よく目付きが悪いといわれる。しょうがないだろう、寝不足なのだから。
よくボーッとしてるいわれる。しょうがないだろう、寝不足なのだから。
よく愛想がないといわれる。しょうがないだろう、寝不足なのだから。
一般的に最も理想的な睡眠時間とされる7~8時間を眠って一生を過ごした場合、人生の1/3を眠って過ごすことになる。あまりピンと来ないだろうが、もし僕が平均寿命である80歳くらいまで生きたとしたら27年弱は眠って過ごすことになるのだ。
こう考えると睡眠は膨大な時間の浪費とも言える。しかし、その理想的な睡眠時間を取ることが出来ると、気分、記憶力、集中力が充実し、長期的に見ると寿命が伸びるともある。短期的に見ても、マウスに栄養と睡眠どちらかを遮断して1,2週間過ごさせると、栄養を遮断させたマウスのほうが早死したという実験結果もあるらしい。
何が言いたいかというと、人間は眠るべき生物であることには間違いなく、それをすることで健康的な社会生活を過ごすことが出来るといってもいい。決してベッドや布団と絶縁することは出来ない。他の動物よりも思考する人間なら尚更だ。
「……そうだな、おい鈴川。この問題答えてみろ」
「……」
誰かから呼ばれたような声がしたが僕は舟をこいでいた。春の温かい風と空気にあてられ、更にお腹の中も満ちて気分的に最高潮な昼休み後の授業。きっと僕じゃなくても眠るだろうし、勿論僕が眠気を煩わないわけがなかった。
「まーた聞いてなかったな。ったく……授業くらいしっかりと聞け。じゃあ次は……」
教科担任は呆れたように呟くと、その視線は既に他の人を向けていた。僕に代わってスラスラと問題に答える優等生を教科担任はウンウンとご満悦と言わんばかりの顔で頷いていた。
僕、鈴川準一は寝不足に悩まされている。
具体的に言うとこの学園に入学してから。期間にして1年と少し。布団に入って寝付くことは出来るのだが、起きた時に頭のなかに特濃のもやがかかったみたいな重さがあって、それが晴れることがない。何か思考しようとすると回線が混線するというか、考えていたことが頭のなかでちりちりになって0になるというか。
レム睡眠というものがある。簡単にいえば見かけ上は眠っているものの、脳の状態は目覚めている状態と同じ状態のことだ。この時に人は夢を見、そしてその状態で起きると夢の内容を覚えているという。
それに対するノンレム睡眠は脳の状態もしっかりと休息状態に入っている睡眠のことで、一般的な睡眠状態といえばこちらにあたる。この状態の時は夢を見ておらず、そして起きるとスッキリと目覚めることが出来る。
だから人の睡眠はノンレム睡眠を維持し続けることが理論的には理想的なのだが、実際はレム睡眠とノンレム睡眠が代わる代わる繰り返されていく。夢を見ていた記憶は確かにあったのにさっぱり内容を思い出せない状態のことを言えば一番体感的であろう。眠り始めると10分間はレム睡眠をとり、その後に90分間ノンレム睡眠を取る。その後またレム睡眠を10分間……と、90分周期でレム睡眠を取ることになるのだが、明け方になって意識が覚醒する時間に近づくにつれてレム睡眠の時間は長くなっていく。
きっと僕が寝不足なのはそのレム睡眠とノンレム睡眠のサイクルが出来ていないのではないか、しっ
かりと秩序のある眠りが出来ていないのではないかと、医師に相談してみたのだが睡眠はとれていると言われて規則正しい生活の指南と睡眠薬の処方だけで終わってしまった。とりあえず言われたとおりにして薬を服用してみたものの、結果は推して知るべしである。
慢性的な寝不足のせいで段々と身の回りのこと全てが怠くなってしまい、クラス内の付き合いも薄くなってしまった。学園中等部時代ではトップクラスだった成績も、今では平均点を這うような点数になり、1年次の学期末ではついに平均点から潜りこむような点数にまで落ちた。旧友がこの変貌っぷりを見たら可笑しく思うに違いない。
しかも今年度に入ってから、本来の役割を果たしていない睡眠に変化が訪れるようになってきていた。
「……ぐぅ」
―――
気づいた時には、僕は制服姿で廊下に立っていた。とても不気味な廊下だった。
構造上は学園の廊下だということはわかる。しかし、床や壁と天井、教室への引き戸は全て赤と黒の格子模様になり、窓は墨染でもしたかのように黒くなって外の様子が全く伺えない。天井の電灯は消え、代わりにランタンがぶら下がっている。
春もだいぶ半ばに差し掛かってきた頃合いだというのに、ここは暖房器具を一切起動させていない教室のような寒さがした。何より赤と黒しかないという光景が非現実的であり、気味が悪くて、心まで冷えてくる。
僕はこの場所を知っている。新学期に入ってから眠りだすといつもこの場所にいるからだ。つまりここは夢の世界であり、現実の僕は眠っている。授業中の居眠りくらい生真面目な生徒以外は誰も経験していることだから目立つことでもないだろう。最も、僕の場合は授業をまたいで居眠りしてしまうから結局目立ってしまっているのだけれど。
そして不幸なことに、僕は起きた後もこの光景を確実に記憶していられる。夢の中でこれが夢とはっきりと自覚でき、覚醒後もしっかりと、それこそ頭が休めてると思えないくらいに記憶していられている。これが明晰夢というものだ。
明晰夢は僕の1年以上に渡る寝不足の根本的な原因であり、医者の処方でも状況が改善されない非常に厄介な持病のようなものだった。しかも、今年に入ってどんどん深刻さが増してきている。それに、明晰夢なら夢の内容もある程度いじることができるし、新学期前まではいじって遊んでいたりもしていたが、何故かできなくなってしまった。
最近では入院も考えているが、どうも踏み切ることが出来ない。この歳で精神疾患で入院など学校内での個人的な風評どころか内申にさえ響きそうなこのことをしたくないというのもあるが、入院なんてしたら一生出てこれそうにないと思えてきてしまったからだ。それに、ただ頭が常にボーっとするだけで僕の体は健康的な10代男性のそれだ。その寝不足のせいで健康的な10代男性のポテンシャルを100%発揮できるのかと聞かれると答えに戸惑ってしまうけれど。
そもそも、片親である僕がただでさえこの私立学園に入学してもらっただけでも家計にとっては結構な負担なのに、コレ以上迷惑をかけられるだろうか。
「……それにしても、何なんだここは」
この光景、 夢のなかだからこそ、不気味な夢を見ているという実感だけで驚きはしないのだけど、それが普遍化してくると驚いてくる。普通同じ夢を見ることはほとんど経験のないことだからだ。
寒さで縮こまるのも嫌だから、僕はいつも歩いてこの不気味な廊下を散策することにしている。廊下は、歩いても歩いてもいつも同じ場所に戻ってくる。ドアを開けて教室に入ろうとすると中はまた廊下である。その廊下に出て少し歩くとまた同じ場所に戻ってくる。
もしかしたら、景色がいつも同じだから同じ場所にたち戻ってくると思っているのかもしれない。実際には同じ場所ではないのかもしれないが、それを何十回と続けて何の変化もないと来ると、やはり同じ場所に戻ってくるというループに嵌っているのかもしれない。まるで世界があの廊下だけみたいに。地球を駆ける光みたいに、僕は歩いている。
この夢のなかは、いつも廊下と僕だけだった。それ以外はあえて言うなら電灯であるランタン。それ以外のものはホコリすら存在しないし少なくとも僕は見たことがない。いくら歩いても、散策しても何も出やしない、寂しい世界。
それでも、僕はひたすらこの廊下を歩かない時はなかった。
「……」
歩き疲れた僕は黒い窓に寄りかかって休むことにした。冷たい空気で冷やされた窓はひんやりと明け方に触る窓みたいに冷たく、少し火照った体にはちょうどいい。この異様な空間を体感時間で10分くらい歩くと、このように疲れてくる。まるでレム睡眠ノンレム睡眠のサイクルのようだけど、それでも夢見が終わらないということは実際にはサイクルしてないのではないだろうか。
寒気が強くなってきたところで僕は再び歩き出す。代わり映えのない空間を何もしたくない、という気持ちだけで歩いて行く。何をするにも無駄だという空間だけど、それでも何かしないとこの密室脱出ゲームの部屋みたいな雰囲気と寒さで頭が参ってしまいそうだった。
――そして、そんな僕の無意識の悪あがきが、小さく実を結ぶ。
「……ヘアピン?」
紫色の花を象ったヘアピンが、この世界に赤と黒以外の物があった。あったというか、落ちていた。すかさず手に取り、まるで貴金属のように有難く思いながら眺めてみる。やっと見つけた、この世界の変化だ。
何故こんなものが落ちていたのか。勿論僕はヘアピンを欲しがるような髪型はしてないから、僕のものではない。つまりこの世界に僕以外の人がいたというのか。しかも女の子だ。いや女の子であって欲しい。
「一体誰が……とりあえずこれはしまっておこう」
僕は紫色の花のヘアピンをスラックスのポケットに仕舞って、廊下の奥を見ようとした。
「……ッ!」
その推測は当たった。
当たったと確信した所で僕は目を覚ました。
―――
「……んあ」
目が覚めると教室はがやがやとざわついていた。時計の針は最後の授業の終了から数分経過していた時刻を表しており、帰宅準備をするものや部活へ向かう者が準備を始めている。
結局、あの夢のせいで僕は5,6時間目をぶっ続けで眠りこけてしまったようだ。そして、例によって頭が重くてスッキリと晴れ晴れとした気分でないから質が悪い。
「今日は……いつもと違った」
夢のなかの、あのヘアピン。そしてあの廊下のずっと奥を見て得た確信。あの夢に、ついに僕以外の――
「やめやめ、所詮夢なのに深く考える必要も……ねえ」
疲れている人が吐くようなため息が出た。
「鈴川、今日はまた随分と寝て……」
「おいおい茶化すなよ。こいつマジで眠れてねえんだから……おい大丈夫か?寝てて更に顔色悪くなるなんてお前らしいが……」
「い、いつものことだから……家、帰る」
話しかけてきた2人は中等部の頃からの旧友だった。同じクラスになったこともあって結構きにかけてくれているのだが、当時と比べて疎遠になった感じはあった。僕の寝不足体質であちらが遠慮してしまっていることもあるだろうが、僕自身も以前の健康体だった時の接し方ができなくなったということもあろう。
2人はバスケ部の仲間だった。今も続けているだろう。僕も中等部の頃はバスケをやっていたけれど高等部に上がってからはこの調子だ。
「悪りぃ鈴川……、その、いい夢見ろよ!」
「ぜ、善処する……」
僕は明らかにふらふらと不安定に歩きながら教室を出て行った。
「あ、貴方が……鈴川準一?」
本当に教室を出てすぐの所であった。気だるさで意識が遠くにあるような状態だから、遥か遠くから僕を呼ぶ声がするように聞こえた。実際は僕が顔を向ける方向のすぐそばに彼女はいた。
「あ、あぁ……」
決して僕はどもったりしていない。他人と話すとアガってしまう人みたいに思われそうだが、勿論僕はコミュニケーションが満足に取れない人ではない、多分。
「やっぱりね。いつも眠そうにしてる上級生……今も眠くて早く家に帰りたそう」
「人の気持ちを察せられるのなら……そこを通して頂きたいな。そうだ僕は眠いんだ」
僕はこの下級生のことを知らない。この学園の制服はブレザーであり、学年ごとに男子ならネクタイ、女子ならリボンの色が分けられている。上級生の僕に物怖じした風もなく覗きこむような表情で話しかけてきた下級生がつけているリボンは青と緑のアーガイル柄であり、コレは高等部1年の色であった。因みに僕ら高等部2年は紫と黒のレジメンタルだ。
というか、いつも眠そうにしているだけで下級生にも名前が割れてしまうのか。そんなに目立ってしまうものなのかコレは。
「そうね……でも顔を見たくなっちゃったのよ、お兄さん。意外と可愛い顔してるのね……背もあんまり高くないし」
「え何僕をいじめて楽しいの? それ男の子ならあんまり言われたくない言葉よ?」
言われ慣れていたと思っていた言葉も初対面かつ下級生に言われるとボールを勢い良く投げつけられたような気分になった。というかお兄さんとはどういうことだ。まるで呼び込みをする風俗嬢みたいでゾクゾクするではないか。勿論風俗経験などないしこの歳ではあってはいけないとも思うが。
僕も負けじとこの下級生を詰られそうなネタになりそうなものを探してみた。髪はまるであの世界の窓ガラスみたいな深い黒色で、長さは腰のクビレくらいまで届きそうなものだったがそれを1本の三つ編みにしている。人のことを小柄と詰ったがこの下級生もあまり背は高くなく、目測だが155に少し欠けるくらいか。しかしブレザーにカーディガンと体型が隠れがちな冬服でも自己主張を通そうとするくらいには発育が盛んな我儘体型だった。下は自分の髪の色に合わせたかのような白いニーソックスである。顔つきは目が少し釣上がりながらもぱっちりと開いて、全体的に大人しいような雰囲気。
要するにかなりの上物であった。美少女だった。
「今のは褒め言葉だったのに……そんなこと言われて心外だわ」
「相手を知らず知らずのうちに傷つけることだってあるんだぞお嬢ちゃん」
「あら、お兄さんのくせにそんなこと言うの?」
あらやだこの子見た目の割に口調がアグレッシブなんだけど。というかなんでこんな面白いくらいに突っかかってくるの?
「ねえ? あんた誰よ。初対面の上級生に対して些か……いや多分に不躾だと個人的には解釈しておりますが。バスケ部の後輩だったり?」
「お兄さんは察しが悪いのね……やっぱり眠気が原因かしら?」
「……」
違うと解釈していいのか判断がつきづらい回答だった。しかしこんな子が中等部のバスケ部にいたとしたら気づかないわけもないと思うから、多分違うだろう。
「というかさ、なんか人が妙に多いような気がするんだが」
「他人は他人、私達は私達よ。私はお兄さんに挨拶しにきたの」
目の前の下級生の相手をしていたから気づきもしなかったが、どうにも騒がしいような感じが強くなってきていた。寝不足故に常にボーっとしていて愛想がない僕と、この目も覚めそうな(僕は覚めないけど眠いけど)美少女が妙な雰囲気を纏って話しているのだ。足を止めたくもなるだろう。しかしこの下級生はそんなことをつゆ知らずといった素振りしか見せなかった。
本当に寝不足体質上級生を一目見たくて、それこそ動物園に展示されている動物を見に行くみたいな気持ちで、この下級生は僕に会いに来たのだろうか。というより今……
「挨拶……? 一体何の……あ、くっ……!」
「え? あ、ちょっと……お兄さん? 顔色……酷くなってるわ」
「……今日は本当に……眠いんだ。帰らせてくれ」
今日は一段と酷い。5,6時間を寝て過ごしたにも関わらず、まだ僕の体は眠りたがっている。今日はゲームの発売日だから予約品を回収して帰ろうと思っていたのに、その余裕は無さそうだ。
「……わかったわ。でもそんなに辛いのなら送ってあげましょうか?お兄さん、そんな足取りで……」
僕は彼女がいる方向へ、振り返りも彼女が言ったこと聞きもせずにただ手だけを振って歩いて行った。
僕を見る目は、『1人』を除いて皆か弱い小動物を見ているかの様だった。
なんとか家につくことが出来た僕は待ち望んでいたかのようにベッドへと倒れ、おどろおどろしい夢の世界にまた行くことになる。
―――
「……そういえば」
段々見慣れたといってもいい赤と黒の格子模様の廊下にやってきた僕は前回の夢のつづきなのかどうかを検証すべく、スラックスのポケットの中に手を突っ込んでみた。
「あったあった……ヘアピン」
前回夢が終わる前にヘアピンをそのポケットの中に入れていたが、その状態が続いていた。あまりにも変化がない夢を見続けていたから気づくわけもなかったことだ。
紫色の花のヘアピン。何の花がモチーフなのだろう。
「ということはあの人影も……」
ヘアピンを拾った後、夢が終わるほんのコンマ数秒前。僕は廊下の奥に人影をみた。はっきりとしていないし、本当に人だったかどうかはわからないけど、何も変化がないことに見慣れてしまった僕には小さな変化さえも見逃さなくなっている。廊下の影に人の影が浮かび上がった景色を、この廊下ではアレ以外で見たことはない。
「もしかしたら、このヘアピンってあの人影の持ち主なのか?」
そう思うと、僕は人影が溶けて行った方を、歩くことにした。
いつも歩いていた異様なこの廊下を、散策ではなく追いかけるために僕はひたすら歩く。
やはりどれだけ歩いても同じような廊下で、更に人影も再び浮き上がってくるような気配もない。天井のランタンは異様な廊下を浮き上がらせてぶら下がる。そのランタンも全て同じようなもので、何一つ故障していない。状態が違うランタンすら無い。
勘違いだったのか、と悪い推測が風船に空気を送り込むように膨らんでいく。そのたびに僕は再びポケットの中に入れたヘアピンを入れて握りしめ、金具が皮膚に食い込む痛みにすがりつくように悪い推測を振り払っていく。
しかし歩き疲れた僕はついに、いつものように廊下に座り込んだ。
「けっこう……いやかなり歩いたってのに……」
壁に寄りかかって、足を伸ばした姿勢で休ませた。同時にヘアピンを握りしめた手を開いて中身をじっと見た。
「もしかして……ヘアピン一つで躍起になっちゃった僕をおちょくってるのか……?ったく趣味が悪いったらありゃしないな……僕の夢なのに」
そう思うと、そのバカにした証のヘアピンが急に憎らしく思えてきて、振りかぶったポーズを取る。このままヘアピンを教室のドアに投げつけて壊してしまって、またいつもどおりに戻ろうか。
悔しい気持ちをヘアピンになすりつけて、目の前のドアに……
「……いや、違う。気づかなかった」
ハッとした。天命だった。電撃が走った。
「僕はひたすら歩くことを考えていた。廊下の奥に人影があったから、廊下の奥に行けばいいと思っていた」
インスピレーションが湧くという体験だった。いやもしかしたら僕がバカなだけだったのかもしれないけど。
それでも、この決定的かもしれない思いつきに、全てを託すことにした。
「やる気が湧いてきたぞ……」
僕は立ち上がった。ヘアピンを再び握りしめて、そのヘアピンをぶつけようとしたドア、教室のドアを勢い良く開けた。
「……?」
教室のドアを開けると、そこは教室ではなく赤と黒の格子模様の廊下だった。早い話が同じ廊下だった。騙されたのだ。
「いや騙されてないか……勝手に思い込んだだけなのに」
直前に盛り上がっての、この気分の落ち込み。正直この夢のなかで一番堪えるものだった。
大きくため息をつきながら、僕はまた同じように教室のドアを開けて、気づいた。
「……」
暗い、廊下が。暗い、少しくらい。
廊下の赤が少し黒ずんで見えたのが目の疲労ではないことを示したのが、天井のランタンだった。
「消えてる……ランタンが。2個だけ。今までは全部ついていたはずなのに」
この廊下の光源だったランタンが消えているのだから当然のように暗くなる。それは今までは絶対にないことであり、変化そのものであった。
「……行こう」
廊下のドアを開けるたびにランタンが消灯していったとしたら、ランタンが全て消灯した後にドアを開けたら。
そう思った時、僕はまたドアを開けた。
「やっぱりだ! ランタンがまた一つ消灯している!」
ドアを開けた先の廊下はやはりランタンが1つ消灯していた。これで消灯しているランタンは3つ。廊下はまた暗くなっている。
「どんどん進もう……」
廊下のドアを開け、廊下に出るたびにランタンが一つ、また一つ消えていく。どうやらドアを開けた次点ではなく、廊下に出てドアを閉めた時にフッと消えるようだ。
そして当然のように、光源がどんどん失われていくのだから暗くなって、視界が悪くなっていく。赤色が臙脂色に見え、更に焦げ茶っぽくも見えてくる。赤がどんどん黒く染まっていく。
廊下に出てランタンの灯を消していくうちにあることに気づく。
「これ……ドアの位置がどんどんズレていってる。それに……少なくなっていってるぞ……ドアが」
最初の方はドアを開けて目の前すぐにあったドアも位置がずれ、更にドアの数自体も少なくなっていく。だから次開けるドアを探して歩かなければならないのだが、ランタンの灯がどんどん消えていって、ドアを探すのも難しくなってくる。
一つ妙案が浮かんでも、回りこむように邪魔をする。この夢は本当に人をおちょくるのが好きな、意地の悪い夢だった。
そして、最後のランタンの灯が消えた。
「ははは……何も見えないな」
そりゃそうだ。周りは真っ黒で真っ暗。光源のランタンは全て消えた。歩いても歩いても、本当に変化がない。何か光が出るようなものが、と思っても今の僕が持っているものはおとしもののヘアピンだけだ。
この状態で、ドアを探すのだ。
「本当に……何も見えない」
まるで失明したみたいだった。失明した人も僅かに光を感じ取ることが出来る人が中にはいるらしいが、今の僕はそれに当てはまる人ではなかった。
仕方なく手探りで探すしか無い。壁に手をこすりつけ、スライドさせるように移動して、右手でドアを探す。壁に段差があれば、それがドアなはずだ。
「……手すりがない! これ、ドアじゃなくて……ドアに見せかけた段差……」
つくづく意地が悪かった。この期に及んでどうしてもこの廊下を攻略させたくないようだ。
丁寧に手すりまで用意した偽装ドアもあった。ドアをようやく見つけて、手すりを引いた時の絶望感。その度に誰かから指差しされているような気分になる。
「そうやって諦めさせたいんだな……闘志が湧いてきたぞ」
ダミーのドアを無視し、僕はまた右手をこすりながら探す。ここまで来たのだから、こんな意地悪されて引き下がる僕ではない。
「痛っ!」
指でこすっていると、今度は手に鋭い痛みを感じた。指が何かに切られたような痛みが走る。きっと刃でも触ったのだろう。
「なんて趣味の悪い……クソ、結構深くやっちまった」
どれくらい血が血が出ているのかはわからないが、感触では痛みが結構広範囲に渡っていることから広くやってしまったのだろう。痛み以上に突然やられたことから心臓が痛いくらいにバクバクしている。
「感触だけが頼りなのにこんな……まるで足元を見るみたいに……」
ブレザーを脱いで右手に巻きつけ、グローブのように保護して触ればもう切り傷を作ることはないだろう。ブレザーはズタズタになるかもしれないが。
どうせ夢のなかだ、とは言わないことにした。
「コレならどうだ…また探してや……」
保護した手でドアを探して数十歩。今度は脚に、もっと言えば脛に何かをぶつけたような衝撃が走った。
「痛ッ……わっ……あっ……」
今度は棒か何かが壁から突き出ていたのか、それに脛を強打した。突き抜けるような痛みに、更にバランスを崩して転倒する。
手を保護したら今度は脚を狙う。まるでこの廊下に意思があるみたいだった。
「しまっ……転ぶッ!」
しかもただ転ぶだけなら。それだけならいいが。敵はあの廊下。意地悪を通り越して性悪な廊下。
僕は転んだところに更に追撃を受けると、反射的に思った。
僕は顔の位置にブレザーで保護した手を覆って顔の位置で手をつこうとした。
「ぅっ……あぁっ……」
手の平にひんやりとした何かが通った。それと同時に、耐え難いような激痛。
何も見えないから憶測だが、大きな針のようなものがブレザーを貫通して右手を串刺しにした。
今までで一番痛かった。何故こんな仕打ちを受けなくてはいけないのかと悔しくもなるし、けどおそらくは殺されるところでもあった。
「おでこを串刺しにするところだったんだろうが……逆にお前が性悪なところを見せつけすぎた結果だろうな」
手を串刺しにしたくらいなら、めちゃくちゃ痛くて涙が出そうでも、死ぬわけではない。ただこの血みどろになったブレザーはもう着ることは出来ないだろう。
「もう……大丈夫、だ。お前の攻撃は、受けないさ」
九死に一生を得た僕は無傷な左手を地面に……はつけずに逆に針を持って立ち上がり、右手も壁にはこすりつけないで数歩だけ歩く。
立ち上がる前に針でブレザーの血に濡れてない部分をできるだけ多く引き裂き、ワイシャツも同じように引き裂いて、血で汚さないようにまたグローブを作る。
そして、そのグローブを左手にはめ、僕は落ち着いた気持ちで、壁に触る。
「痛ッ……少しピリピリくるけど……もう通用しないぞ」
引き戸の手すりはいつも金属製だった。そしてこの性悪な廊下なら電流を流すと思った。しびれさせてのけぞったところを後ろの針で串刺しにするところだったのだろう。後者は完全な憶測だけど、意地悪な廊下ならもう少しでゴールという好機、人が絶頂の気分のところを突き落とすという好機を逃すはずがない。
だからこそ罠が多くなり、嵌めようと躍起になっていたのだろう。そこが廊下の失敗であった。
「僕の勝ちだ……」
ようやく見つけた、最後のドアを開けた。
ドアを開けた途端、全ての黒が、オセロのように塗り替えられた。
目が潰れそうになるほどの強い光。急激に軽くなっていく身体と、癒えていく痛み。白い景色に、人が浮かび上がる。
それは、前回の夢に見た、廊下の人影によく似ていた影だった。
「もう大丈夫よ……お兄さん」
その声は、たしかに聞き覚えのある、でもそれよりも遥かに、慈愛に満ちた心地良い癒しだった。
―――
紫苑のヘアピン
僕の目が覚めた時は午後の9時であった。
「家に帰ったのが5時前だから……まぁいつもどおりか」
制服姿でそのまま眠ってしまったから、その制服がシワでみっともない姿を晒している。
「明日は予備のブレザーを出していくか……ん?」
制服から部屋着に着替えている段階で僕は体の変調に気づく。いつもよりだいぶ気分が軽かった。
「そういえば……最後は気分が良かったなあ。アレは一体なんだったんだろうな」
あの白い光のようなもの。夢でアレを浴びたからかどうかは知らないけれど(多分医学的には関係ないだろう)重苦しい霧がかかっていたような感覚が朝もやくらいには晴れていた。大差はなくても、少なくとも昼寝前よりは比べるまでもなく楽だった。
「母さんもそろそろ帰ってくる頃合いだろう……夕飯用意してくれていたらありがたいんだけど……」
女手一つで家計を支えてくれている母さんはこの街で不動産業をしている。2,3人で仕事しているらしいので事業規模の割に物凄く忙しく、家に帰らずオフィスに泊まる日も多い。
とはいえ、今日は何か報告もあって早く帰ってくると言っていたのだが。
「……ん?」
着替えを終えるとコンコン、とノックの音が聞こえてきた。それを僕は不気味に思った。
母さんはいちいちノックをしてから入るような神経をした人ではない。ノックをするときは大概後ろめたいことがあるような時だ。
「ど、どうぞ……」
無駄な緊張を受けながら僕は強張るように返事をした。ノック音の主はドアノブをひねってこの部屋にゆっくりと入ってきた。
「ふふふ……初めまして、兄さん」
僕の目が飛び出した。
―――
「お、お前……あの、下級……生?」
「はい、大正解よ……でも、いつまでもその下級生って呼び方は不愉快ね」
この15cmくらい上からの目線で話すちょっとトランジスタグラマーな下級生。学園で見た時と変わらないその大きな三つ編みの先に紫色の花のヘアピンがあった。
彼女が何故僕の部屋にいるのか。
「私は桐島紫苑。兄さんなら紫苑って下で呼んでほしいわ」
「いや、そうじゃなくてだな」
そもそも何故僕の家に無断で入って来て。というか施錠は確実にしておいたはずだ。そもそもこの、桐島紫苑ちゃんとは今日が初対面なはずであり、そんな初対面の野郎の部屋にズコズコ入ってくるその図々しさに頭痛を覚えてきそうであった。せっかく気分が軽くなってきてるというのに余計な気苦労をさせないでほしいものである。
「なんで初対面の男の家に入ってきているんだって? そうね……兄さんともっと話したいからじゃ、ダメ?」
「いかんでしょ……いや、そもそも何故……」
「まぁ私の言葉など今は聞きもしなさそうだから……心外だけど。妹のことをもっと信用しないといい兄さんになれないわ。兄検5級も受からないわよ」
「英検みたいなのってあんの!?」
というかしきりにお兄さんとか兄さんとか妹とか、まるで僕達が兄妹みたいな言い方ではないか。僕の明瞭な幼少期の記憶が正しければ母と父は僕が小さい頃に死別して、それからこの家族は2人きりだ。両方長男長女で兄妹は他にいないからいとこも存在しない。
「まず兄さんには兄力をつけてもらいましょう。ひとまずあんぱん買ってきて頂戴」
「ただのパシリじゃねえか」
「じゃあ明日デートしたいから1万貸して!」
「兄からデート代集ってんじゃねえ」
「兄さん……あの女、誰なの?」
「どっから出したそのナイフ」
「さてさて、採点結果が出たわ。兄検定5級、兄さんは39点。追試ね」
「1点くらいくれろよ」
物凄くマイペースなこの雰囲気のせいで僕が何を聞きたかったのか忘れてしまった。
「あら、やっと起きたのね準一。ほら、紫苑ちゃんも一旦リビングに来て……だいぶ仲良しなのね、あんた達」
「わかったわお母様」
「……頭痛が痛い」
ここまで来るとなんとなく真実が姿を現してきたようにも感じた。
―――
「そういや初めましてだねぇ~君。君が不眠症に悩まされている真衣さんの息子さんか。でも今日はいくらか顔色良さそうだ!」
リビングに来ると、妙に背が高くて白衣の妙にハマる黒縁メガネの野暮ったいような男が母を侍らせていた。真衣さんというのは僕の母の名前だ。
「言ってたわよね、私再婚するって。因みにこの人がその再婚相手なのよ」
「桐島英史だ。桐島クリニックっていう精神科の病院の主治医だよ。君は他の病院に行ってたみたいだからわからなかったかな?」
「あんたは如月病院に行ってたわよねえ。最近は全く行ってないけど」
「……」
つまりそういうことらしい。
僕の母はどういう経緯だったかは知らないがこのドクター桐島と出会い、なんやらかんやらでロマンスがあって結婚に至ったということらしい。
ドクター桐島は家と違いバツイチで、その時に引き取ってきた子供がこの下級生、桐島紫苑ちゃんであった。
そういう経緯があって、紫苑ちゃんは僕のことをお兄さんだ兄さんだと呼んできていたようだ。勿論このへんのことを僕は全く知らない。いや再婚するとはもしかしたら言ってたような事もあったようななかったような。
めでたいことは間違いない、それは確実だった。
「そんなことならさっさと言えよな……紫苑ちゃん」
「だって、初対面の兄さんにお兄さんって呼んだ時にどれだけ慌てふためくのかあの時にしか体験できないじゃない。私は兄さんのことをじっくり観察したいの」
「ハッハッハ、紫苑は準一くんのことをたいそう気に入ったようで何よりですなぁ。それでね準一くん。私は精神科医なんだ」
「はぁ、言ってましたねえ」
ドクターは僕に顔を向けて少し真面目な顔つきになった。
「君が睡眠障害で悩まされているのは真衣さんから聞いている。かれこれ1年以上と聞いているが、これは高等部へ上がった時からかな?」
「そうです」
「それまでにそういうことがあったりとか?」
「いや、特には」
「ふぅむ……あ、ごめんね急に問診めいたことしちゃって。それで、今は平気なの?」
「いつもよりはだいぶ。昼寝でぐっすりいっちゃったので」
「それはよかった。これからさ、一週間に一度定期的に問診するのと、あと酷くなったら私に相談してくれ。ゆっくり君の睡眠障害に付き合っていこう」
「あ、ありがとうございます」
「だって君のパパになる人だからな! どんどん頼ってくれたまえ!」
「頼りになるわぁ~英くん」
ひょろっとした外見に似合わず、大声を上げてドクター桐島は笑いながら僕の背中をバシバシ叩いた。目を細めてコアラみたいにドクター桐島の腕に抱きつく母さんを見て酷い気分にさせられる。彼はどんな手で母を籠絡したのだろうか。
「とりあえずね、あんたたちの事も考慮して籍はあんたが卒業したら入れることにするわ」
「さっさと入れりゃいいじゃん」
「あんたの名字が急に変わったなんてことになったら面倒でしょ? 早ければ来週には桐島準一になるわ」
「……そうですね」
そこを考慮してくれるならもっと早く再婚話をしてくれると嬉しかったのだが、それはいくら言ったところで僕の落ち度になることだろう。というか、そんなことは正直どうでも良かった。母は今まで独り身で支えてきてくれたことだし、ようやく一息つける環境になったのだと考えるとドクター桐島には感謝しなくてはいけない。
それはそれとして。
来週から苗字が変わることよりも、僕の睡眠障害がすこしずつ快方に向かうことよりも考えなくてはいけないこと。ひとまず、それを早急に解決し無くてはならない。
「紫苑ちゃん、あのさ」
「なあに、兄さん?」
「……あの、あ……いや、なんでも」
「あっ、そういえば兄さん夕ごはんまだだったわよね。何が食べたいの? 作ってあげるわ」
「じゃあ……」
紫苑ちゃんの麻婆豆腐はめちゃくちゃに辛くて美味しかった。
―――
人は追加的に睡眠をとることでそれまでの睡眠不足を解消することはできるが、寝溜めをすることは出来ないと言われている。10時間眠ったから今日は早朝4時くらいまでしていられるぞ、ということは出来ない。人間の最良の睡眠時間は6~8時間でほぼ固定されているからだ。
何故急にそんなことを言い出したのかというと、4時間近くも昼寝したにもかかわらず、僕はまた眠くなってきて寝てしまったからである。といっても、普段寝る時間よりもだいぶ遅かったのだが。
そんなわけで、今夜もまたあの夢をみるのである。
「ここは……」
見慣れた、を通り越して見飽きたといってもいい廊下だった。赤と黒の格子模様の廊下である。天井のランタンは全て灯っており、一つとして欠けていない。
「……」
一瞬だけ僕はまたあの廊下か、あの負傷しながらも諦めずに進んだ脱出劇はなかったことになったのかと絶望した。それが一瞬だったのは、いつもの教室へ続く(実際には廊下だが)ドアが真ん前にある1個だけしかなかったのである。
なんとなく、このドアは前の夢で最後に開けたドアと同じドアだと思った。
「開けてみるか」
迷うこと無く僕はドアを開けた。開いた先はやはり廊下ではなく、廊下以上に見慣れた光景だった。
「……?」
なんと僕の部屋だった。
天井すぐ近くまで迫り上がる本棚と脇にあるCDラック。学習机には普段はノートパソコンが置いてあるが、今は電気ケトルとティーポット、カップ、お茶菓子などが置いてあり、パソコンは見当たらない。学習机の隣にはTVラック、その上に薄型23インチの液晶テレビ。窓際にベッドが置いてあり、そのそばにテーブルがある。
レイアウトに多少の違いはあるが、僕の部屋に間違いはなかった。レイアウトの違いというのも、まるで自分の部屋に誰かを招くみたいな雰囲気である。
それだけに自分の部屋でありながらそんなふうに見ることは出来なかった。
「おはよう……でも夢のなかでもおはようって変かしら? どう思う、兄さん?」
不意に背後から、僕がこの部屋へ入ってきたところから聞き覚えのある声が聞こえてくる。前回の夢の終わりに聞こえてきた声と寸分違わず、つまり現実でも聞く声だった。
「ここはどこなんだ、紫苑ちゃん」
制服姿の紫苑ちゃんがいた。少し違う点はあの長い髪を1本の三つ編みにしておらず、緩いウェーブを纏っている。ヘアピンがないからだろうか。
そしてそのヘアピンは僕が持っている。
「そもそも、紫苑ちゃんでいいのかな君は。何故紫苑ちゃんがこんなところに」
「ええ、私は桐島紫苑よ、兄さん。麻婆豆腐美味しそうに食べてくれて、私は嬉しいわ」
「もっと辛味抑えてくれよな」
おそらく紫苑ちゃんだろう。確かにあの麻婆豆腐はすごく美味しかったけど。
「んで、何で僕は僕の夢で僕の部屋にいるんだ。そもそもあの廊下は何なんだ。いやそれ以前に、この夢は何なんだ。明晰夢は夢を操れるんじゃなかったのか?」
「兄さんちょっと落ち着いて……そんなまくし立てられても困るわ。でも……慌てる兄さん、ちょっと可愛いかも」
「それはいいから……で、だ。お前は何か知ってるのか」
「そんなことよりも私喉が渇いたわ」
「へ?」
「兄さん、私コーヒーがいいわ。シロップとお砂糖で甘くして? 兄さんと一緒にコーヒーが飲みたいの」
「……」
擦り寄って甘えてくるような声で紫苑ちゃんが囁く。一刻も早く、この夢の謎を解きたい僕を尻目に彼女はゆっくりとくつろぎたいらしい。
急ぐ理由はないのだが、だからって知りたいことを延々と放置できるような心持ちでもない。くつろぐのはその後でもいいし、そもそも夢のなかでもくつろいだってしょうもないような気がする。
「コーヒーなんか後でも飲めるだろ。そんなことよりも教えろよ。一体ここは何なんだ。なんだって俺はこんな夢を見てるんだ?」
「兄さん、言ってることが支離滅裂よ。やっぱり疲れてるんだわ」
「大して歩いてるわけでもないのに疲れてるわけ無いだろ。そもそもなんで紫苑ちゃんもいるんだ。最近会ったからか……?」
「……兄さん!」
バチンと張りのある音が耳元で響き、続いて両頬に痛みが走る。少し背伸びした紫苑ちゃんが気付けをするみたいに僕の頬を両手で挟みこむように叩いた。
「っ……!な、なにしやが……」
「会話は独りでする物じゃないわよ? 人の言いたいことも聞かずに自分のことだけ喋るひとりよがりな会話は会話じゃないわ。落ち着いて兄さん……兄さんはそんな人じゃない」
「……」
「……不安なんでしょう? わかるわその気持ち。私もさっきまで不安じゃなかったわけじゃないもの。でも大丈夫……やっと兄さんに会えたから」
「……あの、さっぱり話が」
大きな瞳は僕の眼底を覗きこむかのように、一心に見つめてくる。頬に触れる両手は子供の不安を諌める母親のような温もりを持ち、ゆっくりとクールダウンしていく心を感じ取る。どうやら無意識の内に、僕の心は余裕をなくしていたらしい。
当然だった。あの異様な空間をやっとの思いで抜け出し、そして初めて人に会えたのだ。逸る気持ちが出てくるものである。
「コーヒー、飲みましょう? ゆっくり話すから……兄さんも少し落ち着けるでしょう?」
「あ、ああ……」
「コーヒーは……やっぱり私が入れるわ。兄さんは何入れる? それともブラック?」
紫苑ちゃんがコーヒーを入れている間に、ケトルの横にあった袋菓子の中身を開け、テーブルの上に置く。そのあとに紫苑ちゃんがコーピーカップを2人分持ってきた。2人だけのお茶会である。
「んんっ……このコーヒー美味しいな。普段インスタントしか飲んでないからそう思うのかもしれないけど」
「コレもインスタントよ。でも確かに美味しいわよね……」
「ふぅん……」
数回、口につけた所で僕はカップをカップソーサーに置いて紫苑ちゃんの方を向く。
「それでさ、一体ここは……」
「夢よ。でも、兄さんの夢じゃない」
「え?」
紫苑ちゃんが何か続けようとしたのも遮って、僕は反射的に声を出した。
「僕の夢……じゃない? 僕は今寝てるんだぞ? じゃあコレは一体何なんだ?」
びっくりした。そして意味不明だった。トンデモ理論を説明されそうな予兆に身震いもした。
「兄さんは明晰夢って知ってる?」
「知ってるも何も、それに悩まされてんだけど」
「じゃあ、その明晰夢が変化してきたのはいつ?」
「変化?」
「明晰夢を見る人って、ある程度自分で夢を書き換えられるってのは知ってるわよね? 例えば何だけど……その夢を書き換えられなくなったのはいつ?」
「いつって……あの廊下に出るようになってからだから……始業式前後か?」
「4月頭ね。じゃあ、その前の夢って何を見たか覚えている?」
「夢……あ、そういえば………」
明晰夢のせいで寝不足のような怠さに悩まされていた僕だったが、始業式が始まる当日の深夜に見た夢の内容を全く覚えていない。覚えてないというか、見た記憶すら無いような気がする。長らくそんな気分を味わってなかったので夢は見たが内容を忘れてしまった、と思い込んでいたが実際はそうではないかもしれない。
「見てない……かもしれない」
「夢をみる前、兄さんは何をしていたの?」
「その日は……たしかかなり体調が悪くて一日中部屋にこもっていた気がする。熱はなかったんだけどひたすら身体が重くて、食欲すらもないくらいだった」
「……わかったわ」
紫苑ちゃんが続ける。
「とりあえず兄さんの夢じゃないっていう説明からするわ。説明というか兄さんが確実に証明できると確信するのは起きてからなんだけど……今私が食べたこのお菓子、絶対に覚えておいて」
紫苑ちゃんが袋菓子のゴミを広げで僕の前に置く。チョコクッキーと一口サイズのチョコ、今から食べようとしているらしいストロベリーチョコのポッキーの袋だ
「朝起きたら私に夢のなかで食べたお菓子はチョコクッキーとチョコ、いちごのポッキーだって言ってみて」
「……それってつまり、現実の紫苑ちゃんも同じ夢を見ているってこと?」
「今日だけじゃないわ。これからもずっと」
「……夢を共有してるってことか? なんでそんなことに……?」
「私も良くはわからない。因みに、私は今年の3月からこの夢を見続けているの」
「2ヶ月ぅ!? そいつはすげえな……。じゃあ紫苑ちゃんも寝不足とか……」
「案外慣れるものよ。3ヶ月くらいまでは確かに寝不足で本当に酷かったわ。私の場合は今年度に入ってようやく落ち着いてきたってところかしらね」
「……なぜ、4月に?」
「……兄さん、貴方を見つけたから」
「ぼ、僕?」
僕が指を刺された。
僕を見つけたから、夢の状態が良くなったということなのか。
「私もこの夢のなかで毎日一人で佇んで、寂しかった。誰もいないし、何も変わらないし、どこへ行っても同じ風景。気が参りそうだったわ」
まさに昨日までの僕。あの赤と黒の格子模様の廊下みたいな場所で彼女もまた迷っていたのだ。
「そんな時に、現実世界でパパが再婚するって、鈴川真衣さんって人とって私に言ってたのを思い出したの。それで、真衣さん……新しいママに私より年上の息子さんがいるってことも聞いてたから、ちょっと調べさせてもらったわ。ごめんなさい、兄さんのことは結構前から知っていたの」
紫苑ちゃんがコーピーカップを傾けて一口飲む。喉がゴクリと波打つ。
そんな経緯があったのかとおもうと、少し不気味に思えてくる。
「兄さんもあの廊下で迷っていた。どれだけ歩いても景色が変わらない、気味が悪くて、無機質な廊下で兄さんも迷っていた」
「……ああ。本当にアレはどうしようもなかった」
「兄さん1人ではどうしようもなかったから、なんとか私がいることだけでも教えようと……ヘアピンを投げたの」
「ヘアピンを投げた? ど、どうやって?」
「これこれ」
紫苑ちゃんがTVラックの上においてあるリモコンを取り、電源をつけた。続いて番組表を押して適当なテレビ局の一覧を押すと、僕がいた廊下の映像が映し出された。更に半分になったクッキーをテレビに投げつけると、クッキーが画面にズブズブと音を立てて沈み込んだ。クッキーが画面に完全に埋め込まれると、映像に何かが落ちてきたような音がした。
「これでヘアピンを落としたのか……これだ、これで変わったんだ」
スラックスのポケットから紫色の花のヘアピンを取り出して紫苑ちゃんに手渡した。
「これのお陰で誰かがいるって思えて……それがきっかけで脱出できた気がする。すげえ変な話だけどさ……紫苑ちゃんのおかげって言ったほうがいいかもしれない」
「かもしれない……じゃないわ。もっと褒めて、兄さんっ」
「……あうん」
ホント印象以上にフランクなノリをするヤツだ。
「それで、今に至るというわけか」
「私の経緯はそんな感じね。何か変化を起こす、現実でも夢でも、それがあの悪夢から脱出する方法」
放課後に紫苑ちゃんがやってきたのはその変化というものを強調するためだろうか。誰かがいるという思いから、誰かに会いたいという思い、誰かを救いたいという思い。変化を起こせばこの悪夢から脱出できるということ。
少なくとも、きっかけが両方それなのだから。
「一体何でこんな夢をみるようになったのか……そもそも、コレが夢なのか……」
「寝てる時だけどこか違う場所に移動したって、感じよね」
それなのだ。自分で夢を書き換えられられない、つまり明晰夢ではなく、でもまるで起きている時みたいに意識は覚醒していて、更に現実的でない光景だらけで、この部屋はほとんど僕の部屋で、おまけに寝ているはずの紫苑ちゃんとご面会だ。夢と夢では有り得ない要素ががんじがらめにからみ合って、元々は一体何なのか検討もつかない。
「そういえば、僕と紫苑ちゃん以外には誰も居ないのか? あのテレビ、他の人の居場所も見られるんでしょ?」
言うよりも早く、紫苑ちゃんが番組表を表示させたが、テレビ局は先程僕がいたろうかを映しだした局しか表示されなかった。僕以外の人の居場所はわからないようだ。そもそもいるのかどうかも怪しいところだけど。
「兄さんのチャンネルしか表示されないわ。テレビも万能じゃないわね」
「しっかし……ふあぁぁぁ」
話しているうちに不安が取れ、自分の部屋に似ているという安心感も手伝ってだいぶ落ち着いてきた。躍起になってこの夢の世界の正体を暴こうとしようと思った、そう思った時期があったかもしれない。
しかしこのコーヒーを新しい妹と一緒に飲むこの雰囲気。紫苑ちゃんの内なる人柄にも触れて、僕は緊張することはなかった。
「兄さん欠伸? 夢の中でも眠たいなんて、ホントマイペースね」
「うっせー。なーんか片意地張るのもつかれちゃってさ……なんかもうどうでもいいやって」
「気にならないの? この夢の世界」
「気にならないわけじゃないけど……どう調べていくのかもゆっくり考えないと。焦ってもしょうがないって紫苑ちゃんのおかげで少し気づけた」
あの廊下の試練だって、痛い思いをしたおかげで冷静になることが出来て、扉を見つけた。感情的になってむやみやたらに解決させようとするのは馬鹿がやることであって、何事も冷静に対処すればどうということはないのである。
「兄さん、コーヒーおかわりする?」
「んあ? あぁ頼む」
妹にコーヒーを注がせてながら、僕は進展した夢の中でほっとくつろげる安心感に心を踊らせずに入られなかった。
明日もまた、目覚めはいつもよりよくなることだろう。
「ずずず……ぶっはっ!! 苦っ! エスプレッソ!??」
「うふふ……だいせいこー」
「てめえ……飲み物で遊ぶなってカーチャンに怒られなかったか!!?」
夜は更けていく。
―――
「家に帰ったのが5時前だから……まぁいつもどおりか」
制服姿でそのまま眠ってしまったから、その制服がシワでみっともない姿を晒している。
「明日は予備のブレザーを出していくか……ん?」
制服から部屋着に着替えている段階で僕は体の変調に気づく。いつもよりだいぶ気分が軽かった。
「そういえば……最後は気分が良かったなあ。アレは一体なんだったんだろうな」
あの白い光のようなもの。夢でアレを浴びたからかどうかは知らないけれど(多分医学的には関係ないだろう)重苦しい霧がかかっていたような感覚が朝もやくらいには晴れていた。大差はなくても、少なくとも昼寝前よりは比べるまでもなく楽だった。
「母さんもそろそろ帰ってくる頃合いだろう……夕飯用意してくれていたらありがたいんだけど……」
女手一つで家計を支えてくれている母さんはこの街で不動産業をしている。2,3人で仕事しているらしいので事業規模の割に物凄く忙しく、家に帰らずオフィスに泊まる日も多い。
とはいえ、今日は何か報告もあって早く帰ってくると言っていたのだが。
「……ん?」
着替えを終えるとコンコン、とノックの音が聞こえてきた。それを僕は不気味に思った。
母さんはいちいちノックをしてから入るような神経をした人ではない。ノックをするときは大概後ろめたいことがあるような時だ。
「ど、どうぞ……」
無駄な緊張を受けながら僕は強張るように返事をした。ノック音の主はドアノブをひねってこの部屋にゆっくりと入ってきた。
「ふふふ……初めまして、兄さん」
僕の目が飛び出した。
―――
「お、お前……あの、下級……生?」
「はい、大正解よ……でも、いつまでもその下級生って呼び方は不愉快ね」
この15cmくらい上からの目線で話すちょっとトランジスタグラマーな下級生。学園で見た時と変わらないその大きな三つ編みの先に紫色の花のヘアピンがあった。
彼女が何故僕の部屋にいるのか。
「私は桐島紫苑。兄さんなら紫苑って下で呼んでほしいわ」
「いや、そうじゃなくてだな」
そもそも何故僕の家に無断で入って来て。というか施錠は確実にしておいたはずだ。そもそもこの、桐島紫苑ちゃんとは今日が初対面なはずであり、そんな初対面の野郎の部屋にズコズコ入ってくるその図々しさに頭痛を覚えてきそうであった。せっかく気分が軽くなってきてるというのに余計な気苦労をさせないでほしいものである。
「なんで初対面の男の家に入ってきているんだって? そうね……兄さんともっと話したいからじゃ、ダメ?」
「いかんでしょ……いや、そもそも何故……」
「まぁ私の言葉など今は聞きもしなさそうだから……心外だけど。妹のことをもっと信用しないといい兄さんになれないわ。兄検5級も受からないわよ」
「英検みたいなのってあんの!?」
というかしきりにお兄さんとか兄さんとか妹とか、まるで僕達が兄妹みたいな言い方ではないか。僕の明瞭な幼少期の記憶が正しければ母と父は僕が小さい頃に死別して、それからこの家族は2人きりだ。両方長男長女で兄妹は他にいないからいとこも存在しない。
「まず兄さんには兄力をつけてもらいましょう。ひとまずあんぱん買ってきて頂戴」
「ただのパシリじゃねえか」
「じゃあ明日デートしたいから1万貸して!」
「兄からデート代集ってんじゃねえ」
「兄さん……あの女、誰なの?」
「どっから出したそのナイフ」
「さてさて、採点結果が出たわ。兄検定5級、兄さんは39点。追試ね」
「1点くらいくれろよ」
物凄くマイペースなこの雰囲気のせいで僕が何を聞きたかったのか忘れてしまった。
「あら、やっと起きたのね準一。ほら、紫苑ちゃんも一旦リビングに来て……だいぶ仲良しなのね、あんた達」
「わかったわお母様」
「……頭痛が痛い」
ここまで来るとなんとなく真実が姿を現してきたようにも感じた。
―――
「そういや初めましてだねぇ~君。君が不眠症に悩まされている真衣さんの息子さんか。でも今日はいくらか顔色良さそうだ!」
リビングに来ると、妙に背が高くて白衣の妙にハマる黒縁メガネの野暮ったいような男が母を侍らせていた。真衣さんというのは僕の母の名前だ。
「言ってたわよね、私再婚するって。因みにこの人がその再婚相手なのよ」
「桐島英史だ。桐島クリニックっていう精神科の病院の主治医だよ。君は他の病院に行ってたみたいだからわからなかったかな?」
「あんたは如月病院に行ってたわよねえ。最近は全く行ってないけど」
「……」
つまりそういうことらしい。
僕の母はどういう経緯だったかは知らないがこのドクター桐島と出会い、なんやらかんやらでロマンスがあって結婚に至ったということらしい。
ドクター桐島は家と違いバツイチで、その時に引き取ってきた子供がこの下級生、桐島紫苑ちゃんであった。
そういう経緯があって、紫苑ちゃんは僕のことをお兄さんだ兄さんだと呼んできていたようだ。勿論このへんのことを僕は全く知らない。いや再婚するとはもしかしたら言ってたような事もあったようななかったような。
めでたいことは間違いない、それは確実だった。
「そんなことならさっさと言えよな……紫苑ちゃん」
「だって、初対面の兄さんにお兄さんって呼んだ時にどれだけ慌てふためくのかあの時にしか体験できないじゃない。私は兄さんのことをじっくり観察したいの」
「ハッハッハ、紫苑は準一くんのことをたいそう気に入ったようで何よりですなぁ。それでね準一くん。私は精神科医なんだ」
「はぁ、言ってましたねえ」
ドクターは僕に顔を向けて少し真面目な顔つきになった。
「君が睡眠障害で悩まされているのは真衣さんから聞いている。かれこれ1年以上と聞いているが、これは高等部へ上がった時からかな?」
「そうです」
「それまでにそういうことがあったりとか?」
「いや、特には」
「ふぅむ……あ、ごめんね急に問診めいたことしちゃって。それで、今は平気なの?」
「いつもよりはだいぶ。昼寝でぐっすりいっちゃったので」
「それはよかった。これからさ、一週間に一度定期的に問診するのと、あと酷くなったら私に相談してくれ。ゆっくり君の睡眠障害に付き合っていこう」
「あ、ありがとうございます」
「だって君のパパになる人だからな! どんどん頼ってくれたまえ!」
「頼りになるわぁ~英くん」
ひょろっとした外見に似合わず、大声を上げてドクター桐島は笑いながら僕の背中をバシバシ叩いた。目を細めてコアラみたいにドクター桐島の腕に抱きつく母さんを見て酷い気分にさせられる。彼はどんな手で母を籠絡したのだろうか。
「とりあえずね、あんたたちの事も考慮して籍はあんたが卒業したら入れることにするわ」
「さっさと入れりゃいいじゃん」
「あんたの名字が急に変わったなんてことになったら面倒でしょ? 早ければ来週には桐島準一になるわ」
「……そうですね」
そこを考慮してくれるならもっと早く再婚話をしてくれると嬉しかったのだが、それはいくら言ったところで僕の落ち度になることだろう。というか、そんなことは正直どうでも良かった。母は今まで独り身で支えてきてくれたことだし、ようやく一息つける環境になったのだと考えるとドクター桐島には感謝しなくてはいけない。
それはそれとして。
来週から苗字が変わることよりも、僕の睡眠障害がすこしずつ快方に向かうことよりも考えなくてはいけないこと。ひとまず、それを早急に解決し無くてはならない。
「紫苑ちゃん、あのさ」
「なあに、兄さん?」
「……あの、あ……いや、なんでも」
「あっ、そういえば兄さん夕ごはんまだだったわよね。何が食べたいの? 作ってあげるわ」
「じゃあ……」
紫苑ちゃんの麻婆豆腐はめちゃくちゃに辛くて美味しかった。
―――
人は追加的に睡眠をとることでそれまでの睡眠不足を解消することはできるが、寝溜めをすることは出来ないと言われている。10時間眠ったから今日は早朝4時くらいまでしていられるぞ、ということは出来ない。人間の最良の睡眠時間は6~8時間でほぼ固定されているからだ。
何故急にそんなことを言い出したのかというと、4時間近くも昼寝したにもかかわらず、僕はまた眠くなってきて寝てしまったからである。といっても、普段寝る時間よりもだいぶ遅かったのだが。
そんなわけで、今夜もまたあの夢をみるのである。
「ここは……」
見慣れた、を通り越して見飽きたといってもいい廊下だった。赤と黒の格子模様の廊下である。天井のランタンは全て灯っており、一つとして欠けていない。
「……」
一瞬だけ僕はまたあの廊下か、あの負傷しながらも諦めずに進んだ脱出劇はなかったことになったのかと絶望した。それが一瞬だったのは、いつもの教室へ続く(実際には廊下だが)ドアが真ん前にある1個だけしかなかったのである。
なんとなく、このドアは前の夢で最後に開けたドアと同じドアだと思った。
「開けてみるか」
迷うこと無く僕はドアを開けた。開いた先はやはり廊下ではなく、廊下以上に見慣れた光景だった。
「……?」
なんと僕の部屋だった。
天井すぐ近くまで迫り上がる本棚と脇にあるCDラック。学習机には普段はノートパソコンが置いてあるが、今は電気ケトルとティーポット、カップ、お茶菓子などが置いてあり、パソコンは見当たらない。学習机の隣にはTVラック、その上に薄型23インチの液晶テレビ。窓際にベッドが置いてあり、そのそばにテーブルがある。
レイアウトに多少の違いはあるが、僕の部屋に間違いはなかった。レイアウトの違いというのも、まるで自分の部屋に誰かを招くみたいな雰囲気である。
それだけに自分の部屋でありながらそんなふうに見ることは出来なかった。
「おはよう……でも夢のなかでもおはようって変かしら? どう思う、兄さん?」
不意に背後から、僕がこの部屋へ入ってきたところから聞き覚えのある声が聞こえてくる。前回の夢の終わりに聞こえてきた声と寸分違わず、つまり現実でも聞く声だった。
「ここはどこなんだ、紫苑ちゃん」
制服姿の紫苑ちゃんがいた。少し違う点はあの長い髪を1本の三つ編みにしておらず、緩いウェーブを纏っている。ヘアピンがないからだろうか。
そしてそのヘアピンは僕が持っている。
「そもそも、紫苑ちゃんでいいのかな君は。何故紫苑ちゃんがこんなところに」
「ええ、私は桐島紫苑よ、兄さん。麻婆豆腐美味しそうに食べてくれて、私は嬉しいわ」
「もっと辛味抑えてくれよな」
おそらく紫苑ちゃんだろう。確かにあの麻婆豆腐はすごく美味しかったけど。
「んで、何で僕は僕の夢で僕の部屋にいるんだ。そもそもあの廊下は何なんだ。いやそれ以前に、この夢は何なんだ。明晰夢は夢を操れるんじゃなかったのか?」
「兄さんちょっと落ち着いて……そんなまくし立てられても困るわ。でも……慌てる兄さん、ちょっと可愛いかも」
「それはいいから……で、だ。お前は何か知ってるのか」
「そんなことよりも私喉が渇いたわ」
「へ?」
「兄さん、私コーヒーがいいわ。シロップとお砂糖で甘くして? 兄さんと一緒にコーヒーが飲みたいの」
「……」
擦り寄って甘えてくるような声で紫苑ちゃんが囁く。一刻も早く、この夢の謎を解きたい僕を尻目に彼女はゆっくりとくつろぎたいらしい。
急ぐ理由はないのだが、だからって知りたいことを延々と放置できるような心持ちでもない。くつろぐのはその後でもいいし、そもそも夢のなかでもくつろいだってしょうもないような気がする。
「コーヒーなんか後でも飲めるだろ。そんなことよりも教えろよ。一体ここは何なんだ。なんだって俺はこんな夢を見てるんだ?」
「兄さん、言ってることが支離滅裂よ。やっぱり疲れてるんだわ」
「大して歩いてるわけでもないのに疲れてるわけ無いだろ。そもそもなんで紫苑ちゃんもいるんだ。最近会ったからか……?」
「……兄さん!」
バチンと張りのある音が耳元で響き、続いて両頬に痛みが走る。少し背伸びした紫苑ちゃんが気付けをするみたいに僕の頬を両手で挟みこむように叩いた。
「っ……!な、なにしやが……」
「会話は独りでする物じゃないわよ? 人の言いたいことも聞かずに自分のことだけ喋るひとりよがりな会話は会話じゃないわ。落ち着いて兄さん……兄さんはそんな人じゃない」
「……」
「……不安なんでしょう? わかるわその気持ち。私もさっきまで不安じゃなかったわけじゃないもの。でも大丈夫……やっと兄さんに会えたから」
「……あの、さっぱり話が」
大きな瞳は僕の眼底を覗きこむかのように、一心に見つめてくる。頬に触れる両手は子供の不安を諌める母親のような温もりを持ち、ゆっくりとクールダウンしていく心を感じ取る。どうやら無意識の内に、僕の心は余裕をなくしていたらしい。
当然だった。あの異様な空間をやっとの思いで抜け出し、そして初めて人に会えたのだ。逸る気持ちが出てくるものである。
「コーヒー、飲みましょう? ゆっくり話すから……兄さんも少し落ち着けるでしょう?」
「あ、ああ……」
「コーヒーは……やっぱり私が入れるわ。兄さんは何入れる? それともブラック?」
紫苑ちゃんがコーヒーを入れている間に、ケトルの横にあった袋菓子の中身を開け、テーブルの上に置く。そのあとに紫苑ちゃんがコーピーカップを2人分持ってきた。2人だけのお茶会である。
「んんっ……このコーヒー美味しいな。普段インスタントしか飲んでないからそう思うのかもしれないけど」
「コレもインスタントよ。でも確かに美味しいわよね……」
「ふぅん……」
数回、口につけた所で僕はカップをカップソーサーに置いて紫苑ちゃんの方を向く。
「それでさ、一体ここは……」
「夢よ。でも、兄さんの夢じゃない」
「え?」
紫苑ちゃんが何か続けようとしたのも遮って、僕は反射的に声を出した。
「僕の夢……じゃない? 僕は今寝てるんだぞ? じゃあコレは一体何なんだ?」
びっくりした。そして意味不明だった。トンデモ理論を説明されそうな予兆に身震いもした。
「兄さんは明晰夢って知ってる?」
「知ってるも何も、それに悩まされてんだけど」
「じゃあ、その明晰夢が変化してきたのはいつ?」
「変化?」
「明晰夢を見る人って、ある程度自分で夢を書き換えられるってのは知ってるわよね? 例えば何だけど……その夢を書き換えられなくなったのはいつ?」
「いつって……あの廊下に出るようになってからだから……始業式前後か?」
「4月頭ね。じゃあ、その前の夢って何を見たか覚えている?」
「夢……あ、そういえば………」
明晰夢のせいで寝不足のような怠さに悩まされていた僕だったが、始業式が始まる当日の深夜に見た夢の内容を全く覚えていない。覚えてないというか、見た記憶すら無いような気がする。長らくそんな気分を味わってなかったので夢は見たが内容を忘れてしまった、と思い込んでいたが実際はそうではないかもしれない。
「見てない……かもしれない」
「夢をみる前、兄さんは何をしていたの?」
「その日は……たしかかなり体調が悪くて一日中部屋にこもっていた気がする。熱はなかったんだけどひたすら身体が重くて、食欲すらもないくらいだった」
「……わかったわ」
紫苑ちゃんが続ける。
「とりあえず兄さんの夢じゃないっていう説明からするわ。説明というか兄さんが確実に証明できると確信するのは起きてからなんだけど……今私が食べたこのお菓子、絶対に覚えておいて」
紫苑ちゃんが袋菓子のゴミを広げで僕の前に置く。チョコクッキーと一口サイズのチョコ、今から食べようとしているらしいストロベリーチョコのポッキーの袋だ
「朝起きたら私に夢のなかで食べたお菓子はチョコクッキーとチョコ、いちごのポッキーだって言ってみて」
「……それってつまり、現実の紫苑ちゃんも同じ夢を見ているってこと?」
「今日だけじゃないわ。これからもずっと」
「……夢を共有してるってことか? なんでそんなことに……?」
「私も良くはわからない。因みに、私は今年の3月からこの夢を見続けているの」
「2ヶ月ぅ!? そいつはすげえな……。じゃあ紫苑ちゃんも寝不足とか……」
「案外慣れるものよ。3ヶ月くらいまでは確かに寝不足で本当に酷かったわ。私の場合は今年度に入ってようやく落ち着いてきたってところかしらね」
「……なぜ、4月に?」
「……兄さん、貴方を見つけたから」
「ぼ、僕?」
僕が指を刺された。
僕を見つけたから、夢の状態が良くなったということなのか。
「私もこの夢のなかで毎日一人で佇んで、寂しかった。誰もいないし、何も変わらないし、どこへ行っても同じ風景。気が参りそうだったわ」
まさに昨日までの僕。あの赤と黒の格子模様の廊下みたいな場所で彼女もまた迷っていたのだ。
「そんな時に、現実世界でパパが再婚するって、鈴川真衣さんって人とって私に言ってたのを思い出したの。それで、真衣さん……新しいママに私より年上の息子さんがいるってことも聞いてたから、ちょっと調べさせてもらったわ。ごめんなさい、兄さんのことは結構前から知っていたの」
紫苑ちゃんがコーピーカップを傾けて一口飲む。喉がゴクリと波打つ。
そんな経緯があったのかとおもうと、少し不気味に思えてくる。
「兄さんもあの廊下で迷っていた。どれだけ歩いても景色が変わらない、気味が悪くて、無機質な廊下で兄さんも迷っていた」
「……ああ。本当にアレはどうしようもなかった」
「兄さん1人ではどうしようもなかったから、なんとか私がいることだけでも教えようと……ヘアピンを投げたの」
「ヘアピンを投げた? ど、どうやって?」
「これこれ」
紫苑ちゃんがTVラックの上においてあるリモコンを取り、電源をつけた。続いて番組表を押して適当なテレビ局の一覧を押すと、僕がいた廊下の映像が映し出された。更に半分になったクッキーをテレビに投げつけると、クッキーが画面にズブズブと音を立てて沈み込んだ。クッキーが画面に完全に埋め込まれると、映像に何かが落ちてきたような音がした。
「これでヘアピンを落としたのか……これだ、これで変わったんだ」
スラックスのポケットから紫色の花のヘアピンを取り出して紫苑ちゃんに手渡した。
「これのお陰で誰かがいるって思えて……それがきっかけで脱出できた気がする。すげえ変な話だけどさ……紫苑ちゃんのおかげって言ったほうがいいかもしれない」
「かもしれない……じゃないわ。もっと褒めて、兄さんっ」
「……あうん」
ホント印象以上にフランクなノリをするヤツだ。
「それで、今に至るというわけか」
「私の経緯はそんな感じね。何か変化を起こす、現実でも夢でも、それがあの悪夢から脱出する方法」
放課後に紫苑ちゃんがやってきたのはその変化というものを強調するためだろうか。誰かがいるという思いから、誰かに会いたいという思い、誰かを救いたいという思い。変化を起こせばこの悪夢から脱出できるということ。
少なくとも、きっかけが両方それなのだから。
「一体何でこんな夢をみるようになったのか……そもそも、コレが夢なのか……」
「寝てる時だけどこか違う場所に移動したって、感じよね」
それなのだ。自分で夢を書き換えられられない、つまり明晰夢ではなく、でもまるで起きている時みたいに意識は覚醒していて、更に現実的でない光景だらけで、この部屋はほとんど僕の部屋で、おまけに寝ているはずの紫苑ちゃんとご面会だ。夢と夢では有り得ない要素ががんじがらめにからみ合って、元々は一体何なのか検討もつかない。
「そういえば、僕と紫苑ちゃん以外には誰も居ないのか? あのテレビ、他の人の居場所も見られるんでしょ?」
言うよりも早く、紫苑ちゃんが番組表を表示させたが、テレビ局は先程僕がいたろうかを映しだした局しか表示されなかった。僕以外の人の居場所はわからないようだ。そもそもいるのかどうかも怪しいところだけど。
「兄さんのチャンネルしか表示されないわ。テレビも万能じゃないわね」
「しっかし……ふあぁぁぁ」
話しているうちに不安が取れ、自分の部屋に似ているという安心感も手伝ってだいぶ落ち着いてきた。躍起になってこの夢の世界の正体を暴こうとしようと思った、そう思った時期があったかもしれない。
しかしこのコーヒーを新しい妹と一緒に飲むこの雰囲気。紫苑ちゃんの内なる人柄にも触れて、僕は緊張することはなかった。
「兄さん欠伸? 夢の中でも眠たいなんて、ホントマイペースね」
「うっせー。なーんか片意地張るのもつかれちゃってさ……なんかもうどうでもいいやって」
「気にならないの? この夢の世界」
「気にならないわけじゃないけど……どう調べていくのかもゆっくり考えないと。焦ってもしょうがないって紫苑ちゃんのおかげで少し気づけた」
あの廊下の試練だって、痛い思いをしたおかげで冷静になることが出来て、扉を見つけた。感情的になってむやみやたらに解決させようとするのは馬鹿がやることであって、何事も冷静に対処すればどうということはないのである。
「兄さん、コーヒーおかわりする?」
「んあ? あぁ頼む」
妹にコーヒーを注がせてながら、僕は進展した夢の中でほっとくつろげる安心感に心を踊らせずに入られなかった。
明日もまた、目覚めはいつもよりよくなることだろう。
「ずずず……ぶっはっ!! 苦っ! エスプレッソ!??」
「うふふ……だいせいこー」
「てめえ……飲み物で遊ぶなってカーチャンに怒られなかったか!!?」
夜は更けていく。
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