ホームドラマ(後)
しかし、ついにオレは気付いた。どうやら今まで高望みをし過ぎてしまっていたようだ。何のスキルも持っていないオレが就職できるわけじゃなかったのだ。焦燥感が沸きあがってくる。もうどんな職場でもいい。わがままも言わないし、甘えもしない。神様ごめんなさい。今まで調子に乗っていました。だからオレに仕事をください……。
私は百社目ぐらいに受けた会社に拾ってもらい、晴れてサラリーマンとなった。
初任給は十二万円。ようやく立派な大人になれたのだ。私はこの就職活動を通して一段上の大人になれたと思う。就職活動をしていない人間が未熟だと言われるのも納得だ。
労働は幸せなことなのだ。しかし、人生で大切なのはお金じゃない。人を騙して大金を巻きあげるより、私はずっと素晴らしい仕事をしている。テレビをつけてみると、また政治家が汚職をしたというニュースが流れた。政治家たちは、目先の選挙で勝つ事や金に溺れることが大切だと思っているのだろうか? そうじゃないことぐらい、小学生でも分かっている。世の中、理屈や数字では語れないというのに……。
こんな人間に日本を任せていたら、ダメになってしまう。この国を支えているのは私たち労働者であるという自覚が、彼らには足りない。
私の上司の言葉を借りれば、大事なのは、今まで守られてきたシステムを維持すること。私にはいつも同じ仕事しか与えられないが、それこそが喜びなのだ。何もトラブルがない事。それ以上をどうして欲しがるのか?
私は営業部に所属し、外回りで毎日名刺を渡したり取引先に頭を下げたりした。そして上司には仕事が遅いとよく怒られた。仕事は面白いとは言えないが、そんな我儘は言っていられない。面白い仕事なんて社会には存在しないのだ。波風を立てなければ、私の仕事はしっかり評価されることだろう。
私の同僚にもいるが、新規事業を興そうとしている人は、今目の前にある仕事を大事にできない人間である。こんな人間を社会は信用しないだろうし、自分ひとりの力では何もできないことを分かっていないのだ。自分の命など、この世の中では消えても消えなくても同じようなちっぽけなものだと自覚している私の方がよほど洞察力がある。殆どの人間は凡人なのだ。身の程を知る事も社会を出て二・三年ですませるべきなのに。この歳になると、自分の力ではどうにもならない、できないことばかりであることに気付かされる。しかしそれが現実を知るということなのだ。
私は同僚の紹介の、三つ年下の女性と付き合うことになった。最初は三つも年下の女性を異性として見ることはできないと思っていた私だが、どうやら、恋愛に歳の差は関係無いみたいなのだ。私は彼女とデートをするたびに、昔の幸せな気持ちが蘇ってくるのを感じた。高校二年の時初めて出来た彼女である。しかし、あの頃の私は未熟であった。もっと彼女を大切にしてやるべきであった。バンド仲間とナンパをしている所を彼女に見られてしまったのだ。そして彼女と喧嘩になり、最後に彼女は、私が本当に好きだったのはギタリストの方だったと吐き捨てた。大切な物に気付いた時はもう遅かった。まあ、昔の事でもう傷つきはしない。今目の前にいる人の前では全てが無意味になる。
それからしばらくして同棲が始まる。食事代を私が出し、彼女が家の掃除をする。これが心の底で思い描いていた理想の生活なんだろうな。私はそう思えた日、彼女にプロポーズをした。男は愛する女性に思いを伝えなければならない。私は彼女の両親の所へ挨拶へ行き、頭を下げた。大人になるとはこういうものなんだなあ。そして結婚して五年が経ち、娘が生まれた。私の人生で一番大切なものができたのだ。自分より大切なものが見つかった喜びを今は力一杯噛みしめていたい。これからの人生で大事なのは、私が家族を守り抜くことだ。私は命を次の世代に引き継ぐために生まれてきたのだ。男は女性と子供を守るために神によって作られたのだ。そのために私は精一杯仕事をした。家族が笑っていてくれれば、私はどうなってもいい。人は愛によって生きているのだな。
それからすぐに三年が経ち、私は念願のマイホームを購入した。郊外の緑あふれる住宅街の一軒である。最近の男は家族に家を買ってやる度胸も無いようだが、はっきり言って言語道断である。妻の提案で、私は給料を妻に預けているが、今思えば、自分の財布を女性に握らせられるかどうかで男としての大きさが決まると思う。都会の暮らしに疲れてきていた私たちにはちょうどいい。都会暮らしは人を疲弊させる。人間の薄汚れた欲望が行き交い、空虚な未来を感じさせるのだ。この際電線一つない田舎に越すのも悪くないかと思っていたほどだ。田舎の農家の方がよほど生き生きとしているからだ。三十年ローンだから、私が生きている間になんとか払い終えられるだろう。私も一家の主となったのだ。同じ頃、息子も産まれた。息子の名前は、私の名前から一文字取ってつけた。私の家に生まれたということをいつまでも忘れてほしくないからである。親子四人、賑やかな家庭を築こう。絆の強さではどの家族にも負けないような家庭を。
妻の実家は結構な良家であり、正月にはたくさんの親戚が集まる。総勢で百人はいるだろうか。皆で盛り上げる楽しい会になる。まだまだ新参者である私は一人一人回って挨拶をした。娘は、妻の従兄の息子を見ていた。
「あのお兄ちゃんが気になるのかい?」
そう言うと、それに気付いた妻の従兄とその息子がやってきた。従兄は私に言った。
「娘さんはいくつ?」
従兄は私より年下であるが、その息子は私の娘より年上であった。
「四つです」
「子供が育つのはあっと言う間だよ。私の息子も気付いたら△△中学へ入ったんだけどねえ。ハッハッハ」
娘は恥ずかしそうに私の後ろに隠れた。
「はは、お兄ちゃんは格好いいからなぁ」
私は仕事はほどほどに頑張った。影で上司にゴマを擦っているなどと言われるがそうじゃない。いや、そうだとしても、それが正解だと私は信じている。私より経験を積んでいる者に対し敬意を払うのは当然だ。私も御方のようになれるように、夜遅くまで働くのが当たり前なのだ。そうして給料を頂く。タイムカードを五時で切る事に対する事も理解が出来た。それが嫌だったら、会社を辞めればいい。社員がその会社のルールに従わなければ、会社は終わりである。それに、残業が多いと怒る社員程、実践では役に立たないのだ。まずはしっかり働いてから文句を言うのが筋ではないのか。社会に適応する事を学ばせない学校にも問題がある。文部科学省は何をやっているのかと言いたい。社会で働く上での第一のルールは「上司が黒と言ったら白も黒である」ということだ。体育会系の社員はきちんとそれを知っているが、最近はとにかく、挨拶が出来ないどころか、上下関係というものも分からないで社会に出てくる人間が多い。そう思うのは、私が四十二歳で係長になった時、つまり新入社員を管理する立場に回った時に気付いた。私の所属する係の社員が入れ替わった時、私は言った。
「まずはきちんと自分の力で立ち上がることが大切だ。君達の中には、いつまでも夢を追い続けるものがいるようだが、君達は何よりもまずこの会社の社員だ。平日はきっちり仕事をしてもらうし、日曜日に何をしようが勝手という身でもない。給料を貰ってやっているんだから、仕事を舐めるんじゃない。これは君達が今までやってきた遊びじゃないんだ」
私の話を口を半開きにして聞く平社員たちの姿は阿呆そのものであった。私にはこの国は本当に未来が無いように思えた。教育を根本から見直す必要があるように思う。今の子供は組織で生きていくという事に対する自覚が足りていない。私はそう思うから、いつだって子供たちに、そう言い聞かせた上で、自分の意見をはっきり言うように育ててきたつもりだ。その結果、娘は自分の服と私の下着を一緒に洗うのを嫌がったし、息子は学校から返ってきた時私が家にいると舌打ちをするようになった。私は娘たちを愛しているが、どうやら彼女らは私や妻に逆らいたい年頃のようなのだ。私も経験した反抗期というヤツだ。しかし娘もやがて気付くだろう。自分を育て上げてくれたのは他でもない私たち、父と母によってであると。今、そう思えている私と同じように。ただいまを言える家がある喜びを、娘も息子もまだ知らない。
私は会社命令で一週間出張することになった。会社に身を預けている私は勿論これを拒否する理由も権利も無い。初めての単身での出張だが、私が居なくても家族は大丈夫だろう。私の家族はそんなことではバラバラになることはない。心の奥ではいつでも繋がっているから。それだけは、どの家族にも負けはしないはずだ。そうして私は飛行機に乗って出張先へ飛んだ。久しぶりに独りになれて気楽なものかと思っていたら、夜になった途端動く事ができなくなった。気付かない間に私はこんなに弱い人間になっていたのだ。寂しくて堪らない。娘の顔が見たい。妻の声が聞きたい。息子の舌打ちすら今では愛しい。気付けば私は泣いていた。初日、私は朝まで眠れなかった。
一週間程の出張から帰ってくると、私の部屋が無くなっていて、そこが娘の部屋になっていた。「お母さんありがとう」と私には一瞥もくれずに言った娘の顔が悲しかった。最近は妻すら私を除け者にするようになった。
近所の居酒屋で久しぶりに中学時代の友人に会った。田中のグループで私と一緒にいた男である。
「家では居場所が無くてねー」
「私も似たようなものだよ」
彼もまた家庭を築いていた。私たちもオッサンになったものだ。昔話から今の話まで酒を交えながらの会話に花が咲いた。
「奥さんと昔の気持ちを思い出したいんだろ?」
「あぁ……」
私はいつになく弱い返事をしてしまっていた。
「じゃあ、これをプレゼントしてみろよ。指輪だよ。こういうところから夫婦仲は元通りになったりするんだぞ?」
「そうなのか……」
「百万円のところを五十万円にしてやるから。今サインしちまえよ」
私は急速に酔いが醒めていくのが分かった。
この歳になって分かったことは、大人になろうが、人は成長しないということだ。腹が出てきたり、頭髪が薄くなったりする事はあっても、心はいつまでたっても子供のままで、自分の事を一番に考えてしまうものらしい。私もそういう人間の一人である。私は人を蹴落としながら生き延びている。人は皆、戦っているふりをしながら逃げ続けるものなのだ。しかし結局、私の一番欲しかったものは、私の一番すぐ近くにあるのだ。人は罪深き生き物。それを自覚すれば、人は一歩大きくなれる。
しかし罰は訪れるものであり、神は私に母の死という不幸をもたらした。母の葬式で私は人目を憚らず大泣きした。私は普段それほど泣かない分、涙腺が枯れるまで泣いた。私は妻と同棲を始めるまで親元で暮らしていたせいか、とうとう親離れが出来なかったのだ。いや、もしどういった環境であっても、私にとって母は絶対的な存在だ。私は泣かない事が強さだと思っていた。しかし、そうではなかったのだ。男の涙はこういう時のためにあるのだ。家に帰った時、妻は私に「恰好良いよ」と言ってくれた。私は少し元気を取り戻した。私にはまだ妻や子供たちがいるのだ。私などと一緒になってくれた妻に、まだまだ感謝が足りない。そして、私は妻には一生敵わないと思った。
その後息子が見ているテレビを一目見てみると、なんと葬式を舞台にしたコントをやっていた。なんて不謹慎だ。人を不愉快にさせるドラマやバラエティがあってたまるものか。これを作っている人間は心が汚れている。こんなものを作る能力を才能などと、私は決して呼びたくは無い。
また、昔の友達が私の所に営業に来る事は少なくなかった。私だって苦しい生活をしていると言うのに。私にも守るべきものがあるから、そういった過去の人間関係などとは一つ一つ縁を切っていかなければならなかった。お金は人を変えてしまうんだな。しかし結局、悪いのは彼らをああなってしまうまで追い込んだ政府ではないだろうか。こういう事を訴えても、分かりにくい説明をしてはぐらかすに決まっている。庶民の気持ちをまるで理解していないからだ。
息子がバンドをやりたいので学校をやめると言い出した。私のミュージシャンの血が息子にも流れていていたという訳か。
「反対はしないが、ただ学校に行きたくない、社会に出たくないというだけの動機なら賛成できない。お前は働いている人を馬鹿にしているのかもしれないが、お前も社会に出たら分かる。あの人たちがどれだけ苦労してお前たちの生活を支えているかを。お前もそこまで考えて自分の道を決めなさい」
私は今となってはあの時ミュージシャンを目指さなくてよかったと思う。音楽をやることよりも、愛する女性と結婚をし、子供を育てて普通に暮らす事の方が何倍も難しいし、そして、何倍も楽しい。
私は音楽という名目で、大切な物を向き合わないでやり過ごそうとしていたのだ。私の背中には、妻と子供と家のローンがある。一人の人間が背負えるものなどそれぐらいでいいのだ。そしてそれこそが私の生きた証なのだ。仕事をしていてもテレビを見ていても音楽を聴いていてもそうだが、いいと思える仕事をしている人は、みんな家庭を背負っているのだ。失えないものがある人間は強い。身勝手な人間には到底作れないものを用意してくるのだ。身勝手な人間が作る詩は、夢は叶うだとか、耳障りのいい言葉を並べただけ。目先の快楽はあるかもしれないが、最終的には、そういう中身スカスカのハンバーガーよりも、母の作る、愛情の詰まったカレーの方が人を強くするのだ。その味をいつまでも忘れない人間は、悪い事などできない。どうかマザコンと言わないでほしい。男はみんなマザコンなのだから。私の子供たちにも、今食べている「おふくろの味」を忘れないでいてほしい。そして、信じられるのは隣にいる生身の人間の体温だけだということも。私はその温もりと五百円の小遣いとともに今日も会社へ行く。
そして息子は再び高校へ通うことになった。バンドはそのまま続けているようだが。きちんと分別が付いている。さすがは私の息子だ。息子ですらこうすることができるというのに、うちの係の社員ときたら仕様もない者ばかりである。
営業を嫌がり、当然成績も上がらず、飲み会にも渋々参加し、円滑なコミュニケーションも取ろうとしない。言葉遣いや礼儀もなっていない。しかも、私から何も学ぼうという気が感じられないのだ。
毎日ひたすら頭を下げる。作り笑いをしても土下座してでも客の信用を得る。休日友人と会っていても携帯に電話一本あればすぐに接待ゴルフへ急ぐ。その程度のプライドも捨てることができないのが今の若者の実態だ。結局私は夜遅く、時には十二時まで働き、くたくたになって我が家へ帰ると、妻や子供たちはもう眠っている。そして私も眠って朝早くからまた出勤といった日々である。子供たちにも社会に出たらそういう毎日が待っていると言わなければ。息子はそこから勉強もし、私の行った大学へ行くことになった。そうやって歴史は繰り返されているんだなあとしみじみ思った。とても嬉しいことだ。私立大学だから、元々苦しい我が家の財布から学費を出すのが大変であるが、娘は高校を出てアルバイトをして生活しているし、息子もアルバイトをしてなんとか家計を支えている。
私は五十五歳で職場を退くことになった。老兵は死なず、ただ去るのみ。私がこの会社に残してきたものなど別に無いだろうが、仕事に人生を掛けてきたわけではないから別にいい。私の代わりに、若い世代がまた会社を回していくことになろう。今まで私は沢山仕事をして家庭を顧みず、妻や子供に迷惑を掛けてきた。これからは皆でずっと暮らせる。そして同じ頃、娘が結婚することになった。ようやく幸せを見つけたのだ。二人で私の所に挨拶に来た。相手の男は真面目そうな会社員だ。この男なら娘を幸せにしてやれるだろう。娘は嬉し泣きをした。それを見ていた私と妻も泣いた。娘は嫁ぎ、息子は一人立ちしたため、私と妻の二人の生活に戻った。時々は娘や婿が訪れ、他愛ない話をして楽しんだ。そしてその生活が始まって五年後、初孫が出来た。娘が抱え上げたその赤ちゃんは私に微笑んだ。対して、息子の結婚は遅かった。相談所で自分に合った人を見つけるまでに時間が掛かったようだ。そして、息子の妻のお腹には、私の二人目の孫がいる。私も不安になることがあったが、ようやく息子も一人の男となったのである。二人の孫娘もすくすくと育っていった。彼女らが幸せになれるような社会を私は作れただろうか。
賑やかな時間が流れる。しかし、私は六十五歳を超えたあたりから病気がちになり、入退院を繰り返した。最後には妻の提案で、とうとう私は老人ホームへ入ることになった。七十二歳からは病室での暮らしとなり、代わりに実家に娘家族と妻が暮らすことになった。
一週間に一度ほど家族が訪れるのが私の唯一の楽しみとなった。一人でここを過ごすことなど考えられない。だから、家族が来る日以外は眠ったような日々を過ごすことになる。私はそれが苦痛だったが、考えないようにしていた。そして、それから三ヶ月、私はいよいよ死期が迫っていることを自覚した。娘夫婦に、息子夫婦、小学生になった孫たち、そして妻が見取っている。私はもうすぐ死ぬだろう。幸せな人生だった。一人じゃないから、こうして笑っていられたのだ。私は皆を順番に眺め、最期に長年連れ添ってくれた妻に「ありがとう」と言い残した。