遠くの山がかすかに色付き始め、稲穂が|頭《こうべ》を垂れている。見渡す限り赤と黄金色が目の中に飛び込んでくる。あれほど拒まれてきた故郷の肥前佐賀藩に、たった一枚の紹介状を番所で見せると易々とを通された。今までの苦労は何だったのかと思うほど、あまりにあっけなく下之介一行は実家に帰りついたのである。
なかなか踏ん切りがつかず、下之介は小さな門構えの前で立ち止まる。下級藩士の邸宅としては貧しい部類に入るのだろう。門の朽ちた横木が今にも崩れ落ちそうだ。
だれも取次ぎに出てこないところを見ると、|中間《ちゅうげん》、小者、下女を雇う余裕もないのだろう。仕方なく下之介たちは勝手口に回ってみると、四十過ぎの女が軒に洗った着物を干していた。下女かと思い下之介が声をかける。振り返った顔には見覚えがあった。
「母さん。」
「あんた、下之介かい。父さん来とくれ。あの子が。下之介が帰って来たよ。」
下之介の手を引いて、母は勝手口から座敷に上げる。土間で爪楊枝を削っていた下之介の父、|上中下之丞《かみなかしものじょう》がのそりと奥から顔を出す。
「なんだ。母さん。大声を出して。」
「寺に預けた下之介がこんなに立派になって帰ってきたんだよ。」
五つのときに叡山に預けて以来の対面だった。どちらが自分の息子か分からず、|下之丞《しものじょう》は下之介と二郎の間をぼんやり見ながら聞いてみた。
「お前さんが下之介か。大きくなって。こちらの方は。」
「拙僧の弟子です。」
「誰が弟子だ。」
刀持ちをやらされている二郎が横から口を挟む。
「付き人のようなものです。」
「付き人でもない。」
怒った二郎はそのまま席を立ち、門から飛び出した。あわてて下之介が追いかけると、門前で二郎は妖刀を抜いて待ち構えていた。
「刀はこちらの手中にあるんだ。なにも貴様の茶番に付き合う必要はなかった。ここで切り捨ててくれる。」
「まあ、待て。話を聞け。」
「聞く耳持たぬ。」
「弟子が師匠を殺せば、主人殺しとして重く罰せられるぞ。」
「聞かぬ、聞かぬ。」
「なんでも|鋸挽《のこぎりび》きの刑らしい。罪人を身動きできぬよう土中に埋めて路傍にさらし、行き交う人々が置かれているのこぎりで首を挽くのだそうだ。」
「げ。そんなむごいことを。」
下之介は実際に|鋸挽《のこぎりび》きが行われたのは江戸時代以前までで、いまでは|形骸《けいがい》になりつつあることを知っていたが、あえて黙っていた。
すっかり意気消沈した二郎を連れて、下之介は邸内に戻った。下之介が急に出て行ったので両親は心配そうにしている。
この日は家族総出でもてなされ、心行くまで楽しんだ。料理は質素なものであったが、貧乏な上中家にとっては精一杯の歓待だった。
道中の疲れに加えて、酒が入ってすっかり良い気分で下之介は寝入ってしまった。下之介の母親がかいがいしく布団を敷く。二郎の布団も隣に敷いてくれたが、下之介のいびきがのせいでまったく寝付けずにいる。二郎は音もなく刀を引き抜き、刃を下之介の首筋にあてがい、|呟《つぶや》く。
「よく敵の前で寝ていられるものだ。」
二郎が少しでも手に力を込めれば、すべてが終わる。
「……なにもかも、終わりだ……」
二郎ははっとして、刀を戻した。
「起きているのか。」
下之介は何も答えず、寝息を立てている。どうやら寝言だったらしい。
「……ほこりっぽい……熱……息苦しい……」
布団を跳ね飛ばし急に苦しみだす尋常ならざる様子に、二郎は下之介を揺さぶって起こした。
「しっかりしろ。|魘《うな》されて、なにもかも終わりとか言っていたが、どんな夢を見ていたんだ。」
「夢か。何か大切なことだったようだが、思い出せぬ。」
二郎は刀を鞘に納めながら、言い訳がましく言った。
「この刀、本当に妖刀かもしれぬ。」
「それはどうじゃろう。わしはもともとよく|魘《うな》されるたちでな。いや、待て、確かに前に|魘《うな》されたときもその前も清河八郎と会っていたときだな。妖刀が近くにあったのは間違いない。」
二郎は思わず刀を落とした。
「おっと、あまりぞんざいに扱いなさんな。もしかして今更怖くなってきたか。」
「ば、ばか者。怖くなどない。」
「無理するな。男装なぞせずにそうやって|女子《おなご》らしくしてれば、まだ嫁の貰い手があるぞ。」
「くぅ、また馬鹿にして。」
「そういや、まだお主の本名すら聞いていなかった。二郎は変名(偽名)なのだろう。」
「ちるー。」
下之介は予想外の返答に聞き返した。
「チルーと聞こえたが、こりゃ驚いた。随分と変わった名じゃな。どういう字を書くんじゃ。ここに書いてみてくれ。」
下之介が懐から取り出した小冊子に二郎は「新垣鶴」と大書した。
「ほう、鶴と書いてチルーと読むのか。こりゃ変わっている。」
「変わってなどいない。琉球ではありふれた名だ。」
「そうか、|鶴《ちるー》は琉球の出だったか。もう目が覚めてしまって眠れそうにないから、故郷の話など聞かせてくれぬか。」
「なぜ私がお前のために|寝物語《ねものがたり》をせにゃならんのだ。」
「拙僧が寝るまででいいぞ。」
しぶしぶ|鶴《ちるー》は思い出話を語り始めた。すぐに眠らせようと冗長になんの脚色もせずに話したが、これが存外面白く、結局下之介が寝付いたのは空が白み始めてからだった。
下之介が起きるとすでに父は外出していた。お勤めに登城しているそうだ。父は隠居もせずに城勤めを続けていると、茶碗を片付けながら母は言った。
暇をもてあまして下之介は書棚にあった|葉隠《はがくれ》を読み始めた。
「お前には遠慮というものがないのか。」
「我が家で何を遠慮することがある。」
「親しき仲にも礼儀ありだ。」
「まあ、そうカリカリせずに|鶴《ちるー》も読んでみると良い。なかなか良いことが書いてあるぞ。」
「新撰組に士道の説法とは噴飯ものだな。」
「はて、新撰組にまっとうな武士のなどいたかな。」
「く、確かに半農や薬売りの出のものもいるが、だからこそ武士であろうとしている。腑抜け揃いの旗本より、よっぽど武士らしいと思うが。」
二人の険悪なムードを察して、母親が話しに割って入ってきた。
「ところで、下之介は何か用事があって帰って来たんじゃないのかい。こんなにのんびりしていていいの。」
さすがに寺を追い出されたとは言いにくく、何も言わずに紹介状を見せた。
「お殿様の名前が書かれてる。どうしたのこれ。」
「江藤という人が拙僧らを殿様に会えるように紹介状を持たせてくれたんじゃ。」
「なんと恐れ多い。早く会いにお行き。」
「いや、今日はもう遅いから、せっかく帰省したことだし、墓参りにでも行って来るよ。」
母親の顔はとたんに曇り、明日必ず行くように念を押した。
最近花開いた庭の菊と数本の彼岸花を持って、二人は家を出た。教わった通りの裏山の道を上っていく。途中、本草学に詳しい|鶴《ちるー》が「あの笹に似た葉はヤマユリだ。あっちは寒蘭だ。」と教えてくれるので、まったく退屈しなかった。
せまい山道を分け入って、墓地に着いた頃には着物の袖はすっかり白露で湿っていた。桶に汲んでおいた湧水を|柄杓《ひしゃく》で墓石に掛け、供えられていた花を取り替える。前の花が枯れずに残っていたところをみると、つい最近誰かが供えたものであることが|窺《うかが》えた。目を閉じ、手を合わせて、経を唱える。しばらくして目を開けると墓誌に知った名前が見えた。下之介の兄の名前だった。父母は何も話してくれなかったが、気を使ったのかも知れない。
翌日、昨日の秋晴れが嘘のように、分厚い雲が空を覆っていた。空模様が怪しいから登城するのは明日にしようかと下之介がいったら、母親にものすごい剣幕で家を追い出された。
「さて、どこで暇を潰そうか。」
「は、城にいくんじゃないのか。」
お供に付いて来た|鶴《ちるー》が驚いて聞き返す。
「殿様に拙僧のようなものが易々と会いに行けるか。恐れ多い。」
「お前のような嘘吐きでも、まともな感情があるのだな。」
「仮にも師匠に嘘吐きはないだろ。ほら吹きといって欲しいね。」
「同じじゃないか。」
|鶴《ちるー》はだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。下之介は帰ることもできず、時間潰しに江藤新平を訪ねて見ることにした。殿様よりかはよほど会いやすい。
江藤新平の住まいである八戸村(佐賀県佐賀市八戸)に下之介はやってきた。途中、行商人に道を聞き、会所通りをまっすぐ行くと、それらしき建物が見えてきた。江藤の自宅は下之介の実家と良い勝負のボロ屋で、障子の破れから隙間風が吹き込んでいる。
「人が住んでいるとは思えぬ。戸板に釘が打ち付けられている。」
「いや、これは閉門されているだけで、人は住んでいる。」
下之介の顔から血の気が引く。江藤はおそらく脱藩の罪で閉門となったのだろう。藩から無断で出ただけで閉門ならば、非合法で藩に入った自分はいったいどんな罰になるだろうか。
雨がぱらつきはじめ、往来をうろうろとしていた|鶺鴒《せきれい》も一声鳴くと巣に帰っていった。本降りにならないうちに帰ろうと踵を返すと、見知らぬ男が立ちふさがっていた。まったく気配なく背後に近づいたにしては、図体の大きい男だ。尊大な面構えで小奇麗な着物を着ている。下之介はこの男が江藤新平かと思い、|鶴《ちるー》のほうを見た。|鶴《ちるー》は首を横に振る。
「何者だ。」
「我輩は|石火矢頭人《いしびやがしら》、大隈八太郎であるのである。」
|石火矢頭人《いしびやがしら》とは代々長崎港の警備に当たった砲術長で、上士である。そのような人間がこんなところにいることを下之介はいぶかしんだが、恐る恐る紹介状を見せてみた。
「雨が降ってくる。ついて参れ。」
そういって大隈は裏手に向かって歩いて行った。
「閉門されて入れないんじゃ。」
「閉門ではない。|永蟄居《えいちっきょ》だ。」
|蟄居《ちっきょ》は部屋に軟禁される刑で、家の中ならば自由に動ける閉門よりも重い刑である。それも|永蟄居《えいちっきょ》となれば|赦《ゆる》されるまで半永久的にその状態が続くのである。
大隈はくぐり戸から中に入ると、ふすまの戒めを解いて部屋の中に案内した。大隈も下之介もそっちのけで、|鶴《ちるー》を指差した江藤は開口一番にいう。
「君は……覚えているぞ、京で会った感心な青年だ。」
「はい、京では世話になりました。江藤殿、この男が士籍を失くして困っている。どうにか藩主に働きかけることができないだろうか。」
「それは難しいだろうな。そもそも我が藩が出入りに厳しくなったのは、お上の動向やら勤皇派と佐幕派の抗争が藩内に波及するのを恐れてのことだ。お家騒動など二度と起こしてはならないからな。」
「死罪でもおかしくない江藤を|蟄居《ちっきょ》で|赦《ゆる》したことを|鑑《かんが》みれば、藩主鍋島直正公が藩のことしか考えていないとは思えないのであるのである。我輩は佐賀藩の|帰趨《きすう》が最終的な戦局を左右すると見ている。直正公は最も労少なくして功名を得る機会を窺《うかが》っていると思うのであるのであるのである。」
結局のところ、下之介の士籍は戻らず、不法滞在が続くという宙ぶらりんの状態は変わらなかった。雨はいまだに降り続いている。