ある夜半、吉野はうち震えていた。寒かったのでは無い。もう炬燵が吉野の生命維持において全権を握っていた長い冬は過ぎたのだ。それどころか、そこここに夏の匂いが生じ始める季節になっている。
では彼は何に震えていたのか。残高の少なさ? 否である。吉野はもはやそんな事には驚かない。先月の月末も四百二十円で一週間をどうにか凌いだらしい。つまりは、米があれば死なない、そう言いながら彼は仕送り日の朝、割烹着兼作業着兼室内防寒着としてなんだかんだで常時羽織っているユニクロの五年物のライトダウンジャケットに擦れ切ったジーンズという出で立ちで、北海道銀行北二十四条支店まで「幌馬車三号」を走らせ、家賃光熱費その他もろもろ差し引いたなけなしの三万円を財布に入れて大事に大事にとっておいたのである。とはいえ、今ではその諭吉氏も吉野のもとを去ってしまった。――ここはクラーク博士の居る所であって、私の居る場所ではない、ということなのだろう。……迷惑な話ではあるが。
その晩、吉野はなかなか寝付けなかった。哺乳綱異節上目有毛目ナマケモノ亜目ヒト科、ナマケモノへの道をあと一歩の所で踏み外して人間に落ち着いてしまった吉野であったが、それでも一日の半分近くを睡眠に費やすことを努力目標としている彼のこと、寝付けないなどという事態はほとんど遺伝子レベルから身体の構造を調べたってあり得ないことであり、一大事なのだ。
それでも吉野はふっと目を瞑る……五感というものはひとつ受信回路を絶つとその他の回路が活発になるという。毛布の柔らかく毛羽立ったあの感触が手の甲を通して脳髄にまで伝わってくる。心地良い。心地良いならすんなりと眠れそうなものだが、吉野の眠りを阻んでいた受信回路は活発にある波動を受け取っていた。そう、ウエハースの向こうから伝わってくる笑い声という音の波を……。
気がつくと、外光はカーテンの色を淡くし、オンタイマーを設定していたテレビは誰に向ける訳でも無く笑顔と伸びやかな声とを垂れ流していた。昼下がりであった。
吉野はやおら起き上がった。じんわりと汗をかいた身体が、部屋の微涼の空気に触れて少し冷えた。初夏の風が力なく窓に当たっては逃げていく。
吉野は今日もやはりライトダウンジャケットを着て、徒歩で五分とかからない最寄りのコンビニに向かっていた。ダウンを羽織るほど寒い訳ではなかったが、起き抜けの雰囲気を幾分でも消しておきたかったのであろう。下はそのまま寝間着のスウェットであった。
吉野の住むアパートメントの通りを渡ってコンビニのある通りまで出ると、電信柱に黄色の目立った看板が括り付けられているのを発見した。
「札幌北高校のあんどん行列のため、七月十八日は車両の通行を制限致します。ご了承ください。 北区」
なるほど今年ももうそんな季節なのか、と吉野は引きこもり甲斐も無く季節の移ろいにしみじみと感じ入っている。
コンビニの少し効き過ぎた冷房はライトダウンジャケットを着る吉野には丁度心地良いらしく、先程から何を買うでも無く雑誌・衛生用品・キャットフード・飲料・パン……と売り場を揺蕩っている。手にしたカゴには未だ何も入ってはいない。と、そこに小さな女の子がお菓子を持って歩いてきた。吉野が目を細めかけた瞬間、女の子は持っていた「ねるねるねるね」を吉野のカゴにストンと落とした。
「何してるの!」と母親が一喝すると女の子はすぐさま声の方へ戻っていったのだが、「ねるねるねるね」は吉野のカゴに残ったままであった。仕方があるまい、金も無い訳では無いのだ、これも何かの縁だ食ってやるべしと「ねるねるねるね」をカゴに入れたまま、黒蜜きな粉求肥とチョコチップクッキーをさらに放り込んでレジに持っていった。これがこの男の朝飯であった。
朝飯を食いながら、吉野はある書簡を眺めていた。眺めている……とは言っても、まだ封すら開けていない。開けてはいないが、内容は何となく想像できるのだった。
「ヨシヒコ、元気にしていますか。こちらではもう、じっとしているだけで汗が噴き出してくるような暑さになりました。天気予報を見る限りでは、札幌はまだまだ快適に過ごせそうで、羨ましいです。
さて、本題に入りますが、今年も成績通知表が家に届きました。私やお父さんは、あなたの学校の成績や規則については全く解らないので、毎年何とも言い難く、ただただヨシヒコはこんな授業を受けているんだね、と想像で話題を膨らませるばかりです。私は短大卒ですし、お父さんもそこまで頭のいい大学ではありませんでしたから(こんなことを言ってしまうと怒られてしまうかもしれませんが)、あなた自身のことに関してはあなたが一番良く知っているでしょうけれど、今年の通知表を見ていると、さすがに心配になってしまいましたよ。
私もお父さんも、『不可』という成績が単位に加算されないということくらいはさすがに知っています。それに、『通算取得単位』という欄だって、文字通りの意味だということはわかっているのです。去年までの授業、ほとんどに『不可』がついていましたが、大丈夫でしょうか? それなのに去年の後期は『日本文学史概説』の授業しか取っていないようですね。ちゃんと留年などせずに卒業できるのでしょうか。お父さんもあなたに直接言いはしませんが、家ではだいぶむっとしていますよ。何より、『通算取得単位』があれだけで、果たして卒業できるのですか? あなた自身の進路に関わる問題です。成人はお酒が飲める権利があるばかりでは無いのです、自分の行く末を考える責任も発生しているのですから、良く考えてくださいね。
母より
追伸:本場に住むあなたに送るのも何だとは思いますが、おばあちゃんが生協の共同購入でおいしいスープカレーをたくさん注文してたみたいなので、少し送るそうです。数日中に届くはずです。札幌のスープカレーは辛さが数字で選べるみたいですね。買ってはじめて知りました。今回ヨシヒコに送ったのは『1辛』です。普段は標準の『5辛』や『6辛』を食べているのでしょうか? あなたには全然刺激がないかもしれませんが、食糧の足しにしてください。」
という文面が届い……てはいない。これはあくまでヨシヒコの……もとい、吉野の妄想である。彼の妄想書簡が「1辛」だとすれば、実際に届いた母からの書簡は「70辛」程度のスパイシーさでもって彼の学業面における失策を鋭く叱責していた。読み終わった吉野は、目と鼻から水を流していた。これは決してカイエンヌペッパーの所為では無かった。
吉野が無事にストレート卒業を果たすには、これ以降の学期の全ての時間に授業を入れ、さらにその中で卒業論文を執筆する必要があり、この状況を適切な日本語にすると「無理」がぴったりと当てはまるのであった。
とはいえ、これまでの吉野の大学生活、果たして「道理」などという物がまかり通るような日々だったであろうか? この男はグローバル・スタンダードとは最も遠い所を歩く男である。文目も知らぬ、出たとこショウブの人生ではなかっただろうか?
どうにか、せにゃならんのか
吉野も、ついに胸元ゼロ距離にナイフを突きつけられたのであった。
そうと決まれば、後期の始まりは九月であるから、それまでに吉野が行うべきことはたったひとつ、時が来るまで遊び呆けることであった。
吉野は北二十四条の寂れたゲームセンターに行き、腹が減ってどうしようも無くなるまで戻らぬ決意で電子遊戯に興じ始めた。最初の一時間こそUFOキャッチャーを続けていたが、如何せん使う額に対して潰せる暇の短いことに気づいた彼は、その後はもっぱら二階に上がって脱衣麻雀に乗り換えた。
この男、卓を囲むような友人も持たないくせに、麻雀のルールを知っており、そのうえこういう時に限ってやたらと牌の引きが良い。桃色女優の持ち点を全て吸い上げ、脱がせて行くたびに表示されるパスワードを携帯電話のメモ帳に打ち込みながら、吉野は顔を赤らめ、また「つぎの女の子へ」を選んでいく。正直言って気持ちが悪い。
かくして大した金を使わずに長々と遊び続けることのできる脱衣麻雀は、吉野にとって良い暇潰しとなった。眼の保養にもなった。
しかしながら人間における三大欲求は常に均衡を保つ関係にあり、ひとつ満たされたからと言って他の欲望が抑えられるということは決して無い訳だ。吉野は普段の生活によって十二分の睡眠欲求を、さらに牌からの驚愕の愛され度合いをもってして性的欲求をも満たすことに成功した(いや、むしろ性的欲求の強さがあの引きの強さを生んだとも言えるかも知れないが)。それでも、腹は減る。腹が減っては戦が出来ぬ。背に腹は替えられぬ。……何だか使いどきがおかしい気もするのだが、構わない。少なくとも吉野にはわからないであろうから。
「飯にするか」
とにかく、吉野は腹が減った。
吉野はゲームセンターを出た。裏口近くにおいてあった「幌馬車三号」の鍵をはずして勢い良く跨がる。いつもと下腹部の感覚が少し違うが、空腹に負けてじき収まるだろう。所詮、三大欲求は均衡し合うほか無いのだ。
いつもなら生温い風が吹き、アスファルトをわずかに削り取っていくなまくらなタイヤの音だけが聞こえるわりあい静かなアパートメントまでの道が、今日は歪んで騒がしい。
ふと俯きがちな視線を前方遠くへ移すと、男子高校生の低いはしゃぎ声と、女子高校生の黄色い笑い声とが絡まり合って列をなしている。
「札幌北高校のあんどん行列のため、七月十八日は車両の通行を制限致します。ご了承ください。 北区」
「ああ、ああ、ああ」思わず吉野は声を出した。今日がその「あんどん行列」の日であった。
行列は吉野がぶつかったあたりが丁度真ん中であり、先にも後にもずらずらずらりと調子に乗った高校生たちが続いていた。なるほど、これは面倒なことになった、吉野はのどの奥でそう言いながら、列の切れ目を待っていた。
その時、向かい側で赤色蛍光の警棒のようなものをもって突っ立っているPTAだか教師だかの影から、見覚えのある顔が現れた。遠藤さんだ。
遠藤さんと相対していると、腹も下腹部もすっと落着きを取り戻し、まるで身体中すべてが遠藤さんに対して姿勢をただして向き合っているかのように思えた。遠藤さんだけに焦点を合わせているものだから、前景の高校生たちがぼやけて、いやに速く流れていく。行列はそろそろ最後尾というあたりになっていた。
行列から視線を戻すと、遠藤さんはある男と一緒にいた。一瞬の隙を突かれた。彼は誰だ? 楽しそうに談笑している。行列からひょいと出てきたのであれば高校生なのであろうが、それにしては大人びている。
行列の最後尾が目の前を過ぎていった。遠藤さんと男は、少し距離を取ってその後ろをついて歩き始めた。吉野も追いかけようとして、そばの電柱の横に幌馬車三号を慌てて停めた。
遠藤さんの後ろ――正確には、遠藤さんと男、の後ろであるが――を歩きながら、吉野は妙な感情を持て余していた。
……思えば大学生活のほぼ全ての側面において、自分は「誰か」を、常に遠くから眺める対象として捉えてきた。というよりも、そう捉えるより仕方が無かった。一万数千を数えるこの大学の学生たちの中には、彼の元いたサークルの副会長のように、何かしらの巡り合わせでたまにあって話をするような、そんな仲の知己も居ない訳では無かったが、いずれも吉野との一対一の関係で完結しており、友人が友人を呼んで小さな群れをなすようなことも特段無かったのである。そうして、ごくたまに発生する別個のイベントが、基点はつくれど線となり面となることは未だ無く、ただ次のイベントまでの悠久の空隙を、吉野はたゆたうように、他の関係の「観察者」としてのみ生きてきたのであった。メインストリートを流れるアベック、我が物顔で学部棟ロビーに哄笑を降り撒いて行く留学生の小集団。視細胞吉野は現象を捉え、視神経吉野に仲介を頼む。視神経吉野が脳髄吉野に渡された情報を漏らさず伝えると、脳髄吉野はそこでその現象に意味を見出さなければならぬ。彼らは、至近距離にそれぞれ相手を捉えて、それぞれ楽しそうに、そう、楽しそうに談笑している。「なんだか、いいなあ」と片隅で思う一方、自分は群れる必要も無いし、どだい群れには向いていない固体なのだと思い込んで来た。
それが、こと遠藤さんの話になるとまるで勝手が違ってくる。意識と無意識の狭間で、吉野は彼女をひたすら追いかけている。……それは重力や遠心力、磁力の働きでは無い……物理法則に支配されない引力とは、すなわちプラズマや幽霊の仕業……いい加減に素直になるのだ吉野、仕方が無いではないか。それはすなわち恋である。
残念な、二十某歳天麩羅学生の恋である。
駆け出せば、触れられる位置に彼女はいる。隣の男は、見なければ良い話……。
吉野は、行列がぬるぬる練り歩くこの道を、たまらなく焦れったく思っていた。そして、一生続けば良いとも思っていた。
北二十四条の大きな通りに突き当たって、行列は高校のある西側に折れた。遠藤さんと隣の男も列にならって西を向く。吉野も横断歩道を渡ろうとしたが、行列のうしろ半分が渡り終えたときからちょうど点滅をはじめた青信号は、突然真っ赤になって吉野を睨んでしまった。吉野は凄まれて動けなかった。行列はもう高校まで五百メートルというところで、狭い通りに入ってしまった。あのあと、何処をどう曲がって高校まで辿り着くのか、吉野は知らない。
――もはやこれまで……
と、その時であった。警備をしていたPTAの子供であろうか、赤いシャツを着た子供が吉野の脇から車道に飛び出して来た。発進し、ちょうど二速に乗せたところだったトラックが目一杯にクラクションを鳴らす。
吉野は後ろから聴こえる「危ない」の声を聴いてすぐさま走り出した。勢い良く駆け出したくもあったが、トラックに轢かれぬよう、身体は自然に制御を効かせていた。長いのか、細いからそう見えるだけなのか解らない吉野の腕が、赤シャツの背中にぴんと伸び、野太い指が綿の生地をしっかりと掴んだ。トラックはドップラー効果を証明する実験でも行っているかのように、吉野と子供の前を通り過ぎた後も、長いこと間延びした音を鳴らし続けていた。
時間は止まっていた。吉野は戸惑っていた。
周りの何人かが、吉野を褒めるでも無く、ただただ突っ立っていた。口をあんぐり開けている、更年期の女性が多かったように記憶している。