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ラブ・ソサエティ(詩)

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 マンションの一室、玄関口。二人の男女が向かい合っていた。
「利奈(りな)。利奈かわいいよ。ほんとかわいい。すごいかわいい。すき」
「……んもー。そんなに言わなくでクダサイ。照れちゃいます」
 利奈は茶色の髪で、ちょっとほわんとした感じを人に与える女性だ。グレーのスーツに、ややタイトなスカート。薄手のサテンフリルブラウスが、胸元を上品にアピールしている。
「あの、まもーはどこがそんなに好きなんですか? わたしのー」
 ちょっと蕩けたような顔をして利奈が問いかけてくる。
「全部」
 利奈のほんのり上気した頬にかかる、ウェーブしたセミロング。きちんとセットされたそれを崩さないように、守はほんの少し撫ぜた。
「あは。髪の毛もですか? 触るの好きですよねー」
「うん」
 利奈は首をごろごろさせる猫のように、目を閉じて頭を預けてくる。
(今日は会社なんて休んで家でごろごろしないか?)
 思わず守は言ってしまいそうになった。しかしそれは禁句だ。
「こらこら」
「だって、まもーが最初にやったんじゃないですかー。でもいいですよー。ずっと触ってて。でも眠くなっちゃいますねー。朝なのに」
「むう。起きろ働けー」
 ほっぺたをつまんでぐにぐにする。
「はひー。あうう。だむえ。チーク落ちちゃううう」
 利奈が両手で守の右手を包み込むようにして、ゆっくり引き離した。
「ごめん。でも可愛かったから」
「わたしが可愛くてもだめれす」
「ごめんね」
 守は申し訳なさそうに言う。
「んー」
 くるりと狭苦しい玄関で器用に一回り。
「でもお、ここなら許しちゃおっかなー」
 利奈はふっくらとした下唇を人差し指で押さえて、何故か得意げな顔をする。
「基準がわからない」
「お化粧したことない人はそういう事を言うんですー」
「え? 化粧なんかほとんどしてないじゃん」
「あは。もう。もう」
「隙あり」
 抱き寄せて口づけする。唇越しにほのかにストロベリーの味が伝わってくる。
 ――たっぷり5秒はたっただろうか。優しく離す。
「……もう。びっくりさせないでクダサイ」
 瞳を潤ませながら、瑞々しいふっくらとした唇をわずかに尖らせる。、それを見た守も思わず照れてしまう。
「……グロスついちゃいましたね」
「うん。おいしかった」
「あは。しょうがない人」
 ふと気づいたかのように利奈は手首にした時計に目をやる。
「むー。バッグ、お願いします」
「はい」
 守は利奈にフローリングの床脇に置いていたショルダーバッグを渡す。ドキュメントが詰まっていて、男が持ってもかなり重く感じる。利奈はそれをひょいと背負う。
「よっし」
 そして少し大きめのスケジュール帳を取り出すと、一瞬で人形のような無表情に切り替わり、手馴れた動作で細かく書き込まれている各項目を素早く確認していく。
「……」
「やっぱりカッコイイなー」
 守が呟くと、利奈は没頭した世界から急に引き離されたかのように、恥ずかしそうにしてスケジュール帳を仕舞った。
「じ、じっくり見ないでクダサイ」
「ごめん。でも、仕事している時だと印象変わるよね。キリッとしてて」
「はうう」
「……かわいいなお前」
「だめ。だめだめだめです。耐えられない。恥ずかしい。それ以上言わないでぇ。もう行かなきゃああ」
 利奈は三半規管も蕩けてしまったようにフラっとしながらドアレバーに手をかけて、しかし振り向いて優しく守に微笑みかける。
「今度はいつ会えます?」
「利奈が来て欲しいなって思う時かな」
「あ、それじゃ毎日ですね」
 下唇を人差し指で押さえながら利奈は思案するように言った。
「そ、それはちょっときついかも。今やってること、ようやく軌道に乗りそうなんだ」
「別に、脱輪しちゃっても大丈夫ですよう。そしたら、忙しくないですよね? 毎日一緒にいましょ? ね? わたしも在宅中心に切り替えますから」
「……。そうだね」
「あは。そうそう、お手伝いできないかと思ってちょっと入れておきましたー」
「……うん。助かる」
「わたし、待ってます」
 甘く呟くと、利奈が出て行く。ドア越しに遠ざかっていく小気味良いパンプスの音が響いた。



 利奈が出て行ったあと、守は熱いシャワーを浴びて、着替えて部屋においてあるシェーバーで顎髭を整えた。広々としたベランダに出て、ポケットから一本取り出したタバコに火をつける。
「……ふぅ」
 思わず深い息を吐く。一人だけのわずかな自由時間。ゆっくり一本を味わい終えようとかという時、携帯から守の好きな曲、『フライミートゥーザムーン』の着メロが流れ出す。メールで済むことでも彼女は必ず電話してくる。守はさして間を置かずに出る。
「江名ちゃん? どしたん?」
「あ、あの。まーくん。そろそろ仕事終わった?」
 柔らかいソプラノの声が聞こえる。
「……ん。結構いいタイミングかも。さっき片付いたよ」
「ほんと!? じゃあ、うち来れないですか? 今ちょっとお話作りでスランプで……誰かと話したりしたら多分思いつくと思うの」
「……編集さんは?」
「あの人はダメ。まーくんの方がいい」
「そか。良く分かんないけど。売れっ子は大変だよな。すぐ行くよ」
「うん」
「何か持っていくものある?」
「ま、まーくん」
「え?」
「まーくんを一つ……お願いします。なんて」
「……」
 ――返事はしないで、江名の反応を待つ。電話越しに無言の不安感が、伝わってくる。「あれ? ま、まーくん?」
「……つまり、服来て行かないでいいってこと?」
「ななな何言ってるんですか。普通に来てください! 仕事なんです! アイデアを出すすっごく重要な仕事なんです! もう!」
「あはは。分かってるよ」


 守はヒモだった。



 守のようなごく普通の能力の人間では、もう既に生き残れないような時代になっていた。単純作業はとうの昔に大量に働きに来た外国人と、機械に取って変わられている。人間の価値は知識と知恵が有機的に結合した生産性で決められる、既に残酷なほど透明化した社会になっている。
 守はプログラマーとして、泥のように働き続けた数年間を思い起こした。それで得られた収入は微々たるもの。それがあなたの能力です、という事を正確に数値化され、自己の能力に見合った給料を貰う度に、有無をいわさぬ現実に直面する。一切の言い訳を吐く事を許されない日々。――あの頃は本当に死のうとすら考えた時期もあった。実際にどこかに行ってしまった同僚も結構いる。散々悩んで出した辞職の日も、眼を閉じればあまりにも鮮明に思い出せる。

 利奈のような優秀なエンジニアや江名のような一流のクリエイター、本当に一握りの優秀なものだけが重宝される時代。しかし適性がなければ、努力だけではダメなのか。会社を辞めても尚諦め切れない守は、名の知れた大学病院で数十万払って能力分析検査を受けてきた。

 診断結果曰く、『論理的思考力は平均値より低いです。ただし、女性の心を読む能力は10万人に1人のレベルの才能です。あなたに向いている職業:ホスト、ヒモ等』

 守は一週間泣いた。



 守は彼自身の成しうる最適戦略を取ったに過ぎない。彼自身の生産性を10とすれば、彼女たちのそれは累乗的。与えられた時間は同じでも、金銭経済では100や1000なのだ。しかし能力の高い人間といえど、何かの拍子に精神的に落ち込み、生産性が半分以下になることだって十分ある。それをフォローできたなら。彼女たちが常に一定の能力を発揮することに寄与したならば、守は社会に貢献した、とは言えないだろうか?

 多少の嘘と、それを見透かした上で、尚彼を受け入れる者。
 彼は自身が考え抜いたポートフォリオとして彼女たちを喜ばせる。
 その働きに見合ったペイを彼女たちから直接受け取っている。

 世界は生まれた時から全てにありのままを与えた。
 そして人間はその全てに価値を与えた。



 空を見上げて、今日もまたどこかのマンションの一室で守は紫煙を燻らせている。
3

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