何と言う事だ。
僕は絶望を隠せなかった。
現実を見たくないのに見開いてしまう目。
一瞬でも目を閉じたらそのまま一生目があかない様な気がして、瞬きすらも恐ろしくて、とても出来ない。
背中をじりじりと焼き付ける様に、緊張や不安……そんなネガティヴな感情が這い上がってくる。
荒く不規則な呼吸を大きく繰り返したのに続けて深呼吸もしてみるが、しかし心は落ち着かない。
体と心そのものが心臓になってしまったかのように、ドクドクと震える。
恐怖に、絶望に、僕は支配されていた。
今迄の事を強く恥じたし、悔いたし、反省もした――が、そんな程度じゃあ、現実は僕の目の前から何処かへの数ミリの移動だって考えてくれさえもしないのだ。
まるで首を絞められているかの様な息苦しさだけを僕の体内に送り続け、それによって苦しんでいる僕を、楽しそうに楽しそうに笑顔で見ているのだ。
いや、この息苦しさは、首を絞められている時の苦しさでは無い……、水中にもぐっている時の、息苦しさだ。
呼吸の仕方も忘れてしまったのか、僕の頭上にクラゲの様に浮かび上がらなくてはならない気泡が見えない。
何と言う事だ。
何と言う事だ。
何と言う事だ?
何故僕が、ただただ平穏に暮らす事を夢見ていただけの僕が、水底(みずそこ)中学になんて入れられなければならないんだ?
世の中を大体の人間が快く思っていない理由が、やっとわかった気がした。
こんなにも助けを求めていると言うのに、疑問の答えを求めていると言うのに、世界は何も聞いちゃあいない。
何の為の地だ、緑だ、青空だ。その丸い体全体で、僕の叫びを聞いてくれよ。
生きている価値も無いどうしようもない子供だからと言って、無視しないでくれよ。
水底中学に入るくらいだったら、自殺でも何でもしてやるから。
今迄ごめん。
だからお願い、これからはよろしくしてくれ。
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細川ガラシャ。
彼女は、そう名乗った。
全体の配色が、酷く冷たい少女だった。
髪の黒さだとか、肌の白さだとか、澄んだ色素の薄い灰色の瞳だとか、纏う制服の黒からスカーフの暗い赤まで。
暗く深い、深海の様な、それこそ水底のような、冷たく冷え切った暗い水を無意識に連想させる少女だった。
細川ガラシャは、日に当たった事も無い様な白い肌に浮かんだ朱色を少し強めた。
それは澄んだ瞳を持つ彼女に、とても似合った可愛らしい表情だった。
彼女はそれから眉尻を落として微笑んだ。
「助けてくれて、有難うございました」
「……いえ」
僕は思わず戸惑ってしまって、特別長い間喋らずにいたわけでもないのに、何だか喉が詰まったような重苦しい声でやっとのことそう返した。
対して細川ガラシャは落ち着いている。
何故落ち着いていられるのか……。
ああ、僕が彼女のあんな姿を見るのは今日が初めてだが、もしかしたら彼女は、既に今迄にも嫌気がさすほど、あんな目にあっていたのかもしれない。
そう思うと、複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
今迄誰もが知らない振りをしてきた『それ』に、自ら首を突っ込んでしまった――世の中に、これほど恐ろしい事がありえようか。
自分勝手にも、僕は後悔した。
窓を持たない僕の胸の中に、嫌な煙が広がる。
それを誤魔化す様に、僕は細川ガラシャに問う。
「……それで、さっきのアレはなんだったんですか?」
「はあ……。……アレ、ですか」
「………………」
口元を歪めて目をそらすその動作に、あまり触れられたくは無い存在なのかと今更思って謝ろうとしたが、しかし彼女は髪先の切り揃えられた髪を揺らして小首を傾げ、背後から突き出してきたカッターナイフを避けてから、「婚約者です」と笑った。
瞳は何処までも深く黒く、彼女が避けたカッターナイフのこともあって、僕はただ怯える。
驚きに悲鳴を上げる事も出来ずにいれば、カッターナイフを持った白い手は引っ込んだ。
そしてその代わりとでも言うように現れた、水底中の制服である学ランを着た男子生徒――。
「……細川忠興(ほそかわ・ただおき)」
首を傾げたままの姿勢で、彼女は小さく言って――言い直した。
「私の、婚約者です」
男――細川忠興は、カッターナイフの刃をしまう事無くぶらさげたまま、にこりと愛想よく微笑んだ
彼女は、そう名乗った。
全体の配色が、酷く冷たい少女だった。
髪の黒さだとか、肌の白さだとか、澄んだ色素の薄い灰色の瞳だとか、纏う制服の黒からスカーフの暗い赤まで。
暗く深い、深海の様な、それこそ水底のような、冷たく冷え切った暗い水を無意識に連想させる少女だった。
細川ガラシャは、日に当たった事も無い様な白い肌に浮かんだ朱色を少し強めた。
それは澄んだ瞳を持つ彼女に、とても似合った可愛らしい表情だった。
彼女はそれから眉尻を落として微笑んだ。
「助けてくれて、有難うございました」
「……いえ」
僕は思わず戸惑ってしまって、特別長い間喋らずにいたわけでもないのに、何だか喉が詰まったような重苦しい声でやっとのことそう返した。
対して細川ガラシャは落ち着いている。
何故落ち着いていられるのか……。
ああ、僕が彼女のあんな姿を見るのは今日が初めてだが、もしかしたら彼女は、既に今迄にも嫌気がさすほど、あんな目にあっていたのかもしれない。
そう思うと、複雑な気持ちを抱かずにはいられなかった。
今迄誰もが知らない振りをしてきた『それ』に、自ら首を突っ込んでしまった――世の中に、これほど恐ろしい事がありえようか。
自分勝手にも、僕は後悔した。
窓を持たない僕の胸の中に、嫌な煙が広がる。
それを誤魔化す様に、僕は細川ガラシャに問う。
「……それで、さっきのアレはなんだったんですか?」
「はあ……。……アレ、ですか」
「………………」
口元を歪めて目をそらすその動作に、あまり触れられたくは無い存在なのかと今更思って謝ろうとしたが、しかし彼女は髪先の切り揃えられた髪を揺らして小首を傾げ、背後から突き出してきたカッターナイフを避けてから、「婚約者です」と笑った。
瞳は何処までも深く黒く、彼女が避けたカッターナイフのこともあって、僕はただ怯える。
驚きに悲鳴を上げる事も出来ずにいれば、カッターナイフを持った白い手は引っ込んだ。
そしてその代わりとでも言うように現れた、水底中の制服である学ランを着た男子生徒――。
「……細川忠興(ほそかわ・ただおき)」
首を傾げたままの姿勢で、彼女は小さく言って――言い直した。
「私の、婚約者です」
男――細川忠興は、カッターナイフの刃をしまう事無くぶらさげたまま、にこりと愛想よく微笑んだ
「だから言ったでしょ。此処の人達とは関わっちゃだめだって」
「うるさい……」
「大慈弥(おおじみ)君、僕の話きかないと駄目だって、よくわかったでしょ」
「わからない……」
「これからは僕が良いと言った物を良いとする事。僕が悪いと言った物を悪いとする事。わかったね、大慈弥君? 大慈弥せ――」
「うるさいフルネームで呼ぶんじゃない。今度下の名前で呼ぼうとしたら、次は死んでやるからな」
卯ノ花白磁(うのはな・はくじ)は、そんな僕の言葉に「それは困るな」と、まるで困った振りも見せずに笑った。
それもそのはずだ。
僕を歓迎しているのはあくまで水底中であって、その生徒たちでは無い。
今回の体験でも、それはよくわかった。
僕の机と自分の机をくっつけて、卯ノ花はそこに細かい字で何やら書かれた5枚の紙を置く。
「……これが、あいつらの資料か」
「そうだよ。最低限知っておいてほしい情報だけにしぼったから、大分少なくなっちゃったけど。それでも大分あの人たちの事は掴めるんじゃあないかな?」
「……ありがとう」
そう言って僕がその資料に伸ばした手は、しかし止められた。
手首を掴まれている。
そしてそんな邪魔者は、卯ノ花白磁ではなく――
「どうも、この前は嫁がお世話になりました」
細川忠興だった。
「こんな物を卯ノ花君から貰わなくたって、僕に直接きいてくれたらいいじゃないですか。同じ2年生なんだし、もっと仲間意識持ちましょうよ」
「……ごめん」
以前細川ガラシャを通して出会った時と同じ、にこやかな愛想の良い笑顔で、温度の通わない台詞を吐く細川。
ちらりと卯ノ花の顔を伺うと、その顔は真っ青になっていた。
わかってくれればいいんです、と細川忠興が、片手で資料を取り上げる。
しかしその数枚ほどの中から取ったのは、たった3枚。
「……卯ノ花君」
「え、あ、な、何?」
笑顔以外の表情を知らないのではないかと思わせる程表情に揺るぎがない細川。
対して卯ノ花は酷く怯えた様子で、細川に向かった。
「何かあったかな……」
「……いや、これ、いくらで買えるかな」
「……は?」
「うるさい……」
「大慈弥(おおじみ)君、僕の話きかないと駄目だって、よくわかったでしょ」
「わからない……」
「これからは僕が良いと言った物を良いとする事。僕が悪いと言った物を悪いとする事。わかったね、大慈弥君? 大慈弥せ――」
「うるさいフルネームで呼ぶんじゃない。今度下の名前で呼ぼうとしたら、次は死んでやるからな」
卯ノ花白磁(うのはな・はくじ)は、そんな僕の言葉に「それは困るな」と、まるで困った振りも見せずに笑った。
それもそのはずだ。
僕を歓迎しているのはあくまで水底中であって、その生徒たちでは無い。
今回の体験でも、それはよくわかった。
僕の机と自分の机をくっつけて、卯ノ花はそこに細かい字で何やら書かれた5枚の紙を置く。
「……これが、あいつらの資料か」
「そうだよ。最低限知っておいてほしい情報だけにしぼったから、大分少なくなっちゃったけど。それでも大分あの人たちの事は掴めるんじゃあないかな?」
「……ありがとう」
そう言って僕がその資料に伸ばした手は、しかし止められた。
手首を掴まれている。
そしてそんな邪魔者は、卯ノ花白磁ではなく――
「どうも、この前は嫁がお世話になりました」
細川忠興だった。
「こんな物を卯ノ花君から貰わなくたって、僕に直接きいてくれたらいいじゃないですか。同じ2年生なんだし、もっと仲間意識持ちましょうよ」
「……ごめん」
以前細川ガラシャを通して出会った時と同じ、にこやかな愛想の良い笑顔で、温度の通わない台詞を吐く細川。
ちらりと卯ノ花の顔を伺うと、その顔は真っ青になっていた。
わかってくれればいいんです、と細川忠興が、片手で資料を取り上げる。
しかしその数枚ほどの中から取ったのは、たった3枚。
「……卯ノ花君」
「え、あ、な、何?」
笑顔以外の表情を知らないのではないかと思わせる程表情に揺るぎがない細川。
対して卯ノ花は酷く怯えた様子で、細川に向かった。
「何かあったかな……」
「……いや、これ、いくらで買えるかな」
「……は?」