第四部
喫茶店で軽くコーヒーを飲みながらほとぼりが冷めるのを待っていたが、窓の外を猫子ちゃんがダッシュしていたので慌てて表に飛び出した。そのあと都合の悪いことに三十分ぐらい迷った挙句、猫子ちゃんを路地裏にて再び発見した。
猫子ちゃんは大勢の男たちに取り囲まれていた。柄の悪そうな男たちだ。ガムを噛んでいるやつまでいる。いまどき人を取り囲んでいる時にガムを噛んでいたら仲間にたしなめられたりしないのだろうか。むしろ仲間たちの方がくちゃくちゃやられてうるさそうである。
「てめー、俺たち『マッド・スローン』に喧嘩を売るとはいい度胸だな!」
「もう喫茶店で優雅にコーヒーブレイクできると思うなよ、ああん?」
ここにいるということは第三戦に勝ち越せなくて天国浪人しているというわけで、戦闘力数値的にはみんなとどっこいのくせに偉そうな男たちである。
俺は物陰から様子をうかがった。くしゃみとせきに気をつける。
猫子ちゃんは革ジャンのポケットに手を突っ込んで男たちを睨み返している。
「あんたたちの洗濯物を釣竿で引っ掛けて古着屋に売り払ったことは謝る」
そんなことしたら怒るに決まってるわ。マッド・スローンさんたち被害者じゃん。
「でもお金が入用だったし、ここで暮らしていくには。それに」
猫子ちゃんが上着のポッケからお手手を引っこ抜く。
「対戦相手も欲しかったしね」
次の瞬間、ぱあっと光が瞬いて、猫子ちゃんは白い鎧に身を包まれていた。どうやら恥と外聞も古着屋でうっぱらったらしい。
男たちも「おうやんのかこらおう」と弾みをつけて白鎧を召喚した。ロッドの先にナックルがついた例のやつだ。猫子ちゃんも持っている。
「どちらが勝つと思います、高木さん」
「そりゃあ――って恋塚さん何やってんの」
「ふっふっふ」
恋塚さんはほっかむりを被ってどこからどう見ても田舎のばあちゃんである。
「頭上をごらんください」
「うえ?」
俺が上を見上げると、ビルの屋上に黒い消し炭のような人影がいくつもたむろしていた。何かを話し合っている様子である。
「私のお客さんです」
またよからぬことを企んでいるらしい。
「この娯楽の少ないリンボで野良ファイトとなれば風も吹かずにおいもせずともどこからともなく暇人どもが集まってくるのが世の常。そして人が集まるところにお金アリ」
「商売人に生まれればよかったのにね」
「何をおっしゃる。このハイテク時代に野良商人一匹の知恵なんぞ誰も歯牙にもかけちゃくれません。まず数字、次にシミュレート、そうして成功確率99割じゃないと動かない、それが現代人のサガなのです」
そんなこと俺に言われてもなあ。
「で、カネを稼ぐってどうやって?」
「興味がおありですか?」
恋塚さんは万引きしそうなガキを見つけた書店員みたいな顔になった。
「……分け前はあげませんよ?」
「いらねーよ」
勝つにしろ負けるにしろこんな白っぽくて野暮ったい町にいつまでも留まってるつもりはない。
恋塚さんはコホンと咳払い。
「もちろんやり方は競馬と同じ。ファイトの段取りができたらオッズ表をばら撒いて掛け金を頂き勝負が終わり次第に配当という次第でございます。あ、知ってます? オッズで1倍ってなってたら十円賭けで当てると十円払いの十円戻りで手元には元金と合わせて二十円返ってくるってことなんですよ?」
「そんな豆知識はいらん」
恋塚さんは俺の頭の上に顎を乗せてフムフムといい始めた。使い魔らしい小さな羽根つきのバスケットが上に下にと大忙しだ。こいつほんと自分以外のやつをこき使って荒稼ぎするの似合ってるな。
「始まりますよ……ほら!」
恋塚さんが指差した先で猫子ちゃんとマッド・スローンが激突した。衝撃波で俺はひっくり返り恋塚さんをぶっ潰した。
「いてて……はっ」
飛んできた瓦礫をかわす。猫子ちゃんがフルスイングしたメイスがぶつかったところから何もかもぶっ壊していく。白鎧の男たちは冷や汗だくだくになっていた。
「でやああああああ!!」
「ずやっ!」
果敢に男の一人が突撃したが猫子ちゃんがメイスを器用に撃ち上げて拳の部分を相手の顎にぶつけてひっくり返した。
「ずやってなんだ」
「言わないであげてください、気にしてるんです」
そういえば恋塚さんは猫子ちゃんの守護天使だった。守護しろよ。
恋塚さんは猫子ちゃんの動きを目で追いながらしきりに頷いている。
「ふむう、やはり攻撃した後の隙が問題ですね」
「ああ、振り切った後にちょっと安心して動きが止まるな。もっともほとんど当てて相手は失神するから問題ないっちゃないけど」
「いえ、次の対戦相手は強敵ですから……ぎゃあ! 高木さんいつからそこに!」
「どこまでわざとなの?」
恋塚さんはてへぺろと舌を出してきた。何を考えているんだか。
その後も猫子ちゃんは鎧の背中の部分からジェット噴射を撒き散らしながら機動戦士と化してメイス無双を繰り広げた。蚊取り線香にやられた虫ケラのように地面に気絶した男たちが撃墜されていく。
「はああああっ!」
一番大柄な男がメイスを払うのではなく突いた。その動きに慣れていなかったのだろう、猫子ちゃんはモロに面頬にナックルを喰らった。いやな音がした。
「……っ」
猫子ちゃんが身体は前進しながら頭部だけがのけぞっていくいやな形で転倒した。気絶したかと思われたが、倒れつつも最後に相手の足を払っていたので意識は残っていたようだ。男がスッ転んだ。
ダブルノックダウンのていになった。
二人とも膝から下が震えて立ち上がることができない。俺の頭上でギャンブラーたちがどよめき始めた。俺には彼らを静められる回答は持ち合わせがない。
果たして、どっちが勝つのか。
「くっ……う」
メイスを杖にして、立ち上がったのは、猫子ちゃんだった。面頬が割れて素顔が覗いている。血が二、三粒ぽたぽたと滴った。
「あたしは……負けない……天国に……いくんだ」
そう言って、まだ立ち上がれない男にメイスを向ける。
「あたしの、勝ち」
どうやらそのようだった。
横で恋塚さんがほっと安堵のため息をつく。守護する魂をハブかマングース扱いしながらも、やっぱり心配ではあったのだろう。俺も釣られて微笑んでしまう。こんなの柄じゃないんだけど。
上のギャンブラーたちも退散していったらしく気配がしない。マッド・スローンたちも失神程度だからそのうち起きるだろうしそろそろ解散かなという時にそいつはやってきた。
どど……
どどど……
どどどどどどどどど!!
路地裏にスライディング気味に突っ込んできてホコリを巻き上げ顔を上げたのは、
「ちょっと!! あたしの知り合いに何やってんのよ」
穂山美槍は、登場早々ぜいぜいと息を切らしていた。運動不足め。
猫子ちゃんは心底うざったそうに、汗ばんだ血塗れの顔を穂山に向けた。
「誰……?」
「あたしは」
どしんと薄い胸を叩き、
「こいつらのケツモチよ」
マッド・スローンたちが青ざめた顔で首を横に振っている。新入りらしいガム噛みのあいつが隣のやつにぼそぼそ聞くのが俺の耳にも入ってきた。
「誰あいつ?」
「前にリーダーがフッた女だ……」
「リーダーが……って、え、それって、フラれた腹いせに構成員を半分以上も病院送りにしたっていう……? な、なんでいまさら?」
「わからん。あの女にはあの惨劇が青春活劇か何かに見えていて、俺たちとはもう友達になれたとでも思ったのかもしれない」
ひどい言われようだが穂山なので仕方がない。
マッド・スローンたちが「たのんだぜ、アネゴ!!」などと適当なことを言いながら撤退していくと、誰がうるさく喋っていたわけでもないのにあたりが急に静かになった。
猫子ちゃんと穂山がにらみ合う。
「やっ!!」
スモークが焚かれ、穂山が白鎧を召喚した。
「誰だか知らないけどあたしの身内に手を出すなんていい度胸じゃない。お仕置きしてあげるわ」
「あの、あたしたち他人だし、そういうの困る」
正論である。
穂山はちょっと怯んだがメイスを突きつけて吼えることで自我を保った。
「今日が会ったら百年目よ!」
意味がわからない。考えて喋ってないなあいつ。猫子ちゃんが新宿でアメリカ人に乗り換え案内を頼まれたような顔になっている。
「身内をボコボコにされて知らん振りじゃ女が廃るわ。病院送りじゃ済まさないわよ、お団子頭!」
ちなみにメットをかぶっているのになぜ穂山が猫子ちゃんのヘアスタイルがお団子モードだと知っているかといえば、その形にメットが膨らんでいるからである。
「地獄へ叩き落してあげるわ」
「地獄へ……」
猫子ちゃんの目が据わった。握るメイスに力がこもる。
「あたしは地獄へは落ちない……落ちるのは君の方だよ、穂山美槍」
「なっ! どうしてあたしの名前を!?」
「最初に入った喫茶店のマスターにあいつに近づいちゃ駄目って教えてもらった」
猫子ちゃんの告白に俺の目頭が熱くなった。そんな親切なマスターには俺の方がいの一番に会いたかった。
「くっ、あのマスター、まだ店の木にガムシロ撒いてカブトムシ集めようとしたことを怒ってるのね……いいわ、あんたをボコボコにした後にあのマスターもボコボコにする」
「野蛮だね、すぐボコボコにすればいいと思ってる。その性根こそあたしが直してあげるよ」
「言ったわね、この――ッ!!」
穂山がメイスで殴りかかった。猫子ちゃんが鎧のバーニアを使ってバックステップ・スウェー。たたらを踏んだ穂山の面頬を下ろしていない顔が真っ赤になった。
「この、この、この、この」
「ふっ、ふっ」
右に左にと穂山がメイスを振り回し、そのたびに猫子ちゃんが満身創痍の身体を押して回避していく。言葉にすると簡単だが穂山の攻撃は何フレームか落としているとしか思えないほど速い。穂山は強い、ただ恐ろしく馬鹿なだけだ。
「盛り上がって来ましたね」と恋塚さんが俺の顎を額で突き上げながら言ってきた。
「助けなくていいのかよ?」
「いまが成長時だと思いますから」
なんだそりゃ。ただ単に割って入ったら自分がぶっ飛ばされそうだからビビってるだけでは……と思ったが二人を見守る恋塚さんの目は真剣だった。へんなやつ。
俺は気を取り直して二人の勝負を目で追った。
「ヂッ!!」
穂山がメイスを振りかぶって払った。完全な大振りだったが、
「あっ」
猫子ちゃんが落ちていた瓦礫に足を取られてバランスを崩した。ぶつかる――その瞬間、猫子ちゃんの目がキラリと光る。
バーニアを噴射。
猫子ちゃんは逆に突っ込んでいった。
「猫子ちゃ――」
ガキィッ
「っ、つ――」
「な、なんですって……?」
穂山のメイスのロッドを、猫子ちゃんの腕がガードしていた。ナックル部分は中空に刺さった形になっている。
「ど、どういうことだ?」
「あれ高木さん知らないんです? あのメイスはナックルには武神の加護が施されているので威力満点なんですが、ロッド部分だと鎧を砕くまでの攻撃力はないんですよ」
「ってことは……?」
「猫子ちゃんの作戦勝ちってところですね」
「なるほど……」
感心している俺の目の前で、猫子ちゃんが穂山の腹を蹴飛ばして距離を取った。そしてメイスを振りかぶり撃ちやすい距離から――
「うっ……がはっ……」
どう、っと。
猫子ちゃんはその場に膝をついた。ぜいぜいと荒く息をついている。体力の限界だったのだ。
穂山も呼吸を荒ませながら、どうやら自分が勝ったらしいことに気がついて、背筋を伸ばしメイスの先で猫子ちゃんを指した。
「どうやらあたしの勝ちのようね」
「……う」
「懐にもぐりこまれた時はどうなるかと思ったけど……これも勝負のさだめ。決着をつけさせてもらうわ」
猫子ちゃんは心ここにあらずで首を振っていた。
「いやだ……いやだ落ちたくない、地獄には……」
俺は恋塚さんの頭をべしべし叩いた。
「おい、助けろって! おい!」
「…………」
恋塚さんは動かない。
「おいって!」
「自分で勝ち取らなくてはいけないんです」
「何言ってるかわかんねーよ!」
「…………」
「くそっ……わかったよ」
俺は恋塚さんを押しのけた。
「もう天使には頼らねぇ」
走り始める。風を切る。穂山がこっちに気づく。猫子ちゃんの熱に浮かされたような顔。
白煙があたりに立ち込めた。
俺はそれをぶち破って、白鎧に覆われた足を穂山のわき腹に叩き込んだ。
ガゴォン!
穂山がぶっ飛んでいったが、壁を蹴って起き直った。
「なにすんのよ、高木!」
「やりすぎだバケモノ! 猫子ちゃん消滅するところじゃねーか」
「それが勝負というものなのよ」
意味がわからん。そんなもん糞喰らえだ。俺は猫子ちゃんに肩を貸した。
「高木くん……? どうして……」
熱っぽい猫子ちゃんの目に当てられて俺はわけもわからず口走った。
「修行だ」
当たらずとも遠からずでもある。白鎧、出たし。
「離して……自分で歩ける」
「お、おお。すまん」
猫子ちゃんは自分の足で立って、メイスを構えなおそうとした。
「ちょっとちょっとちょっと! もうやめようぜこんなこと。お互い対戦相手ってわけでもないんだしさ」
「強くならなきゃ……」
ぼそっと猫子ちゃんが呟く。
「地獄に落ちちゃう……」
「地獄になんか――……」
と言いかけて、彼女の対戦相手が誰なのか思い出した。
何も言えない。
ふらふらと歩いていく猫子ちゃんに、もう穂山もメイスを向けなかった。前が見えているのかいないのか、猫子ちゃんはそのまま幽霊のような足取りで路地裏を去っていった。
穂山は鎧を解いた。
「とりあえず、あたしの気は済んだわ」
「ほんとかよ」
後で闇討ちしたりしないだろーな。
「ほんとよ。それより高木、あんたあたしとの練習では出なかったくせにこんな土壇場で出すなんて。なんなの? やる気の問題?」
「たぶん」
「はっはっは」
恋塚さんがすっくと立ち上がって笑う。
「お仲がよろしいようで。天使としても喜ばしゅうございます。それじゃあっしはこのへんで」
むんず。
俺は立ち去りかける恋塚さんの首根っこをつかんだ。
「何をするんです! 痴漢ですよそれは」
「やかましい。それより事情を聞かせてもらおーか。なんで猫子ちゃんはあんなに強くなりたがってるんだ? そんなに地獄って嫌なところなのか?」
「…………」
恋塚さんは俺に掴まれたまま遠い目をした。
「地獄に何があるのかは、天使である私たちにもわかりません。水道に流したゴミがどうなるのか知らないように、あるいは書店の駐車場にポイ捨てされた煙草の吸殻を誰が掃除するのかを知らないように」
後半に怨恨を感じるのは気のせいか。
「ただ誰がいるのか、はわかります。天国へ逝けなかったものたちです」
「そりゃあそうだろうな……で? それと猫子ちゃんの反応と何の関係があるんだ?」
恋塚さんはくるりと振り返って俺の目を見た。
「あの子は、無理心中で死んだんです」
『決戦まで……あと4日』
俺たちは喫茶店で茶をしばきながら話を聞くことにした。
恋塚さんと向かい合って俺と穂山がボックス席に座る。俺たちはちょっと距離を開けた。
「心中って……いきなり話が重くなったな」
まあ、ここにいる以上、誰もが何かしらで死んでいるわけである。俺はラーメンだし穂山は木から落ちたとか。初夏の木に登るなよ女子高生が。
恋塚さんは重々しく頷いた。
「猫子ちゃんは生きていた頃、ある男性とお付き合いしていたのですが、その彼がそれはもうひどいやつで……」
「許せない!」と穂山。もう? ちょっと早くない?
俺は咳払いした。
「続けてくれ恋塚さん」
「ええ。――もともと二人は幼馴染だったそうです。小学校の頃からお互いを知っていて、高校に上がってから流れで付き合うことになったんだとか」
「リア充め」
「リア充もリア充で大変だってことですかね。……最初は睦まじくやっていたそうなんですけど、だんだんと彼の様子が変わっていって……彼はディアゴスティーニ男子だったんです」
「ディアゴ……え、何?」
「あんたそんなことも知らないの?」と穂山。
「ほら、テレビとかでやってるでしょ。分冊で最初だけ180円でも次号からは480円くらいするやつ。すごい薄くてバインダーもらえる」
「なんでそんな詳しいんだよ」
「うちのパパがヤマトのやつ買ってたから」
「いいパパだな」
「でしょ?」
穂山が恋塚さんのほうを向き直った。
「それで?」
「はい。――穂山さんの分かりやすい説明のおかげでディアゴスティーニ男子が最初は優しいけど段々荒れていく系男子だということはわかって頂けたと思います。彼は、次第に猫子ちゃんに暴力を振るうようになっていったんです」
俺は耳を塞いだ。
「聞きたくない! そんな暗い話」
恋塚さんがちらっと俺を見る。完全に耳を塞げてないことを見抜いていたのかもしれない。
「猫子ちゃんは辛抱強く彼を更生させようとしたそうです。悩みを聞いてあげたり、ご飯を作ってあげたり……それでも彼が変わることはなかったんです」
穂山はもう目にハンカチを当てている。
「暴力は日増しに増していきました。そしてとうとう警察沙汰になって……それで立件してしまうこともできたのですが、猫子ちゃんはそれを庇ったのです。自分も悪かったのだと。彼の気持ちをわかって上げられなかった自分がいけないのだと。その時に彼を少年院送りにしていておければ、猫子ちゃんは死なずに済んだでしょう」
俺はごくりと生唾を飲み込んだ。
「じゃあ……猫子ちゃんはそのあとに……?」
「ええ。彼と投身自殺しました。遺体はまだあがっていませんから、行方不明扱いですけど」
「……その男はどうなったんだ?」
「もちろん地獄逝きです。当たり前です。……もうわかったでしょう? 地獄には猫子ちゃんを死なせた彼がいるのです。猫子ちゃんは生きていた時だけで限界でした。死んでからまで彼に振り回されたくないと思っています。地獄に逝って、顔を合わせれば結局は猫子ちゃんは彼の言いなりになってしまうでしょう。彼女はそういう人なのです」
穂山がびしょぬれのハンカチをしまった。
「そんな悲しい過去が……あたしはそんな重荷を背負った人をボコボコにしてしまったのね」
「そうだな、ひどいやつだな」
「いえいえ、穂山さんなどは序の口ですよ。世の中にはもっとひどい方がいらっしゃるので」
なんだと!? この女よりもろくでもないのがいるのか……
「いったいそれは誰なんだ?」
恋塚さんは笑顔で答えた。
「あなたです、高木さん」
「……俺?」
「ええ。だってそうでしょ? こんな話を聞いてあなたはまだ彼女と戦おうというのですから」
こ、この野郎。それとこれとは話が違うぞ。
「ちょっと待てよ。俺だってラーメン食ったら変な雑菌で死んだんだぞ。まだ十七で。超かわいそう」
「確かにかわいそうレベルがそこそこ高いですが猫子ちゃんの方がもっと高いので猫子ちゃんの勝ちです」
なんだそりゃ。かわいそうレベルて。
「むちゃくちゃ言うなよ。ボーナスが欲しいからって残酷だぞ恋塚さん」
「動機が不純だろーと私の言ってることは間違いではないでしょう。地獄で彼女に生前と同じ苦しみを味わわせるのですか? なんてひどい。高木さん、あなたが一言『やめる』と言えば一人の恵まれない魂が救われるのですよ」
「それはそうかもしれないけどさあ……」
俺はうーんと考え込んでしまった。確かに猫子ちゃんに恨みはないし、かわいそうだとも思う。俺ごときがかわいそうだなんて言えるかどうかはともかく、何か力になってやれるならそうしたい。でもそれで自分が地獄逝きというのは……
「なあ恋塚さん、やっぱこんなのおかしーぜ。二人とも天国に上げてくれよ。そうすれば何も問題ないじゃん」
恋塚さんは笑顔のまま首を横に振った。
「それはできません」
「そこをなんとか」
「それでは天国の意味がなくなってしまいます。天国というのは、現世があり、地獄があり、そこに魂があることで成立するのです。違いますか? 天国しかないのなら、いったい誰がその価値を褒め称えます? ありがたがります? 地獄があるから天国が際立つのです。そしてそうした段取りが整っていてこそ、人は幸福を知るのです」
「意味なんかなくていーじゃん。みんな幸せの何がいけないんだよ?」
「高木さん、みんなが幸せになることなんてありえないのです。誰かが割りを食わなければならない。問題はそれが誰か、ということです。より地獄に近い魂が地獄の空気を呼吸するべきなんです。それがみんなの納得につながります」
「なんか勝手だぞ、それ」
穂山が横から会話に突っ込んできた。
「そうよ。それなら最初から天使が誰を天国逝きにするのか決めてくれればいいじゃない。実際に猫子ちゃんの彼氏は最初から地獄逝きで決定だったんでしょ? どうしてあたしたちがこんな苦労しなきゃいけないわけ?」
「だから、申し上げているのです」
恋塚さんは笑ったまま。
「神が与えた気高いチャンスを捨てて、元の木阿弥になってくれ、と」
「……元の木阿弥って。いくらなんでもひどくないか? もう少し言い方ってものがあるんじゃないのか」
「そう言われましても。私たちから見ればあなた方はチャンスがあるだけまだマシなのですよ。もちろん強制はできません。我々はただ提案をするのみです」
俺はぎゅっと目を細めて、目の前にいる恋塚さんを睨んだ。
「あんたほんとに恋塚さん?」
天使は笑って答えなかった。
喫茶店を出ると俺と穂山は同時に背伸びした。
「いやー、重たい話だったぜ」
「肩が凝っちゃったわ。もんでよ高木」
「任せろ」
やさしい俺はガチで穂山の肩をもんでやった。バキバキに凝っている。
「ああ~っ、いい、そこいい、そこをもっと」
「往来のど真ん中で変な声を出すな。通報するぞ」
「誰も聞いてやしないわよ」
この痴女め。
「ふう……それで、どうすんのよ高木。あんたまさかほんとにあの子に天国逝きを譲るわけ?」
「うーん……」
俺は結局、まだ答えを出せていなかった。
「いや、でも、たぶん譲らないよ。猫子ちゃんには悪いけど、俺だって自分の身はかわいいし」
「そっか。そうよね。うん、それがいいのよ」
穂山はどこか嬉しそうだ。
「他人のことなんて考えてたらオチオチ夜も眠らんないわ。自分勝手でいいのよ人間なんて。天使がどうこう言おうとね」
「おまえが言うと説得力があるなあ」
なにせ知らない族を身内と思い込むほどの勝手さだからな。元気かなあ、マッド・スローン。
「さて」
穂山がぐりんぐりん首を回す。
「これからどうする? 白鎧も出たし公園に戻って練習でもしましょうか。あたしだってもうすぐ自分の試合があるし」
「それもそうだな」
「あ、その前に掲示板であんたの決戦日時を調べましょうよ。ひょっとして忘れてた?」
「あー、忘れてた」
「のんきなやつ」
よく言われる。
俺たちは中央広場までいって掲示板を見た。俺と猫子ちゃんの名前の横でカウントダウンタイマーが回っていた。残りは四日らしい。
「四日かあ。サボるには微妙だし頑張るには長いな」
「何言ってんのよ練習漬けに決まってるでしょ。あの子、あたし並に強いわよ」
「じゃあ勝てないじゃん」
「割り切りすぎよ……」
いやだってそうだし。くっそー。悔しいなあ。まあでもやれるだけは頑張ろう。
その前に景気づけになんかメシでも買っていこうかと穂山と喋っていたら、ガツンと誰かとぶつかって俺はひっくり返った。
「いてて……」
「す、すまない大丈夫か……って高木くんじゃないか」
「あ、蜂山さん」
俺とぶつかったのは蜂山さんだった。いったいどこへいっていたのやら、両手で何か黒いダンボール箱を抱えている。
「どこいってたんだよ蜂山さん」
「ふふふ、名案を思いついてな」
「その箱は?」
「まあ見てろ」
蜂山さんはその箱を地面に下ろした。
「開けてみるがいい」
「いいの?」
「ああ、私からの、その、君への激励がかたちになったものだと思ってくれ」
それってプレゼントってこと? これたぶんフラグだな。大事に立てとこ。
「ぬふう」
俺が溢れんばかりの笑顔を浮かべると、穂山が一年前のヨーグルトを開封した時の顔をした。
「……高木、あんたそれひょっとして喜んでる顔?」
「そうだが」
「二度と喜ばない方がいいわよ」
なんてひどいことを言うやつだ。俺が全身全霊をこめてニコニコしてやると穂山は口をおさえてどこかへ消えた。そこまでなの? そんなに俺って不細工?
そこはかとない絶望をかき消すために、俺は蜂山さんの贈り物を開けた。
中から現れたのは、いつか見たスプリングとメタルのバケモノ。
人肉裂断ギプスである。
「……問い合わせたらメーカー本社にはあるという話でな、会社の倉庫まで取りにいってたんだ。高かったんだぞ? しかしまあ、それで君の天国逝きが決まるなら私も守護天使として誇り高いしな、奮発して買ってみたんだ」
「そうか、ありがとう。ヌンッ!」
ばぎゃあっ!
俺の鉄拳がギプスとその向こうにある暗澹とした未来(フラグ)を打ち砕いた。蜂山さんが女の子とは思えない形相になって絶叫した。
「なんてことするんだ! いくらしたと思ってる!」
「あんたは俺のことをなんだと思ってる! こんなのはめたらマッチョになる前にミンチになるってなんべん言ったらわかるんだ!」
「一度も言われていない! ……ううう、ひどい、ひどいぞ高木くん。いらないなら事前に連絡してくれれば買わなかったのに」
「サプライズプレゼントでそれはちょっと無理だろ……」
粉々になった鉄片にくず折れて蜂山さんがシクシク泣き始めた。確かに破壊したのは悪かったと思うが俺も自分の魂の安寧は惜しい。
「あーっ!」
タイミングの悪いことに穂山が戻ってきてしまった。
「いーけないんだいけないんだ、てーんしちゃんをなーかしたー」
ガキか。
しかしまあ、傍らではシクシク泣いてる天使、もう傍らでははやし立てて来る面白半分の悪魔に挟まれていると、やっぱり俺って地獄逝きの方が似合ってるのかなあと思ってしまうのだった。
こんなんで猫子ちゃんに勝てるのか?
「でやああああああああっ!!!」
穂山がメイスを振りかぶって下ろした。俺はそれを自分のメイスで受け止め、その下から穂山の鎧を蹴っ飛ばして距離をとった。背中のバーニアを気合と根性で噴射して滞空する。
穂山が唇を拭ってにっと笑った。
「やるわね!!」
ちなみに俺はやつの口元を攻撃していない。あいつ、あぶないから面頬下ろせって言ったのに聞かなかったのはそれがやりたかったからかよ。安全より浪漫か。
「おまえもな!」
一応、お約束を返してやる。うわーすげぇ満足そう。
穂山はメイスをクルクル回して、構え直した。手首と腕にロッドを沿わせた形の引き気味の構え。そういうところだけはいっちょまえである。
「いくわよっ!!」
「はい」
眼下の公園からは蜂山さんが「がんばれー」と応援してくる。飛べよ。
ため息をついてるヒマはない。
穂山がメイスを突いてくる。
受ける。
はじいて、穂先のナックルを突き出す。
穂山がバーニアを噴射して回避。
ぼぼぼぼぼ
急降下する穂山。
追う。
どこかで急停止して切り返してくるはず。
そこを叩く。
案の定、穂山が反転してストップ・バーニア。
突くというよりは置く感じでメイスを出してくる。
俺が突っ込めば、こっちの速度だけで白鎧がぶっ壊されるだろう。
むむむ。
ちょっと頑張って身体を捻りこみナックルを回避。
驚く穂山の顔がよく見える。
「でやっ!」
こっちのメイスを力任せに振り回した。
穂山の白鎧の肩口に当たる。
クリスタル状の鎧が砕け、中から霧が漏れ出した。
「ちっ」
穂山が舌打ちして気合を入れると鎧の傷がふさがった。
そのまま懲りずに突っ込んでくる。
もう何度も対戦したから分かる。
こいつ、ピンチになるととにかく突っ込んでくる。
そこをカウンターされたら負けちゃうだろうなあ。
何度言っても聞きゃしない。
などと、悠長に考えている暇はない。
三つに分かれたかと思うほど速いメイスの突きを同じくメイスの拳で受け止める。
ロッドで受け止めたら割れちゃうのだ。
でも、それが有利なときもある。
「ほっ!」
「!?」
俺はメイスを回転させて、ロッド部分を穂山の顎にぶち当てた。メイスのナックルにぶつければこっちが割れてしまうが相手に当てる分には問題ない。
「ひでぶっ」と穂山。
そんなひでえことはしてないです。
俺はそのまま穂山の白鎧をロッド部分で五連打した後、メイスを反転させてナックルでわき腹を振り抜いてぶっ飛ばした。カウンターされちゃうと物凄く痛いし穂山を好き放題させると俺が殺されちゃうかもしれないので距離を取ったのだ。
吹っ飛んでいった穂山がぶぼァッとバーニアを逆噴射してストップ。また口元を拭った。
「やるわね」
だから殴ったのは顎ですってば! なんで唇? よだれでも垂れてんの?
「おなかすいたのか穂山」
「失礼なことを言わないで頂戴。あたしのおなかの音を聞いたからっていい気にならないでよ。いまカロリースティック食べて回復するところなんだから」
そういって穂山は空中で栄養バーをばりばり食い始めた。勝手に話を進めていくやつである。おなかの音とか初耳だよ。
穂山は食い終わったバーの包みを宙に捨てた。
「ふん。初めて白鎧を出せた日に比べれば大したレベルアップね。このあたしにタタラを踏ませるなんて」
「おまえに褒められるとマジで凄いから嬉しいよ」
「ちょっ……何言ってんのよ馬鹿じゃないの!」
「あはは、自分の強さを自覚しろよバケモノ」
「……これがツンデレってやつね」
「ちがうと思うよ」
俺、穂山のこと好きくないし。
「知ってる? 男子ってかわいいなって思う女子とはおしゃべりできない生き物なんだよ」
「あんた殺されたいの?」
「そうかもしんない」
だって、マジになった穂山をぶっ飛ばせるぐらいじゃないと猫子ちゃんには勝てねーだろうし。俺も男見せる時が来たってことよ。
「うー! がー!」
頭から湯気を出しながら穂山が突っ込んできた。湯気て。ヤカンか?
「ふンヌッ!」
俺は力任せに振られたメイスを受け止めて、突き飛ばすように穂山と距離をとる。
穂山、舌打ち。
「やっぱりパワーで押し切るのはもう無理みたいね……でも、これならどう!?」
背中のバーニアから天使の羽のようなジェットを噴射して、穂山は加速した。俺の方に、ではなくあらぬ方に。どうしたんだろう。ジャンプでも買いに行くのかな。
「私の動きについてこれるかしら!?」
言って、穂山は俺の周囲を旋回し始めた。回っているなどという生ぬるいものではない。穂山が一つの竜巻と化して俺を飲み込んでいるに等しい。こいつやっぱバケモノ。
「冥土の土産に粉々にしてあげるわ!!」
冥土にいけるなら俺の勝ちだろ。まあいいけど。
俺は目を閉じた。足元から蜂山さんが根性論を気合説でブレンドした声援を送ってくるがちょっとそれを実践するのは難しい。覚醒ってなんだよ。無理だよ。
俺は自分がモブキャラなのは自覚してるんで、もう少し頭使って勝たせていただきます。
深呼吸、覚悟を決める。
メイスを力いっぱい握って、それを背後に突き出した。
がしゃああああん……
鏡の割れるような音。
俺は振り返った。
「な、なんで、どうしてあたしの攻撃する位置が分かったの……?」
穂山の白鎧は胸元が粉々になっていた。ついでに兜が吹っ飛んでいる。パラパラと零れ落ちる砂の欠片のような粒子は白鎧を構成していた結晶だ。きらきら落ちていくそれを見ながら俺は答えた。
「だって、どこからでも攻撃していいなら、相手の死角からが一番いいに決まってるじゃん」
穂山は目を丸くした。
「あんた頭いいわね……」
「まあな! うん、まあな!」
結構嬉しい。俺は天狗になった。
腕組みをして鼻の高さで天を突こうとしていると蜂山さんが上がってきた。
「まったく無茶するんだからな君は」
「いや無茶しろって言ってたの蜂山さんじゃん」
「私は死に物狂いで勝てと言っただけだぞ?」
「それを無茶と呼びます」
なんで俺、天使に日本語教えてるんだろ。シュールだわ。
穂山が気合で鎧を直しながら近づいてきた。
「ふう。でもこれであたしもあんたも中々強くなったんじゃない? 楽勝よ楽勝」
「そうだなあ。俺はともかく穂山は対戦相手の心配をした方がいいな」
「任せておきなさい」
穂山はどしんと胸をたたき、
「あんなリーマン、就職したことを後悔させてあげるわ」
やめてあげなよ。なんてことするんだよ。
「あたしはいいとして、ねえ、あんたたちまだこんなとこにいていいの?」
穂山が妙なことを言い出した。
俺と蜂山さんは顔を見合わせて「?」を交換した。
「何言ってんだおまえ」
「我々は特に今日は予定はないぞ」
穂山が「へ?」と口を開ける。
「ちょっとちょっと、何ボケてんのよ」
「はあ?」
「試合、今日でしょ?」
「…………」
「…………」
「…………」
「「はあ!?」」
俺たちの大声に穂山が耳を塞いだ。
「うるっさいわねー……のど自慢のドライバーコンテストはよそでやってよ!」
「つまんねえよ!」
俺は穂山の何もかもを切って捨てた。
「そんなことより、試合が今日ってどういうことだよ!? 明日だろ!?」
「めったなことを言うとぶちのめすぞ穂山くん」
穂山はまだ俺の言葉の右ストレートに悶えていた。ちょっとごめん。
涙目で言う。
「めったなことも何も……あんたたち頭どっかにぶつけたりしたんじゃないの? 今日が本番なのに朝から練習しようって、やる気あるなーってこっちは思ってたんだけど」
「そんなやる気あるわけないだろ……」と俺。
「毎日が退屈だったので日付を忘れてしまっていた……」と蜂山さん。
俺たちは顔を見合わせた。お互いを親の仇のようににらみ合って「おまえのせいだし」と伝え合ったが今はそれどころじゃない。
「くそやっべえいかなくっちゃ!! サンキューな穂山!! おまえのことはそのうち思い出す」
「もし天国に上がったら、その時はまた会おう」
返事もろくに聞かずに急降下していく俺たちに、穂山が叫んだ。
「まあ――どうでも――いいけどさ――がんばんな――さいよ――!!」
俺はうしろも見ずに、親指を立てて見せた。
「もう少しちゃんとお別れしてやりたかったな」
「まあいいじゃないか。二人とも勝てば再会は気まずいくらいすぐだ」
そういうこと言うなよ。マジ空気読め天使。
俺たちはミサイル同然の速度で町に突っ込んだ。中央掲示板に辿り着くまでに三人吹っ飛ばしてボードを確認するとやはり今日だ。俺は蜂山さんのせいにした。
「ちゃんと確認しといてよ!!」
「子供か! 私は君のお母さんではない!」
「でも天使じゃん。守護しろよ」
「可愛い子には旅をさせる」
「おまえ絶対さ、急がば回れと善は急げをタイミングによって使い分ける許されざる者だろ。卑怯だぞ、そういうの!」
などとボケているヒマもないので俺たちはまた空中滑空、何の罪もない穢れ無き魂を七つぶっ飛ばして決戦の地の門をぶち破った。
コロシアムである。
ローマの人から怒られるんじゃないかっていうぐらいのトレース具合。壊れ方まで一緒である。
俺たちは受付の人に噛み付くように叫んだ。
「あの! 今日試合なんすけど間に合いますか!?」
受付の天使はびっくりしたらしく「えと、えと」となっている。
「お、お名前は」
「高木燐吾です」
「た、た、た……ち……つ……」
「マテマテマテ。た行から通り過ぎてるよ。え、嘘、ないの!? やめてよそういうの。クレームにするよ?」
「ひいっ! クレームだけは……クレームだけはご勘弁を……」
ショートカットの天使はもはや半泣きだ。天使も大変である。
「もっかいよく見てよ。た行だよ、た行。絶対あるって」
天使は目を細めて食い入るように名簿に指を走らせた。
「た……た……た……ち」
「だからあっ!!」
「あ、ありましたありました!! すいません目が読み取ることを拒否してて」
「その症状が出るってことはあんたこの仕事やめたいんだと思うよ」
「そうですよね……」
受付天使は遠い目になっている。
「やめよっかな……」
「いやあんたの天使人生の行く末はどうでもいいんだ。時計見てないんだけどまだ試合間に合う?」
「五分後ですね」
俺と蜂山さんはほっと胸をなでおろした。
「あっぶねー。一時はどうなることかと」
「よかったな高木くん。では私は客席で見ているから」
「ああ、わかった。応援頼むぜ」
「うむ」
蜂山さんはぐっと親指を立てて見せ、売店でポップコーンとパンフレットのようなものを買って二階に上がっていった。あいつ楽しむ気マンマンじゃねーか。
俺はなんとなく毒気を抜かれて、特に準備することもないのでもう舞台に上がってしまおうかと思った。
「ねえ、俺の対戦相手ってもう来た?」
受付天使は「まだこいついるのかよ早くどっかいけよ」的な顔をした。気持ちはわかるけどさあ。もうちょっと接客がんばろ? いつかいいことあるって。
「えっと……にしひょう猫子さんですね」
「イリオモテだよ」
うるせーなこいつみたいな顔するのやめて。
「……西表猫子さん、ええ来ました。もう舞台にいると思いますよ。十分前会場なので、もう出ちゃって大丈夫です。そこですそこ。早く出て」
「本音漏れてるよ」
俺はそこはかとない寂しさを覚えながら階段を登ってコロシアムの中央に出た。
映画かと思うような広い舞台だ。
頭上からほとんど雲をぶち抜いて陽光が降り注いでいる。あと薄皮一枚で天国だ。いやあ長かった。いろいろあったけど最後は俺の勝ちで決めちゃおう。
「ふんッ!!」
気合一発、俺は白鎧を召喚した。メイスの握りを確かめ、メットの面頬を下ろす。
顔を上げると、光の中に俺の対戦相手がいるのが見えた。
猫子ちゃんだ。
もう鎧をつけている。メイスを握って、俺のことを睨んでいる。
彼氏に無理心中させられてしまった女の子。めちゃくちゃ可哀想だし、世の中にそんなひどいことがあるなんてと思うと胸が痛む。が、俺だって自分はかわいい。
「猫子ちゃん」
「…………」
「ひとつ聞きたいんだけど、彼氏いたんだよね」
「…………」
「俺にくれたファーストキスってほんと?」
猫子ちゃんはちょっと黙った。それから、無表情に言った。
「ほんと」
教会用の鐘が鳴った。
ごおん、ごおん、ごおん……
それは、天国と地獄の境目を決める合図にしては、綺麗過ぎる音だった。
「だあああああああ!!」
火がついたような急加速で、猫子ちゃんが突っ込んできた。背中のバーニアから噴射する霧の飛沫が尾を引いて眩しい。俺は自分もバーニアを使って横に回避。恐ろしい一撃から身を守った。が、猫子ちゃんは怯まない。飢えた蛇のような軌道でメイスの先のナックルをがしがしとぶつけてくる。こちらもメイスで応戦したが、下手にロッドで受け止めると割れてしまいそうなので気が気じゃない。
「高木くん、ファイトだ、努力だ、根性だ! 男を見せてくれーっ!!」
こっちの味方はあてにならない。あいつやっぱポップコーン食ってやがる。前のおっさんに欠片が落ちててすげー可哀想。助けてあげたい。
「余所見なんてしてるヒマ、あるのかな!」
肘と腕を上手く使った曲芸的軌道で猫子ちゃんのメイスが唸る。今度はかすかにもらってしまった。俺の白鎧のクリスタルが砕けて遥か下の地面に散らばり落ちていく。
「くそっ!」
俺も応戦、せめてカウンターで当ててパンチ一つの交換劇に収めたかったが、猫子ちゃんは妖精のように宙返りして俺のメイスをかわした。そのまま俺は穂山と三千回ぐらい練習した基本のキの字の突きを連打。だがそれをことごとく紙一重で猫子ちゃんはかわしていく。
面頬の奥で猫子ちゃんが笑ったような気がした。
くそ。
焦りそうだ。
俺はひとまず距離を取るためにバックダッシュ。牽制でやたらめったらメイスを振り回して客席近くまで逃げる。こともあろうに「逃げんのかよ腰抜けぇーっ!」と野次が飛んできて凹んだ。振り向いて顔を確認したら恋塚さんでもっと凹んだ。あいつ何やってんだよ。
気を取り直して、メイスのグリップを掌にこすりつける。汗が目に入りそう。瞬きする。
視界の中の猫子ちゃんが消える。
下だ。
俺は斜め上に突き飛ばされたように逃げた。俺が一瞬前までいたところをメイスを突き上げてきた猫子ちゃんが通り過ぎていく。危ないところだった。絶対にアレは股間を狙っていた。
「猫子ちゃん、てめー武士の情けってものはないのか!」
「むしろ情けをかけて欲しいんだけど」
「うーむ……」
そう来たか。恋塚さんにも言われてるしなあ。イヤイヤでも駄目だ、穂山だって練習付き合ってくれたし、あんなポップコーンばりばりやってても蜂山さんも応援してくれてるわけだし、諦めるのはまだ早い。
俺はメイスを振って猫子ちゃんと鍔迫り合いすることで意思を表明した。
「引く気はない……ってことだね」
「あたぼうよ」
「ならこっちも……手加減は、できないっ!」
ロッド同士がぶつかりあって氷の火花が散る。だが鍔迫り合いは長く続かなかった。力点をずらし、ロッドを滑らせてナックルを突き出してきた猫子ちゃんの一撃で俺のメットが砕けたからだ。
今度は俺の目の前で火花が散った。
「ぐっ……」
顔に飛んできた虫を振り払うようにメイスを薙ぐ。猫子ちゃんはからかうように左右に身体を振って撤退していった。こっちの破れかぶれアタックを喰らわないために下がったんだろう。確実に殺る気だ。
「速いな……」
俺はひとりごちる。パワーならお互いそれほど差はないだろうが、猫子ちゃんにはあのスピードがある。バーニアを使った空中機動も、メイスを振るう際の切れ味も俺より数段上だ。これはどうも才能ってやつが関わっているらしい。
「高木くーんっ!」
眼下で口にポップコーンの欠片をつけた天使が何か喚いている。
「正攻法でいっても勝てやしないぞ! ここは何か大技を持ち出して一気にドカンだ」
そんなのないです。
だが正攻法でいっても勝てないのは同意だ。
何か、猫子ちゃんの利点を使ってこっちにチャンスを呼び込めないものか……
考えている暇はない、猫子ちゃんがまたメイスを振りかぶって突撃してきた。いつまでもバックダッシュで逃げていられるものでもない、俺は一応攻める風を装って二、三合やりあった後、忘れ物でも思い出したように撤退した。そんなことを二度、三度繰り返しているうちに俺のチャンスと手持ちのカードはどんどん溶けていく。まずい。まずいぞ。
とりあえず時間稼ぎの手だけは思いついたのだが。
「何ぶつぶつ言ってる・の!」
逆さになった猫子ちゃんのフルスイング。眼下ならぬ眼上の観客たちがおお、とどよめく。風の気流さえ見えるような綺麗な一撃だった。ナックルをぶつけて軌道を逸らせたからいいものの、そうでなければ骨ごと持っていかれただろう。あぶねー。
だが、今はちょっと逃げるわけにはいかない。考える時間を稼ぐために逆説的に戦わねばならない時なのだ。
「づッ」
振られたメイスをロッドで受ける。ぴしり、と嫌な音がした。
まさか砕けたりしないだろうな――ただでさえスピードで負けているのにリーチでも負けたらシャレにならん。
「やあっ!」
「っ……!」
やばい。猫子ちゃんのやつやっぱり武器破壊を狙っているみたいだ。なんてやつだ、スポーツマンシップはどこいった。
なんとかこちらからの牽制打も混ぜて誤魔化そうとしていると、やがて俺の作戦の効果が見えた。
猫子ちゃんの突きが甘い。
「う……う」
心なしか面頬の奥の顔も赤い。それもそのはずだろう、俺はほくそ笑んだ。
俺たちは今、上下逆様になっている。
仮に、俺たちが死んでいて、頭に血が上ることがなくても『心』は自分が逆さであることを意識している。自分の『意識』からはそうそう簡単に逃げ切れるもんじゃない。
猫子ちゃんがふらっとよろけている間に、俺は自分の考えをまとめる時間を得た。考え自体はまとまったのだが、そのために支払った代償は重かった。
猫子ちゃんは、具合が悪いぐらいでヒヨる女じゃなかった。
「……はっ!」
裂帛の気合と共に放たれた猫子ちゃんのメイス、その先端のナックルが俺のメイスのロッドにぶち当たった。
ぱリィン………
ロッドが真っ二つに折れ、破片が散らばった。
観客が悲鳴を上げる。俺もそうしたかった。
これぞ、待ち望んでいた、『絶好の』ピンチ。
覚悟を決める。
猫子ちゃんがモーションを最小限に抑えた速さと正確さに特化した突きを繰り出してくる。俺の武器は破壊されたのだ、もう反撃されることもない、得意の技の好きな流れで、ケリをつけてくるだろう。
だからこそ、読みやすい。
俺は折れたロッドの、ナックルがついている方を宙に放り投げた。もう片方はいらない。捨てる。
手ぶらになる。
ドッヂボールを思い出す。
がちぃっ……
俺の両拳の中に、猫子ちゃんのメイスのナックルが収まっていた。
「なっ!? は、放して!」
「嫌です」
すげー苦労したのにそんなもったいないことできるか。
俺は躊躇いなく、そのナックルをロッドからねじ切った。
「ああっ!!」
鉄の拳を眼上、客席の連中の方へ投げ捨てる。
白鎧はナックルでしか壊せない。
虫籠状の面頬の奥にちらつく猫子ちゃんの表情に絶望の影がよぎる。
勝負はもう、ほとんどついていた。
一瞬、迷う。
だが、俺だって地獄になんか落ちたくない。
「だっ!」
俺は上段に振りかぶってメイスを振り下ろした。折れているのでリーチが足りず、ほとんど体当たりに近かったが、それでよかった。大切なのはナックルを回収するために猫子ちゃんに上昇――重力的には下降――されないこと。密着状態になってナックルを白鎧の凹凸に引っ掛け、距離を取られないようにすれば後はもう暴れているだけでも俺は勝つ。
事実、そうした。
半分になったロッドでわき腹を打ち上げ、猫子ちゃんをさらに客席から突き放す。落ちていったナックルとの間に身体を滑り込ませ、もうどうやっても猫子ちゃんの勝ち目が無いようにした。
後は、メイスを突いて突いて突きまくるだけ。
それで天国へいけるのだという。
天国は、もう何も苦しまなくていい場所だという。みんなにチヤホヤしてもらえるし、食べ物も飲み物も山ほどあるし、娯楽だって飽きる暇もないくらいに溢れているだろう。あんまり蜂山さんの話をまじめに聞いていなかったので覚えていないが、俺の中ではそういうことになっていた。
そして、地獄に落ちればそういうのは全部なし。
なしなのだ。
俺はメイスを突き上げた。
嫌な音がする。
猫子ちゃんの鎧にヒビが入った。あと一撃くれてやればそれですべてが終わる。
見上げると、猫子ちゃんが面頬の奥で泣いていた。
急に。
何もかも、冷めた。
俺はメイスを下げた。
バーニアを切る。
当然、落下していく。
猫子ちゃんの驚いたような顔。
風の中に俺の身体は沈んでいく。
天国?
確かにそこにいけば、俺は楽しく暮らしていけるのかもしれない。なんでもあるのかもしれない。俺の思い通りにならないことなんてないのかもしれない。でも、たとえどんな快楽の中にあっても、俺は妙なところで凝り性なやつで、多分、自分が女の子を泣かせてそこにいるんだってことをずっと忘れられないと思う。
それこそ地獄だ。
俺にとっては。
メイスは腹に当てる。落下速度込みなら一撃で鎧は砕けるだろう。目を細める。猫子ちゃんがどんどん遠くなる。何か叫んでいたみたいだが、風がうるさくて全然聞こえなかった。目を閉じる。
どうでもいいことを考えた。
猫子ちゃんにちゅーされたのって、右と左、どっちのほっぺだっけ?
――答えを思い出す前に俺は地面に激突し、粉々に砕け散った。
文字通り、全部が。