赤眼鏡に麦酒/硬質アルマイト
やがて列車は小刻みな振動と共にレールを走り始めた。
重たいトラベルバッグを通路の端に落とし、溜息をつく。あまり空調の利いていない室内は寒い。分厚い上着を羽織ってきたのは正解だった。ほっとして僕は深く息を吐き出してみる。外気よりも熱を持ったそれは目の前で白色に染まり、やがて立ち昇ると消えていってしまった。
自動扉の窓から外を覗きこんでみると、家や山が左から右へと通り過ぎていく様が映る。まるで紙芝居みたいに景色が変わるその窓は、暫くして暗幕が下がったみたいに黒くなってしまう。等間隔に設置された照明が次々と通りすぎていくのを見て、トンネルに入ったことにやっと気づく。何もかもをあっという間に流していく窓の風景をぼんやりと眺め、ふと僕は一人の女性を思い出した。
恋人の顔だ。そう気づいた瞬間、僕はぐっと目を閉ざす。
思い出してはいけない。僕は全てから目を背けてここにいる。
この流れるような景色のように、そこに残してきてしまったのだから……。
忘れてしまえ、と呪文のように唱え続けたそれは、効果があったのか。やがて彼女の顔は瞼の裏から姿を消した。僕は再び重たい荷物を手にすると、予約した客室へと向かった。
レールを滑る列車の振動音だけがやけにはっきりと聞こえる。他には誰もいない。一般の席ならもっと騒がしくて、窮屈だったのだろう。そう思うと、寝床を確保することができたのは随分と幸運だ。
あまりにも突然の予約だった為、最悪のことを考えていたのだが、幸いツインの客室が空いていると言われ、僕は迷わずその部屋を取った。少し値は張ったものの最早金銭に拘る必要もないと思うと、躊躇わず財布を出すことができた。ツインに一人、というのも随分と寂しいような気はするが、まあ横になればそんな寂しさも忘れて眠れるだろう。うまく寝付けない時のことも考えて、酒も大量に買ってきてある。
廊下を歩きながら、ふと先程僕が乗り込んだ扉を見た。客室を取ることができたのはいいが、その時の受付のの口ぶりが少しだけ、気にかかっていた。
――申し訳ございません、個室のほうですが……。少しお待ちください……。ああ、お客様、もしも個室であれば構わないということでしたら、ツインが空いているのですが……。
あれは一体何だったのだろう。
暫く思考を巡らせてみたが、どうにも答えは出なかった。
プレートの番号を照らしあわせているうちに、漸く客室のプレートを見つけることができた。僕はノブに手をかけると、客室の扉を開いた。
まず、眼前に映ったのは部屋でも、ベッドでも、窓の景色でもなかった。一人の真っ白い女性の姿だった。
互いに目が合って数秒程硬直していたが、はっとして僕は扉を閉めた。部屋を間違えてしまったのだろうか。だが、改めて客室番号を確認すると、この部屋で間違いない。
ならば、あの女性は……。
改めて扉を開き、恐る恐る中を覗く。
女性はソファベッドに腰掛けて、こちらに視線を向けていた。一体どういうことだろうか。僕は戸惑いながら、しかしここが予約した部屋であることに間違いはないので、足を踏み入れる。
二人用の個室に男女が一組。窓の外は眠ることなく光り輝く都会の町並みが映っている。やがてこの眩い光も遠のき、街灯一つない山道へと向かうことを思うと、少し憂鬱になる。だが、僕自身が選んだこと。
さて、目の前の彼女はというと、とても落ち着いた様子だ。まるでこの状況が予定通りであるかのように、奥のベッドに腰掛け澄まし顔をしている。
赤い眼鏡をかけ、綺麗に切り揃えられた前髪が特徴的な女性だった。一度も染めたことのなさそうな髪が、部屋の明かりを食んで艶やかに輝いていた。
「あの、この部屋は確か僕が一人で予約した筈では……?」
いい加減問題を解決させなければならない。僕はごくりと生唾を一度飲み込むと、彼女にそう問いかけた。赤い眼鏡の女性は僕を見て一度首を傾げた後、あっ、と大げさに口に手を当てる仕草をする。クリーム色をしたセーターが、彼女の身体のラインに合わせて捻れた。豊満な胸の形が目に入って、僕は居心地悪げに目線を反らす。
「もしかして……連絡、いっていませんか?」
「連絡、とは?」
僕が問いかけると、彼女はやっぱり、と嘆息して肩を落とす。
「実は、この個室への予約をした際、向こうが誤ったせいで予約が重複してしまったそうで」
「予約の重複?」
果たしてそんなことが起きるのだろうか。
しかし、現実として目の前の彼女は僕の予約した部屋に座っている。もう出発だってしている。例えそれが偽りだとして、彼女はもう降りることができないのだ。そんな目に遭ってまで嘘を吐く利点が見当たらない。
「どうも、俄に信じ難いのですが……。それで貴方は重複したままで良いと伝えた。そしてその後の連絡もなく、相手方も納得したか譲ってもらえたのだろうと思い、やってきた。そういうことで良いですか?」
彼女は頷く。
「まさか、連絡が行ってないとは思いませんでした」
非常に申し訳なさそうな顔をする彼女を見て、僕は慌てて首を振り、空いているソファに座ると手を合わせた。彼女はそんな僕の戸惑う姿を見ながら、緊張を解すような、ごまかすような、そんな笑みを浮かべて首を傾ぐ。
「まあ、これも何かの縁かもしれません。ただ、相手が男性であるのにも関わらず相部屋を了承するのは少し……その、どうなのかと」
よく見れば顔立ちといい、体格といい随分と整っている。病的な肌の白さはともかく、その肌の滑らかさや、いでたちからして随分と若い。多分僕よりも五つか六つほど下ではないだろうか。
ほんの少しだけ奥底で息づく感情を抑え、誤魔化すかのように僕は窓の外に目を向けた。木々が流れるように過ぎ去る。トンネルに等間隔に並べられた照明が現れては消えていく。真っ暗になった窓は暗幕のようにこの客間を閉じ込め、部屋の二人を写している。
「居心地を悪くしてしまったのなら、誤ります。でも、どうしてもこの列車に乗りたかったんです」
彼女は赤い眼鏡を両手で押し上げると、そう言った。すっと伸びた左右の人差し指が行うその動作に、どこか上品さを感じられた。僕は窓越しに彼女を見ながら、一度小さく咳をする。
「まあ、今更言っても後の祭りですし、その、なんですか。折角です。一夜限りの出会いを楽しみましょう」
悲しげな顔をする彼女にそう言うと、持ってきた鞄から大きめのビニール袋を取り出す。買い込んできた中からビールの缶を二本、テーブルの上に置いた。
飲めますか、と尋ねてみると、彼女は小さく頷いた。それを聞いて安心した僕は向かい合うように座る彼女に缶を差し出し、互いにプルを引いた。
ぷしゅ、と小気味良い音を上げた缶を見て、僕達はぎこちなく笑みを浮かべ、缶を軽くぶつけ合うと口を付けた。ビールは喉を通って胃に落ちていく。苦味がふわりと漂って、やがて消えていく。その感覚に得も言えぬ幸福を感じた僕は更にビールを煽る。
缶の中身が半分になった頃、幾つかのつまみをテーブルに広げた。
僕は再び缶を傾け、横目に彼女の姿を時折盗み見る。。赤い眼鏡の目立つ彼女は、両手で缶を包み込むようにして持つと、ぽっかりと開いた口の辺りをじいと見つめている。なんの気もなしに酒を薦めてみたのだが、流石に逆効果だっただろうか。だが心なしか陶器のような白い肌に赤みが差しているようにも見える。少ししたら緊張も解けるかもしれない。
「ところで、貴方のお名前は?」
重苦しい空気をどうにかしたくて、僕は問いかける。彼女は缶の口から視線を上げると僕を真っ直ぐに見つめ、それからそっと逸らした。成程、言いたくはないということだろう。
「たった一夜の関係では、自分の情報を教える気にはならないか……」
「いえ、その……」
彼女はもごもごと、言葉を吐き出そうとし、飲み込むを繰り返している。
さてどうしたものか。僕も別段興味があるわけでもない内容であるし……。
「赤メガネ」
僕の言葉に、彼女は目を細める。
「いや、どうしても名前を言いたくないようだったら、あだ名でも付けるのがいいかなと思って。赤いメガネをかけているから、赤メガネさん。どうでしょう?」
突然僕の口にした言葉の意味がわかった彼女、もとい“赤メガネ”はとても不思議そうな表情を浮かべ、それから口の端をほんの少しだけ上げた。よく見ていないと分からない小さな変化だったが、どうやら肯定とみて良いだろう。
「僕の名前は……これで」
そう言って僕は手に持った缶を掲げた。
「ビールさん、ですか?」
「どうです?」
「あまり」
「それは残念」
一蹴されて僕は大げさに身体をのけぞらせる。ふ、と泡のような笑みが彼女の口から零れた。どうやら、失敗ではないらしい。
――赤メガネにビール。
なんとも奇妙な呼び名だが、少しでもこの居心地の悪い空間を和らげることができるなら、僕はこの名を受け入れよう。そう思った。
「改めて、ビールと申します」
その自己紹介はどうだろうと思ったが、向かいに座る赤メガネはとても可笑しそうに口元を抑えて笑っている。まあ、偶然とはいえ旅の同行者ができたのだ。降車までは友好的にしておきたい。
「明日の朝までの付き合いですが、どうぞ」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
からん。
缶同士のぶつかる音が、ツインの客室に響き渡った。
・
大体一、ニ時間だろうか、僕と赤メガネは酒を交わしながら歓談していた。
他愛もない会話を続け、買い込んだ酒を二人で次々に消化していく。それだけで十分に良い夜だと思えたし、赤メガネもそう思っているようだった。
窓の外はすっかり暗い色に塗り潰されていた。輪郭だけ残った山々と、暗い紺色をした夜空に半月が一つ、周囲を分厚い雲が寝転がっている。
まるで絵画みたいな風景だ。程よく酩酊した状態でそう思いながら、本日何本目かのビールを飲み下した。
向かいの赤メガネは火照って赤く染まった顔でにこにこと微笑んでいる。驚くほど白かった肌も、今では朱色に染まっていた。
とろんとした目元を時計に向けて、彼女はああ、と呟いた。
「随分と夜も深くなってきましたね」
「ですね、皆はそろそろ眠っている頃かな」
ふわふわとした口調の赤メガネにそう返して、僕は窓の外に目を向けた。
夜空に浮かぶ半月をじっと見つめる。分厚い雲が半身に掛かり、薄っすらと光を映すその姿は酩酊とはまた違う心地にさせた。
だが、その心地は、ここで終わった。彼女が終わらせてしまった。
「……ビールさんは、ご旅行か何かなんですか?」
ふと、互いに避けていた疑問に赤メガネは触れる。
「……違いますよ」
冷静な口調でそう呟くと、赤メガネはあ、と申し訳無さそうに目を伏せてしまった。僕は缶に残ったビールを一息に飲み干した後、彼女の姿をちらりと横目で見、それから首を横に振った。その後、間髪入れずに彼女に向けて言葉を放つ。
「君もきっと、そうなんでしょう?」
赤メガネは目を伏せて押し黙る。だが、やがて彼女は俯いたまま小さく頷いた。そうだろうとは思っていた。
とうとう僕らは、互いに触れたがらなかった柔らかい部分にそっと指をあててしまった。
押し黙ったままの赤メガネから視線を外し、僕は再び窓の外の夜景に目を向ける。流れるように過ぎ去っていくレールと、大きく見える星々の煌めく深夜。そのどれもが、あのビルに囲まれた街では見ることのできない景色である。
黙っている必要はないなと、せき止めていた言葉を開放することを決めたのは、果たして酩酊からか、それとも――。
「……僕は、夢に負けてしまった」
俯く赤メガネの方を見ずに答える。
「夢、ですか?」
「そう、夢だよ」
僕の言葉と共に視線を戻すと、彼女は漸く顔を上げた。
ずれた眼鏡を直す様子を見届けてから、少なくなったビールを一気に煽る。温くなって悪くなった喉越しに、僕は思わず顔を顰めてしまった。
「ただ自分の在り方が嫌で嫌で仕方なかった。閉塞的な空間の中で何ができるのかと。僕はきっと、もっと大きな場所で、大きなことができるに違いないと。僕はビルに囲まれた街にやってきた。大学生として、社会人として。必要とされ、恋人もできて、初めの頃は自分の存在がより開放的になった気すらしていた」
けれどね。僕は赤メガネに向かってそっと微笑んだ。それは幻想に過ぎなかったんだ、と続ける。
「見えない星を求めるのに疲れて、立ち止まっていても容赦なく迫ってくる生活を押しのけているうちに、思ってしまったんだ。ずっと目を背けていたこと、否定し続けていた事をね」
僕はそこで一呼吸置いた。
そして、囁くようにしてその言葉を、そっと口にした。
――○○○○○、○○○○○○○。
赤メガネは、口を閉ざしたまま僕を見ていた。チューハイの缶を両手で包み込むように持ったままそこに座っていた。
「……要するに、自分を信じることができなくなってしまったんだ。沢山自信を喪失しそうな出来事にも遭ったし、僕の在り方を否定されたこともあった。けど、指針だけは見失っていないつもりだった。挫折も、辛酸も、全て僕が進むためにあると信じ続けていた」
空になったビールを軽く振って肩を落とすと、立ち上がり、小型冷蔵庫を開けた。生憎ビールは底を尽きてしまったようだ。甘い酒も一応と思って買ってきたのだが、それも赤メガネによってすっかり消費されてしまっている。僕は嘆息すると残ったミネラルウォーターを取り出してキャップを捻った。
「その程度でと笑うかな。でも、僕は“その程度”を拭うことができなかった」
「後悔は……」
「え?」
「貴方の言う閉塞された場所に再び身を置く。その決断に、後悔はないんですか?」
漸く口を開いた彼女が口にした言葉を聞いて、僕は後頭部を掻いた。それから水をがぶがぶと飲んだ。よく冷えた水の滲みる感覚が、アルコールによる浮遊感を多少ではあるが覚ましてくれた。
「あるよ」
その言葉に、赤メガネは不思議と安堵を覚えたようだった。和らぐ彼女の表情に首を傾げながら、僕は再びソファに座り、そして続ける。
「この先、死ぬまで僕は後悔し続ける。唯一信じていたことに疑問を抱いてしまったのだからね。更に目を背けるような器用さも持ち合わせていなかった。勝ち続けなければいけない道で、足掻かなければいけない道で、僕は立ち止まってしまった。そんな奴が後悔からも逃げ出そうなんて許される筈がない」
まだ残る酔いの勢いもあってか随分と喋りすぎてしまった。まあ、彼女ともたった一夜の付き合い。今後会うこともないのなら、内情を曝け出しても問題はないだろう。
少なくとも彼女は僕と一夜以上の関係を望んでいないのだから……。
「残してきた恋人のことも含めて、僕はずっと後悔し続ける」
「その方とは、どれくらい?」
「ニ、三年程付き合っていたのかな。仕事が忙しくなって機会が少なくなっても、構わず傍に居続けてくれた。とても良い子だった」
「……恋人さんは、許したんですか?」
空になったペットボトルを軽く捻ると、ゴミ箱に放り投げる。ひしゃげたボトルは大きな弧を描き、ゴミ箱に飲み込まれ、姿を消した。
「いいや、それ以前に僕は何も連絡していないんだ。連絡も絶っている」
そう言って僕は電源の入っていない携帯を取り出した。もう、三、四日経つだろうか。今ではこれに電源を入れる勇気すらない。
赤メガネはそれを聞いて、目を大きく開いた。それまでの酩酊していた目とは別物のようだ。その瞳から、何故という問いが言葉でなくとも容易に掬い取れた。
じっとこちらを見つめる彼女の顔を見ると、僕は途端に怖くなって逃げるよう窓の外へ目を向けた。変わらない夜景に、どこか安堵している自分がいる。
「……逆に君はどうなんだ? 何故こんな地方へ向かう寝台列車に?」
誤魔化すような僕の問いかけに暫く、彼女は目を伏せる。時折こちらに視線を向けてくる辺り、どうやら連絡を絶っていることが気になって仕方ないらしい。
僕の語りによって幾分か酔いが覚めてきたのもあるのだろう。それまで触れるつもりのなかった互いの内情に手を触れてしまったことを多少なりとも後悔しているようにも感じられた。
赤メガネは暫く躊躇うようにしていたが、下唇をぎゅっと噛み締めると、漸く決心が付いたようだった。彼女は大きく息を吸って、吐き出す。
「――私は、残された側です」
奇妙な巡り合わせもあるものですね。彼女は付け足すように、そしてどこか僕を蔑むようにしてそう言うと、明らかに不快そうな顔をして僕を見据えた。
互いに黙り込んでいると、彼女は立ち上がり、包み込むようにして持っていた缶をテーブルの端に置く。
ずれた赤眼鏡を両手でくいと上げ、つまみで汚れたテーブルを片づけ始める。その間も、僕は彼女を見つめていた。いや、目が離せなかったという言い方のほうがいいのかもしれない。
「その、さ……。君の恋人はどうして君を置いていったんだい?」
夢のような時間は終わった。とでも言うように機械的な動きで片付けを始めた彼女に、僕は問いかけた。彼女はちらりと僕のことを見た後、小さく嘆息した。
「好きな人ができたから。彼はそう言っていました」
「好きな、人?」
「地元にずっと、人を残していたそうです。私は、その寂しさを埋める為に過ぎなかった。ストレートにそんなことは言わなかったけど、彼の曖昧な言い回しからそのくらいすぐに気付けました。でも、それ以上は語らなかった。だから、その言葉の先をちゃんと知りたくて、私はここに……」
購入時に入れてきたビニール袋に缶やゴミを詰め込むと、赤メガネはテーブルを畳んだ。時計はすっかり夜更けを示している。彼女は座る僕に立つように指示すると、手際よくソファを引き伸ばしてベッドに変形させた。
「シャワー、先に頂いてもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
赤メガネは礼をすると、部屋の奥に設置されたシャワールームに消えてしまった。曇りガラス越しに衣服を脱ぎ捨てる彼女のシルエットが見える。肌色の輪郭が露わになると、豊満なそれが姿を現した。暫くの間目を離すことができなかった。が首を振ると僕はベッドの上に寝転がった。座っていた時よりも列車の振動を感じ、レールの継ぎ目を通る毎に起きる特徴的なかたん、という感覚に、僕は顔を顰めた。
向こう側からは、さらさらと雨の音が聞こえ始めた。誰かを濡らすその雨に耳を傾けながら、僕は天井の照明を見つめる。
置いていかれることがどれほど辛いことなのかは、重々承知している。連絡を断ち切った恋人は今、恐らく戸惑いと怒りと、そして哀しみを覚えているのだろう。どうしてこんなことをするのかと、問い詰めたい気持ちで一杯かもしれない。
でも、と僕は手を照明に重ねた。
――理由を知った彼女が、果たしてどのような答えを抱くのか。とても、とても……。
否定され、罵倒され、理解されなかったら、いいだろう。そのまま何も考えずあの土の匂いの充満する町へと戻れる。家業を継いで、細々と後悔を背負ってしぶとく生き続けよう。
だが、若しも受け入れられてしまったとしたら……。
理解され、苦しかったろう、辛かったろう、さあ、私の腕の中へおいで、慰めてあげよう、ゆっくり眠るといい。そうやって折れた僕に手を差し伸べてきたら……。きっと僕は後悔すら忘れどこまでも堕ちていく。いや、もしかしたらまた立ち上がる気力を持てるかもしれない。だが、それは果たして……。
彼女の言葉一つで僕の在り方が揺れてしまいそうなことが、とても怖くてたまらない。
甘いと思う。全てに決着をつけることのできない自分は、臆病者なのだろう、何一つとして言葉を返すことはできない。都会を夢見て、故郷を過去として嘲た男が帰ってくるのだ。これほど滑稽な話はない。
だからこそ、せめて後悔で苦しんで、過去に身体を、自らの骨を沈めたい。その為に、心の拠り所が、その反応が、とてつもなく脅威なのだ。
シャワールームの扉が開いて、赤メガネが出てきた。湯によってすっかり血色の良くなった色をした肌に真っ白いバスタオルを巻いて出てきた彼女は、僕を見てそっと微笑む。彼女はその姿のまま空いているベッドに座り込んだ。
「シャワー、お先に頂きました。ビールさんも是非」
そう催促されたがどうにも入る気になれない僕は、ありがたいけれど、と前口上とともに断りを入れた。先程から眠気がきているというのも理由にあった。
あと、そう。目の前の彼女の姿に現実味を感じられないのだ。湯気を溢れさせ、タオルたった一枚という無防備な姿で僕の目の前に座っているのに、全く欲情できずにいる。彼女自身にその気がないことは分かるのだが、それでも一種の生理現象としての肉体反応くらいは起きてもおかしくはないだろうか。
湯に依って濡れた髪をもう一枚の小さなタオルで拭いている。そのタオルで髪を梳く毎に胸元の膨らみが強調され、手入れの届いた腋がちらりと見え隠れする。その一挙一動にどきりとはするのだが、しかしやはり生理的な反応はおろか、強い性的衝動も起こらない。吐く息も熱を帯びていない。
安定し“過ぎて”いる。その一方で睡魔は刻一刻と僕の意識を削りとりつつ在った。
「○○○、○○○○○○○○○○○」
赤メガネは瞼の落ちかけている僕を見て微笑むと、そう言った。その言葉に返答をしたくて堪らないのだが、抵抗虚しく、僕の意識は完全に瞼の奥の暗闇へと引きずり込まれてしまうのだった。
――
夢を見た。
肉体の感覚も、意識もはっきりとしている夢だ。こういうのを明晰夢と言うのだろうか。
それにしても、はっきり夢と理解できている状態というのは、どうにも心地が悪い。周囲を見回してみるが、僕の見知っている景色ではない。故郷に似通った点があるものの、どうも違うようだった。
青々とした木々の生い茂った山に囲まれた、色合いの豊かな盆地で、古びた家の並びが目立つ。坂道が多く、少し細い道を行くだけで田が姿を現す。駒やボールを片手に抱えた少年たちが、僕の両側を通って、後方に消えていった。いや多分、消えていったのだろう。彼らは僕の両脇を通るためだけに現れた夢の登場人物だ。なら通った先に道はない。彼らは役目を終えた。先は存在しない。なぜならこれは夢なのだから……。
僕は暫く町を入念に見て回った。どこか影の落ちる静謐な空間を。
とにかく、改めて自分の故郷ではないことははっきりした。なら果たして……。経験や見てきた景色が夢として具現するとしたならば、これまで見た景色や経験が混ぜこぜになってこの空間を生み出してしまったのだろうか。
「一緒になれることが嬉しい」
「僕もそうさ、君と居られることがどれだけ嬉しいか……。一人は、とても寂しいからね」
不意に聞こえた男性と女性の甘い声と共に、僕の景色は変化した。まるで紙芝居のように一瞬にして、たった一人僕を残して。
盆地から一転、今度はグレーの目立つビル街に景色は移動した。
スーツ姿の人ごみの中に立たされた僕は、思わず生唾を飲み込む。たった一人だけ服装の違う自分が、この世界ではまるで異物であるような気がした。
突然、彼らは僕を導くように道を開け始めた。
まるでモーセのように割れていくスーツ達に戸惑いながらも、それらを掻き分けるようにして僕は進んでいく。それが正しいような気がして、この先にはまだ何かがあるような気がして……。
「ずっと一緒だ」
「私も、貴方をずっと居たい。傍に居たい」
先ほどよりも大きな二人の甘い声に、僕は眉を顰める。
その次の瞬間には、再びあの影の落ちた、しかし色合い豊かな盆地に僕は立っていた。
僕の両脇を少年が走り抜けていく。不思議と、彼らは成長していて、よくよく見てみると、右側を抜けていったのは女の子だった。幼い姿は短髪で少し見分けがつかなかったが、どうやら少年と少女、という扱いが正しいようである。
僕は再び歩き出す。木々は青々としていて、吹き込んできた風を受けてざわざわと囁くように揺れている。すぐ側の路地に入り込むと、今度は少年と少女が両脇を走り抜けて、僕が向かおうとしていた先に走り去っていってしまった。先程より成長しており、少年は学生服を、少女は丈の長いスカートとセーラー服を身に着けていた。
僕は二人の行く先に向かおうと、一歩足を踏み出す。
「僕は、とても臆病な人間だよ」
「私は、そんな臆病な人でも、寄り添わないと駄目なのよ」
力ない二人の言葉が聞こえた。
四方をビルに囲まれながら、気がつくと僕は夜空を見上げていた。星がとても遠い。月でさえも遠くに感じてしまう。ビルの高さが、僕の小ささを改めて示しているようで、僕がどれほど背を伸ばしたって星も月にも届かないと示されているようで、胸が苦しくてたまらなくなった。
ふとビルの方に視線を移すと、明滅を繰り返す窓から彼らがこちらをじっと見つめていた。かれらは列を成しており、ふと入り口に目を向けてみると、幾人もの列がずっと続いている。
窓から覗く彼らは一階、二階と移動しては階下を見てにやりと笑みを浮かべている。まるで可能性を手にしているとでも言わんばかりのその笑みは、しかしどこか疲弊しきっているような気がした。
刹那、遅れて登る一人が窓から落ちてきた。月の光すら満足に届かないここに着地すると、かれは真上を見上げ、やがて地に伏した。ずぶずぶと地面に沈んでいくかれの姿を見て、僕は思わず手を延ばすのだが、かれはこちらをじっと見つめるだけで、やがてコンクリートの硬い地面の中に一人、沈み込んでいってしまった。
「ずっと待たせてごめん」
「いいの、ずっと、ずっと待つつもりでいたから」
二人の声がした。
うんざりとしながらも僕は周囲を見回してみた。
先ほどまで青々と揺れていた木々が、影を落としていた、しかし色合いの豊かな町並みが、現れた遮断機が、自分以外の全てが、セピア色に染まっていた。
僕は遮断機を覗きこみ、そこをくぐり抜けようとしてみる。単純な、好奇心からであった。
その時、肩に誰かが触れた。夢のなかで触れられたのは初めてで、その温かみのある感触に思わずほっとし、それから全身に怖気が走った。
振り返ると、赤メガネが、笑みを浮かべてそこに立っていた。彼女は僕をぐいと引っ張ると、遮断機から強引に遠ざける。
「君は、どうして……?」
赤メガネは何も答えなかった。尻もちをついた僕を尻目に、彼女はセピア色に染まった景色を懐かしそうに眺めている。
暫くして、彼女はそっと前方を指差す。
そこには、二人の男女が立っていた。女性が男性の腕に手を回し、顔を見合わせて柔らかな笑みを浮かべて談笑している。ああ、両脇を通り抜けていった二人だ。確信はないけれど、ぼんやりと僕はそう思った。
遮断機越しに僕らは二人の姿を見つめている。彼らは遮断機が降りたのを見て―先ほどまで降りていたはずなのにいつ開いたのだろう―、そこに立ち止まった。
ふと、男性がこちらを見た。彼らもまた、赤メガネ同様僕を認識できるのだろうか。
だが違った。彼の視線は、赤メガネに向けられていた。男性は彼女に気づいた瞬間、さあっと恐怖の色を顔に浮かべた。隣では状況を理解できないでいる女性が首を傾げた。
赤メガネは一瞬ちらりと僕の方を見ると、眠る寸前に呟いた一言を再び口にした。
――○○○、○○○○○○○○○○○。
彼女は一歩を踏み出し、やがてそれは強歩となり、遮断機をくぐり抜けてレール上に立つと両手を広げた。そう、まるで翼をひろげるみたいに、だ。
男性はすっかり血の気が引き、女性は顔を引き攣らせている。
警報のけたたましい音が鳴り響く。
セピア色のランプが回る。
しかし赤メガネは動かない。
やがて右側から速度を出した列車が滑るようにしてやってくる。
僕はその列車の姿を見て、驚愕した。
紛れもなく僕が乗っていたものだ。ネイビーブルーをしたあの車体が、流れるようにレールを滑り、そして――
線路に立つ彼女の身体を、いとも容易く四散させた。
夢は、そこで終わった。
――
電車は時間通りに目的地に到着した。プラットフォームに滑りこむようにして止まるのを窓から見て、僕は荷物と共に下車する。
昨夜のあの重たい眠気はもう無かった。然程睡眠に時間を割いたつもりはないのだが、意識はとてもすっきりしている。
重たい荷物と共に降りていく乗客の群れの中で、僕はふと、自らが一夜過ごした寝台列車に目を向けた。ネイビーブルーの車体は、何度もこのレールを走り続けてきたのだろう。手入れこそしているが、それでも大分年季が入っている。
僕は電車から目を離し、再び改札へと向かう。
山々に囲まれた町並みは、どこか淋しげで、影を落とすように、しかし色鮮やかに僕の目に映っていた。
どうしてだろう。呼吸が楽になった気がして、僕は一度深呼吸をした。
――朝起きた時、赤メガネは既に姿を消していた。
「ああ、貴方がお泊りでしたか」
改札を通るとき、ふと気になって駅員に「ツインに偶然二人で乗りあわせてしまったのだがその相手がいなくなった」と簡潔に伝えてみると、彼は慌てて奥へと行ってしまった。暫く待っていると、駅長がやってきて、やはり今回も、と小さく呟き、渋い顔を浮かべていた。
彼は手にしていたファイルを掲げ、少し話がしたいと言った。僕はそれに了承の意を示した。
通された部屋は、駅員達の休憩室なのだろう。そんな小さな狭い個室に僕と駅長は二人、向かい合うようにして座った。髭を生やした中年男性は、帽子を脱ぐと白髪混じりの頭を僕に向けて下げた。
「この度はどうも……」
「ああ、いえ、特に何かあったってわけではないですから。それで、皆さんどうやら状況を理解しているようですので、よければお話願えますか?」
ええ、そのつもりです。と白髪混じりの中年男性は頷くと、手にしていたファイルを机に出す。差し出されたファイルを受け取り、開くと、そこには彼女と瓜二つ、いや、同一人物であろう女性の姿が映っていた。赤い眼鏡の若い女性。赤メガネ。
「ところで貴方は、帰省か何かで?」
「いえ、実家に戻るつもりでして……」
「なるほど……」
少し居心地悪気に言ってみたのだが、彼はただ頷くだけだった。
僕は暫く赤メガネの写真を見た後、次のページを捲ってみた。そこには幾つかの新聞記事がスクラップされていた。小さなコマに小さな写真と若干の文章。見出しにはどれも人身事故の文字が印字されている。
「その記事で大体理由は察していただけたと思うのですが、あの客室は、彼女の命日にだけ予約が埋まります。ただ、他の日も受け付けているし、乗ることも可能になっています。しかし絶対に、あの部屋は命日以外に人が入らないのです」
「……ちなみに、彼女はこの寝台列車に轢かれたということでよろしいですよね?」
彼は頷く。
「彼女は貴方の乗ってきたものと同じ寝台列車に乗ってきていました」
「ツインの個室?」
「いえ、ただ、未使用の寝台列車の切符が確認されています。恐らく帰路のものでしょう。そちらが、貴方の泊まっていたあの……」
駅長の話を聞きながら、僕は再び写真に目を戻す。笑みを浮かべる彼女の姿が、声が、仕草がはっきりと思い出される。肌も、髪も、声もどれもとても綺麗な女性だった。
「彼女の自殺理由も、その様子だとはっきりしているようですね?」
「ええ、これまでにも偶然あの客室に乗り合わせたお客様がいらっしゃいます。その方達が必ず同じ夢を見るそうで、それを知って以来、ここでご説明ができるようにしているのです」
「浮気、されていたんですよね。彼女は」
僕の言葉に、駅長は目を見開いた後、深く頷いた。
「その通りです。都会の方でご一緒になった男性に突然消えられてしまい、追いかけるようにして彼女は彼の故郷にやって来た。恐らく、その時に彼女は見てしまったのではないかと」
それ以降は、貴方が一番知っているでしょうと彼は告げる。確かに僕の方がはっきりと、いや鮮明に覚えている。あの夢は、彼女の想いであった。しかし、何一つとして悪意も、憎しみも、苦しみも、存在しなかった不思議な夢だ。
暫くスクラップを見つめていると、ああ、と駅長は僕に声をかけた。そして、穏やかな顔をして口を再び開いた。
「あの部屋にお泊りになった方々は、皆そういう顔をするのです。恐怖や、怒りや、哀しみの顔を浮かべてここを訪ねてきた方は、何故か一人として居ません」
不意に言われた言葉に、僕は顔をあげる。
「そして、これも偶然では無いのでしょう。決まって実家に帰る方々があの客室に泊まる」
駅長はそれだけ言うと、ぼんやりと窓の外を眺めていた。木々の生い茂る青々とした景色を。
「……彼女は、何故寝台列車に残ることにしたのでしょう」
男か、もしくは女に付き纏い続けることもできた筈だ。全てを忘れて消えることも、呪い続けることだって……。なのに何故、彼女はあの客室に……。
「さあ、残念ながら駅員に体験した者はいないのでなんとも……」
彼は申し訳なさそうにそう言葉を返す。
それから、窓の外を眺め、ぼんやりと小さな声で呟いた。
「彼女は、あの客室で、一体何を想い続け、待ち続けているのでしょうね」
その問いに、僕は何も答えることができなかった。
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改札を通って駅を出ると、視界にとても穏やかな景色が広がった。人通りも程々で、慌てる様子もなく、自然が点在するそこは、僕の目にはとても優しく感じられた。懐かしい匂いがする。これは、なんの匂いだったっけなあ。
さて、と僕は時刻を確認する。ここから普通電車を乗り継ぎ、更に山奥へと入って行く事になる。彼女の見た夢のような盆地に、僕の家は存在するのだ。父や母への連絡だけは済んでいるから、夕方に到着する頃には、駅前に迎えが来ていることだろう。
だが、夕方では遅いな、と僕は携帯を取り出す。何も映さない画面に映る僕自身をじっと見つめ、奥歯を噛み締めると、電源を入れた。
彼女が何をしたくて未だにあの場所で時を止め続けているのかは、分からない。だが、彼女が抱いていた想いは、きっとあの眠る寸前の一言に集約されている気がした。
僕と彼女は、きっと境遇こそ違えど、同じように時を止めているようなものなのだ。唯一違うとすれば、その時を動かすことが可能だということ。大きな変化は起きないけれど、彼女の諦めたたった一歩、僕は踏み出すことができるのだ。
電源のついたディスプレイには夥しい程の着信と、メールが表示されていた。その全てに目を通すことはできないし、多分その内容に対する満足のいく返答はできないだろう。
僕は意を決し、恋人の着信にカーソルを合わせると、深呼吸を一度、それから大きく息を吸うと、着信ボタンを押し、耳に当てる。
そこでふと気づく。そういえば、彼女の名前は結局なんだっただろう。不思議とスクラップにも書いていなかったのだ。
――いや、いい。
僕の中では、赤メガネでいい。
ビールと赤メガネ。それくらいが、彼女と僕には丁度良い距離だ。
『……もしもし』
スピーカーから聞こえた恋人の声はとても低くて怖かった。けれど、その声がとても懐かしく、そして愛おしく感じられた。
ああ、そう、僕がとても怖くてたまらなかったのは、これなのだ。
了