第5話 インプロージョン・リビルド!
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超展開は一本の電話から始まる。
ホムラ工業の最新鋭大型自走式AI掃除機「HOMURA」が早朝のフロアを清掃しているのを横に見ながら、ディスプレイに投影されている情報を閲覧していると、デスクにおいてあるスマートフォンが鳴動していることに気がついた。
「はい、村雲です」
ホムラでの作業は非常に快適なものになった。ありがたいことに新機能追加や業務改革による機能変更作業が定期的に発生し、仕事量には困らないし、コントロールもできているし、顧客が支払を渋ることもない。非常に理想的な環境、ユートピアに仕上がったと天音は自負している。安寧を勝ち取った天音が缶コーヒー片手に、ディスプレイに映し出されたWBSを眺めながら満足しているところに、スマートフォンの残酷な鳴動が思考を現実に引き戻した。
『武田です。おつかれさま』
誰かと思えば、自分をこの環境に放り込んだ諸悪の根源からの連絡だった。
「おつかれさ、で、なにかご、うです」
天音は徐々に返事の声を小さくしていき、最終的に通話終了ボタンを押した。程なくして再度、スマートフォンが鳴動を始める。
『ちょ、何で切るの』
「すいません、電波が悪かったみたいです。いま移動しました」
天音は今度ははっきりとした口調で答えた。ちなみに一ミリも移動したりしていない。隣に座っている瑠璃垣は苦笑していた。
『なんか怒ってる?』
怯えた声で武田が聞いてくる。非常に面倒だ。なぜ上司とこんなやりとりをしなければならないのか。
「怒ってませんよ、それよりなにか用事があったんじゃないんですか?早く話してくださいよ」
『やっぱ怒ってるじゃぁ~ん!何で怒るの!?昨日も娘に足が臭いとか怒られたし何なの!俺嫌われてんの!』
「あんたは車のライトコピペの女か。娘のこととか知らんがな」
『えっ、なにそれ車?まあいいや』
いいのかよ。
武田は最近女のような話し方をする。そういえば最近ゲイバーにハマっているとか聞きたくない情報を教えてくれたことがあったなあ、嫌な想像しかできないから天音は考えるのをやめた。
一呼吸置いて武田が話し始める。
『今オレが関わってる案件があ』
「お断りします」
『ま、まあ最後まで聞きたまえ』
「お断りします」
『いやいや、そこを何とか』
「お断りします」
『……トリコロールのタダ券一枚』
「っ!お断りします」
『5枚』
「お話を聞きましょう」
『(ちょろい)』
甘味の誘惑に天音は籠絡した。天音は会話内容を察して自席から室外の廊下に出、壁にもたれかかる。
『今オレが関わってる新規案件があるんだけど、人が居なくて大変なんだよ。でもかなりいいお客さんだからいくらでも増員していいって言われてて、こっちも調整してるんだけど、社内で手の空いてる人間が居ないんだよね』
あれ、これどっかで聞いたことある。既視感ではなく事実、過去に起こった出来事なのだが、天音の脳内精神安定装置が事象を事実認定することを拒否していた。
だが、その発想からくる論理的帰結は止められなかった。
「もしや」
『だいせいかい!お前と瑠璃垣は二日以内に引き継ぎを終えてこっちに来るように!じゃ!』
一方的に電話を切られ、久しぶりに思い出した激怒の感情に新鮮さを感じる暇もなく、スマートフォンを床に叩きつけようとしている自分に気がついた。振り下ろしてすぐのところで気がついたために腕にブレーキをかけたが運悪くスマートフォンは手を離れ、それでも勢いが減衰したためか山なりの軌道を描いて天音の後で舞った。
「あまねちゃーん、DBCの佐香下さんが呼んで――」
弧を描くスマートフォンの跳躍軌道を遮るように、瑠璃垣が天音を呼びに来たことにより、スマートフォンの最終落下予測地点に変更が生じた。このままでは瑠璃垣の額に赤いマークが浮かび上がり、インドの映画でダンスを踊ることになる。
その時、全ての時間の流れが遅くなったように天音は感じた。そして咄嗟に、このままでは直撃するであろう瑠璃垣の額へのスマートフォン爆撃を、自分の手で防げると確信し、瑠璃垣とスマートフォンの間に手を差し出そうとする。
しかし、時間が遅くなったように感じるということは、自分自身の動きも遅くなるということ。これは時を止める能力ではなく、考える時間が増えただけだ。手をのばそうにも直撃を防げそうにない。
そこへなんと、茶園志都紀が瑠璃垣の前を横切ろうとしているのに気がついた。ハンドタオルを持っているので、花を摘みにでも行くのだろう。しかしこのままだと茶園の側頭部にスマートフォンが吶喊してしまう。
もう、どうしようもない……!手を伸ばしながらも誰かに激突するであろうスマートフォンを見つめながら、ああ、治療費とかかかるのかなとか、こんなことならスマートフォンの延長保証に入っておけばよかったとか色々考えていると、なんと茶園がしゃがみ始めた。よく見ると、床に500円玉が落ちており、それを拾おうとしているようだ。
僥倖……!浅ましさか親切心かなんなのかはわからないが、茶園への直撃予想はなくなった。あとは瑠璃垣が何らかの要因でスマートフォンの軌道予測コースから外れれば誰も傷つかずに済む!茶園が屈んだところに見えた瑠璃垣を見ると、腹を抑えて少し屈んでいる。
(きっと朝に食べたバナナのせいで、2日ぶりのお通じの連絡がきたんだわ!)
予測軌道から人間が消えたことにより、スマートフォンはドアの向こうの床に落ちるものと思われる。途端に天音が感じていた時間の感覚が元に戻る。
スマートフォンはガション!という音をたてて、フロアの床を回転しながら滑っていく。
よかった、人には当たらなかった。スマートフォンは壊れるかもしれないけど、データは取り出せるだろうし、まあ不幸中の幸いよねと考えながらスマートフォンの滑走軌道の先を見ると、最新鋭大型自走式AI掃除機「HOMURA」が、付近のゴミというゴミを吸い込み続けているのが見えた。
HOMURAは工業用製品であり、試作機である。最下部に存在する吸引口から比較的大きいゴミをたやすく吸い込み、内部で「破砕した」後、自分で定点にゴミを捨てる優秀な製品である。
優秀なHOMURAは、その優秀さを遺憾なく発揮し、天音のスマートフォンをなんのためらいもなく吸い込み、赤子の手をひねるように粉々にし、規定のコースを走破した後に、エレベータに乗って社内ごみ処理施設のHOMURA用ダストパック排出所へ向かった。
天音は、なにも言わず、膝から崩れ落ちた。
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XDDNビル五階。SIerあるあるネタ三位以内常連と呼ばれるXDDNビル。たいていキツさの引き合いに出されるのは四階だが、幸か不幸か天音が招集された場所は五階だった。
観神株式会社。軍用機から靴べらまでを合言葉に、やれることは何でもやるグローバル企業。その企業システムの中枢とも言えるべき場所がここ、XDDNビルである。なお、開発現場のメインストリームがここにあるというだけで、実際に運用されているサーバはデータセンターにあったりクラウド上に載っていたり様々だ。
主にキツイ現場の比喩として取り沙汰されることの多い観神案件は、ビル名のXDDNを略してXDというコードネームのようなもので呼ばれることが多い。XDと書くと海外で使われるような顔文字のように見えて非常に不吉だと天音は思っているが、それについて似たような感想を持った人はあまりいないようだ。そんな感想持ってる場合じゃないというだけなのかもしれない。
セキュリティはICカードによる認証を採用しており、カードがないとトイレにもいけない。カードがないものが入館するにはまず、八階の管理部に言って写真を撮り、書類にサインをしてICカードを首からぶら下げる。首からぶら下げるためのカードホルダーは支給されるが、ネックストラップは支給されないので、前もって購入しておかなければならない。首からカードを下げていないと警備員に毎回止められ、注意を受けるので非常に面倒だ。
FSDN社の社員で天音の後輩に当たる越阪部の案内で、八階で瑠璃垣と共にICカードを作り、ビル内専用のPHSが支給される。携帯できる内線は、常に自分が監視されているような錯覚を覚えると、瑠璃垣が怖いことを言い出す。ただ、瑠璃垣のICカードにプリントされているアホ面でピースまでしている女の顔をみると、あ、こいつふざけてるんだなと思った。
八階から五階に行くには、階段を使うか、一旦三階まで降りて五階へ上がるエレベータを使うしかない。階段で行こっかと提案したら瑠璃垣と越阪部がクネクネとゴネたので今回はエレベータを使用したが、待つ時間を考えると階段のほうが早いかもしれない。
五階に到着し、フロアに入るためのカード読み取り機に先ほど作ったばかりのカードキーをかざすと、ビーッという音とともに認証を拒否された。
何度かざしても拒否されるので、PHSで管理部に電話をしてみようとしたところ、PHSもつながらなかった。
おおっと初日から電波にトラブルかぁっと瑠璃垣が興奮しているさまを冷たい視線で見ている天音だったが、PHSで会話をしながら喫煙室に向かう人が見えたので、どうやらPHSは正常に機能しているらしい。
「ああ、そうなんですか。なるほど。わかりました、二人にはそう伝えておきます」
隣で通話していた越阪部がピッとボタンを押してPHSを切ると、現状の説明をしてくれた。
どうやら社内の入館手続きに使用しているシステムに不具合が発生しているらしく、新規登録には昼すぎまでかかるということらしい。それまでカードもPHSも使えないというのだ。
「じゃあ私達、トイレどころか中に入れないじゃん。どうすればいいの」
「そこはほら、臨機応変にということで」
越阪部がカードをかざすと、ジーガシャッという音がした。おそらくドアのロックが外れた音だろう。越阪部はドアを開いて閉まらないように扉の端を掴んだまま、こちらにチョイチョイと手招きをしている。ちなみにカードをかざさずに他人の後に張り付いて入室するのは、先ほどの入館オリエンテーションにて総務のオバチャンにうるさいほど注意されたセキュリティ上のタブー行為だ
越阪部と議論しても仕方ないので、室内にさっさと入った。議論すべき人間は他にいるのだ。
パーティションのない開けた空間の中、越阪部先導のもと自社のスペースに案内される。 そこには、四十も過ぎて五十に差し掛かろうとしている、無精髭の全く似合わないバッドミドルのオッサンが、なにも考えていないのにいかにも何かを考えていそうに顎に手を当て、モニタを凝視して困ったふりをしているように見えたので、天音はできるだけ言葉を選び、かつ相手に最大限の敬意を払うよう入念な注意力を持って、武田に現地到着の挨拶をする。
「おどれタマ抜いて別の玉ぶち込んでついでにケツ穴増やしたろかい」
「フワゥッ!」
武田がくの字に折れ曲がって驚いたのを見て天音がゲラゲラ笑っていると、越阪部が慌てた顔をして、声を殺しながら二人を注意した。
「ちょっと、お二人共!客先なんですからふざけるのも大概にして下さい」
「そうよあまねちゃん!やるならこのSVDで一発ズドンと」
「いやそういうのやめてください。なんちゅうものを持ち込んでくれてるんですか」
「これに比べたら山岡さんのAKなんてカスでしょ!」
「だれです山岡って。ホントやめて下さい。どっから持ってきたんですか」
瑠璃垣は越阪部が引き取ってくれたようなので、天音は武田への対峙に専念することができた。
「なんにも聞かずにここにきたんですけど、私達どうすればいいんでしょうか」
武田は乱れた服装を正すと、咳払いを一つしてから答える。
「おう、まずは引き継ぎやらおつかれ。なんか大変だったって聞いてるわ。最終日にトラブったとか」
「思い出したくもない、胸クソ悪い事件でしたよ。多くは語りませんが」
「そっか。まあ無事に終わって何より。こっちでの作業だが、まずはPCのセットアップを越阪部に聞きながらやってくれ。すぐにでも作業内容を伝えたいとこなんだが、俺はこれから会議があってね。資料作るのでそれどころじゃない」
武田の話に頷いたあと、机の脇に積んであるノートパソコンを一つ取り上げ、デスクに置いた。結構新しいもののようで、OSも最新版が積んである。昨今のパソコンが昔のものとどう違うかというと、まず始めに起動速度の速さだ。あくびを一回すればすでにデスクトップ画面が起動しており、すべてのアプリケーションが使用可能な状態になっている。
また、メモリも豊富な量が確保されており、ワンクリックの動作が非常にスムーズなのも良い。SSDとメモリ、CPUの進化はソフトウェア開発もまた劇的に進化させた。
「じゃあ俺これから打合せ行ってくる。作業の説明は13時頃やるからよろしく」
そういうと武田はノートとペンケースを持って席を立ち、カードをかざして部屋を出て行った。
瑠璃垣と越阪部はなぜか、たこ焼きはフワトロかカリフワかで議論していた。
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PCのセットアップを終え、プロジェクトの概要に関する資料を読んでいるところで武田が会議から返ってきた。なにか良いことがあったのか、えらく上機嫌で気持ち悪い笑みを浮かべている。実際瑠璃垣が「どうしたんですか、ニヤニヤしちゃって気持ち悪い」と言ってしまったので自身の感覚に狂いがなかったと安心する。
「いやー実はさっき俺の提案が通ったんだよねぇ。こんなに嬉しいことはない」
アムロみたいなことを言うので、フェンシングの剣で目を串刺しにしてやりたい衝動にかられるが、腐っても上司の武田にそのような真似はできっこない。抑えのきかない情動を魔封波で心のなかの小さな小瓶に閉じ込めて、あくまで武田の機嫌を損ねないよう丁寧な口調で真意を問い質した。
「武田さんの提案が通るなんて、珍しいこともあるもんですね。反動で南極の氷が全部溶けちゃったりしそうで怖いです。それでどんな提案なんでしょう」
「……」
一瞬の沈黙の後、武田はやはり笑顔を崩さず話し始めた。
「はっはっは、実はな、もう一人増員することが決まったのですよ」
意外な一言に、天音は思わず顔を綻ばせた。資料に目を通した限りでは、人が足りないのではないかという気がしていたのだ。
「へえ、すごいじゃないですか。無能腕無し名前負けSEモドキクソタケダの汚名返上ですね」
「え、まじで。おれそんなふうに呼ばれて……」
「それで増員ってどんな人が?いつ来るんですか?」
何もなかったかのように天音が尋ねてくるので、武田はお、おうと応じながら問いに答える。
「明日からでも来れるそうだ。なんでもいくつもの炎上案件をレスキューした女性ファイヤーマンらしいぞ!期待感が昂りすぎておれもうおかしくなりそう」
天音は心のなかでキモイキモイキモイキモイキエロキエロキエロキエロと念仏のように唱える。
「ということでおれは帰る。あとはよろしく」
そういうと武田はデスクに載っていた私物を全てカバンに詰め込んだ。
「期待してますよお、村雲リーダー。じゃっ」
そう言って、武田は越阪部を引き連れて部屋から出て行ってしまった。突然の出来事に、天音は何が起こっているのか理解できないでいた。
「ど、どういうことなの」
少し首を傾げて考える素振りを見せた瑠璃垣が、ポンと手を叩いて、聞きたくなかった真実を名探偵ナンチャラのように大げさに発表してくれた。
「つまり、武田さんはプロジェクトから外れて、このビルから去るということね!」
「なん……だと……」
天音が読み込んでいた資料には社内用の「FSDN受注とこれまでの経緯」の資料もあった。要約すると一度受注した案件が炎上し、銀の弾丸として武田が起用されたとある。銀の弾丸なんてねえよという議論はこの際置いておいて、武田は火消しとして呼ばれているのだ。
しかしプロジェクトは炎上を続けており、自分たちが呼ばれた。
武田の胸クソ悪い笑顔。
瑠璃垣の言葉。
火消しの増員。
これらの事実から導き出される結論はひとつしかなかった。
武田は火消しに失敗し、現場から逃走したのだ。
このことに気付いた天音は十分ほど白目をむいて気を失い、瑠璃垣の平手打ち十五発目をもらうまで蘇生することはなかった。
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意識を取り戻した天音はなぜか痛む頬をさすりながら現状の問題点を探るべく、課題管理表という名前のファイルを開いた。武田からは状況を全く聞かされていないが、増員と入替えが発生するということはなにか良くないことが起きていると考えて間違いない。すくなくとも妖怪の仕業ではない。
ファイルを開くと目にやさしくない原色の赤が天音の網膜を突き刺した。この課題管理表というのはアプリケーション利用時に問題となる現象と対応方法を綴っているものだが、未解決のものがたくさん存在し、表計算ソフトの機能で未解決部分の行が赤くなっているのだが、それがモニタの大半を埋め尽くすとさすがにびっくりした。天音は眉根を寄せてディスプレイを凝視する。
そもそも観神に導入されている文書管理ソフトウェアは、当初天音が所属するFSDNが受注した案件だ。しかし本番運用開始から保守フェーズへ移行する際、FSDNの単価の高さを理由に保守契約がDBCへと移った。契約の変更自体は円満に行われたようだが、保守フェーズ以降に不具合が頻発しているのが課題管理表の起票日から見て取れる。結局DBCだけでは不具合と改善要望を捌ききれず、改善要望に関してのみ、FSDNに再度お鉢が回ってきたという話だ。
課題管理表に書かれている部分について、不具合でなく、かつ改善内容が明確になっているものについては観神からの依頼でFSDNが修正を行うことになっている。FSDN社員でこれまで現場にいたのは武田と越阪部だが、武田は戦力にならないことを勘案すれば実質越阪部一人で切り盛りしていたことになる。その状況を想像して天音はゾッとした。この現場で、孤立することほど恐ろしいことはないだろう。
モニタとしばらくにらめっこしていると、後頭部の方角からやたらと大きな声で誰かを呼ぶ声が聞こえた。何度目かの呼びかけで、ようやくそれがFSDN社員である越阪部を呼んでいることに気づく。ふと越阪部の席を見ると、すでにそこに越阪部の姿はなかった。
どこに行ったのかしらと瑠璃垣に尋ねると、瑠璃垣は無言でやはり後方を指さした。指先をよく見てみると、DBCのシマに伸びている。そこには越阪部と、中年で小太りなソフトモヒカンの男性が鎮座していた。何やら越阪部と話しているというよりは、きつい口調で命令しているようにみえる。その回りにいる人たちは別段そのことに驚く様子もなく、淡々と作業している。
状況にとてつもない違和感があったが、そのことはとりあえず後回しにする。今は現状把握を再優先にしたい。天音は再度、ファイルを見つめなおした。
よく見ると、問題の起票者は観神もしくはDBCの名義になっているが、原因と対策案の起票者がほとんど越阪部になっている。これはおかしい。本件の保守対応はDBCであり、不具合対応自体はDBCが行うはずだ。
課題管理表の不自然さと、越阪部の呼び出し。病巣はDBCとの関係性、FSDNのプロジェクトへの関わり方に起因していると考えて間違いない。天音は一度大きく呼吸した後、課題管理表に課題分類列を追加し、自社持ち分とされている部分について不具合と改善に色分けを行っていく。不具合である部分については『契約上は』FSDNが担当する必要のない部分である。
最終行まで分類を終えたところで、契約上の作業ボリュームは半分以下になった。ずいぶんと減ったように思えるが、それでもそこそこの量がある。そもそもこれ以上の量を越阪部一人で切り盛りしていたことを考えると胸が痛い。
そして、分類しただけではこの作業は終わらない。この分類に合意を取る必要がある。分類前の作業ボリュームで計算が厳密に行われFSDNの増員が決定していたら、たとえ辻褄が合わなくても、DBCの作業までFSDNがやっているおかしな状況が判明したとしても、覆すのは難しいだろう。裏を取る必要がある。
缶コーヒーをすすりながら考えていると、越阪部がようやく解放されたらしく、げっそりした顔で戻ってきた。天音や瑠璃垣になにか言うでもなく、ペンとノートをもってどこかに行こうとしているようだったので、思わず天音は越阪部に声をかけた。
「越阪部さん、ちょっと待って」
天音の声にびくりとして、越阪部が振り返る。疑問と焦燥が入り混じった微妙な顔をしていた。
「なんでしょう、急がないとなんですけど」
越阪部はまったく天音に目を合わせようとしなかった。なにか後ろめたいことを隠しているのかのように。
そのことに気づいた天音は、越阪部の言葉に少しどきりとしたものの、あまり緊張感を持たせないような口調で越阪部を諭す。
「武田さんに任された以上、一応私がFSDNの責任者ってことになるのよね。その私が知らない作業をしている状況っていうのは、ちょっと困るんだな。管理者責任ってやつ」
口を無理やり歪めてにやけてみたが、越阪部の破顔を誘発するには至らない。
「だからさ、これからしばらくはできるだけ、どこか行くにしても報告して欲しいなー、なんて思ったりしてるんだけど。面倒だけども」
天音が言葉を選びながら話すのを見て、ようやく越阪部が体を天音の方に向けた。話をする気になったようだと天音は安心する。
「DBCさんからの指示で、今から本番サーバーにログを取りに行ってきます。状況は戻ってきてから説明しますので、それじゃ」
「あ、ちょっと待っ……、行っちゃった」
天音の静止が聞こえなかったかのように、越阪部はスタスタと出て行ってしまう。ちなみにサーバルームは上層階にあり、しかもエレベータで一度三階まで下らなければならない。天音にはそんな面倒なことをしてまで、越阪部を追いかけるような気力体力はなかった。
ドアを開ける越阪部の後ろ姿を見ながら、ふと越阪部の先ほどの言葉を思い返す。
「DBCさんからの、『指示』……?」
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埠頭佳那恵は十度目のスヌーズによる目覚ましを止めたところでようやく目を覚ました。
目やにだらけになった薄目をこすり、ベッドの上で体を起こす。あらためて時計を見ると、セットした時間から三十分以上経過していた。
今日は、新しい現場の初日だ。遅刻はできない。いつも初日に遅刻するのが癖になっていたので、今日こそはとかなり早めの時刻を目覚ましにセットしていたが、スヌーズと添い寝するという幸先の悪いスタートとなってしまった。今から出社の準備をするとして、遅刻するかしないかギリギリのラインだろう。
朝日が差し込む窓のカーテンを閉め、寝間着を脱ぎ捨てて浴室でシャワーを浴びる。これでずいぶんと目が覚めた。
タオルで髪をぐしぐしとこねて雑に水分を剥がしながら、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで、今日から行くことになる職場について考える。
埠頭が今日から出向になるのは、観神株式会社という総合商社。情報システム部門内で文書管理ソフトの改善を担うということを事前打ち合わせで聞いているが、それ以上は例のごとく知らされなかった。
スマートホンで今日の予定を確認する。今日は始業時刻頃にビルの入口にいけば、派遣先企業の社員が作業現場まで案内してくれるという内容がメールに記載されていた。
いつもどおりの展開だ。だがこの状況に納得したことなど一度もない。
「こりゃまた、炎上案件くさいな……」
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なんとか約束の時間十分前に集合場所に到着した埠頭は、ビルの入口で共に入場予定の人間を探す。越阪部という小柄の女性らしいが、周囲にはこれから職場に向かおうとしている生気のない男性が大群を形成する様しか見えない。たとえ越阪部がこの中に居たとしても、彼女を発見する自信はない。
周囲に怪しまれない程度に周りを見回していると、一人の女性がこちらへ向かって歩いてくるのが見える。立ち止まっている人間が自分しかいないのでおそらく自分への接触が目的だろうが、メールで聞いていた越阪部の風貌とはかなりかけ離れている。スラリとしたシルエットで百七十センチは有るだろう背丈にデニムのジーンズを履いた、おおよそこの場とは不釣り合いなネーチャンが近づいてくるので、埠頭の頭は多少なりとも混乱した。
「失礼ですが、埠頭さんですか?」
大当たり!おめでとう!内心で安堵しながら埠頭は彼女の素性を聞き返す。
「そうです。越阪部さんですか?」
そう聞かれた女性は頭を振った。やはり違うらしい。
「ほんとは越阪部さんが来る予定だったんですけど、ちょっと急用が入ってしまって。かわりに来たのが私です。どうぞ」
そういって彼女は名刺を差し出してくる。瑠璃垣と書かれていた。
「瑠璃垣梢枝です。私のことはコズエって呼んでね!」
「よろしくおねがいします、瑠璃垣さん。じゃあ行きましょうか」
「あれっ!」
瑠璃垣の軽口を軽やかに無視し、守衛で入館手続きを済ませる。一度管理部に行って入館証の作成とPHSを受け取らないといけないらしい。瑠璃垣が説明してくれた。
管理部は八階にある。移動の間、瑠璃垣は全く気後れすることなく埠頭を質問攻めにした。
「埠頭さんはここは初めてですか?」
「ええ」埠頭は頬をポリポリかきながら上の空で返事をする。「運がいいことに初めてなんです」
「まあ、そうなんですか。じゃあ色々と説明しないといけないかな?」
瑠璃垣が入館後のオリエンテーション内容について吟味するために首を傾げていると、埠頭が手でそれを制した。
「いえ、似たような案件は経験しているので、最低限の事を教えてくれればオーケー。あとは自分で調べられる」
「そうなの、たのもしいな」
うふふと瑠璃垣が笑っていると、エレベータの扉が開いた。八階に到着したようだ。
瑠璃垣に促されてフロアに入ると、意外と室内は閑散としていた。フロアの奥の方にあるデスクに三人ほどしか人が居ない。
「観神さん、今日まで社員旅行なの」埠頭の顔色から察したのか、瑠璃垣が言う。「だから今日は家庭の事情で社員旅行に行けない人達しか社内に居ないのよねー」
「はぁ、社員旅行ですか」
自分が呼ばれた現場はほとんどがワーカホリックの養成所とも呼ぶべき場所ばかりだったから、埠頭は少し驚いた。ただ、こういう現場特有の状況が存在するということは、同僚に聞いたことがある。
「不具合発生時に責任者が居なくて対応が遅れるなんてことがあったりして」
来て早々不穏当なことを口走る埠頭だったが、瑠璃垣に動揺した様子はなかった。
「その辺は結構ちゃんとしてるかなー。現場には必ず決定権を持つ人間が居ることになってるからね」
「決定権」
「そう、決定権」そこまで言って、瑠璃垣が埠頭に接近し、視線は向けずにつぶやく。「持ってるのが決定権だけっていうのが逆に問題だったりするんだけど」
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自社メンバの机が集合したシマに一人、天音はぽつんと佇んでいた。
越阪部はまたDBCからのトリガを発端としてサーバにログを取りにいってしまったし、瑠璃垣は埠頭という本日着任予定の女性を案内するために席を外している。
天音は今、二つの問題と対峙している。
一つは、作業量が多すぎる問題だ。昨日も全員終電近くまで作業をしていたのはもとより、越阪部に至ってはDBCから直接の指示を受けているフシがある。契約の範囲外の作業を行うことの危険性はもとより、DBCと天音が所属するFSDNには契約自体が何も存在しない。パートナー企業としての契約もないから、ライバル企業と言っても差し支えないほどだ。
そのDBCは、観神株式会社の文書管理システムプロジェクトのプロジェクト統括を担当している。そのプロジェクト統括という強権を濫用してFSDNの社員を無断で借用しているのかもしれない。事実だとしたらとんでもない状態だ。できるだけ早く越阪部に事実関係を確認しなければならないが、タイミングを逃したまま今日に至る。
二つ目は越阪部の問題である。先に上げた問題ともかぶるが、彼女の顔には生気が感じられない。一歩間違えば、床に衝突したガラス細工のように粉々になりそうな悲壮感を漂わせている。本人はそれを必死に隠そうとしているが、壊れてしまうのは時間の問題だろう。天音はそういう人間を何人も見てきた。
室内は閑散としている。先ほど全体メールで飛んできた障害対応のためにほとんどの人員がサーバルームなどに散っていったためだ。本来なら瑠璃垣がここにいたはずだが、越阪部の無断動員の影響で誰もいない。ふとドアの方を見やると、透明なガラス張りのドアからデニムのジーンズが出現する。観神では、SEはカジュアルな服装が許されており、女性は更にその制限が緩いのであるが、さすがにジーンズで出社する人間は瑠璃垣しかいなかった。ガチャリとオートロックが外れる音がした後、瑠璃垣は一人の女性を連れて室内に入る。
「また新しいPHSだけ通じないよー。どうなってんのかしら」
瑠璃垣が気だるそうに天音に伝える。そういえば自分が初めて来た時もそんなことがあった。
「いま全社的に障害が起きてるみたいだから、そのせいかな?社員旅行で人も少なそうだし手こずってるのかもね」
天音はそう言って瑠璃垣の隣にいる人物に目を配った。目にやさしくない金髪ポニーテールの女がそこにいた。
「あなたが埠頭さん?」
「はい、埠頭佳那恵です。よろしくお願いします」
埠頭佳那恵。噂で聞く伝説的なSEと佇まいが酷似している。噂では、瓦解しかけたショッピングサイト構築プロジェクトを一晩で立て直したとか、シカゴ全体を統合管理するOSの開発に携わったとか、JAXAで打ち上げた気象衛星の姿勢制御プログラムを組んだとか、女ビジランテとか様々な彼女の実力評がまことしやかに囁かれているが、真偽は定かではない。定かではないというより、天音はすべて事実ではないと思っている。これらの噂というのは、彼女の技術力を賞賛するために誇張されたものであるという認識だ。
「あなたのような伝説的なSEと仕事ができて幸せです。よろしく」
なぜか握手を求めてしまった天音に、埠頭は苦笑した。
「なんのことよ。まあいいけど」
二人共普段から仕事前に握手をするなんていう習慣はなかったのに、天音は握手を求め、埠頭は右手を強く握り返した。二人のSEとしての本能が、これから始まる苦難を本能的に予感したからだろうか。
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DBCのシマにぽつりぽつりと人が戻り始めたかとおもいきや、急にガヤガヤと騒がしくなってきた。気にはなったが、自分にも作業がある。今は特定の画面でパフォーマンスが極端に遅い検索処理の改善に着手している。これはテーブルの結合方法がかなりアバウトなものだったので、結合条件を見なおせば早くなるだろうという見当はついた。試験的に結合条件を変更したプログラムを実装してみたところ、以前は十数秒待たされていた検索結果の表示が、五秒程で表示されるようになった。プログラムを整理してレビューを受けたあと、テスト環境と本番環境に順次リリースすればこの問題はクローズできる。
レビュー用の画面エビデンスをキャプチャしていると、自席の後ろに気配を感じた。気になって振り返ると、そこには越阪部とよく「話をしている」DBCの社員がいた。
「すいません、村雲さんでしょうか」
「ええ、そうですが」天音は打鍵しながら顔だけ言葉の主の方へ向ける。「何か御用でしょうか」
DBC社員は青白い顔をしている。そういえば朝から障害が発生しているが、復旧したという連絡はない。嫌な予感を胸に抱きつつ、天音はDBC社員の言葉の続きを待った。
「私はDBCの本元と申します。突然で恐縮ですが、御相談に乗っていただけないでしょうか」
本元と名乗る男は焦りを隠すことなく、しかし音量は抑えて、早口で天音に嘆願した。
「相談というのは、今朝発生した障害に関することでしょうか」
天音の問に、そうです、と頷く本元。どうやらDBC単体では吸収しきれない事態が発生しているらしい。
「わかりました」
了承した天音は、本元の腕が指し示す方向に歩き始めた。
「ちょっと待った」
意外な方面から静止の声が聞こえた。振り向くと、埠頭が手をかざしている。
「私も行きます」
埠頭の提案を断る理由はなかったが、先方の都合もあるので「彼女も同行してよろしいですか」と本元に尋ねたところ、「人は多いほうがいいだろう」という理由で承諾された。
なりふり構っていられないという感じで、とにかく早く来てほしいとせがまれた天音は、埠頭とともに会議室へと向かう。