【2コマ目】
内山科学はキツネのような男であるが犬でもある。
犬みたいな人間はよくいる。それはまるきり見た目通りであったり性格的なものであったりする。他人に犬みたいな印象を与える要因としては、個人的にマユゲが最大の要因でなかろうかと日常考えているのであるが、まあ外観的な話は可愛げがあって大変によろしい。
しかし性格的に犬のような人間と言うと大抵の場合が罵り文句である。人間と犬の共生の歴史は一万年も前から続いているらしいが、人間が犬に対して抱く印象は昔から高慢ちきで見下げたものばかりだ。それらは犬と猿、負け犬の遠吠え、犬も食わない、などといった慣用句からも容易に推察できる。「火事に喧嘩に中つ腹、伊勢屋稲荷に犬の糞」である。大衆的な階級認識の上で犬はそれほど尊重されていないということだ。
生徒会執行部の回し者、という意味で内山は犬と言っても過言ではない。
―――――――――――――――
○一年四組のある日の放課後。
「内山先輩。知ってる? 超かっこいいの」「うん、知ってる。生徒会の副会長でしょ。科学くん」「カガックン?」「知らないの? 下のなまえ。内山科学くん」「まじ?」「まじ」「飛び出してんじゃん」「うん、で? 何。内山先輩が?」「新聞部やめたってはなし」「内山先輩新聞部? だったの?」「うん」「で、やめたからなに?」「部員が足りないから廃部になるんだって」「新聞部が?」「うん」「それがどうしたの」「ううん、べつに」「ふうん」「だから柴犬ちゃん、必死に部員募集してるよね」「しばいぬ?」「ほら、影の薄い子。新聞部の」「何組?」「いや、同級生だって。窓際の、そこで山鹿と話してるじゃん。――」
その窓際。
「――新聞部?」
「はい。興味ありませんか?」
新聞部員柴田絹子は今日も部員募集活動に余念が無い。
「あの、カメラとか扱えますよ。部室にはパソコンがあって、インターネットも使いほーだいです」
(――カメラならうちの親父がデジイチ持て余してるし、私の家にはパソコンも光回線も設置されてますけど――)
柴田の同級生の女子生徒、山鹿ハルが両耳から外したばかりのイヤホンの中では四十年前のロックバンドがエイトビートを刻み続けている。ろくに話したことも無い唐突な来訪者に対し、まず真っ先に意地悪な返答を思い浮かべた。けれどそれを喉の奥にぐっと飲み込んでみせる。
(――私は高校入学と同時に前よりも人に優しくなったんだからね)
などと考えながら心の中でニヤニヤしている。それにしても応じにくい勧誘であって、我に返ったハルはイヤホンを首に掛け、どうしたものか腕を組んで考え込む。
「うーん、……」
(――いやいや、断れば済む話なんだけどさ)
ちらりと柴田の表情を覗く。捨てられた子犬が雨の日に(普段は意地の悪い)腕白少年の優しさを求めるような目をしている。よく観察してみなくとも柴田は普段から小型の愛玩犬のような雰囲気を醸し出していた。自信のなさそうな眉尻、ふわふわの髪の毛、ちょっとした物音にも怯えるような仕草。
(――うーん、卑怯だなあ)
ハルは解決策の捻出を半ば放棄してぼんやりと柴田の風貌を眺め入った。
「あの、山鹿さん?」
「あ、はい」
しばらく現を抜かしてしまったらしい。再び我に返る。言い訳を探す。見つかった。
「えっと、なんで今の時期に部員勧誘してんの?」
二学期も半ばである。放課後の日照時間は既におぼろげな夏休みの記憶と比べると随分短くなった季節。ハルが不自然に思うのは当然であるが、それを話題に上げることはいたずらに話を引き伸ばし、あわよくば本題を煙に巻いてやろうという魂胆が見え透いているというものだ。柴田にとっては触れられたくない話題であるのは当然のことで、もごもごと言い難そうな様子を見せたが、やがて観念して重たそうに口を開いた。
「内山先輩が退部してしまったので、定員が足りなくなっちゃったんです。だから、その、新入部員が見つからないと、廃部になっちゃうんです。新聞部」
「あらぁ、……」
ハルは、――訊かなきゃよかった、と思った。と同時に話に出た『内山先輩』を呪った。負の感情に関しては目を瞠る瞬発力を自負するハルである。
(顔もろくに知らない『内山先輩』のせいで、私はこんな気まずい思いをしなければならない。恨むぞ内山)
「内山先輩さあ、連れ戻せば良いじゃない」
「それが、部長が嫌だって言うんです」
「え、内輪もめの果てに廃部になりかけてんの?」
「あの、部長と内山先輩、仲が悪いわけじゃないとは思うんですけど」
「それじゃ、どうして内山先輩って人は新聞部を辞めようとか思うわけよ。部活変えたかったの?」
「えっと、内山先輩と最近顔を合わせていないので、その辺のことはわからないんです」
ハルはため息を吐いた。
「えーっと、なんて言うかさ、……」
「いえ、あの、こちらの都合で随分なことを言っているのは、重々承知しているんです。でも、私、新聞部がなくなっちゃうのは、その、駄目なんです。――急にこんなことを言ってごめんなさい。あの、気を悪くしたらごめんなさい。山鹿さんも自分の部活があるのに、ごめんなさい」
決定的な台詞を言い淀んでいると、相手のほうが謝り倒して畳み掛けてきた。柴田は通学鞄から何枚か紙を取り出して見せると、
「あの、これだけでも目を通してもらえたら、嬉しいです」
新聞部の発行する学生新聞とのことだ。ハルは「これを手に取ればこの話はとりあえず流れてしまうらしい」とか現金なことを頭の半分で考えながら、もう半分の頭で「彼女はまるで斜陽企業の営業課スタッフのようだ」などと、ものすごく失礼なことを考えたりした。実際去り際の柴田の背中は日の傾きかけた赤っぽい光を受けて哀愁溢れんばかりであったとさ。
柴田の去った後の教室は閑散としており、残っている生徒は部活が始まるまでの合間を怠惰に過ごすさほどやる気のない運動部員なんかが数人見られるだけであった。そのうちの一人が椅子に沈み込んだままのだらしない格好でハルに声をかけた。
「入ってやれよ。新聞部」
ハルは声のした方向に「その話の前に貴様は一体何者なのだ名を名乗れ」と苛立ち紛れの顔を向ける。陸上部員の隠塚ヒロユキであった。その隣の席に座っている彼の相棒もいかにも同意だと言わんばかりの視線をこちらに向けている。二人掛かりで、なんとなく詰られているような気分になる。
「山鹿さあ、部活やってないんだろ」
「してるし」むっとした声。
「何部?」
「……音楽鑑賞会」
「そんなのあんの」
「今はない。これから作るの」
「え?」
それきり会話は途絶えてしまった。問い詰める隠塚たちにハルが返事を返さなくなったのだ。ハルは自分が悪者に仕立て上げられたような気分になって、柴田のことも隠塚のことも嫌な印象のする絵の具でべっとり記憶にマーキングしてしまった。
『タグ:なんとなく嫌なやつら』
もちろん内山も同様に、である。しかしもともと性根の優しいハルは家に帰りついた後、しばらくして湯船に浸かっているときなんかに思い出すであろう。
(――ああ、私は高校入学と同時に前よりも人に優しくなったはずなのに)
ハルが去った後、隠塚は絶え間ない相棒の愚痴を聞き流していた。柴田がかわいそうだ。山鹿は自分勝手である。名前を貸すだけで解決する話ではないか。俺らは自分の部活があるから柴田に協力してやりたくても出来ないのだ。そもそも存在しないはずの帰宅部員というのに腹が立つ。云々。
隠塚は黒板の上のほうに張り付いている薄っぺらな壁掛け時計をぼんやり眺めながら「あと二、三分もしたら俺もグラウンドに出なきゃいけないな」なんてことを考えている。
「柴田に山鹿が帰宅部だってことを教えてあげないとなあ」
隠塚の呟きに反応したのは、冒頭噂話をしていた二人組の女子である。
「ヒロ、やっさしーい」
「うるせ」
「あのさー、空気まじ重いんだけど。柴犬ちゃん必死すぎでしょ」
「それだけ新聞部が大切だってことだろ。部活にかける高校生活。いーね。羨ましい。青春してるじゃん」
「青春とかいってるし」
隠塚は席を立ちスポーツバッグを肩に掛けると、そのまま教室を出る。愚痴の多い相棒もそれに続いた。
放課後の教室からは一人また一人と生徒たちの姿が消えてゆく。開けっ放しの窓を閉めるのは最後まで残った生徒の役目。吹き込んでくる風はぼんやりと藍色でぎりぎりの涼しさを保っている。じきに寒くなってしまうんだろうか。そう思うとなんだか全ての景色が名残惜しい。
―――――――――――――――――――――
○ブラスバンド部の休憩時間。
「美男美女でお似合いだと思ってたんだけどな」「誰の話よ」「ほら、内山と葛西」「ああ、新聞部」「うん」「何? あいつら結局、付き合ってたわけ?」「じゃないの? だってあんな狭い部室で、男と女が二人集まればねえ、……」「二人きりでもないと思うけど、……」「二人きりになることもあろうよ。まあなんにせよ二人の間に何かあったのは、間違いのなかろうことだと俺は思うけどね」「そんなもんかね」「そうだよ」「ふうん」「でもさ」「何よ」「内山は葛西に何か恨みでもあったのかな」「どういう意味?」「いや、そのまんまの意味だけど、……ぴんとこないらしいね」