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廃団地の自殺者(前編)

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 その廃団地は自殺者がたびたび出ることで有名だった。

「なあ、大須賀よ」と切り出して、その廃団地へ行くことを提案したのは高校時代からの友人である滝沢だった。作家志望である彼は、創作のネタ探しという名目で俺を廃団地への肝試しに誘ったのだ。どうやらホラー作品を作りたいらしい。
 別に俺は作家志望でもなければ趣味で創作行為をする身でもないしホラーが好きなわけでもない。なによりその廃団地にまったく興味がなかった。だから滝沢の提案には乗り気でなかったが、ついてきてくれるのなら飯を奢ると言われ、結局二つ返事で了承してしまった。常日頃から金に困っている貧乏学生ゆえ、恥ずかしながら滝沢の提案は魅力的だったのだ。
 久々に豪勢な飯が食えるな、と上機嫌になりながら俺は滝沢の車に乗ってその廃団地にやってきた。時刻は午後八時。心霊体験を期待するにはいささか早すぎる時間帯のように思えた。
 滝沢は廃団地の一番隅にある棟のそばで車を止めた。俺はシートベルトを外して、すぐに車から降りる。夜風に身体を震わせながら、目の前にある建物を見上げた。
 五階建てのアパート、それが四棟連なっている。二棟目と三棟目の間にはもう一棟建てることができそうなほど大きなスペースが空いていた。
「今目の前にあるのが一号棟で、それから順に二号棟、間に公園を挟んで三号棟、四号棟」
 遅れて車から降りてきた滝沢が俺の思考を読んだのかと思えるタイミングで廃団地の説明をする。暗くてよく見えないがその表情は少しこわばっていた。どうやら少しビビっているらしい。それなりに親しい仲なのでこいつが人並み以上に臆病なのは知っている。俺を誘ったのも一人で行く勇気がないからだということも察していた。
「で、今回行くのは四号棟だ」
 滝沢は一番奥にあるアパートを指さして言った。
「なんで一号棟の前に車を止めたんだよ」
「だって怖いし」
 即答。自分の臆病さを恥じる様子もない。
 滝沢は俺にあるものを手渡した。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
 渡されたのは懐中電灯だった。俺一人で行ってこい、ということらしい。すぐに車の中に戻ろうとする滝沢の肩を掴み、力ずくで引き止める。
「ちょっとそれは都合が良すぎないか」
「怖いって言ったじゃん。飯奢るって言ったじゃん」
 滝沢は子供のように駄々をこねて俺の手を振りほどこうとする。
「ちょっと四号棟の屋上まで行って、ちょっと心霊体験するだけでいいから」
「何がちょっとだ。お前が誘ったんだから一緒に来い」
 正直言って俺も一人で行くのは気が引ける。それに滝沢の態度とビビリっぷりも気に食わなかった。
 もともと俺の方が一回り身体が大きいこともあり、滝沢を引っ張るようにして四号棟目指して引きずっていく。
「どうして四号棟なんだ?」
 左手で懐中電灯、右手で滝沢の首根っこを掴みながらゆっくりと歩みを進める。
「ここで自殺する人は決まって四号棟の屋上から飛び降りるらしい。ってことは一番心霊現象が起きそうなのも四号棟ってわけじゃん」
 自殺者が多いのは知っていたが、それが全て四号棟からの飛び降りだとは知らなかった。なぜ揃いも揃って同じ場所で同じ死に方をするのか。自殺者の不気味な規則性が俺の中の恐怖心を煽った。
「ほら、もう着いたんだから手を放してくれって」
 四号棟の前にたどり着き、俺は言われた通り滝沢の首根っこから手を放した。
 団地には三つの入り口。その向かい側には住民用の倉庫らしきものが建っている。
「どこから上っても屋上に行けるのか?」
「いや、そこまでは知――」
 滝沢の言葉を遮るように、ガタンという音が上空から響き渡った。四号棟の一番手前の入り口、その四、五階あたりからそれは聞こえた。
「ヒッ」
 俺の横で滝沢が飛び上がる。
「おい、今の聞いたか?」
「き、聞いた。これ幽霊だって絶対。なあ、絶対そうだって」
「落ち着けよ」
「悪い、あとは任せた」
「は?」
「グッドラック、大須賀」
 そう言って俺に親指を立てると、滝沢は一目散に一号棟の方へと走り去っていった。


 物音が気になり滝沢を追いかけるつもりになれなかった俺は、その場に立ちすくみながら四号棟を見上げた。先ほどの音は手前の入り口にある階段を上った先から聞こえた。それは明らかだ。
 まさか本当に心霊現象が起きたのか、と最初は考えた。しかし冷静に考えてそんな都合よく起きるわけはないはずだ。
 俺は幽霊や怪奇現象の類を基本的に信じていない。だから俺たち以外の人間がここにいると考えた方が自分としては納得がいく。
 肝試し感覚でここを訪れた人間か、あるいは――自殺志願者か。
 前者であることが一番好ましいが、ここは自殺者が多いことで有名な廃団地。後者である可能性も十分にあり得る。だとしたら立ち去るわけにもいかない。死人が出るかもしれないのだから。
 つばを飲み込む音がいつもより大きく感じる。夜の静寂のせいだろうか。
 俺は意を決して物音が聞こえた場所へ向かうべく、階段を上り始めた。
 踊り場についている電灯はとっくの昔に切れているようで、俺は懐中電灯の明かりを頼りにゆっくりと進んでいく。これがなければ足元もおぼつかない暗さだっただろう。
 恐怖心で重たくなった足を何度も何度も動かし、とうとう五階に着いた。ここが最上階だ。
 左右に部屋の扉。正面には当時の住民に向けられた張り紙。他には何もない。物音を立てたと思われる人の気配もだ。
 滝沢の話によれば自殺者は屋上から飛び降りているとのことだ。俺は屋上への入り口を探してあたり一面を懐中電灯で照らし回る。
 入り口はすぐに見つかった。俺が立っている場所の真上に金属製の小さな扉があった。鍵は壊され、すでに開きっぱなしになっている。すぐそばにはそこへ上るための小さな梯子もついていた。背伸びをすれば手が届く高さだ。
 懐中電灯をポケットに入れると、つま先立ちになって梯子に手を伸ばす。大量のほこりの感触。しかし一部分だけはほこりがほとんどついていない。誰かがこの梯子を使った証拠だ。
 腕の筋肉だけで梯子を上り、扉をくぐる。夜風が俺の上半身を撫ぜた。屋上だ。
 這いずるようにして上りきった俺は数メートル先に人が立っているのを視認する。屋上のはしっこ。どうやら先ほどの物音を立てた人間で、なおかつ自殺志願者らしい。
 止めなきゃいけないなと思いつつもどう言葉をかけていいか分からなかった俺は、少し悩んだ結果、とりあえず「すいません」と相手が驚かない程度に声を抑えて言った。静かな夜だからか、それでも自殺志願者らしき人の耳にはしっかり届いた。
 相手が振り向くのと俺が立ちあがるのは同時だった。自殺志願者らしき人は男性だった。暗くてよく顔は見えなかったが、違和感なくスーツを纏うその姿とわずかに感じるくたびれた雰囲気から、大学生である俺より年上であることだけは分かった。
「誰ですか?」
 その男は生気のない声で問いかける。なんと言ったらいいものか分からず、俺は「大須賀というものです」とのんきに自分の名前を名乗った。
「もしかして……自殺を?」
 そう言った直後に、単刀直入すぎたかなと思った。
「ええ。今から私は死にます」
 思った通り自殺志願者、人生初の遭遇だ。
 どうするべきか。俺は彼を止めるべきなのか?
 彼にもそれなりの理由があって死を選ぶわけだから、俺が止めるのは野暮なのではないか?
 じゃあ、なんで俺はここまで来た?
「やめましょうよ、自殺なんて」
 出した結論は自殺を止めること。目の前で人に死なれるのはたまったもんじゃない。
「やめませんよ、自殺は」
 男は相当強い決意、覚悟のもと自殺に臨むつもりらしい。相変わらず力のこもっていない声だが、本当にやめるつもりはないんだなと俺に思わせる何かが、彼の言葉には宿っていた。
「死ぬことが恐くないんですか?」
「ええ。死ぬことに対する恐怖はまったくありません。慣れてますから」
「は?」
 俺は彼の言っていることがよく理解できなかった。
「死ぬのは恐くない。でも、自殺した後もまた死ななきゃいけなくなるかもしれないと考えると、それはちょっと恐いかもしれませんね」
 やっぱり理解できなかった。
 自殺に慣れる? 彼は何度も自殺未遂をしているとでもいうのだろうか。また失敗して死に損ねることを恐れているということなのだろうか。
「よく分からないけど、どんな理由があろうと自殺は駄目ですって」
「何を言っても無駄ですよ」
「いや、でも……」
「無駄ですよ」
 そう言って、男は初めて笑った。
「死の間際に人と会話をするのは初めてだ。なんだか不思議な感じですね」
 いつの間にか、俺にはこの男が今から自殺をしようとする人間に見えなくなっていた。
「私が自殺をする理由、聞いてもらえますか?」
「え?」
「理由を知ってもらえれば、多分あなたは私を止めることをやめると思います。いや……どうだろう、逆にもっと必死になって止めるかも……」
 男の話なんて聞かずに無理やりでもここから引っ張っていくのがベストの選択なのかもしれない。だが俺は彼の自殺の理由というものに興味を持ってしまった。場違いな好奇心がむくむくと膨れ上がってしまった。
 男はその場に腰を下ろす。
「私はね、ずっと昔からこの団地で死に損ない続けています」
 先ほどのような理解できない言葉から、彼の語りは始まった。
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