「視られたがり」
一
「視られたがり」は胸の高鳴りを抑えることができなかった。
自然と口元が歪み、笑みを浮かべると目の前で横たわるソレを愛おしそうに見つめてしまう。
両手足、そして頭部をがっちりと固定され、仰向けのままソレは眠っていた。もうそろそろ起きる頃だろう。「視られたがり」は逸る気持ちをぐっと飲み込み、ソレが目覚めるのを待つ。
数日ぶりだ。もう欲しくて堪らなくなっていたところに、素敵な目を持っているソレが現れた。「視られたがり」はソレの目を自らのものとしたかった。
「……ここは?」
もぞもぞと身を捩じらせてソレは目覚める。それから手足を動かそうとして、今自身の置かれている状況を、まだ輪郭の歪む意識の中で何故私はこんな状況に置かれているのかと考え、唯一動く目で周囲を見回した。
「ようこそ」
ソレはぎょろり、と声のした方を見て、それから「視られたがり」の背後のスチールラックを見て、ひぃ、と声が漏れてしまう。
「視られたがり」はソレの反応に、恍惚とした表情を浮かべる。
――目だ。
――沢山の目に、見つめられている。
ここは、地下室だろうか。ソレは目だけを動かし、混濁した意識の中でどうにか状況の理解を図ろうとする。コンクリートの無感情的な冷たい天井がソレを見下ろし、四方には多くの目がソレをじっと見つめていた。
「君の瞳は、とても素敵だ」
「視られたがり」はそう呟くと、まるで酩酊しているように緩んだ顔をソレにそっと近づけ、頬を撫でた。ソレは小さな悲鳴を漏らし、唯一動くことのできる目を逸らす。
何故、私がこんな目に遭っているのだろう。遭わなくてはならないのだろうか。ひたすら自問を繰り返すが、自答はできず、投げかけられた疑問は泡となって溶けて消えていった。
とにかく、一つだけはっきりとしていることがあった。
五体満足で帰ることはできない。いや、帰ることすらできないかもしれない。
「視られたがり」は満足するまで頬を撫でまわした後、ソレから離れると、寝かされている台のすぐ傍に手を伸ばす。カチャリ、とスチール製のプレートと「視られたがり」の手にした器具が触れ合って、硬質な音が響く。何だ、一体何が始まろうとしているのか。ソレは視線を横に巡らせるが、その位置から「視られたがり」の手にしたものは確認ができない。
「前から気になっていたんだ、君のその瞳」
ソレは、目の前に現れた器具が始め、一体何であるのか理解できなかった。いや、理解したくなかったという方が正しいのかもしれない。先端がリング状の器具と、「視られたがり」の言葉。この二つから割り出されるのは、この先起きる出来事は一つしかない。ソレはここから逃げ出そうと体をもがくが、がっちりと固定されたその身体が動くことはなかった。
「君の視線が欲しくてたまらない」
リングが右の瞼に固定される。強引に開かれたことによって、じわりと涙腺が刺激され涙が滲む。溢れるように次々とにじみ出た涙が、遂には目の端から流れ出した。はたしてこれは刺激されたことによるのか、恐怖からなのか、どちらでもいい。誰かこの状況から私を解き放ってくれ。ソレは歯を固く食い縛りそう念じるが、開いたままの目に映る恍惚とした「視られたがり」を見て、それは最早叶わないのだろうと思った。諦めたくないけれど、もう次の瞬間にはきっと……。
「ああ、どこまでも素敵だ。瞳の色も、眼球も。涙によって潤んだその姿も麗しい……」
「視られたがり」はそっと呟くと、器具で固定されたままの眼球にそっと顔を寄せると、キスをした。突然の出来事にソレは大きな悲鳴を上げ、体を震わせる。ガチガチ、と固定器具と寝台がぶつかりあって金属的な音を鳴らす。どうも「視られたがり」はその音が嫌いなようで、それまでの恍惚とした表情から一転し、機嫌の悪そうな歪んだ表情を浮かべた。
「全く、何故これほどまでに素晴らしい目を持ちながら、何故、持ち主はこんなにも醜いのか」
「貴方は……一体……?」
「君に用はないんだ」
――ずるり。
初め、ソレは何が起こったのか分からなかった。固定された目の端にずぶずぶと「視られたがり」の人差し指が沈んでいく。目がうまく動かない。異物感と共に、沁みるような痛みが沸き上がっていく。
「あ、あ、ああ……!」
人差し指が回ると、眼球がソレの中から抉りだされる。ソレの視界が揺れて、縦横無尽に右の視界が暴れまわる。沁みる、まるで針にちくりと貫かれているような痛みにもう片方の瞼を思わず固く閉じてしまう。
右の視界が、「視られたがり」の掌の上で止まる。
眼球をくり抜かれたショックと激痛にソレはとうとう声を上げてしまった。喉が潰れんばかりの悲鳴に「視られたがり」は眉を顰めつつ、プレートに乗ったナイフに手を伸ばすと、眼球とソレを繋ぐラインにあてがい、そして……。
ぷつん、と断ち切った。
「あ、ああ……あああ!」
空洞溶かしたソレの右の目から紅と白濁した液体の混ざり合った涙が溢れ出す。左の瞳孔が開き、ソレは更に乱暴に身体を捩る。
「私の目」とうわ言のように呟くソレを尻目に、抉りだされた眼球を掌に乗せたまま、「視られたがり」は胸が高鳴るのを感じていた。濡れた手の中に収まった眼球は、乳白色に赤い根が張り、少し出っ張るように膨らんだ瞳が浮かんでいる。
瞳に映る自身の姿を見て、「視られたがり」は堪え切れず笑みを浮かべ、もう一度瞳にキスをすると、スチールラックから円筒形の容器を持ち出し蓋を開け、液に満たされた容器の中へ眼球を落とした。
とぷん、と小さな飛沫を上げて眼球が沈んでいく。
「返してよ! 私の返して!」
ヒステリック気味に叫び続けるソレを嫌悪感に塗れた目で見つめると、「視られたがり」はそっと微笑み、右側にはめ込んだままのリングを抜き取った。そうして、次は左の眼にリングを押し付ける。
「嘘、でしょ……」
その両の眼に見つめられたい。瞳にこの姿を映して欲しい。
部屋一面に飾られた眼球達は、血に濡れた指を下していく「視られたがり」と、とうとう恐怖で声すら出なくなってしまったソレの姿をじっと見つめていた。何も言わず、何の感情も抱かず、ただ眼の前で起こる光景を傍観していた。
【行方不明の女性、両目を負傷した状態で発見。
四日ほど前に行方が不明となっていた女子大生が黒鵜町の駅前で倒れているのが発見された。女性は現在病院に運ばれたが失明し、混乱状態となっているため、後日詳しい話を聴取する予定である。
数年前から続く目を対象とした奇怪な事件だが、未だ犯人の身元が不明。今年に入ってから事件が起きていなかったことから逃走中と見られていた。今後は事件の発生した黒鵜町を中心に捜査を行う予定である】
ニ
滑らかな白い壁を背面に、篠森紫乃は珍しく白いドレスを身に付けて立っていた。彼女自身もどうやら黒以外の服装に慣れないらしく、何度も首を傾げながら衣装に目を向けている。すぐにでも脱ぎたい。そんな感情が読み取れるほど、紫乃の水っぽい潤んだ瞳は不機嫌そうに揺れていた。そんな彼女の顔を見て蒼太は微笑む。彼女とは真逆の、入口側の壁に背を預けた彼の表情は多分紫乃には見えない。光源が調整され、彼の辺りがとても薄暗くなっているからだ。もしも彼女が彼の微笑みを見ていたら、更に不機嫌そうな顔になっていただろう。
そんな彼女の目の前に、アシスタントの作業を受け持つ男性と、一眼レフを提げた女性が立っていた。
短髪でメタルフレームの眼鏡を付け、紺色のシャツを身に付けた男で、名前は漆原雅人、対する女性の方は若葉萌と言い、ウェーブのかかった茶髪と赤縁の眼鏡が印象的な、少し大人びた女性だ。二人共ドレスを身につけた紫乃を見て満足げな表情を浮かべている。どうやら理想通りの絵になったらしい。
ぱっくりと開いた胸元に鎖骨が浮き出ている。その下に程よく膨らんだ胸の谷間がうっすらと姿を表わしていた。コルセットのように細い腰の造りが彼女のラインを引き出し、地面へと伸びるレース状のスカートとの対比で体はより細く見え、汚れ一つない白は、彼女の肌の色を際立たせていた。元々陶器のように白い彼女だが、純白を身に付けることによって薄らと赤らんだように肌の色が浮き出てみえる。ただ、彼女自身の要望で髪型だけは普段と変わらずなことが少し残念だ。蒼太は腕を組んだまま彼女の珍しい白い服装を満喫する。
撮影の中にふと周囲を見回してみる。スタッフはどうやら今は二人だけらしい。もしかしたら他の仕事で出払っているのかもしれない。ところどころに化粧台やフィルム等が転がっている。多分それなりの人数がいるのだろう。無造作な散らかり方を見て、蒼太はそう思った。
「――撮りますね」
若葉はそう言うとカメラを構え、ファインダーの中に紫乃の姿を納める。紫乃は戸惑いながらもぎこちなく微笑んだ。口元が緩み、目元を細くしただけのもの。
「そんな緊張しなくてもいいから。一回深呼吸して、いつもみたいに笑ってみせて」
若葉の言葉を聞いて、紫乃は目を閉じると小さな口で思い切り息を吸って、吐く。どうやらどこかにあった堅い気持ちがほぐれたようだ。紫乃が次に目を開けた時、蒼太を誘惑する時に使う柔らかな笑みが彼女の顔に浮かんでいた。水気のあるうるんだ瞳が、更に彼女を引き立てている。
シャッターが降りて、若葉が小さく頷く。どうやらいい具合だったらしい。若葉は足を動かして様々な箇所から紫乃を撮影していく。
シャッター音。
シャッター音。
シャッター音。
――二日前
その日二人は午後からの講義で、紫乃の提案で黒鵜町の隅にできた肉料理の美味しい喫茶店で昼食を済ませてから大学に向かうことになっていた。
昼間でも人気の少ない町並みを満腹感と共に歩きながら、彼らは白鷺町へと徒歩で向かっていた。普段なら電車を使うところだが、今日は店主がやけにご機嫌で蒼太も紫乃も普段よりも量の多い肉をこれでもかとお見舞いされてしまい、腹ごなしにでもと彼女が更に提案したのだった。
「今日は本当に多かった」
「私はあまり食べないからって言っているのに、あの人は何を考えているのかしら」
紫乃は若干輪郭の丸くなった腹部を撫でながら、不機嫌そうに呟く。
「結局紫乃の残した分、僕が食べる羽目になったからなあ」
黒いチュニックのおかげでそれほど目立ちはしないが、彼女にしては随分と食べていた。普段から彼女を見ている蒼太には、腹部の変化がなんとなく分かった。
「あんなに量を増やす店主が悪いわ」
低い声で紫乃は言うと、唇を噛む。そんな彼女の表情を苦笑しながら見つめた後、蒼太はリュックからペットボトルを取り出して水を飲む。
空は灰色の雲がぎっしりと敷き詰められており、いつも強烈な光を吐き出している日差しは姿を隠していた。陽の下を紫乃はあまり好まない。もしも陽が出ていたとしたら彼女は例え苦しくても歩くという選択肢を選びはしなかっただろう。
ふと、紫乃は振り返ると目を細めた。彼女の動作に蒼太も思わず振り向いたが、白鷺町へと繋がるこの通りからは黒鵜駅とビル街しか見えない。左右にはシャッターの下りた店と人の気配のしない住宅が数件並ぶだけだ。
「実はね、蒼太君に隠していることがあったの」
紫乃の言葉に蒼太は首を傾げる。彼女はその反応を見てふふ、と笑みを漏らすと、水気のある潤んだ瞳に彼を映す。
「私、今ストーカーがいるみたいなの」
「ストーカー?」
「そう、私の魅力の虜になった人。時折私をつけているのよ。それも決まって五、六メートルくらい後ろをね」
どこか嬉しそうに語る紫乃を、蒼太はじっと見つめる。その眼差しに気づいたのか、彼女はそっと首を横に振った。
「残念だけど、貴方の前で死ぬことはできそうにないわ。私に近づこうとも、ごみ箱を漁ったりもしない。ただ後ろから着いて見ているだけみたいだから」
その言葉を聞いて、蒼太は安堵した。どうやら彼女のお眼鏡に適うような人物ではないらしい。その証拠に彼女もさほど興味を抱いてはいない。ただストーカーという言葉に興味を示しているようで、彼女の告白は被害を被っているというより、どこか誇らしげだ。
なんにせよ被害がないのなら問題はない。暫くすればストーカーも落ち着くだろう。彼女に何か危害を及ぼすようなら始末すれば良いだけだ。蒼太はもう一度背後を見つめ、それから人の気配がないことを確認すると再び歩き出す。
「ほんと、狂信的な人だったら良かったのに」
「ちなみに、ごみ箱ってどこの?」
「黒鵜駅の改札前のよ」
「何を捨てたの?」
紫乃は顎に指を当てて暫く考えた後、怪しく微笑んだ。
「ナイショ」
多分、相当えげつないものを捨てたのだろう。熱狂的な“ファン”なら激しく興奮しそうな何かを。
二十分程歩き続けて、二人はようやく大学へと到着した。時刻は十二時半。講義までまだ少し時間の余裕がある。どうにかあの重い昼食も消化できつつあるようで、店を出た時よりは多少気分が良くなっていた。
どこかで涼みましょう、という紫乃の言葉に乗ると、蒼太は大学の門を抜けて校舎へと向かう。
――刹那、二人の前に一台のバイクが滑りこむようにして止まった。
ぴったりとした黒いライダースーツを着た女性―身体のラインと胸のかたちから、女性であることは分かった―は駆動音を上げる単車から降りると、艶のあるブラックのメットを脱いで頭を数回振った。ウェーブのかかった茶色い髪が左右に揺れる。
「ねえ、もしかして篠森さんかしら?」
ライダースーツ姿の女性に声をかけられ、紫乃は暫く彼女の顔を見つめた後、そっと頷く。ああ良かったと彼女は安堵すると、改めて紫乃に目を向けた。
「私、写真部で会長をやっている若葉萌です。始めまして」
にっこりとほほ笑む若葉を、蒼太はぼんやりと見つめる。赤い縁の眼鏡から覗くつり上がった目が印象的な女性だ。
蒼太は視線を反らして単車を見る。後部座席に一眼レフと思しきケースが固定されているのが見える。
「何です?」
この大学で篠森紫乃に声をかけるという行為。それはとても非日常的な光景だ。少なくとも蒼太の傍にいる時以外彼女が何か抑揚のある表情や言葉を口にすることはない。蒼太と離れている時は必ず一人で行動し、声をかけられても機械的な返答で済ますような女性だ。案の定、若葉萌に対しても彼女は無表情を貫いていた。
「この大学の文化祭、あと一か月後くらいじゃない。私、最後の文化祭だからできたらね、今まで撮ったことのない被写体を写真に残したい、発表したいって思っているの。それで、貴方にモデルをお願いしたいのだけれど、了承してもらえないかしら?」
若葉はそう言うと両手を合わせる。対する紫乃は相変わらず無表情のままで手を合わせる彼女の姿を見つめている。さて、彼女がこうなってしまってから始めてのパターンだ。どのような返答を返すのだろう。蒼太は口を閉ざしたままその二人の姿をじっと見つめる。
「――引き受けます」
初め、蒼太は彼女の口から出た言葉が理解できなかった。紫乃は相変わらず無表情のまま頷くと、彼女の手をそっと包んだ。若葉自身も一種の賭けだったようで、目を大きく見開いて紫乃を見つめた後、歓喜に満ちた笑みを浮かべて差しのべられた彼女の手を握り締めた。
「日時も場所もいつでも大丈夫です」
紫乃の言葉に、若葉はスケジュール帳を開くと、申し訳なさそうに二日後を提示する。流石に無理があるかもしれないと思っていたが、紫乃は頷くと、二日後にこの場所にいると若葉に伝え、それから蒼太の手を取ると校舎へと入っていった。
「本当にありがとう!」
背後からの若葉の声が廊下に木霊する。予想外の反応に戸惑ったまま彼女についていく蒼太はもう一度玄関を見た後、紫乃の顔を横から見つめる。
無表情、であることに変わりはないのだが、不思議とその水気の多い瞳は、いつもより揺らいでいるように見えた。
講義を終え、足早に教室を出ていく紫乃を蒼太は追いかけると、隣に並んだ。講義終わりの学生でごった返しの廊下を、二人はうまくすり抜けるようにして進んでいく。
蒼太は無言のまま、食堂へと歩いて行く彼女の横顔を見つめていた。今日の彼女は何かがおかしい。普段なら即座にノーと答えたであろう頼みを引き受けるなんて、蒼太にはとても想像しえなかった出来事だった。
講義が同じ時は蒼太が立つまで席に座り続け、隣に並んで歩いていると必ず何か話し、その会話に満足な返答がくることを、怪しく揺れる瞳で蒼太を見つめながら待つ女性だが、今日はそのどれにも当てはまらない。むしろ意図的に避けているといった風すらある。
「何か、機嫌の悪いことでもあったのかな」
ぼそりと口にした言葉に、紫乃は立ち止まった。何歩か先を歩いたところで慌てて蒼太は止まると、振り返って彼女を見た。
彼女の顔に、喜怒哀楽は映っていない。何も書かれていない真っ白な状態だ。そんな表情を浮かべ、潤んだ水っぽい瞳だけを蒼太に向けている。瞳に映る蒼太の姿が時折揺らぐ。彼女の瞳は、まるで水面に一滴の雫が落ちた時のように波紋が広がっている。
「貴方のことではないわ。安心して」
淡々とした口調でそう言うと、紫乃は蒼太の横を通り抜けると、食堂へと入っていってしまった。黒いチュニックを着た彼女の背中を見つめながら、どうにも納得がいかない気持ちを嘆息と共に外へ吐き出すと、蒼太も後を追うように食堂へ入った。
大声で喋り、大声で笑う集団に目を細めながら、蒼太は最奥の席に座った。提げていたショルダーバッグを下ろして背もたれに身体を預けると、全身に溜まった緊張がするりと溶けていくのを感じた。この時間帯は視覚的にも聴覚的にも肉体的にも疲労感があるのが食堂だ。よくもまああれだけ機銃でも撃つみたいに喋り続けることができるものだ。周囲の目も気にせず騒ぐグループの席をちらりと横に見て、それから紫乃へと視線を戻した。
紫乃は口を閉ざしたまま携帯を見つめ、文字を打っては消してを繰り返している。画面を覗くのもなんだか悪いので、蒼太は頬杖を着くとぼんやりと肩提げ鞄に目をやり、それから右手で中を弄る。硬い感触を指先に感じる。蒼太は更にその輪郭をなぞり、それがナイフのグリップであることを理解すると、その下の鞘にも手を触れた。非常に硬い素材でできた鞘だ。わざわざ歯を出さなくてもこれだけで打撃を与えることも可能だろう。先ほど昼食のために寄った喫茶店で、店主から渡されたものだ。随分と良い物だと蒼太は聞いている。確かに材質もこの頑丈さも、鋭いナイフが誤った相手を傷つけてしまう心配を限りなく減らすには重要なものだ。まだ一度も利用したことはないが、手に馴染ませるために何度か抜き、切れ味も確かめておいた。所詮ナイフではあるが、少なくとも市販の包丁よりは鋭く斬ることができそうだ。
改めて店主と対峙した際のナイフと威力の差を比べてみたが、こんなもので応対しようとしていたのか、と思わず自嘲的な笑みをこぼしてしまうほどだった。むしろ今まで運が良かっただけなのかもしれない。
蒼太が鞄を肩提げにしたのも、取り出しや不意打ちに向いているかもしれないと考えた為で、ナイフが中に入っている状態で振り回してもそれなりの攻撃にはなるようだった。
「もうすぐ、何の日か分かってる?」
刃物について蒼太が思考を巡らせていると、ふと携帯を見つめていた紫乃の小さな口が動く。紅色のルージュが証明の灯りで怪しく輝いた。蒼太は暫く天井を見上げ、それからナイフに触れていた手を鞄から引っ込めて言った。
「兄さんの誕生日だね」
蒼太の兄である藍野紅一の誕生日。蒼太も決して忘れてなどいなかった。いや、忘れることができるはずがなかった。
「私ね、紅一さんの誕生日に、初めて抱いてもらうことになっていたの」
坦々とした口調で紫乃はそう告げる。携帯を見続け、文字を打ち続ける紫乃の表情は、いたって穏やかだ。まるで世間話でもするみたいに語られた兄と紫乃の性事情に、蒼太はただふうん、と頷くしかできず。行き場を失った目線をどうしようかと考えた結果、彼もまたポケットから携帯を取り出すことにする。
「不思議でしょう、付き合い始めてから一度も求められたことがなくて、もしかしたら私はあまり魅力的ではないのかな、とも思っていたの」
「そんなことない、君は十分に魅力的だよ」
「ありがとう。でね、紅一さん、あるとき私に言ったの。【俺の大事な日に君が欲しい】って。私とても嬉しかったわ。彼の隣にいることで私は満たされているけれど、でも彼はどうなんだろうってずっと気になっていたから。ああ、私のことを求めてくれているんだって知ることができて、嬉しかった。とても恥ずかしかったけど、私は頷いたの。彼が望むのなら、私を全部あげるって言った。そうしたら、紅一さん、頬を赤らめてね、私のスケジュール帳を開けて、自分の誕生日に赤いペンで丸をして、それで笑ったの。可愛いでしょう」
ディスプレイを打つ力が強くなっている。カツ、カツ、カツと彼女の爪がディスプレイに何度も、一定のリズムで当たる。耳を塞ぎたい衝動を必死で抑え、蒼太は携帯をじっと見つめる。
「特別な日になったら、ちょっと張り切った服がいいかなって聞いたの。彼ね、こう言ってくれたのよ」
――白がいいな。君は白がとっても似合うから。
「それが、理由」
紫乃は最後の一言を言い終わるか終わらないかのうちに席を立ち、パンプスで床を鳴らしながら食堂を出ていってしまった。その間、蒼太はじっとディスプレイを食い入るように見つめていた。
紫乃から、たった今、彼女が席を立つと同時に送られてきたものだった。蒼太は暫くその文面から目が離れなかった。呼吸のしかたを忘れてしまったみたいに息苦しくて、脈が体中で暴れまわるのがよく分かる。こめかみがどくどくと音を立てている。
テーブルに座って手を叩きながら声を上げて笑う金髪。
返却口のプレートを取り落として床にぶち撒ける中年女性。
すれ違った紫乃に思わず声をかけ、無反応であることに舌を打つスポーツ刈の男。
あまりの騒がしさに堪り兼ねて怒鳴る中年店員。
食堂は、非常に騒々しく、そこにいる者全てに不快な雑音を吐き出し続けていた。来訪者を拒むような不協和音の連鎖に顔を顰めながら、学生たちはテーブルという自らの世界を守るべく自らの音を大きくして対抗している。無法地帯と呼ばれても、誰一人として否定はできないだろう。それ程に食堂のマナーは地に落ちていた。
だが、それら全てを、蒼太は不協和音とは思わなかった。いや、むしろ今の彼には聞こえているのかどうかさえ怪しかった。
『タイトル:何故 本文:代わりに死ねなかったの?』
宛先には、藍野蒼太と篠森紫乃、二人の名前が記入されていた。
三
撮影が休憩に入り、若葉はミネラルウォーターを紫乃に渡すと、壁際の椅子に座った。撮影舞台から二人が離れた頃合いを見計らって、漆原は照明の点検を始めた。
蒼太は三人の同行を眺めた後、壁から離れると漆原の元へと歩み寄った。
「お疲れ様です。彼女、どうです?」
振り向いた漆原は愛想のいい笑顔を蒼太に向け、満足気に頷く。眼鏡のフレームが照明の光を受けて輝いていて、少しだけ眩しい。
「本当にありがたいよ。もうすぐ僕も彼女も引退でね。気合の入った写真を作りたかった。にしてもまさか篠森さんが承諾してくれるとはね」
本当に僕も驚いています。蒼太がそう言うと、漆原は腕を組み何度も頭を縦に振った。今目の前で彼女が撮れている事は、彼にとっては夢のようなのだろう。
「藍野君、だったかな。随分と彼女とも仲が良いようだし、君も何か口添えしてくれたのかな」
「いえ、僕は何も。彼女が自発的に撮られたいと言っていましたよ」
「ふうん、なんにせよ良い方向に話が進んでくれてよかった」
「ところで、紫乃を撮影したいと言い始めたのは、お二人のうちどちらなんです?」
漆原は振り向いて蒼太を見た。何故突然、とでも言いたげな表情だったが、その訝るような表情も次には笑みに変わった。
「俺だよ。実は彼女のこと、大分前から気になっていた」
「気になっていた?」
蒼太が言葉を繰り返すと、漆原はああ、と手を振って否定の意を示す。
「彼女の瞳がとても気になっていてね。髪の艶もあるし顔立ちや身体のラインもとても綺麗に整っている。服装は……正直入りたての頃の白っぽい服が多かった頃のほうが好きだったけれど」
漆原は頭を掻きながら、遠くで休憩する紫乃と若葉の姿をそのメタルフレームの視界に入れ、じっと見つめる。蒼太も一緒になって彼の視線の先を見たが、彼の言うとおり、白い衣服に身を包んだ紫乃は、普段の黒いチュニック姿の何倍も輝いて見えた。光の反射具合であるとか、そういった視覚的なものや普段黒い姿を見慣れているといった理由もあるのかもしれないが、しかしそれらを抜きにしても白い彼女は美しかった。
蒼太もまた、白い服装が多かった頃の紫乃に一目惚れしたのだ。漆原の言葉に肯定的な頷きを返す。
「萌ちゃんも頷いてくれてよかったよ」
「彼女は、反対だったんですか?」
漆原の嘆息と共に漏れでた言葉に、蒼太は目ざとく反応する。彼は慌てて首を振った。
「そういうわけじゃない。萌ちゃんはこだわりが強すぎてね。会長という立場ではあるんだけど、あまり部内でいい顔をされていないんだ。どんな時でもストイックで、結局今は俺くらいしか相手にする人がいなくなったよ。まあ共通の趣味があるっていうのも理由の一つなんだけど」
「趣味?」
「確か君に会いに来た時、結構なバイクで来てただろう? 俺も萌ちゃんもバイクがちょっとした趣味でね。カメラ持ってツーリングしに行ったりもしている。珍しい風景が撮れるって事もあるしね」
蒼太は若葉とのファーストコンタクトを思い出す。確かに、しっかりとライダースーツに身を固め、手入れの行き届いた単車に跨っていた。すると彼も同じようなものに乗っているのだろうか。外見からは二人ともあまりバイク乗りにはとてもじゃないが見えない。
「まあ、そんなこんなで我が部は会長が浮いてるのさ。今回の撮影も実は部員が別件とかじゃなくて、僕らが現像が終わるまで無理言って場所を空けてもらったんだ」
「そんな無茶をしたんですか? よく他の部員が黙ってませんでしたね」
漆原は肩を竦める。
「これが最後だから、皆も我慢してくれたんだろう。俺も何度も頭下げたし」
穏やかな表情でそう言うと、漆原は目を細めて若葉を見つめる。そんな彼の横顔を眺めながら、蒼太はポケットに手を突っ込んだ。
「漆原さんは、よっぽど好きなんですね」
ぽつりと呟いた言葉に、漆原は暫く目を丸くし、それから頬を赤らめると照れくさそうに頭をかく。気づいて欲しかった、ということもあるのだろう。蒼太の言葉を聞いて彼はとても満足そうだった。
「彼女が懸命になってる時とか、望むものが撮れた時の顔がね、素敵なんだ。初めはその顔を見ることができたらとても嬉しいくらいだった。でも駄目だね、気づいたらこうさ。彼女のいいところを見たいが為に、できることはなんでもしようとしてしまっている」
「いえ、その気持ち、分かります」
「これは秘密ね……といっても、彼女と今以上の関係に踏み込む勇気はまるでないんだけどね」
「きっと、大丈夫ですよ」
蒼太はそう言って笑うと、漆原はとても嬉しそうに明るい表情を浮かべた。大げさに眼鏡を拭いて掛け直すと、ちらりともう一度二人の方を見ていた。
――会長が浮いている。
始め紫乃の口説きを聞いていた時は、引退後も普通に部に参加なんてできるだろうになんて思っていたが、実際こういった話を聞く限り、彼女は本当に「これがここで撮れる最後の機会」のようだ。
ふと、蒼太は奥にある大きな窓が気になった。暗幕がされているが、それでも十分な大きさだ。
「この窓、撮影には不向きじゃありません?」
「ああ、まあ……俺達は部屋を選べないから。まあメリットもあるんだ」
そう言うと彼は暗幕をめくって蒼太に見せた。どうやら凹んだ通路の一番奥にこの部屋はあるらしく、コンクリートの無骨な路面、一本道のその先にはグラウンドが広がっていた。
「切羽詰まってる時は、ここの窓を開けておいて、こっそり忍び込めるんだ。凹んだ場所にあるからそんなに見つかりもしない。特に暗室を使うと時間を結構食うから、俺はよく使ってるよ」
彼はそう言うと笑みを浮かべ、再び暗幕で窓を閉じた。
テーブルで紫乃と会話をしていた若葉が時計を見て立ち上がる。それからきょろきょろと周囲を見回し、漆原に視線を向けると両手を振った。漆原もその合図に反応し、手際よく準備を終えると彼女の下へと駆けて行く。彼の後ろ姿を見送った後、蒼太は視線をずらして紫乃を見た。
彼女は、虚ろな表情を蒼太に向け、それからそっと微笑んだ。
――見ていられない。蒼太は目を逸らした後、そのまま部屋を出ていった。明るいステージを降りて扉まで向かう途中が酷く暗く見えて、向かいに立っている彼女がとても輝いて見えて、ああこれが今の状態なのかと蒼太は自嘲気味に笑う。
彼女は今幸せなのだ。兄との約束を果足すためならこれくらいの我慢はできるのだ。いや、紅一の為だからこそ彼女はここまでできるのだろう。顔に真っ黒な泥を塗りたくり、全身を裂かれて紅色に染まりたいという感情を真っ白な嘘で抑えている。
扉を閉めると、急に全身が弛緩して立っていられなくなった。蒼太は扉に背中を押し付けずるずると落ちていくと、そのまま蹲る。
今の彼女はどこまでも醜い。
どこか欠けた美しさも、完璧であった頃の美しさもない。自らの欠損した部分をパテで塗り固めて、あたかも自らで修復できたと思い込もうとしているだけだ。
窓から差し込む陽光が柔らかなものへと変わっていく。紺色が、薄く伸ばしたバターみたいに空に広がっていく。境界のぼんやりとした滑らかな紺色と橙の隙間で、日光はただそこに立ち臨んでいる。
夜が来るよ。そう彼らは告げていた。
蒼太は落下する夕方の陽に照らされて、扉の先から聞こえてくるシャッターの小気味良い音を聞いて、今すぐにでものた打ち回りたくなった。けれど、耐えなければならない。それこそが自分の罰であるのだから。平行線のまま生涯を終えることになろうとも、蒼太は紫乃の願望を阻止し続けなくてはならない。
今日も彼女は行くのだろうか。非日常の世界に。
蒼太は虚ろな目でそっと落ちていく陽を眺めながら、そんなことを思った。
撮影が終わり、部屋から出てきた紫乃はいつもどおりの黒のチュニックを身に着けていた。表情も穏やかで目もぼんやりとしている。随分と体力を消耗したのだろう。
「本当に今日はありがとう。おかげで良い写真が沢山撮れたよ。現像したら君達を呼ぶつもりだから、是非よろしく」
若葉は満足気に言うと蒼太に左手を差し出した。蒼太は暫くそれをじっと見つめた後、笑みを浮かべ是非、とその手を握り返す。続いて漆原とも握手をして軽く会話を交わし、蒼太は呆けている紫乃の右手を握ると手綱を引くような感覚で彼女を玄関口まで連れていく。
「疲れた」
「立ちっぱなしだったしね、慣れないことはとても疲労が溜まりやすい。今日はもう家に帰ってお休み」
紫乃は素直に頷いた。瞼が落ち始めている。紫乃の中で抵抗しようのない睡魔が着実に彼女の精神と肉体を蝕んでいるようだ。今日は黒鵜町に寄ることもないだろう。蒼太はほっとして靴を履くと、再び紫乃の右手を握った。
藍野君、と声がして蒼太は振り返った。廊下の奥の方から若葉が駆けてくる。ウェーブがかった茶髪の髪が左右に揺れて、鬱陶しそうに何度も彼女はそれを払う。
「どうしました?」
「なんだか今日は随分とお待たせしちゃったから、お詫びにこれどうぞ」
息を切らしながら若葉は蒼太にそっと缶コーヒーを手渡す。こんなことの為だけにわざわざ走ってきたのか。その不可解さに首を傾げつつ、蒼太は笑みを浮かべるとそっと缶コーヒーを受け取った。
「紫乃ちゃんも随分と疲れているみたいね。付き合わせてごめんね」
「大丈夫、今日は少しだけ寝不足だったから」
紫乃はそう言って、重たい瞼を無理やりこじ開けると彼女を見た。潤んだ瞳がどこかいつもより乾いているような、蒼太はそんな気がして、思わず紫乃を覗きこんでしまう。訝るように紫乃は蒼太に向けて首をかしげた後、息を整えている若葉にそっとお辞儀をする。
「ちなみに、写真はいつになりそうですか?」
「そうね、多分三、四日かしら。用意ができたらちゃんと呼ぶから、待っていてね」
紫乃はにっこりと笑うと、蒼太に向きなおして行こう、と小さく呟く。蒼太は紫乃の言葉に頷くと、一度だけ若葉を見て、それから玄関口を出た。すっかり夕闇が染み込んだ外に消えた二人を、若葉は穏やかな目で見ていた。
――ここ最近、目を狙う犯人がまた出たようね。
紫乃はそう言うと重たい瞼と足取りのまま駅へと歩いて行く。途中何度もよろけて転びそうになり、電柱に頭を打ったりを繰り返してやっとのことでの白鷺駅だった。蒼太が彼女の前髪をめくって覗いてみると、眉間に赤い痕が付いていた。どうやら重症ではないようなので明日になれば怪我も解決するだろう。
「一人で帰れる?」
ええ、と紫乃は頷くと、重たい足を引きずりながら改札を通り、やがて消えていった。蒼太は彼女の背中を見送った後、ふと思い立ち、改札を抜けると黒鵜町へ向かう電車に乗り込む。沈んだ陽の残す微かな陽光が、濃紺の空にじわりと流れこむ。ベルと共に発射した電車に揺られながら、蒼太は窓越しにそれを見つめ、それから鞄の中のナイフに触れた。硬い鞘の感触を指先に感じながら、蒼太は目を閉ざす。
先日からまた動き出した目を奪う犯人の事件。
最近になって始まった紫乃のストーカー。
彼女の水気の多い潤んだ瞳。
元々問題に巻き込まれる「特性」を持っている彼女だ。この事件にも知らず知らずのうちに関連している可能性が高い。特に、あの全てを見透かされ、揺さぶられるような瞳は、目だけを狙う異常者にとってはたまらないのではないだろうか。蒼太はそう考えていた。
今、蒼太の一つ先の車両にストーカーがいる。紫乃は特に何も言ってはいなかったが、学校を出てから一定の距離を必ず歩き、こちらが立ち止まると―止まることが自然になるようあえて彼女を電柱に誘導させ、額をぶつけさせたが、酷いことをしたと蒼太は少し後悔していた―彼も立ち止まり、二人の姿をじっと物陰から見つめていた。その姿を、蒼太は目の端でしっかりと捉えていた。
だからこそ、彼はどうやら気づかれていないと考え、最後の最後で油断したようだった。紫乃が消えた後に彼は帰宅ラッシュの群れに紛れて黒鵜町方向へ向かうプラットフォームへと向かっていった。堂々と蒼太の横をすれ違うようにして。
電車が止まり、車掌の到着のアナウンスが車内に流れ、両開きの扉が開いた。蒼太は暫く開いた扉ごしに外を観察してみる。
――彼が降りた。
グレーのジャケットとベージュのチノパン、ハットを被った猫背の男性が改札へと歩いて行く。胸ポケットからメモのようなものを取り出すとペンで何かを書いている。蒼太は一呼吸置いてから電車を降りた。電車が発車するのと同時に歩き出すと、蒼太は一定の距離を置いて彼の背中を追い始める。
流石に黒鵜町ともなると人の乗り降りが少ない。蒼太はできるだけ離れ、できる限り視界に男性の姿が入るように心掛けた。見つかってしまっては元も子もない。それに逆上して紫乃側に被害が及ぶ可能性だってある。ストーカーの心理は非常に揺れ動きやすく、小さなことで破裂してしまう。丁寧に扱わなくてはならない。
グレーのジャケットを羽織った男はビル街に入っていく。もうすぐ行くと喫茶店がある。多分彼はそこを少なくとも横切るだろうと判断した蒼太は携帯を取り出すと、その喫茶店へと電話をかける。
『お電話ありがとうございます』
「店主さん、僕です、蒼太です」
丁寧な挨拶に対し名前を告げると、店主はああ、と嬉しそうに声を漏らす。
『どうしたんだい突然』
「すみませんけど、今、仕事は何もありませんか?」
『お客も丁度出払ったところだし……。特に何もないが』
「窓の外から見ていて欲しい人物がいるんです。できれば写真も撮ってもらえると助かります。グレーのジャケットにベージュのチノパンを着た男性です。お願いできますか?」
店主はふむ、と小さく呟く。
『どうやら何かあったようだね。いいだろう、できる限りのことはさせてもらうよ』
そう言うと、店主は蒼太の返答も待たずに電話を切ってしまった。蒼太は深く息を吐き出すと、ビルの物陰から喫茶店のある道を覗きこんでみる。
男は、こちらを遠くからじっと見つめていた。ハッとして物陰に身体を引っ込めた。思いもよらない事態に蒼太の心臓がぎゅっと締め付けられ、途端に呼吸が苦しくなった。彼はこちらにやって来ているかもしれない。蒼太は聞こえてくる足音に耳を澄ます。彼は果たして近づいてきているか。
鞄からナイフを取り出すと、鞘に手をかけ唇を噛んだ。鞘で殴るか、刺すか。この判断でその後の展開は大きく変わる。あの男性が何か凶器の類でも持っていて、逆上してきた場合、鞘のままでは危険かもしれない。しかし、誤って殺傷してしまったらストーカーをしていた意味を聞き出すことができない。もしも彼が目を狙う異常者ではなかった場合、それこそ殺し損だ。
人を殺したくはない。しかし、万が一紫乃に危害があるようならここで殺すしかない。犯罪に対する嫌悪と、紫乃に対しての過保護さの間で蒼太は彷徨う。
――カツ、カツ、カツ。
足音はすぐそこまで迫っている。蒼太は、固く目を瞑り大きく深呼吸を一度すると、鞘から手を話し、グリップを握る手に添えた。
鼓動が高まる。背中に汗がにじみ出る。
「蒼太君」
向こうから顔を出したのは、店主だった。蒼太は暫く彼の顔を見つめ、やがて全身の緊張が解けたのか、鞘に入ったままのナイフを握りしめたままその場に座り込み、深く息をした。その姿を見て店主は小さな笑いを零すと、蒼太の目の前を指差す。
「隠れて不意打ちをするなら、周囲は確認しないと」
向かいのビルのガラスに、蒼太の姿がはっきりと映っていた。
「あの男は……?」
「ああ、うちを通りすぎて行ったよ。写真も撮っておいたから君に画像を送っておこう。それにしても、そのナイフを鞘から抜くつもりは、なかったのかい?」
店主の手を借りて蒼太は立ち上がると、道の先を覗いた。人の気配はなく、暗闇は大きな口を開けたまま横たわっているだけだ。
「僕は、人を殺したくありません」
額に滲んだ汗を拭うと、蒼太は呟いた。
「それは、私の時にも言っていたね」
「殺さなくちゃ、そうしなくちゃ紫乃を守れない。でも人を殺すことなんてしたくない。そう思いながら、でもいざやらなくちゃならない時がきたら、と思うと酷く怖くて、苦しくなる」
鞘に入ったままのナイフを見つめながら、蒼太はぼんやりとそう呟いた。店主はそんな彼の肩に手を回すと軽く叩き、喫茶店へと彼を連れて行く。
「そうまでして何故君は、あの子を守るんだい」
蒼太は何も言おうとはしなかった。店主もそれ以上は何も聞くことをせず、彼の背を何度も擦った。
「彼は壊れてなんかいないんだね」
店主の言葉に、蒼太は目を閉じた。
店内に入り、湯を沸かして熱いコーヒーを淹れるとうなだれる彼の前に置いた。接触もなく、ナイフを抜くこともなかったからか、今の彼は穏やかな顔つきに戻っていた。
「君の話を要約すると、彼は今この町にいるとされる【視られたがり】であり、綺麗な目をしている紫乃ちゃんを狙っているのではないかと。そう思ったわけだね」
蒼太が頷いたのを見た後、店主は引き伸ばしてプリントアウトした画像に目を落とす。ハットを深く被っているため顔はいまいち分からないが、しかし普通ではないことだけは分かった。この写真を撮った時も、彼はその気配に目ざとく気がついたのか、こちらを一瞬ちらりと見たという。蒼太がナイフを身構えざるを得なくなったのも仕方ない。それだけこのストーカーの男性の警戒心は強かった。
「そういえば、視られたがりってなんです?」
蒼太はふと疑問を店主に投げかけた。
「この周辺ではそう呼ばれているらしい。目だけ欲しがるなんて、随分と見ることにこだわっている。いや、見られることにこだわっているのだろうってね。被害者を殺さないのも、わざと自分の存在を周囲に広めたいからじゃないかって噂でね、その名前がついた」
「だから、【視られたがり】……」
「迷惑なナルシストさ」
店主はそう言うとキッチンの方に行ってしまった。現在の時刻を考えると、そろそろ彼は【恋人】に会いに行く時間だ。あまり迷惑をかけすぎても良くはないだろう。蒼太はコーヒーを飲み干すと、キッチンで肉切り包丁を研いでいる店主の後ろ姿を見た。慈愛に満ちた背中だと、彼は思った。
「遅くにごめんなさい。そろそろ帰ります」
「ああ、そうか。また何か問題が生じたら言ってくれ。私じゃ何もできないかもしれないが、少しでも力になれたらと思っているからね」
店主はにっこりと笑みを浮かべると手を振る。蒼太はその振られた手にお辞儀を返し、店を出た。
夜闇が冷たい風を吐き出している。少し肌寒くなってきたなあと思いながら蒼太は鞄の中のナイフに触れた。今回は、本当に殺す必要があるかもしれない。そう考えると、途端に胸が苦しくなった。犯罪だ。そして、人の命を奪うことを、自分が行う姿がどうにも想像できない。
――でも、紫乃を生かし続ける為には。
蒼太は生唾をごくりと飲み込み、黒鵜駅へと足を向ける。人気のない寂しい道を一人歩くというのは、なんだか心に隙間が空いたようで、いい気分はしない。隣に紫乃が欲しいと、蒼太はぼんやりと思った。きっと彼女が隣にいたのなら、自分の姿を見てくれているのなら、この震えも止まってしまうのだろう。そうやって自分を壊すことができるのだろう。蒼太の中で、紫乃の姿が、声が炭酸みたいに彼の中に沸き上がる。
「会いたいよ」
蒼太の言葉は、しかし虚しく夜闇に包まれた町に響き、溶けていくだけで終わる。蒼太は肩提げ鞄を背中に回すと、地面を強く蹴って走りだした。人のいない駅前の公園を横切り、切れかけの街灯の下を通って、蒼太はただ自分の中に湧き上がる紫乃に対する想いを振り切ろうと走った。
改札を過ぎて、プラットフォームにたどり着くと、回送の電車が丁度こちらにやってくる。ヘッドライトが二本、眩い光をこちらに向けていた。
ふと思い立って、蒼太は線の外側に足をだし、縁に立った。黒鵜町から乗る乗客は蒼太一人で、誰も止める人もいなければ、見ている人もいない。ここなら、好きな時に飛び降りることは可能だ。そんなことを考えると、蒼太は自分が安心しつつあることを感じる。
紫乃にはやっぱり死んでほしくないな。そう考えると同時に、蒼太の目の前を電車が通りすぎていく。力強い風に飛ばされそうになりながら、蒼太は目をつぶった。
ここから飛び降りたら、紫乃は悔しがってくれるだろうか。
――何故代わりに死ななかったのか。
紫乃のメールを思い出しながら、目の前を通りすぎていった電車の後ろ姿を蒼太はじっと見つめていた。
四
【視られたがり】は酷く興奮していた。
あれほどに美しい瞳をこれまで見たことがなかった。まるで液体が一杯に注がれたみたいに揺れるあの瞳は、一体どのようにして生まれたのだろう。篠森紫乃を見つけることができた時、【視られたがり】は思わず神に感謝した。神や運命の類に大した興味はないが、そういった迷信めいた存在に祈らずにはいられなかった。
【視られたがり】は壁にピンで固定した写真を恍惚とした表情で眺め、写真の中の彼女の頬をそっと撫でた。最早眼前に横たわる女性に興味はないらしく、怯える女性を尻目に【視られたがり】は紫乃の瞳を見つめている。
「さて、君の目に大した興味は感じられなくなってしまったが、ここで逃しても勿体無い。それに、視線は多くても何も困らないから」
息を飲む音と共に女性は身体を激しく動かすが、頑丈に固定された枷は彼女の手足を掴んで離さない。
けれども彼女は動き続けるしかなかった。
目の前の異常者に目を抉り取られたくない一心で必死に身体を捩らせ、皮膚が破けて血の滲んだ手首をそれでも強引に枷に擦りつけた。
【視られたがり】はそんな彼女を見て、満足気な笑みを零す。
紫乃は落ち着き払った様子で、写真部の扉の前に立っていた。口を閉ざしたまま前方をじっと見つめる彼女の姿は普段よりも極っていて、口を閉ざした彼女の凛とした姿に、思わず男子学生はおろか女子学生までもが彼女に自然と目を向けていた。
動かなければ、口を開かなければ、見惚れてしまうほどの存在。それが篠森紫乃だ。滑らかで白い肌と黒い髪に、水気のある潤んだ瞳。唇に薄っすらと惹かれた紅色のルージュ。まるで人形のようだ。
紫乃は躊躇いがちに扉をノックすると、ノブにそっと手をかけて回す。
「あら、篠森さん」
入ってきた紫乃を見て、若葉は笑みを浮かべた。手にしていた一眼レフを置いて彼女に歩み寄ると、可愛らしく小首をかしげてみせた。
紫乃は何も言わず、ただ彼女を見つめる。
「今、丁度現像しているところなの。もう少し待っていてもらっていいかしら」
若葉はそう言うと奥の扉を指さした。どうやら奥は暗室になっているようだ。「開けるな」と書かれたプレートが貼り付けられている。紫乃は扉をじっと見つめ、それから若葉を見て頷くと、隅の椅子に座った。若葉は両肩を竦めるとポットの湯を沸かし直し、簡単な茶菓子を彼女の前に出した。
「お茶淹れるから、少しだけ待っていてね」
「写真は、いつ頃できます?」
「そんなに写真が見たいの?」
「ええ、すぐにでも貰いたいんです」
「――ずっと気になっていたけど、何故、写真を引き受けてくれたの?」
若葉がそう問いかけるが、紫乃は顔を上げると、無表情のまま首を振った。
「単なる気まぐれです」
それっきり口を閉ざしてしまった紫乃を見て、若葉はため息を吐き出し、沸いた湯をティーポットに注いだ。
「私ね、ずっと前から貴方に興味があったの」
向かいに座ると、二つ用意したカップに紅茶を注いでいく。液体が乳白色の陶器を飴色に染めていく。芳醇な香りが湯気とともに立ち昇るのを、若葉は満足そうに見つめていた。紫乃は飴色に満たされた液体に映る自身をじっと見つめ、それからカップを手に取ると口にする。
「誰にも頼らない貴方がかっこ良く見えてね。私なんて群れることでしか自分の存在価値を見いだせないし、誰かに見られていないと自分がいるのかなって怖くなっちゃうから」
若葉は紅茶を一口飲むと、紫乃の前に置かれたジンジャークッキーを一つ齧る。
「撮影のこともね、漆原君から話を貰った時、いい機会だって思って二つ返事をしたわ。どうにか貴方とお話してみたいなと思って」
穏やかな表情を浮かべ、若葉は紫乃のことを見つめている。たった二人だけの部室は、無音だとやけに広く感じられた。紫乃は周囲を見回してから、再び若葉に視線を戻す。どうも彼女は何か普通の人よりおかしな点に執着している。紫乃はぼんやりとだが、そう感じた
ノブの回る音と共に暗室の扉が開いて、漆原がそっと顔を出した。
「なんだ、篠森さん来てたんだ」
漆原は大きく伸びをすると息を強く吐き出した。若葉はもう一つティーカップを用意して、紅茶を注ぐと、空いた席の前に置いた。湯気が立ちのぼるカップの前に彼は座るとクッキーを手にとって一口齧り、紅茶を啜る。熱いのは苦手なのか、ずず、と少しはしたない音に紫乃は思わず顔をしかめてしまった。
「今日中には写真、渡せると思うよ」
「そうですか、とても嬉しいです」
紫乃は熱のない言葉でそう返事を返すと紅茶を音を立てずに口にする。鼻孔をくすぐる香りが、紫乃の中に染み渡っていく。
「にしてもまた事件が起きたね」
「事件?」
突然の漆原の言葉に紫乃は首を傾げる。なんだ、知らないの。と漆原はまた音を立てて紅茶を啜った。
「決まって必ず目を抉る凶悪犯の事件だよ。今日も行方不明になっていた女性が一人、両目を抜かれていたらしい。隣町で起きてるっていうんだから怖い話だよ」
「殺されはしないんですか?」
「ああ、目を奪われるだけ。といっても、何も見えなくなったら死んだも同然な気がしてしまうよ。盲目の人からしたら酷い言葉だと思うけど……」
「また活発になったのよね、どうなるのかしら」
紫乃は目を細め、ティーカップの取手を強く握りしめる。その様子にどうやら二人も気づいたらしく、突然感情を露わにする彼女に戸惑いを覚えた。力の篭った白い手が薄ら赤く染まっていく。紅色のルージュに染まった下唇をぎゅっと噛み締める。
「酷い事件」
漆原と若葉は互いに顔を見合わせて首を振り、それから互いにクッキーを一つ摘んだ。
「そういえば、今日はいないの?」
嫌悪感を表にした彼女にそう問いかけると、再び彼女から色は失われていった。
「蒼太君のことですか?」
「そう、彼。いつも一緒にいるのに珍しいね」
「蒼太君は、何か用事があるそうで、ここに来る前に別れました」
ふうん。漆原はそう言って紅茶を再び啜り始める。
三人の会話が落ち着いた頃に紫乃の携帯に着信が入った。細かくバイブする携帯を手に取ってディスプレイを覗くと、藍野蒼太の文字と画像が大きく表示されていた。紫乃は席を立って部屋の隅の方に向かうとそこで着信を取る。
『紫乃、君はまだ写真部にいる?』
「ええ、まだ居るわ。用事は終わったのかしら」
『そうだね、ひとまずは』
「ひとまず?」
『今、丁度門の辺りにいるよ。できたらこれから会えないかな』
「構わないけど……」
紫乃はちらりと若葉と漆原を盗み見る。
『少し気になることがあるんだ。場合によっては君の周辺で何か起きる可能性も高い』
そう言うと、彼の通話が切れた。彼にしては珍しい呼び出し方だと紫乃は思いつつ、荷物から財布と携帯だけ取り出した。
「彼から?」
なんだか楽しそうに微笑む漆原を数秒程じっと見つめ、それから嘆息を一度すると首を横に振った。
「申し訳ないけれど、漆原さんが思っているような関係ではありませんよ。私達は」
「それにしてはやけに親密に見えるんだけどね」
「私は恋人がいますから」
紫乃ははっきりとした口調でそう言うと、携帯と財布を手にして部室を出る。
暫く着信履歴に残った蒼太の名前をじっと見つめた後、その履歴を消す。二件の着信が全て白紙になったのを確認すると、紫乃は固く目を瞑り、大きく深呼吸をして廊下を歩き出す。
玄関口に紫乃がやってくると、蒼太は携帯のディスプレイから視線を上げて彼女に微笑みかけた。紫乃は訝しげな表情を浮かべ、彼の下へと歩み寄った。蒼太は、背を預けていた壁から離れるとポケットに入れていた手を抜いて携帯を取り出す。肩提げの鞄が小さく揺れた。
「やあ、さっきぶりだね」
「貴方にしては珍しい呼び方ね。普段ならあんな無理に人を呼ぶことなんてないわ」
ああ、と蒼太は腕を組むと頷いた。軽口に普段以上に反応を示さない彼を見て、よほどのことがあったのだろう。と紫乃は思った。
「視られたがり、という名前を知っているかい?」
紫乃は首を振る。
「君はそうだと思ったよ。巷で目をえぐりとる事件を起こしている人物だ。視線を気にしているのではという話からついた名前らしい」
紫乃はふと、先ほど二人とした会話を思い出す。目を抉る凶悪犯の話。どうやら視られたがりという名前で周囲に知られているようだ。
紫乃は知ってると小さな声で呟いたが、その頃には藍野蒼太は会話を次の段階に移してしまっていた。
「恐らくだけど、君の両目を狙っている」
「……どうして?」
そのどうしてが一体どういった意味合いを持っているのか、蒼太には理解できていた。さてどこから話そうか。蒼太は腕組みをして思考を巡らせ、それから携帯を取り出すと一枚の写真を紫乃の前に提示した。 グレーのジャケットにベージュのチノパンの男性が写っている。帽子を深く被っていることと、窓越しであるからか顔は曖昧だ。
「君のストーカーだ」
紫乃は思わず目を見開き、画像から蒼太の顔へ視線を上げた。彼の表情は真剣そのものだ。まして紫乃に対して冗談を言えるような人間ではない。
「いや、ストーカーは少し言い方が違うな。尾行者、といったほうが正しいのかもしれない」
蒼太の言い回しに紫乃は首を傾げる。玄関口から差し込む陽の光がゆっくりと落ちていく。そろそろ辺りも暗くなるだろう。玄関の蛍光灯が点灯し、周囲が白色の光に照らされる。橙色の陽の光と、白色の光の合間で蒼太は一度目を閉じた後、もう一度開けて、穏やかな口調で告げた。
「彼は頼まれて君を尾行していたのさ。あらゆる点で君を見張るために。ストーカーじみたことまでするようにと相当念を押されていたらしい」
「ちょっと待って、貴方の会話、よく分からない部分がある」
蒼太は黙ると、掌を彼女に向けて差し出した。紫乃は彼の仕草を頷きで返し、再び口を開く。
「この尾行していた男性を、貴方は捕まえたの?」
「どういう人物がつけているか、顔は分からないまでも目星が付く程度にはなっていたからね。君と別れた後にこっそりそいつをつけたんだ」
蒼太はその際に彼をナイフで傷つけ、血を流させた。あまりの緊張で彼を開放した後に嘔吐までしてしまったのだが、それらは全て胸のうちに秘めておくことにした。初めてナイフが赤く染まった時の感情は、いくら説明したとしても彼女に伝わることはないだろう。
「残念だけど、依頼者がいるとまでしか聞けていない。ただ、君がつけられ始めていた時期と、彼が依頼された時期、そして視られたがりの犯行再開時期はズレているようで、逆に互いが被らないようになっている。恐ろしいほどタイムスケジュールがぴったり合うんだよ」
蒼太の言葉に、紫乃は暫く俯く。恐らくそのパズルのピースのように当てはまる現象がもう一つある。紫乃は考えを巡らせ、そして脳裏に浮かんだ事象を一つ、恐る恐る口にした。
「……写真撮影の依頼」
「その通り」
蒼太は、若葉萌、漆原雅人のどちらかが「視られたがり」であると考えているのだろう。紫乃の中で構築されていった欠片が導き出した結果の中で、二人の姿が浮かぶ。先程まで私と茶菓子を食べていた二人のどちらかが、私を狙っている……。考えれば考えるほど、信じたくはない話だった。紫乃にとっては何気なくやってきた依頼を受け、紅一に送る写真を撮るいい機会に過ぎなかったのだから。
「ちなみに、僕は漆原から「篠森を起用しようと提案したのは俺だ」という話を聴いている。特に君の瞳には魅力があると言っていた」
彼の言葉を聞いて、紫乃は暫く腕組みをすると考える。
「駄目ね、私は特に何も聞けていない……」
首を振った紫乃と蒼太はひとまず部屋に戻ろうと共に廊下を歩く。窓越しに薄暗い橙が流れ込み、陰鬱とした空気が周囲に広がっていく。時刻を考えると帰路につく学生も多い頃だ。人気のない廊下を照らす蛍光灯は、やけに明るくて、蒼太には逆に薄気味悪く見えた。
紫乃は終始無言を貫いていた。足元を見つめ、蒼太の隣を歩いている。
「今回は、君がよく言っている嫌な雰囲気とか、危険な空気を察知することができなかったみたいだね」
蒼太は率直な意見を彼女に告げた。紫乃は蒼太のことを一度見た後、再び俯いた。
「だって、これは死ねないのでしょう? 私は、死にたいの。命を失う過程で、想像を絶するような苦痛にまみれて死にたい。苦痛を感じたのに、ここに残るのは嫌」
「苦痛によって自らが傷めつけられて、死ぬ寸前に救われたと満足したい。都合の良い死に方だ。首を吊ったり、飛び降りたり、ガスで自らの命を絶つのとなんら変わりない」
紫乃が立ち止まる。二、三歩歩いたところで蒼太は止まると振り返り、紫乃を見た。憎悪と絶望に満ちた最悪の顔が、そこにはあった。紅色のルージュが醜く歪んでいる。
「あなたにはなにも分からない」
「ああ、きっと僕には分からない」
蒼太の言葉は、蛍光灯に照らされた無機質な廊下に冷たく響いた。
彼の言葉に紫乃は小さく舌打ちをすると、彼の横を通りすぎていく。その後ろ姿を見つめ、小さく嘆息をすると蒼太も再び歩き出す。
――悲鳴。
――衝撃音。
二人が動き出した刹那のことだった。甲高い悲鳴が彼らの歩く廊下の先から響き渡る。絹を割いたようなその悲鳴は、恐らく若葉萌のものだ。それから続いてガラスの割れる音がした。
蒼太は廊下を全速力で走りだすと、写真部扉を乱暴に開くと中に飛び込む。
「―――――!」
続いて部室に入った紫乃は思わず息を飲んだ。
部屋の中央で片目を抑えた若葉萌が倒れていた。抑えた手から溢れ出す液体は地面に雫となって落ちて、赤と白色の奇怪な水溜りを作っている。
負傷した彼女の先にある大きめの窓は、ガラスが内側から破られていた。
そんな彼女の傍にしゃがみこんだ漆原が、二人の存在に気づいて声をあげる。
「萌が……萌が!」
「何が……あったんです?」
蒼太が駆け寄ると、抑えられた若葉の手をそっとどける。閉じられた瞼の間から白濁した液体と血液の交じり合ったものが次々と溢れでてくる。蒼太はそっと指先を彼女の瞼に当てる。感触は、何もなかった。
「……目を、刳り貫かれている」
「まさか、視られたがりが?」
「わかりません。漆原さん、彼女が襲われた時の状況は?」
漆原は目をギョロつかせながら首を大きく振る。暗室に篭っていて、突然の悲鳴とガラスの割れる音に驚いて飛び出してきたらしい。その時点でガラスには人一人くぐれるくらいの穴が空き、部屋の中央に若葉がうずくまっていたという。
蒼太は立ち上がると窓の外を見る。暗くてあまりよく見えないが、コンクリートで塗り固められた裏路地と、その先にグラウンドが見える。
「きっと誰かが忍び込んだんだ。そうして若葉に危害を加えた……」
怒りに満ちた表情で漆原はそう言うと、地面に拳を叩きつけた。
「……行きましょう」
「え?」
「まだ捕まえることができるかもしれない」
蒼太はそう言って部室の扉へと駆けていく。続いて漆原も蒼太についていく。
「紫乃は救急車を呼んで、若葉さんの介抱を」
紫乃は頷いた。蒼太は漆原と顔を見合わせて頷き合い、廊下を駆けていく。蛍光灯に照らされた二人は玄関口を飛び出すと、グラウンドへと向かった。
グラウンドへ到着して、二人は息を切らしながら周囲を見回した。随分と広いグラウンドだ。長距離走者用のレーンやテニスコートの整備されたそこには、しかし人の姿は全く見当たらない。影すらないその場所を見て、漆原は固く目を瞑った。
「ちくしょう、見逃しちまった……」
「……これでいいんです」
蒼太の言葉に、漆原は耳を疑った。
彼の顔を見ると、蒼太は穏やかな表情のまま漆原を見つめていた。
「僕は、貴方をおびき出したかったんだ」
蒼太は、肩に提げられた鞄に手を突っ込むと、にやりと笑みを浮かべた。
五
蒼太は部室に足を踏み入れた。もぬけの殻の写真部室には、白濁混じりの血痕だけだ。
紫乃、と部屋に向けて呼びかけてみるが、返事はない。
紫乃はおろか、傷ついて倒れていた筈の若葉の姿すらない。開け放たれた暗室から人の気配も感じられない。蒼太は一度大きく息を吐き出すと、ポケットから携帯電話を取り出して、手の中で弄ぶ。割られた窓から吹き込む風が、蒼太の髪をするりと撫でる。窓の方を暫く見つめた後、口を閉じたままテーブルの傍に近付き、ティーカップを端に退かす。かちゃり、と陶器の接触音が広い部屋に響き渡る。
蒼太は椅子にどっかりと座り込み、退かして出来上がったテーブルのスペースで頬杖をつき、足を組んだ。
「本当に、誰もいないのか?」
遅れて部室にやってきた漆原は部室を見回し、がっくりと膝をついた。
「見ての通りです」
蒼太は膝をつく漆原に、坦々とした口調で言う。
「おかしいと思ったんだ。被害者は行方不明になった後に目を繰り抜かれ、放置されている。けれど今回は片目だけ。それも中途半端な形で彼女は放置されていた」
「けど、あいつは確かに目を……」
「彼女は、その為に再び視られたがりとして事件を起こし始めたんじゃないですか? ここ最近目に関する事件が多くなってきた。そんな時に目を刳り貫かれた人がいたら、漆原さんはどう思います?」
「そりゃあ、視られたがりの……」
漆原はハッとして、若葉が倒れた直後の会話を思い出す。蒼太は頷いた。
「全部、篠森さんを連れ出す為のこと?」
「きっと漆原さんが彼女を撮影することを提案していなかったとしても、彼女から提案があったでしょうね」
蒼太は一呼吸置いて、項垂れる漆原に向けて追い打ちともいえる一言を放つ。
「視られたがりは、若葉萌です」
鞄からクリアファイルを取り出すと、蒼太はテーブルの上に置いた。
「紫乃を着けていた尾行者の物です。これと、【尾行者】の言葉から、若葉萌が視られたがりだと予想して先ほどまで動いていました」
漆原は立ち上がると、ファイルの中を確認する。二枚目には篠森紫乃の顔写真と尾行期間が細かく書かれている。依頼書の日付は、丁度漆原が彼女を起用しようと提案した日だ。漆原はその日付を見て、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「でも……どうするんだ? 若葉が篠森さんを連れ去ったとして、どこに行ったかなんか分からないだろ」
漆原は声を荒げ、蒼太をじっと見つめる。
その時、蒼太の携帯が机の上で振動する。机を介しての鈍い音を響かせるそれを彼は手にし、やってきたメールの内容と写真を見て微笑む。
「今丁度出ていったみたいですよ、彼女」
蒼太が向けた携帯のディスプレイには、単車に跨る若葉の姿と、サイドカーに載せられた紫乃の姿があった。
――数時間前
写真部へ向かう紫乃に手を振り、蒼太は彼女に背を向けて廊下を暫く歩き、途中の角を曲がるとその場でしゃがみ込む。予め持ってきておいた手鏡に映る自身の姿を確認し、そっと来た道へと手鏡を向けた。
鏡に映る廊下の先に、猫背の男性が写った。
ジーンズに紺色の七分袖のシャツ、そしてメッセンジャーバッグを腰に付けた黒髪の男性。
蒼太は店主に写してもらった写真と見比べる。断定はできないが、姿勢や様子から少なくとも先日のストーカーで間違いはないだろうという結論に至る。
彼は紫乃の方をじっと見つめた後、ポケットに突っ込んだ手をもぞもぞと動かし、足早にその場を立ち去っていった。蒼太は鏡をしまって数十秒程指折り数えた後、深く深呼吸をしてから立ち上がり、玄関へと向かった。
講義が終わってから多少時間が経っているからかキャンパスの人通りはそこそこで、見失う可能性の少ない状況を無事作り出すことができたと蒼太は安堵する。蒼太は人込みの中から目当ての男の姿を見つけると後ろをついていく。途中知人に声をかけられたりもしたが、幸いなことに相手方に気づかれたような仕草はなかった。
校舎を出ると、男性は少し歩くペースを早めた。もしかして気づかれてしまっただろうか。いや、多分まだ彼は気づいていない。蒼太は一度携帯で彼の後ろ姿を撮ると、追跡を続行する。
白鷺町から黒鵜町へ通じる道にやってきた。相変わらずシャッターは降りたままで、ゴースト・タウンのような重たく冷たい空気を蒼太は感じた気がした。
不意に、彼は突然振り返る。蒼太は慌てて物陰に隠れたが、多分すでに彼は追跡されていることに気づいただろう。いや、むしろ歩くペースを早めた時点で彼は気づいていたのかもしれない。
ぴり、と張り詰めた空気をぐっと飲み込む。
「いるんだろう」
さて、どうするべきか。蒼太は鞘に入ったままのナイフの柄を握り締める。硬い感触と、この中に人を一人殺傷できる程度の切れ味が眠っていると思うと、不思議と安心することができた。何も怖くないといえば嘘になるが、それでも十分な安定剤になる。
もしこれで人を殺してしまったらという不安と、もし殺すことができなかったら、といった相対する感情が混ざり合い、蒼太の緊張を更に高めていく。
生唾を飲み込み、息を深く吐き出すと、蒼太は鞄から手を抜いて、物陰から姿を晒す。
「やはり君か。藍野蒼太」
「………篠森を付け回して、一体何がしたいんですか」
警戒に満ちた声で蒼太が問いかける。男性は押し黙ったままじっと蒼太のことを睨みつけ、ふう、と嘆息する。
「彼女に興味があるんだよ」
「……目的は、彼女の目か?」
蒼太のその問いかけに、男性は顔をしかめ、肩を竦める。
「目?」
蒼太の言葉に首を傾げる彼の姿を見て、蒼太は戸惑う。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、彼は道の真ん中に立っている。少し眉毛の太い男性だ。だが体格は蒼太とさほど変化はない。取っ組み合いになったとしても、ある程度は勝ち目があるかもしれない。いや、彼はおそらくそういった類にも精通している可能性がある。少なくとも、ただのストーカーではないのだろうし。
蒼太はゆっくりと男性との距離を詰めていく。警戒の色を見せるが、彼は一向に後退する気配を見せない。この程度でも逃げ切ることはできるということなのだろうか。
「ここ数日、彼女を尾行しているのは、攫う機会を狙っているんじゃないのか?」
目を細める蒼太に対し、男はまた肩を竦めた。
「君は、俺と依頼人とを勘違いしているようだね。誰だか言ってごらん」
「……視られたがり」
「やはりね。悪いが目に興味はない。ましてや目を奪うなんて、そんな割にあわないこと、余程マニアックな性癖を持ち合わせていなけりゃしないさ」
彼の言葉に、蒼太は下唇を噛み締めた。なら彼は、何故篠森紫乃を着けていたのだろうか。単純な恋慕か。なんにせよ、視られたがりを「性癖」と呼ぶ辺り、彼女の目が目的ではないということは理解できた。
どこからともなく吹いた風が、蒼太の身体を通り抜けて行く。男は胸ポケットから煙草を取り出すと口に咥え、ライターで火をつける。
「……探偵?」
ご名答、と男は指に挟んだ煙草で蒼太のことを挿すと、再び口に咥え、煙を吐き出す。半透明の煙が、閑散とし重たい空気の町の中にふわりと立ち上る。
「まあ、どちらかといえば何でも屋だな。探偵ならもっと上手く隠れてるさ。厄介事を引き受けてくれる確率も低いし、かかる金額も俺の倍以上だけどな」
突然饒舌になる「何でも屋」と名乗った男を、蒼太は訝しげに見つめる。
「何故、そんなにも簡単に事情を?」
「ああ、悪いが、煙草を持っていないか?」
蒼太が首を横に振ると、なあんだ、と何でも屋は残念そうに口を歪める。スニーカの爪先で舗装された地面を二度叩くと、彼はあっという間に短くなっていく煙草を残念そうに見つめ、くつ底で火を消して道端に放り投げた。
「これで最後の一本。ここ最近あまり財布に余裕がなくてねぇ」
何でも屋はにやりと薄気味悪い笑みを浮かべてとん、とんと蒼太との距離を簡単に詰める。蒼太は一瞬怯んだが、鞄の中のナイフを握り締め、なんと視界を彼から外さないようにする。
「俺はね、結局のところ自分が美味しければそれでいいのさ。尾行の依頼もここ数日間で随分と報酬を貰えているし、他に美味しい話があればそっちに飛びついてもいいと思っている」
蒼太は、初め彼が一体何を口にしているのかわからなかった。
「仕事がマンネリになってやる気が削がれていたこともあるが、二度も逆に尾行されるとは思っていなかった」
その言葉を聞いた途端、蒼太は鞘の留め具を外して彼にナイフを突き出す。明るみに出た刀身は白銀の光と共に彼の右腕を舐める。
何でも屋はその白い殺意を受けて即座に後方へと飛び退いたが、七分袖は縦に破け、肌から一筋の赤いラインと、血液がじわりと溢れた。咄嗟に避けたおかげで抉られることはなかったが、それでも随分な傷だ。何でも屋は嘆息を一つすると、両手でナイフを構える彼の姿をじっと見つめる。赤い液体がつうっと先端から柄の方へと流れていく。
「成程、篠森紫乃が絡むと君は相手を排除するかどうかでしか考えられなくなるようだね。その感情は、果たして好意なのかい? 執着なのかい?」
何でも屋の問いに、蒼太は何も答えない。深く呼吸をし、自らの震えを抑え、目の前の標的に狙いを定める。落ち着け、落ち着け、これだけ鋭い得物を持っている自分がどれだけ優勢かを考えろ。
何でも屋は相変わらず薄気味悪い笑みを浮かべたままその場に立っている。
「――藍野紅一の代わりにでもなろうってのか?」
その言葉と同時に、蒼太は地面を強く蹴って彼の懐へと飛び込む。何でも屋は穏やかな表情のまま、こちらに飛び込んでくる蒼太を見つめ、次々と無差別に振り回される彼のナイフを躱し続ける。
「悪いが君に関して調べられることは調べさせてもらったよ。その結果、俺は君に興味を持ってしまった」
立ち止まる何でも屋の顔めがけてナイフが飛ぶ。蒼太の表情にほころびが生まれ、それが恐怖の色に染まるまで時間はさほどかからなかった。何でも屋にとって、彼のその心情の顕著なまでの移り変わりは餌だった。これほどまで壊れたがる狂人を見たことがない。何でも屋の気分は、嘗てないほどに高揚していた。
蒼太の突き出したナイフが何でも屋の右の掌を貫く。もしあと一瞬でも何でも屋の反応が遅れていたのなら、彼の顔は潰れていただろう。
掌から夥しい赤が雫となって落ちていく。呼吸を荒げる蒼太と、無言のまま微笑む何でも屋。二人はじっと見つめ合ったままその場にとどまり続ける。
「……俺はね、藍野君。人の欲を埋めるのがたまらなく好きなんだ。視られたがりは素晴らしい表情を俺に見せてくれたよ。最高だった」
蒼太に蹴りを一発、腹部に入れると何でも屋は出血する右手を軽く二度スナップさせた。床に倒れこんだ蒼太は、咳き込みながら彼の姿を見つめる。
「ただね、君の欲望の方が面白そうだと俺は今思っている。分かるかい、この意味が」
何でも屋は蒼太の目の前にしゃがみこむと、不気味なほどに柔和な笑みを作ってみせた。
―――――
蒼太はディスプレイの時計を眺め、それから次にやってきた画像を見て机に置いていた鞄を手にすると、椅子から立ち上がる。
「そろそろ行こう」
立ち上がる蒼太を、漆原は椅子に腰を下ろしたままじっと見つめる。蒼太は彼の方を一瞥した後、口を閉ざしたまま扉に手をかけた。
「……藍野君、君は一体何を望んでいるんだ?」
扉を開けると同時に、割れた窓から風が吹き込む。入り込んできた強風が二人の髪と服を乱し、あっという間に開いた扉から去っていく。蒼太は乱れた髪を手櫛で軽く整え、棘のある視線をこちらに向ける漆原を見つめる。
「僕が望んでいるのは、紫乃が無事であること。それだけですよ」
「なら何故すぐに追わない?」
漆原は声を荒げる。
彼が一体、誰に若葉萌の尾行を依頼しているのだろうか。漆原には理解しきれていない情報があまりにも多すぎる。だが、わざわざ尾行を付けるのならば、彼女を救い出す為にできることは多いはずだ。相手は目玉を抉るためならなんでもする犯罪者。わざわざ彼自身が対峙する必要があるわけない。
「僕は、紫乃に這い寄る死を退けなくちゃいけない。その為には、普通に終わらせることはしたくない」
蒼太が向けた目を見て、漆原は思わず息を飲む。それは、酷く冷徹で、淀んだ水のような真っ黒な闇を孕んだ瞳だった。篠森紫乃の潤んだ水気の多い瞳とは違う。
――深淵。
漆原の中で浮かんだ言葉が、それだった。
「……お前、狂ってるよ」
かろうじて出すことのできた言葉は、それだけだった。
「どうでもいいよ」
ただそれだけを告げると、蒼太は部室を出て玄関へと向かう。鳴り響く携帯電話を取り出すと、何でも屋から受信した画像を開く。黒鵜駅の改札だ。
蒼太は携帯を閉じて、蛍光灯の灯りの下で伸びをする。部室で感じた心地良い風はどこにもない。塵と生ぬるい空気の塊を飲み込むと、蒼太は再び歩き出す。
蒼太が身を投じた先は、深く淀んだ水底。
汚泥に包まれ、光の届かないどこかへと彼は落ちていく。
六
紫乃は目を開いた。背後から嗅がされた薬品のせいか、視界も意識も輪郭がはっきりしない。薄暗い部屋の中に、ぶら下げられた小さな灯りがかろうじて見えた。
何度か両手足を動かしてみるが、手首と手足は固定されているようで、何度力を込めても自由は効かなかった。おまけに頭部にも丁寧に拘束具が取り付けられているようだ。眼球の動く範囲の情報しか紫乃は手にすることができなかった。
汚れた天井にぶら下がった灯りは、どうやら古びたランタンのようだ。左右に小さく揺れるランタンのガラスの端からちろりと火が見えた。
だんだんと焦点の合いつつある視界が捉えた光景に、紫乃は思わず嫌悪感を抱く。
四方のスチール製の棚に並べられた液体に満たされたケースに、それぞれに名前と日付が貼りつけられている。随分と黄ばんだ名札もあれば、最近貼り付けられたばかりの真っ白いものも、様々だ。
ケースの中には一対の眼球がぷかぷかと液体の中を漂っており、時々彼らはじっと紫乃に視線を向けていた。もはや彼らにとってはこれが日常なのだろう、と紫乃は思う。ケースの中で次に気に入られた眼球を招くだけ、それか、視られたがりに愛されるだけの日々。それが日常。
すっかり眠らされていたせいで場所も時間もよく分からない。それほど遠い場所へ行ってはいないと考えているのだが、しかし何故彼女は私を手に入れる為にわざわざ自らを……? 紫乃はぼやけた意識の中で思考を巡らせる。
ぎい。
錆びた蝶番の軋む音と共に、四方を囲む棚の隅にひっそりと設置された鉄扉がゆっくりと開いた。
「あら、起きた?」
若葉萌は包帯を巻いた顔でそう言うといつもの笑顔を紫乃に向けた。
「そう……貴方が【視られたがり】なのね」
「篠森さんも知ってたのかあ……。まあ随分と有名になっちゃったし、しょうがないのかな」
若葉は微笑みながらそう言うと、紫乃の横たわる台に寄りかかる。
「残念そうには見えないわ」
「そうね。だって私は視られたがりだから」
若葉はそう言うと、包まれた包みを取り出して、すぐ傍に置かれていた液体の満ちたケースを開けると包みを逆さにする。ぽちゃん、と軽快な音と小さな飛沫を上げて液体に、眼球が一つ、ぐるりと辺りを見回しながら水面に浮かんでいた。どうやら彼女自身の眼球のようだ。紫乃は喉元までやってきた嘔吐感をぐっと飲み込んだ。
「私はね、人に見られていないと不安でしょうがなくなるの。誰にも必要とされてない気がして、酷く酷く、苦しくてたまらなくなる」
彼女は恍惚とした表情で頬を赤く染めながら、新たに手に入った眼球を眺めている。抉り取られた方をそっと擦りながら残った眼でじっと眼球を見つめている。元は彼女のその空洞となった片方にあったものだ。犠牲にせざるを得なかったとはいえ、惜しい気持ちは拭い切れないのだろう。
紫乃は視線だけを動かし、周囲に広がる眼球の標本達を眺めた。
色や瞳の色、それぞれがそれぞれ違いを持っている眼球達が、新たな住人をまだかまだかと待ち続けている。この中に自分も並ぶかと思うと、紫乃はあまりいい気がしなかった。
「私も、貴方を見続けなくてはいけなくなるのかしら?」
「……貴方は特別」
頭部を固定された紫乃の真上にやってくると、若葉はそっと彼女の頬を撫でる。絹のような、白くてきめ細かい彼女の肌を滑り、そして紫乃の瞼に触れる。その奥から覗く水気の多い、常時潤んだように見える瞳を見て、若葉は身体が火照るのを感じた。彼女の瞳に映る自らの姿が、波紋のように揺れて広がっていく。
まるで水鏡だ。涙でも流そうものなら、全て流れて消えてしまうのではないかと思うほど、彼女の瞳は完璧だと若葉は思った。
「貴方の瞳にずっと見つめられていたいの。そうしたら、この視られたがりな気持ちも何もかも、私の中のものを全部満たしてくれる気がするのよ……」
もうすぐこの瞳が手に入る。これまで集めてきたどの瞳よりも鮮明に自身を映してくれるそれに毎日見つめられたら、さぞかし幸福だろう。若葉はスチール製の台から離れると、スチールラックに並ぶ瞳を一つ一つ見つめる。
「これも、ああこれでもとっても素敵だった。まるで私の全てを見透かしているようで身震いがしたわ。これはつい最近。元気な女の子だった。眼を持っていかれるまでずっと気持ちを強く持っていたから素敵。いつもは絶望しちゃって、時々眼が素敵じゃあなくなってしまう時もあるから。活き活きとした眼に見つめられたい。けど絶望されるとそれが少し……ね」
残念そうに語りながら、若葉は固定されたままの紫乃に次から次へと眼を見せていく。紫乃は無表情のまま口を閉ざし、彼女の受け答えにも全く何も返答はしない。
初めは自らのペースで語っていた若葉であったが、次第に反応のない紫乃を不満に思ったのか、その表情に陰りが出始める。
「ねえ、何か言ってよ」
終始無言を貫いていた紫乃は、ふう、と小さく息を吐き出すと、穏やかな表情のまま若葉のことを見る。
「貴方は、私を殺してくれる?」
ようやく開いた口から出た言葉は、それだけだった。若葉は暫く呆け顔で紫乃のことを見ていたが、少しして腹を抱えて笑い出す。密閉され、眼に囲まれた空間に甲高い笑い声が反響する。耳障りな音だ、と紫乃は思いながらも、決して口には出さずに彼女を見つめていた。
「人殺しに興味はないわ。私は見て欲しいだけ。命を奪うだなんて、そんな野蛮なことはしたくない。見られることで満たされる。その快楽さえあればいいのよ」
頬を紅潮させて語る若葉とは裏腹に、紫乃の表情から色は消え失せていく。何にも汚されていないカンバスのように、彼女は白に染まっていた。
「なら、貴方に私をあげることなんてできない」
若葉の表情が、その一言で変わる。
「ふうん、どうして?」
平静を保ちながら、彼女は紫乃に向けてそう問いかけた。紫乃はいたって平常心のまま、戸惑う彼女を凛とした眼差しで力強く見つめる。
「貴方が視られたがりであるように、私は死にたがりだから。それ以上もそれ以下もない。私のことを殺すつもりのない人に、私の身体は一つもあげられない」
それに……。紫乃は付け足すように言うと、静かに微笑んだ。心なしか、彼女の白が紅色に染まったような笑みだった。
「私の両目に映っているのは、紅一さんだけ。他の人なんて見えてないわ」
「……ふうん」
すっと、紫乃は右腕に小さな痛みが走るのを感じた。
彼女の言葉を聞いた若葉が、固定された紫乃の腕に注射針を突き立てたのだ。
「私には貴方の瞳がとても必要なの。本当は、鮮度を考えてそのままにしたかったけど、仕方ないよね……」
全身が弛緩していく。力が入らない。目の前の冷たい表情をした若葉の輪郭が波打つ。紫乃は視界がノイズまみれになるのを感じ、塞がれたみたいにぼやけた彼女の最後の言葉を聞いた。
「拒絶の色をした眼は嫌だから、貴方の意識がないうちに、私の眼にさせてもらうわ」
輪郭をなくした言葉と視界を受けながら、やがて紫乃はずしりと重たくなる瞼の中で、自らの意識が奥底へと落ちていくのを感じた。
次に目が覚めた時は何も見えなくなっていると思うと、酷く怖くてたまらない。そのまま生き続けると考えると、紫乃は恐ろしくて気が狂いそうだった。
――紅一さん。
紫乃は落ちいく意識の中で、最後にそう呟いた。
昏倒する紫乃を若葉は見つめる。閉じた瞼の先にあるあの瞳が、欲しくて堪らない。彼女は用意しておいた針金状の器具を手にすると、紫乃の額をそっと撫でる。
ああ、あと少しであの瞳にじっと見つめられる毎日が来る。私のこの姿を見つめてくれる。今まで沢山の眼に興奮してきたが、今度は違う。この一つだけでも十分だ。ようやく出会えた紫乃の瞳を若葉はまるで恋のように感じていた。
だが、その想いは、背後の蝶番の軋む音で途端に打ち消された。背後から荒い呼吸が聞こえる。多分彼だろう、若葉の思考が照らし出した人物は、たった一人だった。
「まだ、紫乃に手を出さずにいてくれたんですね」
「……これから準備するところだったのよ」
若葉が振り向くと、鉄扉に寄り掛かる蒼太の姿が、そこにあった。いつもの鞄を肩から提げ、右手は鞄の中に突っ込んでいる。額にじっとりと浮かんだ汗を彼は空いた方の手で拭う。
「良かった。片目くらいは駄目かなって諦めていたんですよ」
そう言って蒼太は安堵感を示すように胸をなでおろすと、若葉を見て微笑む。若葉は目を細めて彼に敵意を示すと、ウェーブのかかった茶髪に手櫛を入れた。
「どうしてここが、なんて聞かないでおくわ。どうせ何でも屋が気まぐれを起こしたんでしょうよ。前にも似たようなことがあったから。尤も……ここまで入られたのは初めてだけどね」
「……貴方は、何故目に拘るんです?」
軽口を叩いて余裕を見せる若葉に対し、蒼太はそう問いかける。
「貴方、人に見られる時って、どう思う?」
「……どういうことです?」
紫乃の眠る台に若葉は腰掛けると、腕を組んだ。さほど大きくはないが、かたちの良い胸が腕によって強調される。蒼太はちらりとそちらに目を向け、改めて彼女の顔を見た。
「私は、人の視線に入っているとね、自分の存在が認められているって感じるの。ああ、自分はここに居てもいいんだって、一人、二人、三人四人……増えれば増えるほどその安心感は増していったわ」
蒼太は鉄扉から身を離す。蝶番がまたぎしりと音を立て、小さな衝突音と共に扉は完全に閉ざされた。
「人の視線に安心していくうちに、ふと思ったのよ。もっと多くの人に私の存在が認知されたなら……って。でもそんな大勢に振り返ってもらえるほど私は何かをしたわけでもない。かといって、このままごく少数の人の視線に安心するなんて嫌だ……。人は満たされると、更に欲しがる。現状だけでは満足できなくなったのよ」
「でもそれと目を奪うことに関連性はないですよね」
ああ、と若葉は残念そうな声を漏らす。やはりこの想いを共有してくれる人はいないのか、とでも言いたげな目で、蒼太のことをじっと、いや、哀れむように見つめていた。
「以前ね、交通事故を見たの」
「交通事故?」
蒼太の反芻に、若葉は頷く。
「酷い事故だった。亡くなった人の身体が弾け飛んでね、私のところにきたの。いろんなものが飛び出してて、気分が悪くなったわ」
でもね。若葉は思い出を語るように優しく呟いた。
「その時の彼の目は、私を見て離そうとしないでくれた。いつまでもいつまでも、私のことを見続けてくれたのよ。その時、私は彼のその目に心を打たれたわ。ああ、私のことを見続けてくれるんだって」
蒼太は一つ、小さく嘆息する。
「君が視られたがりである理由はよく分かったよ。僕にはとてもできない事だ。でも、紫乃は駄目だ。彼女のことは諦めてくれないか?」
蒼太の言葉に、浸るような穏やかな目をしていた若葉は途端に形相を変え、大きく首を振った。
「こんな素晴らしい目を何も手を付けずに渡せっていうの? そんなこと、できないわ。この目は素晴らしい。今まで見たどの目よりも……私の欲に気づかせてくれたあの彼の目よりも美しいと思ったの。どんな瞳よりも、私のことをきっと満たしてくれる!」
「君の満足なんて知らない。他の目をあたってくれ」
若葉はもう一度首を振る。仕方ない。蒼太は諦めたように項垂れると、大きく息を吸って、左手を固く握りしめた。
「悪いが、その瞳に君が映ることはないよ。彼女の瞳には一人の男が居座り続けているから」
若葉の表情が、変わった。ショックに身を震わせ、整った唇を噛み締めている。巻かれた包帯が赤く染まり、許容量を超えたそれはやがて彼女の頬にすっと赤い線を描く。
「私のよ、私のなの。この目は私を映してくれるの!」
紫乃は台に置かれた器具と、液体で満たされた注射器を握りしめ、蒼太目掛けて大股で駆け出す。
蒼太は鞄から右手を抜いてナイフを構える。が、若葉は器具で彼の手の甲を殴ってナイフを吹き飛ばすと、躊躇いなく注射器を振り下ろした。蒼太は既のところで彼女の手首を掴んで動きを止める。眼前に迫る注射器の先端に、総毛が立つのを感じた。
注射器の針が蒼太の顔を求めている。女性とは思えない腕力に蒼太は顔を歪め、若葉は息を荒げて彼のことを睨みつけている。
先端が、いよいよ蒼太の瞳へと近づいていく。殴られた手で彼女をどうにか抑えているが、抵抗で手一杯だ。蒼太は生唾をごくりと飲み込んで、それからナイフの飛んだ位置を確認する。ほんの少し距離さえ開くことができれば手に取ることは可能だ。その時間を作るには……。蒼太は必死で思考を巡らせる。
瞳に触れるかどうかの位置で針が震えている。蒼太はいっそう腕に力を込めるが、劣勢であることは変わりそうもない。何よりもあの液体が一体何であるのかが分からないこと、人体に即座に影響を与えるものと考えると、蒼太は犠牲を払うこともできそうになかった。
――どうにか彼女を殺さなくてはならない。しかしどうすればいい。
思考を巡らせる蒼太。
なりふり構わず、目の前の敵を排除しようとする若葉。
眠る紫乃。
その時、蝶番の軋む音がした。
瞬間、若葉の意識がそちらに向かうのを感じた。蒼太は彼女の腹部に蹴りを入れると、よろめく彼女の手から注射器をもぎ取って投げ捨て、力任せに体当たりをする。
「……萌!」
突然の来訪者は、漆原雅人だった。扉を開けた彼は拘束された篠森紫乃、突き飛ばされる若葉萌、そして彼女を突き飛ばした藍野蒼太を順に見た後、彼の傍に近寄る。
蒼太の体当たりを受けた若葉はスチールラックに背中を強く打ち付ける。その際に鈍い声が彼女の口から漏れ、包帯で包まれた側の目から血飛沫が床に散った。
若葉の咆哮が、部屋中に響く。
蒼太は飛んでいったナイフを手にし、咆哮と共に向かってくる若葉に向けてそれを構える。若葉は輝く刀身に目を向け顔を歪める。蒼太の瞳を見て、彼の中に殺意しかないことを瞬時に感じ取ったのだろう。だが彼女は止まらず、まっすぐに彼目掛けて駆けていく。
向かってくる若葉に向けてナイフを振り翳したその瞬間、若葉萌は彼のナイフにたどり着く前に横に吹き飛ばされた。その突然の出来事に蒼太は一瞬驚くが、続いて蒼太の手に握られたナイフを強引にもぎ取られてしまった。
「……どうして」
横から若葉を押し、ナイフを奪い取ったのは漆原だった。
蒼太は呆然としたまま問いかけるが、漆原は言葉を吐き出そうとし、やがて言葉を紡ぐのを諦めて視線を蒼太から背けた。
刹那、吹き飛ばされた若葉から悲鳴が上がった。
「あ……ああ……ああ……あ……」
蹲り呻く若葉を蒼太は横から恐る恐る覗き込み、目を見開き肩を上げてたじろぐ。
彼女の眼に、先ほど放った注射器の針が、深々と刺さっていた。
「萌……」
絶句する漆原の肩に手を置くと、首を振る。
「もう、彼女は何も見えない。何も満たされない」
蒼太の告げる言葉に、漆原は崩れ落ちる。もしあの時自分が彼女を制していなければ、蒼太はきっと彼女を殺していただろう。しかし、生き残った彼女は両目を失った。
なんとも皮肉な最後だ。蒼太は漆原の手にしたナイフを奪い返すと鞘に収め、肩提げ鞄にしまった。
「ねえ、誰かあ……私を見てる? ねえ、見てるって言って……」
呻き、両目から血を流し、極度の緊張から床に嘔吐物をぶちまけ、それでも彼女は「視られ」たがっていた。漆原はそんな彼女を見て涙を流し、そして彼女に声をかけようとする。しかしそれを蒼太は制すると、口元に指を一本立てて首を振った。漆原は、暫く躊躇うように彼女のことを見つめ、それから固く目をとじると開いた鉄扉から出ていってしまった。
蒼太は二人の姿を交互に眺めた後、拘束具を外して紫乃を背負った。意識がない為随分と重い。華奢な彼女のどこにこんな重みが詰まっているのだろうか。
スチールラックから、幾つもの目がこちらをじっと見つめていた。彼らはきっと、これからもここに居続けるのだろう。どこにも行けず、ただ呻く彼女を見つめながら……。蒼太は下唇をぐっと噛み締め、申し訳ないけど君らは連れていけない。と心の中で呟くと、呻く若葉萌を尻目に、部屋を出た。
蝶番の軋む音と共に、部屋の唯一の扉が閉まる。悲鳴も、うめき声も、何もかも聞こえなくなって、後には静寂と暗闇だけが残った。
蒼太はその静寂の中を一人で歩いて行く。
――視られたがりはもういないよ。
――君のその綺麗な瞳は無事だから、紅一の姿を映し続けることができるよ。
――だから、安心してゆっくりおやすみ。
七
講義が終わり、紫乃と蒼太は写真部へと向かう。
「大丈夫?」
「何が?」
「いいや、なんでもないよ」
穏やかな表情を浮かべる紫乃を見て、蒼太はそれ以上何も聞こうとは思わなかった。あの日、彼女は結葉萌と少し会話をして、その後に眠らされてしまったらしい。その会話の内容を聞かせてくれないか、と彼は何度か尋ねたが、紫乃は結局彼の頼みに頷くことは一度としてなかった。
部室の前にやってくると、蒼太は部室の扉をノックする。奥からどうぞ、という言葉が聞こえてきたので、扉を開けて中に足を踏み入れる。
「どうも」
短髪の青年が暫く蒼太と紫乃の姿を訝しげに見た後、ああ、と声を上げた。
「漆原さんですか。今暗室にいるから、呼んできますね」
そう言うと彼は暗室へと駆けて行ってしまった。その間に別の女性部員がこちらにやってきて軽くお辞儀をすると、奥のテーブルへ二人を招いた。
紫乃を撮影していた時と打って変わって、写真部は随分と活気づいていた。漆原があえて人を出払ったという言葉からして、本来は此方側が写真部の空気なのだろう。自前のカメラを持ち寄って歓談している者もいれば、紫乃がつい先日まで白いドレスを着ていた場所で撮影も行われている。あれだけこだわり抜かれていた撮影状況も、漆原が若葉萌の理想の為に行なっていたのだと考えると、蒼太は思わず目を細めてしまった。
「写真はできているそうです。多分もう少ししたら、漆原先輩もこちらに来ると思います」
女性部員は蒼太と紫乃の向かいに座ると、そう言って微笑んだ。
「それは良かった。こんな大変な時期に作業を続けてもらえるなんて思ってませんでしたから」
無言を貫く紫乃を横目に、蒼太はそう言うとぎこちない笑みを彼女に返す。女性部員は少しだけ目を泳がせると、淋しげに首を傾いでみせた。
「本当に、若葉会長が疾走してしまってから漆原先輩、酷く落ち込んでいて……。あまり笑わなくなっちゃったんですよ」
「そう、なんですか」
彼女の言葉にいかにも残念そうな返答を返すと、蒼太は暗室の扉に視線を移動させる。
若葉萌は行方不明と判断された。視られたがりによる連れ去りが起こっている状況から、彼女も同じ目に遭ったという理由からだった。漆原も彼女の行方に関しては何も答えなかったようだった。
この事件はきっと未解決となり、捜査は続いているが迷宮入りになるだろう。そして黒鵜町の奇怪な出来事の一つとなるのだ。蒼太は顔を顰め頬杖をつくと、嘆息を一つ、吐き捨てた。
「不本意なの?」
横から紫乃が、そう問いかける。蒼太は彼女の問いかけに口を開こうとはせず、女性部員の用意した紅茶を飲む。柔らかな熱と芳ばしい匂いが口腔を埋め尽くし、蒼太の鬱屈とした感情にじわりと沁みた。
やがて、暗室の扉が開くと、漆原がやってきた。彼が姿を現したのを見て二人は立ち上がると、軽くお辞儀をする。漆原は少しだけ目を閉じた後、開くとそっと二人に微笑みかける。
「待たせてすまない。約束していた写真、上がったよ」
「ありがとうございます」
漆原の差し出した封筒を手に取ると、紫乃は笑みを浮かべた。紅一の誕生日に間に合ったことがよほど嬉しいのだろう。そんな彼女を見て微笑みながら、しかし素直に喜べない自身がいることに、蒼太はちゃんと気づいていた。
「約束通り、この写真は俺と萌ちゃんの最後の活動記録として使わせてもらう」
「ええ、構いません。私は写真が貰えればそれで十分ですから」
紫乃はそう言うと封筒を鞄にしまった。白いドレスに包まれた篠森紫乃の姿を蒼太は思い出す。あの姿を、紅一はまた見ることになるのだろう。
紫乃の目配せに頷いて蒼太は彼女の後を追うようにして部室を出ていく。彼女は紅一の墓に行きたいという気持ちが高まっているようで、目を輝かせながらいつもより饒舌に蒼太に話題を振っていた。すっかり明るくなった紫乃を見て笑みを浮かべながら、蒼太は彼女の言葉に何度も頷く。
「なあ、藍野君、ちょっといいかな」
玄関口に着いた頃だろうか。後ろから慌ててやってきた漆原は二人にそう声をかける。逸る気持ちで一杯の紫乃に少しだけ、と蒼太は呟くと、不機嫌そうな表情を浮かべる紫乃を一人残して、漆原の下へと向かう。
「少しだけ、話をさせてもらってもいいか?」
蒼太は頷いた。
―――――
食堂の一番奥はやはり今日も誰も座っていなかった。騒々しい学生たちを掻い潜りながら最奥にたどり着くと蒼太はいつも通り布巾を借りてテーブルを簡単に拭いた。それからコーヒーを二つ購入し、うち一つを漆原の前に置いた。初めは遠慮がちに蒼太の方にやった漆原だが、蒼太が何度かコーヒーを勧めると、やっとそれを口にしてくれた。
「……随分と苦いな」
「ここのコーヒー、とても不味いことで有名なんです」
「そんなものを飲ませたかったのか」
「ええ、飲ませたかったんです」
蒼太は言い切ると、彼も酷く不味いコーヒーに口を付けた。泥水を啜っているようで、飲み終わると口の中にじゃりっとした滓が残る。最低の味だ。
「俺、萌ちゃんがああだってこと全然分からなかったんだ」
「視られたがり、ですか?」
「ああ、単純に写真とか、目立つことが好きだなってくらいにしか思ってなかった」
漆原はコーヒーを啜る。
「若葉萌さんのこと……」
蒼太の言葉を彼は制すと、少ししてゆっくりと頷いた。
「彼女に付き添っていたのも下心があってのものさ。目立ちたがりの彼女の為に何かしてやりたい。被写体も彼女が気に入るものを沢山探して、会長になって厳しくなった部を俺がフォローして、できる限り彼女が楽しめる環境を作りたかったんだ」
「それを、若葉さんは?」
漆原は首を振った。
「君に視られたがりが彼女だと告げられた時、ショックである反面、正直なところそれでもいいかな、と思った。彼女が良ければ、彼女が満たされるのならば……。そうして美しい彼女を見ることができたなら……」
蒼太は彼の方を見ず、汚れたテーブルに視線を落としたまま、口を開いた。
「あの時、若葉さんを押しのけた時、もし彼女が無傷だったらきっと僕は殺されていたんでしょうね」
蒼太の言葉に、彼は何も返そうとはしなかった。蒼太自身も、彼からの返答を待とうとは思わなかった。
「……狂ってるのは、俺のほうなのかもしれないな」
「どちらも間違ってはいませんよ」
蒼太は立ち上がってカップをゴミ箱に向かって投げた。弧を描いてカップはゴミ箱に着地する。残念ながら不燃ゴミの箱だったが、蒼太は特に気にしない。
「想いを寄せると、そうなる」
蒼太は振り返ると、最後に漆原に向けて微笑んだ。
「愛することと、狂うことは同義なのかもしれませんね」
それだけ言い終えると蒼太は、漆原を残して一人、騒々しい学生達の中に消えていってしまった。
―――――
紅一に線香を上げると、二人は手をあわせて目を瞑った。目の前の灰色をした墓石の中に兄が眠っていることを、蒼太は未だに受け入れることができていない。隣で手を合わせる紫乃のことも馬鹿にはできないと思っていた。
手を合わせ終えると、紫乃は立てた線香をどけて、封筒を置いた。白いドレス姿の彼女が写った写真達だ。彼女は蒼太からライターを受け取って、封筒の端に着火する。
「これでいいの?」
「これでいいの」
紫乃の言葉に、迷いは一つもなかった。
結局彼女は受け取ってからここに来るまでの間、封筒を開けることは決してしなかった。そして今、糊のついたまま、開封されることもなく、彼女の写真は火を着けられた。
「紅一さんの為だけに撮ったものだから」
ごうごうと火は強まり、封筒だけでなく中の写真も一緒に燃やしていく。気分の悪くなるような臭いをまき散らしながら、濃くて濁った煙を上げて写真は空へと立ち昇っていく。
「私は、何があっても、きっと彼のことしか見ることはできないわ」
「うん、分かってるよ」
二人は空を見上げる。
灰色の煙がよく目立つ、雲ひとつない晴天の空だった。
―――――
針の折れた注射器が床に転がっている。周辺には血の混ざった嘔吐物が散乱し、スチールラックに整然と並べられていた眼球は皆、床に打ち捨てられ、ガラスの破片と共に転がっている。
不意に、錆びた蝶番の呻く音がした。鉄扉の開いた音だ。誰かが入ってきたのだろうか。視られたがりは音に反応するように、俯いた首を起こした。扉の閉まる音が、部屋に反響する。
――ぶつり、ぶつり。
転がった眼球の割れる音がして、視られたがりはぴくりと動く。右目は針で貫かれ、左目は空洞となった両目で、音のした方に向いた。血の気のない虚ろな表情と、血まみれの顔から、嘗ての美貌は失われている。壁に背中を預け、力なく四肢を放り出したまま動かないそれは、人形、いや、幽鬼とでも呼ぶべきだろうか。
「誰か、いるの?」
何も見えない。自分がどこにいるのかも分からない。音と感触だけを便りに、視られたがりは起き上がると、両手を前に付き出して周囲を探る。
――ぶつり、ぶつり。
音は次第に大きくなり、距離は近くなっていく。暗闇の中で視られたがりは、反響する音の主を探す。
「誰かいるの? 私を見ているの?」
そう言って周囲を探る視られたがりを、音の主はそっと抱き寄せる。視られたがりは久方ぶりに感じたその温かみのある感触に、思わず安堵し、赤い涙を流す。
「ねえ、見てくれているの? 私のこと、見てる?」
音の主は、優しく彼女の髪を撫でると、彼女に分かるように頬に顔をつけて頷くと、耳元で優しく囁いた。
――ずっと見ているよ。これからも、ずっとずっと。