空が白み始め、雀が路傍を元気に飛び跳ねている。それに引き換え夜通し歩き続けていた下之介は、血の気のない顔で肩で息をしている。あごが出て無様な格好だ。へとへとになりながらも足を止めようとはしなかったのは、浪士隊に追いつかれやしないかという恐怖があったからだ。しかしそれも限界が来た。
朝日の眩しさに目を細める。山道が急に開け民家が見えてきた。どうやらここが西国街道の宿場町、芥川宿(現在の大阪府高槻市辺り)のようだ。立ち上る炊きたての飯の香りがすきっ腹にしみる。下之介は誘惑に負け、倒れこむように|旅籠《はたご》にたどり着いた。部屋に案内されるとそのまま布団も敷かずに眠ってしまった。こんなことで本当に江藤新平に追いつけるのだろうか。
下之介の捜索を中断して戻ってきた土方は拠点として借りている山崎宿(現在の京都府山崎町から大阪府島本町辺り)の|旅籠《はたご》に入り、すぐさま二郎を呼び寄せた。
一晩中捜索を続けていたにもかかわらず、土方の顔には疲れの色は見えない。二郎は姿勢を正して土方の前に座った。
「上中下之介の捜索は打ち切り、我々はこれより出立し屯所に帰還する。これ以上京を留守にするわけにはいかないからな」
土方の命令に二郎は食い下がった。
「そんな。京の守護が我々の本分であることは百も承知です。しかし下之介はまだ遠くには行っていないはず。これを逃す手はないでしょう」
「早合点するな。何のためにお前を呼んだと思っているのだ。お前に上中下之介の追討を命じる」
「私一人でですか。もっと場馴れした者のほうが良いのでは」
「いや、お前が適任だ。お前、上中下之介が仇だというじゃないか」
「それは見物人が勝手に言っただけで……」
「いいか。仇討ちとしておけば、何かと都合が良い。仇ということにしておけ」
相手は一人、しかも剣の腕は素人。適わない相手ではない。さらに屯所を離れることで男装がばれる危険はなくなる。考えてみれば良いことずくめなので二郎は追討の任を受けることにした。
「分かりました。仇の下之介を必ずや討ち果たして見せましょう」
快諾して、すぐに身支度を整えながら、席を立つ。
「待て」
鋭い視線を背に受けて、二郎は立ち止まった。冷たいものが首筋を伝っていく。ぎこちなく振り返る二郎に、土方は言葉を続けた。
「そんななまくらでは、また奴にへし折られるぞ。これを持っていけ。志津だ」
土方の声が柔らかくなったことで安心したせいか、二郎はつい間の抜けた質問をした。
「私はあまり刀剣のことは鈍いのですが、この刀は良いものなんですか」
「分部志津と言やぁ正宗十哲の一人、志津三郎兼氏の鍛えた名刀だぞ。見ろ、この美しい板目肌。この乱れこんだ切っ先の刃文。二尺三寸三分(刃渡り約70センチ)の|大磨上《おおすりあ》げ|無銘《むめい》(刀の寸法を短くするため短く切り落とすことを磨上げると言い、銘が入っていた部分まで切り落としたものを無銘という)だから、小柄なお前でも扱えるだろ。あとお前でも追いつけるように馬を買って、外に繋いであるから、乗っていけ。最後に剣術を指南してやる。刀ってのは二三人も斬りゃ、脂がまとわりついて斬れなくなる。だが、ただ突くだけならできる。斬るのには技が要るが、突きは素人でも打てる。手前も無心になって突け。できるだけ早く刀を繰り出して、体当たりするように突進しろ」
そう言いながら土方は自分の差両を二郎の兵子帯にねじこんだ。交換した二郎の刀を引き抜き、土方はそれをかざして言い放つ。
「突きの構えをとってみろ」
二郎は両手で包丁でも持つように構えて、土方をがっかりさせた。
「馬鹿、刃を立てる奴があるか。それじゃ、あばらでつかえて心の蔵まで貫けねえ。こうやって刃を寝かすんだ」
土方は手本を示すように二郎の眼前に刀を突きつけた。心臓を鷲づかみされるような殺気。土方に斬られていった浪士たちの気持ちを味わった気がした。二郎は刀をありがたく頂戴し、一礼してから逃げるように走って表に出た。
土方が言っていたように外には、馬丁が栗毛の見栄えのする馬のくつわを取っていた。馬丁から手綱を受け取り、|鐙《あぶみ》に足をかけて一息に鞍にまたがる。馬丁が感心してくれたが、二郎の故郷ではヤギやブタを飼うのが一般的だったから動物を怖がるということがなかった。
すぐにコツをつかんで早足から駆け足にさせる。二郎は快速に飛ばしながら、土方がなぜ自分に身に余る大任を与えたのか考えた。もしかすると土方にも男装を見抜かれているのかも知れない。だとすると難題を与えて、体よく京から追い出されたのかも知れない。もはや自分が生きていくためには、下之介を討ち、妖刀を携えて凱旋するしかない。黒いたてがみをなでながら、二郎は決意を新たにするのだった。
鳥の雛の鳴き声のやかましさに目を覚ます。軒下につばくろの巣でもあるのかもしれない。気を失うように眠ってしまってからどれほど時間がたったろう。痺れの残るほほを擦ると畳の目の跡がくっきりついている。
井戸場で顔を洗っていると、|旅籠《はたご》の仲居に昼飯はどうするのか聞かれた。
「昼飯の前に朝飯がまだなんだが」
「いやですよ、お客はん。寝ぼけてはるんですか。もう未の刻(午後2時)ですよ」
「未の刻だって。なんで起こしてくれなかったんだ。もう半日無駄にすごしてしまったじゃないか」
仲居は下之介をなだめようと、気になること言った。
「急いでお出でなら、旅の達人に学んだらどうです」
「そんな人がいるのか」
「おりますとも。ちょうどお客はんの真向かいの部屋に泊まっている方は、二十六人も弟子がいる大先生だそうです。なんでも三日で伊勢と江戸を往復するといううわさです」
伊勢から江戸までどんなに早い飛脚でも片道だけで三日かかってしまう。それだって一人でではなく駅伝の要領で走ってである。一人で伊勢と江戸を三日で走破することなんてできるわけがない。なんとも胡散臭い話だったが、わらにもすがる思いで部屋を訪ねた。
気配でまだ外出はしていないようなので、宿帳で調べた名前で呼びかけてみる。なんともふざけた名前だと、下之介は自分の名前を棚に上げて思った。
「竹川竹斎先生。少しばかり話を聞かせていただけませぬか。」
三度目の呼びかけで、根負けしたのか部屋のふすまが開かれた。目の前には眼窩のくぼんだ初老の男が立っている。隠居した商家の旦那といったいでたちだ。
「どうせ貴公も神足歩行術を習いに来たのだろう。断る」
どうやらその神足歩行術とやらが飛脚を超える速さの秘密らしい。ますます胡散臭いと思った下之介はそっとふすまを閉じた。
じじいの長話でさらに半日棒に振るわけにはいかない。|旅籠《はたご》を出ようとすると、再びふすまが開け放たれた。
「話はまだ終わっておらぬ。否、始まってすらおらぬ。良いか。なぜ神足歩行術を教えないかというとだな、黒船じゃ。あの黒船がいったい何日で函館から長崎へ行くか知っておるかね。たった一日じゃ。そういう世がやってきた。いまさら、どんなに歩いても疲れない方法などは時代遅れだ」
「いや、まったくその通り。それでは失礼いたす」
「最後まで聞けと言っておる。伊勢の商人にすぎないわしが、黒船に詳しいのがなぜか分かるか。わしがかねてから目をかけていた勝麟太郎が軍艦奉行になったからだ」
年寄りというのは若者に話したいことがよほどあるらしい。堰を切ったように聞いてもいないことを次々と語り始めた。こうなれば相手を怒らせて話を終わらせようと、下之介は話に割り込んだ。
「あんたのような一介の商人が軍艦奉行と懇意なわけがない。拙僧を無学者と侮ってそのような作り話をされるのだろう。事情があって蔵書を燃やされてしまったが、本屋にある書物はあらかた立ち読みしているから、時世の流れに疎いあんたの弟子のようには騙されぬぞ」
「えらい。わしも勝麟太郎も若い頃は本が買えなくて、よく立ち読みしたものじゃった。気に入った。神足歩行術、伝授いたそう」
都合の良い部分だけしか聞いていないのか竹川はすっかり下之介を気に入って、走り方は平坦な道、上り坂、下り坂、砂地など地形によって変わってくる云々と講義を始めた。
ここは下手に逆らうよりも隙を見て逃げ出したほうが良い。算段をつけた下之介は竹川に提案した。
「聞いているばかりでは、どうも要領を得ませぬ。実際に走り方を見せてもらいたい」
「うむ。一理ある。ではついて参れ」
そういうと竹川は往来に飛び出していった。下之介はそれを追いながら、逃げる機会をうかがう。
「もっとへそに力を入れんか。気は丹田で錬られる。腹をもそっと気遣って走れ」
みぞおちをたたかれ、檄が飛ぶ。
「これが神足歩行術ですか。これなら飛脚のほうがよっぽど早い」
下之介の言うとおり、竹川は次々と後ろから来た飛脚に追い抜かれていく。しまいにはただの旅人にも抜かれてしまった。
「焦るでない。最初の一里(約4キロ)は体の凝りをほぐし、ゆっくり走りなさい。腰の凝りをほぐすことを大ゆるみと言い、ひざの凝りをほぐすことを小きざみと言う。体の動きをしなやかにして、滞りなく足先に伝達する。これを千鳥車言う。さすれば無駄な動きがなくなり、己の体が転がる球のように重心を保たれると心得よ」
下之介は話も聞かずに、前を走る飛脚の動きを目で追いながら、腰をひねらず腕を振らず足音を立てずに走るなんば走りをまね始めた。このまま竹川をおいて逃げてしまおう。歩調を速め、いっきに差をつける。もう振り切れただろうと振り向くと、すぐ後ろを竹川がつけていた。まったく息を切らしていない竹川はそろそろ一里だからと早足に移る。
「次は掛け声を教える。平地では、サササ、ザザザ、オイトショと言いながら走ると良い。上り坂ではマダマダマダマダと言う掛け声に合わせて走る」
竹川は言い終わる頃にはもう前を走る飛脚を抜き去っていた。ようやく下之介は神足歩行術の実力を認めて、真面目にに教わる気にになった。
習い始めて一刻(約二時間)がたっても下之助はまったく疲れてはいなかった。郡山本陣の椿の木の新緑を楽しむ余裕もあったぐらいだ。自分の体が昨日までの疲れた体から生まれ変わったようだった。郡山宿(現在の大阪府茨木市)を抜けたからすでに三里(約12キロ)は走っていることになるがペースは落ちず、それどころかむしろ加速していた。
下之介が走ることに快感を感じ始めた頃、それをかき消すように無粋な馬のひづめの音が近づいてきた。下之介が気付いたのと同時に二郎も気付いたように馬上から叫んだ。
「とうとう仇を見つけたぞ。上中下之介、神妙に刀を差し出せ」
日もだいぶ傾いていると言うのに、仇討ちと聞いて物好きな連中がすぐさま沸いてきて、二郎を応援し始めた。馬を駆る二郎はどんどん差を詰めていく。どんなに神足歩行術が速くたって馬より速く走れるわけがない。あきらめかけている下之介を励ますように竹川は掛け声をかけながら併走する。
「サササ、ザザザ、オイトショ。サササ、ザザザ、オイトショ」
二郎が二里追いかければ、下之介は一里逃げる。差は縮まっていくのに、アキレスと亀のように下之介は二郎から逃げ続けた。ところがそんな下之介をあざ笑うかのように、天まで続いているのかのような険しい坂道が目の前に広がってきた。
「観念しろ。」
「マダマダマダマダ、マダマダマダマダ」
下之介は今度は自分から掛け声をかけた。ふいに、野次馬から歓声が上る。ついに二郎が下之介に並んだ。
ところが、二郎の馬が舌を出してへばってしまった。全速力で心臓破りの坂を上るのは無理だったようだ。見物人からは落胆の声と、馬に競り勝った下之介への賞賛の声と両方聞こえてきた。
坂を上りきった下之介は一番の恩人を探す。竹川は坂の手前の所にいた。いつの間にか追い抜いていたようだ。
「わしの教えることはもうない。これから伊勢へ帰る」
下之介も叫び返す。
「今からですか。もう日が落ちますよ。」
「わしを誰だと思っておる。ここらは庭みたいなものじゃ」
そういうと竹川の姿はあっという間に小さくなった。