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薄紫色の花を咲かす木

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 京を命からがら逃げ出した下之介たちは夜通し歩き、芥川宿(今の大阪府高槻市芥川町辺り)まで逃げてようやく|一心地《ひとごこち》つく。|旅籠《はたご》は危険と判断した二人は、町家に頼み込んで泊めさせてもらうことになった。
 蝉時雨が鳴き止まぬ中、質素ながらも風情のある離れに通される。庭には朝顔が咲き、縁側には|簾《すだれ》がかかっている。これで冷やした西瓜でもあれば格別だろう。
 よほど疲れたのか|鶴《ちるー》は旅装を解くとすぐに大の字になった。下之介は落ち着きなく部屋をあちこち見て回っている。
 |三和土《たたき》に立派な大黒柱を見つけ、よってみると杉とも|檜《ひのき》とも違う芳香なので鶴に聞いてみる。
「この柱は何の木か、お前さんなら知ってるんじゃないかい。」
「|栴檀《せんだん》だな。薄紫色の花を咲かす木だ。」
 |鶴《ちるー》が気だるげに答えた。
「さすが商家だね。武家屋敷ではお目にかかれないよ。」
 |鶴《ちるー》が聞き返す。
「何故だ。」
「武士ってのは験を担ぐからね。|栴檀《せんだん》は獄門台(さらし首が行われる台)に使われる材木だから避けられる。……って聞いてるか。」
 下之介は急に静かになった|鶴《ちるー》に近づいて呼びかけた。寝息をたてている。揺すってみるが起きない。狸寝入りではないらしい。
 布団を敷いてやったが、暑いのか|鶴《ちるー》は下之介が敷いたそばから掛け布団を蹴飛ばす。まったく寝ても騒がしい奴だと苦笑しながら、下之介は団扇で扇いでやった。涼しい風が部屋に入ってくる。



 下之介は|簾《すだれ》ごしに外の様子を探る。見覚えのある浅黄の忠臣蔵のような羽織の男どもが|旅籠《はたご》に出入りしている。早すぎる。もうここを嗅ぎつけるのも時間の問題だ。
 急いで起こそうとするが、泥のように眠った|鶴《ちるー》はなかなか目を覚まさない。下之介はすでに意を決していた。まだ寝ぼけ|眼《まなこ》の|鶴《ちるー》の肩をつかんで、見つめる。
「拙僧は投降する。」
 一気に目が覚めた|鶴《ちるー》は現実が受け止めきれず、下之介に食い下がった。
「よせ。今までだって二人で切り抜けてきたじゃないか。」 
「拙僧には策がある。お前さんが拙僧に従った振りをしていて、寝首をかいて捕まえたことにすればいい。さすればお前は……」
 |鶴《ちるー》は聞きたくなかった下之介の言葉を遮る。
「見損なうなよ。私がいつそんなことを頼んだ。お前を売って助かれというのか。」
 目の端に光る涙は寝起きだからではないだろう。下之介は|鶴《ちるー》をこれ以上傷つけないように、とくと言い聞かせる。
「拙僧とお前とは一蓮托生じゃ。だからこそ後事を託したい。拙僧に何かあったときに刀を捨てて欲しい。これはお前さんにしか頼めないことじゃ。それにどうせ捕まるならば、お前がいいとずっと思っていたんだ。」
 |鶴《ちるー》は子供のようにいやだいやだと駄々をこねたが、最後には折れた。
 気を鎮めてから男装し、下之介の手首を後ろ手に縛り、腰に縄を掛けた。腰紐を|鶴《ちるー》が引いていく。新撰組が本陣としている|旅籠《はたご》の前まで行き、指揮を執っていた副長の土方歳三に下之介を引き渡した。
 土方が|鶴《ちるー》の浮かない顔を見て探りを入れる。
「それが一番手柄を立てた者の顔か。あの男に感化されたのではないな。」
「まさか。」
 |鶴《ちるー》は生気の抜けた顔で言った。



 |旅籠《はたご》の土間に造られた簡易的なお白洲に、白襦袢に着替えさせられた下之介が引き立てられる。|筵《むしろ》に座らされ、お裁きが始まる。下之介の顔は存外明るい。
「貴様腰のものをどうした。言え。」
 役人がすごむ。
「|木っ端《こっぱ》役人がけして手に届かぬところに返した。」
「おのれ愚弄しおって。|何処《いずこ》にあるか言わぬか。」
「あの刀は三種の神器の|天叢剣《あめのむらくものつるぎ》。」
「な。」
 役人は誘導に乗って口を滑らせることはなかったが、下之介は見逃さなかった。その役人の顔色の変化こそがあの刀が三種の神器だと雄弁に語っていることを。
「返すならば|帝《みかど》の|御陵《みささぎ》に決まっているだろ。」
「貴様、なんと畏れ多い。継体天皇の|御陵《みささぎ》(太田茶臼山古墳)に埋めたと申すか。」
 にわかに役人たちが動揺し始めた。
「ことは重大であり、我らの手に余る。上中|某《なにがし》の裁きは追って沙汰する。」
 ひとまずお開きとなり、鶴は胸をなでおろす。
「あの男はこれからどうなりますか。」
 |鶴《ちるー》は土方に聞いた。
「まあ、小伝馬町(牢屋敷の所在地)に送られて、それきりだろう。墓を掘り返して確かめられねえからな。」
 |鶴《ちるー》は打ち首が避けられたことにまずは安心した。下之介は刀を守りきった上に自分も生きるつもりだ。
 この時代、古墳を暴くような真似は不敬とされている。役人たちは手出しが出来ず、大坂城の一橋慶喜に伺いを立てた。



 大坂城はこのたびの長州征伐の本陣(総司令部)であり、将軍徳川家茂以下、幕府首脳が詰めていた。家茂は病弱で20歳とまだ若く、実権を握っているのは将軍後見職の一橋慶喜である。家茂にはそれも気に入らないし、自分に隠れて御所でこそこそやっていることも気に食わなかった。
 フランスの軍服を着た一橋慶喜は、城内を駆け回り各部署を精力的に視察する。軍服はナポレオン3世から贈られたもので、一橋慶喜はたいそう気に入って陣羽織の代わりに好んで着用している。腹心の佐々木只三郎はやっと|渡櫓《わたりやぐら》で捉まえて一橋慶喜に報告した。
「新撰組が上中|某《なにがし》を捕らえました。」
「よくやった。して刀は。」
「|御陵《みささぎ》に埋めたと申しております。いかがいたしましょう。」
 うってかわって一橋慶喜はさめた表情に戻る。
「無能め。御所に向かう用意をしろ。すぐにだ。」
 三種の神器の一つである|天叢剣《あめのむらくものつるぎ》が手に入れば、幕府が天皇即位の一端を握ることになり、公武合体派の一橋慶喜にとっては都合が良かった。
 しかし父、徳川斉昭に勤皇思想を叩き込まれた一橋慶喜には、王墓を掘り返せとは指示できるはずもなかった。
 一橋慶喜は佐々木の手配した籠で揺られながら、今まで古墳を掘り返した前例がないか頭を巡らせる。上古まで遡ったところで、古事記のある記述に思い当たる。仁賢天皇が皇太子のときに、親の仇である雄略天皇の|御陵《みささぎ》の縁を少し掘って仇討ちとしたというエピソードだ。
 皇族であれば掘り返せる。打開策を見つけた一橋慶喜は三種の神器のことを伏せて、古墳調査への協力を皇族に打診してみることにした。



 慶応二年七月十五日(1866年8月24日)、佐々木只三郎らが皇太子に随伴して太田茶臼山古墳に到着した。先に到着し、手はずを整えていた土方たちに、張り詰めた空気が流れる。 誰もが幕府と関係が深い輪王寺宮親王(上野寛永寺の貫主)が来ると踏んでいた。13歳とまだ幼く好奇心旺盛とはいえ、皇太子が手を挙げたことは嬉しい誤算だった。幕府にとってこれ以上の人選はない。ゆくゆくは天皇として即位するのだから、まったく問題はないだろう。実際に皇太子は翌年、明治天皇として即位することになる。
 古墳の周囲を巡る|濠《ほり》には急ごしらえの橋が架けられ、菊の御紋の陣幕が張られていた。籠から降りた皇太子がお付の者に手を引かれて橋を渡る。陣幕の外側で警備をしている|鶴《ちるー》は中の様子をうかがい知れない。陣幕に映る影から察すると、いきなり|鍬《くわ》を渡されて困り果てているようだ。隣の影はおつきの者で|鍬《くわ》の使い方を教えているのかも知れない。
 影が|鍬《くわ》の先で古墳の縁をほん少し掘り崩す。陣幕の内側で皇太子が農具を振るっている牧歌的風景を想像すると、時が遡って大昔に返ったように|鶴《ちるー》には感じられた。
 皇太子が行ったのは儀礼的なもので、あとは付近の村から駆り出された百姓が掘り進めて行くことになる。皇太子一行は安全のため、すぐに隣の郡山宿(今の大阪府茨木市辺り)に移った。
 陣幕が外され、百姓があちこちに穴を掘っていく。もっこで土が運び出され、橋をきしませながら汗だくの男たちが往復する。
 たまに土以外のものが掘り出されて歓声が上がる。役人たちが集まって検分すると、たいてい|埴輪《はにわ》か土器、木簡、良くて銅鐸などの副葬品である。
 役人たちはため息をついて、つまらないもののように埋葬品を雑に積み上げた。史学好きの下之介ならばよだれを垂らして喜ぶだろうに、役人たちには宝の持ち腐れだと|鶴《ちるー》は思った。
 三日後、古墳は真夏の木の下みたいに穴ぼこだらけになり、働き通しの百姓はくたびれて抜け殻になった。何度かのぬか喜びの後、古墳に刀は埋まっていないと結論付けられ、下之介の取調べが再開される。



「よくも我々に恥をかかせてくれたな。」
 役人によって下之介が乱暴にお白洲に引き立てられる。
「拙僧は|御陵《みささぎ》と言っただけで、継体天皇の|御陵《みささぎ》(太田茶臼山古墳)とは言ってないぞ。他の|御陵《みささぎ》も調べたらどうじゃ。」
「もう、その手には乗らんぞ。」
 襦袢をはだけ、役人は怒りに任せて|笞《むち》を振るう。
「さあ、本当に隠した場所を吐け。」
 竹の先を二つに裂いて作られた|笞《むち》はよくしなって下之介を打ち据える。見る見る肌が赤く色づき、くっきりと跡が浮き出てくる。打つ側が疲れぬように、役人たちが代わる代わる叩いていく。
 |鶴《ちるー》に|笞《むち》が手渡された。しめた。少し休める。その下之介の算段をよそに、|鶴《ちるー》は下之介の策がばれぬようにまったく手を抜かず叩いた。
 下之介は哀願するような目で|鶴《ちるー》を見る。
「手ぬるい。」
 業を煮やした佐々木只三郎が|鶴《ちるー》から|笞《むち》を取り上げた。下之介は知らないだろうが、佐々木には一方的に恨みがある。清河八郎の暗殺という大任を果たしたのに、刀を下之介に盗られたせいでここまでの大事になってしまった。それはエリートコースを歩んできた佐々木にとって唯一の汚点だ。佐々木は力任せに滅多打ちする。女の膂力と違い、鍛え抜かれた武士の百叩きは、下之介の皮膚を破き、白い襦袢を血でにじませた。
 しかし、耐えられぬほどではない。まだ希望はある。下之介が吐かないかぎり殺されることはないはずだ。
 佐々木がにらみつけて言う。
「勘違いしてねえか。これは拷問ではない。牢問(拷問の前段階。要は下ごしらえ)だ。本番はこれからだ。」
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