コンクリートが焦げ付くほど晴れた日に、ガールフレンドにスターバックスに呼び出されて「私、ゾウ人間のことが好きなの。だからあなたと別れたいの」と言われるほど、最悪な休日の過ごし方はないだろう。
ゾウ人間は数十年前に突然インドの山奥から文明社会に現れた。ゾウ人間はゾウのように鼻が長く、ゾウのように鼻を使って物を掴んだり持ち上げることができる以外は他の人間と変わりなく、現れた時からなぜか人間の言葉を話せた。そんな彼らをはじめは世の人間たちは訝しみ、恐れたが、時間が経つと世間はゾウ人間が特徴的な鼻をもつこと以外が我々と変わりなく、むしろ穏やかで優しく友好的な種族だということが周知されるようになった。
「意味がわからない」と言う僕に「そのままの意味よ」と彼女は返す。そう言ってフラペチーノに口をつける。これ以上言うことはないという顔で、クリームの山に突き刺したストローを吸い上げる。彼女の言ったことを一字一句そのまま信じると、彼女は僕と交際しているが、僕よりゾウ人間のことが好きになったから僕と別れたいということになる。要するに別れ話だ。彼女は僕と別れたいのだ。しかしその理由が「ゾウ人間のことが好きになった」というのは冗談に聞こえる。たとえゾウ人間たちが文明社会に馴染んだ今日においてもだ。
「僕と別れて、ゾウ人間と付き合いたいのか？」
「そうよ」と彼女は答えた。そう言うともう一度フラペチーノに口をつけた。ストローがズズズと音を立てる。どうやら中身は空になったようだ。
ゾウ人間と付き合いたい。ゾウ人間なら誰でもいいのか。それとも特定のゾウ人間を示しているのか。僕には判断が付かなかった。もし後者なら、間男ならぬ間ゾウ男が存在していることになる。
国際結婚が珍しくなくなり、同性愛者の婚姻も許容されつつあるこのご時世でも、人間とゾウ人間の交際はタブーとなっている。ゾウ人間は文明社会に馴染み、全てのゾウ人間が人間と同じように各国で戸籍を持ち生活し、ほぼ人間と同様に扱われていると言っても過言ではないにも関わらず、ゾウ人間を恋愛対象、もしくは性愛の対象にしようという人間はいない。ゾウ人間と交際、もしくは結婚することに関しての法的、もしくは戒律的な拘束はこの世の中にはない。ゾウ人間にも人権が認められ、ゾウ人間が人間として見なされている以上ゾウ人間と交際し、結婚し、セックスする自由が僕達にはあるはずだ。しかし認められているはずの自由を誰も行使しようとしない。誰もがそんな自由があることに気づかないふりをしている。ゾウ人間を性の対象にしたポルノすら作られていない。
「おかしいよ。ゾウ人間と付き合いたいだなんて」僕は言った。
彼女の考えは一般的な感覚では受け入れられないものだ。今でも僕はそう思ってる。しかし彼女は「何がおかしいのよ！」と声を荒げると、ダムの放水のようにあらゆる言葉で僕を罵り尽くすと1000円札を置いて帰って行ってしまった。僕はゾウ人間と付き合うのはおかしいと言っただけなのに彼女は僕のことをレイシスト呼ばわりさえした。僕は途方に暮れたが、このまま店に居続けても仕方がないので彼女の置き土産で彼女のフラペチーノの代金を払って買えることにした。僕は何も注文していなかったので、430円ばかりお釣りが返ってきた。彼女に渡す日は二度と来ないだろう。
ゾウ人間を差別する人たちは昔は少なからずいたらしい。しかし今ではゾウ人間を差別することがタブーとなっている。公民権運動とか女性解放運動みたいな類の活動が世界中で自然と広まっていき、ゾウ人間を差別しようものなら大手を振って通りを歩けない時代がやがて訪れた。しかしそうしたムーブメントの中心にはゾウ人間はいなかった。彼らはただ穏やかに暮らしていただけだった。彼らの知らないうちに、周りの鼻の短い人間達が勝手に騒ぎ、勝手に鼻の長い彼らの権利をどこからともなく引っ張り出してきたのだ。
430円――――100円硬貨4枚と10円硬貨3枚が、僕と彼女が付き合っていたことを表す唯一の痕跡になってしまった。彼女とは何度もデートをしたし、セックスもしたが僕は彼女から形が残るものを何かをもらったことが一度もなかった。旅行のお土産にお菓子くらいもらったが、そんなものは口に入れば消化され、排泄されてしまう。でも430円だって同じだ。僕の求める何かの対価として、市場に流通される運命なのだ。僕が別れを惜しんで手元に留めない限りは。僕は別れを惜しまずに430円で煙草を買うことにした。430円で買えるものが、煙草しか浮かばなかったからだ。
彼女は煙草が嫌いだった。だから僕は彼女と交際している間、煙草を吸えなかった。煙草を止めざるをえなかったのは辛かったが、慣れてしまえば辛さというものは感じなくなるし、自分が以前煙草を吸っていたことすら忘れてしまっていた。だけれども僕は思い出した。自分にたばこを忘れさせたのは彼女だったし、思い出させてくれたのも彼女だった。
適当に目についたコンビニエンスストアに入ると、レジの店員に以前吸っていた銘柄の番号を伝えた。そこではじめて僕は煙草が値上げしたことに気づいた。430円で買えた銘柄が、もう430円では買えなかったのだ。
僕は人間とゾウ人間が付き合うなんておかしいことだと思っている。誰もそうしていないからだ。人間とゾウ人間のカップルを僕は身の回りで見たことがないし、うわさ話でも聞いたことがない。だから彼女が「ゾウ人間と付き合いたい」と言ったことに僕は驚いたのだ。僕と別れたいこと言ったこと以上に、それは驚愕に値することなのだ。
しかし僕が知らないところで、ゾウ人間と人間が付き合うことが「おかしくない」ことになってるのかもしれない。或いは、僕のいないところで時代の流れがヒトとゾウ人間が愛しあう方向に傾いているのかもしれない。そうした可能性を僕は否定出来ない。煙草の値上げに気づかなかった僕が、世論の傾向を見誤らないなんてきっと誓えないだろう。。
彼女は僕を「レイシスト」と罵った。自分で自分をレイシストだとは思わない。ゾウ人間を別に毛嫌いしてるわけではないし、彼らが人間と共存するこの社会に生きづらさを感じているわけではない。ただ、彼らと人間が恋愛関係になることがおかしいと思っているだけだ。そのことを僕を差別主義的な思想だとは思っていないが、それはあくまで僕の主観的評価であって社会一般から見た客観的評価では違うのかもしれない。
彼女の残した430円に、財布から20円ばかり足して煙草を買った僕は駅近くの喫煙所に足を運んだが、喫煙所は知らない間に閉鎖されていた。
そういえば――――僕は彼女が僕と別れたがっていたことも知らなかったのだ。