キャバレー/つばき
キャバレー、という単語が耳慣れなくて首を傾げる私を、茜さんは笑った。小馬鹿にしているのではなく本当におかしがっていたみたいだった。このときは初対面でよくわからなかったけれど、茜さんはとても優しい人なのだ。だからその笑い方には純粋な哀れみも少し含まれていた。つまり何も知らない子どもに対する笑い方だ。
「最近の子は本当に物を知らないのねぇ」
映画の台詞のようなアクセントのついた喋り方に添うように、彼女のメイクもまた随分と派手だ。目の上に派手なパープルのシャドウ、口紅は濃い赤。わざとらしいくらいの化粧はなぜか彼女に馴染んでいる。最初は痛々しく見えていたのに、時間が経つほどにその化粧も含めて茜さんなのだと思うようになっていった。美のためというよりは記号のようなもの。しるし。彼女が彼女として成立するためのマーク。凝った化粧のために彼女が毎日どのくらい時間をかけているのか、鏡に向かう姿を想像するたびいつも不思議に親しみが湧くのだった。
「まぁこんな田舎じゃ知らないのも無理はないけれど」
そう言って茜さんはコーヒーカップにそっと両手を添える。
平日の昼下がり、古臭い喫茶店にはあまり客が入っていなかった。布の衝立の向こうに煙草の煙が一筋見える。通りに面した広い窓ガラスから入るくすんだ日光が、ゆっくりと昇っていく煙と溶け合って、そのもやが店内をますます古く見せる。
このときの私はまだ知らなかったことだけれど、茜さんの中では、彼女はここよりもずっと都会からつい最近越してきたことになっていた。身体を壊して働けなくなったせいだ。ゆっくり休んで身体さえ元気になったなら、彼女はまた元の通り華やかな世界に戻るつもりだったのだ。
でも実際には、茜さんはもう三十年以上この町に住んでいる。この辺りは昔と変わらず地方都市の小さな繁華街のままだ。若い人が少し減り、立ち並ぶ店の多くは入れ替わり、あちこち櫛の歯が抜けるように閉店してシャッターを下ろしているのが目立つ。そういう宿命から逃れられない凡百な街のひとつだ。
そして彼女の身体はたぶんほとんど健康だった。煙草や酒で喉を痛めたせいで声こそ枯れていたが話す言葉はしっかりとしていたし、姿勢は正しく身体つきはほっそりしている。艶のない髪や衰えたるんだ皮膚の皺は年齢のせいであって彼女の咎ではない。だからそれを彼女が認識していなかったのは仕方のないことだったのかもしれない。
「キャバレーって、どんなところだったんですか」
大して興味もなかったけれど、私は辻褄合わせのために訊いた。
茜さんはにっこり微笑んだ。
ああそれ近所でも有名な頭のおかしいばあさんなんだよ、とヨシカズはどうでもよさそうに言う。そういう事情があるのだろうことはなんとなくわかっていたけれど、彼のその言い方を少し不快に思った。どんな理由であれ年長者を馬鹿にするのは嫌いだ。けれどそれで彼自身を嫌うことはない。そういう心の動きは、恋をしているときにしか起こりえない。
「でも、悪い人じゃなかったと思う」
ネクタイを緩める彼の上着を脱がせて丁寧にハンガーにかける。彼は一日の疲れを吐き出そうと深いため息をついた後で、私の言葉に小さく頷いた。
「誰でも捕まえてありもしない話をするのが好きなだけだから、捕まらなければなんということもない。奇声も上げないし徘徊も万引きもしない。まぁ悪い人ではないだろうけど」
シャツとスラックスのまま彼はベッドに座り、こちらに手を伸ばす。私は黙ってするりとその胸元にもぐりこみ頬を寄せた。かすかな汗のにおいと体温に同化しようと目を閉じる。
「お前けっこう世間知らずだから、一応気をつけろよ」
そう言って彼が私の髪をゆっくりと撫でる。だから私は世間知らずの女の子になった。彼がそういうのならそうなのかもしれない、と思う。罪のない依存。知らないフリでさえない。単にそうかもしれない、と仮定するだけのことだ。
腕の中から彼を見上げると、それに応えるように唇が降りてくる。それに唇で触れて、少し離したあとで、僅かに舌を覗かせてまた口づける。相手の舌の侵入をしばらく拒んでから少しだけ許す。首元に手を添えて引き寄せる。背中が手のひらで支えられ、ゆっくりと身体が倒されていく。一瞬、重力の仕組みが変わるような感覚がある。しがみつくようにして相手の身体に手を回す。耳元に唇が押し付けられる。
「茜さんは嘘をついてるのかな?」
ふと思い出して呟いた。ヨシカズは首元に必死で鼻先を埋めている。
「茜さん?」
「さっきの、喫茶店の」
「さあ。口から出任せ言ってるのかどうか、どのみち確かめようないだろ」
「うん」
ぼんやりと相手の硬い髪を撫でる。ベルトを外す金属音が鳴って、ごそごそと服を脱ぐ気配がする。浅く息を吐いた。彼が帰ってくるなりこういうことをするのは嫌いじゃない。この世にやることがこれしかないみたいで素敵だ。すごくシンプル。キスに応えて、呼吸を荒くして、求められるままに相手の身体に手を伸ばし、撫で、さすり、擦ってあげる。身体感覚と一致したわかりやすい感情表現のひとつ。さしていやらしいことではないと本当に思う。ただ僅かに誇張して声を漏らす私の声帯だけが少し浅ましい。
接触する皮のほんのわずか内側で、とても微妙なやり取りをする。どこに手を添えるか、いつ力をこめるのか、速かったりゆっくりだったり、小さく呟いたりうめいたり、何に感応してどこに反応するか。でもそんな微調整よりももっと、ただ単純に支配されることを喜ぶ。自分が姿かたちも性格も凡庸な女に過ぎないことは知っていたけれど、もし取り得があるとすればそれだった。支配されて「あげる」ことは慈しみなのだ。依存ではなく受容。思いやりと言ってもいい。相手を錯覚させるための嘘ではなくて、本当に、完全に明け渡してしまう。自分自身の存在を心の底から許すこの瞬間にこそ、私の取り得の全てが詰まっているのだと思う。
「大好き」
そう呟いて、汗ばむ相手の身体を抱きしめる。今この瞬間、私はなにひとつ嘘なんかついていない。
「あなた、もっとマシな格好はしないの?」
いつもの喫茶店で、茜さんはじろじろと私を見ながら言った。私は首元にリボンを結んだカットソーにタイトジーンズ、足元はバレエシューズという格好だった。伸ばしっぱなしの髪をうしろで一つに束ねている。肌はほとんど見せていないしどれも大してお金がかかっていない。色も地味で、全部がなんとなくくたびれていた。
対する茜さんもそれほど大した格好をしているわけでもなかった。首の詰まった薄手のセーターはあちこちに毛玉が出来始めていたし、フレアスカートは中途半端な丈のどこかのリサイクルショップで探してきたみたいなひどい花柄で、靴は妙にずんぐりとした黒い革靴だ。白髪混じりの縮れた髪は肩の上で切り揃えられていた。でもそういう現実は彼女の中ではほとんど透明なものとして扱われていて、意識にのぼらないらしかった。
茜さんは優雅というよりは余裕を見せ付けるような所作でコーヒーをゆっくりと飲んでいた。私は向かいの席でノートと筆記用具、参考書を広げてはいたが、それはほとんどかたちだけのもので、勉強を口実にして茜さんに会いに来ているのだった。喫茶店で一方的に話しかけてきた精神に問題のあるらしい老女(茜さんは六十代前半に見えた)の話をわざわざ聞きに来るだなんてまともなことではないとわかってはいたのだが、なぜかつい足が向いてしまうのだ。
「マシな格好?」
訊ね返すと、茜さんはたっぷりと時間を使って頷く。
「そう、着飾らなきゃ。いくつ? まだ若いんでしょう」
二十四です、と答える。
「それならもっと肌を見せたり、華やかな色を着たりしてちょうどいいくらいなんだから。化粧っけもないしもったいない」
「でもそういうのは似合わないですから」
「そういうもんじゃないのよ。着飾ってるうちに磨かれていくの。私だってどれだけ苦労したか」
茜さんはまるで私を労わるように少しだけ微笑む。
「華やかな世界だからといって、働いている子みんなが派手なタイプというわけじゃないのよ。成り行きで仕方なく仕事にする子だっているわけだから。でも毎晩ショウをやったり、お客さんは裕福な紳士が多いしで、段々と自覚が出てくるのかしらね」
安っぽい水商売とは少し違うのよ、と彼女は言う。
白い陽射しが微笑む彼女の皺をくっきりと浮き立たせていた。皮膚はところどころ黒ずみ、目の下は水っぽくふくらみたるんでいる。それでも確かに茜さんの顔立ちは整ったものだった。目元にはかつての華やかな美貌の影が残っていたし、少し鷲鼻ではあったけれど小鼻はすらりと端正なかたちをしている。腫れぼったい唇も以前はきっと血色良く生き生きと動いていたのだろう。濃い化粧に相応しいだけの、少し大作りだけれど勢いのある美人だったに違いない。
「私も田舎から出てきたばかりの頃は戸惑ってばかりだった。着飾り方だけじゃなくて、マナーや言葉遣い、お客さんのあしらい方もわからなかった。必死で先輩ホステスから学んだの。それに毎日お酒を飲んで暮らすなんてね。自分がそんな風になるなんてそれまで考えたこともなかった。だって、私はごく普通の大人しい女の子だったんだから。それでも勘が悪くはなかったみたいで随分うまく稼いでたのよ。まぁ身体を壊してしまえば元も子もないんだけど」
でもお陰で今ゆっくり出来るだけの余裕はあるわけだから、と彼女は言う。
まるで映画を見ているみたいだな、と私は思う。寂れた喫茶店の席でかつての華やかな生活を語る老女。でも彼女にとってそれはついこの間のことなのだ。
茜さんと出会ってから、私は近所の人や喫茶店の店員にそれとなく彼女のことを訊ねてみた。ヨシカズも気になって誰かに聞いてきたらしく色々と教えてくれた。茜さんには身寄りがなく、小さなアパートで一人暮らししていること。生活保護を受給していること。その振込み日には自分で銀行に行くこと。月に一度は精神科の医者にかかっていること。近所の人から洋服を貰ったりなにかと世話を受けているらしいこと。
それでも彼女は自分のことをキャバレーのホステスなのだと語る。身体を壊してしばらく休んでいるだけなのだと。誰もその話に取り合わない。ただ聞き流すだけだ。単なる妄想なのか、実際にそういう過去があったのかは誰にも分からない。彼女の話には現実味がなかった。何度も同じ話を繰り返したし、最後はいつも自分がいかに華やかな場所で成功しているかという話に終わる。私から見ても、ただみすぼらしい老女が現実離れした妄想を呟いているようにしか思えなかった。ただ時折、いつもは焦点の合わない目つきが急にしっかりと意志を帯びて、こちらがはっとするような瞬間もあった。この人は本当は正常なんじゃないかと思うような。
私はなぜか茜さんが好きだった。彼女が話しているのを聞いていると不思議と安心できた。彼女は存在さえ定かではないあやふやな時間の話を夢中でする。それはたぶんこの世界において誰にとっても役に立たない種類の話だ。その無防備さが私を安心させたのかもしれない。
「本当に毎晩が夢の中のようなのよ」と茜さんは目を細めて言う。キャバレーという場所は、彼女にとって特別な場所らしかった。
「ビッグバンドや歌手、ピアニスト、ヴァイオリニストが来たこともあったわ。そして毎晩演奏を聴きながら踊って、少し疲れたら座ってお酒を飲んで。桐嶋さんという方がいてね、表の世界ではそんなに名の知られていない方だけど確かな名士で、本当に私によくしてくれるの。よく同伴もするけれど、本当に何もないのよ。お子さんがいらっしゃる方だもの。ただただ私を優しく気遣ってくださるのよ。身体を壊したことも随分心配して、少しでも療養が楽しくなるようにと素敵な絹のガウンを送ってくれて。刺繍も手の込んだ本当に高価なものなの」
そうなんですか、と私は相槌を打つ。彼女の話で人の名前が出てくるのは初めてだったので、少し珍しいと思った。
「こういう世界には確かに色んな事情もあるわ。でも大切なのはね、そこはむしろ無垢な世界だということなのよ。わかる?」
「無垢?」
問い返す私に茜さんは慎重に頷く。
「そう。純粋で混じりけがないの。あらゆる意味で日常とは違うところ。もちろんいいことばかりがあるわけではないけれど。言うなればそれは本当に夢のようなものなのよ。現実では成り立たないような」
よくわからないまま私は頷く。
「あなた、恋人はいるの?」
茜さんがふと言った。けれどその目線は私を見ていなかった。私の喉もとの、もう少し手前の空気の塊を見ているような感じだった。目尻がひきつって不自然な表情になっている。彼女は時々こういう表情を見せる。日常生活ではあまり見かけない種類のものだ。
「います」
と私は答えて、胸のうちが引き攣れるような違和感を飲み込む。
「そうなの。同じ年齢の方?」
「いえ、ひとつ上です」
「どうやって知り合ったの」
「大学の研究室が同じだったんです。それで学生の頃に付き合い始めて」
「大学? あなた大学に行っていたの」
茜さんは少し驚いた表情をする。彼女の時代には今よりも大学に進学する人が少なかったのだろう。お相手は会社に勤めているの、と更に訊ねられる。まるで親戚の叔母みたいだ。銀行員だと答えると納得したように頷いてそれなら安心ね、と一人で呟いている。私はあいまいに頷いておいた。
「茜さんは、恋人はいるんですか」
試しに訊ねてみる。今まで何度か茜さんに質問したことはあった。年齢や出身、どうしてホステスになったのか。けれどそれは全て黙殺された。先ほどの空気の塊を見ているような表情のまましばらく時が過ぎ、それからまた自分の話を始める。ある種の現実は茜さんに届く前に空間に吸い込まれてしまうのだ。
けれどこの質問だけは彼女の元に届いた。
「そうね、こういう職業でも恋人がいる人もいるわね」
でもそこまでだった。それから茜さんは何も語らなかった。私はアイスティーを飲み干して、少しだけ勉強をした。その間茜さんはぼんやりと虚空を見ていた。
行為のあとの眠りは深く短い。
暗い部屋の中で薄青い光がほのかに広がっている。目を開けてしばらくはその意味を理解できなかった。時々鋭く軽い音が響いて、そのうちにマウスのクリック音だとわかる。視線だけを動かして見ると、ヨシカズがパソコンの前に座り電気もつけないままでディスプレイに見入っていた。Tシャツとトランクスだけ身につけて、胡坐をかいて気だるげに頬杖をついている。視線と指先だけがちらちらと動く。
しばらく息を殺したままそれを見ていた。気の抜けた横顔。骨の太い細身の身体は、最近腕や背中の線がほんのわずかだがゆるんできている。学生時代のようにスポーツをする機会があまりないせいだろう。皮膚の質感も以前とは違う気がする。身体のにおいも、食後の咳の仕方も。それは本当にごくわずかな変化だ。別に嫌なわけではない。ただ、相手が変質していく生き物だということが奇妙に思える。私だって同じ生き物のはずなのに。
ベッドの上で伸びをすると、彼がこちらを見て穏やかに言う。
「ごめん、起こした?」
「ううん、目が覚めただけ」
ゆっくりと身を起こして、タオルケットを身体に巻きつける。そっとベッドを滑り出てヨシカズの傍に寄った。ディスプレイには数字の並んだエクセル表が映っている。
「お仕事?」
「うん、せっかくだから。といっても別に急ぎではないし、眺めてただけだけど」
「そっか」
そっと彼の肩に手を触れる。タオルケットがするりと肩を滑り落ちる。裸の胸を相手の背中に軽く押し付けて、耳に頬をつけた。背中は熱く耳はひんやりとしていてどちらも気持ちが良かった。両腕で後ろから包むように抱いてみる。もちろん十分な抱擁にはならない。
「かわいそうに」
呟いてみる。返事はない。
「ねぇ、大丈夫だよ。ちゃんとなんとかなるから」更に言って、待つ。
時計の秒針の音。うん、とかろうじて聞こえるくらいの返事。
私は前のめりになってその背中に思い切り体重を預けた。彼が文句を言うのを期待して。
「重い」
「うん」
「心配かけてごめんな」
「ううん。ねぇ、せっかくだから二人でこれから映画でも見る?」
「でもお前まで明日眠くなるよ」
「いいよ。昼間にごろごろしてるから」
「ずるいな」
「それじゃ今からベッドで一緒に寝転がって話でもしようか」
「そういうの、学生時代みたいだな」
「楽しそうじゃない?」
「そのあとは手を繋いで眠る」
「そう。エッチなことなんかしない」
「いいね」
私たちはくっつきあったまま、二人でくすくすと忍び笑いをした。ヨシカズは優しい。まるで夢の中のようだと思った。体温も呼吸も感じられるのに、現実味だけがない。
いつの間にか大学を出てもう二年が経っている。大学四年の頃には自分が就職するという未来がどうしてもうまくイメージできなくて、なんとなく就職活動を避けて、言い訳のように二、三枚履歴書を出してみたらひとつだけ最終選考まで残ったけれど結局落ちた。それは妥当なことのように思えた。かといって実家に帰る気も起きなかった。就職活動を続けるからこちらに残ると伝えたところ、資金の援助は一切しないというのが両親からの返事だった。それで結局、要領よく大手の銀行に就職していたヨシカズのワンルームに転がり込んだ。
定期的に短期の派遣の事務員を探し、ひと月ほどまとまったお金を稼いだら、半分ほどを生活費としてヨシカズに渡して残りの三、四ヶ月は働かずに過ごす。無駄なものさえ買わなければお金にはそれほど困らなかったし、時間だけはたっぷりあったので家事は苦にならなかった。むしろそこに「こなすべき仕事」があるのがありがたかった。
外に出るのは昼間に資格の勉強のため図書館や喫茶店に行くか買い物くらいで、夜には滅多に出歩かない。時々連絡が来て学生時代の友達に会ってみると、みんな身なりにお金をかけるようになり華やかな雰囲気を身につけていた。そこで聞く職場の話は、なんだか奇妙な成り立ちをした遠い国のことみたいに思えた。どうしてみんな何の違和感もなく「そちら側」にいけるのだろう、不思議だ。ふらふらと短期の仕事ばかりで定職につかない私を責める人は誰もいなかった。近いうちに結婚するものだと思っているのだろう。一緒に暮らすヨシカズさえ何も言わなかったけれど、彼に結婚する気があるのかどうかはわからなかった。たぶんそんなことを訊かれても困ってしまうだろう。何も考えていなくて、今がそれなりに心地よいから続けているだけに違いない。私と同じように。
ヨシカズが不眠症になったのはここ半年ほどのことだ。最初は何度か夜中に目を覚ますくらいだったのが段々とうまく寝付けなくなっていき、最近ではほとんど眠れない日も多い。精神科の医者に睡眠薬を貰っても、どういうわけか薬が合わずめまいや吐き気がひどくて使えない。仕事のストレスのせいだろうということだった。だから向精神薬だけを飲んでいる。心配はするものの、私に出来ることは特になかった。彼も表面上は以前と変わらず穏やかに過ごしているように見えた。
毎日が水底のようにあらゆるものが静かで鈍く、するすると滑っていくみたいだった。順調というわけではない。現実世界の刺激は私の世界に届いてこないのだ。何かが間違っているのは知っていても、どこがどんな風に絡まってしまっているのかなんてもうわからないし、ほどかないままの方が心地よかった。時間は完結して永遠に引き延ばされているみたいに思えた。たぶんそれは錯覚なのだろうとわかっていたけれど。
その日、私は茜さんに向けて話しかけてみた。恋人が不眠症なんです、と。返事はあまり期待していなかった。ただ誰かに話したくなったのだ。
彼女は何度かまたたきをしたあとで、「それは大変ね」と言った。質問が届いたことにまた少し驚いた。
「眠れないのは辛いでしょうね。身体にも響くし、なにより寂しいと思うわ」
「寂しい?」
「そう。夜は長いし、一人だと寂しいでしょう。一緒に暮らしているの?」
私が頷くと茜さんはほっとしたように言う。
「それならよかった」
「茜さんも寂しくて眠れなかったりするんですか」
「当たり前でしょう」
彼女は小さく穏やかに微笑む。
「そんなときにお酒ばかり飲んでいたのよ。今はもう飲めないけれど」
「傍にいてくれる人は? 『桐嶋さん』とか」
試しに名前を出してみる。茜さんの目が一瞬光り、まばたきに力がこもる。
「そうね。ただ、桐嶋さんはお忙しいから」
「お見舞いに来てはくれないんですか」
「なかなかそういう行動が出来る立場の人ではないの。だから絹のガウンを下さったのよ」
「茜さんから会いに行くことは?」
彼女は静かに首を振る。
「今も寂しいですか」
私は訊いた。彼女は表情のない瞳でぼんやりと私を見つめていた。それから言った。「そうね」
この人には本当に正常な意識がないのだろうか。次第にわからなくなってきた。確かに言動にはマトモではないところがあった。ただ現実認識だけが曖昧で、情緒は残っているということなのだろうか。
「私は時々、自分のせいじゃないかと思うことがあるんです」
ふと口に上った言葉に自分で驚いた。こんなことを話すつもりはなかったのに。
「彼の不眠症のことです。生活を頼っている引け目があるからなのかと思ったけれど、違うんです。なぜか私の周りの人々はいつも幸せそうじゃなくて、それは私のせいじゃないかと考えてしまう。いつでも自分に罪があるんじゃないかと思うんです。私がマトモじゃないせいで、なにか良くないことばかりを周りに押し付けているんじゃないかって」
その罪の気配は幼い頃からずっと私に寄り添っていた。自分の傍にあるものは少しずつ駄目になっていくだなんて、そう思っていることは今まで誰にも言えなかった。言うべきことでもないと思っていた。だから今まで誰かと深く関わることはなかった。関わればせっかくの善いものが台無しになっていくからだ。でも結局大学を出る前に私はヨシカズと付き合い始めた。さらに一緒に暮らすようになった。それが本当の愛情なのかどうかわからない。台無しにしてしまうと知っていながら傍にいるのは結局自分が生きていくためなんじゃないだろうか。
唐突な私の告白に、茜さんは静かに頷いた。
「そういう風に考えるのは、とても辛いことね」彼女はゆっくりと言った。
「辛くて寂しいことだわ。真夜中に目が覚めるのと同じくらい寂しいことよ」
はい、と私は頷いた。
泣きそうになっている自分と、それを嘲笑しようとする自分がいて、抑えるのに必死だった。まぶたが熱い。なぜか今、言葉が正しく聞き取られたような気がしたのだ。受け入れられたという気がしたのだ。こんな昼下がりの場末の喫茶店で、知り合いとすら呼べないだろう頭のまともではない老女によって。彼女は私の話を正しく理解したのだという確信めいたものがなぜか私の内側にあった。出会ってからの時間や経過は問題ではなかった。たった今それが起きた。初めての感覚だった。恐らくそれはこの人生で滅多に起こり得ないことだ。
私は茜さんに付き添って喫茶店を出た。そして歩いてすぐの駅に向かった。彼女の足は衰えていたからそれにあわせてゆっくりと歩いた。
茜さんは障害者用のパスを持っていて、それを見せれば改札を通ることができた。私は切符を買った。目的の場所まではここから一時間ほどで着くはずだ。
平日の夕方の電車はまだそれほど混んでいなかったし、茜さんはよろよろと歩いていたので誰もが席を空けてくれた。私は彼女の腕をとってゆっくりと座席に座らせる。周囲からは、私たちは祖母と孫に見えただろうか。
「電車に乗るのは久しぶりだわ」駅を発車したところで彼女は言う。
「身体は大丈夫ですか」
「ゆっくりと動けば平気よ。それよりお店の方がびっくりするかもしれない。何も連絡していないし、それに私は随分病み衰えてしまったし」
茜さんはいつもの通りの冴えない格好をしていた。そしていつもと同じように化粧もそれとは不釣合いなくらい念入りだった。時々人がそれを驚いたような目で見た。じっと見る人の中にはなぜか隣の私に非難がましい目を向ける人も居たが、気にしないことにした。
「大丈夫ですよ。それに遠くから見るだけでもいいんです。私が事情を話して桐嶋さんのことを訊いてきてもいいし」
「でも、そんなことを頼むのは……」
「だって会いたいんでしょう。試してみるだけでもいいじゃないですか」
「あなたに迷惑がかかるわ」
「いいんです。それに私、キャバレーって一度見てみたかったし」
そう、と言って茜さんはやわらかく微笑む。
それから私たちはほとんど会話をしなかった。途中で二度電車を乗り換えた。ときどき茜さんが隣でぶつぶつと独り言を言っていた。いつも繰り返しているような話を誰にともなくしているのだ。視線を感じることもあったが問題は起きなかった。結局は無害な老女なのだ。
聞いたことのない駅名が目的地だった。電車を降りて改札を出ると、そこには昔懐かしいようなアーケード街が広がっている。そこにある商店のほとんどがシャッターを下ろしていた。夕暮れにさしかかる薄暗い時間帯に沈み込むように街並みは沈黙していた。駅に向かうらしい人、駅から家に帰る人もまばらで、自転車に乗った人が時々通り過ぎて行く。本当にこんな場所に茜さんの言うような華やかな場所があったのかと不思議に思った。
茜さんは私の隣で何も言わずに立っていた。彼女の目にはこの景色がどう映っているのだろう。彼女の知る当時の街並みとは明らかに変わっているはずだ。それは駅や電車が新しくなったことや自分が年老いたことと同じように認識されないのだろうか。残酷な興味から私は彼女を見た。けれど彼女の表情からは何も読み取れなかった。
「こっちよ」
そう言って彼女はふらつく足で歩き始める。駅前通の信号は赤だったが、車の気配はまるでなかった。それで私も後ろをついていく。石畳の道に設置されたアーケードは巨大な恐竜の骨組みのようで、その薄暗い内部は随分ひっそりと寂しく、不気味でさえあった。何もないよりも、かつては何かがあった気配が強く残っている方がより寂しい。
なぜこんなところまで来てしまったのか、自分でもよくわからなかった。茜さんが桐嶋さんに会いたいと言い、私はお店に行けばいいと言った。もしかしたら客として来ているかも知れないし、今どうしているか知っている人くらいはいるだろうと。身体が弱っていて一人では難しいと茜さんは言った。だから連れて行くことにした。
それが惨めな結果に終わるだろう事は目に見えている。今の世の中でキャバレーが存続している可能性は低い。仮に残っていてもそこに茜さんを知る人はまず居ないだろう。そもそも茜さんの話が本当なのかどうかさえわからない。
ただ私は本当のことを見届けてみたくなったのだ。あるいは彼女に現実を思い知らせたくなったのかもしれない。それが傲慢な行為であることはわかっていたのだけれど。
短いアーケードを通り抜けると、何度か角を曲がる。辺りは閑散とした住宅街だった。茜さんの足取りに迷いはない。むしろそれまでよりも強くしっかりと歩いていた。歩調も速い。どんどん速くなる。気持ちが先走っているのだろう。転ばないか心配になって、少し追いかけて隣に並ぶ。覗き込むと、茜さんの頬はばら色に染まっていた。瞳には強い光が宿り、薄い夕闇の中できらめいていた。私は生まれて初めて心の力を恐ろしいと思った。そして自分がしたことの意味を知った。連れてきてはいけなかったのだ、きっと。でももう止めることは出来ない。
「茜さん」
名前を呼んでも彼女の耳には届いていないようだった。「茜さん、もう遅いから戻りましょう。また今度連れて来ますから」
「あの角を曲がればすぐよ」
私を無視して彼女は言った。もうとっくに肩で息をしている。そんなに動けるような身体ではないのだ。今更遅い、と誰かが頭の奥で囁いた。動悸がする。なんの変哲もない電柱のある曲がり角を茜さんは曲がり、そして立ち止まった。
私も彼女の傍で立ち止まる。
そこにはなにもなかった。小さなアパートや古い戸建てが並んでいた。すりガラスをはめた台所の小さな窓から、アルミの鍋やボウルが置いてあるのが見える。アパートの外には壊れた洗濯機や汚れたバケツが置かれ、乱雑にパンジーが植えられたプランターが並んでいる。そしてその隙間に潜るように、ほんの小さな草むらがあった。
茜さんは息を切らせたまま、その草むらの前に立っていた。
彼女の目に映っているもののことを私は考えた。私と同じものを見ているのだろうか、それとも。
辺りから虫の音が急に聞こえ始めた。さっきからずっと鳴いていたのかもしれない。自分の鼓動がそれに溶け合うように耳に響いている。夜が急速に密度を増して、ものの輪郭が曖昧になっていく。風が冷たい。
茜さんが小さな声で言った。
「ここには本当に色んなものがあったのよ。恋があり、友情があり、裏切りがあった。人が死に、生まれたことだってあった。ここに来て私は新しい私になれたの。それまでとはまったく違う私に」
私は黙って聞いていた。茜さんは誰かに向かってではなく、ただ言葉を発しているように思えた。
「世の中の人というのは、本当に生きるということがどういうことか知らないの。それはある種の限られた場所でしか起こらないものごとなのよ。本当にそうなの。経験した人にしかわからない。日常がどれだけ私たちを削り取っていくのかなんてみんなわかっていないのよ」
茜さんはどこかを見ていた。きっと彼女だけにしか見えない世界を。そこに私は居ない。茜さんはキャバレーにいた。彼女には帰るべき場所がそこにしかないからだ。そしてただその世界で呼吸をし続けていた。
世の中の多くの人々と同じように、私もまた、本当に生きるということを知らないのだろう。けれどまだ私はこの現実に居た。かろうじて糸が繋がっていた。立ち尽くす老女の背中を見ながら、たった今ヨシカズの声が聴きたくて堪らなくなっていることに私は気がついた。