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番外編

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 「眼福。眼福。」
 仕事が一段落して特にすることがなく、類さんの寝顔を眺めていると、プルルと事務所の固定電話が鳴った。
 「はい、こちら晝間。」
 「受付です。電話相談をお願いします。」
 RDL法律事務所にかかってきた電話相談は、こうして事務所に所属する弁護士や認定司法書士に振り分けられる。
 「‥繋いで下さい。」
 私はちらりと類さんを見て、応える。
 外線に切り替わった。
 「こちら認定司法書士の晝間と申します。どのようなご相談でしょうか?」
 「あの、私は楠と申しますが、登記記録のことで教えていただきたいことがありまして‥」
 受話器越しにしっかりとした女性の声が聞こえた。
 登記記録というのは、特定の不動産の種類・面積などの現況や所有者などの権利関係を、誰でも調べられるように国が公開しているものだ。手数料さえ払えば、誰でも見ることができる。
 「どういったことをお知りになりたいのでしょうか?」
 ひと呼吸置いて、楠さんが応える。
 「登記記録が存在しない建物というのはあるんでしょうか?」
 「といいますと‥?」
 質問の意図がよくわからない。
 「ある建物の所有者を調べようと思って、登記情報提供サービスというウェブサイトで検索をしたのですが、該当なしという表示が出たので‥、登記情報がない建物というのもあるのでしょうか?」
 「いえ‥基本的にすべての建物に登記記録は存在します。もしかして、住所の入力を間違えたのではないでしょうか?」
 可能性としては、入力を間違えたか、その住所が存在しないかのどちらかだ。
 「何度も確認したので、入力間違いということはないと思うのですが‥。‥どうもありがとうございます。お手数おかけしました。」
 「あ、もし良かったらこちらでも取得できるか試してみますので、その住所を教えていただけますか?」
 私は住所と楠さんのケータイ番号をメモに書き留め、受話器を置く。
 続いてパソコンの画面に登記情報提供サービスを開く。
 この登記情報提供サービスは、わざわざ法務局まで足を運ばなくても登記記録を閲覧できる、便利なサービスだ。
 楠さんから教えてもらった住所を入力し、検索をする。数秒後、該当なしという表示が出た。
 ―ダメか‥。ってことは、この住所は架空の住所ってことかな。
 類さんを見ると、彼女はこちらに背を向け、すやすやと眠っている。私は楠さんのケータイに電話をかける。
 「はい、楠です。」
 私は該当なしという表示が出たこと、おそらく架空の住所だということを告げる。
 「なぜその建物の所有者を知りたいのですか‥?差支えなければ教えていただけませんか。」
 楠さんが言うには、1週間ほど前、楠さん宛に差出人不明の手紙が届いたらしい。
 手紙には写真が入ってるほかメッセージなどはなく、封筒に差出人の名前は書かれておらず、住所(アパートなどの集合住宅ではなく、一戸建ての住所だ)だけが記載されていたとの話だ。
 楠さんがその住所宛に手紙を送っても返事はなく、建物の所有者を調べれば差出人がわかるかもと考え、登記記録を調べたそうだ。
 「あの‥、ご迷惑でなければ、差出人を調べていただくことはできないでしょうか?勿論、費用はお支払いします。」
 楠さんの頼みを聞き、逡巡する。
 人探しは司法書士の業務ではない。でも、今は特にすることがないし、その手紙は一体何なのか、個人的に興味がある。
 「わかりました。見つけられる保証はないですが‥、やってみます。」
 「ありがとうございます。それで、申し訳ないのですが‥。」


 私は晝間さんの許しを貰い、事務所を出る。
 楠さんは現在入院中で病院を出れないとのことで、私が楠さんの元へ向かうことになったのだ。
 ―あれ、そういえばここって‥。
 電車の中で病院名の書かれたメモを眺め、あることに思い当たる。
 聖隷桜町医療センター。ターミナルケア(終末期ケア)を行う、ホスピス病棟のある病院だ。
 電車を降り、ナビを片手に病院へ向かう。
 ―やっぱり‥。
 楠さんの病室は、ホスピス病棟内にあった。
 ノックをして個室に入ると、20台後半と思われる女性がベッドに横になっている。
 「こんにちは。司法書士晝間の助手で、円谷と申します。」
 私は彼女に名刺を渡す。
 「わざわざご足労いただいちゃって、すみません。私は、楠麻由香(くすのきまゆか)です。」
 楠さんは、末期の乳がんを患っており、余命はおそらく3か月程度だと話した。
 「これがその手紙です。」
 私は手紙を受け取り、中から写真を出す。どこかの風景を撮影した写真だ。
 「この写真は‥?」
 「私の故郷の写真です。」 
 楠さんが話す。
 「私は幼い頃、北海道の美瑛に住んでいたんです。すごく綺麗なところで、大好きな場所でした。でも、両親の仕事の都合で、東京に引っ越したんです。東京での暮らしは楽しくて、これまで特に北海道に戻りたいと思うことはなかったんですが‥」
 「癌になって余命を宣告されて、もう一度美瑛に行ってみたいと思うようになりました。とはいえ、無理な願いですから、よけいな負担をかけたくなくて両親にも話すことはなかったんですが‥。その写真は、美瑛の風景を撮影したものなんです。」
 「そうなんですか‥。」
 ということは、手紙の送り主は楠さんを元気づけるために、この写真を送ったということか。
 「誰か、心当たりはないですか?故郷のご友人とか‥。」
 彼女は首を振る。
 「小さい頃に住んでいたきりですから美瑛に友人はいないですし、美瑛に戻りたいと思っていたことは、誰にも話していません。」
 そう言って、彼女は瞼を閉じる。
 「その写真には、元気づけられたんです。余命を宣告されたこともそうですが、その手紙が届く少し前に、辛いことがあったので‥。」
 「辛いこと?」
 彼女はくすりと笑う。
 「失恋しちゃったんです。‥と言っても、もう短い命なので、想いを伝えることもできなかったんですが。」
 私が黙っていると、彼女は言葉を続ける。
 「ホスピスに入って初めて知ったんですが、終末期医療って、ボランティアの人達の支えがあって成り立っているんです。その人もボランティアの方で‥佐山佑樹(さやまゆうき)さんって言います。佑樹さんは、いつも私を笑顔で励ましてくれました。とりとめのない会話をするだけでしたが、それが私にとっての安らぎの場でした。彼と話している時だけは、肩の力を抜いて、自分らしくいれたような気がして‥」
 「でも、2週間前、彼が突然辞めてしまったんです‥何も言わずに。彼が去ったあと、想いを伝えておけばよかったと後悔しました。でも、結局はこれで良かったと思うようにしました。もうすぐいなくなる人から想いを伝えられたって、困らせるだけですから‥。そんな時に、その写真が届いたんです。」
 話し終わると、楠さんは息をつく。
 「写真を送ってくれた人に、お礼を言いたいんですね。」
 彼女はこくりと頷く。
 「わかりました。全力で探します。」


 意気込んで応えたのはいいものの、手がかりはゼロだ。
 架空の住所が書かれた封筒に、美瑛の風景を撮影した写真。ここからどうやって送り主を探せばいいのだろうか。
 ―画流探偵に相談してみようかな。
 事務所に戻ると、類さんが椅子に座って珈琲を飲んでいた。
 「ただいま戻りました!」
 「おかえり。どうだった?」
 私は事情を説明する。
 「なるほど‥。もしかしたら、送り主が誰かすぐにわかるかも知れないよ。」
 「え‥!?」
 類さんはそう言って、にこりと笑った。


 「どうぞ。」
 ノックをすると、楠さんの返事が聞こえた。
 類さんの次に私が入室し、続いて彼が入る。扉を閉める。
 「佐山さん‥!」
 彼の姿を見ると、楠さんが驚いて声を上げる。
 「久しぶり。」
 「一体どうして?」
 彼女は私に視線を送る。
 「写真を送ってくれたのは、佐山さんだったんですよ。ね、佐山さん。」
 類さんが告げると、佐山さんが彼女に歩み寄る。
 「僕は麻由香さんのことが好きです。残りの時間を、僕と過ごしてくれませんか。」
 突然の告白を受け、楠さんは彼に身体を向けて固まる。頬に涙が伝う。
 「どうして‥?」
 「ずっと好きでした。‥でも、恐かったんです。自分の気持ちと向き合うのが。」
 彼はごくりと唾を飲み込む。
 「‥だから、僕は自分の気持ちと、麻由香さんが死んでしまうという現実から逃げました。弱虫な僕には、それしかできなかったんです。すべてに目をそらして、忘れてしまうのを待つことしか‥」
 「でも、楠さんが幼いころ美瑛に住んでいたこと、もう一度行ってみたいと話していたことを思い出したんです。いてもたってもいられなくて、気が付いたら飛行機に乗って北海道にいました。」
 楠さんは彼の言葉に耳を傾ける。
 「封筒をポストに入れて、何もかも忘れようと思いました。‥忘れることができると、思い込もうとしました。」
 「それじゃあ、どうして?」
 楠さんが彼に問いかける。
 「‥わかりません。昨日、晝間さんから手紙が届いて、楠さんも僕のことを想ってくれていたんだと知ったら、悩んでいたことがすべて吹き飛びました。‥もう一度楠さんに会って、自分の気持ちをちゃんと伝えたいって。」
 そう言って、彼は楠さんに指輪を差し出す。
 「残りの時間を僕にくれませんか。」
 彼女は涙をぬぐい、微笑む。
 「‥逃げ出さずに、最期まで隣にいてくれるなら。」
 楠さんは彼にそっと左手を差し出した。


 「ひなたも、まだまだ勉強しないとね。」
 帰りの電車の中で、類さんが言う。
 「すみません‥。」
 類さんに怒られ、私は落ち込む。
 私が病院から戻って類さんに事情を説明した後、類さんは再度登記記録を取得した。
 そして、その登記記録には、建物の所有者として佐山さんの母親の名前が記載されていたのだ。佐山さんが差出人だと知った私たちは、楠さんに内緒で手紙を送ったのだった。
 「まあでも、確かに普段は僕が言った地番をそのまま打ち込んで、登記記録を取ってもらってるからね。仕方ないか。」
 類さんに注意されて知ったことだが、すべての土地にはそれぞれ地番というものが与えられているとのことだ。
 この地番は住所とは似て非なるもので、登記記録などを取得するためには住所を地番に読み替えて申請しないといけない。私はこの読み替えをせずに住所のまま申請したから、該当なしという結果が出たのだ。
 「でも、ひなたのおかげで楠さんと佐山さんは結ばれたんだし、助手としては満点かな。」
 今度は逆に褒められ、私は思わず微笑んだ。
 

 円谷ひなたの苦悩


 「うーん‥‥絶対におかしい」
 私は池袋の事務所で1人机に向かい、メモ用紙を片手にうんうん唸っていた。
 類さんは裁判の期日があるため、10分ほど前に眠そうな顔をしながら事務所を出たところだ。
 「どこかに間違いがあるはずなんだけど‥‥」 私はボールペンで額をトントン叩く。
 法律学には法的3段論法という考え方がある。すなわち、法規を大前提とし、具体的事実 を小前提として、法規を具体的事実に当てはめることによって結論を導き出す思考方法である。例えとしてよく使われるのは、大前提:人は必ず死ぬ。少前提:ソクラテスは人である。結論:ソクラテスは必ず死ぬ。といった思考法である。法律実務家は、必ずこの法的3段論法に沿って事件を処理していくのである。
 私を今悩ませているのは、この法的3段論法である。導き出される結論が、どう考えてもおかしいのだ。
 「えーと、まず大前提が、私はレズビアンではない」
 私は1つ1つ確認をしていく。
 「次に、少前提として、私は類さんが好きである」
 これはもはや疑いようのない事実だ。
 「そうすると結論は‥‥類さんは男である」
 私は頭を掻きむしる。やはり、何度やっても3段論法から導き出される結論と現実との間に齟齬(そご)が生じる。もしや、3段論法に重大な欠陥があるのだろうか。それとも、やはりどこかに間違いが?
 私ははたと腕を止める。 「まさか‥‥類さんは、男なのか‥‥?」
 衝撃の事実に、私の身体に電撃が走る。たしかに、類さんにアレが付いているかどうかをきちんと確認したことはない。 
 私は勢いよく立ち上がり、その拍子に椅子が倒れる。
 私はうろうろと部屋を歩き回りながら計画を練る。今日は第1回期日で、特に法務局による用もないため、類さんはすぐに帰ってくるはずだ。そして、いつも通り仮眠を取るはず。その隙を見計らって‥‥
 「獲る!‥‥おっと、いけない」 ヨダレが出てしまった。
 私はティッシュでヨダレを拭くと、椅子を起こして机に向かう。
 「そうと決まれば、仕事を片付けて時間を確保しておかねば!」
 こうして、私の勤務時間は過ぎていくのであった。
 
 
 
 
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