プロローグ。
彼女が初めてこの街に現れたのは
もう何年前のことだっただろうか。
雪の降りだす前のような分厚い色の空に包まれた夜の街に
透き通るような真っ白な肌をした背の低い小さな女。
もしかしたら少女といっても良い年齢だったのかもしれないが、
そいつがご大層に煙草なんかをふかしながら、
降り始めの雪みたいにどこからともなくふわりと現れた。
彼女は娼婦だった。
彼女は靴屋や服屋など、夜は完全に店を閉めてしまう商店の立ち並ぶ
ほかの女たちが一人も立っていない通りを自分の居所に選び
年季の入った古い街路灯の下、彼女の仕事を始めた。
普段は女達を半ば値踏みをするように見ている好色な男たちも
また、ここいらの娼婦を仕切る荒くれ者どもの一党、
さらには直接の縄張り争いの相手となる他の街娼たちでさえも
誰もが声をかけるのためらわれるような
ぼんやりとした危うさと、同時に漂う不思議な魅力を感じていた。
それは暗闇の中で蝋燭の炎を眺めているような多少の心許なさを伴った安堵感に似ていた。
男たちは遠巻きに彼女をちらちらと窺いながら、または仲間同士でひそひそと噂をしながらも
誰しもが手を出すのをためらったかのようで、結局その日は彼女には一人も客はつかなかった。
そんな様子を彼女は、栗色の大きな瞳で何も言わずにただ見ていたふうだった。
翌日も、さらにその翌日も、彼女は同じ場所に立っていた。
街の酒場では口々に男たちの噂にのぼり、
それを聞いた女達も、視線や言葉の端々に敵意や興味、
嫉妬なんかの雑多な感情を隠しながら
彼女のことを見るともなしにこっそりと眺めていた。
それでもその二日間も彼女を買う男は現れず、
彼女は街灯の下でちょこんと咲く花のようにやはりなにも言わずにたたずんでいた。
そしてその次の二日間、彼女は例の街灯の下には現れなかった。
姿を見せなかったことにより、その間の彼女の噂話は枷を取ったかのように格段に飛躍していた。
あの娘はどこから来たのか?どういった経緯で育ったどういった女なのか?
詮索は執拗に続いたが、誰一人として煤けた通りの街灯の下に現れるまでの彼女を知る者はいなかった。
そうやって人々の口から口へ移りゆくうちに、彼女は街の人々にとって半ば幽霊のような
好奇とうすら寒さを同時に湛えるようなそういう存在になっていった。
そんな中、その次の日に彼女が再び現れた時には
街中の人々の興味が堰を切ったように一挙に注がれた。
誰が一番に彼女を買うかで男たちは色めき立ち、牽制し合い
一部では掴み合いの喧嘩騒ぎになったりもしたらしいが、
渦中の彼女はそんな興奮を知ってか知らずか、
いつものようにいつもの位置に何事もないかのように立っていた。
最初の客が誰だったのかは今でもはっきりとはしていない。
その日彼女は通りに現れてものの数十分ほどで姿が見えなくなった。
それはつまり『買い手』がついたと考えるのが一番適切な説明であったが、
結局彼女を一番最初に買った客はとうとう最後まで名乗り出なかった。
それからと言うもの、彼女は売れっ子の娼婦になった。
と言うよりもはやこの街のシンボルのような存在になっていった。
彼女からは売春という職業から発される、陰気さや下品さ、陰惨さの臭いは薄く、
時折、まだ年端のいかない子供のように見えることさえあった。
街の人々はこのどこか異質な風変わりの娼婦を徐々に街の一員と認め始めていた。
しかし彼女はある日を境にぷつりとその姿を消した。
まるでこの街に現れたときと同じように、音もなくふわりといなくなった。
最初のときとの違いは、もう街の人々が騒がなかったことだった。
無論噂話に上りはしたし、一抹の寂しさを覚えたものも少なからずいたが、
みんなこんな日が来ることがわかっていたような、そんな風だった。
かくしてその風変わりな娼婦の話は
時を経てもなおこの街で語り継がれることとなった。
ここからのお話はそんな
“この街のはなし”