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【春を恨んだりはしない】

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 春はあけぼのとはよく言ったものだ。カーテンを開けて世界に触れると、朝陽の暖かさがじんわりと身体に沁みる気がして、今日も一日頑張ろう、みたいな非常に有頂天で楽天的な思考が思いもよらず過る。窓を開けるとウグイスの鳴き声や舞い散る桜の花びらが相乗効果となって、麗らかな気候と共に僕の心も麗らかになる。
「おはよう」
 僕は寝癖を気にしながら階段を下りる。食卓では既に妹がトーストにかぶりついていて、こちらに気が付くやいなやパンくずまみれの手で僕を指差した。
「おはよう。朝ごはんの前に、顔洗ってきて」
「そんなに僕の顔は、汚い?」と聞くと
「いつもより、ずっと」と、妹は一度も目を合わせないまま言った。
 仕方なく僕は顔を洗い、そのついでに寝癖を直す。洗面所に香水の匂いが漂っていて、僕は少しだけ感じていた違和感に気付いた。
「もしかして母さん、もう早くに家を出た?」
「うん。遅くなるって言ってたよ。いつもより、ずっと」
「なるほど、そうなのか」
 僕はタオルで顔の水分を拭き取り、食卓に座る。テーブルに置かれている小さなテレビでは今日も見慣れたキャスターがニュース原稿を読み上げている。
「今日から新年度だね」
 と、妹。そうか、今日は四月九日。
「新年度って言っても、年が明けたのは三か月も前の事だし、変な気分だな」
「お兄ちゃんっていつもそんな感じだよね。四月とか新学期とかって、もう少し気分が高揚しても良さそうなのに。いつもより、ずっと」
「というか、そもそもなんで四月がそう言った新年度みたいなリスタートの時期になったんだろう。四って言うとむしろ不吉なイメージもあるけど」
「昔からそうだったんじゃない? 四月朔日なんて言葉があるくらいだから、数ある区切りの一つで、特に重視されてたとか」
「季節の節目に着物か何かの綿を取り除いたって言うあれか。ホヅミとかもそうだよな」
 妹の言葉には説得力がある。さすが、世界中を飛び回る母の傍を共にしてきただけのことはある。僕みたいな存在感の薄い、味のないポテトチップみたいな奴とは大違いだ。のんべんくらりと過ごしてきた無味乾燥な十六年間が製造するのは、ダシにもならない薄っぺらい言葉って所だろうか。
「ところで、僕の分のトーストは何処へ?」
「朝ごはんは、お好みで、どうぞ」


 僕の名前は、渡利優一。
 ワタリというこの辺りでは珍しい苗字を持った両親が、一番優しい人間になるようにと名付けた。らしい。あくまで憶測。
 会社員だった父親は数年前に他界し、今は母親の手一つで僕と妹、二人の子どもを養っている。とは言っても母親は海外進出した大手化粧品会社のやり手社長だから、別段お金に苦労したことはない。強いてひとつ言うなら、母親の教育を受けた妹がお金の遣り繰りをしているので、僕への小遣いが手厳しいのが問題。
 今日は四月九日、月曜日。テレビのニュースは新学期の到来を喧伝している。明日は入学式を控えている小中学校も多いようで、世間の初々しいパパママ達は我が子の成長っぷりに一喜一憂していることだろう。
 確かに春は新しい物事を始めるにはうってつけの時期と言えるかもしれない。この僕ですら春に対して興味はなかったのにこうして妹の話を聞くだけで、何か自分の中で部品が新しいものに換装されているような錯覚に陥った。僕ならざる僕は毎年この瞬間に生まれていて、僕はただそれに気付いていなかったというだけなのだろうか。
「お兄ちゃん、早く準備しないと、学校遅刻するよ」
「そういうお前は、どうなんだ」
「私は、新入生だから、明日の入学式から学校です」
「あ、そうでしたっけ」
 そう言えば、妹が僕の通う高校に合格したとか、そういう話を少し前にした気がする。部品が入れ替えられたせいで、そういう記憶も抜け落ちてしまったみたいだ。
 僕が通っているのは何の取り柄もない普通科進学高校。妹は進学と言うより母の影響でさっさと就職してしまいそうなオーラがあったが、大学には行きたいようだ。そう言えば大学でやりたいことを見つけたいなんてことを言っていたような気もする。最近物忘れが激しい。一か月の冬眠生活の間に、すっかり脳がとろけてしまった。
「よし、それじゃあ、行ってきます」
「あ、そうだ。お兄ちゃんに渡したいものが、あったんだった」
 身支度を整え、玄関でローファーに足を通していたところ、妹が思い出したようにリビングへ駆け出して行った。何だろう、と思っていると、妹は小さなキーホルダーのようなものをぷらぷらと揺らしながら持ってきた。御守りの形をしている。
「これは?」
「お母さんからの贈り物。災厄から守ってくれるんだって」
「災厄から? でもこれ、無病息災とか家内安全じゃなくて『祇園精舎』って書いてあるぞ。平家が守ってくれるの? 大河ドラマは面白かったけど」
「細かいことはいいから、信じなさい」
 そういって妹は胡散臭いキーホルダーを僕のリュックサックに括り付けた。まるで祇園に並々ならぬ情熱を燃やしている学生風情に間違われそうな気がするけど、仕方がない。
「分かったよ、ありがとう。それじゃ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
 妹に見送られながら、僕は春の陽気に飲み込まれていった。


 窓から浴びる陽気と全身で浴びる陽気ではやはり後者が勝る。温暖化の影響でこの季節でも少々暑さを感じるけど、その暑さにほだされて、僕の心はキャラメルマキアートのように甘く甘くとけている。かつては無味無臭無害を貫き、存在感の薄い読書少年としての位階を縦にしてきた僕でも、今ならほんのり香る春のスメルと共に、さわやか系男子としてリスタートできそうな気がする。
 今年は何かできそうな気がする。今年こそは何か変われそうな気がする。妹のくれた奇妙なキーホルダーは、結果として僕の背中を後押しする要因になった。
 塀の上に陣取った猫が、険しい顔で僕をにらんでいる。

 例えば。
 この奇天烈なキーホルダーを基に話題作りなんてできるかもしれない。人間関係ってのは案外そういう簡単な会話から始まったりするものだと思う。そこそこ話す人が良く話す友達になって、それが異性ならいつでも話が聞きたくなって付き合って、ずっと一緒にいたいと思うようになるのかもしれない。そう考えると、恋愛なんて実は言葉のキャッチボールの延長線上にある簡素な概念かもしれない。
 踏切の遮断機が下りて、僕は足を止める。

 例えば。
 僕の少々変わった身の上話でも話題になるかもしれない。死んでしまった父親。海外を飛び回る母親。金銭を管理する妹。客観視すれば、かなり珍しいタイプの核家族なんじゃないかと思う。実質、妹との二人暮らしみたいなものだから、なおさら。でも、そこからの話題の発展させ方がわからない辺り、僕はまだまだ一人癖が抜けきっていない。
 遮断機が上がる。
 煙を吐く車が一時停止しながら進んで行く。
 線路を挟んで反対側には、仔猫のような、小さな女の子が立っていた。
 僕の通う比良里高校の女子が着る制服と瓜二つ。というか、恐らく比良里高校の生徒だ。クリーム色の髪が風に靡いている。あの色は、校則で許されているんだろうか。
 それよりも気になったのは、彼女がこちらを向いているということ。
 僕の目的地、比良里高校とは真逆の方向へ、彼女は歩こうとしている。僕のように休みボケで、学校の方角を間違えてしまったんだろうか。
 線路を渡る人込みに、僕は紛れる。
 彼女も同じように、人込みに紛れていく。
 すれ違う中で、僕と彼女は意図せず目が合った。
 その時、僕はこれまでに感じたことのない、不思議な感情がこみ上げてくるのを覚えた。恋愛感情でもない、喜怒哀楽でもない、言葉としては名状しがたい、神秘的な感情。それはまるで、森の奥で妖精に遭遇した時のような、異体験の感覚。通り過ぎる彼女は、チョコレートを溶かし込んだようなほろ甘い香りを放っていた。
 僕は線路を渡りきった後、人込みから抜け出して、振り返る。
 彼女もこちらを振り向いていた。
 右手に通学かばんを提げ、ブラウンの双眸で僕の方を眺めながら。
「名前を――――」
 先に言葉を紡いだのは、小さく閉じられていた彼女の口。
「教えて、もらっても?」
 僕はしばらく呆然と彼女を見つめて立ち尽くしていたけど、それが僕に向けられた言葉だと気付いて、無意識に口を開いた。
「渡利……優一」
「そう、ありがとう」
 それだけ答えて、彼女は僕に背を向けた。
 僕はパーマのかかった彼女の髪を見呆けながら、折り返しの電車が来ているのにも気づかず、線路の前で茫然自失として動くことが出来なかった。
 目の前を電車が、轟、と通り過ぎてから、ようやく意識が戻った。
 電車が過ぎた後の風景に、彼女の姿はない。ただ、電車が駆け抜けたことによる風が吹き荒び、ただでさえ無造作な僕の髪をぐちゃぐちゃに散らかしていった。
 僕は前髪を掻き分け、誰もいない踏切を見つめる。
「……………………」
 それはとても奇想天外で俄に信じがたい出来事である。
 ある日僕の目の前に現れ、春の香りを振りまきながら、僕の名前を訊ねて消えた少女。彼女は僕と同じ学校の制服を、確かに身に纏っていた。
 例えるなら、妖精か、天使。
 なるほど、春はあけぼのとは、よく言ったものだ。
「まだまだ、頭が冬眠から覚めてないようで」
 春からこんな幻覚を見るなんて、余程陽に当たらなかったのが毒と見える。今まで自分から僕に話しかけてきた生徒など、義務に駆られたクラス委員長以外いなかった。彼女のような、僕とはかけ離れた崇高な人種の彼女が、僕に言葉を投げかけるなど、おこがましい幻想に他ならない。それでも、俄雨のような幻想だとしても、一瞬でも夢を見せてくれた春には、拍手喝采を贈りたい。
「おかげで今年も、夢を見ずに済みそうだよ」
 少なくとも、僕の前に差し出されたのは、硬いパンだったということ。
 並み居る人の合間を縫って、春空の下、何も変わらない通学路を歩いて行く。


     †

 またやって来たからといって
 春を恨んだりはしない
 例年のように自分の義務を
 果たしているからといって 春を責めたりはしない
 わかっている わたしがいくら悲しくても
 そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと

 ――ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』
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