひとつがガバッと口を開いてその歯を見せつけた。
「誰が汚ェだと! もうイッペン言ってみろ!」
「なんだ、喋れるのかこいつら」
「文明開化だね」アリスが笑って言う。それをいづるは横目に見やって、
「やっぱおまえ、テキトーに喋ってんだろ?」
「バレた?」
はぁ、と無邪気な妖怪にため息をついて、
「姉御がいないとイマイチしまらないな。ツッコミ役がいない」
「早く元気にしてあげなくっちゃね」
アリスが飛縁魔の額にかかった髪を払ってやると、そのすぐそばを鬼火が駆け抜けていった。じゅ、と軽い音を立てて、アリスの手の甲にミミズ腫れが浮かぶ。
それをアリスは、瞬きをしながら見つめていた。
鬼火たちが口々に言う。
「俺たちを無視してんじゃねーぞ! のっぺら坊と異人のガキがァ……さんざ俺たちを消してきやがった閻魔大王の娘もてめえらもまとめて死刑執行だ! 踊り食いにしてやるぜ、覚悟しやがれ!」
青い瞳が、泥のようにたわんだ。
耳に届きそうなほど深い笑みを浮かべたアリスは、いつの間に回収していたのか飛縁魔の匕首を袂から引っ張り出して鞘から抜き放った。
小さな刃に無数の鬼火が反射し、軽く一振りするその様は幼い飛縁魔のようにも見えた。
「アリス、おまえ……」
「心配しないで、お兄ちゃん!」
びしっと親指を上げてみせる。
「先にいってて。すぐわかると思うから。このまままっすぐいったらアリスんち」
「手伝おうか? ハエと同じ感覚であの火が消せるならだけど」
「誰がハエだと!」と鬼火たちが喚いた。
アリスは静かに首を振る。
「あはっ、パチンて叩いてみる? でもごめんねお兄ちゃん。――わたしの獲物、取らないでくれる?」
「あいよ」
いづるは肩をすくめて、激怒の電気を帯びたアリスに片手拝みに謝った。
「睨むなって。任せたよ。先にいって、お茶を淹れて待っててやる」
「茶柱立ってなかったら怒るよ?」
一声笑って、アリスは三百六十度完全包囲の鬼火囲いに飛び込んでいった。
匕首が閃く音を聞きながらいづるは飛縁魔を背負い直して踵を返し、「茶柱って人工的にどうやったら立つんだろう?」と、考えた。
楽しげなアリスの声ばかりが響いている。
アリスの楽しげな笑い声が届かなくなったあたりで、背中の飛縁魔がもぞもぞと動く気配があった。いづるは肩越しに振り返る。
「よう姉御。起きたか」
「……ああ」
「なんだよ、落ち込んでるのか? 柄じゃないだろ」
「うるせーな……頭に響くんだよ、黙ってろ」
「え? 酔ったの?」
「違う……まあ乗り心地は最悪だけどな……」
「一生懸命運んでるのに……」
「おまえフラフラしすぎなんだよ、貧弱もやし野郎が。……ま、一応お礼を言っておこうかな。ここまで運んできてくれてサンキュな」
「ここまで?」
「あたし、もうダメっぽい。ほら」
かざした手の平は、ところてんのように透き通って、手甲の裏が見えていた。
「自分の体を維持できるだけの魂も残ってやしねえ……ざまあねえな……せっかく親父の仇が討てそうだったのによ」
「まあ、仕方ないさ」
「仕方ない、で済む勝負なんか勝負じゃねえんだよ、小僧」
「……」
「ま、悪くない人生……いや妖生? なんでもいいか……そう、悪くなかった。結構おもしろおかしく過ごせたし、剣振り回すのも、バクチすんのも楽しかった。それでいいや……あたしの時間は、それが答えでいい」
「ふうん。で、死ぬってわけか。妖怪なのに死ぬのか? なんだそれ」
「妖怪だって死ぬときゃ死ぬよ。あたしらとおまえらの決定的な違いはね、身体が魂でできてるってことだ。よそから奪ってきた魂で肉を造って、それに核となる魂が宿ってる。それだけ。魂についた付喪神ってところだな」
「じゃあ、魂があればいいんだな?」
「あ?」
「魂があれば、なんとかなるんだな?」
「ま、そうかな……このあたりに、死者がウロついてれば話は別だけど……ふん、綺麗さっぱり荒野しか広がってねえ。草一本、生えてやしねえ……神様もとうとうあたしを見放したわけだ」
「神様? 神様はそんなこと考えちゃいないだろうよ。あれはただ単に流れてるだけだ。俺らにできることは、溺れるか、おぼれるまで泳ぐか……」
「あたしは、溺れちまったらしいな。結局、それだけの話なんだろ」
なんだか試合に負けた運動部の帰り道みたいだった。カラスが鳴いて、家に帰って、昨日には戻れないし明日は問答無用でやってくる。
だったら結局、やれることなんてひとつしかない。
「姉御」
「なに」
「このままじゃ、終われねえだろ」
「……」
「負けたまんまで、泣き寝入りなんて、俺ァ我慢できない」
「どうにもならねえ、おまえの気持ちなんて、それこそ神様は汲み取っちゃくれねえよ」
「いいや、俺の耳には、まだせせらぎは聞こえてる」
「は……?」
いづるは言った。迷いはなかった。
「姉御、俺の魂を吸えよ」
飛縁魔が、強く首にしがみついてきた。
「んなことしたら……おまえが消えちまうぞ」
「ちょびっと残してくれりゃいいよ。ちょびっと。できるだろ?」
「できなくは、ない……」
「じゃあ」
「やらねえ」
「なんで?」
「そんなヒルみてえなマネさらすくらいなら、このまま死んでやる」
「おいおいおい、意地張ってる場合じゃないぜ」
「へへっ、ダイエット成功、てな」
「どうしてそんなに嫌がるんだよ」
「誰かに頼るのなんかまっぴらだ……魂くらい自分で集められる」
「いまじゃなかったらね」
「…………」
「そろそろシャレじゃ済まなくなってきただろ。ホレ、さくっと吸えよ」
「…………」
「姉御……勝つっていうのはわがまま言ってられないことなんだぜ。どうしても譲れないってんなら、俺も引くよ。でもさ、このまま終わって後悔しないのか? なにがなんだかわかんなくなっちまう、最後の瞬間にああ、もうちょい気張ればよかったって思うなんて、お化けよりも怖くないか?」
飛縁魔は答えない。
門倉いづるはやけになった。
「腕とか足から吸うのがヒルみたいで嫌だっていうなら、よし」
手の平を面の前にかざし、指で白い表面を挟んだ。ぬるぬるする。
一気に引き剥がすと、途端に埃っぽい風が顔を打った。
「バカっ、なに面外してんだよ! 元に戻せ!」
「お、やっぱ素顔は気持ちがいいな。スースーするぞ」
「あの鬼火みたいになりてえのかっ! いいから早く……」
門倉いづるは、凍てついた銀のような瞳で背負った少女を見た。
「わからないなら何度だって言うぜ。このまま負けるくらいならな、消えちまおうが、バケモノになろうが、関係ねーよ。
いいか、よく、聞け。
俺は、我慢が、できねえ。
それだけだ。俺の言葉はたったのそれだけ。
あとは姉御だけだ……覚悟を決めろよ。
俺とあんたは、負けやしねえ。
心の底じゃあ、そう思ってんだよ。
俺もあんたも」
だから、といづるは笑った。明るく烈しく、鬼のように。
「俺を喰らって、強くなれよ。きっと、耐え切って見せるから」
飛縁魔は長い……長い間、その口を閉ざしていた。その頬の向こうに夕空が透けて見え始めても、いづるは答えを待ち続けた。
やがて、
「名前」
「え?」
「おまえの名前、聞いてなかったな」
「門倉いづる」
「いづる? ふん、ヘンチクリンな名前だぜ。女みてえだ」
「そういう姉御は、名前、ないのか」
「あたしはいいだろ」
「ずるいぞ、あるなら言えって。俺と姉御の仲だろ?」
「一日も経ってねえ仲だ……けど、ま、教えてあげないこともない。約束してくれたらいい」
「約束?」
「――勝っても負けても、最後までいろ」
いづるは一瞬、間を置いて、
「できればそうしよう。ケリがつくまでは、な」
「ふん、ナマイキなやつ」
飛縁魔はぼそっと、顔を伏せて呟いた。その頬は夕闇に染まっていた。
「頼んだぞ、いづる。これであたしとおまえは、運命共同体だ。あの牛頭の頭蓋骨で酒を酌み交わすまで、あたしもおまえも死なないんだからな」
いづるはニッと、誰に向けるでもなく、笑う。
その笑顔は、そのとき確かに満たされていた。
「わかったよ、火夜の姉御」
どこかで鴉が鳴いている。
疲れ果てた娘をおぶった父親のように、
門倉いづるは歩き続けた。
その果てに、
勝利のせせらぎが奏でられんことを。
八章
あやしい、とアリスは鞘に収まった匕首(つい先ほど二十七の鬼火をブッた斬ったホヤホヤのそれ)を肩でとんとんやりながら、のっぺら坊と彼に背負われた飛縁魔の二人を交互に剣呑な目つきで見やっていた。
「なんだよアリス、菓子でもほしいか?」といづる。お菓子なんかもって無いだろとアリスがすねを蹴飛ばすと大人しくなった。
「ま、まだかなーアリスんちまだかなー」とまるで特殊な磁力の影響でアリスの方は眼球が向かないのだとばかりにあちらこちらへ視線を送っている飛縁魔の頬は、ほんのり赤い。
「なにかあったの?」
アリスが問うと、
「いいやなんにも?」
水と油のような二人が、息をぴったりに答えてくる。いづるはやたらと首筋をさすり、飛縁魔はらしくもなく小さくなって背中にしがみついている。
なにかがあったには違いないのだが、どうして二人がそれを隠すのか、それがなんなのか、アリスにはわからない。
が、仲間はずれにされていることだけはわかる。
ムカツク。
眠りに落ちれば赤子のように邪気を失うであろうアリスの顔が、いまは眉を逆立てて不穏な気配を放っている。
こいつら迷わせてどっかに置いてこようかな、とそわそわする二人を背中で感じながら歩いているうちに、アリスはふっと肩の力を抜いた。
「えーと、とっても二人のことがナットクいかないんだけど」
頬をぷっくら膨らませながら、顎で背後を粗雑に指し示す。
「ついちゃいました、アリスんち」
赤い鳥居の奥に、玉砂利の敷かれた境内と社。
打ち捨てられた神社だった。
「よしめでたい!」いづるが叫んだ。
「まずは姉御を寝かさないとな。布団ぐらいあるだろアリス?」
「あるけど……」
「よしめでたい」
とりあえずそう言い続けてこの場を乗り切るつもりらしい。
「あったかくして身体を休めないとな」
「うん……」飛縁魔はやっぱりおかしい。
三者三様の思いはあれど、床に弱った飛縁魔を横たえ、アリスがちゃちゃっと作ってくれた味噌汁を三人ですすっているうちに人心地がついてしまった。すっかりアリスの仏頂面もたるんたるんに緩みきっている。
「あったかいもの食べるとしあわせなの」
「そうかそうか、よかったな」
いづるがテキトーに頭を撫でると猫のようにアリスは身もだえして喜んだ。
鼻のすぐ下まで布団を引っ張りあげながら、飛縁魔はぼそりと、
「このロリコンが……」
聞こえていたのかいないのか、いづるはコホンと空咳をした。
「うん、時間もあんま残ってないしチャッチャと話を進めよう。姉御の魂は……ちょっとはマシになったけどまだ残量がぜんぜん足りない。ひとまずこれをなんとかしなきゃ牛頭とは再戦できないだろう」
「魂を集めるなら、まあ、バクチやれよいづる」
「うん、そのつもりだ……それしかできない……で、アリス。ここに詳しいおまえを頼りたい。なんかすげー稼げるギャンブルない?」
アリスは小魚を頭からぽりぽりかじりながら、
「うーん、妖怪ってみんなバクチ好きだからいろいろあるなー。まあいいよ、わたし探してあげる」
「よしさすが」そんなことは知ってましたとばかりにいづるが話を進める。またアリスの顔が剣呑になりかかったが、小魚をかじるたびに顔がほんわか崩れていく。
「で、問題はそれだけじゃない」
「ああ」飛縁魔が相槌を打つ。
「牛頭天王の野郎がやってたイカサマ――何がどうなったのかぜんぜんわかんなかったけど、あれもなんとかしなきゃな。いくら余所で魂を稼いでも、一番いいのは牛頭をバクチで負かして魂を奪うことだ。ダイレクトアタックだからな、戦力差が一気に変わる。魂の残高が同じ程度まで下がれば、いやちょっと上でもいい、あたしがあいつを斬ッ殺す」
「戦闘に関しては姉御にお任せだな」
「お任せだな!」アリスがまねする。
「バクチ方面は俺がなんとかしよう」
「……なんとかなるのか?」
「なるよ。桜縁高校ギャンブル倶楽部自慢のエースの実力は伊達じゃないってとこを見せてやる」
「よくわかんねえけど頼むわ」
飛縁魔はとうとう頭まですっぽり布団に納まった。
「眠い! 寝る」
一秒もしないうちにすぴーすぴーとのんきな寝息が聞こえてきて、アリスといづるは顔を見合わせた。
「寝る子は育つってうそだな」といづる。
「ガキだね」とアリス。
寝顔を隠した飛縁魔はすぴーすぴーと眠り続ける。
火夜に魂を吸わせ、残った気力はあと半分。
残り三日のうちにケリをつける。
薄透明になってしまった手の平を、いづるはきつく握り締めた。
あの世横丁には、冷めた風がいつも弱く吹いている。望まずして来訪した死者たちのため息が寄り集まって吹きすさんでいるのかもしれない。
空色の着物をまとい、鮮やかな金髪をたなびかせる少女妖怪に手を引かれて、門倉いづるはあの世横丁を歩く。
何度かすれ違った学生服の猫娘に怯えと侮蔑の混じった顔を向けられたのは、やはりロリコンだと思われたのだろうか。烈しく弁明したい衝動に駆られるが猫娘は忙しそうに耳をぴくぴくさせながら、いつもどこかへ去っていく。知人ではないのにいつの間にか見知っている、そんな狭い世界での交情。
「箒星のお兄ちゃんってどんなバクチが好き?」
アリスが白い喉を反らせて聞いてきた。
いづるは面に覆われた顎をさすり、
「生きてた頃はいろいろやった。でもあんまり大きな金を賭けてたわけじゃないからなあ。学生だったし。金を稼ぐ手段っていうよりは……擬似戦争って感じでさ」
「ギジ……?」
七画以上の漢字をアリスに使ってしまったことをいづるは悔いた。
ロクな思い出のない記憶を引きずりだす。
「とにかくまあ、花札とか、河童がやってたモヤ返しとか、麻雀《マージャン》とか、いろいろできるっちゃできるよ。でも今やるのは一気に稼げるやつがいいなあ」
飛縁魔の火夜に魂の大部分を明け渡した今、あと三日ほどでこの自我は溶けてしまう。
金も命も時間さえも、無限であってくれるものなどありはしない。
「この界隈で一番レートがデカくて、流行ってるバクチってねーの?」
うーん、とアリスは首をあっちに傾けこっちに傾けしていた。ちょっとノロいメトロノーム。
ラクに稼げるギャンブルなんてそうそうあってはたまらないので仕方もないが。
が、何か閃いたのか、やがてポンと手を打った。
「あ。あれとかどうだろ。わたしやったことないから忘れてた。あれが一番派手だと思う」
「へえ……?」
いづるもひとりの男として、「一番」とか「派手」とかには興味をそそられる。
「どんなギャンブル?」と聞くと、アリスはいづるの手を取った。
「クチで言うより見た方がいいよ。連れてってあげる」
「うん」
奇妙な二人組の後姿は、横丁の雑多な妖怪たちの流れに混ざり、すぐに見えなくなった。
<せりがみ>
緩やかな坂を登り切ると、視界が開けた。
ずいぶん遠くまで見通せる……焼けた瓦礫と、ジオラマのようなバラック小屋の群れ、その果てにまた現れた瓦礫は積み重なってはいたものの、ぽっかり楕円に開いている部分があった。ガラクタでできたドーナツ。
いづるは、たぶんそのときにはもう自分がこれから何に神経を注ぐことになるのか、わかっていたのだろう。
すぐ手前から見ると、ドーナツは見上げるほどに大きい。
楕円の中から、喧騒の波がさざめいているのが聞こえてくる。
入り口はどこかと思っていたら、むんず、と上から胴を掴まれた。見ると巨人がいづるを指で摘み上げていた。大きく黒めがちな目でいづるのことを観察している。巨人の妖怪、デイダラボッチだ。
そのままいづるはすり鉢上になったドーナツ・スタジアムの中の最上段に下ろされた。懐かしい白黒テレビのベンチに腰かける。すぐにアリスがUFOキャッチャーの景品のようにして運ばれてきた。いづるは思わず笑ってしまった。つられてアリスも笑った。
スタジアムの中は、異形の妖怪たちで埋め尽くされている。
おかしなことに新聞を持って、赤鉛筆を片手にしている様は人間と大差ない。
違うのは首が長かったり、頭がスイカの三倍くらいだったり、目が蜂の巣みたいに多いくらいで、そこにある情熱はきっと同じものなのだろうといづるは思った。
くしゃ、といづるの足が、ひしゃげた紙切れを踏んでいた。
草履からはみ出した紙片に書かれた大見出しを読み上げる。
「競神《せりがみ》」
そうだよーとアリスがにこにこと笑って、売り子の妖怪から『出神表』と書かれたシートを一枚買っていた。売り子は受け取った魂貨《こんか》を長い舌の上に乗せて去っていった。やっぱり美味いんだろうか。
「見せてよ」
「いいよ」
アリスが買ったばかりのシートを渡してくる。
そこには、
前一 騰蛇《とうだ》 五行:火 陰陽:陰
前二 朱雀《すざく》 五行:火 陰陽:陽
前三 六合《りくごう》 五行:木 陰陽:陰
前四 勾陳《こうちん》 五行:土 陰陽:陽
前五 青龍《せいりゅう》 五行:木 陰陽:陽
天一 天一神《てんいつじん》 五行:上 陰陽:陰
後一 天后《てんごう》 五行:水 陰陽:陰
後二 大陰《だいいん》 五行:金 陰陽:陰
後三 玄武《げんぶ》 五行:水 陰陽:陽
後四 太常《たいじょう》 五行:土 陰陽:陰
後五 白虎《びゃっこ》 五行:金 陰陽:陽
後六 天空《てんくう》 五行:土 陰陽:陽
いづるはアリスを見た。アリスもいづるを見た。
アリスは言った。
「これはね、あの世の競馬なの」
「それが、競神?」
「陰陽師が式神《しきがみ》に乗って、走るんだよ」
ほら、とアリスがシートの一点を指差し、いづるもそれを目で追った。
「さっきの、光明もいるよ」
闘蛇の項目、その一番下に『式打:土御門光明』と確かに書いてあった。
だが、いづるにはそんな名など眼中になかった。
ただ、一点のみを凝視する。
天一神、その式を打つ者の名前が、目を逸らすことを許さない黒の字ではっきりと記されていた。
『式打:紙島詩織』
自分が死んだと知ったときよりも、いづるは驚愕していたかもしれない。
陰陽師が己のしもべである式神を駆り、瓦礫のスタジアムを駆け抜けるあの世のレース、競神。
式神も造れなければ剣も振るえず、ただ己の魂のみを頼みにして――門倉いづるの闘いが、いま、始まった。
九章 競神《せりがみ》
かつて安倍晴明《あべのせいめい》と呼ばれる陰陽師が操る式神を、十二天将と呼んだという。
騰蛇を筆頭にしたその十二の式神の名を背負って、陰陽師たちは式神を造り、走る。
本来、一般に知られる陰陽師とは妖魔を調伏し退治するのが仕事だ。
なぜ、その陰陽師たちが妖怪たちの見世物のような真似をするか。
ひとつは、妖怪たちが集めたはいいものの使い道に困る金が、彼らに支払われるということもある。ちょっと変わった楽しいお仕事、時々死亡事故つき、というわけだ。報酬もそれに見合ったものが支払われる。
またあるいは、自分の式打ちの力を鍛えるために参加するものもある。名うての陰陽師たちと式を競い合うことはそれだけで陰陽道の修行に繋がる。
様々な理由や思惑が競神には混沌の霧となって立ち込めている。
だが、そんなことは、門倉いづるにとってはどうでもよかった。
問題は、ルールだ。
競神とはどういうルールなのか?
駆ける陰陽師たちの力量の差は?
いづるには何もわからない。右も左も暗闇だ。
勝負においてルールは枠組み、それを把握していなければ土台にさえ登れない。
問題は、糸口。レースを予知するパーツが必要。
情報が、いる。
アリスに聞いてみた。
「本当の競馬もそうらしいんだけど、競神ってすごい血統を気にするんだ、みんな」
「ふむ。血統? サラブレッドってことか」
「そう。大昔のさ、すごい陰陽師っていたわけじゃん。安倍晴明とか、賀茂忠行とか、弓削是雄とかさ」
いづるは誰一人として知らなかった。
「そういう人の子孫はやっぱり人気だよね。由緒正しいっていうか」
「由緒正しいと強いのか?」
「アドバンテージではあるんじゃない? 一応血引いてるんだし、まったく無能ってことはないでしょ」
「ふうむ」
いづるはシートを顔に近づけては遠ざけている。どうにかして巧妙に隠蔽されたレースの結果を読み取ろうとしているかのようだ。
「式神に乗るっていうけど、馬なのか?」
「うん。たぶん、馬」
「たぶんって?」
「見ればわかるよ。ヘンな馬ばっかりだから」
「ふうん。馬、ね」
楕円の中央では、ガラクタに囲まれた煉瓦色のコースが広がっている。いまは誰の姿もない……。
アリスはぱたぱたと足を振っては、一段下にいる妖怪の頭を蹴る。蹴ることで考えをまとめているのかもしれないが、下の妖怪は迷惑そうにこっちをチラチラ見てくる。
「式神って、陰陽師が打った式なんだけど、それって他の陰陽師が妨害することもできるんだ」
「ほう……?」
重要そうなのでいづるは頭の中のノートに蛍光マーカーで線を引きながら耳を立てた。
「だから、走ってるとき、陰陽師たちは自分の式神を守る呪を唱えてるの。その呪は、自分の式を守ると同時に、他の式を崩す呪で……」
「走ってるときに、敵の呪で式を崩されちまったらどうするんだ?」
「式が解けちゃう。つまり、落馬……」
「なるほど、じゃあ落馬させるために強い呪をかけられる陰陽師が強いってことなんだな」
「うーん、そう簡単には言い切れないかも。式にも呪にも……お兄ちゃんにはその違いがわからないかもだけど……向き不向きがあるっていうか、たとえば強い呪をみんなに振り撒けるけど、速く走る式を打つのが苦手な陰陽師とかもいるし。その逆も。あと、お兄ちゃん、『五行相克』って」
「知らん」
「だよねえ」
いづるの即答がウケたのか、アリスはケラケラ笑った。
「ほら、陰陽道には五行思想があってさ、木火土金水、ってやつ。人間が生きていく上で必要な要素を集めたらしいんだけど……たとえば、水が火を消すのはわかるよね。同じように、木は根を張って土から養分を吸い取るし、土は水を汚しちゃうし、火は金属をゴォーって溶かすし、金属の斧で木はバッサバッサ切られちゃうでしょ? それを『五行相克』っていうの」
小難しいジャンケンみたいなものか、といづるは勝手に納得した。
「うんうん、そんな感じかも。で、ほら、シートに火とか水とか書いてあるでしょ? たとえば火の闘蛇の側に水の五行を有する玄武が走ってると、騰蛇は一体で走ってるときより消耗しちゃうんだ」
「ほお……」
いづるから、なにか心の琴線が震えたようなため息が漏れる。
さっきから頭の中のノートは蛍光マーカーで輝きっぱなしだ。もっとも、新しい遊びのルールを心に刻んでいるいづるの心の方がもっと輝いていたともいえる。
「で、逆に『五行相生』っていうのがあって、木は燃えて火になるし、火は燃え尽きたら灰になって、灰の中からは金属とか鉱物が掘り出されて、金属は冷たい空気にさらされて水が生まれて、水は植物を育てる……」
「輪廻転生……」
アリスはこくん、と神妙に頷いた。
「そう。すべては繋がってる、ってこと。一見、無関係に見えることでも……こういうの、人間は『バタフライ効果』っていうんでしょ? 蝶々が飛んだら台風が起こるってやつ」
思ったよりも博識なアリスにいづるは面食らう。
ひょっとすると自分よりもトリビアに詳しいかもしれないので、ボロが出ないように気をつけることにした。
「火の騰蛇の側を、土の天空が走ってたら天空の加速ブースターが発動するわけか」
「そういうこと。でも実際は入り乱れて走ってると五行がグッチャグチャになって、誰が有利で誰が不利なのかわからなくなっちゃうけどね。陰陽師の呪合戦もあるわけだし」
「ルールはそれだけか?」
「あとは、そうだね、陰陽の違いはそんなに気にしなくていいよ。プラスな因子かマイナスの因子か……性格みたいなものだから」
「そうか」
いづるはやや前傾姿勢になって、スタジアムに対峙する。
アリスは人差し指を唇に当てて空中に答えを求めていたが、頷いてスタジアムに臨む。
「わからないことがあったらなんでもいってね、お兄ちゃん」
「ああ……」
いづるは改めて、十二天将と式打の組み合わせを眺めた。
前一 騰蛇 五行:火 陰陽:陰 式打:土御門光明
前二 朱雀 五行:火 陰陽:陽 式打:賀茂琴法
前三 六合 五行:木 陰陽:陰 式打:弓削雅也
前四 勾陳 五行:土 陰陽:陽 式打:十六夜ワタル
前五 青龍 五行:木 陰陽:陽 式打:クーロン・ターガァ
天一 天一神 五行:上 陰陽:陰 式打:紙島詩織
後一 天后 五行:水 陰陽:陰 式打:ヒミコセカンド
後二 大陰 五行:金 陰陽:陰 式打:菅原直史
後三 玄武 五行:水 陰陽:陽 式打:賀茂桔梗
後四 太常 五行:土 陰陽:陰 式打:獅子法師
後五 白虎 五行:金 陰陽:陽 式打:天ヶ原永世
後六 天空 五行:土 陰陽:陽 式打:視叉斗矢奈
ついつい名前賭けしたくなる濃いやつらが混じっているのが気になる。とりあえず、いづるはヒミコセカンドは無視することにした。
紙島詩織の印字を指でこする。
「こいつはなんなんだ。天一神? 五行が上になってるが」
「あ~」アリスは説明が疲れてきたのか口を濁した。
「それは特別な式なんだ。誰からも影響を受けないし、誰にも影響を与えない式。天一神って女神さまのことなんだって。まあ、可もなく不可もなくっていうか」
「なんで紙島が天一の枠なんだ?」
「誰がどの天将の名を背負って走るかは、陰陽師たちで決めてるらしいからわたしたちにはよくわからない。でもくじ引きかなんかじゃない? その紙島って式打ちは、こないだは玄武として走ってたよ」
考え込むいづるをアリスが覗き込んでいると、場内のざわめきが一際烈しくなった。もうすぐレースが始まるのだ。
「そろそろ買わないと」
「うん……アリスは?」
「わたし?」アリスはきょとん、と目を見開いた。
「わたしはいいよ。そんなことする必要ないし」
「そうか」
いづるはさっきの空飛ぶタラコ唇に希望の券を告げ、魂貨を支払った。
分厚い唇から舌が出て、いづるに望まれた式券を差し出した。
赤茶けた土くれのコースに、どこからともなく現れた十二人の陰陽師たちが、肩を並べて立っている……。
(ここからは、アリスが買ってくれた競神シートを参照しながら読むことをおすすめします)
戦争が始まったのかと思った。
いや、それはやはり、ひとつの出来事の末にいくらかの命運が変更されうることを鑑みれば、やはり戦争だったのだろう。
あの世横丁のどこかで、大砲が空高く(果たしてその向こうに宇宙は広がっているんだろうか、と新参者ののっぺらぼうはみな思う)ぶっ放され、そしてその轟音が、競神を始める変わることのない千年前からの合図だった。
スタート地点に一列に並んだ十二人が、いっせいに、右手を右腰にあてがった。
かつて貴族の装束だった狩衣とまさかコンビを組むとは考えてもいなかったであろうホルスターに収められている厚紙から、どの位置からでも望みの札を引き抜ける洗練された指が至高の一枚を抜き取り、メンコのように足元に叩きつけた。客席は喧騒で意味のある音はもう何も聞こえないが、それでもそこから「パシンッ」と景気のいい音がしたように、いづるには思えた。
打ちつけられた札から、渦を巻いた十二種の花びらが、位置について肩を並べた十二人の陰陽師たちを包み込む。
天まで届くかという花びらの柱に、観客一堂そろって「おお……」とどよめいた。
鬼だろうと妖怪だろうと幽霊だろうと、一様にその光景に見とれるばかりだった。
いつまでもその眺めに浸っていたい……そう思えば思うほど、それが崩れ去るときもまた早い。
花弁の柱をブチ破ってその残骸を跳ね散らかして、一頭の馬が飛び出した。それを次々に追い始める後続たち。
そのレースで最初に先頭を切ったのは、『天后』の式神。
駆る法師は、艶やかな黒髪を二つの環にして飾った少女。
ヒミコセカンド。
その式神は、透明だった。
その透けて見える胴体の中にはいくつもの気泡がぶつかり合い、どこへともなく消えているが、轢殺可能な速度で疾走しているため誰の目にも映らなかっただろう。
ヒミコセカンドは、ちら、と一重の目をほんのわずかに後ろに送る。
異形の津波が迫っていた。
普通の馬など一頭もいない。いや、一頭だけいる。紙島詩織の『天一神』だけは、見た目だけは普通の黒馬だ。現在およそ七位。
すぐ後ろに『白虎』の天ヶ原永世の鋼鉄の式神が迫っている。錆ひとつないメタリック・ボディ。式神の赤い機械の目が(本当に工場で生産されたわけでは無論ない)騎手と同じくヒミコのドーナツをぴったり睨みつけて離れない。
ヒミコの『天后』は水の式神。対する二番手『白虎』は金の式神。
『五行相生』の理に従えば、金属は冷たい外気にさらされて夜露を作る。
心なしかヒミコの式神が一回り大きく、また速くなったように思えるのはヒミコの焦りが見せる幻覚だろうか。
ちがう、とヒミコはにやっと笑う。自分はツイてる。
ヒミコはずうっとトップを切れずに頭数程度に扱われてきた。たしかにまだ競神に馳せ参じて日が浅い(それを言うならこのレースに参加しているのは若者ばかりだった。世代交代の時期なのだ)が、実力で劣っているとは思っていない。
なぜなら自分は。
邪馬台国の女王、卑弥呼の生まれ変わりなのだから!
幸せな気持ちでもう一度、自分のリードを(それでもまだ油断はできないけれど)確かめようと振り返る。
『白虎』はいなかった。
かなり後退している。
代わりに水製の尻尾に喰らいつこうとしていたのは、二頭。
『匂陣』の十六夜ワタルは、鬼気迫る表情を浮かべているくせに、こらえきれぬ忍び笑いが端整な顔から漏れていた。
『太常』の『獅子法師』は獅子の仮面をかぶって、おそらくわけのわからぬ咆哮をあげているのだろうがヒミコセカンドには二重の理由から聞こえなかった。
喧騒と絶望。
迫る二頭の属性は同じ土。
土は、水を穢して澱ませる。
『天后』の体内に泥が混じり始めた。途端、がくっと速度が落ち、足元から崩れ始め、防衛呪をより強く唱えても間に合わず――
ヒミコセカンドとその愛式は、巻き上げられる土煙へと消えていった。
ヒミコ脱落――。
『白虎』の天ヶ原が人知れず微笑み、ぎらっとした目を先頭集団へと向ける。
第二コーナーを回る。
トップ・ワードは、『匂陣』――別名を『黄龍』という。
式打は、十六夜ワタル。
その式神は砂から生まれ、砂を落とし、砂として消えるもの。
後続の中で、顔を打つ砂礫が口に入り、ぺっと唾を吐いたものがひとりいた。
土御門光明である。
ヒミコセカンドがはるか彼方へ消え去ったように、競神とはトップを取れば後続が協力して苦手属性を先頭へと送り込む戦術が往々にして取られる。だからといって後だしが有利とは限らない。トップを落としてもすぐに自分が蹴られるとあらばトップを落としにいかない有利属性持ちもいるし、また苦手属性に囲まれてもおのが呪の力ですべてを跳ね除けゴールまで突っ走り抜ける猛者もいる。
今回、ヒミコセカンドに対してこの戦術が取られたのは彼女の防衛呪力が他者よりも低かったから。
つまり、なめられたのである。本人が聞いたら激怒の極みに達するであろう。
しかし、彼女は文句をいうことはない。
競神の根底に根ざすシステムはたったのひとつ。
勝てばよろしい。
それだけだ。
先頭が土属性とあらば追うべきはそれに根を張る木属性の式神と相場は決まっているが、『青龍』のクーロン・ターガァは式群の最後方に位置していた。みな一様に彼にコースを空けて「トップのケツ思い切りかじってこい」と念を送るのだが、彼は済ました顔でサングラスの位置を直したりしている。
もうひとつの木属性『六合』を駆る弓削雅也も同様。
なぜか。
自分たちが土属性を駆逐してトップに立てば、このレース、火属性の『朱雀』賀茂琴法か、『騰蛇』土御門光明のどちらかが勝利を手にすることが確定するからだ。
なぜか。
火を消しうる水属性持ち二人のうちひとり、ヒミコセカンドの『天后』が脱落しているから――。
もはや『火』を食い止めていられるのはその火力から灰を得て加速できうる『土属性』持ちしかいない。
だからクーロン・ターガァは今晩の夕飯をカップラーメンにするか半額弁当にするかのんびり考えているし、弓削雅也は怪我だけはしないようにとちょっと離れたところで遠見の見物を決め込んでいる。
ひとつの属性を削れば削るほど、べつの属性が有利になりうる。
だがそんなこと。
土御門光明には砂漠の砂粒ひとつほども関係なかった。
ぱっつんと一筋にぶち切られた前髪の奥で鋭い眼差しが自分とそれを取り巻く式神の位置状況、複雑にうねり絡み合った陰陽五行の流れを読み取っていく。
ひとつひとつ組み上げられていく思考。勝利への階段。
ちらっ、と土御門光明は自分のやや斜め前で牽制気味に走っている賀茂桔梗とその氷の式神『玄武』を見やった。名前の通り硬そうな式神だ。
(ま、桔梗よ――)と光明は同じ釜の飯を食ったこともある幼馴染に向けて心の中で謝罪する。
(今回はこうするしかなさそうだ。許してくれよ)
そして光明は速度を落とした。
当然、すぐうしろを走っていた式に追い抜かれる。
視叉斗矢奈。
駆る『天空』その属性は、土。
このレースが、記念すべき初の競神だった。
「悪く思うなよっ!」
火炎に包まれた愛式にありったけの呪を叩き込んで防衛呪力をブーストした土御門光明は、ベテラン騎手を抜いてちょっと得意になっていた視叉斗矢奈あやつる『天空』の土くれでできたケツに、手加減なしの体当たりをぶちかました。
「うわぁっ!」
「きゃっ!」
式同士が激突した衝撃で少女陰陽師たちが悲鳴を上げ、そしてひび割れた玄武の氷の鱗にヒビが入り、そこからじわじわと『天空』の土の気が侵入し始めた。
容赦のない速度の低下。
視叉斗矢奈はパニクっていた。鐙から足を踏み外し、身体が大きく傾く。
そこへスピードダウンした賀茂桔梗の『玄武』が突っ込んできたのだから、視叉斗矢奈がラリった笑みを浮かべて戦意喪失したのは無理もない。
もつれあうようにして、二つの式が土煙の中へと消えていく。
「はっはっはっは――」
道を開けるには、こうする方法もあるんだよ。
『騰蛇』土御門光明は、燃え盛る馬体にぴたっとその身を切手のごとく貼りつかせ――弾丸のように突撃を開始した。
炎を鎮める水は、もう枯れている。
第三コーナーを回った。
まず『白虎』が溶けた。
天ヶ原永世は安定した走りを誇り、今回のレースで四番人気を誇っていたが、それでも『水』が消失し均衡の環が破壊された場でいつまでも『騰蛇』の追撃をかわし続けることはできなかった。
屈辱に頬を染め、金属の馬と銀色の狩衣を着た少年が後方へと消えていく。それを光明はもう見もしない。ただひとり漆黒の狩衣をまとう少女、中堅を走る紙島詩織だけが、ロシア帽をちょっと引き上げてその行く末を見守っただけだった。
土御門光明、彼が目指すはトップのみ。
それ以外は、いらない。
『匂陣』十六夜ワタルが不快そうにじりじり熱くなってくる(もっとも本当に燃え移ることはない。式神が放つのは霊的な炎だ。競神においてそれらの特徴は名刺やゼッケンのようなもの)ケツを居心地悪そうに振り、獅子法師は相変わらず誰にともなく吼え狂っている。その声がまた十代半ばであるのが滑稽でもあった。
なにもかもが流れる極彩色の線の集合体にしか見えない馬上で、一瞬、ワタルと光明の視線がかち合った。
(来るか)
(ああ。いくぜ)
(抜けるもんなら抜いてみろ――!)
二番手、獅子法師の『太常』が『騰蛇』に迫られ加速した。
が、その加速をさらに上塗りして、土御門光明が前へ出る。
「わあ――――――――――――――――――――――――っ!」
もはや楽しげでもある叫びをぶちあげて、獅子法師が消えた。
これで決着はサシの勝負。
最後の直線。
果たしてゴールラインにその鼻を先に叩きつけるのは、燃える式『騰蛇』こと土御門光明か、黄金の名残『匂陣』司る王の名を継ぐ十六夜ワタルか。
陰陽五行に従えば、勝負は『匂陣』の勝ちだ。
現にワタルはどんどん加速していき、もはや馬体にしがみついている有様だった。
だが、
そんな条件、
「関係、ねえ―――――――――――――っ!」
火の式が、土の式を、抜いた。
そのとき観客席の誰もがその光景を見て、勝負の決着を悟っただろう。
土御門光明と同じように。
勝った。
そう思った。
ちがった。
蹄の音が、まだ、だぶってる。
ばっと土御門光明は初めて焦りの表情を浮かべて振り返った。
初めて、後方を。
馬の形をした闇が、まるで引き合う磁石のように、『騰蛇』へと接近していた。
紙島詩織のロシア帽の縁から、長い睫と、ぞっとするほど冷たい眼差しが、のぞいていた。
(こんな、ば)
あと数メートルでゴール、その地点でほぼ真横にいた紙島詩織の横顔を見て、光明はひとつに事実に思い至り、その時点で己の敗北を認めた。
こいつ、自分が負けると思ってねえ――――――。
なにもかもが大喧騒のなかへと消えていった。
その中で、誰かが聞いただろうか。
門倉いづるが、男としては華奢すぎる手で、まだあたたかい式券をぐしゃぐしゃに握りつぶした、その音を。
負けを刻んだ、その音を。
一位、紙島詩織。
二位、土御門光明
三位、賀茂琴法
門倉いづるが初めて臨んだ陰陽師のレースは、こうして幕を閉じた。
彼の残された時間、その一日分を犠牲にしたまま。
十章 その男、チンピラにつき
いつ酒をたしなむようになったかというと、これはお神酒を蔵からパクって飲んだことに始まる。たぶん桔梗と一緒だった。まだ髪を腰まで伸ばし、空中を漂う糸くずのような霊子を見ては恐れおののいていたころのことだ。
土御門光明は、安倍晴明の血を引く土御門家に生まれた。次男で、家は兄が継ぐことになっているから自由に育てられた。愛し、愛されることを生まれたときから知っていた。
普通の人間として生きていく道もあったが、光明はそれを捨てた。元々霊感が強すぎるのだ。会社に向かう電車の中で、得意先の人に似てるなと話しかけたら人に化けた鬼だったりしたら面倒だろう。
出くわした異形を、ささっと祓っちまう方が、面倒じゃないことは確かだった。
いま、光明は酒を呑んでいる。
手酌だ。雪女の女将はくだを巻く客を嫌うので、光明はだいぶ前から相手にされていない。が、まあ、許してやろう。
(いつかオレは、こいつらみんな、祓ってやるんだから)
ぶつぶつ言い続ける光明に「はいはいそうだねそうだねあんたはすごいよ未来の大陰陽師だわたしゃあんたに会ったのがツキの切れ目だよはいはいすごいねすごいね」と女将は録音テープのように繰り返しながら鬼たちに酒を注いでやっている。
そうだ、その通りだ。おまえらは最悪の敵に酒を売ってるんだ。
ざまあみやがれ、いつかそのときが来たら、泣き喚いたって許してやんねー。
「ああ、そうだな」
「そうだろ」
「許しちゃおけない。自分を負かしたやつだけは」
「その通り、その通りだ!」
誰だか知らないが握手を交わそう。
そう思って丸椅子を滑らせて横を向いた瞬間、土御門光明は頬に拳を受けて木壁に叩きつけられていた。
「ちょ、ちょっとあんたたち!」と雪女の女将が口から冷気を零しながら叫ぶ。
「悪いね、ちょっとこいつ借りるよ」
門倉いづるは純白の狩衣の胸倉をむんずと掴むと、嵐のように店から去っていった。
人ひとりが通れるほどの幅の裏路地にたむろっていた骸骨に似た精霊たちを足で押しのけ、いづるはズタ袋を放り捨てた。
そのズタ袋は土御門光明という。少女と見まごう顔に酒気を帯び意識を半ば失っているさまは色っぽくさえあった。いづるでなければ自己嫌悪と死後初めてのトラウマを作っていたかもしれない。
のっぺら坊はその白仮面を、同じくらい白い少年の顔に近づけた。
「おい、いつまでも寝ぼけてんなよ」
ふっ、と鼻息だけで光明が笑った。
「なめるなよ。血液ん中はアルコールまみれだが、話ぐらいできるさ」
「だといいがな」
勝手にもってけセルフサービスだとばかりに手足を投げ出し、空中にうつろな視線を送り続けながらも、光明は話を聞く気になったようだった。
「いきなりぶん殴りやがって、口ん中が血の味しかしねえ」
「これが一番面倒じゃないだろ」
「面倒じゃない、か。確かに。でもオレじゃなかったらキレてるとこだぜ」
「そんときゃ俺もキレるだけだ」
「はははっ!」
輝きを取り戻した光明の瞳がいづるを真っ向から捉えた。
「で、なんの用だ。そういやおまえ、さっきスタンドにいたな。賭けてたのか」
「おまえにな」
ふたたび光明の瞳が陰った。
「じゃ、いくらかスッちまったってわけか。てめえの残り時間を?」
「わかるか」
「わかるとも。どうせ飛縁魔のガソリンが空っけつだから足しに来て、役立たずに賭けちまって、トサカに来てるってんだろうがよ。好きなだけ殴りやがれ。オレだって殴られたい気分だ……」
いづるは居心地悪げに身じろぎした。
「ごめんな、そういう趣味はないんだ」
「オレだってない!」
思わず噛み付くように怒鳴っていた。
「ったく……調子狂うぜ。じゃあいったいてめえ何しにきたんだ? オレはまだ呑まなきゃいけねえ酒を残してきてんだぞ、暇じゃないんだ」
「一番忙しいのは俺だよ。とにかく勝たなきゃいけないんだから……」
ははあ、と得心したとばかりに光明が手を打った。
「わかった。おまえオレに八百長しろってんだろ。オレと桔梗が幼馴染って超極秘情報をどっかからゲットしたか? あいにく知らないのは死にたてホヤホヤのおまえさんだけで、そしてさっきのレース展開見りゃあオレがたぶんこれから向こう七十五日は競神出場以外で桔梗に出くわしたら呪詛されちゃうことぐらいわかんだろ」
「ご愁傷さま」
「お互いにな」
「ああ。でも俺の用事はちょっと違うんだ。近いんだけどね」
「どう近いんだ」
「あんたに勝ってもらう……次の競神で」
光明の薄ら笑いが消えていくにつれて、彼の正気もまた戻っていくらしかった。仏頂面で答えるさまは不機嫌そうだが、適当ではない。
「あるとも。がんばって調べたな。そうか、アリス童子のやつか。ふふん、厄介なやつ……」
「いいか……」
いづるは、誰がそばにいるわけでもないのに光明の耳元に顔を寄せた。
「紙島詩織はイカサマをしている」
光明はただ壁を見ている。しかし明確にその気配は鋭さを増していた。
「なんの根拠があってそう思う」
「土御門、おまえも同じ気持ちだろう」
「…………。そう思いたいのは霊峰富士のごとくだがな、無理なんだよ。イカサマだと? どうやったっていうんだ」
「わからん。たとえば、本物のサラブレッドをあの世まで連れてきて参加させたとか……」
ハッ! と馬鹿にしたように光明が肩をすくめた。
「そんなもんに乗ってたらあのボンクラヒミコだって異常に気づくぜ。それに、おまえは本物の競馬を見たことがないからわからんかもしれんが、競神に競馬界のスーパー・サラブレッドが混入したって万に一つも勝ち目なんかねえよ。底のないドラム缶だな。マジ無意味」
「でも、偽装はできるのか?」
光明はしばしの間をためたあと、ゆっくりとうなずいた。
「できる。が、気づかれる。俺たちと同じ陰陽術を使ってる限り、絶対に不正はできない。十二人の二十四の目がお互いを見張ってるわけだからな。もし不正ができたら、そいつは陰陽術を使ってないってことだ。つまり、シロ」
「そうか……わかった」
顔を隠しているにも関わらず、いづるが少々へこんでいるのが光明にはわかった。
だから、ちょっとした気まぐれだったのだろう。
背を向けて立ち去りかけるのっぺら坊に、知りたくもないのに、引き止めるようにしてこう言った。
「ところで、おい、いま何時だ。おまえの時計もまだ狂っちゃいないだろ」
「いま……」
いづるは自分の腕時計を見た後、答える代わりにこう言った。
「土御門。俺とおまえは、最初に思ってたときよりは相性がいいらしいぜ」
「……あ?」
「もう少し聞かせてくれ。競神はなんのために行われる? なぜおまえらは走るんだ?」
「おまえ……どうかしたのか」
「答えてくれ」
光明は怪訝そうに口をすぼめたが、答えてくれた。
「競神は勝てば現世の金がスポンサーから支払われる。それ目当てで走ってるやつもいる。俺は式神の修行として利用してるだけだがな」
「負ければ呑んだくれるほどに?」
ぷいっと光明は顔をそむけた。どことなく子どもっぽい。
「オレは、熱心なんだ」
「わかったよ、機嫌悪くするな、続けてほしい」
「ふん。……ま、中には伝説を信じてるやつもいるかもな」
「伝説」
いづるは聞き返した。
「ああ。いつか極上の式と術を身につけたものは、神様から贈り物があるんだとさ。馬鹿な話だぜ。千年前からそんな事実はないのによ」
「たとえば」
「うん?」と光明は聞き返した。いづるは一言一言噛み砕くようにして喋った。
「たとえば、死者を蘇生する方法とかも、贈られるのか?」
「ああ……反魂の術か。あるんじゃねえの。もう失われた秘術だが……なんだ、おまえ、生き返りたいのか」
「そんなことより、おい、土御門」
「あんだよ」
「勝てるかもしれないぜ、俺たち」
「だから、どうやって」
「俺はあんたらの陰陽術だの式神だのには詳しくない。だから、俺はアイディアだけおまえに託す。そこから先はあんたに任せる。全身全霊で紙島詩織のイカサマを見抜いて、そして、勝ってくれ」
「だから、どうして紙島がイカサマをしてるってわかんだよ。実力かもしれないぜ」
「あいつは、絶対に負けないって知ってる顔してた」
「――――」
「そんなやつに、勝負をする資格はない。そして俺は、負けないと思ってるやつを叩き潰すのが、好きなんだ」
「ふうん」
光明は立ち上がり、狩衣についた汚れをぱんぱんと払った。
そしてかりそめの顔を見つめて、にっと笑った。
「オレもだ」
十一章 シジマにて
子どもの頃、見たアニメでは主人公が寝ぼけて目覚まし時計をぶっ壊していた。
で、起こしにきた幼馴染に「もう! これで何個目!?」なんて言われて叱られてしょんぼり正座させられているのがお決まりだった。
だから、そうするんだと思った。そういうのが常識なんだと錯覚した。
だって、そうしないと、仲間はずれにされたりするんじゃないかと思ったから。
カーテンの隙間から、一条の光線がベッドにかかっている。
紙島詩織はその光条を顔に斜めに浴びながら、右手で枕のまわりをまさぐった。春の朝はまだ寒い。冷たいシーツのなめらかな平面を指が滑った。
そろそろと床を見る。
飛び散ったバネに外れた文字盤。長針はひしゃげて怯えたように詩織に向かって首を垂れている。さぞかし最寄のデパートで詩織の手に収まったときは恐怖だったろう。もう何体もの同僚たちが詩織の餌食となって大破した噂は、きっと情報通の機械の精霊たちが逐一伝えていたことだろう、週一ペースの処刑のさまを。
詩織はかけ布団を足で押しのけ、ぐったりと横たわったまま、カーテンを開けた。光が炸裂し殺風景な部屋を照らし出す。スチールのベッド、スチールの机、スチールのラック。まるで囚人部屋だ。年頃の女の子らしいぬいぐるみも、カーペットも、ポスターもない。ベッドの反対側に鎮座するプラスチックケースに収まりきらなかった上着の類がいくらかハンガーで吊るしてある。今時珍しい日めくりカレンダーは、いまは制服に隠されて日付を秘匿している。
「やっちゃった……」
紙島詩織は、五千円以上の目覚まし時計でなければ起床しない。
金のかかる耳を持ったことを後悔しながら、詩織は軽く足を振り上げ、それを下ろす反動で跳ね起きた。電子たちの悪戯によるものか、静電気を帯びた髪はあちこちにほつれて宿主から逃げたがっているようだ。詩織はぞんざいに手を突っ込んでぐしゃぐしゃとかき回してから何度か手櫛で撫でつける。反乱は沈静化した。
「おおう」
低い唸りをあげて詩織はのそのそとベッドから降り、戦死した目覚ましのゴミを手でかき集めた。
フローリングの床に正座し、残骸たちの下にティッシュを三枚ほど敷いて、目を閉じる。
端から見ればこれから詩織が目覚ましに「おまえなんで投げたぐらいですぐ壊れんの?」と説教を始めるように見えたかもしれない。
言葉を投げかける、という点においてはその通りだったのだが。
詩織はぶつぶつと口の中で誰にも聞き取れない音の連なりを囁き、二本指を立てた刀印を目覚ましに向かって切った。
「――オン」
目覚ましは、相変わらず申し訳なさそうにぶっ壊れたままだった。
本来ならば詩織を恨んでしかるべき立場であろうに、己の強度の方を嘆くとは天晴れなやつである。
「だめか……」
無理とわかればとっとと目覚ましをゴミ箱に流し込み、詩織は制服に着替え始めた。
桜縁高校の真っ黒な制服は喪服に似ていると詩織はいつも思う。
ネクタイを結び(なぜか女子でもネクタイを締める校則だった。創立者の趣味だという伝説があり、一部の男子から崇拝されている)、プラスチックケースのタンスを開ける。なかにはぎっしりと手編みの帽子が詰まっている。すべて、詩織の祖母が生前編んで詩織のために贈ってくれたものだ。黒い帽子を取り出し、ウェーブ気味の栗毛にかぶせる。夏でもかぶる。
紙島詩織の朝食は素っ気ない。彼女は毎朝自室を出て物音ひとつしない我が家を闊歩し、リビングでパンを二枚ほど焼く。テレビをつけ、牛乳をガラスコップになみなみと注ぐ。
そして冷蔵庫に牛乳パックを仕舞ったところで、
「ワン!」
と、彼女は挨拶を受ける。
「おはよう、ヴィヴィ」
詩織は足元に屈みこんで、詩織がいとおしげに撫でているのはスチールでできた耳と頭。
ロボット犬はハッハッハッと荒い息遣いで詩織にまとわりつくが、その口内の舌は飾りで、詩織をなめることはない。突き出た鼻から額にいたっては空き缶のようだ。
それでも朝から仏頂面を貫き通してきた詩織の顔には柔らかな笑顔が浮かんでいるのは、まぎれもなくこのヴィヴィの功労である。
チン、とワイキキビーチでちょっと日焼けしてきましたみたいな顔してトースターから飛び出したパンを引っつかみ、ソファに座ってかじりながら、ミルクでそれを流し込む。まるでダイエットしているような質素な朝食だが、これはあくまで詩織の趣味嗜好によるものだ、と本人は周囲に公言している。
液晶テレビが結んだカラフルな映像として、いまはニュースキャスターが映し出されている。人工知能開発に政府が援助を決定、年内にも完全AI制御の自動車の試作型が完成予定、スポーツ選手が賭博麻雀で摘発され、交通事故で高校生を即死させたトラックの運転手は無実を主張、詩織がパンをかじり終えると死んだ高校生が通っていた学校がパッと映し出された。
詩織のブラウンがかった瞳に、母校の校舎が映った。
画面が切り替わり、インタビュアーがマイクを制服の胸あたりに向けている。
「事件のことを耳にしたとき、どう思いましたか?」
同級生のAくんとテロップが流れる。
誰だろこいつ、と詩織は思いさえしなかった。
「どうって、そりゃショックでしたよ。おんなじ高校だったわけだし」
「死亡した……」インタビュアーがチラっと視線をカメラの背後へと送った。まさかこの期に及んでカンペを見たのだろうか。
「門倉くんとは、お友達だった?」
詩織は牛乳を飲んだ。
ヴィヴィがテレビと詩織を交互に見やっている。
「いや、あいつ、特別暗いってわけでもないけど明るくもなかったし、あんま付き合いはなかったですよ」
「そうですか」
また画面が変わる。今度は女子の胸に突きつけられるマイク。
「わたっ……わたしこん、なことになっ、て、も、もっとはな、し、し、し、しておけばよかっ、た、って」
号泣する同級生のCさんにインタビュアーがしかつめらしい顔で頷いている。いい絵が取れた、と自分の仕事に満足を覚えているのかもしれない。
だが詩織には断言できる。
こいつは、ついこないだまで門倉いづるのフルネームなんて知りもしなかったはずだ。
「あいつに友達なんか、もう、いるわけないもの」
テレビを消し、詩織はあらかじめ用意してあったスポーツバッグを肩にかけ、首だけで背後を振り返った。
「じゃ、いってくるね、ヴィヴィ」
いつもならそこで尻尾をメトロノームみたいに振るだけのヴィヴィが、なぜか今日は足にまとわりついて離れない。機械だからとぞんざいにもできない詩織が困っていると、ふと机の銀メッキに自分の顔が長く伸びて映っているのが見えた。
まぬけな白ひげ。
詩織はぷっと吹き出してしゃがみ込み、ぎゅうっとヴィヴィを抱きしめた。
「キミは本当に賢いね、ヴィヴィ?」
ロボット犬はわんわんと得意気に吠えた。
紙島詩織の母親は、よく言えばかいがいしい主婦で、きつく見れば神経質な女だった。
まるで姑になるために生まれてきたような性格で、細かいことにとにかく執着する。部屋はいつだって埃ひとつないようにしたし、料理の献立は毎日変わる。その反面、詩織が麦茶をひっくり返しただけで娘を張り倒し、出先で早く帰りたいとぐずれば詩織が泣き止むまで怒鳴りつけた。
こういったトラブルの果てに幼い詩織が辿り着くのはいつでも、庭の隅にある蔵のなかだった。
塗りこめたような闇のなかに放り込まれた詩織は、父を呼んでも、母を請うても、なんの返事も戻ってこないので、ついには叫ぶことをやめてしまった。子ども心に、「谷底に向かって叫んでいるようなものだ」と思ったことを覚えている。
埃っぽい蔵のなかで、できることは身動きひとつせず足を抱えて額を組んだ腕に乗せることだけ。ほかにはなにもなかった。
初めて紙島詩織が怪奇現象に遭遇したのは、四歳のときだった。
母親に夏祭りに連れて行ってもらった日の晩だった。その日は朝から母親はいつになく優しく、詩織に浴衣を着せてくれ、どちらが楽しみにしているのやらわからない有様だった。顔中を輝かせ、二人は手を繋いで神社へと向かった。
楽しかった、と詩織は思う。ただ、自分は、母の描いた夢に傷をつけてしまう程度の器量しか持っていなかった。それだけのことだ。
誰が悪いことでもない。
金魚すくいで、一匹もすくえなかった詩織は腕を母親に乱暴に掴まれ、そのまま蔵へと連行された。
意味がわからなかった。
ああこいつ頭おかしいんだ、と他人に対して感じたのもそれが初めての経験だった。
もう泣くことにさえ飽きていた詩織は、ルーチンワークのように、次の日の朝をより疲れてない状態で迎えるためにとっとといつもの姿勢をとって羊を数え始めた。寝てしまうのが一番手っ取り早い。凍死しそうな季節以外は。
羊が四千匹を超えたあたりだったろう。詩織は伏せていた顔をあげた。
誰かが、闇のなかで笑っていた。
くすくす、くすくすと。
それは抱えた自分の膝の裏や、耳のすぐうしろから聞こえてきた。
怖くはなかった。
もういっそ殺してくれればいい、ぐらいに思っていた。
が、その気配はただ自分にまとわりついているだけで、触れてきたりもしなければ喋りもしなかった。
ただクスクス笑い続ける。
気が触れた自分が笑っているのかもしれないと思い何度も口に手をやったが、薄いくちびるはしっかりとふさがれたままだった。
このことは、祖母に打ち明けるまで、誰にも詩織は話さなかった。
小学校にあがって、自分のお小遣いをもらえるようになると、詩織は時々祖母の家に逃げ込んだ。祖母はたったひとりでやってきた詩織のことを「ひとりで電車に乗れるなんて、詩織ちゃんは偉い子だねえ」と褒めた。
どうして両親と来ないのかは聞かなかった。
その代わりに、詩織の口から溢れ返る恨みつらみの呪詛を、黙って聞いていてくれた。
祖母は、ひどい言葉を胸に秘めたままにするよりも、いったん吐き出させてしまった方が心の澱みが浄化されるということを知っていたのだろう。
詩織のなかにはそれをなす罪悪感がきちんと宿っていると、信じてくれていたのだろう。
だから祖母の家は詩織にとっては懺悔の場でもあった。
「詩織を見ているとねえ、おばあちゃん、なつかしくなるんだよ」
詩織が思っていたように、祖母もまた孫娘が自分とよく似ていることを感じていたのかもしれない。
だから祖母は、中学にあがった紙島詩織に、実の娘には授けなかった遺産を託して、この世を去った。
自分の娘にさえ授けなかったものを、詩織にだけ――。
病院の白いシーツの上で、やせ衰えた祖母は詩織にこういい残した。
「明るい道を歩けないものたちのことを、おまえがちゃんと見届けてあげなさい」
でも、おばあちゃん、そう詩織が言いかけたときにはもう、祖母は黄泉へと旅立っていた。
安らかな死に顔を見ながら、冷たくなっていく手を握って、詩織は懐かしくなるほど久々に、泣いた。
――それって私も、明るい道を歩けないってことなの?
答えてくれる師はもういない。死者蘇生は習わなかった。
陰陽師、紙島恭子の血は、こうして詩織へと受け継がれた。
ちなみに、詩織を長く苦しめ続けた蔵は、小学校の卒業式の日に、詩織の「仕置き部屋」の存在をたまたま知った首藤星彦がぶち壊してそれっきりになっている。詩織のために動いてくれたといえる人間は、いままで首藤と祖母の二人きりだ。
破壊された蔵の後を追うように死んだ母のことを思うと、あの蔵にはなにか因縁があるとしか紙島詩織には思えない。
肩にかかったスリングを背負いなおす。それほど重みはないが振り回せば痴漢ぐらいなら撃退できるだろう。
詩織は眼前の坂を見上げた。桜縁の生徒が毎朝えっちらおっちら登っている地獄坂だ。
あの世への道はいくつかある。詩織の知っている中では、このルートが一番目立たない道筋だった。
辺りを見回す。日曜なので人気はない。
詩織は、脇にある公園へと入っていった。砂場と水のみ場と滑り台。それにいくつかベンチがあるだけの質素な公園だ。
ホームレスなどが寝転んでいないことを確認してから、植え込みの中へと入る。スポーツバッグを下ろし、ファスナーを開ける。なかには、黒い狩衣をはじめとした陰陽師の正装が詰まっていた。
心の中の自分が問いかけてくる。
――なにもこんなところで着替えなくたって、家から着てくればいいじゃない?
あまりにも私服がないので休日も着用している制服の上着を脱ぎながら、詩織は答える。
――それでクラスメイトに見られて私は次の日からゲタ箱にお札貼られちゃうってわけね。「風水的にはこの位置がいいらしいよ!」とか言われて机を窓から投げ捨てられるわけね?
毎度繰り返される心の押し問答。詩織はスカートの縁に手をやった。そして、
――でもさ、公園にはトイレってものもあるじゃない? なにも植え込みの中で、
――あんなくさいところに入ったらにおいがついちゃう。この狩衣はおばあちゃんのお手製だし、制服だって一着しかないんだよ? そんなものをアンモニア臭で彩ろうなんてバカなんじゃないの?
――あの、私はキミの心の声なんだけど……。
ふん、と一息吐いて、自分の弱さを吹き飛ばし、詩織は立ち上がった。制服の入ったバッグを担ぎなおす。
真っ黒い狩衣に手甲まで身につけたいまの自分は、演劇部の役者かコスプレイヤーにしか見えないだろう。
それでも、競神にはなるべく狩衣で出場したかった。
原則として狩衣が望ましいとされているだけで、競神にはどんな格好で臨んでも構わない。クーロン・ターガァ(マフィアのボスという噂があるが、真実でなければただのごろつき)などはスーツにサングラスをかけていたりする。全員に共通しているのは乗馬ブーツぐらいだろう。
それでも、少しでも確率が上がるのなら、いくらでも詩織は媚びを売るし、白い手を黒にも赤にも染めてみせる。
帽子をつまんでズレを直して、陰陽師は坂を登り始めた。
顔を伏せ、呪文を唱えながら、誰にも見られていないことを祈って。
坂を登り終え、詩織はあの世横丁の通りへと出た。
振り返ってもそこには桜縁高校へといたる地獄坂は広がってはいない。
ただどこまでもでこぼこした自然の道が続いているだけだ。
「よう、イカした帽子のルーキー!」
端から血を流し込んだように赤く染まった道を妖怪たちとすれ違っていくと、脇から声をかけられた。
詩織は帽子の位置を直しながら振り向く。
予想通り、『粗野』と『がさつ』を擬人化させたような鬼たちが木のテーブルに座って杯を交し合っていた。
額から伸びた角まで赤い。泥酔だ。
テーブルの向こう、店内から薄紫の着物の小豆婆が「うちは軽食屋で居酒屋じゃないんだよ」と顔を板で殴られたようにさせていたが、鬼たちはどこ吹く風で杯をあおっている。鬼たちは、あの世横丁のならずもので、ひとたび揉め事が起こればだいたい彼らが絡んでいる。
詩織はそのまま立ち去ろうとした。
「ぷはあっ」
頬をうっすら桃色にさせた青鬼が手を振ってくる。
「こないだはありがとうよう! おかげで土御門に賭けてた連中は揃いも揃ってオケラのスッポンポンよ!」
口々に鬼たちが合いの手を入れる。
その中には一つ目小僧の学ラン姿も見えた。
「ハハハ、何が鉄板レースだ、狒々のやつめ!」
「あの猿顔消えちまったかもなあ。屁みてえなやつだったからな、屁みてえに消えるのがお似合いよ!」
「へっ、バカ猿にオカマ野郎なんか目じゃねえぜ! こっちにゃ女神がついてるんだからな、おいシジマ! 次も頼むぜェ……って、うおっなにしやが」
酒瓶が割れる音、小豆婆がとうとう癇癪を起こして店中の皿を奇声と共にぶん投げ始めた気配、おそらく狒々か土御門光明のどちらかがやってきて鬼たち相手に大立ち回りを演じ始めたのだろうが、雑踏に飲み込まれてどんどん離れていく詩織には関係のないことだった。
妖怪どもは総じてなれなれしいものが多い。
どうしてそんなに人間が好きなのか……特に、人間の成れの果てよりも自然から生まれ出てきたタイプのやつらのほうがその傾向は顕著だ。
文明というものを知らないから野生的で粗野でアメリカ人みたいに遠慮なく本音をぶつけてくる。
詩織には、それがかなり、きつい。
自分の本音を隠して、それを察してもらって距離を取って生きていくのが人間のやり方なのに。
ここではそれが通用しない。
だから、紙島詩織は、妖怪が苦手だ。
でも、それもきっともうすぐ終わるだろう。
目的が完了すれば、もうこんなあの世で鬼たちに野次を飛ばされることもない。
(そう、競神で、泰山府君に認められさえすれば――)
至高の陰陽師の願いを、たったひとつだけ叶えてくれる泰山府君。
それは陰陽道における最高神。
いったい何人のオカルト・ジョッキーたちがそんな迷信を抱えているだろう。泰山府君がかつて誰か一人でもその願いを叶えたという記録は残っていない。
それでも、ほんの少しでも可能性があるのなら。
紙島詩織は、迷わない。
けれど、時々、ぐらつきそうになることもある。
だから――
三つ目三つ足の鴉が、夕焼けの空を鋭く切り取っていた。
アリスは、賽銭箱の上に腰かけてそれをつまらなそうに見上げている。鴉たちはアリスの頭上を楕円に旋回飛行しながら、その嘴を引きつったように歪ませ、致命的な化学変化が起きてしまったような色の眼球を嘲りに染めている。アリスは境内から適当な石ころを見繕って空に向かってぶん投げた。けけけけけと耳障りに鳴き散らかして、三羽鴉はその姿が小さな点になるほど遠くへ去っていった。
アリスは、誰にも見られていないことを確かめてからぺっと境内につばを吐いて、賽銭箱に小さな負荷をかける役目に戻った。
その青い瞳は鳥居の先に、人影が映ることを待ち続けている。
門倉いづるはまだ、帰ってこない。
あのときから、ずっと。護身用の匕首だけ携えて。
残していった言葉は、待っていろ、の一言だけ。
何様なんだろう。
アリスは草履を空っぽの賽銭箱に強く打ちつけた。虚しい空洞を打ったときの間の抜けた音が鳴る。
もしかしたら、もうとっくにつまらない場末のギャンブルで負けて門倉いづるは彗星のように消えてしまったのかもしれない。
期待させておいてそれはないだろう、とも思うが、まあそんなところだろう。
暇つぶしの物語の種子としては、上々のできばえだったといえなくもない。
そう思おう。
そろそろ飛縁魔も雑念のノイズへと還るころだろう。
最期ぐらい看取ってやるのも悪くない。
戸を開けて中に入る。
想像していなかったわけじゃなかったが、それでもアリスは立ち尽くした。
「なにしてんの」
「見りゃわかんだろ、支度だよ」
飛縁魔が床から起き上がっていた。てきぱきと戦装束を慣れた手つきで身につけていく。
その顔色は蒼白だった。跳ね気味の髪もいまは主に付き添って意気消沈している。
「きっとあと数刻もないよ。きみは消える」
「その前に、あのバカがガソリンを用意してくれるさ」
アリスは大人びた表情で、薄く笑った。
「そううまくいくかな。無理したってしかたない。ここで眠っていればラクなのに」
「そう思うか」
「うん」
飛縁魔はいきなりアリスの頭を鷲づかみにすると、ぐしゃぐしゃっと髪をかき回した。慌ててアリスが手甲に覆われた腕に組みついて剥がそうとするが飛縁魔はにやにやしたままアリスの枝毛を増やしていく。
「や――め――て――!」
「うっせえこのがきんちょ。なまいきなんだよ」
やっと手を離したとき、飛縁魔は肩で息をしていた。もうじゃれつく元気も残ってはいないのだ。
一生懸命手櫛で髪を整えているアリスの頭を最後にぽんと叩いて、飛縁魔は久しぶりの外の空気を吸った。精錬ななにかが、自分の中を満たしていく。
いい天気だ。
「待ってろだって? なめんじゃねーっての。こっちから、取立てにいってやる」
ふらつく一歩を、飛縁魔はなんとか踏み出した。
目玉焼きの押し売りを断って(だって丸い)詩織は横丁をジグザグに進む。
牛頭天王の屋敷は、もう門番に守られてさえいなかった。
枯れ果てた庭へ乗馬ブーツを履いた足を踏み込ませると、枯葉がかしゃりかしゃりと小気味いい音を立てる。
縁側は障子がすべて開け放たれ、ささくれ立った畳がさらされている。新しい主がどこかからガラクタを拾ってきては彼にしかわからない無秩序さで配置するので、いつ見ても泥棒が入ったようにしか見えない。ミラーボールが夕焼けを反射して周囲に光の粒子を振り撒いている。
人も鬼もいない広すぎる庭の隅に、まるで親に叱られた子どものようにしゃがみ込んでいたのが牛頭天王その姿だと気づいて、詩織ははたっと立ち止まった。
「牛頭天王?」
黒牛のかしらは振り返ることなく答えた。
「おお、シジマか」
「なにしてんの?」
二メートル超の牛頭天王の背中から覗き込むことはできなかったので、迂回して彼の身体で隠されていたものを見る。
焼け焦げた土に、小さな苗木が植えられていた。
「うん、俺が荒らしちまったからさ。桜の木ぐらい植えとけば、ちっとぐらいはこの庭の彩りになるかと思ってね」
「ふうん――意外とマメなの?」
「ら、しいな。わからないけど」
詩織は巨体のそばにかがんで、苗木の葉を指先でちょんちょんと突いた。その眼は苗の根よりも深いところを見つめている。
「そうだね、桜、好きだったもんね……」
「誰が?」
牛頭天王から戻ってきた当然の質問に、詩織は一拍だけ沈黙することを自分に許した。
「まだ記憶、戻らないんだ」
「ああ」たいして気にした様子もなく牛頭天王は答えた。
「三途の川辺であんたに助けてもらう前のことはほとんど覚えてない――どうして、正気を失って暴れまわったのかももな」
黒牛の男は大きな角に半円を描かせて、かつてあの世の大王が住んでいた屋敷を見やった。
「おかげで住む家は手に入ったけど」
「どうして、その――『発狂』したのかも思い出せない?」
「ああ――たぶん、おれの本質が狂ってるんだろうな。自分の行動ってやつに自信とか筋道がほとんどない。穏やかかと思うと急に荒れ狂う――海みたいにな」
海なんて見たことないくせに、と詩織は呟いた。
「あんたのおかげで」と牛頭天王は続けた。
「魂稼ぐのは困らないよ。そのことには感謝してる。俺はここでこうしていることになんの不自由も感じていないのは確かだ」
「じゃあ、それでいいじゃない」
「いいと思うよな。俺だってそう思う。でもダメなんだよ。時間が重い」
詩織はいい加減ちょっとうんざりしてきて、帽子をぐいっと目深に被りなおした。
「重力が大きければ時間の流れが遅くなるって、聞いたことあるけど」
「そういうことじゃないんだ。なんていうのか……時間があればあるほど、何したらいいのかわかんなくて、そのくせ何もしなかったら時間はなくなっていくし、とにかく重いんだよ。誰も時間からは逃げられない。使うにしろ、ほっとくにしろ。いつかなくなるってことだけ決まってる」
ああ、と深い息が黒牛の鼻から漏れる。
「やりたいことが見つからなくて、なにをしても満たされない。だから、俺は明日が来るのが怖い……この間の二人だったら、きっと、こんな気持ちとは無縁なんだろうなぁ……」
そういう牛頭天王の横顔は、牛のものではあったが、どこか哀愁と罪悪感に満ち満ちているように詩織には見えた。
それを見続けることに耐え切れず、詩織は立ち上がった。
「キミはそんなこと考えなくていい」
「え?」
「もうすぐ私が、キミを幸せにしてあげる」
呆然としている牛頭天王をそのままに、詩織は出て行った。
ぽっかりと、道のど真ん中にマンホールが開いている。瓦礫のスタジアムから徒歩で五分ほど歩いた背の高いバラックの裏路地に詩織はいた。
陰陽師たちはみな、この穴からスタジアムへと入場する。本物の競馬と違って馬を搬入する必要はないのがラクだ。陰陽師が駆る馬は、式札となって腰のホルスターに収まっているのだから。
詩織が口の中で何事か早口に呟くと、マンホールのフタが音もなく持ち上がった。詩織は闇のなかへと降りていく。皿を数えるような音とともに梯子を下り終え、下水道へと降り立った。眼を開けていても閉じていても変わらないので、詩織は慣れた手つきで腰の札入れから百合の花と火の鳥が描かれた一枚抜き取り、虚空に叩きつけた。
ぱっと札が輝き、百合の花が水泡のようにどこからともなく湧き零れた――かと思うと次の瞬間には、火の鳥が宙を羽ばたき、下水道のぬめった壁が光にさらされた。
式札、『百合に火ノ鳥』――。
詩織が歩き始めると、火の鳥が主人の意ならいつでも察してみせるとばかりに先導し始めた。
が、その向かう方角はスタジアムとは反対方向だ。
蜘蛛の巣のように無軌道に入り組んだ地下道を、詩織は縫うように進んでいく。その足取りには迷いがなく、この忘れ去られた道に馴染みがあることをうかがわせる。
やがて、詩織は通路全体を塞ぐ鉄柵にぶち当たった。行き止まりだ。火の鳥がやや高度で忙しそうに羽ばたいて滞空する。
柵の手前に、カバーをかけられた『なにか』があった。
詩織は冷めた目つきでそれを見やり、そのカバーを一気に外して――
「きゃああああああああああ――――――――――!」
甲高い悲鳴が、地下道を乱反射してその隅々まで響き渡った。
詩織はしりもちをついて、くちびるをわななかせている。火の鳥が敵愾心をむき出しにしてさえずり、詩織の前で炎の嘴から細い火を吐いている。
「――いきなり悲鳴ってなァひどいんじゃないか? 痴漢じゃないぞ」
カバーを引き払ったあとに現れたのは、飾りッ気のない、ところどころ引っかいたような傷が目立つオートバイ。
そのシートに、身を張り付かせるようにして、パーカーの上に制服を着崩した、のっぺら坊が乗っていた。
ごくっと生唾を飲み込む。
詩織は驚愕の眼差しで、そいつを見た。
「か、門倉くん……?」
「おお、わかってくれるとは思ってなかった」
門倉いづるは、きっと白い仮面の奥で笑っていたろう。
火の鳥がどうしていいのかわからずに、ぶんぶんと二人の間を八の字に飛び回っていた。
詩織は壁に手をついて立ち上がり、ゆらめく炎の灯りを頬に受けてそれこそ幽鬼のような顔をしていた。
「どうして……キミが……」
「いろいろあってね。ていうかそのセリフは俺が言いたいぞ」
いづるはオートバイのハンドルをひと撫でし、シートから降りた。
「ちょっと急ぎで大量の魂が必要なんだ。で、親切な妖怪に競神のことを教えてもらったんだよ」
そのとき、詩織の目がハンドルを握るいづるの手を見た。
「……門倉くん、その手……まさか」
「ああ」のっぺらぼ坊は含み笑いを仮面の奥でもらす。
「自分のを賭けた」
「そんなことしたら、キミは……」
詩織の唇がわなないた。
「キミ、私の名前、わかる……?」
いづるは答えなかった。
「成仏する前に……七日経つ前に、自分を魂貨として使ってしまったら、それは自分が消えるのを早める――記憶を失うし、もしヘタを打てば」
「鬼になる、とか?」
詩織は唇をわななかせている。
「怖くないの……自分が消えていくのを『早回し』で味わうことが……」
「いまの俺には時間も選択肢もないんでね。よもやま話は今度にしとこう。シ……ジミ」
「シジマ……」
「そう、シジマ。単刀直入に言おう。おまえ、イカサマしてるだろ?」
「は?」
「すっとぼけんなよ、時間がねえったらねえんだ。おまえはこないだのレースで、土御門を後半一気にまくったな」
いづるは白い面を手の平で撫でた。
「玄人たちの間じゃあ、おまえの枠『天一神』は五行の影響を一切受けないから、ノリにノッてた土御門を追い抜けたんだって話だったが、そんな都合よくコトが済むなら誰も金をスッたりしねえんだ」
詩織は黙したまま、不審そうにいづるを見ている。
「俺は土御門に賭けてた……俺の読みに狂いはなかった。だから、間違ってたのはおまえの方なんだよ、シジミ」
シジマね、と詩織は訂正してから、ふるふると首を振った。
「キミの言ってることは負けた腹いせの言いがかりにしか思えない……そっか、わかった。土御門の差し金だね。あいつになにかそそのかされたんでしょ」
「逆に聞くが、おまえの『とっておき』があの土御門の猿頭に解けると思うか?」
答えはない。
「だが、おまえの読みも悪くはない。土御門にはいろいろ陰陽師ってやつについて詳しく教えてもらったからな。五行だの陰陽だの呪詛だの式神だの……最初はな、おまえが現実のウマかなんかを連れ込んで、それを式神に偽装して走らせてんだと思ったよ」
「できないって言われたでしょ」
「ああ。すぐにバレるってな。母親に嘘をつくのと同じくらいの難易度で……だが、おまえは嘘をつくやり方を発見した。――裏ルートを」
「…………」
詩織は帽子をぐいっと目深に直した。
「つまり、他の陰陽師とはまったく違ったやり方で偽装の呪いをかけたとしたら――」
「ところで、門倉くんは機械にも心があると思う?」
唐突な切り返しに、いづるの饒舌ぴたッと止まった。
火の鳥から発せられるオレンジ色のうねりを頬に受け、詩織はふっと笑った。炎の光を受ける壁面に、ひとり分の影が天井まで伸びている。
「私、犬飼ってるんだ。ロボットの犬。名前はヴィヴィっていうの。AIが搭載されてて、ちゃんとしつければ言うことを聞くようになるし、逆にほっといたらトコトンわがままになってく。ホントに生きてるみたいに――」
我が家で待つ『家族』のことを思い出したのか、詩織の双眸が優しげに緩む。
「首藤が死んで、私はどうしてもあいつを生き返らせなきゃならないって思った」
語尾がトンネルの闇のなかへ反響しながら消えていく。
とても静かだ。
「でも『反魂の術』はとっくの昔に喪失してしまっていた……」
「だから、競神に眼をつけたんだな。なんでも叶えてくれるとかいう『泰山府君』とやらを夢見て……」
「そうだよ」
もう疲れた、とばかりに詩織は壁に背を預けた。天井を見上げる。
「でも、とても首藤の魂が消えてしまう七日間のうちに、競神に出る式を作って、泰山府君に気に入られるようなとんでもない勝負をやりおおせて、なんて時間も実力もなかった。
だから、最初に私は、時間を作った」
「首藤を鬼に作り変えた」
「鬼にした、っていっても、時間がかかってね、ちゃんと形になってくれるまで五ヶ月もかかった……しかもその出来栄えはお世辞にもいいとは言えなかった。
鬼が完成するまでの間に、私は、競神で誰にも負けない方法を考え出すことに執着した。寝る間も惜しんで、昔の文献を漁って……でもダメ。どうあがいたって、私は『トップ』にはなれない。この世にもあの世にも私よりも上手く式を打てる人が星の数ほどいた。
もう諦めようと思ったときに、そう、まるで神様が私の頭の中に直接吹き込んでくれたみたいに、ひとつのアイディアが浮かんだ……。
陰陽五行は、生きていく上で必要不可欠な要素から鳴る。
木、火、土、金、水。
なら、『生きていく上で必要不可欠であるもの』ならば、『新しい属性として陰陽道に組み込める』んじゃないの?
そう、思った」
「当ててやるよ」
いづるの声は楽しそうだった。
「電気――じゃないか?」
そこにいづるがいないように、詩織は自分の年代記を語り続ける。
「しかつめらしく先祖代々の教えを守ってるだけの箱入り陰陽師には、私の新型は解明できない。千年前に、電気を操って生きていくなんて考えはなかった。ましてやそこから、生命が産まれるなんてこともね。この空の上で見ていてくれてる泰山府君だってきっと気に入ってくれる」
詩織はとろけるような笑顔をいづるに向けた。
「キミでよかったよ、門倉くん。秘密がバレたのが、キミで。なにもできない、無力で、儚い、消えていくだけの顔のないキミで……」
ゆらり、と詩織の影が揺れた。
その眼には剣呑な光が宿っている。
「私がラクにしてあげる。痛いのは、きっとすぐに終わるよ」
そういって腰の札入れに手を携え、一触即発の気配が地下のくすんだ空気を奮わせた。
いづるは詩織の手元を見ずに、まっすぐにその眼を捉えている。
「どうやら俺が『別属性の存在』に気づいたところで終わってると勘違いしてるみたいだな?」
ぴく、と詩織の手が震えた。
「なんだって?」
「得意気に研究成果を発表してくれてありがとう。すごくタメになったぜ。この俺の読みが肝心要のこの土壇場で外れたりしてねーってわかったからな」
凍ったように動かない詩織の横をいづるは通り過ぎた。
「土御門にはもう伝えてある。おまえの『とっておき』を赤裸々にな。
そのオートバイに……首藤のオートバイに魔法をかけて、せいぜいがんばれよ、シジマ」
「…………」
背中合わせのまま、二人は張り付いたように動かない。
「それとな、シジマ」
「なに」
「俺は消えない」
足音は、灯りの届かないつるりとした闇の奥まで反響し――やがて消えた。
醸造された湿気ただよう地下通路はやがて上り坂へと転じ、その先には四角く切り取られた夕空が、サイコロサイズで転がっている。
すぐ隣では十二本の別の通路を、凄腕の陰陽師たちが詩織と同じように登っているのだろう。実力では自分を遥かに引き離している連中。
オートバイを引きずりながら(一枚の札が、淡く発光しながら車体の側を衛星のように旋回している)詩織は思う。
それがどうした。自分よりも優れているから、どうだというのだ。
ハンドルを軋むほどに握り締め、詩織の両眼に決意の曙光が宿る。
自分には、これしかない。
こうするほかに、道なんてない。
だから、そうする。
それだけのこと。
友達が死んで、平気な顔して、生きていけるやつらの方が間違っている。
父親が死んでも泣かない。母親が死んでも葬式なんてあげてやらない。
それでも、この世を生きていく気分にさせるものがなくなったのなら、取り戻すべきだし、邪魔するやつはみんな敵だし、誰一人として許しはしないし容赦はできない。
諦めろ、なんて言われたくない。
諦められるくらいなら、最初からうずくまったまま泣いている。
それができないから、どうしてもできないから、
紙島詩織は、ここにいる。
視界が開けた。
戦場は、緩やかな風に巻かれて、ちいさな土煙をくゆらせている。
耳をつんざく機械の駆動を思わせる重低音は観客の声援だ。
頭上では、雲に乗った雷神と風神が旋回して選手紹介でもしているのだろう。
十二人の陰陽師たちがいっせいに札を構える。
すでに式を打ち終えている自分もまた他の目からは、札を構えているように映っているのだろう。
きっとこのスタンドのどこかで、自分を見ているに違いない門倉いづるも、詩織の造った呪からは逃れられない。
門倉いづるは自分のこの『とっておき』を見破った。
だが、そんなことは単なる自己満足でしかない。
オートバイにまたがり、キーを回す。エンジンが獣のように唸り、詩織の心臓の鼓動もまた、それにあわせて跳ね上がる。
土御門光明が、天才だろうと、由緒正しき血筋だろうと、そんな安っぽいもので攻略できる紙島詩織の第六陰陽結界ではない。
容赦はしない。
あの門倉いづるが、自分の運命の車輪にいまだ絡みついてくるとは予想外だったけれど、丁度いい。
その意識の終わりを絶望で断ち切ってやるのも、あのエゴイストにはふさわしい結末だろう。
大砲が轟いた。
轟音が大地を振るわせたその瞬間、紙島詩織は怪しまれることも恐れず、フルスロットルでアクセルバーを回した。
陰陽師の式神が本来の力を発揮すればこのスタジアムのコースを曲がりきれない速度に一瞬で達してしまうし、観客はレースをドキドキハラハラする前に終わらされてしまう。
だから、その力には制限が加えられている。
人間の科学技術に敗北するほど。
「バイバイ、門倉くん」
そううまくはいかなかった。
のちに紙島詩織が刻んだこの爆発的スタートは『ロケットテイル』として伝説になることになるが、そこでは必ずもうひとつの伝説がくっついてくる。
あたかもこのレース展開を表したかのように――。
まさしく燃え盛る真紅の牝馬。火炎のうねりがその体を波のようにそよぎ、蹄の跡は灼熱に溶けて電子的な輝きを残している。
その手綱を握り締め、紙島詩織からちょうど一馬身差で、その男は黒い流星を追っていた。
土御門光明は、握り締めた手綱越しに、その目の照準をぴたりと詩織に据えていた。
(どうして――――――――――っ?)
思わず手に汗握って滑りそうになった手綱を詩織は握りなおす。
確かに、門倉いづるは土御門光明に詩織の秘儀を暴露した。
だが、わかったところでどうだというのだ。
詩織の乗っているオートバイはただの二輪車ではない。
たとえ土御門光明が自分と同じ第六陰陽結界に辿り着いたとしても、そこまでなのだ。
仮に現実世界から単車を持ち込んだとしても、それは式神ではなく『モノ』だ。
詩織のオートバイは、『この』オートバイだから式神に偽装できるのだ。
首藤星彦が死んだとき、霊体として持ち込んだオートバイだから、式神にできたのだ。
そんなレアものがほいほい転がっていてたまるものか。
しかし、いま、詩織のテールランプのすぐそばに、火炎の馬の鼻先がちらついているのは真実。
もっと速度を出さなければ、とアクセルバーを回すが、ふと詩織は気がついた。
速度が、上がっていない……。
やや競神の標準速度に比べれば速い、というレベル。よくよく見返せば、土御門の後方にも、ほかの陰陽師たちとその式が追いかけてきている。
『バカな、って顔してるなあ、紙島詩織』
頭のなかに直接響いてくる鼻につく声。光明が念を詩織の心に送りつけてきているのだ。
詩織は無視した。とにかくこのリードを守りきる。トップは自分だ、依然として、それだけは、変わってない。
『あいつ……門倉はヘンなやつだが、まあ、使えなかったといえなくもない。このオレにひらめきを与える足がかりくらいにはなったかな』
無視する。
『電気の力か……確かに千年前とは時代が違うってことだな。しかしそれは不吉の予兆でもある。オレはいやな予感がするよ。陰陽五行ってのはそんなにカンタンに捨てていい秩序じゃなかったんだ』
無視する。
『だがおまえはそれをやってのけた。尊敬するぜ。できればその努力に経緯を表して、勝たせてやりたい』
無視する。
『……やりたいが、悪いな。オレたちは負けず嫌いなんだ、みんな揃って雁首並べて、なあ』
とうとう我慢ならなくなった。
『オレたち?』
光明の声はまるで冗談を言うみたいに軽かった。
『ここに来るとき通路を通ったろ? おまえのレーンの横にな、プラスとマイナスを配置してみたんだ。うまく引き合ってくれてよかったよ』
『引き合……う?』
『あの世中の霊体磁石をかき集めるのは大変だったが、ま、バイクを探し出すよりかはラクだったね』
詩織は、ゆっくりと、壊れたブリキのおもちゃみたいにゆっくりと振り返った。
土御門光明のうしろに五頭の陰陽師たちの姿があった。
ヒミコセカンドが、天ヶ原永世が、十六夜ワタルが、クーロンターガァが、賀茂琴法が、笑っていた。
みな、手綱と一緒になにかを握り締めている。
――U字磁石。
『電気ならプラスとマイナスがあるはずだ……おまえの電影陰陽術はマイナスらしいぜ、紙島。豆知識だ、覚えとけ』
『土御門ォ―――――――――――――――ッ!』
『ハハハハハハハッ! 最高に気分がいいぜっ、ざまみろバァーカ!』
そして、
『一度追い越せば、今度ァそのまま磁界の力がおれを押し上げてくれるわけだ……トップになっ!』
じりじりと光明の『騰蛇』が追い上げてくる。追いつかれる。追い抜かれる――くるっと磁石を引き合う方から反発しあう方へと片手で器用に光明が回転させた。電影陰陽術が駆使された霊的磁石から放たれる力が、詩織を後方へと追いやっていく。
詩織は狂ったように、顔をくしゃくしゃにしてアクセルを回すが、それが限界だった。
(いやだ、負けたくない、いやだ、いやだ――たったひとつの、私には、これしか、これしかないのに――)
ぐんぐん土御門光明の真っ白な狩衣が遠ざかっていく。目の前で火の粉が詩織を嘲るように舞っている。
いやだ。
いやだ。
いやだ!
詩織は腰のホルスターから一枚の札を引き抜くと、それを遥か前方へと放り投げた。式札はある一点、詩織が望んだ地点で壁に激突したようになにもない空中で貼りついた。
オートバイのシートに両足を乗せる。
詩織は飛んだ。
背後から聞こえてきた轟音に喜色満面だった土御門光明も色を失って振り返った。
見ると遥か後方で青い爆炎を上げてバイクが燃えている。青い炎で燃えるものは、霊界のものの証拠だ。たいていは、死者が死亡した際に身につけていたもの――門倉いづるの腕時計のように。
蒼炎と土煙の中から、紙島詩織の『天一神』が飛び出してきた。その騎手は、ブラシのようなたてがみにかじりつくように乗っている。
斜めに傾いでいた帽子を、手綱を握っていない方の手で詩織はこんなときでも直した。
いまにも泣き出しそうな顔で、それでも紙島詩織は、トップを諦めていなかった。
叶うかどうかもわからない迷信のために。
喜ぶかどうかもわからない死者のために。
そして、ただどこまでも、自分のために。
光明は、なぜだか胸いっぱいに込み上げてくる何かを感じて、優越感とは根を異にする笑顔を浮かべた。
『自分の式に乗り換えたか……。いいだろう、来いよ。紙島詩織』
『うあぁ―――――――――――――――!』
子どものように錯乱した詩織の心が、念となって光明の頭に怒涛のごとく流れ込んでくる。
親を失った赤ん坊のようなその悲鳴を知りながら、それでも光明は、駆けることをやめなかった。
『サシの勝負だ。……だが、オレは強いぜ』
『あああ、あ、あ、ああ、ああああ―――――――っ!』
『うおおおおおおおおおおおお―――――――――っ!』
もはや大歓声も二人には聞こえない。
なにもかも流星となった世界で、二頭の式神は、ただ駆けた。
果てなどないかのような直線の果てに、待つものは――――。
『ゴォォォォォォォ―――――――――ル!』
スタンドでは、妖怪たちが口々に、紙島だ、いや土御門の鼻差だ、などと言い合っている。
その最前列でレースを眺めていた少年がひとり。
門倉いづるは、ずいぶん薄くなった身体をフェンスに預けて、買ったばかりの式券をくしゃっと握り締めた。
その肩を、ぽん、と叩かれる。いづるは振り返った。
もう懐かしくさえ思える顔が、そこにはあった。
「よお、クソガキ」
「おまえが言うなよ、火夜」
ははは、と火夜は笑って、
「なんだそりゃ、おまえスケスケだぞ」
「そういうきみこそ、貧血になってるみたいだ」
「で、勝ったのか」
いづるは答えなかった。
いつの間にか近づいていたアリスがいづるの式券をひったくった。
そのとき、実況の雷神風神が声を張り上げて結果を叫んだ。
『一着は、つ、土御門、土御門光明の一着で―――――――――す!』
まじまじと式券を眺める飛縁魔とアリスから紙片を奪い返し、いづるは声だけで笑った。
「どうやらもうちょい、あの世を彷徨わなくっちゃいけないらしいな」
火夜がぷいっと顔を逸らして、「この怨霊め」と憎まれ口を叩く。
「このおんりょー」
いづるはがくっと肩を落とした。
「なんてひどい言い草だ……がんばったんだぜ?」
宙を悲鳴と歓声と、魂の欠片が舞い踊る。
いづるは自分に降り注いだ魂貨を、まるごと火夜へと渡した。
「そら、姉御、約束のブツだ」
「おう」
火夜はプレゼントをもらった娘のような顔をした。
「苦しゅうないぜ」
「そりゃよかった……ん?」
そのとき、フェンスの向こうから何かが飛んできたのでいづるは思わず顔の前で受け止めた。
なんの変哲もないトランプに蹄の形をした磁石と花札が貼りつけられている。磁石の先端はそれぞれ赤と青。
真っ白な花札(にしか見えない式札)に、『ご苦労、褒美をつかわす』と毛筆で巧みに記してある。
きざったらしいったらない。
いづるは鼻で笑って火夜を振り返った。
「おい見ろよ姉御。土御門ってなんであんなに……」
そこでいづるは、言葉を失った。
火夜は眼を閉じ、じっと瞑想に耽っているように顔を伏せている。蒼白だった頬に朱色が戻り、唇はつややかに、ほつれた髪は光を流し込んだように黄昏を反射し、その身体の周囲からは冷たい夜気が流れ出している。夜気は真紅の戦装束にまとわりつき、細かな傷跡さえも癒していくようだ。
まぶたがゆっくりとひらき、蠱惑的な赤眼が捉えているのが自分だと気づいたとき、いづるは指一本動かせなくなっていた。
このままでは呼吸も止まる、と考え始めたとき――
「なに、ぼーっとしてんだよ」
あっけなく金縛りは消え去った。いづるは照れ隠しに首をごきごきと鳴らした。
「なに、ちょっと、ドキドキしたんでね。もちろんレースにだけど」
「はあ? おまえ、ドキドキなんてするのかよ。てか死んでるから心臓ねーだろ」
「なんてこというんだ? 心臓なんかなくたって心ぐらいある……」
はずだ、という言葉は、あえて飲み込んだ。
もう自分に、その疑惑は必要ない。
三人は踵を返した。
「さて、いこうか。最後の勝負を終わらせに」
「おう、あの家畜野郎にはたっぷりお礼をしてやらねえとな」
物騒なセリフを吐いて火夜は拳の骨をぽきぽき鳴らした。
おとなしくしていれば端整な顔立ちに、嗜虐的な笑みが浮かんでいるのを見て、いづるはちょっとびびった。
伊達にあの世のお姫様ではないらしい。
十二章 地獄ポーカー
モノが散らかっていると落ち着く。そしてそれが壊れていればなおさらだ。
思うに、モノというのはキチンとしている方が異常なのであって、本来は結合せずにバラバラに漂っている方が正しい気がする。木の葉が風に巻かれて舞うように。
牛頭天王は、そう思う。
拾ってきたガラクタを無造作に積み上げた即席の玉座に牛頭天王はその巨体を収めていた。
黒牛のメタリックな鼻面に、回転するミラーボールが極彩色の乱雑な光の粒子が当たっては砕けている。酒がなみなみと詰まった瓶を一気にあおるたびに、顎をおびただしい蜂蜜色のアルコールが滴って袈裟を汚すが、少しも気にした様子はない。
ジュークボックスから、チープでノイズ混じりのハードロックが流れているが、はたして牛頭天王の耳に届いているかどうか。
閉め切られた座敷は暗く、眼を凝らさなければ黒衣の牛人の姿を見落としてしまうかもしれない。もっともいま、ここには彼ひとりしかいない。元・閻魔大王の手下たちには暇を取らせた。煩わしくなってしまった。
なにかを従えるというのはもっと気持ちのいいものだと思っていたが、愛想笑いをされその裏に潜む顔をまじまじと見つめてみた限り、胸糞が悪くなるだけでしかなかった。どうやら権力でも牛頭天王の渇きを癒すことはできないらしい。
巨体を身じろぎさせ、牛頭天王は太い腕で自分の身体をかき抱いた。
寒かった。
風も吹いていないのに。
生き埋めにされたような気分だ。荒れ果てた座敷に見るでもなくうつろな視線を注ぐ。
暗くて、寒くて、自分しかいない。
まるで牢獄だ。
よそから奪っておいでこんな言い草もないかもしれないが、自分はこんなもの欲しくはなかった。
俺が欲しかったものは……。
そこから先は言葉にならない。
記憶もなければ目的もない。ただそこにいるだけ。誰よりも強くたってそれがどうしたというんだ。
ああ、寒い。
毛布をかけてくれるひともいない。
いくべき場所もないし、するべき事柄もない。
牛頭天王はゆっくりと頭をもたげた。
この屋敷が牢獄のようだと思っていたが、どうも違うらしい。
たとえいま、重たい腰をあげて玄関から飛び出したとして、そのままどこまでも力の続く限り走り続けたとしても。
自分には、いく場所がない。
このだだっ広いあの世そのものが、牛頭天王にとっては牢獄なのだ。
「ははははは……」
渇いた笑いを漏らしたとき、牛頭天王の身体は、ちいさく揺れていた。
震えていたのだ。
そのときだった。
玄関口へと続くふすまに、一本の線が入った。ふすまはそのままずるっと前のめりに倒れて、二度とその役目を果たさなくなった。
ずかずかと土足で侵入してきたものたちを見て、牛頭天王は、緑色の双眸を細めた。
「おまえら……また来たのか」
「負けたままにしておくのは、嫌いなんでね」
「斬ってから気づいた。ここあたしんちだった」
「飛縁魔アタマわるーい。ばかじゃん?」
「うるせえ!」
というわけで、と三人の先頭に立ついづるが、かぶっていたパーカーのフードを下ろした。
「おまえを今夜の鍋にしにきたぜ、牛頭天王」
「へっ」牛頭天王が立ち上がると、三人は見上げる格好になる。
「俺はかまわないが、おい飛縁魔。ちょっとガソリン入れたからって調子に乗ってるみてえだな」
「ケッ、わかってるっての。てめーはたっくさん魂を抱え込んでるみてえだからな。弾丸はたんまりあるってわけだ」
「わかってんならとっとと帰れ。いまなら見逃してやってもいい」
「帰らない。ここはあたしの家だ」
飛縁魔はいとおしそうに、荒れ果てた座敷を見渡すと、倒れていた木の丸テーブルを引き起こして真ん中に据えた。くたびれた椅子を二脚立ててそえる。
ドカッといづるが主の許しも得ずに腰かけた。牛頭天王が訝しげに頭を揺らす。いづるは足を組んで大儀そうに椅子を示した。
「座れよ、牛頭天王」
「そうか、そうだったな」牛頭天王が鼻息だか含み笑いだかを吐き出した。
「おまえともケリをつけなきゃいけないんだったな」
「覚えていてくれてありがとう。そしてもっとありがとう。この決闘を受けてくれて……」
牛頭天王は飛縁魔が立てた椅子に座れないので手で部屋の隅まで払いのけ、畳にじかにあぐらをかいた。
「まだ受けるとは言ってない」
えー、と女性陣が不平不満をこぼすが、牛頭天王はいづるから眼を逸らさない。
「一個だけ条件をつけてもらうぜ。おまえら、どうやら魂をいくらか稼ぎ戻したみたいだが、門倉……いづるだっけ? おまえは、ほかの魂を賭けるな」
「……というと」
「負けたら消えろってことだよ。どうだ、おもしろいだろ? ふつうのやつらはゆっくりと記憶を失っていくのに、おまえだけ早送りで心を洗濯されてしまうわけだ。麻酔なしの手術みたいなもん……」
「弾丸のおかわりはなし、か」
いづるは迷わなかった。
「いいよ」
場の空気が一気に収縮する。飛縁魔はぎゅっと唇を引き結び、いづるの斜め後ろに控えている。アリスはその隣で、無表情にいづるの後頭部を見やっていた。
牛頭天王が笑った。
「思い切りがいいやつは好きだぜ。よし、じゃあやろう。何をしようか。花札、麻雀、なんでもいいが」
「こいつにしよう。すぐに終わる」
といっていづるは、ポケットから煙草の箱に似たものを机の上に放り投げた。
トランプだった。
「ポーカーで、ケリをつけよう……」
「いいだろう」
そのとき、黒牛がにやりと笑ったようにいづるには見えた。
「後悔するなよ」
「てめえがな。アリス、カードを配ってくれ」
「はーい」
「おいおい、そっち側のやつがカード切るのか?」牛頭天王が肩をすくめた。
「そいつァ不公平だぜ。誰か信頼のできるやつを呼んでこよう」
「残念ながら時間がないんでね」
いづるは半透明の手のひらをかざしてみせた。
「適任者を探してるうちに消えちまう」
「じゃあこうしようよ」とアリスがにこにこして言い、懐から一本の笛を取り出した。
「もし私が箒星のお兄ちゃんに味方してるってわかったら、これ折っていいよ」
「ちょ、ちょっとおまえそれ」と飛縁魔が慌てて口を挟んだ。
「それがなかったら仕事にならなくなるじゃねえか」
「いいよ。いまだって仕事できないし……これでいいでしょ、お兄ちゃんたち?」
「ふん」と牛頭天王は笛をアリスから受け取り、その手の届かない机の反対側に置いた。
「ま、よしとするか」
「まだ話は終わってない」
カードを配ろうとするアリスをいづるが制止した。
「アリスだけじゃない。おまえも、イカサマをする可能性がある」
「そういうおまえだって、そうだろ」
「ああ。だから、こうしておこう。イカサマをしたらペナルティを課す。厳密に決めておこう……イカサマがバレた場合、魂貨五百枚、相手に差し出す」
「ふふん」と牛頭天王がおもしろそうに鼻を鳴らした。
「いいぜ。五百枚……おまえのを見つけたら、一発で消滅だな。がんばって探すとしよう」
「おまえから奪い取って、火夜の勝算が上がる枚数も、おれたちは五百枚ぐらいだと踏んでるがな」
「ははは! そりゃあいい……そりゃあいい……」
牛頭天王は繰り返した。
「カードを配れよ、アリス童子」
「はいはい」
まず最初に来たカードを牛頭天王といづるは見せ合った。スペードの7とスペードの6。いづるの方が低い札を引いたので、最初のBETはいづるから始まることになる。
それから一枚ずつ交互に、アリスの手からのっぺら坊と牛頭天王に手札となるカードが配られていく。
いづるは、かすかに震える手で最初の手札をめくった。
いづるが提案したポーカーに特別なルールはほとんどない。五枚の手札を配られ、カードチェンジは一回。毎回参加料としてアンティを払う。ジョーカーは一枚、入っている。
いづるは、自分の手から湧き出した真っ白い魂貨を(それにはまだなんの絵柄も数字も刻まれていない)を場に放り投げた。牛頭天王も懐から一枚取り出してそれにならう。
いづるの手は、クラブの3、ハートの4、ハートのJ、スペードのQ、ダイヤの7。
ブタだ。
ひとまず、いづるは三枚ベットした。牛頭天王はコール。
このブタの手――と火夜は思った。
狙うとしたら、ハート残しのフラッシュか、絵札を落としての34567のストレートか、といづるに寄り添うにしてその手札を覗き込んだ火夜は思った。
だが、いづるは三枚の札を迷うこともなく引き抜くと裏向きにしてアリスに送った。
クラブの3、ハートの4、ダイヤの7がいづるの手から消えた。
「三枚チェンジだ」
「俺ももそうしよう」
アリスは二人にカードを配る。
いづるは、カードの左端からゆっくりとめくった。
引いてきたのは、ダイヤのJ、ダイヤのQ、クラブの2。
ツーペアになった。初っ端にしてはいい役だ。
火夜はちらちらといづるに視線を送る。こちらにいい手が入っているため、あまり牛頭天王の方へ注意をそそがないのが直情傾向の火夜らしい。
ポーカーとは駆け引きの勝負だ。しかもお互いの手札すべてが伏せられたクローズド・ポーカーにおいては、より相手の心情を仕草や表情から読み取る必要がある。
だが、このポーカーに表情はない。
のっぺら坊にも牛頭天王にも、表情らしいものはなにひとつとして浮かんでいないからだ……。
究極のポーカーフェイス対決。
火夜は、前髪のかかったいづるの白い仮面を見つめた。
(どうする……いい手だからどんどんレイズしていきたいところだけど、さすがにそれはあざといというか……ちょっと様子見してみるか?)
いづるはレイズせず。
ショウダウン。
いづるは、JとQのツーペア。
牛頭天王は、10の3カード。
いづるの負けだ。
場の魂貨が、牛頭天王の方へひとりでに集まっていく。
「ワンペアにくっついたんだ。ツイてるぜ」
「よかったな、おめでとう」
淡々と答える門倉いづるから、その心のうちを読み取ることはできない、誰にも。
ネクストゲーム。
デッキを丁寧に切り直し、アリスがカードを配った。
ハートのJ、クラブのJ、クラブのQ、スペードの3、スペードの7。ルールもカードの意味も現世と同じだが、ジャックもクイーンもねずみ色の骸骨と化している。いづるは、自分の肉体のことをちらっと脳裏に浮かべた。いまごろは骨壷のなかだろうか。自縛霊にだけはならなくてよかった。ひとつのところに閉じ込められたら、たぶん気が狂ってなにをしでかすか自分でもわからない。
参加料を払って、カードをチェンジ。
いづるは、おとなしくJのワンペアを大事にしてスリーカード狙いの三枚払い。
それに対して、牛頭天王は一枚チェンジ。
テーブルを滑ったその一枚を、のっぺら坊が見据える。
(……一枚チェンジってことは、ストレート、フラッシュ狙いの大物手か、ツーペア確定からのフルハウス狙いのチェンジか……)
どちらにせよ、引いてきた三枚がバラバラで依然としてJのワンペアのいづるには、分が悪いといえる。
牛頭天王に役ができていれば、ドロップしようがベットしていこうがいづるの負けだ。開局早々二連敗はさすがに避けたいが、いいハンドが来ないのだから仕方もない。
いづるは手札を放り捨てた。
「フォルド」
「へえ、潔いね」
場の魂貨が、ふたたび牛頭天王の元へ。火夜の目がそれを追う。
いづるは何も言わず、しかしその身体はまるで何か重みを感じているかのように、硬く強張っている。
それを見たからかどうか。
牛頭天王がアリスにカードを戻すとき、強く放ったがためにすべてのカードが表になってしまった。
スペードのA、スペードの2、ダイヤの7、ハートの2、クラブのK。
ブタだった。
いづるは物音ひとつ立てずに、顔をそのカードへ向けている。
「くくっ、武士道とは死ぬことと見つけたり。ご立派だけどな、死んだらそれっきりだ……生きてりゃいいこともあったかもしれねえのによ」
牛頭天王の挑発に火夜が歯を噛み締める。が、ここで斬りかかってはすべてがご破算だ。いづるが力を振り絞っているというのに、自分がそれを台無しにできるはずがない。
いづるは放心したように捨てたカードの残骸を一枚拾って、いとおしげになでた。
そしてこう言った。
「そんな希望に用はない」
永久凍土のポーカーフェイスを向かい合わせて、それでも確かに、二人の間に火花が散ったのを飛縁魔は感じた。
ネクストゲーム。
それからしばらく続いた勝負の波は、潮の満ち引きのように、いづると牛頭天王の間を揺らめいていたが、それでもなお優勢だったのは牛頭天王の方だった。一進一退の攻防を繰り返しても、最初のダメージがいづるには重く響いている。どこかで取り返さなければならない。
その思いが、つい勝負を急がせてしまう。オリるべきところで、いづるの心の奥底に「いけ」と囁いてくる「何か」……緊張、不安、恐怖。
そう。門倉いづるは怯えていたのだ。どんな信条に基づいていようとも、恐怖を避けて通ることは誰にもできない。
仮面に吐きかける息が跳ね返ってきて、とんでもない湿度になっている。毛穴という毛穴から冷たい汗を噴き出し、その目は蜘蛛の巣状に血走っている。
(一手、俺の方が上をいっているはずだ)
(その証拠に、見てみろ、牛頭天王のやつ、さっきからカードがすり替わらないんで首をひねってやがる)
(紙島の電影陰陽術を使った幻覚の応用……それが花札んときのやつのトリックの正体だ。チートもいいとこ……)
(だが、それも土御門がくれたU字磁石で、うまく機能していないらしい。やつの態度と勝負の内容から、それを察することは可能だ)
(一歩、俺の方が先へいっているはずだ)
(なのに)
手が、来ない。
低いランクのワンペアができればいいとこ。ツーペアが来たと思えば相手にフラッシュができている。
全身を使って作った波が、より大きな高波に飲み込まれて泡沫へと帰っていくようなイメージがいづるの思考回路にカビのようにこびりついたまま剥がれない。
(まだだ)
(まだ終わってない)
(おれには)
(――これしか、ねえんだぞ、門倉いづるっ!)
時は、止まらない。
ネクストゲーム。
クラブの3、ハートの3、ハートの9、ハートのJ、スペードのA。
引いてきた札を扇形にして持つことはせず、いづるはチラ見するとそのまま卓に札を散らせておいた。面白みのないハンドで持つのも嫌だったのかもしれない。
最弱クラスのワンペアだが、フラッシュへの道も残っている。
火夜の気遣わしげな視線をその身に受けつつ、いづるが選んだのは、
「三枚チェンジ」
スリーカード、ツーペア狙いの三枚払いだった。
(ここで焦って大物を狙いにいくのは、性悪な神様が俺に用意したくそったれな破滅のシナリオに違いない。俺は、そんなレールには乗ってやらねえ)
アリスの指が触れなば切れる動きで(どこでそんな動きを覚えたのやら)二人へカードを送る。
届けられた自分の運命を、いづるは、そおっと開ける。
どんなに負けていようとも、この瞬間だけは、魂が燃えるように熱くなる。
カードの端を限界まで反らせて、いづるは見た。
クラブの4、スペードの4、スペードのK。
ツーペア。だが、弱い……向こうに5以上のペアを含むツーペアを作られていれば、それでオシマイだ。
しかもこのゲームで、牛頭天王は自信満々に魂貨五十枚を最初にベットしている。
これまでのゲーム展開から見て、ハッタリと読むよりも、本当に手が入っていると見るべきだろう。チェンジも一枚。大物の気配。
まるでいづるの心中を見透かしているかのように、牛頭天王がレイズした。
「さらに五十枚……レイズだ。受けるか、いづるよ?」
いづるは軽々に答えない。
自分の手札を食い入るように見つめながら、いづるは、唇を噛んだ。
降りよう。
無意識にその言葉が閃いた瞬間、
門倉いづるの右手は、消失した。
「アッ」
風に吹かれて死んだ炎のように、学生服の袖から先がなくなり、持っていた手札がバラバラと机に散った。
牛頭天王の視野に、すべてのカードがさらされたのは間違いないだろう。
わずかに身じろぎし、強張った身体はやや大きくなったように見える。
そして、いづるは感じた。
手首から先を失い無様にカードを追う形になったまま、その目はしっかりと牛頭天王とその向こう側にあるものを見つめていた。
勝利の尻尾を、見つめていた。
(とりあえず)
残った左手でカードをかき集めようとしたが、なかなかテーブルから引っぺがせない。もたもたしているうちに火夜がささっと手札を代わりに掲げもってくれた。
肩と肩が触れ合う。超至近距離に火夜のほてった横顔があったが、いづるはそれどころじゃなかった。
「コール」
テーブルに五十枚の魂貨が浮かび上がると同時に、すとんといづるの身体は傾いた。身体に穴が空いて、そこから空気が漏れ出しているような喪失感を覚える。
が、そんなことは、どうでもよかった。
「俺のカードは」いづるの声に、いつにない熱が籠もっている。
「ごらんの通りだ。おまえの手札を見せろ、牛頭天王」
「……」
ぱたっと牛頭天王は、五枚のカードを倒した。
2と3のツーペア。
「自分がどろどろ溶けていくのを感じながらギャンブルするなんざ、ツイてねえと思ってたけど、そうでもなかったぜ」
ククク、といづるは笑う。
「俺の手札におまえがびびったのがわかってよかったよ。ついさっきまで、俺、オリる気だったんだ」
「調子に乗りやがって。こんなポーカーフェイスで表情を読むもくそもないぜ」
「そうとも。表情を読んだわけじゃないからな」
「じゃ、ただ勇気を振り絞っただけだろ。なけなしのな」
「おまえは、びびったとき左脇を締める癖がある」
牛頭天王がさっと左半身を引いた。
「……なぜわかる?」
「知ってただけだ」
「はあ?」
魂貨の砂丘をかき抱いて、いづるは叫んだ。
「さあ、ネクストゲームだ!
俺は負けない、かならず勝つ!」
ああ、そうだとも。
おれは、おまえを知っているのさ。
おまえが忘れちまっても、おれはおまえを忘れやしない。
だっておれたちの仲じゃないか。
なあ、首藤?
ネクストゲーム。
配られてきた札を見て、最初に火夜が、次にいづるが、それぞれ『勝った』と思った。
無理もない。カードをチェンジするまでもない。
いづるの手札は、AAAKK。
誰がどう見たって、そいつはフルハウスだった。
あとはもう、できうる限りの知略を振り絞って場に出る魂貨を多額にするだけ。
勝利は決まっているのだから。
そしていづるは改めて思い知ることになる。
最初から決まっている勝負など、ありはしないという、当たり前の現実を。
『カードは、このままでいい』
門倉いづると、牛頭天王の声が、だぶった。
もはや何度目であろう。お互いの一歩も譲らぬ気迫がぶつかりあって、どちらかを椅子から転げ落とそうとしているようなプレッシャー。
「このままでいいってのは、どういうことだよ、牛頭天王」
「そういうおまえこそ、変えないじゃないか。どうやらお互いにいい手が来てるみたいだな。おれはもうこれでいいが、いづる、おまえもっと上のハンドを目指した方がいいんじゃないか?」
ちらっとフォーカードが頭をよぎった。
無視する。
「このままでいい。このままいく」
「後悔しなければいいがな」
「後悔もできなくなるよりマシだ」
二人の間で、最終的に積みあがったチップは、魂貨百二十枚。
火夜が、どうだとばかりにいづるの手札をたたきつけた。
「おれは、エースフルハウス……」
「そうかい……」
どこか虚しそうに、牛頭天王も、己の手札をオープンした。
ハートの10、ハートのJ、ハートのQ、ハートのK、ハートのA。
ロイヤルストレートフラッシュ。
魂貨がこすれ合う音に惹かれるように、いづるは頭からテーブルに突っ伏した……。
十三章 喰奴’s GAME
なんか、もういいかなって気がしてきた。
ぬるま湯のような倦怠感が全身を包む。
こんな気持ちいい思いができるなら、死ぬのも成仏するのも悪くないかも。
誰かに肩を強く揺さぶられている気がするが、もうどうでもいい。
なんだって俺を起こそうとするんだ。
俺にしかできないことなんかないし、なにかしらの役目は俺以外のやつでも代替可能だ。
だからほかを当たってくれ。俺は休む。眠いんだ。
走っても、走っても、だ。変わらない景色。凍てついた日々。
俺にどうしろっていうんだ?
生まれてから死ぬまで、もう誰かが踏み荒らした場所しか残ってない。雪が降った朝、外に出てみれば、足元の雪は糞みてえになってる。
もういやなんだよ。うんざりなんだよ。
意地を張っても、歯ぁ食いしばっても、俺の望んだ白い雪はどこにもない。
誰も踏み入ったことのない、白銀の世界――俺がその最初の冒険者になるときなんか、来ないんだ。
俺はただ、尊いなにかを、自分のなかの社会と折り合わないなにかを、守りたかっただけだ。
それができなきゃ、消えるだけ。
いいじゃねえか。なにが悪いんだ。おまえはよくやったよ。お疲れさん。
報われて死ぬやつの方が珍しい。いくらでもおまえより不幸なやつはいる。生まれてすぐ死んじゃうやつだっている。十六年ってのもグローバルに考えればなかなかのスコアといえなくもない。
そうだろ、門倉いづる。
だからよ、諦めちまえよ。
ラクだぜ、絶対。
(そうしてえ気持ちも、あるにはあるんだがな……)
思わず笑ってしまう。もう自分に唇なんかが残ってるのかどうかも知らないが。
ああ。
諦めていい理由なんか、掃いて捨てるほど思いつくのに。
固く握り締めたままのこの拳が、どうしても、ほどけてくれない。
身体を揺する誰かの手を掴む。
地獄に垂れ下がった蜘蛛の糸をたどる罪人のように、いづるは、抹消の空間から自分を引き上げた。
家の鍵をなくしたガキみたいな顔をした火夜がそばにいる。
どうやら、泣かせる前には間に合ったらしい。
ずいぶん軽くなった身体を起こす。霞む目を何度も瞬いて気合を入れる。
「いづる……おまえ……」
「姉御も、紙島も、誰も彼も、人の話をちゃんと聞けよ……」
身体を完全に支えきれず、机に乗り出すようにして、体重を預ける。
真ん中からヒビが入った仮面が、真っ二つに割れて机に落ち、乾いた音を二度立てた。
久々に素顔をさらした門倉いづるは、汗だくの顔でにやりと笑ってみせた。
「俺は、消えねえ……!」
あまりの気迫に、牛頭天王も、アリスも、火夜も、息を呑んでかれを見つめていた。
仮に、火夜に、アリスに、牛頭天王に、いやそんなスケールではなく、神や悪魔、車輪のごとき運命そのものに「もういい」と諭されたとしても、門倉いづるはどこどこまでも拒否する。
(そんなことはな、てめえらに決めてもらわなくても、自分で決められるんだよ)
いづるにまっすぐに手を伸ばされて、硬直したあと、アリスはハッとしてカードを配り始めた。
配られ裏に伏せられたままの五枚を、牛頭天王が、信じられない目つきで眺めていた。
あれだけの魂を直抜きされたら、ふつうは、人間でいうところの出血多量死のごとく消滅し真理の塵へと還るところだ。
驚きも、恐れも、通り越して、牛頭天王は呆れた。
「なんて、往生際の悪いやつ……」
火夜に手札を持ってもらい、それを斜めに見下ろしたまま、いづるは牛頭天王にこういった。
「おまえが言うなよ、首藤」
「コール」
ショウダウン。
いづるはひとりでに去っていく魂貨たちを針の先のような目で見送った。
覚醒から数ゲーム。魂貨はじわじわと減り続けている。
うしろで見送る火夜まで汗だくだ。けれど彼女はなにも言わない。泣き言も恨み言も。信じているのか、もうヤケなのか、どちらにせよ、やっていることは変わらない。
ただ、いづるを見守っている。
いづるの手は、いつも悪い。運の波はとっくのとうに彼を置き去りにして、牛頭天王の膝を洗っているのかもしれない。
そう、運の比べあいなら、このままあっけなく負けてしまうだろう。門倉いづるは、なにもできない。
だが、そう簡単に勝負の行方は決まらない。
いづるは思い返していた。火夜と牛頭天王の花札勝負のことを。
(札のすり替えにはケリがついてる……でもおかしな点がぜんぶなくなったわけじゃない)
(この手のカード勝負で、すり替えは実はそれほど有効な手段じゃない。それは、相手と同じ札をすり替えで持ってきてしまった場合、言い逃れができないイカサマの証拠になってしまうということだ)
すり替えが有効になるには、ある条件をさらに付け加えねばならない。
(やつは、こっちの手札を覗いていたんだ……)
手札が見れれば、札が重ならないようにすり替えられる。
もしかしたら、いま、この瞬間も、牛頭天王はいづるの手札を彼といっしょに眺めているのかもしれなかった。
だが、いつも覗かれている風ではなかった。これまでのゲーム、決して牛頭天王の圧勝という流れではなかった。
(いま思い返せば、俺が、手札をちらっと覗いただけで、扇形にして持たなかったとき、やつは手札を覗けなかったんじゃなかったろうか)
格好つけて札を伏せたままにしておいた自分のなにげない行動が、消滅の危機を水面下で回避していたかと思うといづるはまた嫌な汗をかいてしまう。身体もないのに、不思議なことだが、これが本当の心の汗というやつなのかもしれない。
いま、いづるの手札は火夜によっていづるに見やすいように掲げ持たれている。背後から誰かが見ていれば丸見えだ。
だが、いづるはなにも言わない。
もうカードも、流れも、敵の癖も、考えるまでもない。
いづるは生前からあらゆるポケットにゴミを片っ端から突っ込む癖があり、だいたいいつも、手を突っ込めばカードの一枚や二枚へばりついてくる。
残った右腕で、制服の尻ポケットに、いづるは手を突っ込んだ。
正面の牛頭天王からは見えないように、椅子の背もたれにぐったりもたれかかるようにして。
指に、硬いカードの縁が当たる。左手が健在だったら、一瞬ですりかえる自信があった……。
なにも抜かずに、いづるは手をポケットから抜いて、周囲を見回した。
ガラクタの山が腰の高さほどの山脈を作って座敷をぐるりと囲んでいる。
右側を見る。壊れた洋服箪笥の隙間から闇がこぼれている。その暗がりを、頭上のミラーボールの輝きが一定の周期で削り取っている。
左側を見る。火夜と目が合った。訝しげに火夜の眉がひそめられる。
うしろは確認した。
いづるは、ブレザーの裏に手を突っ込み、ベルトの間に挟んだ匕首の柄を右手でなでた。
覚悟を決めた。
生きていた頃、クラスメイトをカモるときに使った必殺のカード・ポケット……制服の背中の裏地に作ったカード入れに、長引く勝負で筋肉が凝り固まったのをほぐすような仕草で、右手を差し込む。
一枚のカードが、二本の指に挟まれていづるの首筋から引き抜かれたその瞬間、牛頭天王の怒声が霊界を激震させた。
「動くな、いづ――」
いづるの指から滑り落ちたカードが、儚く散る木の葉のように、舞った。
(あとは任せたぜ、姉御)
ベルトに差した匕首を抜き取ると、その銀色の刃を、いづるは天を振り仰ぐようにして頭上へ投げ放った。
誰も身動きひとつできなかった。
割れたミラーボールから、血が噴き出したのだ。鮮血がべっとりといづるの顔を汚す。
あっけに取られたいづる以外の者たちの前で、割れたミラーボールから、何かがどすっとテーブルに落下し、ごろ、と転がった。
首藤星彦の生首だった。
「おおおおおおおおおおおお…………」
生首と、牛の頭から、違う声が同じ苦しみを持って放たれた、
両手で顔を覆い、あとずさる牛頭天王から、魂貨が溢れ出し、散らばった。いづるの側にあった魂貨も震え始める。
魂貨の群れはひとりでに混ざり合い、その価値を高め、ついに一枚まで凝縮された。金色の貨幣には、もうなにも彫られてはいない。
弾丸のように突進してきたその魂の一枚を、飛縁魔の手が掴み取った。
手の平をあけ、しげしげと眺め、ひと思いに口に放り込み、噛み砕く。
座敷から、暖かさが消えた。冷気をまとって、火夜は、いまだ苦しみ続ける牛頭天王の身体を視界に納める。
アリスと、苦しみ続ける生首を抱えたいづるが巻き添えを食らわないように飛びのいた。
そんな二人が目に入っていないのか、飛縁魔はにやにやしながら匕首を拾い上げて、言った。
「だいぶ待ったぜ、この時を」
「おおおおおおおお……」
「てめえが牛のバケモンだろうが首なしのゲテモンだろうが関係ねえ」
空中に三日月の軌跡を描いて、火夜は銀の刃を構えた。
「とっとと出てけ」
「あわわわわわわわ」
ガソリン満タン状態になった火夜が台風のように大暴れし牛頭天王と一緒に障子をぶち破って庭へ転がり出て行った。
いづるの肩からその光景をそおっと覗き見たアリスはにやけているような引いているような微妙な表情を浮かべた。
「飛縁魔ってやっぱ野蛮」
「そうか? 俺は結構かわいいとこあると思うけどな」
「それ本人の前で言える?」
「無理だなあ」
そのとき、、いづるに右腕一本で横抱きにされた生首が、ふたたび苦しげな呻きをあげた。アリスが生首に顔を近づけ、悪臭を嗅いだように鼻にしわをよせた。
「誰にやられたのかしらないけど、無理やり鬼にされたから、魂一気に削られて超苦しんでるね」
「そうか」
「助けたいって思わないの? 友達だったんでしょ」
「…………」
黙り込むいづるに、アリスは肩をすくめた。
「ま、いいけどね、わたし関係ないし、そもそも手遅れだし。あとは二人で解決してよ。巻き込まれるのいやだから帰るね」
「あ、おい……」
「またね、いづるん」
片手を振り振り、アリスは去っていってしまった。
外からは烈しい火夜の怒声と金属音がこだましている。
見ると、ナイフで切りかかる火夜に牛頭天王が錫杖をもって対抗しているところだった。足元がおぼつかない。本体の額を割られたせいだろう。
いづるは、しばらくウロウロした挙句、縁側に座って、それを眺めることにした。
首藤と二人で。
高々と掲げられた錫杖が振り下ろされ、黒々とした庭をガラスのように砕いた。土くれとほこりが舞い上がるが、そこに火夜の姿はない。牛頭天王は杖を闇雲に土煙のなかに振るうが、ただ空を切るだけだ。
そのほんの一瞬開かれた砂塵のカーテンの隙間から、火夜がナイフと共に躍り出る。牛頭天王が気づいたときには、もうその左腕の肘から先が宙を舞っていた。それが自分の腕の意趣返しのつもりらしいといづるが気づいたのはだいぶ後になってからだ。
あぐらをかいて、いづるは映画でも見るような気分で飛縁魔と牛頭天王の戦いを見物していた。
もはや自分にできることはなにもない。門倉いづるの戦いは、すでにケリがついている。
そのとき、首藤星彦の生首が、なにか囁いた。
「ん? なんだよ」
「なんで……わかった? 俺の首が……あそこにあるって」
首藤の首に、恨みつらみの色はない。その顔は、長い旅路の果てにとうとう倒れ伏した旅人のように、ただ疲れ、やつれていた。いづるは柔らかくその首を抱えながら、口元をほころばせた。よくぞ聞いてくれた、と言いたげに。
「視線だよ」
「視線……?」
「ああ。おまえはたぶん、あの牛の目と本物の目、両方から同時に見たり、一方に切り替えたりできるんだろう。シジマの入れ知恵か?」
「効率よく魂を稼げば、ずっと長く、あの世に留まっていられるって言われて……視線だって? 俺の視線を感じたっていうのか?」
いづるは首を振った。
庭での死闘は、いづるたちが会話している間も依然として続いている。牛頭天皇の錫杖フルスイングが火夜の鎧に覆われた腹部を直撃し、そのまま外壁まで吹っ飛ばした。ガラガラと崩れ落ちる瓦礫と砂塵を目をすがめて眺めながら、いづるはようやく微笑みをひっこめた。
「人は、自分と違うものには敏感なものなんだよ。ちょっとしたことでも、ひょっとしてこいつはやばいんじゃないか、自分にとって疫病神なんじゃないかって戦々恐々なのさ。どうやら俺も例外じゃなく、その本能に忠実らしくてね」
もうもうと土煙が外壁の際に立ち込めている。牛頭天皇が、錫状で煙色の霧ごと敵を屠ろうとそれを振りかぶる。落としきれなかった汚れのような残像を跡に、杖が瓦礫を木端微塵に打ち砕いた。
血も出なければ魂も飛び散らない。
牛頭天皇の上空に、火夜はいた。
両手でしっかりと握りしめた匕首を狙いを定めて、落下する。
「視界が二つある生き物の首の動きってのは興味深かったぜ。やっぱりミラーボールのなかの頭の視界に入った瞬間、牛の方の首が若干、うつむくんだよ。ほんのちょっとだけな」
「そんな、ことで……」
「小さいことだ。とても些細で、見落としたって誰も責められない。しかし、そういう細かいところで、俺とおまえの勝負のケリはついたんだ、首藤」
「…………」
斜め上から、流星のように火夜の刃が滑り、牛頭天皇の身体を切り裂いた。呆けたように身体が止まり、傷口から、蒸気のような魂が漏れ始めた。壊れた機械のようにいづるには見えた。
腕の中の首が、軽く、透けていく。
首藤は言った。
「俺は、なにも為せずに消えていくのか。なんのために、俺は生まれてきたんだろう」
「そいつは人類みんなの疑問だな。俺からおまえには、なにも言ってやれない。消えるなとも、おまえと友達でよかった、とも言わない」
「…………」
もう牛頭天皇に首藤の意識があろうとなかろうと、いづるにはどうでもいいことだった。
いつだってそうだ。状況は不明瞭で好機は出張中。都合のいいことなど巡ってこない。
「でもな、首藤。俺はこの勝負で、マジにびびったよ。負けるかもしれないとずっと思ってた」
「おまえが……? そんな……風には……」
「見えなかったか? 俺から見たおまえもそうだったよ。お互い、マジだったってわけだ」
残った右腕でくしゃくしゃと生首のほつれた髪をかき混ぜる。
「てめえは強かったぜ、首藤。それだけは、間違いねえよ」
生首がなにか囁いたが、いづるの耳には届かなかった。だが、誰にも届かない言葉が無意味だったとは限らない。
親友の最後の欠片は、泡のように黄昏を昇っていき、やがて黄昏のなかへと消え去った。
たったひとりになったいづるは、特に悲しげでもなく、それを眺めていた。
その拳だけが、主の心を映した鏡のように固く固く握られていた。
「いづる」
空を見るのをやめると、火夜が、泣き出す寸前のような顔をしていた。
「あたしは」
なにか言いかけるのをさえぎって、
「やるじゃん、姉御」といづるは、穏やかに微笑んだ。
気の抜けるようなその笑顔を見て、火夜はぷいっと顔をそらした。
赤い夕陽をその身に受けて、火夜は、炎のなかにいるようだった。
終章 アリス童子
そしてお祭り騒ぎになった。
気まぐれであれをやれこれはだめだと磊落に振舞っていた牛頭天皇は決して嫌われてはいなかったが、所詮は新参のよそ者であり、そいつがどういうやつであれでかい顔してんのは気に食わん、という妖怪が多かったのだ。新しいあの世の大王を信奉していたのは若い妖怪のごくごく一部だけだった。ちなみにこの大騒ぎ、先代が倒されたときにも開かれた。どいつもこいつも自分の上にいるやつの不幸がうれしくて仕方ないらしい。困った連中である。
閻魔大王の屋敷の庭には、大釜が運び込まれ、妖怪たちがえっさほっさと手当たり次第にブツを放り込んで熱してかき混ぜて闇鍋を練成していた。ぐつぐつの鍋から湯気とともに漂ってくるにおいは、悪臭ではないが異臭ではあった。運動したあとの汗みたいなにおいがした。だがまあ彼らにとっては、酒の肴にさえなってくれればゴミでもドロでも構わないのだろう。顔を赤くしたり青くしたりした鬼たちが虎縞パンツを振り回し、全裸で鍋の周りをぐるぐる回っている。酔っ払ってとぐろを巻いているろくろ首を乗り越え、ぬりかべに激突し、「近寄らないでこの変態ども!」と猫娘に猫パンチを喰らっても鬼たちはへこたれない。ぐるぐる回る。どんどん回る。太鼓が打ち鳴らされ、誰かが笛を吹いていた。
そんな乱痴気騒ぎの喧騒を遠く聞きながら、門倉いづるは屋根瓦の上で、空っぽの左袖をぶらぶらさせながら、酒を飲むでもなく、団子をかじるでもなく、ぼんやりとあの世横丁を俯瞰していた。戦後の下町なんて見たこともないのに、どうしてかひどく懐かしい。前世の記憶が精神の奥底で疼いているとでもいうのだろうか。
「……」
いづるは、首藤星彦が命を落としてからずっと考えてきたことがある。
(あいつは、わざとピアノ線に突っ込んでいったんじゃないだろうか)
事故があったのは夜道でのこと。細いピアノ線が見えようはずもない。
しかし、仮にもし月明かりや街灯の反射で、ピアノ線が見えることもあったかもしれない。
もし、首藤にピアノ線が見えていたとしても、
(あいつは生きることに飽いていた……避けなかったかも、しれない。俺とあいつはなんなんだろう。きっとこんな気持ち、そう、退屈すぎて死ぬなんて気持ち、シジマにはわからねえだろうな)
いまさら何を考えても仕方が無い。首藤星彦は消えたのだ。
次は――
「おーい、いづるぅ」
屋根の下から、火夜がひょこっと顔を出した。梯子をのぼってきたのだ。頬がリンゴのように赤い。ふらふらと身体が左右にゆれるたびに、片手に握ったとっくりから酒が滴っている。においだけで酔ってしまいそうな酒の香りがいづるの鼻腔を満たした。
「べろんべろんじゃん」
うひゃひゃ、と火夜は顔をとろけさせた。いとおしそうに腰に引っかけた満杯のずた袋を撫でている。牛頭天皇から滴った魂が、そこには詰まっている。
「まあな。なんてったっれ、あたしぃ、ヒーローだしぃ? これぐらいは許されるってゆーかぁ」
あの世の酒がどれほど強いのか知らないが、これはもう二日酔いは避けられまい。
「お気の毒さま」
「ひゃひゃ、なーにがお気の毒だよーぅ、このやろー」
げしげしと火夜がいづるのわき腹を小突く。手甲があたって地味に痛い。
おいよせ、といづるが言いかけたとき、とん、といづるの胸に火夜の頭がもたれかかってきた。火夜の体温が鎧越しにさえ伝わってくる。
「……姉御?」
「あたしさぁ、ほんとはさぁ、親父の敵討ちなんかする気なかったんだぜ」
「…………」
「やっぱ強いじゃん? おまえが、その、なかなか役に立つ掘り出し物だったからなんとかなったけどさぁ、あたしだけじゃ絶対無理だったよぉ」
「そんなことないだろ」
「や、無理だった。むーりーむーりー! うひゃひゃ!」
でもな、と続ける火夜がどんな表情をしているのか、いづるにはわからない。
「おまえを見ているうちに、なんか、ちげーよなって思ったんだよ。ちげーって。こんなのあたしじゃねーって。あたしがほしかったのは、望んでたのは、こんなんじゃねーって……本当のあたしは、もっと……あたしバカだからなんて言えばいーのかわかんねーけど……ありがとな、いづる」
いづるが返事を考えている間に、火夜の瞼はひっそりと閉じられていた。
その寝顔を見ているうちに、いづるの胸に、なにか暖かいものがこみ上げてくる。
(どうにも俺は、死んでから得るものが多すぎるな……はじめからこっちに生まれてりゃあ、もう少し、長生きできたのかもしれねえ)
いまとなっては、なにもかも遅いのだが――
「ほんとうに、そうかい?」
聞きなれた声の冷たい響きに、いづるは不意に肩を叩かれたように顔をあげた。
いつの間にか、そこに立っていたのは、
「アリス」
「ふふふ」
青い着物の裾を風にはためかせながら、アリスは屋根を少し進み、座り込んだいづると同じ目線になるところで立ち止まった。
うら寂しい風の音と、火夜の安らかな寝息。
笛の音がやんでいた。
「僕のことは知っているはずだよね。土御門の倅に尋ねていたのを知っているもの。
はじめまして、門倉いづるくん。そしてよろしく。
僕が泰山府君だ」
アリスの顔をした誰かは、おどけて敬礼してみせた。
いづるは怪訝そうな顔でアリスの白い顔を見やった。
「アリス、ふざけてんのか」
「気になるのなら、読んでみればいいじゃないか。人の心を読むのは得意なんだろ、亡霊ギャンブラーくん」
挑発的なセリフに乗らないいづるではない。ぐっと目を細めて、アリスの姿をしたものとしばし見詰め合う。
「……泰山府君だと? 俺は陰陽師なんかじゃないぜ。何のようだ」
「君は陰陽師ではなくても立派に魔を祓ったじゃないか。あの、ただ燃え盛る己の生命力に焼き尽くされてしまった哀れな悪霊を、さ」
悪霊、とアリスの唇が囁いたとき、いづるの眉がぴくぴくと引きつった。
「あいつは悪霊なんかじゃない」
「じゃ、なんだったのかな。鬼? 魔物? なんでもいいじゃないか、自我を崩壊させられた、ただの絞りかすであることに違いはない」
「おい」針の先のような鋭い視線を受けて、泰山府君は肩をすくめた。
「なんだ、意外と熱血漢なんだね。もっとクールだと思ってた」
「てめえが気に入らないだけだ」
「それはどうもお生憎。ま、許しておくれよ。こうして誰かの前に姿を見せるのは千年ぶりなんだからさ」
「アリスをどうした」
「ふふん、この座敷童子《ざしきわらし》か。身体を貸してくれと頼んだら、仕事をしてくれればそれでいいと快諾してくれてね。いやパツキンだなんて最初はびびったけどいい子で助かった」
「座敷童子?」
「あれ、知らなかったかな。そう、この子は幸せを呼ぶ精霊……。君がツイてたのも、この子のおかげかもね」
「ふん、で、いまさら神様が何の用だ」
「君に素敵な提案をしようと思ってね。わざわざ身体を借りてまでやってきたのだ」
「ふん、おことわ」
「生き返らせてやるよ、門倉いづる」
一陣の風が吹いた。
泰山府君は薄い胸を張って主張した。
「これでも生死を司る神なんでね、死にやがった不良品の返品ぐらい朝飯前さ」
「ちょっと待てよ。俺の身体はもう焼かれてるはずだ」
淡々としたいづるの質問に、呆れたように泰山府君がため息をもらす。
「ショッキングなことを他人事みたいに言う人だね……」
「もう俺のものじゃないからな」
「タフなやつ……。ま、正確には生き返らせるというか、時間をちょっと巻き戻すんだけどね。あの事故の日までに。あの世とこの世の時間はちょっとずれているんだが、それごと直してやるよ」
「どうしてそんなことをする?」
「君の情熱が僕の気まぐれを誘発させたのさ」
「シジマの元へはいかなかったくせにか」
「気まぐれとは、己にも制御できないから素晴らしいのだよ」
鼻と鼻が触れ合うほど近くに、泰山府君は顔を寄せてきた。澄んだ青い目の奥に何かがいる。
弓を引いた唇から甘い言葉が囁かれた。
「どうだい、すべて無かったことにしてやるよ。なんなら君だけに、特別にこの素晴らしい冒険の記憶を残してやってもいい」
「もう一度……人生を」
「ああ。もしかしてあの世の方がお好みだったら、生身で行き来できる道を教えてやってもいい」
いづるはあの世横丁を見ていた。
「至れり尽くせりだな」
「ふふ、どうでもいい虫けらをなぜか踏まずに歩いてしまうことがあるだろ? いま僕は、そんな気持ちなんだ」
アリスは一歩引いて、後ろ手を組み、ませた上目づかいをいづるに向けた。
いづるは、すやすやと眠る火夜の額にかかった幾筋かの髪を指で払う。
「どうする? 破格のプレゼントだと自負しているんだが……」
「ああ、断るやつなんていないだろうよ」
「だろう?」
満足げに泰山府君がうなずいたのをしかと見届けてから、いづるはにやっと笑った。
「この俺以外はな」
「……なんだって?」
「お断りだって言ったんだ。失せろ迷信」
犬でも追い払うようにいづるはしっしと手を振った。
用なし扱いされた神は不服そうに口をすぼめる。
「ちょっと君が何言ってるかわからないんだが、断るだって? なぜ」
「おまえにはわからんだろうよ。俺自身にもよくわからないんだから」
「消えたいっていうことか? もう存在していたくないと?」
「べつにそういうわけでもない。死んでから、皮肉なことに、友達も増えたしな」
「だったら」泰山府君は同じ質問を繰り返す。「なぜ?」
「俺は、生きてるとき、たった一度きり、その言葉だけに惹かれて生きてきた。死ねば消える。だから生きる。そう信じてきた。ほかの意見を踏みにじってきた。だから最後まで踏みにじらなきゃならない」
首藤も消しちまったしな、といづるは皮肉そうに笑った。が、そこに後悔や反省の色はない。
「誰がなんと言おうと、死んだら終わりなんだ。じゃなきゃキリがないし、いま生きてるやつらに申し訳が立たないよ。勝手に生きまくった挙句にのうのうと暮らすなんてな」
「そうしてるやつらもいるぞ」
「そうしたいやつらは、そうすればいい。俺には関係ない。ロスタイムは終わった。ケリはついた。夏休みは、九月になっちまうものなんだ」
「じゃあ、君は、自分が間違っていたことを認めたくないから、このまま消えるというのか……なんて、わがままな男。ますます好きになってしまいそうだ」
「てめえと気が合うとは思えねえ」
ははは、と泰山府君は笑い飛ばした。自分の見立てに狂いはなかった、と言いたげに。
「わかった。じゃ、この話は無かったことにしよう。それじゃあ僕は帰るよ。仕事も終わったしね」
「そうかい……仕事? 笛吹きじゃねえのか?」
「門倉いづる、なぜ座敷童子が宿主に富を集めるか知ってるかい? どうしてわざわざ誰かに幸福を集めさせるのかを……」
いつの間にか、火夜が握っていたはずの袋がアリスの手におさまっていた。
「つまり……あばよってことさ!」
「あっ」
着物の裾をはためかせて、アリスは屋根から飛び降りた。伸ばしかけた手が宙をかく。おそらく追いかけてもそこには誰もいないのだろう。
いづるは手をひっこめて、火夜の寝顔を見やった。これはとても怒られそうだ。
「でも、まあ、いいか」いづるは眠たげに眼をこすった。「どうせ、姉御が起きる前には、もう……」
火夜を屋根の上に寝かせ、なにかハンカチでも頭の下に敷いてやろうかと珍しく親切心を発揮し、いづるは制服のポケットに手を突っ込んだ。
ちゃり、と冷たいものに指先がふれた。
引っ張り出してみると、どこから紛れ込んだのか、それは一枚の魂貨だった。
じっといづるはあの世の貨幣を、魂の行く末を、自分の未来を見つめた。
妖怪たちはとてもうまそうにこれを喰う。
最後に、悪戯心がむくむくと大きくなった。
にやっと笑って、ぱくりと口に放り込んだ魂貨を、思い切り噛み砕く。
人の心は、甘い鋼の味がした。