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 9回裏2アウト。ランナーは1塁。点差は一つ、2対1。大丈夫、俺が勝ってる。カウントは3ボール2ストライク。バッターはあいつ。逆転の舞台は整っている。だけど、あと一球。あと一球決めれば勝ちだ。
 身体は沸き立っているのに、頭はやけに静かで、張り付いた汗が緊張しているのかと問いかける。ボールを握る手は少し震えている。これはきっと武者震いだ。その手に力を込めて、バッターボックスに向かい合う。あいつと目が合った。来い。そう言っている気がした。この場所にいるのは、今、俺とあいつ、2人だけだ。
 ボールを握りしめ、大きく振りかぶり、俺は──

 夢はいつもここで止まっている。

 夏の朝はいつも身体に張り付いた汗が気持ち悪い。毎年、同じ夢を見るせいだ。あの場所にまた、立っている。
 逃げる選択肢は無いはずだった。あいつと勝負するために、俺は投げ続けてきたはずだった。なのに。
 投げた感覚は無く、気付けば熱気も身体を離れていた。ボール。どこかからそれだけが聞こえて、周りの非難の声も、落胆のため息も、他には何も聞こえなかった。景色は目に映っても、頭は真っ白で、何も見えなかった。あいつの顔を、見ることが出来なかった。
 俺はあいつから逃げてしまった。
 春うらら、そんな言葉が似合う今日。野球少年2名が中学最後のキャッチボールだと白球に思い出を乗せ語り合う、同じ空の下、甲子園では春の日本最強を目指す球児達の熱い試合が行われている、そんなのどかな1日。
「ハンバー、グッ」
  ーーパンッ。
「グラビ、アッ」
 ーーパンッ。
「アップルパ、イッ」
 ーーパンッ。
「イ、イ、イ」
 いい淀み、握りしめたボールを見つめた。引っ掻いたような黒い傷痕、所々剥げている。春は出会いと別れの季節。4月からこの軟球ともお別れだ。お前の事は忘れないグッバイ相棒、と哀愁に浸っていると、哀愁とは縁遠い能天気男がグローブをブンブン振っていた。
「おーい早くなげろー」
「イ、でねー、よっ」
 思い付かなかったので、代わりと言ってはなんだが少し強めに投げてやった。
「お前さっきから食い物ばっかじゃねーか」
 ミットのど真ん中から力強い音が響く。気持ちいい。
「良いじゃないか。別に減るもんじゃあるまい、し」
「腹が減るんだ、よ」
 ふと、頬を撫でる風に混じって鼻をくすぐる匂いに振り向いた。誰も寄り付かないこの公園の、フェンスの向こうにひょっこりと頭が覗いている。目が触れたとき、少女の髪が柔らかに揺れた。また風が鼻をくすぐる。
「いったぞー」
「あいたっ」
 余所見をしていた後ろ頭にボールが当たった。前からくすっと笑う声が聞こえた。
「ナイスキャッチ」
「うっさい。痛いじゃねー、かっ」
「お前が余所見してるからだ、ろっ」
「ああそうだ、よっ」
「ヨーグル、あっ悪りい」
 すっぽ抜けたボールはフェンスの向こうへゆっくりと円を描いた。
「あぶないぞー」
 呼び掛けたが、「ほっ」と一声素手でキャッチして、どんなもんだと言いたげにその細い指で掴んだボールを見せてきた。
「ナイスキャッチ」
 グローブをフェンスの向こうへハイタッチするように広げてみせる。
「結構手が痛いんですけど」
 そう言ってから、少女は腕を振り上げた。離れたボールはさっきよりも速いペースで円を描いてフェンスを飛び越え、グローブに届いた。
「ストライク」
 少女はへへっ、と満足げに笑うと、今度は自分が飛び越えるつもりなのか、フェンスに手をかけた。
 黒い髪を輝かせる陽射しに目が眩み、その瞬間だけ表情が伺えなくなる。けどなんとなく、にやりと笑う顔が見えた。ああ、やっぱり飛び越える気だ。
「危ねーぞ」
「平気平気」
 そう言って少女は「よっ」とフェンスを飛び越えた。着地の時に少しふらついて、尻餅をついた。照れ隠しなのか、「ちょっと失敗した」と自分で少しにやけながら立ち上がった。影がこちらに伸びて、その影を揺らすように少しずつ、歩いてきた。俺のつま先に影が触れて止まった。代わりに少女の目が、光るように揺れて見えた。
「覚えてる私?」
 そう言って少女は微笑み俺の名前を呼んだ。
「樹、ただいま!」
 春うらら。そんな言葉が似合う今日。
「おかえり、菜月」
 そんなのどかな1日に、何かが始まる予感が吹いて背中を押した。
「飛ぶとき、パンツ見えてたから」
「ばかっ!!」
2, 1

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