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最終章 消失

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#17.

 私は今、全力でペダルを漕いでいる。結局のところ、悪夢は覚めなかった。
 頭の中は冷静さと錯乱とが紙一重となって合わさっている。しかし、ほんの少しでもバランスが乱れると、たちまちにパニックに陥るだろう。今はそんな危うい平衡状態をなんとか保つことができている。
 私が今向かっているのは自宅だ。理由はなぜか。
 消しゴムを使い果たしてしまったからだ。
 この長時間とは言えない外出の間に消しゴムを使い切った理由は……。
 ……茜里を消してしまったからだ。一種、錯乱状態に陥った私は消しゴムを茜里に突き出した。
 さらに悪いことに、全て消し去ることができなかった。消しゴムの分量が茜里の全身を消すのには不足していた。これでは証拠が残ってしまう。私は証拠を完全に抹消しておきたかった。そのために自宅にある未使用の消しゴムを求め、自転車で高沢の町を駆けている。
 未使用の消しゴムは本番までの貴重なストックにするつもりだった。しかし、今は形振り構っていられない。
 鼻の奥に鉄の匂いがこびりついているような気がしてならない。ついさっきまで私の手は茜里の血で赤く染まっていた。まるで脳内に強烈な記憶を焼き付けるかのような色だった。私の服や体に付いた血も気づいた範囲で全て消しゴムで消した。消し残しは無いはずだ。
 今、私の頭は不思議な程にまで冴えている。焦りがうまく作用したのかもしれない。
 茜里を消す過程で、明らかに分量が足りない事に気づいた私は残った体の「部位」を人目の付かない所へと移した。そして、目立つ血溜まりや血痕を消して回った。これで、暗くなってきていることも手伝って、消しゴムを取りに行くくらいの時間は稼げるはずだ。なにしろ、元々人気が無い場所で知られている。一晩なら誰も来ないことなんてよくあることだろう。しかし、油断はできない。
 茜里を消した時の事は思い出したくない。愚かにも激情に身を任せて、消しゴムを持つ手をあらん限りに振り回した。幸いなのかはわからないが、消す際の感触もこの消しゴムの性質上、伝わることは無かった。
 そしてふと、我に返った時にはもう手遅れだった。後悔と絶望が同時に押し寄せ、頭が真っ白になった。頭の冴え渡りはその時から続いている。
 この感覚はまるで、地に足が着かないような未知の体験だ。危険を背後に潜ませている。こんな不安定な状態からは一刻も早く抜け出さなければいけない。


 自宅に到着すると、すぐさま自分の部屋へと向かった。まだ誰も帰って来ていない。しかしお母さんが帰ってくるであろう六時半までに、風邪であるはずの私は自分の部屋にいなければならない。残り時間は約一時間と三十分少しばかり。切迫感のようなものが私を駆り立てる。その苦しさに思わず胸を押さえた。
 机に置いていた小型懐中電灯を手に取った。もう外はほとんど夜中と言ってもいいくらいに暗くなっている。見落としが無いように明かりは必要だ。引き出しからは「消しゴム」を取り出し、すぐにポケットに入れた。その時にふと思った。
 これはお守りなんかじゃない、と。今までは消しゴムは私にとって受験必勝のお守りのような存在だった。それは違う。まったく違った。
 これは“武器”だ。そう思った。
 そして、“武器”を再び手に入れた私は鶴見神社へと向かった。




 茜里の「部位」はまだ残っていた。私が置いた場所から移動した形跡もない。立ち去った後には誰もここには来なかったようだ。しゃがみ込んで小型懐中電灯を取り出し、消し損ねた「部位」を見つめた。今度は目を逸らさないように、しっかりと。
 それは血で汚れている。大量の血だ。胸が万力で締めつけられるような感覚に陥った。
 とにかく、誰かに気づかれる前に早く証拠を抹消しなければならない。
 私の頭は今や氷のように冷めてしまった。これも冴えの一種なのかもしれない。ポケットから消しゴムを取り出す。いつ見ても綺麗な表面で、それは穢れを知らない色をしている。一方で、私の心は引き裂かれてしまっている。醜悪で、穢れ、荒んでいる。
 私は僅かに震える右手を動かした。
 強い意志を伴いながらなぞれば、対象物は完全に消え去る。しかし、私が背負う罪までは消すことができない。これからの人生は「茜里殺人の罪」を引きずる事になり、永遠に苛まれ続けるだろう。
 もう、戻ることはできない。




「証拠抹消」を終え、私は真っ暗な自室のベッドで横になっている。次第に落ち着きを取り戻しつつあり、それと同時に今度は感情が蘇る。
 私は消しゴムを“武器”だと思った。
 受験に打ち勝つ武器。ありとあらゆる物に打ち勝ち、消し去る武器。
 そして、人を殺す武器だ。
 私はしばらくの間、武器をポケットに入れて携帯していた事になる。武器を手に入れた事で傲慢や怠惰にもなった。そしてあろうことか、茜里に手をかけた。取り返しのつかない出来事だ。卑劣で、最低で、最悪な行為だ。後悔しても、後悔しても罪の意識に苛まれる。底無しの奈落に、加速し続けながら無限に落ちていくような恐怖。終わりが見えそうにはない。
 人を殺した。人を殺してしまった。しかも、殺したのは一緒の大学に行こうと約束した大切な友達だ。
 これまで「殺人」は漫画や映画の出来事で、自分には縁の無い言葉だと思っていた。しかし、私はその罪を犯してしまった。未だにその事実を認めたくなかった。
 苦しみのあまり両手で頭を抱えた。どれだけ呻いても、身を捩っても、謝っても、茜里は二度と生き返らない。もう同じ大学を目指すことも、学校で話すことも、いつもの四人で笑い合うこともできない。楽しかった日々はもう永久に戻って来ない。
 その残酷な真実を私は受け入れられなかった。
♯18.

 夜もすっかり冷え込んだ七時前にお母さんは帰ってきた。
 私は計画通りに部屋を暗くして、ベッドにこもっていた。食欲が無かったので、夕飯は抜きにした。そのせいでお母さんには随分と心配された。顔色がかなり悪かったらしい。当然だ。元気であるはずがない。この手で親友を殺したんだから。手に付着した茜里の血を思い出すだけで、血の気が引く。
 だけど、そんなことを言えるわけがなかった。ベッドにうずくまり、強く目を瞑っても眠気はいつまで経ってもやってこない。むしろ静かなせいなのか、思考が頭の中でぐるぐると渦巻き、眠気からは遠ざかる一方だった。そのまま、暗い部屋のベッドで悶々とした胸の締まるような時間を過ごした。
 そんな苦しい時間の中、ある出来事があった。
 十時頃だったか、家に電話があった。茜里の家からだった。こんな時間にかかってくる電話なんてろくなものじゃないなんてことはすぐに想像がついた。そして、不幸にも予想は的中してしまう。お母さんが少し駆け足で階段を上がってくる音で、おおよその察しがついた。ほどなくして部屋のドアが開いた。廊下からの明るい光が部屋に差し込む。
「友子。茜里ちゃんがまだ家に帰ってないそうなんだけど、何か知ってる?」
 お母さんは困惑顔だった。私も、消しゴムがこの世に無ければ、風邪であろうが何だろうが驚いてベッドから飛び起きていたかもしれない。だけど、今の私は毛布からゆっくりと顔を出すだけだった。こんな自分が情けなくて、惨めで仕方が無い。
 口の中が乾き、手が震えた。
「知らない……」
 なんとか言葉を吐き出した。
 私は知っている。誰よりも詳細に知っている。きっと、誰にも想像がつかないだろう。わかるわけがない。だって証拠がこの世に存在しないんだから。
「そう……。晩ご飯だいじょうぶ?」
「うん」
 そう言って毛布を顔に被せた。すると、お母さんが短く息を吐くのが聞こえた。
「わかった。今日は早く寝なさいね。おやすみ」
 返事はしなかった。
 ドアが閉まり、再び部屋は暗くなった。こうして、またもや自責の念と向き合うことになる。念は時間とともに肥大化していくようだった。目を逸らしても、目を閉じても、消しゴムを使っても、この思いからは逃げることができない。
 茜里のお父さんとお母さんは今頃どうしているのかな? 娘が突然失踪して、どんな気持ちなのかな? わからない。考えたくもない。しかし、電話がかかってきてからは苦痛の渦の中に新たな脅威が加わってしまったように思える。その渦は私を巻き込んで、決して逃がさないだろう。
 長く、辛い夜は続く。





 鳥の鳴き声で朝の訪れに気がついた。あれから一睡もできなかった。
 携帯で時刻を表示させると、いつも朝に起きる時刻の五分前だった。ぼんやりとそれを確認し、ぼんやりと立ち上がった。挙動に対して、思考がワンテンポ遅れをとっている。ある意味では極限状態なのかもしれない。カーテンの隙間から外を眺めると、朝日が眩く輝いている。そんな清々しい光を浴びようが、心の暗闇はどんよりと淀んでいる。
 学校に行こう。
 熱を持ったような心地の頭でそう思った。喉が渇いた。季節上乾燥しているせいか、喉が痛い。部屋を出て一階のリビングへと向かった。階段を降りてからキッチンを横切ると、背後から声がかかった。
「あっ、起きたの?」
「うん」
「……あんた、今日も学校休んだ方がいいんじゃないの?」
 まじまじと私の顔を見てからお母さんは言った。深刻な顔でそう言われると、少し不安になる。そんなに酷い顔をしているのかな。朝食の席に座る前に洗面所へと向かった。
 鏡の私と睨み合う。
 なんて不健康な顔をしているんだろう。まるで病人のような目つきをしている。表情に生気は無く、鏡に映る表情もどこかぎこちないようだ。たった一晩でここまで自身の形相が変わるだなんて思ってもいなかった。これじゃあ心配されても仕方が無い。
 だけど、今日は何が何でも学校に行かなければならない。私はこの目で周囲がどういった状況になっているかを確かめなければならない責任がある。体の疲労感は見えない何かに押さえつけられ、まるで倦怠感そのものを身につけているようだ。眠れずに、休むことなく悶々とし続けた影響はなかなか深刻だったようだ。
 顔を洗ってから、洗面所を後にした。





 学校へ向かう足取りはとても重い。
 試験前でもここまで気分が落ち込む事はなかった。途中、何度か逃げ出そうか迷ったけど、自分自身でもよくわからない何かに導かれるようにして足を進める。ポケットの中にある消しゴムを強く握り締めた。これさえなければ……。これさえなければ、こんな思いはしなかっただろう。
 夜中にも何度も握り続けたので、右手が少し痛む。 ……茜里はもっと痛かったに違いない。今の私の苦しみなんて、茜里の痛み比べたら些細なことだ。この苦しみは当然の報いなんだろう。
 教室の前に着いた。
 いつもより早く家を出たのに、足が重かったせいなのか予鈴が鳴ってからようやくここまで来た。スライドドアは閉ざされている。永遠にこのままの状態でいれば楽になれるのかな。いや、そんなわけはないし、私は許されない。心の中での逃げ出したいという呻き声を堪えながら、ドアを開けた。
 教室はざわついていた。ホームルーム前にざわついているのはいつものことだ。気に留めることもない。そのまま危なげな歩調で自分の座席へと向かった。
「友ちゃん!」
「友子!」
 夏織と愛花が駆け寄ってきた。いつもの二人の笑顔はどこかへ消えてしまったのか、深刻な表情を浮かべている。特に夏織は不安に怯えているようにも見えた。こんな顔をしている二人は今まで見たことがなかった。となると、今からあがる話題は……。
「友ちゃん! 昨日の夜に、茜里ちゃんの家から電話あった!?」
 やっぱり予想通りだった。辛いような苦い思いが胸をよぎる。
「あったよ」
 そう答えると、二人は顔を見合わせた。夏織と愛花にも連絡がいったのだろう。私はいつも仲良しだったから。夏織は胸の辺りで両手を組んでいる。わずかに震えているようにも見えた。
「な、なんて言ってたの……?」
 夏織は口に出すのもためらわれるようだった。私はそのまま答える。
「茜里がまだ家に帰ってない。何か知らないか、って」
「私たちにも電話があったんだ……。それってさ、つまり……」
 そう言って、夏織は口を閉ざした。その先は聞かなくてもわかる。たぶん、「行方不明」だ。
 すると、夏織の顔がくしゃっと歪んだ。
「きっとだいじょうぶだよ」
 愛花が夏織の頭を優しく撫でた。夏織は愛花を振り返った。小さな震えはそれだけで収まったようだ。
 ……ああ、茜里だけじゃない。私は茜里と親しい人みんなを傷つけたんだ。
 夏織の悲痛に満ちた表情を、それを悲しそうに慰める愛花を見てそう思った。
 茜里の身を心から案じる二人と友達であり続けていいのだろうか? 私は嘘つきだ。しかも、茜里殺しだ。そんな私が、茜里の親友である夏織と愛花と一緒にいる資格があるのだろうか?
 決して強いとは言えない心が大きく揺さぶられる。いつかこのまま、引き裂かれてしまうのかもしれない。
 予鈴が鳴った。
 私たちや、他の子も席についた。そして、先生が教室に入ってきた。この人も緊張の面持ちを浮かべている。前の方の何人かがその様子に気づいたようだった。
 先生の表情に気づいていない朝礼係が眠たそうに立ち上がった。
「きりーつ……」
「今日は挨拶無しで」
 何人かは既に立ち上がったが、先生が短くそう言うとすぐに座り直した。既にいつもと違う何かが張り詰められたような気がした。
「おはようございます。ええと……。何人かは知っている人がいるかもしれませんが、昨晩からうちのクラスの日渡さんが家に帰っていないそうです」
 低いささやき声が教室に広がる。不穏な気配はじわじわと浸透していった。
 咳払いしてから先生は続ける。
「学校が終わってから、誰か日渡さんといた人はいますか?」
 いくら先生が教室を見渡しても、誰も名乗り出ない。茜里は学校が終わってから、すぐに鶴見神社に来た。日課である「お祈り」をするために。茜里はそれを自分だけの秘密にしていた。なので、昨日の茜里の行動を知っている人はいない。茜里は「お祈り」を秘密にしていたせいで、自ら、自身の足跡を消すことになった。
 先生は困り果てた顔をしてから姿勢を正した。
「わかりました、誰も知らないんですね。もし、昨日の放課後に日渡さんを見かけた人がいるなら、先生の所に来てください」
 ホームルームが終わり、先生は教室から出ていった。すると、再びクラスがざわつき始めた。授業開始前のようないつもの明るい雰囲気はない。茜里の失踪は教室に暗い影を落とした。
 誰も先生の所には行かないだろう。私だけがそれを知っている。
 そして、私も行かない。これで永久に真相にたどり着くことはできなくなるだろう。
 私は、人殺しという取り返しのつかない愚行が周りに露見するのを何よりも恐れていた。そうなると、学校や受験どころではない。このままの生活を送れるとは思えない。
 こんな時にも、茜里殺しの罪からも逃れようとしている自分に気がついた。
 私って、本当に馬鹿だなあ。
19, 18

  

♯19.

 帰りのホームルームが終わり、憂鬱で長い一日が終わった。
 けど、明日になればまた学校がある。当然、茜里は来ない。朝、毎日起きるたびにそのことを思い知らされるだろう。これからの将来の毎日を思うと、吐き気がした。全身は強張り、寒気がする。
 私の顔色が一日中優れなかったせいなのか、ホームルームが終わるなり愛花と夏織が声をかけてくれた。
「友子ちゃん、だいじょうぶ?」
「体調悪いの? 風邪でも引いたの?」
 私はゆっくりと二人の顔を見上げた。
 二人は悲しげな眼をしていた。茜里の失踪だけでなく、私の体を心配してくれているようだった。そんな眼を見て私は思わず目を逸らしてしまった。これ以上目を合わせてしまえば、さらに何かが壊れる。そんな予感がした。
「ううん、何でもない。じゃあ、私は帰るね」
 そう言って私は立ち上がった。
 すると、二人も私の後についてきた。よく見ると、鞄を手にしていた。
「今日は私たちも帰るよ」
「勉強、ここじゃできそうにないから。それにね……」
 友達が行方不明になっているのに勉強に集中できるはずがない、か。
 当たり前のことなのかもしれない。私も二人の立場だったらそう思っただろう。けど、私はもっと深い、今や人には絶対に知られてはならない領域に達している。それもまた、勉強どころではない問題だ。


 愛花と夏織の二人と帰るのは久しぶりだ。
 ただ前と違うのは笑顔がないことだ。心苦しい時間が流れる。私も、愛花も、夏織もぽつりぽつりとしか喋らない。特に私に限っては自分からは喋らず、受け身な会話しかしていなかった。
 結局、先生はクラスどころか学校の誰からも情報は得られなかったようだった。終礼後も教卓の前に立ってはいたものの、表情は冴えなかった。
 教室は一日中、茜里の話題だった。三人で弁当を食べていると、時折、背中に視線を感じるのがわかった。同情、好奇心、その色は人の数だけある。私たちは黙々と箸を動かすだけだった。
「……茜里、どこ行ったんだろね」
 愛花がぽつりとつぶやいた。答えを求めている風ではなかった。
 どこに『行った』か……。誘拐の可能性のある中、まるで茜里が自ら姿をくらましたような言い方だ。
 夏織の様子を窺うと、つぶやいたばかりの愛花の顔をじっと見つめていた。今にも泣きだしそうに見える。夏織も今回の事件を『誘拐』とは考えたくないのだろう。何か言うべきか迷ったけど、黙っておいた。私にそんなことをする資格があるとは思えなかった。
 いつの間にか、夏織と分かれる地点までたどり着いていた。
「じゃあ、また明日ね……」
 とぼとぼと歩いていく夏織の背中が、いつもよりずっと弱々しくみえた。
 私たちは再び歩き始めた。お互いに、何も話さない。いつも笑っていて、人と話すことが大好きな愛花が押し黙っている。
 茜里は遠くを見つめるような寂しい眼をしていた。何を考えているのかが読み取れない。愛花が私を見ていたわけでもないのに、その横顔を見ただけで罪悪感に苛まれた。
「……茜里」
 愛花が再び呟いた。
 かすかで囁くような声だったけど、私には聞こえた。今は二人きりだ。無視するわけにもいかない。
「だいじょうぶだよ、きっと」
 口の端がわなわなと震えるのがわかった。まるで自分の口から発せられた声ではないようだった。罪は次々に積み上げられていく。
 愛花はゆっくりと私の方を向いた
「……友子は。友子は茜里が自分から誰にも見つからないようにこんなことすると思う……?」
「……思わない」
 愛花は私の言葉を反芻するように頷いた。
「そう。茜里は人に迷惑をかけるようなことは絶対にしない。それに、勉強が嫌になったからとか、そういう理由で何かから逃げたりもしない」
 思わぬ言葉に胸を射抜かれた。よろめきそうになった足を立て直した。
 私は受験から逃げ出した。大した努力もせずに、早々に逃げた。消しゴムを手にしてからは、振り返ることもしなかった。
 ……しょせん、私は弱い人間だ。消しゴムの力に頼り、大きく道を踏み外してしまった。愛花のような『完璧人』にはこの苦しみ、切なさを到底理解してもらえるとは思えない。
 私は小さく返事をして答えた。
「……そうだね。茜里はそんなことしない」
 愛花もまた、無言で頷いた。




 家に帰ると、強烈な睡魔に襲われた。学校が終わって一息ついたからなのかもしれない。睡眠不足の影響も大きい。着替えもそこそこに、ベッドに横になった。
 そして、思考に耽る間も無く、眠りに落ちた。


 それは輝かしい未来の世界だった。私たちは大学生になっていた。茜里も生きていて、愛花と夏織が笑っている。私も笑っている。何もかもが幸せだった。
 すると、突然辺りが暗くなった。いつの間にか、三人の姿が消えていた。私の周囲が黒く染められていく。空も、大地も、何もかも。その様子を見ているだけで胸騒ぎがした。まるで私の不安を煽っているようだ。
 その時に気づいた。
 これは暗くなったんじゃない。『黒い光』が射し込んでいるんだ。鋭く張り詰めた空気を肌で感じる。
 私が怠けたり、怠惰に流されることによって、明るい将来の可能性が消えてしまう。今はもう、茜里も笑顔も消えてしまった。可能性は何も残っていない。
 数多の黒い手が私を取り込み、漆黒の闇へと引きずり込んでいく……。
 私は叫び声もあげられないまま、目の前が真っ暗になった。


「っ……!」
 荒い息と共に目が覚めた。胸の動機があまりにも激しく、胸に手を当てた。嫌な夢だった。頭はまだ回転しきれていないのか、目眩がする。
 少し落ち着くと、今度は額に手を当ててため息をついた。帰った時は照明がなくても明るかった部屋が今は真っ暗になっていた。思っていたよりも眠っていたらしい。これでまた夜は眠れなくなる。
 ふと、下の階から声が聞こえてきた。どうやらお母さんが電話を使っているみたいだ。少しすると声が止んだ。そして、階段を上る足音が聞こえてきた。私はのそりと上体を起こした。
 それとほとんど同時に部屋のドアが開いた。
「ただいま、今帰ったとこ」
「おかえり。 ……電話してたの?」
「うん……」
 どういうわけか、お母さんは言い淀んだ。既に薄暗い気配は表情から読み取れる。私は先を促した。
「どうしたの」
 お母さんは一度自分の足元を見た。そしてすぐに顔を上げた。私の顔を一点に見つめて言った。
「茜里ちゃんの捜索願が出されたんだって」
 私には瞑目することしかできなかった。
♯20.

 茜里の捜索願が出されて数日、私を取り巻く環境に不穏な気配が漂い始めた。
 既にクラスだけにとどまらず、学年問わず学校全体の問題となっていた。そこで緊急集会が開かれ、下校の際はなるべく友人と帰るようにして一人でいる時間をなるべく減らすように、と通達された。小学生じゃあるまいし、といった声も聞こえたけど、茶化してふざけた発言とは思えなかった。
 警察も捜索に乗り出したという話もちらほらと聞こえてきた。大丈夫だと自分に言い聞かせてみても、どこからか足が付くのではないかという疑念が拭えなかった。あの時、手にべっとりとついた茜里の血が警察を呼び寄せているようだった。
 今は愛花と夏織の三人で帰っている。口数少なくとぼとぼと歩いていると、前方からパトカーが走っているのが見えた。パトカーを見ると、身を裂かれるような気持ちになる。私は無意識のうちに顔を俯けた。二人は走り去るパトカーのテールライトをじっと見つめていた。
「茜里ちゃん……」
 夏織が小さく言った。愛花は何か言いたそうにしながら夏織の肩に手を伸ばしかけたけど、途中でその動きを止めた。私は無言のままそれを見つめ、何もしなかった。少しすると、夏織が道路から視線を外してこちらを振り向いた。
「昨日ね、警察の人から質問されたんだ……」
「えっ」
 思わず声が漏れた。少しずつ心臓の鼓動が早まっているのがわかる。
 愛花は一歩夏織に近づいて訊いた。
「なんて質問だったの?」
「茜里ちゃんをこの近辺で見かけなかったかって。見てませんって言ったら、同級生か、とか仲のいい友達か、とか……」
「そっか……。何か目撃情報でもあればいいんだけど……」
 聞き込み調査……。
 昨日、夏織の住んでいる郡山で行われたのなら今日は私の住んでいる高沢で行われているかもしれない。思わず鳥肌が立った。
 できることなら、警察官には出くわしたくない。何か些細なことからでもボロが出てしまうかもしれない。ましてや相手はプロだ。精神不安定な私が無意識に漏らす言葉から何かの気づくこともあり得る。早く家に帰りたい。一刻も早く逃げよう。
「あ、あのっ。私、用事思い出したから先に帰るねっ」
「えっ?」
 呆気に取られている二人を残して私は走り出した。連日続いている不眠症による体のだるさが吹き飛んだかのように体が軽い。このまま家まで走り続けよう。
 思い返せば、こんなに一生懸命になっているのは茜里を殺してしまった時以来かもしれない。あの時も、証拠を残さないために全力を出して事を行った。自分の身に危険が及んだ時にだけここまで本気になれるのは恥ずかしくもあり、情けない話だ。しかし、ここで気を緩めればこれまでの決死の行動が全て消えてしまうかもしれない。重たい足を、疲れたと抗議する腕を必死に動かした。
 家まであと少しというところまで来た。あとは交差点を過ぎればもう少しだ。
 前方を見ると、一人の男の人が立っていた。あれは……。
「刑事……?」
 コートを着た男が交差点の向こうに立っていた。黒い手帳を見つめながら顔をしかめている。あれが刑事なのかそうでないのか、私に確かめる術はない。家に帰るにはこの交差点を通り過ぎるしかない。私は唾をごくりと飲み込んだ。
 願わくは、何事も起こらぬように。
 音を立てないように静かに、少し顔を下げながら男の反対側の道を歩いた。男は未だに手に持つ手帳を見つめたままだ。その間に私は交差点を通り過ぎていた。普通の人なら何事でもないことが、事件の当事者である私にとっては命取りになりかねない。なんとか安全圏に入り、安堵の息をはいたその時、
「ちょっといいかな」
 背後から矢で射抜かれたような感覚だった。ゆっくりと振り向くと、男がすぐそばまで近づいていた。三十代なのだろうけど、白髪が所々に目立っている。少し老けて見えるせいか年季が入っているようにも思えた。
「な、何ですか……?」
「最近、女子高生が行方不明になっていることは知ってるかな。よければ訊きたいことがあるんだ」
 やっぱり刑事だった。高沢まで聞き込みを広げていた。口の中がからからに乾いている。冬のせいだけじゃない。高鳴っていた心臓の鼓動がさらに加速を求めている。改めて、私にとって脅威となる人物だとわかると、声が出なくなってしまった。口の端が痙攣したかのようにわなわなと動いた。
 思わず反射的に、右手をポケットに突っ込んだ。肌身離さず持っている『武器』を握りしめた。意図せずに勝手に右手が動いたことに驚いていると、刑事は慌てたように両手を振った。
「あっ、私は刑事のでその子の捜索にあたってるんだ。決して怪しい者では」
 刑事はさっき持っていたメモ帳をポケットから取り出した。場を緊張を解こうとしているのか、にこにこと笑っている。しかし、そんな努力も私には無駄だ。茜里の捜索に関わる人全てが私の障害だ。
「えっと、ペンはどこだったかな」
 刑事は一瞬苦笑いをした後、私に背中を向けてコートのポケットにあるペン捜索を始めた。一人で何やらぶつぶつと呟きながら必死にポケットの中を探している。私には目もくれない。
 ……これはチャンスかもしれない。千載一遇のチャンスだ。これを逃す手はない。私は忍び足でゆっくりとその場から離れた。慎重に慎重に……。
 そして十分に距離を稼いだことを認めると、家の方向へと駆け出した。ほぼ同時に、刑事が「あった!」と叫んだ。私は振り返りもせずに逃げ出した。
「あっ、ちょっと!」
 投げかけられた言葉を背中で跳ね返した。その勢いのまま角を曲がって刑事の視界から姿を隠した。まだ油断はできない。さっきから走ってばかりだ。だけど止まってはいられない。これも茜里に手をかけてしまったが故の宿命なのかもしれない。

 やっとのことで、自宅に辿り着いた。家には誰もいなかった。玄関に入って鍵を閉めると、安心したせいなのかへたり込んでしまった。荒い息遣いのまま制服の胸元を強く握った。胸が苦しい。
 この苦しみは本当にいつまでも続くのだろうか。
21, 20

  

♯21.

 今日も寝つけそうにはない。さっきから何度も寝返りをうっている。夏でもないのに寝苦しい夜だ。体調不良が続いているので早く寝ないといけないのに、この閉塞した何かがそれを阻む。こんな時は考えごとでもして眠気が来るのを待つしかない。今日一日の間にに何があったか。
 そういえば、今日は酷い目に遭った。まさか本当に刑事がこの近隣を徘徊しているとは思ってもなかった。数日に分けて学校周辺を捜索しているのだろう。
 絶対にバレないとわかっていても、あまり気分のいい話ではない。
 ……いや、絶対じゃない。この世に絶対なんてものは絶対に存在しない。
 証拠は出てこないはずだ。 ……ただし、「消し残し」がなければの話だ。
 茜里を消したのは他でもないこの「私」だ。
 となると、証拠発見のリスクが格段に高まる。自分の欠点を挙げるなら、やる気のなさや不真面目な他に「不注意」な点がある。簡単なことを見落としたりして叱咤された事はこれまでに何度もあった。自分でもどうしてこんなことに気づかなかったのか、と深く自責の念に駆られたこともある。今、そんな時の何とも言いようのない胸のざわめきを思い出した。それだけでも吐き気がする。
 今回もその過ちを犯しているかもしれない……。
 あの時はかつてないほどまでに焦っていた。じっくりと証拠が残されていないかどうかを観察する余裕はなかった。ただでさえ不注意な私に追い打ちがかけられていた。さらに悪いことに、あの時は日が沈んで視界がよくなかった。持っていた照明道具は小型の懐中電灯だけだ。これでは「証拠は絶対に残っていない」とはとても言えない。何か私に繋がるような証拠を残しているかもしれない。
 加えて私は心配性でもある。この体全身を駆け巡る不気味な感覚も、恐らく心配性がもたらしている現象に違いない。自分を安心させようと深呼吸してみても、大した効果は感じられない。この積もり溜まっていく不安感をどうやって取り除くか。

 ──自分の目で確かめるしかない。

 心配性な自分を安心させるために重要なのは他の人から聞いたり、宥めてもらったりすることじゃない。「自分で確認する」ことだ。もう一度確かめることさえできれば安心できる。この前よりは冷静でいて、時間もあるのでだいじょうぶなはずだ。
 それならいつ例の現場まで行くか。できるだけ早い方がいい。でも、今日はあの刑事が家の近所をうろついているはずだ。また不用意に外を出歩いて声をかけられてしまえば二回目は逃げ切れられない。安全をとって明日にしよう。
 枕元に置いておいたペットボトルのお茶を飲んだ。緊張しているせいか、やけに喉が渇く。それに寝不足で頭がクラクラする。今の私は見えざる何かに突き動かされているようだった。何かをしていないと、正気を保ち続ける自信がなかった。
 そうだ、明日は土曜日で学校は休みだ。文房具屋に行って消しゴムを確保しよう。今の私にあの消しゴムは必要不可欠だ。今手にしている消しゴムは多かれ少なかれ欠けてしまっている。新品を身につけておかないと……お守りとして常に握り締めていないと安心することができない。
 私の心身も既に欠けてしまっている。消しゴムと一緒でもう元には戻らない、戻れない。



 ♯

 なかなか行列が進まない。苛立ちが募る。腕を組んで静かに順番を待つしかない。
 私は今、通帳とキャッシュカードを手にしている。理由はなぜか。消しゴムを買うのに必要なお金を持ち合わせていなかったからだ。
 昼に例の文房具屋に行くと、珍しいことにあの消しゴムが販売していた。しかし、予想通り値段は急激に跳ね上がっていた。買う前からなんとなく嫌な予感はしていたが、ずばり的中すると言葉が出なくなる。「五万円です」と言われた瞬間の強い衝撃が忘れられない。あの老爺は私の足元を見ているような気がする。バイトをしていない私には五万円なんて用意できるはずがなかった。
 そこで閃いたのが預金だった。通帳とカードはリビングの引き出しを探せばすぐに見つかった。小さい頃から、何かあった時のためにと別にとっておいたお金だ。今はその「何か」が実際に私の身に襲いかかっている。使ってしまったことはいずれバレるだろうけど、この障害を乗り切らないと私のこれまでの全てが終わってしまう。ここは何としても逃げ切りたかった。

 お金を下ろすと、すぐさま文房具屋に向かった。その間、だいじょうぶだと何度も自分に言い聞かせた。あの店で買い物をしている際、他の客は見たことがない。五万円を手にするまでに時間はかかったけど、売り切れるなんてことはないはずだ。その点はあまり気にしていなかった。
 手持ちの消しゴムともう一つ新品を買えばもう心配することはない。ストックは十分だ。これだけあれば心配性の私でも安心できる。ゆっくりと自転車をこいでいると、テレビ番組で聞いた話を思い出した。
 人は本来、お金に対して無限の蓄蔵欲があるらしい。お金があればある程豊かでありその欲求に終わりはない、と出演者の誰かが言っていた。そういうことなら、私にとって消しゴムはお金と同じだ。この消しゴムが持つ能力……魔力に心底取り憑かれている。たくさんあって困るものでもない。もはや消しゴムがない今後の人生なんて考えられない。だから私はストックを求めて今、文房具屋に向かっているんだ。私にとって大金を費やしてまでして欲しい魔性のアイテムだ。
 ようやく店に到着した。外からでも人の気配が感じられない。店内に入った瞬間、淋しい気持ちになった。物音一つしない静かな空間だ。販売にもこれといった工夫をしているようには見えない。儲ける気がないのか……いや、それなら私に大金をふっかけないはず。まったく小狡しい老爺だ。今となっては憎らしいとさえ思う。寄り道せずにいつも通りレジの方へ向かった。
 いつもの温かみを含んだ笑みで老爺はカウンターにある椅子に座っていた。
「お金持って来ました」
「わざわざありがとうございます。何しろこれは貴重な商品なので」
「はあ……」
 そう言われても、生返事をするしかない。そんなことよりも早く消しゴムを渡してほしい。台に一万円札五枚を置いた。
「次に入荷するのは明日かもしれませんし、一週間一ヶ月や半年、あるいは一年後になるかもしれません。くれぐれも、慎重にお使いください」
 そう言ってから老爺は私の顔を見た。しかし、その視線はただの温かい視線ではなかった。何か他の意味が含まれているような気がする。目が合った瞬間、全てを見透かされてしまう気がしたので思わず俯いて目を逸らした。
「はい……」
 ……どうも弱気になってしまう。老爺はお金を受け取ってから消しゴムを袋に入れて渡してくれた。店に長居はしたくなかったのですぐに店を出た。あの老爺と話していると、いつかボロが出てしまいそうだ。
 近くの自動販売機でミルクココアを買い、温まった缶をカイロ代わりにして手を温めた。ずっとこうしていたい。少し時間が経ち、缶がぬるくなると蓋を開けて一気に飲み干した。甘すぎてあまりおいしくない。少し後悔したまま缶をごみ箱捨て、自転車に跨った。
 そして、向かう。
 茜里を殺してしまった現場、鶴見神社へ。胸に詰まる心配事を消しに行くんだ。
♯22.

 私は自転車を押して歩いていた。神社に近づいて行くにつれて、人の気配は目に見えて少なくなっていく。それと同時に虚しさがこみ上げてきた。活気のない地域はいつもこんな雰囲気なのかな。冷たい風が吹くと、木が悲鳴を上げるかのようにざあざあと音を鳴らした。寒空の下、ただ歩き続けていた。
 今日で確実に証拠を消し去る。不安の芽は早々に摘んでしまわないといけない。疑念が新たな疑念を生む。その根を断つためには「消しゴム」を使うしかない。これで万が一証拠が残っていても消してしまえばいいだけだ。これで完全に逃げ切れる。
 ……そうは思っていても、心はいっこうに安らぐことができない。私の中に残る良心が「あの時」以来、絶叫を止めてくれない。
 ズボンのポケットに忍ばせているこの消しゴムはあらゆる物を消すことができる。しかし、それは実体の存在する物に限られる。私を絶え間無く苛むこの苦痛を消し去ることは絶対にできない。これまで頭に思い浮かぶ茜里に何度も謝罪を繰り返したが、ついに許してもらえそうにはない。当たり前だ。信じてくれていた親友を最も残酷な形で裏切ったんだから。
 これまで、死んだ後のことなんて考えたこともなかった。宗教に疎い私は考えようともしてこなかった。もし、天国、地獄が存在するならば、私は間違いなく地獄行きだ。罪深い非常で卑劣な人間。そんな私が罪を許され、天国に行けるはずがない……。
 ──何が、「どんなものでも簡単に消すことができます」だ。まったく不完全な消しゴムだ。この痛みを、茜里の死を、この現実を、この世界を消してしまいたい。でも、それは叶わない。不思議な消しゴムをもってして、できないこともある。やっぱり、「完璧な物」なんて存在しないんだ。
 ふと、思考がずれて来ていることに気づいた。どうもマイナス思考に偏ってしまう。もはや自虐の笑みすら浮かばない。ただ機械的で無機質な感覚が私の脳に纏わり付いている。
 いよいよ鳥居が見えてきた。立ち止まってから、ごくりと唾を飲み込んだ。どうにも風が強い。今の体の調子で風邪でも引いてしまえば本当に倒れてしまう。いざという時のためにも最低限の体力は残さないといけない。
 受験生なのにずっと怠惰だった私。それが巡り巡って茜里を殺してしまうことに繋がった。まさか怠惰がここまで私の身を滅ぼすことになるとは思いもしなかった。私にとって本当に大罪の一つだった。 ……けど、今日この時だけは真剣にならないといけない。せめて今だけは……。
 頭を強く振って、マイナス思考を振り切った。いつまでもこうしてはいられない。
 今は目下の目的のことだけを考えよう。


 境内に入ると、やはり誰もいなかった。ざわめきの音だけが聞こえてくる。気配がまったくないのは不気味だけど、今の私には好都合だ。「部位」を消した現場まで向かった。
 茜里に手をかけた後、新品の消しゴムを取りに行くまでの間は神社を取り囲む雑木林に隠しておいた。そして「部位」をその場所まで移動させる時、赤く血塗られた道ができてしまった。既に薄暗かったあの時ですら、鮮明に見ることができた。その光景を思い出しただけで背筋に寒いものが走る。映画でも見ることのないような、あまりにも生々しい記憶だった。「部位」を移動し終えてから、見えた範囲で血の道は消しゴムで消しておいた。あれ以来、何度か雨も降っているのでその点は大丈夫だと思う。
 しかし、服の切れ端や私には及びもつかない物があの場所に残されているかもしれない。それを改めて確認しないといけない。
 雑木林の中を歩いていくと、根元に少し大きな隙間のある木がある。わかりやすかったので、あの時はそれを目印として記憶に焼き付けてから消しゴムを取りに戻った。今でもはっきりと覚えている。わざわざ神社を離れてここを探索しようなんて、茜里が頻繁に神社を訪れていたことを知っていないと誰も行わないだろう。警察の捜索範囲がどのくらいのものかは知らないけど、他に捜す場所はたくさんある。早くてもあと数日はかかる、はず。確証も自信もない。
 やがて、例の場所にたどり着いた。これで終わりにできる。
 私はポケットにある消しゴムを一度握り締めて、根元の方へと歩いた。


 ♯

 時間をかけて根元周辺を消しゴム片手に徹底的に見渡した後、境内の方へと引き返した。目に付くような血痕や服の切れ端など、証拠になり得るようなものは見当たらなかった。もともと、あまり期待もしていなかった。捜索に関しては素人の私だ。これといった道具も持ち合わせていないので話にもならない。警察なら私が気づかないような些細な何かを発見してしまうかもしれない。そして、そこから私に辿り着く可能性もゼロではない。でもこんな辺鄙な場所にまで来るのだろうか? そんな場所だからこそ来るのかもしれない。私にはまったくわからないことだ。
 わかるのは私が疑われる確率が限りなくゼロに近いだろうということだ。
 境内に出て、近くにあったベンチに腰を落とした。本当にさびれた神社だ。入口の方にある鳥居も風雨に晒されて鮮明さを失っている。人に忘れられた“もの”というのはこうして忘れられていくのだろうか。茜里もいつかはみんなの記憶から薄れていくのかな……。
 ため息をついた後に両手を固く結んだ。体の震えが止まらない。寒いからじゃない。底知れぬ純粋な恐怖が私に襲い掛かっているからだ。小刻みにわなわなと震える手に力を込めてみても一向に収まる気配がない。体がなかなか思うように動いてくれず、正体のわからない焦燥感が生まれた。もしかすると、この神社にいるせいなのかもしれない。神や宗教は信じないけど、ここはあまりにも縁起が悪い。早く立ち去ってしまおう。えいやと立ち上がった。
 しばらくはここに来ることもない。もしかすると、一生来ないことになるかもしれない。「また来よう」と思える日が来るとは思えない。けど、単純で考えの浅い私のことだ。たった一瞬で気持ちが変わることは十分にあり得る。そんな自虐的感傷に浸っていると無性にやるせなくなる。ベンチから少し歩くと、前方に人がいるのに気がついた。背丈や格好からして男のようだ。その人物の顔を見た瞬間、「あの時」と同じように頭が真っ白になってしまった。全身が金縛りにあい、逃げ出すこともできない。男は私の存在を認めると、ゆっくりこちらに歩み寄って来た。
「あっ、もしかして君は昨日の?」
 目の前の男は、例の刑事だった。昨日と同じコートを来ている。
 刑事の顔をまっすぐに見た瞬間、私の頭が熱を帯びるのがわかった。「あの時」の感覚とまったく同じ感覚を今、再び味わっている。
 それは私に潜む悪心が今にも恐ろしい指令を出そうとしている前兆だ……。
23, 22

  

♯23.

 刑事は昨日会ったときと同じような笑顔を浮かべた。少しくたびれた感じのする穏やかな笑みだ。私のような子どもに対しての接触方法も熟知しているに違いない。警戒心を抱かせないようにするための笑顔。会話を始める前から刺々しいのでは話にならない。少し考えれば私にも思い付く手段だ。これまで中学生高校生を相手に話す時はずっとそうしてきたのだろう。
 ……でも、私は騙されない。その笑顔で作られた仮面の下は刑事の顔をしているはずだ。気を許してボロを出すわけにはいかない。徐々に高まりつつある意志の強さとは裏腹に対し体は素直に反応を見せるもので、現に両手が小刻みに震えている。そのことを悟られないよう後ろで両手を強く組み合わせた。無意識ではあったが、いつの間にか目も逸らしてしまっていた。ますます居心地と印象が悪くなっていく……。
「昨日、住宅街で聞き込みしている時の会った子だよね?」
 正直、刑事が私のことを覚えているとは思ってもいなかった。我ながらあまり目立たないタイプの顔立ちだと思う。どこにでもありふれた顔だ。「童顔だね」と言われることはたまにあるけど、それが目立つ特徴でもない。目立つ人物といえばやはり愛花だ。ただそこにいるだけで注目を集めるカリスマ性を持っている。
 しかし、昨日に限っては刑事が私のことを覚えていてもおかしくないとも思っている。私は質問されている最中にも関わらず、逃げ出してしまった。三十秒にも満たない出来事だったとはいえ、刑事に強烈な印象を残してしまった。単に道を訊ねるくらいなら私の顔なんてすぐに忘れるかもしれない。しかし、昨日私が逃げ出したのは行方不明者の聞き込み調査だ。プロの刑事がそんな不審な行動をとる人間を忘れるはずもない。
「…………」
 私が答えあぐねていると、刑事がぼりぼりと頭の後ろをかいた。
「昨日も言ったけど、私は怪しい者なんかじゃないよ。行方不明の子に関する聞き込み調査を行っているんだ」
 それはもう言われなくてもわかる。目の前の刑事は一般人とは明らかに異なる風格がある。嘘をついてはいない。しかし、そんなことはもはやどうでもいい。
 ──とにかく、“一刻も早くこの男を消さなければならない”。
 瞬時に思考を巡らせる。私に潜む悪魔がこの場を乗り切る手段を模索している。急がないと他の人にも見られてしまうかもしれない。だが、まだ策は浮かばない。悪魔が何か打開策を閃くまでに時間を稼がないといけない。
「ほ、本当に刑事なんですか」
「えっ」
「あなた、本当に刑事なんですか」
「ああ、そっか。証明するものを見せないとね」
 刑事はそう言ってから胸ポケットから手帳を取り出した。当然ながら本物を目にするのは初めてだった。
「これが警察手帳」
 本物か偽物の区別なんて私にはつかない。目に留まったのは刑事の名前だった。“新田直彦”。その名前は記憶に焼き付けておいた。
 新田は手帳をポケットにしまった。
「昨日は私が悪かったよ。いきなりこんな格好した男に声をかけられたら誰だって怖いはずなのに配慮が足りなかったよ。これじゃあ女の子に逃げられて当たり前だ」
 そう言って新田は頭をぺこりと下げた。謝ったところでもう手遅れだ。ここで私と遭遇したことが新田刑事の運の尽き。今日私が鶴見神社にいることは誰にも知られてはならない。この男は何か疑問を持ってはいないのだろうか。仮に新田が小さな疑問一つ抱かなくとも、新田が他人に私と接触したことを報告すれば何か足が付くかもしれない。そんな僅かな可能性も私は残していけないんだ。
 考えすぎだ、と思いも頭を過るが、今の不安定な私には何が正しいのか判断不能な状態に陥っている。それを自覚しながらも、不安要素を取り除くために前へ前へと突き進むことしかできない。
「まあこんなとこで会ったのも何かの縁だ。 ……昨日の質問の答えを聞かせてもらってもいいかな」
 ──行方不明になっている女子高生について何か知っているか。
 もし、この新田に全てを打ち明ければどうなるのだろうか。「この消しゴムで日渡茜里を殺してしまいました」と言って信じてもらえるのだろうか。もちろん、消しゴムの効果が実証されればそれまでだ。ただ、この場においては一笑に付されるだけだろう。これから私が行おうとしていることを成功させるためには言葉を選ばなければならない……。私にこの新田を陥れることは可能だろうか。
 ごくりと唾を飲み込んで決めた。
「はい」
 私がそう言うと、新田はあからさまに安堵の表情を浮かべた。
「よかった、ありがとう。わからないことだったら、正直にわからないって答えてくれていいからね」
「わかりました」
 新田は手帳とペンを取り出してから腰を曲げて姿勢を低くとった。そうでもしないと字がうまく書けないのだろう。私も内心ではあるものの、これからの質問に身構えておかなければならない。
「まず最初に、君は姫女苑高校の生徒だよね」
 ほぼ無意識に右手の拳に力が入る。
 表情に出ていたのかはわからないが、わずかに動揺した。姫女は私の通う女子高の名前だ。
 しかし、これは気づかれて当然。このくらいは当たり前だ。
 なぜなら、昨日私は制服を着ている時にこの新田と遭遇した。新田も行方不明になった女子高生の通う制服くらい覚えていて当然だ。
「はい、そうです」
「じゃあ、行方不明になった子のことは知ってる?」
「知ってます。日渡茜里、ですよね」
「そう。君はその子の同級生か友達?」
 ここがこれから起こる事の流れの分岐点だ。新田が手帳から目を離して私を見据える。
 ほんの一瞬、間を作った。鋭く刺さるような一瞬だ。
 そして、答えた。
「茜里は私の親友です」
 私の放った言葉は新田に強い関心を抱かせたようだった。猫背だった姿勢をさらに傾けて上半身を私に近づけてくる。
「ほ、本当に」
 “友達”と訊かれたのに対して、“親友”と答えた。これは相手に興味を引かせる上では重要なポイントだ。強調して意味を含ませた言い方をすることで、相手は勝手に想像力を働かせる。新田はそれにまんまと誘導に乗せられて、明らかに興奮気味な口調に変化した。このまま会話の中で微調整を繰り返さなければならない。
 私たちの学校の生徒だけでもたくさんの人がいる。新田にとっても、茜里のことをよく知っている人間に話を直接聞けるのは好都合なことだ。私はそこを突く。
「はい。いつも一緒にいました」
「他に仲のいい子はいるのかな」
 教えていいものなのだろうか。愛花と夏織の顔が頭を過る。しかし、そんなものはすぐに消え去ってしまった。もう大して問題ではない。この男は今日でいなくなるのだから。二人の名前、特に夏織の名前を挙げると、新田は表情を変えた。夏織は一昨日警察に質問されたと言っていた。その人物は恐らく新田だったのだろう。
「ありがとう。そういえばまだ君の名前を訊いてなかったね。教えてもらってもいいかな?」
「皆本友子、三年です」
 言い終える前に新田はすばやく手帳にペンを書き殴った。自分さえ読むことができればそれでいいのだろう。よく聞くと、小さい声で復唱もしていた。わざわざ覚える必要はないということも知らずに。
「姫女苑高校三年の……ミナモトさん、ね。じゃあ次の質問。日渡さんが行方不明になる前、何か変わった様子はなかった?」
「実はそのことなんですけど……」
 声色を変えて辺りを不安げに見渡す……フリをした。効果はまたもや覿面に現れたようで、新田が食いついてきた。どこまでも単純な人間だ。こんな演技に騙されるなんて。
 ここで二の矢、三の矢と立て続けに攻めなければならない。その果てに完全犯罪という結末が待っている。私も気を緩めてはいけない。
「最近まで茜里は……少し様子がおかしかったんです」
「それはどんな」
 新田が興奮するのも無理はない。これで有力な証言が取れれば捜査に大きく関わる大金星だ。もっとも、犯行に及んだ私が口を割るはずもない。新田は私に僅かな間、翻弄される。それだけのことだ。
「どうもずっと悩んでたみたいで」
「悩みっていうと……?」
「……多分、受験で思い詰めていたんだと思います」
「いなくなった当日も?」
「そうだと思います。試験が近付くにつれて元気なくなってましたし……」
「受験か……」
 ぼそりと呟いてから新田は腕を組んで考え込んだ。高校三年生にとって、進路について思い悩むことはよく聞く話だ。理想と現実に絶望して狂気に走るのも珍しくない。第一、私もその餌食になってしまったとも言える。
 今はそれらしい話をこの刑事の思考に焼き付ける事が重要だ。
「なるほど、ありそうな話だ」
 顎を指で撫でながら新田は遠くを見つめるように顔を上げた。何を考えているのかは表情から読み取れない。昔のことを思い出しているようにも見える。
「じゃあ、いなくなった当日、学校が終わった後に日渡さんがどこに行ったとか知ってるかな?」
 “行方不明”という直接的表現を明らかに避けている。“いなくなった”という言葉で誤魔化そうとしている。私にそんな配慮をしても意味はない。
「実は私、知ってるんです」
「知ってるって、何を」
「茜里が行方不明になった日、最後にどの場所にいたか」
「なっ」
 興奮気味だった新田は逆に狼狽え始めた。何も知らない人にとっては当然の反応なのかもしれない。一方の私はただ言葉を連ねていくだけだ。だからといって、声が無機質なものにならないよう、なるべく感情を込めていかなければならない。
「ど、どこにいたんだ!?」
「……この神社の敷地内です」
「…………」
 口をぱくぱくさせながら絶句している。
 いい大人が滑稽な様だ。大人をいいように扱っているという奇妙な優越感が私を支配しつつある。だけど、遊んでいる暇はない。一気に決める。
 私は振り返って、遠くを指差した。指し示す方向にあるのは雑木林だ。
「茜里の様子がおかしいので、帰りに後をつけてたんです。そしたら、あの雑木林の中に入って行きました。あの中でも追いかけはしましたが、見失ってしまって……」
 これで、“私がなぜ当日この現場にいたのか”と、この新田から訊ねられる機会を握り潰した。動揺しているのなら深く言及してくる心配もないはず。今はこの勢いに乗じない手はない。
 新田はメモ帳とペンをポケットに入れて姿勢を正した。
「案内してもらえるかな」
「わかりました」
 私たちは雑木林に向かって歩きだした。新田が後ろをついてくる。
 あともう一押しだ。


 雑木林の中に入り、進んでいく。新田は不安げな表情を隠そうとしなかった。木々がまたもざわめいている。私も神経を張り詰めていた。最後の最後でしくじっては全てが無意味に終わる。確実な機会を狙って今は顔を伏せていなければならない。ここをうまく凌げば救われるに違いない。
 そして、ついに例の現場に到着した。この男もこの場所がふさわしいはずだ。
「ここです。この辺りで茜里を見失ったんです」
「こんな奥まで……」
 新田はまたもや言葉が出なくなってしまったようだった。腕を組み、考えに耽っている様子だ。その背中を見て思う。
 その思考はどの地点まで到達しているのか。私の行った犯行……真実に到達し得るのだろうか。あり得ない、ことはあり得ない。『絶対』は絶対に存在し得ない。ともかく、私は少なくともこの刑事にとっては目立つ存在となった。今日私が話したことは当然他の人間にも伝わるはずだ。その前にこの刑事を消さなければならない。断てるとこは断つ。
 私はまさに凶行に及ぼうとしている。しかし、今ならまだまだ間に合う。 ……いや、間に合わない。いつだったら、どの時点でなら間に合ったのか……。苦い感情を噛み締める。
 決意の時。
 殺意の波が寄せて来ている。この脆い防波堤は今まさに決壊しようとしている。新田の背中は無防備だ。いくら刑事といえども、私と遭遇してからのこの一連の流れが殺害にまで到ると考えるはずがない。それも凶器は消しゴムだ。そんなもの、想像するだけ無駄なことだ。
 足を一歩動かすと、小枝がぽきりと折れた。しかし新田は思考に捉われ、何も聞こえていない。私が今呼びかけても応答するかは怪しいものだ。何を見つめるでもなく、ただ考えている。
 いける。この機会を逃すはずがない。私は駆けた。消しゴムを右手に強く握り込んで。
 私にとって、この新田という刑事は悪魔のような存在だ。私はその悪魔の首筋に、まるで救いを求めるかのように右腕を伸ばした。
♯24.


 試験まで残すところ、あと三日。
 私は学校にも行かず、ずっと部屋に閉じこもっていた。外は晴れているけれど、私の部屋はカーテンを閉め切っているので薄暗い。閉ざされた環境で一人にならないと頭がどうにかなってしまいそうだった。
 学校をサボっているからといって、必死に勉強をしているわけではない。迫る恐怖に耐えられなくなったからだ。今も頭から毛布を被って小刻みに震えている。たまにお母さんが心配そうに声をかけてくれるけど、ろくな返事すらできなかった。それどころではない。
 あの消しゴムを手にしてからは、もう私の運命は定められていたのかもしれない。

 同じ地域で、しかも女子高校生と刑事の二人が姿を消したことはテレビでも扱われるような騒動へと発展した。新聞でも報道番組でも、連日同じようなことばかり繰り返している。私の望まない展開だ。目の前の刑事を「消す」ことばかりに考えてしまい、こんな大事になるとは思ってもなかった。もはや、まともな思考回路は望めないのかもしれない。不健康で不規則な生活リズムがこの状況を招いたといってもいい事態だ。
 さらに、私に安眠は許されなかった。これまで以上に酷い悪夢が襲い掛かってくる。そのたびに私は全身を汗で濡らしながら目を覚ましていた。殺人の罪悪感と試験への焦燥感が私にストレスを際限なく与え続ける。
 しかし、なぜここまで追い詰められていながらも押し潰されていないのか。
 多分、消しゴムの存在のおかげだと思う。
 これさえあれば乗り切れる、やり過ごせると考えていた。
 だけど、その灯は消えかけている。
 残された消しゴムは極めて微量なサイズしかない。小指にある爪の三分の一程度だ。これでは試験中にまともに手にすることすらできない。さらに、無くしてしまう可能性だってある。普通の消しゴムですら落としても気づかないことがほとんどなのに、こんなものならなおさらだ。
 ……やはり刑事を消してしまった代償は大きいようだ。
 まず、消しゴムのほとんどを消費してしまった。あの刑事は茜里よりも体格がよかった。その分、消費量も茜里と比べて増大することになった。文字を消すのとは比べものにならないくらいの消費スピードで、今残っているのは予備で購入していた分だ。
 次に、ここまで大事になれば警察以外にも事件について何か調べようと考える人間も出てくるだろう。そうなればこれまで以上に証拠が発見される可能性が高くなる。それを避けようとした行動が裏目に出てしまう形となった。転げ落ちるように状況が悪くなっていく。そんな状況に陥る自分にも腹が立つ。

 外の様子がどうなっているのかは知らない。警察が証拠を捜し出すために地を這うようにして細かく捜査を続けているのかもしれない。万が一、私の犯行だと気づかれるようなものがあれば……。
 駄目だ。そのことを想像するだけで胸が締め付けられるように痛む。気になって仕方がない。この感情は私を殺してしまう……。
 やはり消しゴムがなければ精神状態が保たれない。あれが良くも悪くも私の唯一の希望なんだ。無力な私には消しゴムでしか道は切り開けない。あの店に行こう。
 でも、お金がない。
 ……いや、何とかなる。何とかしてみせよう。
 決意さえ起こればあとは楽だ。一刻も行動に移そう。
 服を着替えている時に、鏡に映る自分と目が合った。とても酷い顔をしていた。明らかに痩せ細り、髪も乱れている。不幸の象徴のような姿だ。思わず言葉を失っていると、鏡の私は顔を逸らしてしまった。
 寂しい気持ちが胸を突く。

 弱気じゃ駄目だ。
 私のような弱い人間は、せめて自分を奮い立たせなければならない。頬を両手で叩いて自らを鼓舞した。
 ここまできたら、やるしかないんだ。




 ◆


 この店には何度足を運んだことだろう。初めて来た時にはここまで縁が深くなるとは想像もしていなかった。
 「ただの」消しゴムを買いに来た私はどういった巡り合わせなのか、「特殊な」消しゴムを手に入れることになった。本当に運命的だ。まるで私が買うのを待っていたかのように、夢のような出来事をいとも簡単に実現させてくれた。そんな消しゴムを手に入れたことによって私の人生は大きく変わってしまった。
 消しゴムは私に、自分でも知らなかったような凶悪な内面を見せてくれた。私が、この私が殺人を犯すことになっただなんて、今でも信じられない。信じられないから、逃げ出したい。でも逃げられない。何もできない無力な自分という存在を嫌というほど実感できた。ちっぽけな存在だ。
 だけど、まだ助かろうとしている。救われたいと考えている。だからこうして、店の前で立ち竦んでいる。
 卑しくて、狡くて、情けない小心者の私。
 能力に見合わない術を手に入れた人間というのは、どこかで自嘲しなければいずれ破滅する。さらに私は、自分だけでなく、他人をも巻き添えにしてしまった。ここまで罰当たりな人間というのもそうはいない。
 短く自嘲した。
 中途半端はある意味一番よくないことだ、と私は考えている。ここで試験を諦めるというのはまさに半端というものだ。茜里に報いるためにも、ここはいくしかない。
 戸を開けて、店内に入った。初めて来たときと何も変わらない。膨大な数の文具が所狭しと並んでいる。しかし、私が目指すべきは老爺のいるレジカウンターだ。勢いそのままに私は足を進める。そして、老爺を見つけた。
 老爺は椅子に座っていた。いつも通りの落ち着いた雰囲気だ。新聞を読んでいたが、私の気配に気づいてか、ゆっくりと顔を上げた。すぐに柔和な笑顔が浮かぶ。
「いらっしゃいませ」
 口調も穏やかだ。心が荒れ果てている私のものとは比べ物にならない。
 ただ、内心は読み取れない。この店に来る度に同じ表情を浮かべているせいなのか、掴み所が見つからないように感じられる。もっとも、老爺と私は売り手買い手の関係だ。長い付き合いなどではない。そもそも老爺の内心など知る必要はないんだ。
 だけど、その眼差しを向けられると、まるですべてを見透かされたような気持ちになる。ほとんど無意識のうちに目を逸らしてしまった。敗北感にも似た奇妙な感覚が私を責め立てる。どうしてだろう。私は顔を上げて老爺を見た。今まで通り話せばいいだけのことだ。気にせずにいけばいい。
 さて、どうやって切り出すべきか。私が判断しかねていると、老爺が立ち上がった。淀みないその動きに私は僅かに目を奪われていた。
「今、あなたがほしいのは、あの消しゴムですか」
 その問いかけに、私は動揺した。老爺はどうして問いかけてきたのか。今までは私が訊ねる側だったのに。どうして今日に限って……。
 老爺はにこにこと笑顔を浮かべたままだ。
「一つ入荷しています」
「ほ、本当ですか」
 神懸かり的幸運だ。地獄に仏。私にもまだ救われる道は残されていた。心地よい安堵感が胸一杯に広がっていく。
 でも、ここで安心してはいけない。問題は価格だ。財布には一万円しか入っていない。
「いくらですか」
 老爺はカウンターの上に消しゴムを置いてから静かに言った。
「百万円です」
「なっ……」
 消しゴム一つにそんな馬鹿みたいな値段が私に払えるわけがない!
 ……もちろん、この消しゴムはただの消しゴムじゃない。「異能の力」を秘めた消しゴムだから価格が吊り上がるのも納得はできる。しかし、一高校生である私にふっかけるにしてはあまりにも高すぎる。やはりこの老爺は知っているんだ。需要と希少価値で営業的に価格を上げているんじゃない。この消しゴムの「本質」に気づいてやっていることに違いない。
 憎らしい、目の前の老爺が憎らしい。知っていて私を追い詰めているんだ。私が破滅しそうなことを知りつつ、それを眺めて楽しんでいる。となると、いつもの微笑も結局のところ嘲笑だったんだ。顔が、全身の熱が高まっている。純粋な感情に体が呼応しているのがかわかる。
 この手でその顔を引き裂いてやりたい。そして、それは不可能なことじゃないんだ。消しゴムさえあれば……。
「手持ちがないんです。どうか、一万円で譲ってもらえないですか」
「それはできない相談です」
 ここは黙って引き下がれない。頭を下げて再度懇願する。
「お願いします、それがなければ私は……」
「申し訳ございません。あなた以外のお客様にもこの消しゴムがほしいと考えている方は大勢いるのです。どうかご了承ください」
 老爺は聞き分けのないわがままな子どもを見ているかのような目で私を見つめた。今や、その瞳は怪しく光っているように思える。ぎらぎらと、好奇心の色を強くして……。
 そうか。
 それならもう、やるしかない。
 ここまで来たのなら、やるしかない。
「いかがなさいますか?」
 もういい。私は顔を俯けた。
 そして、カウンターの上にある消しゴムへ腕を伸ばした。
 鮮やかな水色でのケーズカバーで覆われているその消しゴム。それを手に取って見つめた。まだ未使用なので汚れ一つない。いや、使い始めても消しゴムはあらゆる汚れを寄せ付けない。カバーは汚れても、消しゴム本体が汚れることは決してない。私がよく知っていることだ。
 一つ百万円。そんな話、通るわけがない。
 今さら後戻りなんかできない。
 決意と覚悟が定まった。殺意の波動が私を激情という本能に身をゆだねさせた。
 私は顔を上げてから消しゴムを握り締め、老爺の胸目掛けて一直線に突き出した。
 これで終わる。一つの苦悩から解放されるんだ。
 消しゴムの接触面が体に触れた瞬間に、腕をすばやく横に振れば皮膚が裂け、血が飛び散ってくる。その時は目を細めなければならない。
 だけど、私が思っていた以上の早さで血が飛び散った。驚いた私は目を見開いてその光景を見た。
 血だ。真っ赤な血が宙に浮かんでいる。私を取り巻く世界がスローモーションになっている。時間すら超越した奇妙な世界だ。茜里を殺した時もそうだった。自分の手の動き、目まぐるしく動く視界、茜里の表情の移り変わりを今でも鮮明に覚えている。
 だけど、何かがおかしい。重大なことを見落としている。
 気が付けば、老爺の表情が変化していた。無表情だ。底知れぬ無表情。凍り付いたようなその顔に私は釘付けになった。
 老爺が腕をこちらに向けて伸ばしている。なぜ? どうして?
 カウンターの越しに二つの腕が交差する。腕に血がかかってしまった。後で拭かないといけない。老爺を先に消してから……
 突如、急激に視界が揺れる。いつもの眩暈だろうか。ここで倒れるわけにはいかない。誰にも見られないよう、家に帰らないといけない。
 しかし、体に力が入らない。私は崩れるように仰向けに倒れこんだ。天井が見える。立ち上がらないといけない。老爺を消していかないと、殺害が露見してしまう。失踪事件ならまだしも、殺人となれば面倒だ。また世間の注目を集めることになる。それだけは避けないといけない。
 それにしても、胸が焼けるように熱い。左手で触ってみると、手の平が生暖かい液体に触れた。返り血にしては量が多い。
 老爺が静かに私を見下ろしている。どうしてまだ立っていられるのだろう。確かに消しゴムで切り裂いたはずなのに。だけど、老爺の胸部は裂けていない。それどころか、傷一つない様子だ。
 おかしい、何かがおかしい。これは……
 意識が遠のいていく中、再び老爺と目が合った。冷たくて、一切の感情が込められていない。まるで死にゆく生き物を見つめているような目だ。
 老爺はカウンターを出て、私のすぐ傍にまで近づいてきた。手に何かを持っている。霞む目を凝らすと、それが消しゴムだとわかった。僅かに丸みを帯びた、あの消しゴムだ。
 ようやく、私は悟った。
 自分に何が起きたのか、これから何が起こるのかを。
 終わりの時が迫っている。
 力を振り絞って、血に濡れた消しゴムを握り締めた。これが最期の意地だ。
 私の意識はそこで寸断された。




25, 24

和泉 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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