もたつきにもたついた長州再征の準備がやっと整い、慶応元年十一月七日(1865年12月24日)、大阪城の本陣から諸藩に正式な出兵命令が下された。
化石のような白い月が、西の空に取り残されている。朝日を浴びる松並木には腹巻のようにこもが巻かれ、冬の訪れを告げている。下之介は長崎の坂の多さに閉口して、景色を楽しむ余裕がない。うってかわって|山茶花《さざんか》を見つけたり、坂の上から海を眺めたりする元気な|鶴《ちるー》の姿を見ると、まだまだ子供だと下之介は思うのだった。
長崎港にはひっきりなしに洋式帆船が往来する。ときには黒煙を吐きながら蒸気船がやってくる。ほんの十年前ならありえなかった景色だ。二人はそれをただ羨ましそうに見ていた。
「お前さんが琉球から密航して来たというから、もっと簡単に乗れると思っとったんだがな。」
「|他人《ひと》を無法者呼ばわりするな。危ない橋を渡らずに乗船する手はないか。」
「そんな都合の良い手があったら、こっちが聞いてみたいね。もうすでに一月も足止めを食らっている。路銀はあと三泊分しかないし、このまま長逗留していては長崎奉行にも怪しまれる。」
あてもないのに今日も港に向かって歩き出す。立ち止まっていると落ち着かない。ただそれだけのことで、足を動かした。
斜面にはびっしりと|苦力《クーリー》(中国人などの単純労働に従事させられる移民者)の住居が張り付き、山の手には西洋風の建物が立ち並でいる。一番目立つとがった屋根の建物は、去年建ったばかりの大浦天主堂だ。
隠れキリシタンが訪れたというから驚きである。下之介は二百年も信仰が続いていたことに深く感服した。
港はいつも活気に溢れている。日雇いの人足が和船から米俵を慣れた手つきで下ろしていく。白袴の和装の水夫は洋式帆船に細長い木箱をいそいそと積み込んでいる。それを見ながら談笑する一組の侍。
「あっ。」
笑顔から一変して、怖い顔で片方の侍が近づいてくる。
「貴様、高杉さんを騙った不届き物。」
どこかで見たような顔だ。丸顔、奥まった目にだんごっ鼻。いや、どこにでもいそうな顔だ。
「ああ、思い出した。たしか長州の萩で会った伊藤なんとかいう……」
「そこに直れ。貴様に騙されて大恥かくところだったであります。高杉さんの挙兵に間に合ったとはいえ、赦せぬ。」
「いや、待て。拙僧は一言も高杉などとは名乗った覚えはないぞ。あれは貴公がかってに早合点して勘違いしたのではないか。」
そう言いながら下之介は思案を巡らせていた。高杉と勘違いしていたことをネタにゆする。うまくいけば長州藩の船に乗せてもらえるかも知れない。
「悪い顔だ。」
|鶴《ちるー》は自信たっぷりな下之介と顔を見合わせた。
「伊藤さん、随分な言いがかりをつけてくれたが、武士の面目を潰した落とし前はどうするつもりだ。こちらはあなたが拙僧と高杉殿を間違ったと言いふらすこともいとわない。」
「くっ、盗人猛々しい奴。どうすれば良いのでありますか。」
「拙僧らを江戸まで船で送り届けてほしい。」
伊藤は苦い顔で|逡巡《しゅんじゅん》している。
「そういう権限が僕にあるわけが……」
「お困りのようですね。我々の船でお送りしましょうか。」
突然、男が話に割り込んだ。伊藤と談笑していたあの侍だ。
「近藤さん、長州の恩人であるあなたにそんなことまでお願いできません。」
下之介は近藤と呼ばれた男の顔をまじまじと見た。特徴的な頬骨の|鷹揚《おうよう》な男の顔を。
「申し遅れました。手前は亀山社中(日本初の株式会社)の近藤長次郎と申します。途中三田尻へ寄り道する船で結構でしたら乗船できますよ。」
「結構、結構」
下之介と|鶴《ちるー》は声を揃えた。
「貴様ら馴れ馴れしいぞ。この方をどなたと心得る。幕府ににらまれて新式銃の買えない我が藩のために、薩摩名義で最新式のミニェー銃を買い入れてくれた偉い方なのであります。その褒美で我が殿、|毛利敬親《もうりたかちか》公から直接お声をかけられたとてつもない方であります。」
伊藤という男は余程うかつな男らしい。聞かれてもいないのに重要な薩長の密約の一端を漏らしてしまった。
「そんなたいそうな者ではないですよ。ただの|饅頭《まんじゅう》屋のせがれです。」
「へえ。お前さん武士じゃなくて商人かい。」
「失礼なことをぬかすな。近藤殿は土佐藩主の父、|山内容堂《やまのうちようどう》公にその才能を見込まれ、名字帯刀を許されている。」
さて下之介と|鶴《ちるー》は近藤の好意により亀山社中の洋式帆船、桜島丸に乗船した。船は当初の予定通り三田尻で積荷を降ろして、一路品川へと向かっている。
その途上、下之介が腹が減ったというと、近藤は七輪とヒラメを一尾くれた。一緒に食おうと誘ったが|鶴《ちるー》は船倉から出てこようとしなかった。反抗期だろうか。
下之介は一人甲板に出てヒラメを焼き始めた。皮を焦がす香ばしい匂いが漂う。匂いに誘われたのか、奇妙な風体の男が近寄ってきた。
「長州藩士の伊藤さんを言葉巧みに利用して、ちゃっかり船にタダ乗りしている面白い男とはお|前《まん》のことじゃろ。」
馬鹿にされていると思った下之介はいやみたっぷりに言い返した。
「お前さんほど面白いなりはしとらんが。」
そろいの白袴をはいているところをみると亀山社中の一員なのだろうが、縮れ毛の頭をかくこの大男は、水夫にも火夫(機関士)にも見えない。
「ますます面白い。お|前《まん》、亀山社中に入らんか。」
熱心に勧誘してくるところをみると、亀山社中のなかでもそれなりの立場の人間なのだろう。なまりから察するに土佐藩の出だろうか。伊藤の漏らした情報も照らし合わせて整理すると、土佐藩の者が薩摩名義で長州に武器を買い与えていることになる。わけが分らない。
「薩摩と長州といえば犬猿の仲。京都の政変でも、長州征伐でも薩摩は幕府側に付いていた。それがお前さんら土佐が間に入って三角貿易が成立している。いったいどういうことなんじゃ。」
「わしらはただの脱藩浪人じゃ。じゃからこそ藩同士の利害の外にいられる。わしらは な、感情的には対立している薩長を貿易で結びつけようと画策しちょるがぜよ。」
「拙僧も嘘吐きだなんだと言われるが、お前さんのような大ボラ吹きは始めて見た。」
「ホラではない。手を組むわけがないと思われている薩長の手を結ばせるから意味があるがじゃ。それができれば倒幕は成ったも同然。」
面白い男かと思ったのにこの男も結局、他の勤王の志士と同じかと下之介はがっかりした。
「お前さんも異人に言いなりの弱腰幕府は倒してしまえという口かい。」
「確かに幕府は倒すべきじゃが、ちょっと違うぜよ。わしらはFREEDOM(この時代に自由という言葉はまだない)に、そして対等に異人たちと貿易がしたい。しかし対外貿易は幕府が独占しちょるぜよ。じゃから、まず邪魔な幕府を倒して、それから異人相手に大きな商いをしようっちゅう腹じゃ。」
下之介はこの男が何を言っているのか分らなかった。ただ、邪魔だから幕府を倒すという気安さはなんであろう。他の志士たちにとって倒幕とは終着点であったが、この男にとっては通過点に過ぎないようだ。