「大人トゥエンティー」
夢は、過去の自分が未来に宛てたメッセージかもしれない。
――子供のくせに!
その言葉と共に振り上げられた手。
そうだ。私はどうしようもなく子供で。
私の相手もまたどうしようもなく大人だった。
両者の差はどう頑張っても埋めることができない。
私が子供である限り。
□ □ □
自室のベッドの上に寝転がりながら、ぼうっと考えごとをしている。
つい転た寝をした隙に、懐かしい夢を見たような気がした。
子供の頃の夢だ。詳細な内容までは覚えていない。
目覚めてみれば、さっきまで確かに見ていたはずの夢の存在はひどく曖昧なものになっていて、その夢を見てどういう“感じ”だったか――そんな抽象的な余韻だけが、眠りから脱した私にまとわりついていた。そんな曖昧な“感じ”が、永らく忘れていた子供の頃の感情をふっと思い出させて、今の私はただただなんとなくノスタルジーな気分だ。
そんな“感じ”が私に子供の頃を思い出させ。
そして彼女を呼んでしまったのかもしれない。
私がまだ小学生だった頃。
無邪気とはほど遠く、斜に構えては子供の無力さを噛み締めていた私は、そんな自分に対して大人は強く果てしない存在に思えた。そしてそれがものすごく羨ましかった。
大人に憧れていたのだ。
早く大人になりたい――当時はそればかりを考えていたように思う。
無力な自分なんかよりずっと沢山のことができる中学生は、自分より大分大人であるよう感じていたし、青春を笠に着て町を闊歩する高校生に至ってはもうほとんど大人に見えた。駅弁大学も近くにないような田舎育ちの私には、大学生を目にする機会なんてそうなかったけど、まだ見ぬ大学生はきっと間違いなく大人であるのだろうと。
私はそう強く信じていた。
そんなふうに「大人」という存在に強い憧憬があった私だけど、今はかつての自分が大人だと信じて止まなかった大学生をやっている。
かつての私の見込み通りにいっていれば、もう私はとっくに大人になっている。
そう、あれだけ憧れていた大人になっているはずだった。
なれているはずだったのだ。
しかし残念なことに、確かに私は大学生であるが、決して大人ではないと思う。
まだ全然大人になりきれていない子供なのだ。私は。
自分がまだ子供であるということ――それは分かっている。
どうあれたら大人になれるのか――それがまだ分からない。
中学生になったら今よりもっと大人になれる。
高校生になったらさらに大人になれるはずだ。
大学生になったら今度こそ本当に大人だろう。
年を取れば、気がついたら人は自然と大人になっているのだ。
掛け値なしでなんの疑いもなく私はそう信じていたのだけど、大人という存在はまるで蜃気楼のように、近づいたと思ったらその分だけまた私から離れていくばかりだった。そうやって私から逃げ続ける大人を追いかけて、追いかけて。それなのに小学生の頃から私と大人の間に横たわる距離は、結局のところ依然として変わらないままだ。
二十になったらもう大人。
法律に準拠してそう簡単に割り切れたら楽なんだろうけど、酒が飲めるから大人だとか、煙草が吸えるから大人だとか――それはただ記号的な物の見方であって、大人という存在はそんなふうに機械的に扱えるほど単純な問題ではないと思うのだ。
その理屈で言えば私だってもう少しで大人になってしまう。
枕元にある目覚まし時計を確認すれば、日付変更までもう少しだった。
時計の長針短針それから秒針が一二に重なった時、法律の上では私は大人になるらしい。
だからといって、成人式で分別なく暴れる大人とやらを私は大人として絶対に認めたくないし、いい年をして俗物なままでいるつまらない年寄りを大人として尊敬もしたくない。
だから二十になったらもう大人という安易な考え方をしないと私は決めている。
そういった理由で私は私自身をまだ大人として認めたくないのだ。
私に大人の器はまだない。
ひどく抽象的だけど、私が思い描く大人は強く、聡明で、思慮深く、優しく、完璧だ。
それと比較すると私は弱く、愚鈍で、浅はかで、ずるく、全てがまだまだ未熟すぎる。
だから、私はまだ大人ではない。
そう考えるのは大人の責任から逃れたい一心の子供の甘えだ。
そう言われたらきっと私は否定できないだろう。
それでもやはりまだ大人になりきれていないと思ってしまう。
私はそんなに立派じゃない。この先、立派になれるかも分からない。
漫然とそんなことを考えながら、ベッドから起き上がってテーブルの上に置いていたワインにそっと触れた。深みのある赤色をしたワインだ。赤ワインは冷やしすぎると良くないらしい。だから冷蔵庫から出しておいて少し温度を上げようとしていた。
つい寝てしまっていた間に微温くはなっていないだろうか?
そんなに長くは寝ていなかったはずだけど。
そんな私の心配は杞憂で、触れたボトルはひんやりとしていた。
もう少ししたら良い塩梅になるだろう。
月並みだけど、今夜成人すると同時にお酒を飲んでみようと思ったのだ。
勿論、お酒を飲んだだけで大人になれる訳ではないことは重々承知している。
ソムリエナイフを手にワインボトルを持った。十得ナイフの要領で持ち手に収納されていた刃を出すと、それはぎざぎざと波打ち輝いている。刃をボトルの首元にそっとあてて、回すようにして一周なぞった。それだけでボトルの首元を保護していたアルミ製のラッピングは外れる。ボトルの口元にコルクが覗いた。今度はスクリューを出して、コルクの先に刺し、後はハンドルを回すようにしてねじ込んでいく。
ぐるぐるぐるぐる。
自分が思う大人に、私はいつまで経ってもなれないかもしれないな。
ぐるぐるぐるぐる。
私は上の空でスクリューがコルクに刺さっていく様をただ呆然と眺めていた。刺し終わったら、最後に梃子の原理でコルクを引き抜くだけだ。
コルクは静かに抜けた。
ソムリエナイフはあってもワイングラスなんて洒落たものは家にはないので、それっぽい丸みを帯びたコップにワインを注いでいく。とくとくと一定のリズムを打つようにして、うっすらと濁った赤い液体がコップへと落ちていった。
もしかすると、そもそも私が考える大人そのものが間違っていたのかもしれない。
ワインを注ぎつつ今更ながらにそう思った。
そして私はワインを注ぎ終える。コップの中では赤い液面がゆっくりと揺れていた。まだそれを口にはしない。時計の針に目をやる。日付はまだ変わりそうにない。
もし私が今まで考えていた大人が間違っていたのだとしたら。
じゃあ、大人ってなんなのだろう?
私にはそれが分からない。
「大人ってなんだろう?」
テーブルのワインを見つめながら、思わずそんな疑問が溢れた。
そしてそう呟いた時に。
「もうすぐ大人になろうってときに、まだそんなことくよくよ考えてる訳?」
背後から女の子の声が聞こえてきた。その声には聞き覚えがある。
振り返るとさっきまで寝転がっていたベッドに女の子が腰掛けていた。
彼女のことを私はよく知っている。彼女も私のことをよく知っている。
彼女はそう――トゥエンティンだ。
トゥエンティンは偉そうに膝を組んで座っていた。
外見は昔と全く変わりがなかった。いや、そもそも変わりようがあるはずがない。
大学に入って髪を染めた私とは違う、まだ染められていない黒い髪の毛。
まだ化粧を覚えていない彼女は、素朴ながら凛々しい顔立ちをしている。
そして何よりも特徴的なのは、傲慢と表現しても差支えない勝気な表情。
まだ十二のくせしてあどけなさなんてどこにも見当たらず、攻撃的な刺々しさをその身全身からトゥエンティンは漂わせている。
「久しぶりね。大体八年ぶりくらいかしら? 昔と変わりがないようで嬉しいわ」
「こっちもアンタが昔と変わらない精神レベルのままでいてくれて懐かしいわ。まさか二十になる直前でまだ『大人ってなんだろう?』――なんてくよくよ悩んでるなんて」
ねえ。成長って言葉、知ってる? と付け加えるトゥエンティンは八年前と変わらない毒舌ぶりだった。自分にさるようだけどその生意気さが気に入らない。口の端をひくつかせて固まる私を見てトゥエンティンはにやりと笑い、それから勢いよく私を指さした。
「精神的に向上心のないものはばかだ!」
いきなりトゥエンティンはそう叫んだ。
突然のトゥエンティンの発言に私は驚き、反応に一瞬の間が空く。
「いきなりどうしたのよ。それに人を指さすのはやめなさい。失礼よ」
「そっちこそ白を切るのを止めなさいよ。『こころ』よ『こころ』。夏目漱石の。知らないとは言わせないわよ。アンタ大好きだったでしょう?」
確かにその通りだ。私は夏目漱石の「こころ」が好きだった。いや、「好きだった」と過去形で表現するのは語弊がある。今でも私は現在進行形で「こころ」が好きでいる。
「だ、だからなんだっていうのよ。それから指さすのはやめなさいって」
「とぼけようが論点ずらそうとしようが逃がさないんだから」
二度にわたる私の注意を無視し、トゥエンティンは私をまっすぐと指差したままだった。まるで標的を狙いすますかのように、彼女の人差し指は私に向けられている。
瞳に至っては完全に獲物を狙う獣のそれだ。
なんで十二の少女に私はそんな視線を向けられているのか。
「精神的に向上心のないものはばかだ」
再びトウエンティンは「こころ」に出てくる台詞を言って。
にやり、と。
それはものすごく悪い笑みを浮かべてから一気に捲し立てた。
「ああ、忘れもしないわ。小学六年生の頃、アンタは背伸びしてちょっと難しそうだと思った夏目漱石の『こころ』を手に取ったわね。難しそうな本読んでる私、カッコイイ! みたいな?」
トゥエンティンも甚だ心外なことを言う。これは私の沽券に関わることなので断言させてもらうが、私は純粋な文学的見地による興味から「こころ」を読み始めたのだ。
いや、本当に。
「生憎、おバカさんのアンタには『こころ』の内容はほとんど理解できなかった訳だけど、一つだけ気に入った台詞があった」
「ちょっとたんま! 待って!」
ひどく動揺しはじめる私と。
「それが、精神的に向上心のないものはばかだ――この台詞カッコイイ! といたく気に入ったアンタは、それはもう濫用の域でこの台詞を使ってたわ。そう、事あるごとに使いまくってたわね。主な使用目的はガキ臭い男子連中を嘲笑するためだったわけだけど」
それを見てすごく嬉しそうなトゥエンティン。
「給食のおかわりジャンケンで一喜一憂する男子を冷ややかな目で見ては一言――『精神的に向上心のないものはばかだ』」
「う……」
「クラスメイトの男子によるスカートめくり被害にあっては一言――『精神的に向上心のないものはばかだ』」
「うう……!」
「もう全くもって意味がわからないわ! 愛くるしいクマさんパンツを衆目に晒しながらニヒルに決めても全然格好良くないから! この台詞!」
「人の黒い歴史をそうやって掘り返すのはやめなさいよ! 悪趣味よ!」
「この話からアンタが学ぶべき教訓は――要するにね」
私の悲痛な抗議を無視してトゥエンティンは勝手に話をたたみ始めたが、これまでの話を要約して何を私に伝えたいのか。教訓とか最もらしいことを言っているがこの悪意の塊はただ私を虐めたいだけではないのか。間違いない。きっとそうだ。
「アンタが今成人になる直前に大人についてうだうだ思い悩み、苦しんでるのはブーメランなのよ。ブーメラン。八年前にアンタがせっせと投げてたブーメランが八年越しにアンタのもとに戻ってきたってわけ。そしてアンタに刺さりまくり」
つまり自業自得ね、と付け加えてトゥエンティンは黙った。
ブーメラン、か。
トゥエンティンも難しいことを言う。
「こころ」の“K”は“先生”に向けて放った「精神的に向上心のないものはばかだ」という言葉のブーメランがそのまま自分に帰ってきて苦しみ、そして私もまた小学六年生の時にクラスメイトの男子に放っていたそのブーメランに苦しんでいる。
つまりは全てあの頃から私自身が精神的に向上出来ていないから。
きっとそういうことなのだろう。
「アンタはね。大人に対してもブーメランを投げつけてたわけ。小さい頃からずうっと」
「意味が分からないわ」
このことに関しては本当にトゥエンティンの言っている意味がわからなかった。
私は大人を敵対視なんかしていなかった。
むしろずっと憧れていた――早く大人になりたい、と。
そればかり思っていたのだ。
「私は大人に憧れていただけで、大人を攻撃する理由なんてなかった」
このわからんちんさん、とトゥエンティンはわざとらしく肩を竦めてから。
「憧れることや羨むことは、妬むことや嫉むこととほとんど変わりがないと思わない?」
私の反論に事も無くそう返した。
確かに。
それらはきっとよく似ているだろう。
例えば子供の頃、夜更しして親に早く寝なさいと言われた時。
リビングから漏れ聞こえるテレビの音。そしてそれを見て笑う両親の楽しそうな声。
それを子供部屋のベッドの上で独り寂しく聞きながら、自分も大人になったらもっと夜遅くまで起きてられるだろう。そしたら今両親が楽しそうに見ているテレビだって見れるようになるはずだ。
そんなふうに大人になることを楽しみに大人を羨む一方で。
なんで私だけ寝なければいけないのだろう? 私が子供だから? 私をベッドに追いやっておきながら、お父さんやお母さんだけで楽しいテレビを見ている。
大人はずるい。
そう大人を妬む気持ちは確かに幼い私の心にあったはずなのだ。
「アンタはそんな大人と子供との線引きが理不尽で我慢ならなかったのよ」
そうだ。大人から受ける理不尽さを感じることも多々あった。
――子供の癖に生意気を言うんじゃない!
そう言われて教師に打たれた時。
もし私が大人だったら、この先生にも自分の意見を聞いて貰えたのかな? そう思いながら頬の熱い痛みと、全く取り合ってもらえなかった悔しさに唇を噛んだこともあった。
「その理不尽に自分なりに納得いく答えを見つけたくて、アンタはこう考えたんでしょう? ――大人は無条件にすごいんだって。正しいんだって」
そうだ。
大人は強い。
大人は聡明だ。
大人は思慮深い。
大人は優しい。
大人は――完璧なんだ。
「そんなすごい大人が言うことなんだから、理不尽で間違いに思える大人の言うことも本当は正解で、きっと間違ってるのは自分のほうなんだ。そうやって良い子のアンタは自分の中の理不尽を抑圧したのよ。子供であることに諦観したと言っても良いわね」
そうトゥエンティンは断言した。間違いなんてそもそも有り得ないないだろうと自信満々に。そしてきっとそれは、トゥエンティンが言うのなら確かに寸分違わずその通りなのだ。トゥエンティンは私のことならなんでも知っている。掛け値なしで本当になんでもだ。
「そしてどこかを無理して押さえ込もうとすると、そのツケとしてどこかが必ずでっぱってくるもんなのよ。差し詰め――ドリフのタンスネタのようにね」
非常に分かりやすい例えだけど、なんだかそれを例として出すのは格好悪い。
ただ当の本人はといえば、腕組み足組みニヒルに決めたしたり顔で私を見ている。
したり顔でニヒルに決めても格好良くないから! その例え!
「それで私は大人にブーメランを投げ始めたと?」
「ええ。無自覚にね」
「無自覚に、か」
言われるまで全然自分では気づかなかった。
「ええ。戻ってきた時にキャッチ出来ないような鋭いブーメランをよ」
「それは厄介ね」
「しかも諸刃」
「諸刃! 恐ろしい! そんなものが私に襲いかかってくるのね! ……いやちょっと待って。それはおかしいわ。そもそも諸刃だったら投げられないじゃない!」
個人的には些細な疑問を呈しただけだったのだけど、何故かトゥエンティンは少し押し黙り、それから怒り気味に口を開いた。いつも以上に、言葉に毒を込めて。
「理屈こねて揚げ足取る女なんて男にモテないわよ。女はちょっと馬鹿なほうがモテるのよ。うんうんって男の話をにこにこ頷いて聞いてるくらいが丁度良いの。そういう屁理屈いらないから! そんな性格じゃアンタ、モテないんじゃない?」
何故か十二の少女から女の何たるやを説かれる私。
しかもすごくステレオタイプな。
加えて大分間違った方向に偏向している気がする。
トゥエンティンは余程、私に矛盾を突かれたのが悔しかったらしい。
その気持ちは分からなくもないけど。
「残念ながら、私がモテないことに関しては約二十年の人生が証明してるわ」
「あ……、なんかごめんね?」
さっきとは一転して十二の少女に恋に関して気を使われる私。
「悲しくなるから謝らないで頂戴」
「でもアンタ、性格はまだしも顔はそこそこイケてると思うんだけどな」
「そういうフォローいらないから」
「スタイルだって細身で悪くないはずなのに。何がダメなんだろう? 胸?」
「もうその話は止めよう!」
「あら、ここでも『こころ』なのね」
「貴女のせいで私の心は折れかかってるわよ」
「『こころ』だけに?」
「黙りなさい」
「『こころ』だけに?」
「黙りなさいと言ってるでしょう!」
「え? 『こころ』だけに?」
「私が悪かったわよ! つまらないこと言ってごめんなさい!」
トゥエンティンの追撃は苛烈を極めていた。自分を良く知る相手とやりあうのは非常にやりづらい。特に相手がトゥエンティンとなれば尚の事だ。
しかし、私を上手くやり込めたせいかトゥエンティンの溜飲は大分下がったらしかった。
「私としたことがついアンタのことを虐めすぎたようね。度が過ぎていたわ。ごめんなさい。反省するわ。アンタって、ほんとバカ」
「こんなの絶対おかしいよ!」
文脈もおかしければ、私の扱いもおかしい。
さっきから相も変わらず十二の少女に手玉に取られ続ける私。
「兎に角。アンタは大人にブーメランを投げ過ぎた。まさか大人に投げてたと思ったブーメランが、これから大人になろうって思った時に自分に向かってくるとは知らずにね」
この世の大人全てを標的に私が投げていたブーメラン。私が大人の枠に入ってしまったら、それが私を襲ってくるのは確かに当然だ。それに気付かず嬉々として自分の首を絞め続けていたのだから、トゥエンティンの言う通り私ってほんと馬鹿なのかもしれない。
「ブーメランって説明でイメージが付きにくいなら、こう言い換えてあげる。アンタは大人のハードルを上げ過ぎたのよ。だからアンタは大人になろうとしても、自分の思う大人のハードルが高すぎて越えられないの」
そうだ。
大人と比べて私は弱い。
そして愚鈍だ。
そして浅はかだ。
そしてずるい。
大人と比べて私は――全てがまだまだ未熟すぎるんだ。
「はっきり言って二十になってまだ大人にそんな幻想抱いてたなんて異常よ。異常。大人コンプレックスをこじらせるのも大概にしなさいよ。アンタの基準で言ったらこの世に大人なんて存在しないわよ。いるのは体の大きい子供だけ。大人も子供も大差ないのよ」
トゥエンティンが辛辣に放ってきた言葉は、私が無意識下で今までずっと必死に目を背けていたことだった。
だってもしそれを認めてしまったら。
私が子供だった頃に感じていた、自分が子供であるという理不尽も。
それに対するどうしようもない諦めも。
そしてそこから生じた幾多の我慢も。
全てが無駄になってしまうんじゃないかと怖かったのだ。
だから私は大人に強さを求め、聡明さを求め、思慮深さを求め、優しさを求め。
大人に対して子供とは違う――無条件に正しい、完璧な大人を求めた。
そしてその結果、どうしても私は自分自身が完璧な大人になる必要があったのだ。
子供の私が信じる他なかった大人を、自ら嘘にしてしまわないように。
しかしトゥエンティンが言っていた通り、出てきたズレを無理やり補正しようとすると、そのツケとして新たなズレを生むことになり、そしてそれは元のものよりさらに大きいズレだったりするのだ。それこそさながら、ドリフのタンスネタのように。
完璧な人間が存在しないように、完璧な大人など存在するはずもなく、ましてや完璧な大人の私なんてどこを探しても見つかるはずがなかった。
元よりない物を探したって見つかるはずがない。
だって元々存在しないのだから。
それは至極当たり前のことだ。
「そんなんだから、アンタはいつまでたっても大人の階段昇れないのよ」
「そう、ね」
トゥエンティンにそう言われる。しおらしく肯定するよりほかなかった。
確かにトゥエンティンの言う通りだ。
トゥエンティンは、いつも正しいことしか言わない。
「それに加えてだから、アンタはずっと誰かのシンデレラにもなれないのよ」
「それはおかしい。黙りなさい。ほっときなさい。そのことには触れないで頂戴」
前言撤回。
これは猛然と抗議せざるを得ない。
やっぱりトゥエンティンは嘘吐きです。
嘘しか吐きません。
「ちなみに幸せは絶対誰も運んできてはくれないのよ」
さらにトゥエンティンは妙に知ったふうな口ぶりでそう付け加えた。
それに関しては概ね私もトゥエンティンに同意見だ。
幸せは自分で掴み取りにいかなければならない。
気が付いたら勝手に大人の階段昇ってて。
何もせずとも、君はまだシンデレラで。
幸せは誰かがきっと運んでくれると信じてる。
それはいささか虫が好すぎる話だ――特にシンデレラの部分。
「じゃあ、どうやったら私は大人の階段昇れて、誰かのシンデレラになれて、そして幸せになれるのよ」
「欲張りね。どれか一つに絞りなさいよ」
「どうやったら誰かのシンデレラになれるのよ!」
「そこじゃないでしょ!? アンタの目下一番の問題は大人の階段昇ることでしょ!?」
「しまった! そうだった!」
「何事も本質を見失ってはだめよ」
そうトゥエンティンに窘められる。
そうだ。私は大人にならなければならない。
子供の頃の私と、折り合いをつけなければならないのだ。
「でも、どうやって……」
「いきなり大人になるのは難しいけど、大人を実感するのは比較的簡単だと思うわ」
「大人を実感?」
「大人な体験してみて、私っておっとなー! ――そんなふうに思えたら、そこから大人の自覚や責任が芽生えてきて、行く行くは大人になってるんじゃなくて?」
「なるほど。形から入るのね」
トゥエンティンの言うそれは結構良いアイデアに思えた。
「例えば」
「例えば?」
「大人を盾に、大人を剣に」
そう言いながらトゥエンティンは座っていたベッドの上に立ち上がり、左手に盾を、右手に剣を持つふりして構えた。
「そして大人気なく子供を叩けば良いんじゃない?」
大人を盾にして、大人を剣にして、大人が子供を大人気なく叩く。
そうすれば大人になれるとトゥエンティンは言う。
子供のくせに! 子供のくせに! と連呼しながら、自分は左手の盾に隠れつつ、右手の剣で何度も相手を切りつける真似をするトゥエンティン。
その姿はなんというか、いかにも姑息で、矮小な俗物の大人を彷彿とさせる。
「それ、私の嫌いなタイプの大人よ」
「そうね。そうだったわね。冗談よ」
子供のくせに! と言うのはやめたけど、何故かトゥエンティンは剣を振る真似はやめなかった。そのうち自分で効果音なんかもつけはじめたので、自分でやってるうちに楽しくなっちゃったのかもしれない。その気持ちは分からなくもないけど。
「トゥエンティン?」
「どぅくし! どぅくし!」
トゥエンティンは八年前に私が使っていたものと全く同じ効果音を使っていた。
こうやって改めて振り返るとなんなのだろう、「どぅくし」って。
興奮したトゥエンティンがベッドで跳ねるもんだから辺りに埃が舞う。
「ベッドの上で暴れるのはやめて! 大人しくなさいよ!」
「どぅくし! ……あら? 私はまだ十二の子供よ? 何故子供が大人らしくする必要があって? 結局のところ、大人らしいことをしたって大人になれる訳じゃないのだから、私が大人しくする理由なんてこれっぽっちもないのよ。皆無よ、皆無」
「さっき自分で言ってたこと自分で全否定してるじゃない! さては私を騙したのね!」
形から入れと言ったのは他でもないトゥエンエィンではないか!
「アンタと私では訳が違うでしょうが。アンタは私と違って大人にならなきゃいけないんだから、大人になりたいんだから、大人らしくする必要があるでしょう?」
大人らしいことをしたって大人になれる訳じゃないけど、大人になりたいのならやはり大人らしくしなければならない。
なんだか上手い具合にトゥエンティンに誤魔化された気がしないでもないけど、そしてそれは一見無駄なことに見えるけど、確かにそうなのだろう。
私は精一杯に大人らしくしなければならないのだ。
「アンタがそれを準備したのだって、大人らしくしたかったからでしょう?」
そう言うトゥエンティンの目線を追うと、そこには私が注いだワインがあった。
確かにそうだ。
「そ、そうね。その通りだわ」
「実際、中高生くらいの未成年がお酒を飲みたがるのも、お酒が美味しいからじゃなくて、早く大人になりたくて、大人らしくしたいからだと私は思うのよね」
「それは十中八九、間違いないわね」
「まあ、私には自ら進んでお酒を飲みたがる気持ちが分からないのだけど」
だってお酒って苦いじゃない、と顰め面でトゥエンティンは締めくくった。
私は知っているがトゥエンティンの飲酒体験と言えば、お父さんからビールの泡を啜らせてもらった程度である。それだけで十二の少女がお酒を断じるんじゃない! と思うが、まだ未成年の私がそう言うのもおかしな話だ。
「とりあえず、私は大人らしくしないといけないのだとして。まだ何一つとして私が大人になるための具体的な策が講じられていないのだけれど」
そう、私とトゥエンティンは先程からぐだぐだとくだらない話をしているばかりで、問題は全く進展を見せていないのだ。まあ、トゥエンティンがいなかったら私はその問題自体にも気づくことが出来なかったわけだが。
「なに甘えてんのよ。アンタは八歳も年下の女の子に大人について論じられて恥かしくなわけ? ちょっとはその足りない頭で考えてみなさいよ」
「う……」
ひどい。
いきなりトゥエンティンに突き放された。
だけど、今更だが言われて見ればトゥエンティンの言う通りである。
もうすぐ二十になる者として情けない限りだ。
「もうこの際だから、別に大人にならなくても良いんじゃなあい?」
「ちょ、ちょっと! いきなり投げやりにならないでよ! なりたいわよ! 大人!」
急にやる気を失うトゥエンティン。
トゥエンティンのやる気の失われ具合ったらすごかった。もうだるだるだ。
はきはきとしていた語勢は間延びしまくっているし、先ほどまで膝を組んでベッドに腰掛けていたのに、今となっては後ろに倒れてベッドの上でごろごろ寝転がっている。
「だってアンタの思う大人、途方もないんだもん。そんなのなれっこないわよ」
私の大人観を根本から否定される。トゥエンティンのいう通り、私の大人観は幼少期のズレから生じた物だから一般的ではないのはわかっているし、それが間違っているのは先ほど思い知らされたばかりだ。
「なんだっけ? アンタの思う大人の条件。ちょっと一つ一つ言ってみなさいよ」
子供の頃の私が自分の中の理不尽を殺すために大人に課した大人の条件。
そしてその条件を私はこれからクリアしていかなければならない。
「まず、大人は強い」
「いきなり抽象的すぎ。ていうかそれだったらか弱い女の子とかは、生涯大人になれないじゃない――例えば私とか」
「それはそうかもしれないけど……。それより自分でか弱いとか言うな!」
よりにもよって自分をか弱いと評しおったトゥエンティン
終始、勝気で人を食い物にした態度のくせによくそんなことが言える。
「言っておくけど目下のところ、貴女が私一番の強敵だからね!?」
文字通り、最強だ。そして最恐でもある。
「はいはい、それで次はー?」
都合の悪いことは全部華麗にスルーしてしまう。なんだかものすごく、勝手だ。
ただトゥエンティンが勝手で傲慢なのは今にはじまったことではない。
つまるところ、八年前からずっとなのだ。この娘は。
トゥエンティンの傲慢なんてこっちもスルー出来ないとどうしようもない。
「それから、大人は聡明よ」
「あら。子供でも聡明な人はいるじゃない――例えば私とか」
「う……。それもそうか。だから自分で聡明とか言うな!」
「少なくともアンタよりは聡明ではなくて?」
「くっ!」
自分からトゥエンティンに助けを請うている以上、そこは否定しづらい。
「あと、大人は思慮深いの」
「だからそれも思慮深い子供だっているでしょ? ――例えば私」
「さっきから自画自賛を繰り返す貴女のどこが思慮深いのよ!?」
「はい、次いこー、次」
トゥエンティン――どこまでも勝手で傲慢な少女である。
「それから、大人は優しいのよ! 貴女とちがっ――」
「あっらー! それも私のことじゃない!」
貴女と違ってね――そう言ってやりたかったのに、それすらも遮られてしまう。
「貴女、今までの私に対する言動を思い返してもまだ自分は優しいって言える訳!?」
「一見、暴言に聞こえた今までのアンタに対する言葉は、実はアンタを思ってこその言葉なのよ。言わば愛の鞭なの。私だって本当はアンタに酷いこと言うのは辛いし嫌なのよ」
「嘘だ! 私に悪口言ってる時、一番嬉しそうな顔してるからね! 貴女!」
「それも実は演技なのよ。私の愛の鞭なのよ。アンタは私の愛に無知なのね」
わざとらしく、悲しそうに目を伏せるトゥエンティン。
さりげなくちゃっかりと上手いことも言っている。
こうやっていじめは正当化されていくんだな。覚えておこう。
いじめ、よくない。ダメ、ゼッタイ。
「で。大体アンタの言う大人の条件を聞いたわけだけど」
「なによ」
「アンタ曰く強いらしいこのか弱い私は、アンタのいう大人の条件に全てに当てはまってしまった――ということは、私ってばもしかしてもう大人?」
「まだ言うか!」
「そっかー! だからかー! だから大人な私は子供なアンタに大人の何たるやの講釈を垂れてるのかー! しょーがないなー! アンタ子供だからなー! 大人たる私が子供なアンタを導いてやらないとね! 子供な! アンタを! 大人な! 私が!」
そう言うトゥエンティンは、わざわざベッドの上で背伸びまでして私を見下していた。
すごく嬉しそうな満面の笑みで。
ちなみに私は小学五年生で成長期が終わってしまったので、トゥエンティンと私では身長の差はほとんどない。それなのにベッドの上で、しかも背伸びまでするなんて。
う、うざい! トゥエンティン、うざすぎる!
なんで二十になる私が十二の少女にこんなにもボロクソ言われてるのだろう。
ここまでくると、自分の常識とかそういったことが不安になってくる。
「まあ、冗談はさておき」
とトゥエンティンは語気を収めた。
あ、冗談っていう認識は自分でもあったんだ。
少しだけ安心した。少しだけ。
「アンタが大人に求める大人の条件は酷すぎるのよ」
それは自分でも自覚している。
だけど私は自ら引き下がるわけにはいかないのだ。
これは、私の意地だから。
だから、引き下がるわけにはどうしてもいかない。
「だってこのパーフェクトな私が、強いという条件一つだけだとしても全てをクリア出来なかったんだから。それだけでもこの条件の酷さがわかるというものよ」
まだ言うのか!
「もうその条件の酷なことといったら『当方、ボーカル! それ以外のパート全部募集!』みたいなレベルの非道さよ」
「そんなに!?」
私が提示する大人の条件はそんなに非道いのか。そこまでか。
「ええ。『四十代、無職のバツイチ女性です。容姿には自信あります。医者、年収一千万以上の三十代男性を募集。離婚歴はなしで』に匹敵する非道さでもあるわね」
「そこまでなの!? 私の非道さはそこまでなの!?」
もう、ここまできたら潔く引き下がってしまおうかな……。
早速、揺れまくっている私の意地。
「とにかく。いつまでも意固地になってないで、もういい加減に大人を許してあげなさい」
「許すもなにも、私はもとより大人を恨んでなんか――」
「それは嘘」
またトゥエンティンは私の言葉を遮った。
ただ今度は前みたいに意地悪く笑ってはいなかった。
今のトゥエンティンの表情は真剣そのものだ。
「結局前も言ったことだけど、羨望と怨恨は紙一重なのよ。恨んで病んで――羨むってね」
トゥエンティンは言う。
人は誰かを“恨み”、そして“病む”――だから、“羨む”。
つまり、私の場合は大人たちを強く羨んでいた。
そしてその思いはあまりにも重すぎたのだ。
強く大人を羨みすぎたがためにこそ。
次第にいつの間にか大人を“恨み”、私の心は“病んで”いった。
だから、そんな“羨み”が私の無意識のなかにある想いを落としたのだろう。
大人になんかになりたくない! と。
その想いがさらに条件を生んだ。
大人は強い。
大人は聡明。
大人は思慮深い。
大人は優しい。
大人は完璧。
私の絶対にクリアできない――大人の条件を生んだのだ。
絶対にクリアできないのだから、子供の私はいつまでも大人になれない。
つまりは、ずっと子供でいることができる。
そうやって私は不可能な条件で大人を縛り、自分自身をも子供に縛りつけた。
ようするにひどく有体に言ってしまえば、身も蓋もない話、私はピーター・パン症候群をこじらせにこじらせただけのただの子供だった。
「私は、じゃあ、本当は大人になりたくないだけ?」
ぽつり、と――そう私は呟く。
「そうかもしれないわね。でもね。これでも私、無理してアンタが大人になる必要ないんじゃないか――なんていうふうにも思ってるのよ」
「何故? 子供はいつまでも子供のままではいられないでしょう?」
「確かに生きている限り、子供は子供のままではいられないかもしれないけど、だからといって必ず大人になるわけじゃないと思うの。まず大人っていう概念そのものがひどく曖昧だしね」
「曖昧?」
「そう。ひどく曖昧。だって、人それぞれが思う大人ってどれも違うでしょう?」
二十になれば大人という人もいるし。
社会に出て、働き出してからはじめて大人という人もいる。
それどころか、子供を持って人の親となったらやっと大人だ。
そんなふうにいう人だっているのだから、やっぱり大人って人それぞれだ。
そんなことをトゥエンティンは私に言った。
「だから、大人ってある意味は夢にも似てるわよね」
「夢に?」
「そう。眠っている時に見るほうの夢じゃなくて、儚い、頼み難いものの例えだったり、将来実現したい願望、理想のほうを意味する夢に」
果たしてそれはそうなのだろうか?
残念ながら私にはトゥエンティンの真意が汲み取れなかった。
でもトゥエンティンの言うことだから、きっとその通りなのだろう。
私はトゥエンティンの次の言葉を待つ。
「ほら、夢ってそれを実現させたい、叶えたいと思っているうちは変わらずにずっとそこに存在するじゃない? でも夢の終わり、夢の実現って意外と簡単で、まあ、いっか――そんなふうに自分に嘘をついてどこかで妥協してしまえば、そこで確かに夢は終わるし、一応だけど夢が叶ったと言えるでしょ? それと同じだって言ってんの。大人もね」
優しく悟すようにトゥエンティンは続けた。
「夢と同じで大人も人それぞれに理想の条件があって、その条件をクリアしようとみんなが頑張っていく。それまでは勿論誰も大人になれないんだけど、ふとある日、まあ、いっか――そうやって頑張るのを止めたら、確かにそこでその人はもう大人なのよ。そしてそういうふうに大人になっていった人たちは、自分と子供とを区別しはじめる。『自分はもう子供じゃないんだ』ってね。まあ、それはアンタが嫌いなタイプの大人なんでしょうけど」
そうだ。今まで軽蔑し、憎んできたような大人に私はなりたくない。
「ええ。私はそういう大人だけにはなりたくないわ」
「途中で妥協して半端な大人だけにはなりたくない。だけどアンタが認める大人の条件は絶対にクリア不可能。どうするわけ? アンタの我侭通したら八方塞がりじゃない」
「それは、そうだけど……」
自分が我侭を言っていることはわかってる。
そういうところが一番子供っぽいんだということも。
「だから、私は無理して大人になる必要はないんじゃないかって言ってるわけ」
「それじゃあ、なんの解決にもならないじゃない!」
「でも、妥協にもならないわ。何回も言うようだけどアンタの言う大人は当為的すぎるの。かくあるべき――その理想が高いのは立派なことよ。でもその理想が高すぎて手も届かないようでは意味がないじゃない。それでも諦めたくないってアンタが自分の我侭を手放したくないんだったら、じゃあ、諦めなきゃ良いんじゃないのって話」
どう? 難しいこと言ってるかしら? とトゥエンティンは小首を傾げた。
トゥエンティンの言っていることは、単純明快なだけに難しい。
中途半端な大人になりたくない。
クリア不可能な大人の条件を放棄したくない。
互いに真っ向から背反しあう二つの我侭を通したいのなら、馬鹿正直にその条件に挑み続ければいいじゃないか――トゥエンティンはそう言っているのだ。
しかしそれは、途方もないことだ。
越えられないハードルに挑み続ける。
確かに途中で心折れず妥協しないでいられる間は、中途半端な大人にはならないだろう。
しかし同時にそれは大人でもない。
そして、私が自分の思い描く大人になろうと努力を続ける限り、つまり子供に甘んじることを放棄している限りは、大人でもないと同時に私は子供でもない。そんな大人でも子供でもない――その境界を歩く者として生き続ければ良いとトゥエンティンは言っている。
もしかしたら、努力を続けるうちに自分の満足のいく大人になれるかもよ? と。
貴女はそういうことを言いたいんでしょう?
――トゥエンティン。
「私の言いたいこと。どうやらわかったようね」
トゥエンティンは私の表情を見て、全てを察したようだった。
私のことは全部お見通しということか。本当にトゥエンティンには敵わない。
「おおよそ、ね。貴女の言ってること、途方もなくて嫌になるわ」
「途方もないのはアンタが大人に求める大人の条件でしょうが。それにアンタの我侭を無理やり通す方法。果たしてこれ以外にあるのかしら? 私には他に思いつかないのだけれど」
「私も貴女が言う他にないと思う」
「でしょうね」
トゥエンティンはそっけなくそう答えた。
こんなふうに意外にも、私がふと思いついた大人という当為についての問題は、現れた時と同じように、ふと突然に――すとんと腑に落ちたのだった。
□ □ □
私を答えまで導いた後のトゥエンティンは、それはひどく無口だった。
ついさっきまで散々に毒舌を浴びせてきたり、悪ふざけをしてみたり、そして何よりも大真面目に私の小っ恥ずかしい話にとことん付き合ってくれた――私の前に現れてから一度も口を閉じることが無かったあのトゥエンティンが黙ったままでいるのだ。
まるでもう話すことが見つからないように、トゥエンティンは俯いたまま私のベッドに浅く腰掛けて、手持ち無沙汰に足をぶらぶらさせていた。
どちらからともなく黙り始めた私たちに、夜の静けさが段々と近づいてくるようだ。
「私の大人についての諸問題も、一応これで解決かしら」
はじめに沈黙を破ったのは、意外にもトゥエンティンではなく私のほうだった。
なんとなく感じていた沈黙の気まずさを払うように、少しおどけて私は言った。
「バカね。解決どころかアンタは今やっとスタート地点に立ったって感じじゃない」
ベッドの上に体育座って、膝の間に顔を埋めるように縮こまりながら、俯いたままのトゥエンティンは随分と小さな声で毒を吐いた。
「でも貴女に助けてもらわなければ、私はスタートを切るどころかスタート地点にも立ててなかったと思うわ。だから、貴女にはお礼を言わなくちゃね」
ありがとう、と。
ひねくれ者の私は、出来るだけ素直を心がけてトゥエンティンにお礼を言う。
ひねくれ者なのはやっぱり私だけではなくて、自分の膝小僧ばかりを見つめていたトゥエンティンは、ちらりと私を見やってからすぐそっぽを向いた。
それから、不機嫌そうにぼそっとこう呟いたのだった。
「どういたしまして」
その姿はあまりにも不遜であって。
誠意があるとは到底言えなかったけれど。
私にはそれだけで十分だった。
トゥエンティンと私はそれだけで良いのだ。
お互い、相手の気持ちは手に取るように分かるのだから。
「ねぇ」
「なぁに?」
いきなりトゥエンティンは私を呼んで、私がこんなこと言うのもおかしいんだけど、と前置きしてからその重い口を開いた。
「アンタは、本当に、本当に完璧な大人を目指し続けるの?」
「ええ。そのつもりよ」
「それって大変なことよ? 自分に妥協を許さないのって、きっとすごく辛いことよ? 自分の理想に追いつけないまま、心折れる時がくるのかもしれないのよ? 努力が報われないまま無駄になるかもしれない。それってすごく怖いと思わない?」
それでもアンタは大人になりたいの? とトゥエンティンは私に問う。
トゥエンティンと目が合った。彼女の瞳は真っ直ぐと私を見つめている。
「それでも私は大人になりたいと思う。私は、大人にならなきゃいけないもの。それに、私の背中を押してくれたのは貴女でしょう?」
そっか。そうよね。そうよね――とトゥエンティンは繰り返し呟いて、それから急に膝の間に埋めていた顔をあげた。
「ああ、もう! こんなの最低よ! イライラするわ! こんなこと、アンタに言うのは私にとって最大級の屈辱なんだけど! いえ、間違いなく最大の屈辱だわ!」
「何よ。いきなり。何が言いたいのよ」
「寂しいのよ」
「はい?」
トゥエンティンの告白は私にとってあまりにも唐突だった。
「アンタに発破を掛けた張本人の私がこんなこと言うのは筋違いって分かってるけど、アンタだけが一人で子供から――私から離れていくのかと思うと、少し寂しくなったのよ。私はアンタと違って絶対大人にはなれないからね」
「トゥエンティンさん? それはもしかして、デレって奴かしら?」
「違う」
トゥエンティン、即答。
私、ちょっと落胆。
「これは、アンタだけが私を差し置いて前に進むことに対する憤りよ。だって私たち、今までずっと一緒だったじゃない。ずっと一緒に想い、感じ、生きてきたじゃない。それなのに、アンタの行為といったら重大な裏切りよね。これはもうアンタに謝罪と賠償を要求するわ!」
「しょうがないじゃない……。私は、大人にならなきゃいけないんだから」
「わかってる! わかってるわよ! でも、どうしようもないからこそ寂しいんじゃない!」
急に駄々を捏ね始めるトゥエンティン。
さっきまで理性的に話していたのに、これじゃ、まるで子供だ。
そして私は今頃になってある事実に気づいた。
トゥエンティンはもとより子供なのだ。
それなのに、トゥエンティンは大人らしくしていた。
私があまりにも子供だったから。
その分だけトウエンティンは頑張っていたのだ。
「だから! この言葉を肝に銘じなさい! ――精神的に向上心のないものはばかだ!」
何かを振り切るようにトゥエンティンは私に言った。
勢いよく立ち上がって、ベッドの上で仁王立ちして胸を張り。
瞳は真っ直ぐに私を射抜き、私の胸を指差しながら。
トゥエンティンは私に言ったのだ。
「私たち、今までずっと一緒に大人に憧れて、大人を羨んで、大人を妬んで、大人を嫉んで――そうして二人でせっせと大人を攻撃してきたじゃない?」
「そうね」
「だからね。私たちに攻撃されてしまうような中途半端な大人だけにはならないで頂戴――だって私、アンタのことは出来れば攻撃したくないもの」
「ええ、約束するわ」
「それから、例え大人になったとしても、私のことを――子供の頃、大人に何を思ったか、何を感じたか――それを決して忘れないで頂戴」
「それも、約束する」
トゥエンティンは私を見ている。
私もトゥエンティンを見ている。
二人で、互いを、見つめていた。
「それが、アンタが私に出来る謝罪であり、そして賠償であるのよ」
「うん」
「それで、よし」
私が頷くとトゥエンティンは満足気に微笑んで、ベッドに腰を落とした。
「そういえば、ほら。もうすぐよ」
二人の約束が終ってトゥエンティンが顎で示す方を見ると、枕元の目覚まし時計があった。
二十三時、五十九分。
二十歳の誕生日――私の成人まであと少しだ。
「記念すべき瞬間じゃない。よく見てなさい。見逃しちゃ絶対駄目よ」
そうトゥエンティンに言われて、私は時計をじっと見つめた。
目を逸らすことはしない。
時計の秒針が、刻々と日付変更の時に近づいていく。
残り、四十五秒。
「ほんのもう少しでアンタは成人する訳だけど、自分で言ったからには、慢心することなく素敵な大人――一生懸命に目指し続けてよね」
「うん」
更に秒針は時計盤の十二へと向かっていく。
後、三十秒だ
「もしアンタが途中で迷って、またうじうじするようなことがあったら、こうやってまた煽りにきてあげるんだから」
「ありがとう。その時はまたよろしくね」
苦笑しながら私は応える。
もう残り十五秒しかない。
「もうそろそろね」
「もうそろそろよ」
どちらからともなく、私たちは呟いた。
いよいよ、私は成人を迎えるのだろう。
「あ、そういえば」
そう思っていた矢先、トゥエンティンはふと思いついたようにそう言って。
「お誕生日、おめでとう。……トゥエンティー」
不意打ち気味に、私の誕生日を祝った。
こうして時計の長針、短針、それから秒針は時計盤の十二に重なった。
日付変更を見届けてから時計より目を離すと、いつの間にかトゥエンティンはいなくなっていた。彼女が腰掛けていたはずのベッドには、髪の毛一本残っていない。
この小さい一人暮らしの私の部屋。
でも、そのどこを探してもトゥエンティンはいなかった。
生意気で。
勝気で。
傲慢で。
そして、何よりも優しかった。
そんなトゥエンティンという少女の存在がもとからなかったかのように。
彼女の存在そのものが完全に消えてなくなっていた。
私はテーブルの上のコップを見る。
赤いワインは前と変わらずそこにあった。
コップを手に取り、私はワインを一口飲んだ。
飲んでみて、ワインの美味しさが私にはまだ分からなかった。
「子供の頃に舐めてみたビールの泡も、そして今日飲んでみたワインも――やっぱりどっちも苦いわね」
さようなら。トゥエンティン――子供の頃の私。
こうして私は、トゥエンティーになったのだ。
――『子供トゥエンティン』、『大人子供インフィニティ』に続く。