メロンパン
旧校舎に着いた陽が真っ先に向かったのは、男子便所であった。
近々取り壊される事が決まっている、かび臭い旧校舎の薄汚れた
男子トイレは人の気配がまるでなく、陽が事を成すには絶好の場所であった。
陽は、旧校舎が建てられた頃には珍しかったであろう、3つある男子トイレの
個室で唯一の洋式便座に腰を落とすと、おもむろに弁当袋を開く。
姿を現したのは真っ黒な海、もとい一面の海苔であった。大谷家は母親が料理に関して
まるで情熱が無いため、弁当は毎回ろくにおかずも無く、ただ白米の上に味の付いた
海苔を敷き、その上から適当に醤油を掛けただけという、手抜き弁当一択なのだ。
話の流れ上、彼が便所メシをしている理由がこの漆黒の手抜き弁当の所為であると
お思いになるであろうが、そうではない。本来、彼は友達が居なかろうが、毎日
真っ黒な弁当であろうが、まるでお構いなしに教室でメシを食う男なのである。
その、友達も居らず場の空気も読まない男が、何故わざわざ便所でメシを食って
いるのかというと……。
「カチャッ、パタン」
(……チッ)
ふいに隣の個室のドアが開閉する音がする。普段は旧校舎のトイレなんて遠くて
誰も利用しないのだが、それでもわざわざ来る人間は、ほぼ大便をする為にここを訪れる。
人っ気の無い旧校舎は、ゆっくり用を足すのに適しているのだろうが、陽にとっては
こういった輩は迷惑以外の何者でもなく、心の中で舌打ちをする。
ほどなくして危惧したとおり、隣の個室から湿っぽい破裂音と鼻を突く醜悪な臭いが
陽の個室にまで流れてきたが、陽は平然と食事を続ける。
陽には入学から7月の現在に至るまでの、経験があった。
口で呼吸をする事で悪臭を和らげ、音に対しては持参した耳栓を
着用することで、平時と大差ない食事環境を維持する事に成功していたのだ。
だが、口で息をしたら味が分からなくなるのではないか? そう思う
御仁もいらっしゃるであろうが、大谷家の手抜き弁当はわざわざ味わうような
代物ではないので、何の問題ないのである。
3ヶ月という短い期間にも関わらず、陽の中に眠っていた
素質が開花し、劣悪な環境を克服する為の創意工夫を陽に与え、15歳にして
早くも変人の風格を漂わせるようになっていたのだ!
だが、そんな陽の涙ぐましい創意工夫は昼食を食べ終わる前に、迷惑な隣人が用を
済ませて出て行ってしまった事により、必要が無くなってしまう。そして、隣人が去ったのを
確認した陽は、トイレの窓を開けるためすぐさま個室から出た。
慣れているとは言っても、臭いものは臭いのである。しかし、その判断が間違いであった。
「うわ! マジでいたわ。お前いつもこんなとこでメシ食ってんの?」
(……やべぇ)
個室を出た陽は、ちょうど男子トイレに入ってきた男子生徒に声を掛けられる。
茶髪のウルフカットに整った女性的な顔立ち。身長も平均以上で、いかにも
女性からモテそうな男であり、クラスで友達もおらず、顔立ちも身長も
平均レベルである陽に積極的に声を掛けるような人間には見えない。
「お前、メロンパン買って来いよ。ダッシュでな」
「やだよ。自分で行けよ」
茶髪の男は陽に会うなり使い走りを要求したが、陽は即答でこれを拒否した。
「は? ふざけんなよ。早く買いに行けよ」
「自分で行けよ。何度も同じこと言わせんな」
陽が、こういった強い態度に出るのには理由があった。この男はいつもは
柄の悪そうな男達を数人、周りに引き連れているのだが、今日はその男達がいなかったのだ。
そもそも、なぜこんな優男が普段、そんな柄の悪い男達を引き連れているかというと
それはこの男、「神代誠」がこの学校の理事長の息子だからで、陽がわざわざ
こんな所で弁当を食べているのも、この「神代誠」がなぜか執拗に陽に対して
絡んでくるので、仕方なくそうしているのである。
「いいから買いに行けよ。金は出してやるから」
普段はあまり口答えしない陽の思わぬ反抗に動揺したのか、誠は
語気を弱めると、上下関係を保つ上でしてはいけない譲歩を口にする。
(メロンパンなんてせいぜい百円くらいなのに千円かよ)
誠が財布から何気なく取り出し、陽に差し出した千円を見ながら
陽は誠の金銭感覚に疑問を感じると共に、ある考えが浮かんだ。
「お釣りくれるんならいいよ」
「釣りなんていらねーよ。さっさと行け!」
てっきり拒否されると思っていた提案があっさり通って、陽は
拍子抜けしたが、お釣りが貰えるんなら普通のお使いと変わらないので
別にいいかと思い、千円を受け取るのだった。
旧校舎を後にし、昼休みも終わりに近づきすっかり閑散とした購買に立ち寄った
陽は、困り果てた。メロンパンどころか、パン自体が売り切れていたのである。
無いものはしょうがない。だが、完全にどうしようもないという訳ではなかった。
駅前のパン屋になら、おそらくメロンパンは売っているだろう事を陽は知っていたのだ。
だが駅前まで行けば、どう考えても昼休みの時間内には帰って来れない。しかし、金を
受け取った以上、買って来なければいけない。そんな使命感を、なぜか感じてしまった陽は
迷う事無く自転車に跨り、駅前のパン屋を目指すのであった。
駅前のパン屋で何事も無くメロンパンを購入し、陽が学校に
帰って来たのは、5時限目も半ばに差し掛かる頃であった。
息を切らして教室に入ってきた陽にクラス中の視線が集まり、教師は
授業開始時刻から大幅に遅れて現れた陽に対して質問を浴びせる。
「大谷! お前今までどこ行ってた?!」
「駅前でパン買ってました!」
そう言うと陽は、誠に向かって買って来たメロンパンを放り、誠は
それを難なくキャッチする。
「勝手に校外に外出するなと言っていただろう!」
「おい! ふざけんなよ!」
教師の説教を、誠の声が遮る。当然であろう、昼休みに買って来いと言ったメロンパンを
今更買って来たのだから、怒っているに決まっている。常日頃、陽が
誠にパシらされている事を知っている級友達は、一様にそう考えた。
「中にメロンクリームが入ってねーじゃねーか!」
(そっちかよ!)
級友達は心の中で突っ込んだが、それを誰も声に出すことも無く、誠の声が引き続き
クラスに響き続ける。
「俺はメロンパンはメロンクリームが入ってるのしか認めねーんだよ!」
「えー、別にどっちでもよくね?」
わざわざ駅前まで行ってメロンパンを買って来たのに、些細な事で難癖を付けられて
陽は少なからず腹が立っていたので、投げやりな言葉を誠に返すが
それが誠の逆鱗に触れる事になってしまった。
「おま、ふざっ、ふざけんなよ!!!」
感情を剥き出しにして大声を上げる誠。彼にはメロンパンに対する熱い思いがあった。
誠とメロンパンの出会いは、彼がまだ幼稚園児だった頃にまで遡る。
当時、彼はメロンパンなるものがあると家政婦から聞いて
胸をときめかせていた。裕福な家庭に育った誠は、メロンパンの中には
とろけるようなメロンの甘い果肉、もしくはそれを原料に使ったメロンクリームが
入っているのだと盲目的に信じていたのだ。いつかはメロンパンを食べてみたい。
そう思っていた誠は、事あるごとにメロンパンをねだり、それを見かねた両親が
メロンパンを買い与えるよう家政婦に命じたのだったが、家政婦は誠に
メロンパンを渡すのを躊躇した。誠はそれが何故なのか分からず、渡すのを渋る家政婦の
裾を引っ張ってメロンパンを懇願する。家政婦はそんな誠の様子をしばらくの間伏し目がちに
見ていたが、程なくしてようやく意を決したようにメロンパンを差し出したのだった。
そうやって、念願のメロンパンを手にした誠だが、一口目に感じたのは違和感であった。
その違和感が二口目には戸惑いに変わり、三口目には早くも絶望にまで変わってしまった。
信じていたものに裏切られたと、誠は感じた。そして気付いた。 家政婦の
あの伏し目がちな瞳は、メロンパンの裏切りを事前に知っていたからだったのだと。
あの瞳は自分に対する哀れみの瞳であったのだと……。
メロンパンの裏切りとは何か? 端的に言えば、奴は
メロンクリームを内包していなかったのである。それだけ? と思う御仁も
いらっしゃるかも知れない。だが、これは重大な背信行為である。
あんが入っていないあんぱんをあんぱんと呼ぶであろうか? ジャムが入っていない
ジャムパンをジャムパンと呼ぶであろうか? 問題の本質はそういった所にある。
誠はメロンパンの中には当然、メロンもしくはそれに類する物が入っていると考えていた。
そんな無垢な子供の夢や希望を、メロンクリームの入っていない
「メロンパンもどき」は打ち砕いたのだ。
それ以来、誠はメロンクリームの入っていないメロンパンを
嫌悪するようになり、その反動なのか、メロンクリームの入っているメロンパンを
深く寵愛するようになったのだった。
その対極の感情に位置する二つを同一視されては、誠が冷静でいられる筈が無かった。
誠は席を立つと、手にしたメロンパンをゴミ箱に全力で投げ込み
教室の入り口に立つ陽に、すれ違いざまに言葉を残すと、教室から出て行った。
「後で覚えてろよ」
誠が残した昭和の臭いがする捨て台詞は、陽の精神を不安に陥れるに十分であった。
結局、誠は6時限目が終わって放課後になっても姿を現さなかったが、陽は
誠がいつ、柄の悪い男達を連れて自分の前に現れるのか不安で堪らなかったのだ。
自転車での帰宅の途中も、ネガティブな事ばかりが頭に浮かんで仕方が無い。
それもそうだろう、あれだけ怒っていたのだから何かしら大きな
嫌がらせが来るに決まっている。場合によっては何かしらの理不尽な理由を付けられて
退学させられるかもしれない。現にそういった噂を、陽自身も何度か耳にした事があるのだ。
陽は家についてもなお、解決策の見当たらない不安についてあれこれ危惧しながら
居間で面白くも無いテレビをぼんやりと眺めていた。
そんな折、ふいに玄関から声が聞こえ、それから少し経って由江が居間に入って来た。