***
――少し高いブロック塀の隙間から一目仰ぎ見れば、「ああこの家は庭先から部屋の中まで隅々まで手入れが行き届いているんだな」。そんな風に容易に推測されるような立派な一軒家があります。
家の中は朝食後で、20畳はあろうかというリビングで制服にエプロンを掛けて洗い物をする少女が一人います。マッチ棒がのりそうな位長く揃った睫毛と切れ長の大きな瞳。 煌めくような青みがかかったロングヘアと、ノーメイクでもつるりとしたうるおいを含んだ肌。すらっとした足から腰、胸にかけてのボディーラインには相当の自信があります。
はいそこ、いやらしい目で見るのはやめて下さい。
つまり私。荒垣せあやです。
――は? 何を言っているんですか? お兄さんの部屋じゃないですよ。自宅です。
もう。
洗い物を終えてエプロンを所定の場所へ。そして正座をして待っているお母さんの自室に移動して、私もその正面にちょこんと正座をして向かい合います。それが日課だからです。
深い藍色の着物を着たお母さんは開口一番必ず、
「正しい人間になりなさい」
と言います。これはPTA会長たるお母さんの口癖です。
「はい」
一つしかない返事を私が答えます。これはもう物心ついた時から何年もやっています。
一種、形骸化した儀式のようなものなのです。
一見こういった行為に意味はないように思えます。
反面それが狙いで、実はお母さんは私がこの【無意味な行為に何らかの意味を付加すること】を期待しているのかも知れません。
例えばそう……家族の絆とか、信頼とか。そういう目に見えないあやふやなものを、です。
私は伏した目を上げて、
「正しい人間には、なろうと思います。でもお母さん。お父さんのやっていることは間違っているのではないですか? また被害者が出たと聞きましたが……」
「せあや。貴方が口を差し挟むような話ではありません。貴方とは以前の件で手打ちにしたと記憶しています。髙釈迦野霧……あの子の件では荒垣組としても尽力しました」
「……そうですね。ありがとうございます」
そう返して座礼をする。お父さんには野霧のことでもう十分借りが出来てしまっている。
あまり強いことは言えない。控えめにしないと。
母親は深くため息をついて、
「いいですか。お父様の敵は我が家の敵なのです。敵は殲滅しなければなりません。まだゲリラ的に残っている相手には、きちんと地下室で贖罪をさせなければなりません。それが誰であっても同じです」
――そうそう、言い忘れましたがうちには地下室があるんです。最近よく使ってます。
お兄さんが暫く前に来てくれた時もこれは秘密にしていました。手錠はそこからもってきたんですよ?
うーん、今はあまり楽しい使い方ではないですね。詳しいことは今度にしましょう。
「それにしても……うちの正しさというのは随分偏った正しさだと、私は思うのです」
「正義とはそういうものです。せあや、貴方は道徳規範からはみ出さずに本当によく育ってくれました。今後も余計なことを考えず、社会の道理に反することなく、表の道を歩くのです。それをお父様も望んでいます」
「……。県警が調べていたのは……入院中の大物政治家のスキャンダルだったんじゃないんですか?」
「またそういうことを……」
「私でも、少し調べればそのくらい分かります」
「予め言っておきます。貴方が幾ら調べても、それらが髙釈迦家の父親に直接的に繋がることはあり得ません」
思わず眉をひそめる。
「……それは無関係ということですか?」
お母さんは超然とした風に続けました。
「こちらとしても、無関係と言いたいのです。でも、そう言って納得する貴方ではないでしょう。ですから私が言いたいのは。――関係の有無に拘わらず、貴方に確認する方法はない。そういう事です。……せあや?」
「あ、すみません」
思わず深いため息を吐いていたらしい。こういうところは似ているのか。
「……分かりました。学校に行ってきます」
「はい」
腰を上げて、リビングに置いた鞄を取って、家を出ます。
そうして少し息を吐いて、考えます。
調べても分からないと言い切られた時点で、多分私の手の届く範囲ではどうにもならないことなのでしょう。それに、何とかなったところで、今更髙釈迦家を救えるわけじゃない。全ては過ぎてしまったことです。……本当にごめんなさい、野霧。お兄さん。心の中で謝って許して貰えるのなら、私、何でもしちゃいますよ?
結構……えっちな事とかでも多分、気にしないんですけどね。も、もちろんお兄さん限定ですけど。
起きなければ良かった。私がもしかして何かをしていたら、何か結果が変わっていたのかも知れない。そんな奇跡のような低い可能性に縋り付くような気持ち。忸怩たる思いはまだ私の中に確かに残っています。しかしそれをみんなに吐き出す勇気もありません。そうして関係が崩れるのが恐ろしいんです。
ふとした時に私の空想を含めた全てを吐き出しそうになり、またそれを飲み込み、吐き出し……何度も頭の中を反芻してきました。でも、ダメなんです。知らなければ良かった。でも、知ってしまった。それは絶対に変えられない。
「知る」。そのほんの少しの差は私を少し変えてしまったのでしょうか。
世界は人によって違うものなんだって。例え家族だとしても。
――お父さんやお母さんと同じように、私の世界は他の人から見たら歪んでいるんでしょうか。
それでもいい。だって……青く澄み渡った空や髪をなびかせてくれる心地よい風は今日も半年前も同じだからです。
私は二人を見つけて、勢いよく手を振ります。
「おはようございますー! 野霧! 奈賀子!」
「おはよ! せあや!」
「だるー」
「あのね、奈賀子。しゃきっとしなよ」
「ンだよ。はいはいおはよー」
私は、精一杯の笑顔を見せる。いつもと変わってないかな?
だって、野霧がいるから。
だって、お兄さんがいるから。
ついでに奈賀子もいるから。
確実に信じられる、本当に大切な人たちが少しだけあれば良い。
それだけで小さくても幸せなんです。
懺悔する時間があるくらいなら、笑っていた方が良い。
そう思うんです。
私、間違ってますか?
***