港町の酒屋は昼間から盛況だ。美味くて新鮮な魚の肉をアテに早朝の漁を終えた屈強な海の男たちが酒を飲む。
入り口から見える店内は広く、四人掛けのテーブル席が幾つも並べられていた。美味そうな料理と酒がテーブルの上に置かれ、大きなカウンターでは店員を口説く客も見える。この情景だけ見ればまるで魔王なんて存在しないように思えた。
「イム姉さんの店とは雲泥の差だな」
「イム姉さん? 誰ですのそれは?」ミロちゃんがギロリと目を光らせる。
「僕の故郷にいる幼なじみの姉さんだよ。親の酒場を継いで店長をやってる」
「師匠はその人とは仲が良いんですか?」
「良いも悪いも、幼なじみだからね。切っても切れない関係だよ」
「勇者様に幼なじみがいたなんて……」
ギリリと爪を噛むミロちゃんに僕とキトは苦笑した。
「ミロさん、師匠はモテるんだから、あまり焼きもち焼きすぎると持ちませんよ」
「や、やき? キト、何言ってるの。私が何で焼きもちなんて」
ミロちゃんはあからさまに慌てふためく。キトは肩をすくめた。
「師匠、ミロさんまだこんな事言ってますよ」
「ミロちゃんの性格上、僕が好きだと公言することなんて出来ないんだよ。照れ屋だからね」
「なるほど」
「ちょ、ちょっと待ってください勇者様! 何で私が勇者様を好きって事になってるんですか!」
「昨日洞窟で会った時に『もっと勇者様と一緒にいたい』とか言ってたじゃないですか。ね、師匠」
「この子、都合悪いことはすぐ忘れるんだよ。そこらへんちょっとね」
「あ、あれはそう言う意味ではなくて……」ミロちゃんは顔を押さえる。
「それに忘れたの? 就職センターで自分は勇者の妻だって自己紹介しようとした事も」
「う、うう……」真っ赤な顔。タコみたい。
「まぁこの話は置いといて、とりあえず中に入ろう」
結論が出ている事をやいのやいの言っても仕方がない。一つ言える事として、モテると言うのはそれほど悪い気はしませんなぁあっはっは。
店の一番奥にあるテーブル席についた。ミロちゃんが辺りを見回す。君、心なしか頬が蒸気してませんか。
「すごいですわね。むせ返りそうなお酒の臭い、男の香り……」
意味の分からない事を言い出したミロちゃんに僕とキトはうつむいた。
「太くてたくましい筋肉の男性がこんなにたくさん。太陽で焼けた皮膚が黒く光って……」
「師匠……」
「耐えろ」
「ねぇ勇者様、ああいう男性に抱かれる女性は、一体どう言う気持ちなのでしょうか。得られるのは抱擁感? 安心感? それとも……」
「この淫乱女子!」思わず叫んだ。ミロちゃんが慌てて口を開く。
「ああ、すいません勇者様。初めて目の当たりにする環境につい淫乱……いえ、発情してしまって」
訂正しきれていないのがポイントである。
「なぁに叫んでるの? 勇者さん」
僕らのテーブルに水を置いてくれたウェイトレスが悪戯っぽく笑う。
「久しぶりだな」
「師匠、お知り合いですか?」
「さっき言ってた幼なじみのイム姉さんいるだろ。あれの妹だよ。ナナミって言うの」
「人の姉をあれ扱いしないでくれるかな」
ナナミは苦笑すると、僕たちにメニューを渡してくれる。
「久々に来たと思ったら、子供に彼女連れて。結婚したなら言いなさいよ」
「そのやり取りは以前やったからもう良いよ。とりあえずビールと刺身と卵かけご飯下さい」
「はいはい。彼女さんは何にされるんですか?」
「か、彼女?」
「ミロさん、今のはナナミさんが放った冗談ですよ。あ、僕はこのフレンチトーストでお願いします」
「キト、一々注釈を入れなくて良いのよ……。じゃあ私はチョコパフェとココアを」
「女子みたいだな」
「女子です!」
「ミロさんは淫乱女子ですもんね」
「いらん事言わないの!」
「フフッ、仲良しさんね。少々お待ちください」
馬鹿なやり取りをする我々を尻目にナナミはカウンターへ戻って行った。キトは彼女の後姿を見て目を輝かせる。
「師匠、綺麗な人ですね」
「キト君、とりあえず年上のお姉さんだと賛辞を浴びせるのはやめようね」
「でも勇者様、幼なじみの方がどうしてここに? お姉さんが実家の酒屋を経営しているならお手伝いくらいすると思いますけど」
「あいつは修行中の身だから。こういう大きな店で働いて色々と揉まれてるってわけ」
見ると酔った客がナナミに絡んでおり、言葉では言い表せないような様々な部位を触っていた。ナナミも慣れているのか、多少のおさわりは許しても深入りはさせていない。
「確かに、色々と揉まれていますわね」
「ミロちゃん、僕が悪かったよ」
「あんなにポンポンと触らせて。勇者様も触った事があるんでしょう?」
「据え膳喰わぬは男の恥ってね」
「師匠、なんですかそれは」
「目の前にあるおっぱいは触れって事だよ」
適当な発言をしたところ、途端に険悪なムードが広がった。コップを持つミロちゃんの手が震えている。邪悪な殺気を感じた。
「冗談だよ。僕は仮にも勇者だ。女の子に手は出さないさ」
「昨晩私のお風呂を覗いた人が?」
まずい。まるで言葉に説得力と言うのが伴わない。なんてこと。
このままでは地獄を見そうだと思っていると、机の上にビールが置かれた。ナナミだ。華奢な手で、盆に乗った料理を次々と置いていく。ヒラヒラのレースが装飾された服を着てよくこれほど軽々と動けるものだ。事務員よりは戦闘力あるだろう。
「お待たせしました。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
「わぁ、おいしそう」
ミロちゃんが目の前にでかでかと置かれたパフェを見て声を上げる。
「勇者の彼女候補さんだからね。特別サービスで多めにしといたよ」
ボッ、と音を立てたように急にミロちゃんが赤くなる。よし、いいぞ。利は我にある。
「ナナミさん、師匠におっぱいを触られたと言うのは本当ですか?」
僕はこの時本当の敵は別にいるのだと悟った。この思春期!
しばしナナミはキョトンとした後、さもおかしそうに笑い出した。
「この天下無敵のチキンボーイが人の胸なんて触れないよ」
「だ、誰が鳥男じゃい!」
「あんただよ、あんた」
ゴンゴン、と盆で僕の頭を叩く。
「こいつは昔から人一倍女関係は弱いから。軽い男に見えるのは見た目だけだよね」
「ニヒルでダンディズム溢れる、と言ってくれませんか」
「少年、この馬鹿みたいな人間にだけはなっちゃ駄目だよ」
「大丈夫です! もうなってます!」
「キト君……」何だか胸が切ない。
馬鹿な話をしばらくした後、ここに来た目的を思い出した。ただお酒が飲みたかっただけではない。ナナミに聞かねばならない事がいくつかあったのだ。
僕が真面目な顔をするとナナミは頷いた。
「分かってる。魔王の事でしょ? 前回から一ヶ月だっけ。復活までの間隔、どんどん短くなってるよね」
「それに関する噂、何か流れてる?」
「明確な情報じゃないけど、魔王を作り出してる何者かがいるんじゃないかって噂はあるよ」
「どういう事?」
「魔物を作り出すのは魔王でしょ? あんたが初めて魔王討伐に出かけたのが五年前。それまで当たり前の様に魔物は外をうろついてた。でもあんたが魔王を倒したらぱったり消えた。魔物もいない世界で、普通に考えて魔王を復活させる要素って見当たらないんだよね。そこで出てきたのが『神』の存在」
「神だって?」
なんだか無駄に壮大な物語になろうとしている。そんなつもりじゃなかったのに。そもそもこんな核心に迫るような話を旅の二日目、しかもまだそれほど最初の街からはなれていないこんな場所で聞いてしまって良いのだろうか。普通、海の奥深くや空高い場所で隠れ住んでいる魔法使いとかから聞く情報じゃないのだろうか。こんな港町の酒屋にいるウェイトレスから聞くなんて。情報社会ってどうなの。よく分からないモヤモヤが僕の心を満たしていくのが分かった。
「魔王を生み出す更に上位の存在がいるんじゃないかって巷じゃ噂になってる」
「それが『神』か。下らないね。まだ今まで倒してきた魔王が影武者だったとか言ってるほうがマシなレベルだよ」
「まぁあくまで噂。ほら、人って無駄に壮大な話が好きだからさ。特にここは港町で人の出入りも激しいし、話に尾びれはどうしてもついちゃうのよ」
ナナミは肩をすくめる。彼女も噂については半信半疑みたいだ。当たり前だろう。もし『神』とやらが実存するとして、その狙いは一体なんだと言うのだろうか。内容はあっても、実情は全く見えてこない。
「そんな与太話はいいから、魔王の居場所に関する情報はないの? 今回の魔王、まるで情報が入ってこないんだけど」
「それがこっちにも入ってきてないのよ。たぶん、この近辺の大陸にはいないんじゃない。誰も魔王を見てないから、もしかしたら今回は魔王なんていなくて、それこそ『神』とやらが出てきたんじゃないかって話が上がって……」
「それが噂の発端か」
つまりそんな信憑性のない噂が上がるほど今のところ魔王の存在は誰にも認知されていないと言うわけ。海を越えた旅人達にも、だ。
「とにかく遠い大陸に行かないと分からないねこりゃ」
「そうだね」
「久々に空を使うかなぁ……」
ふと見るとキトとミロちゃんが黙々と目の前の飲食物を胃の中に収めていた。どおりでさっきから静かだと思った。
「君達、普段無駄に喋るんだから、こう言う時こそ話に加わったらどうかね」
「え、何がですの?」
口にクリームをつけたミロちゃんが首を傾げる。それで可愛くなったつもりか。せめておっぱいの片方くらい。いや違う。
「何がって、魔王の話だよ。この旅で今のところ一番と言えるほど大事な話をしていたんだよ」
「すいません勇者様……。食べるのに夢中で全く聞いていませんでした」
「ミロさんは恋愛話しか食指が動かないんですよね」
「あら、キトだって全然話に加わろうとしなかったくせに」
「だって僕の賢さ三ですから。難しい話は理解不能です」
「賢さ三だなんて。さっそく就職センターの効果が出てるわね」
「ミロさんはいくらなんですか? 賢さ」
「五」
そこでナナミはあっはっはと笑って僕の肩を叩いた。
「今回死ぬかもしれないね」
「死なないよ。だって魔王の攻撃でもダメージ食らわないもん」
僕とナナミは同時に溜息を吐いた。