暗闇の中に、トンネルの出口だけがぼんやりと浮かんでいる。
暗闇から抜け出そうと近づいて、初めて気づいた。出口は暗闇より、わずかに明るい程度に過ぎない。
関越トンネルを抜けると雨が降っていた。
関越トンネルは群馬と新潟の県境にある。県をまたいだことで、天気が激変したのだろう。
軽トラックが急ブレーキをかけたため、体がつんのめった。前方の白い乗用車が徐行運転を始めたのである。軽トラの運転手は車線変更しようとしたが、追い越し車線もすでに渋滞になっていた。
「何やってんだよ」
トンネルを出たところで立ち往生するはめになった運転手はイライラをぶつけた。
「すみません」
軽トラの助手席に乗っていた私は、自分が悪いわけでもないのに謝った。
私に今できることは、気の短い運転手の男のご機嫌を損ねないようにすることのみ。足がつく前に、尾行者から奪って逃走に使った外車は乗り捨てた。ヒッチハイクして、今や軽トラの助手席に収まっている。
「お前が謝っても意味ねーだろ」
「そうですね」
「ちっ」
運転手が舌打ちする。
すると突然、目の前にパトカーが現れた。
停止表示機材も発煙筒もなく、横向きに駐車して雑に二車線を塞いでいる。
渋滞の原因は、どうやらこの検問のようだ。
「ちょっと止まってください」
警官の一人が窓から顔を出して呼びかけてきた。
内心ふざけんなと思っているが、短気のわりに警官の制止に素直に従う運転手。
「積荷を臨検します」
運転席に一声かけてから、もう一人の警官が荷台の上に登って調べ始めた。
ずぶ濡れになりながら一通り調べ終わった警官に、窓を開けて運転手が怒鳴る。
「過積載じゃないし、もう行っていいだろ!」
「ダメです。手荷物も検査します」
警官は窓から入れた手で、私の膝の上にあるジュラルミン製のアタッシュケースを指差した。
「おい、それをよこせ」
「はい」と返事だけして、私は運転手の指示に従わない。
「何が入っているか見せなさい」
警官の再度の要求にも、私は抵抗して言葉だけで説明しようとした。
「これは……えっと、私の私物です」
アタッシュケースをなかなか開けない私に、警官の言葉も乱暴になる。
「中を見せろ」
「いや、あの」
警官にむりやり開けられたアタッシュケースの中から、楽器のようなものが飛び出した。
「これはラッパ? それに電気シェーバーにガラケー。あとは工具類か」
危ない危ない。念のために装置を分解して、ラッパとか電気シェーバーに戻しておいて正解だったようだ。
私たちは難なく検問をすり抜け、高速を降りる。
「なんでそんなもん持ってたんだ?」
当然の疑問だろう。どう見ても私は音楽家に見えない。
「趣味ですよ」
「嘘つけ」
運転手は私に対して疑惑の目を向けてはいない。ただ得体のしれないものを見るような目をしていた。
そりゃそうだろう。旅行者の荷物とは思えない。もう限界だ。
かと言って本当のことを言うわけにはいかない。
私は下道の人通りのない道路脇に降ろしてもらった。
「ありがとうございました」
礼を言ってすぐに立ち去ろうする私を運転手が呼び止める。
「おい、待てよ」
「はい?」
「どこに行くつもりだよ」
「とりあえず、またヒッチハイクでもしようかと」
「はあ?」
運転手が呆れていた理由を、一時間歩いてから私は思い知ることになる。この田舎道、車が一切通らなかった。わたしはあてもなく歩き続ける。降り続く荒天の中で。
こんな天気だというのに、トンビだけは元気に飛んでいる。向かい風に立ち向かって飛んでいるせいで、なかなか前へと進めない。
ヒッチハイクなんてのが、そもそも非効率的なんだということを忘れていた。
そうして三時間ばかり歩き続けて、ようやく人のいる集落へとたどり着く。
遠くの空をトンビが弧を描いて飛んでいた。さっき見たトンビだろうか。
くたくたに疲れ果てた私は、民宿に一泊することにした。
古民家をそのまま利用したのだろう。傾斜の急な高い屋根はわらで葺いているようである。中に入ると木の良い香りがした。
「すみません。一泊したいんですが」
「お客さん。今どきは予約しないと。当日に来られても」
困りきっている民宿の主人を見かねて、奥のほうから女将さんが出てきて言った。
「一部屋開いてるんだから、泊めてあげたら」
「同じこと言って、すでに変な外人泊めてんだぞ。これ以上厄介な……」
客前での失言に気づいて、主人は口をつぐんだ。
変な外人と聞いて、思い当たるのは追手の二人のこと。もうここまで嗅ぎつけたのか。私は重い体を引きずって民宿を出ようとする。
女将さんが引き止め、不憫に思った主人が泊めてくれることになった。
追手と同じ宿に泊まるなんて。しかし私はもう歩けそうにない。窮鳥懐に入れば猟師も殺さずとも言う。ご夫婦の厚意に甘んじることとしよう。
私は通された部屋に荷物を置くと、すぐに風呂をただいた。風呂場は一般家庭用と同じくらいせまい。だが一人ずつしか入れないから、風呂場で追手にばったり出会わずに済むだろう。
問題は夕飯だ。主人が夕飯を共用の食堂で食べるように言っていた。食堂で追手に出くわしてしまうかもしれない。私は部屋で適当に時間を潰してから食堂に入った。
中を見回すと、他の客はいない。つけっぱなしテレビだけがしゃべっていた。
「天才発明家と名高いアメリカのルース博士が行方不明になりました。家族の話によりますと、行く先も告げず旅行に行くことが頻繁にあったそうで、それでも一日か二日で帰っていたとのことです。音信不通になってからすでに一週間がすぎており、FBIは事件事故両方を視野に入れて捜査を続けて……」
十時のニュース番組だ。少し神経質すぎただろうか。あんまり時間をずらしすぎて、遅い食事になってしまった。
私はニュースを見ながら、さっさと夕食を食べた。
あんな検問まであったのに、自分が指名手配犯にされているニュースはない。関越自動車道ではただ事故渋滞が起きたことになっていた。
私はよほど腹がすいていて、ご飯をおかわりする。おかずがしょっぱいのでご飯が進んでしまうのだ。さすが米どころ。米がうますぎるのが悪い。
満腹になって食堂を出ようとした、その時。
私は変な外人とばったり出会ってしまった。
せっかく腹を減らしながら、時間をずらしたと言うのに。
「ハ、ハロー」
私が挨拶すると、変な外人は軽く会釈して食堂に入っていく。
よかった。追手の二人組ではない。
二十代くらいの赤毛の青年だったな。病的なほど青白い顔の。
私は気がかりが一つ消えて、緊張の糸が完全に切れてしまった。
部屋に戻ると、まだ寝るには少し早い時間である。私は電話をかけることにした。よく電話をかける警察官の友人に。
「もしもし、青崎? 私だ。上中だ」
「よう。どうした? また東京に原爆が落ちる変な夢の話か?」
「夢か。そういえば見なくなったな。意味がなかったかと思っていたが、潜水艦の核弾頭に共振周波数の音波を発振したのが功を奏したのかもな。あれが脅しになって東京へ原爆が落ちる運命は回避されたんだ。なるほど、だから米軍の二人組が私を捕まえようとしてるわけだ。つじつまが合う」
青崎は呆れ返って言う。
「勘弁してくれよ。とうとう現実と夢の区別までつかなくなったのか? アメリカは同盟国だ。お前を捕まえたりしないよ」
私はついかっとなって怒鳴った。
「お前はそれでも日本人か。アメリカがまた日本に原爆落そうとしてんだぞ。どいつもこいつも左よりばっかりだ。お前も左翼か」
「俺警官だぞ。お前が一番右側にいるから、すべての人が左よりに見えてるんじゃないか?」
今思えば、青崎は暴走気味の私を説得しようとしていた。もう少し話せば、私は変われたかもしれない。しかし、そうはならなかった。
私の部屋のふすまが勢いよく開いて、例の変な外人が入ってくる。
うるさくしすぎて苦情を言われるのかと思ったが、違った。
「さっきの核弾頭に共振周波数の音波を発振した話、もっと詳しく。興味あります」
青白い顔から元気な日本語でまくしたてられる。
おかしい。大きな声を出したのはだいぶ後だ。こいつはそれより前から盗み聞きしていたんじゃないのか。追手があの二人組だけとはかぎらない。
私はそっとアタッシュケースをたぐりよせた。
まずい。装置は分解したままだ。
私はラッパを銃のような構えで外人に向けた。