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   (一)


 何色が好きかと聞かれたら、私は迷わずピンクを選ぶ。けれど誰もそれを理解してくれない。皆、「赤が似合いそうなのに」と言って、身に付けている二本のピンを残念そうに見る。
 色焼けの起きていない、光沢を孕んだこの黒髪にピンクは少々目立ち過ぎる。それが周囲の意見だった。けれど、私はこのピンを外す気はない。周囲がなんと言おうと、姉さんはこのピンを誉めてくれた。それだけで良いのだ。別に誰かに褒められたくてとか、私自身がこの色をひどく好んでいるとか、そういうことではない。ただ姉がこのピンを「素敵な色ね」と言ってくれたから、私はこれを付けている。
 寝間着を畳み、机に置かれた手提げの鞄を手に取る。それからいつもみたいに扉の横に置かれた全身鏡で自分自身を覗き込む。リボンはよれていない。この間アイロンをかけたおかげでプリーツもくっきりとしている。前髪に留められた二本のヘアピンの位置をよく確認して、私は部屋を出た。
「お姉ちゃん、準備はできてる?」
「あと少し、ちょっとだけ待ってね」
 向かいの部屋を開けると、丹念に目元の手入れを行う姉の姿があった。彼女は鏡から視線を動かさないまま私にそう言うと、ああでもない、こうでもない、と一人言葉を呟き続けている。
「早くしないと、先に行くよ」
「ああ、駄目。どうしても右目が気になるの」
 これ以上何を言っても無駄だと感じた私は扉を閉め、一度小さくため息を吐いてそれから扉に寄り掛かった。
――姉は今日も素敵だった。
 栗色に染められた髪は日毎に姿を変え、時にはヘアクリップやシュシュでまとめられていたり、カチューシャで大きな花を乗せている時もある。そのどれもが彼女によく馴染んでいて、思わず私は見とれてしまう。その度に姉は「恥ずかしい」と頬を赤らめる。その一連の行動全てが彼女を美しく見せる為の演出の一貫であるのだろう。私はぼうっと見とれながらいつもそう思う。
「ユミ、ごめんね」
「遅刻したらお姉ちゃんのせいだからね」
 扉から出てきた姉に棘のある言葉を一言返すと、階段を下りて玄関で靴を履いた。姉のほうをちらりと見てみると、彼女はその視線に気づいたようで、手を合わせると困ったような表情をしてその手を二、三度揺らす。私はそれに何の反応も示さないで扉を開けた。
「いってきます」
 四月だというのに、まだ冬の残り香が残っていて外は少し肌寒い。桜が咲くのも相当後になるかもしれないとニュースで言っていた。こんな時期にまで冬がもつれこむなんて今までなかったからか、今年はどうしても現実感というか、そういう感覚がない。まるで時が止まってしまっているような気がして、その度に私は日付を確認してしまっていた。
「春、今年は来ないのかな」
 姉の言葉を聞いて、私は振り返る。首に巻かれた赤と白が交互に織り込まれた厚手のマフラーが風で揺れている。けれどそのマフラーは彼女が巻くには少しばかり長いようで、首元に随分とボリュームが出ている。
「お姉ちゃん、鬱陶しくないの?」
「え、ああ、これのことか」
 マフラーを手に取ると姉ははにかんだ。よっぽどお気に入りであるようだ。やはりいつも通り姉の身につけるものは自然と姉の中に納まってしまう。私があんなマフラーをつけてもあんなにすっぽりと落ち着くことはないだろう。
「でも、これ長いのよね」
「だったら付けなきゃいいのに」
「利点もあるのよ」
 そう言うと姉は私の傍に駆け寄り、悪戯に微笑むとマフラーの余った部分を私の首元に回す。あまりに突然のことで驚きながらも、抵抗したって勝てないことは分かりきっているので、観念して姉のマフラーに巻かれることにした。
「ほら、女の子二人でも十分入れるのよ、これ」
「……こんな姿で姉妹仲良く校門をくぐるなんて嫌」
「別に良いじゃない。でもユミを入れても余るから、多分男の子でも十分に入るんじゃないかしら」
「駄目」
 思わず出た言葉に、姉はぱちぱちと瞬きを数回すると、大きくて水っぽさのある瞳でこちらを覗き込んでくる。
「なあに、お姉ちゃんに彼氏ができるのが不満なの?」
 彼女の目を見ていると吸い込まれそうになる。そして、そこに映る自分の姿に酷く嫌悪を示したくなるのだ。だから私は、姉が目を合わせようとする時は、必ず右に目を背ける。
「別に、男の子が使ったマフラーを私も使いたくないだけ」
 そして、決まってそう言うのだ。私はそういう”キャラ”だから……。
「ユミは本当に潔癖ね。そんなに男の子が嫌いなら、女子校って手もあったのに」
「そんな吐き気がするとか、そういう風には思ってないよ」
「どうかしらね、終業式の時も貴方、一人またフったらしいじゃない」
 姉の言葉に、私は数週間前を思い出す。もう顔は出てこないけれど、確かテニス部に所属していた男だった気がする。妙に軽やかで壁を感じさせない口調が逆に気持ち悪かった覚えがある。
「大した男じゃなかっただけ。大体ラブレターなんて古いのよ」
「いいじゃない、ロマンチックで」
 姉の言葉に首を傾げ、それからマフラーに口を埋める。昔からの癖だ。何も言いたくないし聞きたくない。そう思っている時に私はつい口を隠してしまう。
 私の行動を熟知している姉は一度微笑み、それ以上何も言わなかった。
 互いに一言も言葉を交わさないまま、ただただ通学路を歩いていく。校舎が見える距離になってきて、私達と同じ紺色のブレザーを身につけた姿がちらほら見え始める。中にはリボンやネクタイの付け方が少し曖昧で、どちらかというと着られているように思える幼顔も何人か目に入った。多分今年の新入生なのだろう。その微量ながらも空気にじわりと水彩絵の具のように広がっていく緊張を見て、私も去年はああだったのだろうかとふと考えてみた。
 去年の始業式は、もっと暖かくて、マフラーやセーター、カーディガンなんて必要がなかったし、この通学路にも桜がアーチを作るようにして咲いていた覚えがある。今年はどちらの歩道にもかかっているのは芽のついただけの木々だけで、寝息が聞こえそうなほどそれらは深く眠っているようだった。
「進学おめでとう」
 ふと、右耳に向けてささやかれた姉の言葉に、思わず唇を噛みしめる。
「……ありがとう」
 それだけ言うと私はマフラーを取り外して一、二歩と姉の少し先に進む。
「じゃあ、また帰りね」
 私のそっけない態度にも何も言わず、姉は柔らかな声をかける。それにただ頷くだけで反応を見せて、それから私は駆け出す。すぐにでも教室に転がりこみたい。姉といる時間を少しでも短くしたい。そんな気持ちで一杯だった。
 去年のクラスメイトに声をかけられながらも速度を緩めず、玄関へと駆け込み、少し乱れた呼吸を深呼吸で鎮めようとする。胸は辛いくらいに鳴っているし、肺もじりじりとした苦しみを訴えている。
 何度も何度も呼吸をして、最後に一度だけ息を吐きだした後、目の前を見据える。戸付きで所々錆の浮く年季の入った下駄箱の、私のネームプレートの張りつけられた場所をじっと見つめた後、まさか始業式になんてことはないだろうと、恐る恐る手を伸ばすと、戸を開ける。
 そして、小さくため息を吐いた。
 薄ピンクの手紙に「綾部有美さんへ」と書かれている。つまりは、私に向けてのラブレター、というわけだ。

 教室に到着した頃にはもう席は大体埋まっていて、見なれた顔ぶれが勢ぞろいしていた。しかし三年間も同じ面子というのもいまいち面白みに欠けるけれど、それはそれで定着した集団の中に居続けることができるのだから、何かにつけてグループを作らなくてはいけない、ということもなくて良いのかもしれない。
 去年一年間ずっと使用された黒板は終業式の時のままにされていたようで、消しはされているが薄らと落書きの跡が残っている。赤チョークは色が色であるからか、それとも深緑とあまり相性が良くないのか、黒板消しによって消されても大分くっきりと字が残っている。
 喧騒にまみれた室内に足を踏み入れてみると、温い空気が私の体を撫でた。どうやら暖房の為に空調を誰かが弄ったようだが、いまいちだと思った。多分この温度の中にいると、クラスの半数が睡魔に襲われる可能性が十分に考えられる。
「ユミちゃん、おはよう」
「おはよう、元気してた?」
 私が空調をじっと睨んでいると、浅原ハルが紺と白のラインの入ったマフラーを揺らしてこちらにやってきた。彼女が歩く毎に木製の床がぎしり、ぎしりと軋んでいる。小柄で背の低い彼女でこの状況だ。丁寧にワックスもかけられているようだが、まず清掃以前にこの校舎が限界なことに目を向けるべきではないだろうか。
「学校始まっちゃったね」
 春は小さな体を左右に落ち着きなく揺らして、残念そうに言う。左右に結われた髪も一緒にふらふらと左右に動いている。
 その仕草がなんだか可愛くて、そうだね、と返答と一緒に微笑みを返す。
「後輩ができるのが、とっても楽しみなんだ」
「部員、どれくらい増えるかな」
「できるだけ一杯来てほしいけど、演劇部は毎年少ないからね……」
 ハルは眉間にしわを寄せて唸る。
 彼女は、多分私がこの高校で最も距離の近い人物だ。入学当初に苗字の近さで偶然話すようになったのだが、彼女のおっとりとした仕草と性格に惹かれて、気づけばそのまま休日もよく過ごす間柄となった。誰かと行動を共にすることが苦手な私が姉以外に唯一気を許せる人物でもあった。
「ユミちゃんは、後輩欲しい?」
「ううん、どうだろうね。初対面の人って、得意じゃないから」
「大丈夫だよ。ユミちゃん可愛いから」
「どんな理由よそれ……もう」
 そう言って彼女のおでこを軽く小突いた。小突いて、それから後輩が入部してきた時のことを考える。
 演劇なんてものを選んだ理由は、ただ自分ではない何かになれるということに興味を覚えたからだ。やろうと思えば、劇の中で私は男にだってなれる。誰かの恋仲から親友、はたまた敵役と万物に成り代わることさえできるのだ。それがとても魅力的に感じて、そして私の一番の願望が仮初でも手に入れられることがとても嬉しくて、入部を決めた。
 けれども、それによって人前に顔を出さざるを得ない状況が出来てしまい、結果、私は学校中に「綾部真美の妹」として広まることとなってしまった。結果としてどちらかといえばメリットよりもデメリットの方が大きくなってしまったのも事実だ。
 デメリットといえば……と私は鞄からあの薄ピンクの手紙を取り出して、溜息をひとつついた。ハルもその長方形の紙で状況を察してくれたようで、渋い顔をする。
「始業式から、大変だね」
「ええ、流石に今日はないと思ったんだけれど」
「それで、名前は?」
 私は手紙を裏返してみる。「九重卓」と表と同じく丁寧な文体で書かれてある。
 見たことは、ない名前だった。同学年といえどクラス数もそこそこの学校である為、大体ここまでは通常通りの出来事だ。私は指で乱雑に端を切り取って中身を取り出す。

――始業式後、校舎裏でお待ちしております。

 ただそれだけ。愛について自身を飾るような言葉も、私という存在を虚飾して書いてもいない。ただ呼び出すだけ。いつものびっりちとした手紙ではないところになんだか新鮮味を感じてしまったが、それでも彼に対する結果は変わらないだろう。
「ユミちゃんは、好きな人いるって言ってたもんね。ここのえ君、て言うのかな。残念ね」
「好きな人がいても変わらないのよ。きっと告白することに意味があると思ってるのよ。そうやって勝手に相手のことも考えないで、無理だと分かってても行動を起こして、それだけで自分に酔えるのよ。便利な頭よね」
 少し言いすぎた、と乾いた笑みを浮かべるハルを見て口を閉じた。なんにせよ四月始まってから桜は咲かないし冬のように寒いし、用事ができたせいで姉を待たせてしまう羽目になってしまうし、最悪だと思った。
 外を見ると、薄暗い青色で景色は染まっている。雲がびっしりと詰め込まれた空を見て、更に憂鬱な気分になっていく。はっきりとしない天気は大嫌いだ。降るなら降ってしまえと心の中で悪態をついてみるが、景色は特に気にする様子もなく薄暗い表情をこちらに向けていた。

   ・

「ごめんなさい、無理です」
 ホームルームも終り、姉に少し遅くなると手短に伝えた後、私は校舎裏で事務的にその言葉を吐き捨てた。私を待っていた「九重卓」と思われる男性は、私のことを暫く眺めた後、ああ、と指差した。
「貴方が綾部有美さんか」
 彼の言っている意味がうまく汲み取れず、私は思わず困惑した表情を浮かべた。九重卓は真っ黒い短髪の髪を右手で撫でた後、何か良からぬことを考えてそうな、そんな笑みを浮かべてこちらを見つめる。
「貴方がって……?」
 そう言うと、彼は嬉しそうに口を開く。
「いやあ、この学校にどんな相手でも断るという女子がいるって聞いて、どんな人なのかとても気になりまして」
 あまりにも淡々としたその口調に、何か先手を取られた気がして少し不愉快さを覚える。そんな大した理由もない男に呼び出されたと思うと、憤りすら湧いてきた。私はくるりと踵を返し、そのまま校門へと向かおうと一歩足を踏み出す。
「で、好きな人は誰なんですか?」
 背中に飛んできた問いかけに、私の足が止まった。
「今後告白されるのが嫌なら、逆に貴方がその恋を成就させてしまえば良いと思うんですよ。そうすればもう男子だってスキナヒトという曖昧な人物と競うことも辞めるでしょうし、貴方くらいの外見なら手に入れることなんて簡単でしょう?」
 何故、私は彼にそんなことをずけずけと言われなくてはならないのだろうか。
「きっかけとかが欲しいなら、僕も協力しますよ。どうです?」
「貴方、何がしたいのよ」
「何、と言われても、興味が湧いただけです。貴方のような人が受け身であり続ける理由は果たして一体……ってね」
 振り向くと、そこには得意げな表情を浮かべた九重が立っている。
 知らない。このまま帰ってしまえば良い。こんな面倒な人物に絡んでいく必要はない。
 そう自分に言い聞かせている筈なのに、心の中ではどんよりとした気持ちの悪い何かが生まれ始めていた。はっきりとしないこの感情は、果たして何なのだろうか。
「無理よ、叶う筈がないもの」
 気持ちと相反して、言葉は紡がれていく。いや、どこかでもしかしたら何かが変わるかもしれないと、限りなくゼロに近いその可能性が0.1パーセントでも生まれるのかもしれない。
 なんとなく、隙間にそんな感情が生まれてしまったのだ。
「そんなに落とすの、難しいんですか?」
 隙間に入り込もうとしてくる言葉が、私の中の怒りと共に、脆くなっていた部分に触れていく。誰も触れなかった部分を、何故今になって。
「とにかく、叶うわけないの。だって」
 ムキになって出かけた言葉のその先は、咄嗟に口を閉じたことでかろうじて守られた。九重は興味深そうに私のことをじっと見つめている。気持ちの悪い男だと思った。初対面でここまで嫌悪感を感じた男性は、彼が始めた。何故そんな人物に私の綻びを晒さなくてはならないのだ。
「ああ、そうか、なるほど。いやあ面白い」
 九重はそう言うと、とても楽しそうに周辺を歩き回る。
 そして、唐突にこちらを見て言ったのだ。
「もしかして、綾部さん、貴方同性が好きなんですか?」
 私の言葉が、詰まった。そしてその反応で彼はまた得意げに笑う。必死に取り繕って否定すれば、どうにかなるだろうか。いや、彼の中では多分、もう確信となっている。
「ええ、そうよ。だから叶う筈がないの。これで満足した?」
 彼は嬉しそうに頷いた。
「いやしかし困った。女性同士をくっつけるとなると難しい問題だ」
 気づいた時には、九重卓に思い切り鞄を投げつけていた。突然の出来事に彼も驚いたようで、バランスを崩して尻もちをついた。今日はやけに冷える。さぞかし地面は冷たいだろう。私はこちらを見つめる彼の視線を睨み返して、それから放り投げられた鞄を拾い上げた。
「貴方、今まで会った男の中で一番最低よ」
 それだけ言って、私はその場を後にした。
 最悪の気分だった。私の中身を覗かれて、めちゃくちゃにかき回されて、それも知りもしない相手にということが一番癪だった。今日はもうさっさと帰って蒲団にもぐり込んでしまおう。思い切り眠って、忘れてしまおう。明日になったら私が同性に恋をしていることが周囲に巡っているかもしれない。けれどもそんな噂で告白してくる男性の数が減ってくれるのならそれでいい。
「ユミ、随分と時間かかったのね」
 校門に差し掛かると、赤と白のマフラーを巻いた姉が私を見て笑顔駆け寄ってくる。私は姉から目をそらしたまま、ごめん、と一言謝ると、彼女の横に並んで校門を出た。
「もしかしてまた告白されたの?」
 姉は楽しそうにそう聞いてきたが、九重卓の顔を思い出すのがとても嫌だったので、何も言わずに姉のマフラーを巻いて口をふさぐ。そんな私の仕草を見て姉はふうん、と呟くと鈍色の空を見上げた。
「早く、ユミが好きになれる素敵な男性に出会えるといいね」
 何も知らないくせに、と私は心の中で呟いた。そう、姉は私のことを何も知らない。これだけ完璧な姉の隣に居続ける私の心の中を、一番身近な筈の彼女は知らない。

――ただの恋愛なら、男と女の恋愛ならどんなに良かっただろうか。

――ただの同性愛だったなら、まだマシだったかもしれない。

 空を見上げている姉の横顔をちらりと盗み見る。栗色の髪が揺れている。そこから垣間見える首筋が、白い肌が、こんな薄暗い景色の中でも輝いて見えた。私はピンクのヘアピンに触れてみる。この寒さで随分と冷たくなっている。
「やっぱりそのヘアピン、素敵よ」
 姉は、綾部真美はそう言って笑った。

 多分、姉はとても哀しがるだろう。ハルは流石に軽蔑するかもしれない。さっきの男は更に面白がるだろう。なにより、私はこの事実をいつまでも呪い続けるだろう。

――私は、姉に恋している。


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