「勇者、危ないところをすまなかった」
ジャッカル兄妹の兄、ヒエデはそう言ってテーブルの向こうで深々と頭を下げた。
「礼なんていいさ。当然の事をしたまでだよ」
「いや、お前がいなければどうなっていたか分からなかった。消え行く意識の中、三途の川を渡りきった気すらしたからな」
それは気がしたのではなく渡りきっていたのですよ。
「でも、師匠が魔物を見つけたって飛び出して行ったときはびっくりしましたよ。追いかけようとしたらセツナさんに止められるし」
「敵は強力、だから勇者一人じゃないと逆に危ないと思って……」
「そう言う事だキト。お前の弱さはまだセツナの目からみても明らかってことだよ」
「そんなぁ」
あはははは、と室内に暖かい笑いが起こる。とは言え僕とセツナは乾いた笑いなのだが。朗らかに笑うヒエデを見ると心が痛む。
今から三十分前、魔物を見つけたと嘘をついた僕は家を飛び出し、外でこっそりとヒエデを生き返らせた。家を出るときに一瞬だけセツナと目が合ったのだが、物凄い形相をしていた。目線で何かを懇願する人ってあんな顔をするのだろう。
生き返らせたヒエデは新雪の様な白い髪をオールバックにした、眉のない厳つい兄ちゃんだった。ヤンキーをこの世に呼び戻してしまった僕は発作的にもう一度彼を永遠の眠りにつかせようとしたが、凶器を探している間にヒエデが目覚めてしまったのだ。
「まさかお前に二度も助けられるとはな」ヒエデは悪戯っぽく肩をすくめる。
「まがいなりにも勇者だからね。当たり前の事だよ」
二度、と言う事は以前も助けたのか。例の如く全く記憶にない。ばれたらボコられるかもしれない。どうにか誤魔化さねば。
「ローズマリー討伐戦を思い出すぜ。厄介者扱いだったジャッカル家がこうして街の人間と協力するようになったのもお前のおかげだったよな」
「ヒエデの人徳だよ。僕は何もしちゃいないさ」
もしかしてジャッカルって苗字かよ。こんな苗字に生まれたら僕は世界を呪う。
「覚えてるか? お前の放った火炎魔法を使って俺が炎の矢を放ったこと。あれが魔女の致命傷になったんだよな。あんなすごいコンビネーション、お前じゃなきゃ出来なかったよ」
そうだっただろうか。たまたま落ちてきたツララが魔女に直撃したから勝てたはずだが。いや、心筋梗塞で勝手に倒れたのでは。そもそも当時炎系の魔法なんて使えただろうか。
僕が曖昧な顔をしているとヒエデは笑みを引っ込めた。
「お前、もしかして忘れてるんじゃねぇだろうな? あの大冒険を」
「あはは、そんなわけないじゃないの」
親の敵でも見るようなヒエデに僕は満面の作り笑顔で対応した。ああ、これはボコられる程度ではすみそうにないな。大冒険の内容どころかジャッカル兄妹の存在すら忘れていて今もなお思い出せないと気付かれたら殺される。まさかこの歳になってヤンキーにおびえるハメになるなんて。
僕はあたかも今、時計の存在に気付いたかのように極自然な動作で視線を走らせると「わぁ、大変だ」と立ち上がった。
「もうこんな時間か。そろそろ宿をとらないと」
するとキトが僕の前に立ちはだかった。随分と憤慨した様子だ。出会って間もないとは言え、こいつが怒るのは珍しい。
「師匠、何を言ってるんですか。氷の城が街の人を苦しめてるんですよ? 宿なんてあとでいいでしょう。僕はまだ眠たくないんです!」それは昼寝したからだ。
「布団に入ってお前の妄想力を働かせればいつの間にか夢の世界さ。じゃあ、行くよ」
妙にテンションの高いキトを担ぎ、僕は玄関へと向かう。するとパーカーのフードをぐいと引っ張られた。突然だったので少しえずく。
「勇者、帰るの?」セツナだった。
「大丈夫だよ。明日ちゃんと自警団の人たちを元に戻して、氷の塔に行ってくるから」
だから今は一刻でも早くこのヤンキーから逃げさせて欲しい。これ以上会話を続けるとボロが出る。殴られるのだけはご勘弁願いたい。
「勇者、頼りにしてるぜ」とヒエデ。
「任せてくれよ。じゃあおやすみ」
僕はそそくさと家を後にした。
外に出るとすっかり日は落ち、空は暗くなっていた。先ほどと比べると随分視界も悪くなっている。仕方なく夜目が利くように魔法をかけた。このあたりは魔物と同時にクマや狼も出るのだ。襲われたらキトは一たまりもない。
「師匠」
「何だ? 用がないなら黙って歩きなさい。寒いから」
「でも、師匠」
「ちゃんと明日にはダンジョンに向かうから。明日からやるから」
「いや、そうじゃないです師匠」
「じゃあ象だって言うのか!」
我ながら意味不明な切れ方をして振り返ると、キトが空を見上げていた。
「星がすごいんです」
「星?」
釣られて見上げると満天の星がそこにあった。冷たく澄んだ空気で世界が透き通り、遥か高みに星達が漫然と輝く。
「僕、こんなすごい星空初めてみました」
キトは嬉しそうに声を弾ませる。
「知ってますか師匠。星の光は、ずっと昔に放たれた光だそうです。何千、何万年と前の光が時を越えて僕たちに届いているんですよ」
この光ミロさんも見てたらいいですねとキトが嬉しそうに呟く。
「キト」
「はい」
「予定変更だ。氷の塔へ急ごう」
「えっ?」
僕はキトの手をぐいと引っ張り、方向転換した。森の中に一等高くそびえるあれがそうだろう。目立ちすぎである。人質をとられていなければ遠距離魔法で破壊していたところだ。
「どうしたんですか急に。こんな夜中に真っ暗な森に入るだなんて」
「キト、この地方がなんて言われているか知ってるか」
「いえ」
「雪の街だよ。ここは年中雪が止まず、新雪に足を取られないよう街の人たちが四苦八苦しながら雪と共に生活する、そんなところなんだ」
「さすが師匠、詳しいですね。でもそれがどうしたんですか?」
「鈍いな。いま雪はどうなってる?」
キトは地表の新雪をすくい上げ、手の平で転がしてからハッとした様子で顔を上げた。
「積もってます」
「おばか!」
こいつ本当に真の勇者なのか。こんなに頭悪くていいのか、真の勇者。
雪が止まったことのない地方で、雪が止まった。もしかしなくてもあの氷の塔が原因だろう。何か大変な事が起こっている気がした。いまいかないと手遅れになるかもしれない。こんな胸騒ぎは幼少の頃女風呂に入ったとき以来だ。
「くそ、ミロちゃん……魔物の性欲の捌け口にされるのは僕が到着する頃にしてくれ」
「師匠、僕も同じ事を考えていたんです」
「早く行かないと色々と間に合わなくなるかもしれないな」
「急ぎましょう」
僕達は森へと足を踏み入れた。