買い物帰りに通る駐車場に十匹ほどの猫が集まっていました。どうやらご近所の猫さんたちの集会のようです。よく見るとその中に照(テル)くんもいました。初顔合わせなのでしょうか、他の猫の集団から距離があります。
○
「ねーねー、君の好きなことってなに?」
多分それは友好的な質問だったのだと思う。まぁ少なくとも悪意は感じなかった。
小生が一番初めに思いついたのは故郷でよくやっていた魚獲りだった。しかしそれを素直に口にして良いものかどうか迷った。その時小生はまだこの“街”と呼ばれる環境に身を置いたばかりで、街での魚獲りというのが可笑しなことではないかとふと疑念を抱いたのだ。
だから次にぱっと思いついたものがぽろりと口から零れていた。
「自分の体の幅と同じくらいの塀の上にいること」
小生の答えに、彼らは一瞬だけ困惑した顔を見せたあと、顔を見合わせて嘲った。
「君って変なヤツだな」
その声の調子が気に入らなくて、つい反射的に言い返す。
「そんなことない」
「いいや。変な奴だね」
「そうそう。変に決まってる」
「塀の上を歩くこと? 一体何が楽しいんだか!」
彼らは口々に嗤う。嗤いながら、新しい玩具を見つけた子供のような目で小生を見た。
自然、小生もそいつらのことを睨み返していた。
不機嫌に黙り込む小生に、彼らの一匹がちょっかいをかける。
「お前さ、もしかして自分が変わり者って自覚ないの?」
理不尽な決めつけに全身の毛がざわついた。遅れて自覚する。小生は今怒っている。
「小生は変わり者ではない」
「いやいや、お前ヘンだよ。自覚しとけっての」
「そうそう。お前はヘンなヤツなんだよ」
彼らはせせら笑う。耳障りだ。小生はもう怒っていることを隠さず、低く唸った。
けれど彼らは歯牙にもかけない。彼らは自分たちの数的有利を十分自覚している。小生に勝ち目がないことを見越し、その上で嘲っている。小生が彼らの顔に思い切り爪を突き立てたとしても、その後に何倍も小生を痛めつけられることを知っている。
小生は悔しかった。怒りを向けた連中が少しも相手にしないことが。報復を恐れるあまり、彼らに喧嘩も仕掛けられない自分が。
「さ、もう行こうぜ。せっかく新入りが来たから面白いヤツかと期待してたのに、しらけちまった」
「違いねぇ。……と、そうそう、チビ」
彼らの中でもひときわ体の大きいトラ柄のヤツが、威圧的な態度で小生を見下ろした。その後ろには痩せた灰色の子分がにやにや顔で付き従っている
「お前、喧嘩を売る相手もわからないのか? 弱っちい癖にいきがるなよ」
「ちっちゃい体で足震わせながら威嚇してんのはマジ面白かったよ。プルプル震えちゃってかわいいねー。ぎゃはははは」
心の底から小生を馬鹿にして彼らは駐車場から離れていった。
○
お夕飯を終えた頃、照くんが家に戻ってきました。尻尾がだらんと垂れ下がり、心なしかのろのろ歩いています。猫さんの集会で何かあったのでしょうか。観察しているとパタパタ尻尾を大きく動かして、苛立っているようにも見えます。いつもならそろそろ「かまってオーラ」を出す時間なのに。どうやら今日はご機嫌斜めのようです。
○
いつもより遅めに寝床に帰ると、同居人が食事をしているところだった。小生の分のご飯もちゃんと用意されている。怒っても悔しくてもお腹は空くので小生も大人しく食事に専念することにした。
食事をしている間、ちらちらと同居人の視線を感じた。なんだろう。かまって欲しいのだろうか。悪いけれど今日はそんな気分ではない。部屋の中で一番寝心地が良いカーペットの上でごろんと寝転がった。何も考えないようにしているのに、ふっと昼間のことを思い出す。
『君って変なヤツだな』とムカつく言葉がリフレインする。
変ではない。断じて小生は変ではない。だって塀の上を歩くのは楽しい。程よい眺望と僅かなスリル。それに小生にちょうど良い幅。同居人と小生の寝床を覆う塀がまさにそう。この街に来て一番初めの小生のテリトリー。あの塀の上は全部小生の道だ。小生がいる間は他の誰も通れないから。それに晴れの日は座るとぽかぽかで、日向ぼっこはあそこが一番気持ち良い。だから小生は変ではない。ロンリ的に考えて小生は変ではない。彼らは塀の上の心地良さを知らないだけなのだ。小生を変わったヤツと断ずる彼らがおかしい!
む。興奮して尻尾をパタパタさせすぎた。同居人が興味深げにこちらを見ている。あまりパタパタさせるのは紳士的な振る舞いではない。小生は反省して尻尾を大人しくさせた。
さて。
同居人はなぜか扉の影に隠れるようにして小生を見ている。こっそりみているつもりなのだろうか? 顔は見えているし、移動の音はしたし、匂いはするし、隠れられる要素はないのに。
うん、変わっているというなら、小生の同居人こそは変わっている。
同居人の性別は雌だから、敬意を込めて彼女と呼ぼう。
彼女は変人。彼女は小生と戯れるのが生きがいなのではないかというほどそれを好む。
彼女は小生の顎の下を撫でる。彼女は小生の尻尾の付け根あたりをトントン優しく叩く。彼女は小生を膝の上に乗せる。彼女はもふもふとした毛むくじゃらを操り、小生の狩りを眺めて喜ぶ。小生は彼女の前で喉を鳴らしたり、無我夢中でもふもふに狩りを仕掛けたりしている。そんな時、彼女は小生を見てたいそう楽しそうに笑うのだ。
彼女は毎日決まった時間にご飯を差し入れ、小生が口にするのを眺めて満足そうにする。たまに食事中だというのに、おでこを摩(さす)る。本音を言うならこれは遠慮願いたい。けれどその時の彼女はなぜだか嬉しそうにしているので、小生は食事に集中することにしている。
今日は構ってあげなかったから拗ねているのだろうか。
小生をじっと見つめる彼女を見返す。そこで彼女は小生に気づかれたことを初めて悟ったのか、少しだけ気まずそうに、手をひらひら振って、ひょこっと姿を消した。
何なんだろう。
小生は彼女が去ったあとの虚空を訝しげに見つめた。
変わった人だ。
○
こっそり観察していたのに見つかっちゃいました。
どうやら物思いに耽っているご様子です。今日はそっとして欲しい気分なのでしょうか。私も早々にお布団に潜り込むとします。
○
小生が街に来てから一ヶ月が過ぎた。
桜花の季節は瞬きの後に過ぎ去り、今はその枝に若葉が芽吹いている。同居人が手入れしている菜園には薄い紫の花がうつむき加減に咲いていた。茄子の花だ。
麗らかな日。春風が小生のひげをふわふわ揺らす。
同居人と小生のねぐらを囲う塀の上、座り込んでいると暖かな日差しに眠気を誘われる。
だというのに。こんな穏やかな日だというのに。
「まだこの前の男のこと気にしてんの? あんなヤツなんかほっといて、俺と遊ぼうよー!」
「えーでもぉー」
「いいじゃん、いいじゃん、絶対俺の方がイイよ?」
見下ろす視界の端で、ちゃらちゃらした毛並みの男と品のない首輪をした女がいちゃついていた。
発情期、というものらしい。男は近頃ピリピリしっぱなしだし、女は気持ち悪いしで、鬱陶しいことこの上ない。
テリトリーを巡回していると、この時期のせいか、よく他の男と出くわした。余計なトラブルを避けるために、普段は巡回の時間をずらしている連中が、女を見つけるために不規則に出歩いているからだ。
そんな時に男同士で目と目があったら喧嘩になる。偶発的な喧嘩で得をすることなんてほとんどない。いつも逃げ腰でテリトリーを巡回する小生の気苦労が分かると思う。
女と会うのも大嫌いだ。小生を見つけて色目を使う癖に、去勢されていることを知ると腐った生ゴミを見るような目に変わるから。
小生は初めの集会以降、このあたりのヤツらには軒並み嫌われていたから、友達らしき存在は誰もいなかった。だから小生の世界は同居人とテリトリーだけで完結していて、他には敵か無関心かが徘徊するだけの箱庭だった。それがこの時期になると、無関心と敵が欲情し合うものだから、小生の世界は一層手狭になるように感じた。それはあるいは息苦しさなのだと思う。小生は小生の世界に「繋がり」を持たないから、無関心と敵が寄り添うことに憧憬と嫌悪と嫉妬を禁じえないのかもしれない。
小生はたまに小生の世界が嫌いになる。
繋がりがないことを責め立てられているように感じるから。
こういう時にじっとしていると、自分の中身が腐っていくのがよく分かる。言葉の通じない同居人と、わずかなテリトリーしか持たない小生は、矮小で無価値な存在だと思えてくる。息苦しさが増す。
こうなると決まって小生はテリトリーの巡回に出た。道路の隅っこを、家々の隙間を、塀の上を歩いて、500メートル直径ほどの領域を歩いて回る。テリトリーの内側に意思疎通ができるものとの繋がりを求めているわけじゃない。そんなものいらない。ただじっとしていることだけが嫌なのだ。
○
最近照くんはあまり元気がありません。ご飯を食べる量も減りました。前まで好きだった玩具を持ち出しても構ってくれません。
さみしいです。
○
事件が起こったのは春にしてはやたら気温が高い日の午後だった。
いつものようにテリトリーの巡回を終えて同居人との寝床に帰ってくると、すぐにその違和感に気がついた。他のヤツらの臭いがした。
小生達のテリトリーには二つの種類がある。一つは自分の寝床になる、他の誰も侵入を許さない個人のテリトリー。それから、狩りなどをする共有のテリトリー。
個人のテリトリーに入ったら、目なんか合わなくても喧嘩になる。だから個人のテリトリーにはそれと分かるような臭いが付けられているし、それを気づかないヤツなんていない。
「よぉ」
小生のお気に入りの場所、同居人との寝床を囲う塀の上に、見覚えのある二匹の猫がいた。大きなトラ柄と、痩せた灰色。小生のテリトリーに入っているのはそいつらだけ。前に集会で顔を見せたヤツらは、小生のテリトリーのすぐ外側で、小生達のやり取りを眺めていた。
「ここ、今日から俺たちの集会場にすることになったから」
「悪いね、おチビちゃん。近頃駐車場が暑くてさー。ここの庭は気持ち良さそうだから、使わせてもらうことにしたよ」
取り巻きのヤツらはくすくす笑って小生を眺めている。理不尽な侵略行為に晒されている小生がそんなに面白いのだろうか。
トラ柄のボス猫には体格的にどうあっても喧嘩は勝てないだろう。ヤツらも小生もそんなことは十分承知だ。だからヤツらは小生が泣き寝入りすると信じて疑わないし、小生も今までそうしてきた。
塀まで一気に駆けて、後ろ足で思い切り地面を蹴った。自分の体の幅とちょうど同じくらいの塀に上り、痩せた灰色とトラ柄に対峙する。
「お? 喧嘩でもしてみる?」
にやにや顔の灰色が挑発する。自分の勝利を疑ってないのだろう。相変わらず小生のことを心の底から馬鹿にしていた。
「……お前らのことなんか、大嫌いだ」
呟いて、力の限り突進する。本気で喧嘩になるなどと思っていなかったのだろう。痩せた灰色がぎょっとした。灰色が不用意に伸ばした前足の引っかきを避け、その顔面を思い切り横殴りにしてやる。目元のあたりに爪を引っ掛け、塀の外側へと叩き落した。
「いっでぇええええ!!! げぅ……!」
顔の傷に意識を取られたのか、受身も取れずに地面に激突した灰色はその場で悶絶していた。
雑魚の灰色から視線を切って、目の前のトラ柄を睨み付ける。
トラ柄はのしのし歩いて、大きな顔面を小生の鼻先まで近づけた。
「前に喧嘩を売る相手を間違えるなって言わなかったっけな」
「小生は……臆病な小生が嫌いだ」
「はっ! 相変わらず足は震えっぱなしのくせに」
トラ柄が余裕の笑みで馬鹿にする。
「挑発ばっかで全然手を出してこないのはお前だろ。本当は弱いんじゃないのか?」
本気で小馬鹿にしてやると、トラ柄の顔はみるみる怒りで満たされた。
「イキがってんじゃねぇぞコラ!」
トラ柄の両前足が小生の首を鷲掴みにしようと伸ばされる。眼前では大きく開いたと口と鋭い牙。姿勢を低くしてその腕をかいくぐり、トラ柄の喉元に食らいつく。
「づぅ……!」
苦しげな呻きは一瞬。
すぐさまヤツは体を捻って、食らいつく小生ごとその巨体を庭に落下させた。
落ちていく最中にヤツの体が上になる。姿勢を変えようと藻掻くけれど、相手の強靭な前足に阻まれて身動きが取れない。
地面に落下して強かに背中を打つと、たまらず噛み付きを緩めてしまった。
トラ柄が小生の上になり、太い前足で小生の肩を踏みつける。ほとんど身動きがとれない。小生よりも倍以上重いトラ柄相手では、体を捻って姿勢を入れ替えることなど到底できそうになかった。
「っ、この……!」
がむしゃらに暴れる小生に、がぱっと開いたトラ柄の牙が襲う。小生の左の首と肩の付け根あたりを思い切り噛み付かれる。
「いだ……! ぐっ……」
噛み付かれたまま、小生の喉元をトラ柄の右前足が押さえつける。喉を押さえつけられ、息が詰まる。そのまま左前足で側頭部を殴られる。耳の根元に爪が突き刺さって灼けたように痛い。何度も何度も殴られる。
「いぎっ! いだっ! うっ……げぇ!」
抵抗しようと手足をジタバタさせても、まるで相手に手傷を負わせられない。
喉をさらに踏みつけられ、一瞬呼吸が止まる。噛み付きが解かれたと思ったら、反対側の首元を思い切り噛み付かれる。
もうほとんど無抵抗になった小生を、トラ柄は容赦なくいたぶり続ける。
噛み付き、殴り、踏みつけ、引っ掻き、小生が痛みで声を枯らすまで絶え間なく暴力を続けた。
「うっ……ぇ……うぇ……」
やっと収まった時には、小生は蚊の鳴くような声で嗚咽を漏らしていた。
「おい」
トラ柄が小生の鼻先を踏みつける。
「よく分かったか、弱虫野郎。大人しく弱虫をやっていた方がマシだってことが」
トラ柄は荒い息遣いで問いかける。
何も答えずにいると、さらに頭を殴られた。
「分かったかって聞いてんだよ!」
恫喝は続く。
小生は呻くように、掠れた声で応えた。
「臆病な……小生は嫌い……だ!」
一瞬だけ無防備になっていたその喉元に、今度こそ殺すつもりで噛み付いた。
全く予想外の反撃だったのだと思う。トラ柄の喉に奥深く突き刺さった牙から、赤い血液が滴った。けれどもうそれが最後だった。全然力が入らない。トラ柄はのたうち、小生を引き剥がそうとする。すぐに小生は吹き飛ばされて、またトラ柄にいたぶられるだろう。その先に死が待っていないなんてどうして言えるものか。
トラ柄ともみ合いながら、三、四回転がると、小生はあっけなく投げ飛ばされた。もう逃げるだけの体力も気力も残ってない。激昂したトラ柄がこちらに向かってくるのが視界の端に映った。
それから、トラ柄の大きな顔に横殴りの放水が突き刺さるのを見た。トラ柄の体を横倒しにしかねない勢いの水は、いつの間にかそこにいた同居人の手元から放たれていた。園芸用の放水器を手に、同居人はかつて見たことがないくらいに怒っていた。トラ柄を追いかけ、その顔面に思い切り放水を続け、ものの数秒の間に追っ払ってしまった。
それが今日の事件の顛末になる。
以来、トラ柄達が小生のテリトリーに近づくことはなくなった。
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照くんを病院に連れて行くと、傷はたくさんあるものの、命に別状があるわけではないということでした。一安心です。
それにしてもあんな大きな猫と喧嘩するなんて、照くんはよほど負けず嫌いのようです。
飼い主に似たのでしょうか。
○
あの事件以来、小生はますます小生の世界と断絶を極めることになった。箱庭に徘徊する無関心が減って、その分敵が増え、世界は益々手狭になった。
けれど、小生の世界が小生を責め立てることはなくなった。小生には相変わらず意思疎通できるものとの繋がりは皆無だったが、それでも特に困ることはない。小生は同居人と塀の上を好いている。
それに小生は弱いかもしれないけれど、少なくとも臆病ではない。小生は小生の生き方に恥ずべきものを携行しなくなった。
小生は下手くそな生き方をしているかもしれない。けれど小生は、小生の生き方が嫌いじゃないのだ。
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あの酷い喧嘩から一週間ほど、照くんはすっかり元気になりました。近頃はまたお気に入りの玩具でもよく遊んでくれます。
日中に家へ戻ると、彼は大抵家の塀の上で寝ています。今日もかわいいです。
おしまい。