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第三部(第十三~十八話)

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第十三話

   1

「うーん」
 部屋の真ん中に仁王立ちになり、私は声に出してうなった。
 視線の先──カーペットのはがれたフローリングの上には、所々、小さな穴が空いている。穴の大きさは、およそ直径2センチ。形はきれいなまん丸だ。シロアリが空けた穴ではないだろう。もちろん手抜き工事でもなければ、こういうデザインの床でもない。この穴は普通の穴ではない。たぶん、この世のものでも──。

 この穴を最初に発見したのは、今から二ヶ月少し前。夏の盛りの頃だった。
 今年の初めに大した理由も無く仕事を辞めた私は、いわゆるニート生活を満喫していた。貯金はあるし、元よりお金を使う趣味も無い。出費は家計に入れている分と、時々買うゲームやお菓子程度のものだ。最近は、本は買わずに図書館で借りてしまうし、CDや映画もレンタルだ。
 ──話が脱線した。そう、そんなある日、私の足がカーペット越しに違和感を覚えた。
 穴が空いている、と。
 カーペットをめくると、床に何と五つもの穴が空いていたのだ。
 これは大変、と早速中を覗いてみた。
 すると、そこに見えたのは、山小屋風の部屋の中と、まるで絵本の妖精のような人間。
 驚いた私は、慌ててカーペットを元に戻し、今に至るというわけだ。
 最初は、夢か見間違いだと思った。床の下は我が家のリビング。妖精は住んでいない。確認するためもう一度覗こうかとも思ったが、何だか怖くて放置してしまっている。ただ、その後も何度かカーペットをめくり、穴がある事だけは確認している。残念ながら、穴自体は夢で無いようだ。
 この穴の事を、私は母や友人に相談した。しかし驚くべき事に、穴は私以外には見えないらしいのだ。結局、みんなに妙な心配をさせてしまっただけで、この奇妙な悩みを共有してくれる相手は見つからなかった。

 そんな穴の異変に気付いたのは今日。なんと穴の数が七つに増えていたのだ。
 このまま放置し続けて、穴が増え続けたらどうなってしまうのだろうか。
 ……恐ろしいイメージしか浮かんでこない。
 夢か映画かどっきりか、これが現実で無ければ良いのにと思うが、どうやら現実逃避している場合では無さそうだ。この穴が何なのか観察し、可能ならば塞がねば、私の聖域であるこの部屋が侵されてしまう。
「よし」
 意を決した私は床に這いつくばり、一番近くの穴へと目を近付けた。
(ホラー映画だと、こうやって目を近付けた瞬間に穴からトゲみたいなのが……、って、こんな時に余計なこと考えちゃだめだって!)
 変な汗が額に滲むのを感じながら、私は穴へと目を寄せた。
(……ん?)
 そこに見えたのは、洞窟の中のような景色だった。
(あれ?)
 前回覗いたのは、どの穴だっただろうか。確か、ベッドの足下の方だったと思う。穴によって違う世界が広がっているのか。だとしたら……、今私の部屋の下には七つの世界が広がっているということになる。
(マジかよお……)
 いったん穴から目を離し、今度は別の穴へと這って移動する。
(よし、次はこの穴……)
 ベッドの頭寄りに二つ並んだ穴のうち、手前の穴を覗き込んでみる。
 そこは、水中のように見えた。深さは結構あるようだ。穴の近くまで伸びたピンク色の物体が揺れている。
 次に、すぐ隣の穴を覗く。
(……何かファンシーな部屋だな)
 穴の向こうに広がっているのは、壁も床も何もかもピンク色の部屋だった。何かのゲームで昔みたような雰囲気だ。帽子を被ってバットを持った少年が行ったあの世界は、たしか夢の国だった。
(これも夢なら良いのになあ……)
 上半身を起こして、ため息をついた。
 これで中を確認した穴は四つ。全てが違う世界に繋がっていた。残り三つを覗くのは、非常に気乗りしなかった。
(これがフィクションの世界で、主人公が自分じゃ無ければワクワクするようなシチュエーションだけどなあ……)
 見るのと実際にやるのでは全く違う。この先どんな危険が待ち受けているかわからないし、最悪、死ぬようなことだってないとはいえないのだ。
(誰か何とかしてくれないかなあ……)
 だが、残念ながらこの穴は私にしか見えないらしい。幻覚、という線の考えも頭を過ぎるが、それでは自分が病気だというようなものなので考えない。別に幻覚を見るほどのストレスや不安を抱えているわけではないのだ。たぶん。
(んー……、取りあえず、休憩)
 今までずっと放置してきたのだ。中を覗いただけでも大きな前進だ。
 私はカーペットを元に戻すと、ベッドの上に腰掛けた。
 その時、不意に誰かの視線を感じたような気がした。窓の外を見てみる。ここは二階、誰かいるはずもない。窓以外から覗くことも出来ないだろうから──、
(気のせいか……)
 私はベッドに横になると、漫画を手に取り開いた。今の今まで不思議な世界を覗いていたのだ、きっと興奮しているのだろう。確かに心臓はどきどきとして痛いくらいだ。
 しかし……、やはり誰かに見られているような気がする。
 穴の向こうから?
 まさか……。
 私はベッドから降りると、カーペットの上を見渡した。床があらわになった状態で視線を感じるならまだしも、この状態で向こうからこちらを覗くことなど出来るだろうか。それに、こんな視線など、穴が空いてから今まで感じたことはない。
 少し悩んでから、私はゆっくりとカーペットをめくった。
 ……七つの穴は確かにこちらを向いてはいるが、視線はここからきているわけではないように感じる。では、どこから?
 カーペットを元に戻し、私はリビングへと向かった。夕方になって薄暗くなった部屋が、私の背筋を寒くした。こんな時は、幾つになっても人恋しいものだ。
 リビングへ入ると、母がぼーっとテレビを見ていた。ニュースともバラエティともつかない番組は、海辺で騒ぐ若者達を特集している。
(海、か……)
 最後に行ったのは何歳の時だろうか。
「ママ」
「何、あんたいたの?」
 母がこちらを振り向く。咥えたおせんべいがご愛敬だ。
「みんなで最後に海水浴行ったのっていつかなあ」
「うーん……あんたが小学校の時だから、たぶん二十……」
「二十年ってことはないんじゃないの?」
「あんた幾つになったっけ?」
「……ずいぶん行ってないね、海」
 私は話題を戻した。年齢の話は、そろそろ避けたいお年頃だ。
「高校の時に、友達なんかと行ってなかったっけ?」
「えー、行ってないよお」
「そうだっけ。行きたいの?」
「いや、別にそういうわけじゃないけど……」
「それにあんたカナヅチじゃない」
「ちょっ……、ひどいなあ、泳げます」
「うそお」
「嘘じゃない。私だってね、ちょっとくらいは泳げるんだから」
「ちょっとでしょ」
「ちょっとでも泳げるならカナヅチじゃないでしょ?」
「ちょっとじゃねえ」
「……もういい」
 あまりにくだらないケンカに我ながら呆れて、私は部屋に戻ることにした。さっき感じていた視線の恐怖は、今はもう感じない。腹は立ったが結果オーライだ。

 部屋に、ちょっとだけびびりながら入る。
 視線は感じない。
 やはり気のせいだったのか。
 ほっとして、ベッドに向かおうとした時、視界の隅に違和感を覚えた。それは机の上、見覚えのない、何か……。
(何……?)
 だらけた生活をしているとはいえ、掃除や片付けはきちんとしている。机の上だって余計なものは出さないようにしている。こんなもの、置いた覚えはない。
 近付いて見ると、それはビデオテープだった。VHSではない。家庭用の、小さいやつだ。
(どっから出て来たの、これ)
 恐る恐る、手に取ってみる。
 テープの側面に貼られたラベルには、
『私へ』
 と、一言だけ書いてあった。

   2

『私へ』
 意味深なタイトルのビデオである。いつからここに置いてあるのだろうか。ラベルの文字は私の筆跡によく似ているが……。『未来の自分へのビデオレター』というやつだろうか? それを母が何処からか見つけてきて、ここに置いた……、まさか。あり得ない。自分へのビデオレターなんて、撮った覚えはまるで無い。忘れているだけだろうか?
 私はビデオテープを手に、再びリビングへと向かった。
 母は台所で、早くも夕食の仕度を始めている。
「ねえママ」
「何よ。ヒマなら手伝ってよ」
「これさ」
「何?」
 母がこちらを向く。私は手に持った小さなテープを母に見せた。
「何これ。どうしたの?」
「机の上にあった」
「何処から出してきたの?」
「ママが置いたんじゃないの?」
「知らないわよ」
 嘘では無いだろう。では、いったい……。
「『私へ』って、これあんたの字じゃない?」
「うん、たぶん」
「覚えてないの?」
「うん。ぜんぜん」
「ビデオレターかしらね。昔撮ったの忘れてるんじゃないの?」
「いやあ……、こんなの撮ったことないと思うけど……」
「見てみたら?」
「そうする」
 その方が手っ取り早い。何となく、見るのはちょっと怖いが……。
「ビデオカメラにセットしなきゃだよね、これ」
「テレビに繋ぐならコードもね」
「んー、それは良いかな。モニターで見れるよね?」
「壊れてなきゃね。二階のあたしらの部屋のクローゼットにしまってあると思う」
「わかった。今取ってきて良い?」
「散らかさないでよ」
「了解」
 私は二階にある両親の寝室へと向かった。

 普段同じ家に住んでいても、両親の寝室に入ることなどめったにない。部屋に入ると、何だか他人の家にお邪魔したような感じがした。
 クローゼットを開け、上の棚に積み上げられた箱を見る。ちょっと高いので椅子に登った。ビデオカメラのケースはすぐに見つかった。ずいぶん埃を被っている。ちゃんと動くだろうか。私は埃を掃除用ブラシで取ると、ケースの中からビデオとバッテリーの充電プラグを取り出した。
 うん、懐かしい。私が小さい頃、父は行事の度にこのビデオで私を撮ってくれた。そのテープは何処にしまってあるのだろう。せっかくビデオを出したのだ、後で懐かしいテープを見てみるのも良いだろう。
 さて、と。私は自分の部屋に戻るとビデオ本体からバッテリーを外し、充電を始めた。バッテリーが悪くなっていなければ良いが……。
 その間に階下に降り、母に報告することにした。
「ママ、ビデオあったよ」
「ちゃんと動いた?」
「充電中」
「あっそ」

 一時間後、バッテリーをカメラにセットした私は、取りあえず一人でビデオを見てみることにした。母に見られてまずい内容とは思わないが、念のため、だ。
 テープを入れ、本体横のモニターを開く。電源は問題無く入った。
 床の上、佇まいを直して、ちょっとだけ緊張しながら再生ボタンを押す。
 小さなモニターに映し出されたのは──。
(あ、私だ。私……?)
 慌てて停止ボタンを押し、モニターを凝視した。
 そこに映っているのは間違い無く私だ。しかも、明らかに、ごく最近の私だ。
(どういうこと……?)
 鼓動が早くなる。おそるおそる、再生ボタンを押した。
《──驚かないで聞いて》
 画面の中の『私』が話し始める。声も、確かに私の声だ。
《信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです》
 咄嗟に、電源ボタンを押した。暗転する画面。驚いた表情の私が映って見えた。
(何……、どういうことなの、これ……)
 こんな映像、私は撮った覚えが無い。映っていたのは見るからに最近の『私』だ。もしこんなものを撮っていれば、忘れるはずが無い。私は下戸だから、酔って撮ったなんてこともあり得ない。
(じゃあ……何なの、これ……)
「パパ帰って来たから降りて来なさーい」
 階下から母の声が聞こえた。どうやら夕食らしい。しかし、私はそれどころでは無い。
「聞こえてるー?」
「ちょっと待ってー」
 ひとまず、震える手でカメラからテープを抜き出した。床にテープを投げ出す。
(これも、床の穴の影響なの……?)
 深呼吸をして、無理矢理落ち着こうとする。早く降りていかないと、母が呼びに来てしまう。今部屋に入ってこられるのは、何となく嫌だった。
 ふらつきそうになる足を必死に支え、私は階下へと向かった。
「遅い」
 食卓についた母が言った。父はもう食べ始めている。
「ごめん」
「あら、カメラ持ってきたの?」
「え?」
 どうやらカメラを手に持ったまま来てしまったようだ。言われて気が付いた。
「なになに、何が映ってたの?」
「ああ、ううん、まだ……、まだ見てない」
「何で? カメラ動かなかった?」
「パパが見てやろうか?」
 父が「こっちよこしてみろ」と手を伸ばす。
「いや、カメラは動いたよ。だいじょぶ」
「あ、そ」
「何でカメラなんて出してきたんだ? デジカメ壊れたのか?」
「あのね──」
 父の質問に母が答える。私はそれを上の空で聞いていた。
「何撮ったのか覚えてないのか?」
「……うん」
「テープ持って来いよ。一緒に見よう」
「パパ」
「良いじゃないか別に」
「……持って来る」
 私は手にした箸を置いて、立ち上がった。
 一人で見るのも、放置するのも怖い。ここは思い切って、父の言う通り一緒に見るのが良いかも知れない。床の穴は母には見えなかったが、このビデオは見ることが出来るかも知れない。
「ご飯食べてからにしなさいよ」
 母の言葉を無視して、私は二階に戻った。

「もう、お行儀の悪い」
 テープを持って戻ると、母は怒りながらサラダをつついていた。父はビールを飲みながら、早くも顔を赤くしている。父は弱いくせに酒好きだ。
「お、ほら、見せてみろ」
「後にしなさいって。あんたも、良いから食べなさい」
「うん……」
 母の言うことももっともだ。あまり空腹は感じなかったが、私は先に食事を済ませることにした。

「ごちそうさま」
「よし、じゃあ見てみるか」
 私が箸を置くと、父が機嫌良さそうに言った。
 母はもう洗い物を始めている。
「貸してみろ」
 テーブルの上に置いたカメラとテープを手に取り、父がセットを始めた。
「お、ちゃんとつくじゃないか」
 電源ボタンを押して言いながら、私の隣へと席を移動してきた。
 そして、再生ボタンを押す──。
《──今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います》
 小さなモニターの中で、再び『私』が語り出した。
 ……穴?
 今、穴と言ったか?
「何だ、何も映って無いじゃないか」
 父が言った。
「え?」
「ノイズだけだな。壊れてるのか? 古いからなあ」
「え、ノイズ……?」
 モニターの中の『私』はまだ何か話している。
 父には、見えないのか?
「何、やっぱ壊れてたの?」
 母がキッチンから洗い物を中断してやってきた。
「うん。砂嵐だけだ」
「あらほんと。テープがだめなんじゃないの? 他の入れて確かめてみたら?」
 モニターを覗き込みながら言う。
《──いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください》
 これが見えないのか?
 聞こえないのか?
 私はカメラに手を伸ばし、停止ボタンを押した。そして、テープを抜き取る。
「だめだったなあ」
 父が言った。
「後で昔のテープ出してみましょ」
 母が言った。
「うん……。そうだね……」
 私は震える手を必死に隠しながら言った。

 自分の部屋に戻り、テープを床に投げ出す。本当なら今すぐにでも捨てるか燃やすかしてしまいたかったが、それは出来ない。何故なら、私は聞いたのだ。『私』が言った言葉を。

《私は、その穴を塞ぐ方法を知っています》

   3

 床に放り出したテープとにらめっこをしながら、私はひとり考えていた。
 テープの中の『私』はこの床に空いた穴を塞ぐ方法を知っていると言った。塞ぐ方法がある、という事は、このまま放っておいても現状は良くならないという事だ。
 いったい『私』は何者なのだろうか。どうやってこのテープを、この世界へ送り届けたのだろうか。わからない。
 何も、わからない。
 ──。
 私はテープを手に取り、階下へと降りた。
 父はお風呂に入っているらしい。リビングでは夕食の片付けを済ませた母がひとり、ソファに座ってテレビを見ていた。
「ママ」
「お風呂ならパパ入ったばっかりよ」
「ちょっと来て」
「どこに?」
「良いから」
 私は母の手を掴み、立たせた。
「何、上? 虫でも出たの? ならパパに──」
「良いから来て」
 部屋へ戻ると、戸惑う母を横目にカーペットをめくった。
「何か、見える?」
 無意識に哀願するような口調で、私は訊いた。
「何、って……」
「床に、穴が見えない?」
「……あんた」
 私は以前にも、母にこの穴の事を話している。しかし、その時も母には何故かこの穴を見る事が出来なかった。今回も、見えると思って話したわけじゃない。
「良いの。見えなくても良いの。でも、信じて。ここにね──」
「……ちょっと、下で話しましょうか」
「ママ」
「最近、ずっと一緒にいるのに、少し会話が足りなかったかもね。……ごめんね」
「ママ、違うの、聞いて」
「……床に、穴が空いて見えるの?」
「うん」
「ママには、見えないわ」
「……うん」
「ママに……、どうして欲しい?」
 俯いた私の足下に、小さな水溜まりがぽつり、ぽつりと現れた。
「……床にね、穴が空いてるの。二ヶ月前くらいから」
「うん」
 私の肩に、ぬくもりを感じた。優しい、母の手だ。
「穴を覗くとね、異世界っていうのかな……、何だか不思議な世界が見えるの」
「うん」
「それでね、私怖くて、ずっと放っておいたの」
「穴はいくつ空いてるの?」
「七つ」
「そんなに?」
「最初は五つだったんだけど、増えちゃったみたい」
「そう」
「それで、ね……、今日、このテープあったでしょ?」
 私は握りしめたままのテープを母に見せた。
「これ?」
「そう、これがね、いつの間にか机の上にあったの」
「それで?」
「これ、パパが見ても何も映って無いって言ってたよね?」
「何か映ってたの?」
「うん」
「何?」
「『私』」
「あなた?」
「ううん……」
「……」
 母が子供をあやすように私の肩を叩いた。
「パパには話す?」
「……ううん」
 心配性の父の事だ、こんな話をしたら何を言い出すかわからない。
「夜にこういう話はするもんじゃ無いわ。また、明日ゆっくり話しましょ」
「……うん」
「じゃあ、私下に行くからね?」
「うん……」
「お茶入れるから、あなたも降りてらっしゃい」
「うん……」
 扉が閉まる音。俯いたままの私。
 私は、母に何を求めてこんな話をしたのだろう。
 こうなる事はわかっていたのに。
 でも……。
 何故だろう。
 少しだけ、勇気が湧いて来た気がする。

「よし」
 深呼吸をして気合いを入れると、すっと気持ちが落ち着いた。
 あの後、母と父とお茶を飲み、カメラを持って部屋に戻った。母と何か話そうかとも思ったが、やめておいた。思えば、先程の自分はパニックに陥っていたのだ。穴の事を相談したって、余計な心配をかけるだけだなんてわかりきっていた事だ。それなのに母に話したのは、ひとりで立ち向かわなくてはいけない現状から目を背けたかったからに過ぎない。
 部屋を暗くしベッドの上に座る。そしてカメラにテープをセットする。
 映像と同じで、音も私にしか聞こえないようだが、念のためイヤホンを挿した。
 もう一度、深呼吸をしてから再生ボタンを押す。
(おっと)
 いったん停止ボタンを押した。映像は途中から始まった。巻き戻さなくてはいけない。
 巻き戻しボタンを押すと、映像が早回しで動き出す。
 映っているのは、やはり私。私でない『私』。
(……化粧してるな、この『私』)
 服装もこんな伸びきった部屋着で無い。もしかしたら、この『私』は仕事を辞めていないのだろうか。同じ『私』なのに、何となく不公平を感じる。
 巻き戻しが終わる。私は改めて再生ボタンを押した。
 モニターの向こう側で、『私』が静かに話し始めた。

《──驚かないで聞いて。信じられないと思うけど、私は別の世界のあなたです。今あなたは、その床に空いた穴のことで困っているのだと思います。私の部屋にも数ヶ月前、あなたの部屋と同じように、その不思議な穴が現われました。……私は、その穴を塞ぐ方法を知っています。もしその方法が知りたかったら、机の向かいの壁に『OK』と書いた紙を貼り付けて下さい。穴を塞ぐ方法を教えます。いきなりこんな話をされて怖いかも知れないけど、心配しないでください。私も最初は怖かったけど、その穴が何なのか、どうすれば良いのかがわかれば、決して怖いものではないから。……それでは、お返事待ってます》

 ここで一度停止ボタンを押し、巻き戻し、もう一度映像を見返した。
(別の世界の……私)
 到底信じられないような内容だった。
 しかし、この穴、このビデオを見れば信じざるを得ない。

《……それでは、お返事待ってます》

 もう一人の『私』は穴の塞ぎ方を知りたければ、机の向かいの壁──つまりベッドの横の壁に『OK』と書いた紙を貼れと言っていた。という事は机の辺りからこちらを見ているという事だろうか。立ち上がり、部屋の明かりを点けた。そしてビデオを片手に机の方へと近付いてみる。間近に壁を良く見て、触ってみるが、こちらから見た限りは何もおかしなところは無いようだ。しかし、もしそこに穴でも空いているのなら、テープが机の上に落ちていたのも頷ける。

《……たぞ!》

(ん?)
 モニターの中の『私』の声が聞こえた。おや、映像はあれで終わりでは無かったのだろうか。椅子に座り、机に向かう。少し巻き戻して、再生する。

《よし! 良い感じに言えたぞ!》

 そこにははしゃぎながら椅子から降り、カメラへ駆け寄る『私』の姿が映っていた。
 思わず、くすっと笑ってしまう。
(ああ……、間違い無い。これ、私だわ)
 一気に親近感が湧いた。
 抽斗から白紙の紙を取り出し、太めのサインペンで『OK』と大きく書いた。そして机の上にあったテープを取って立ち上がる。
(この辺かな?)
 ベッドによじ登ると、机の真向かいに当たる壁に紙を貼り付けた。
(これで良いのかな?)
 ひとまず床に降り、立ち尽くす。
 ……何も、起こらない。
 見えていないのだろうか。
 机側の壁とベッド側の壁を交互に見比べる。
 見ているとしたら机側からか。私は部屋の真ん中に仁王立ちのまま、机側の壁をじっと見つめた。
 しばらくすると──。
(……ん? 何だあれ?)
 机から少し上、壁の一部に黒い点が見える。いつ現れたのだろう。
 じっと見ていると、それは徐々に壁の中から姿を現し始めた。
(うわっ。うわ、何、怖っ)
 ふいに、ぽとっと『それ』は机の上に落下した。
 思わず、硬直。
 どうやらそれは、丸めた便せんのようだ。
 おそるおそる手を伸ばし、便せんを手に取る。そして、開いて見る。そこには、こう書かれていた。

《お返事ありがとう。ごめんなさい、返事くれた後どうしようか考えてませんでした。明日にはちゃんとまとめて手紙送るね。心配しないでね。危険はないから。今夜はゆっくり寝て下さい。明日から一緒に頑張ろうね!》

 読み終わって、思わず吹き出した。
 ああ全く、情けないけれど、間違い無くこれは私だ。
 手にした手紙を綺麗に畳み、私はもう一度壁をよく確認した。こちらからも返事を送りたいが、やはり穴のようなものは見えない。
 仕方が無いので、壁に貼った『OK』の紙を指さして見せた。見えて、いるだろうか。意思の疎通は難しい。
 ……状況はますます奇妙に変化しているが、どこか安心したのか、あくびが出た。
 取りあえず『私』も言っているように、今夜はゆっくり寝るとしよう。
 ベッドに潜り込む。
 もしかしたら見ているかも、と思い『私』に向かって手を振った。
 これが夢でも現実でも、どちらでも良い。
 早く、穴が塞がれば良い。
 と、思った。
第十四話

   1

「よし」
 朝ご飯を食べ終わった私は、自分の部屋の床を見下ろし気合いを入れた。
 昨日『別の世界の自分』と接触(?)する事が出来た私は、この穴の向こうに広がる非日常的な世界に対して、どことなく吹っ切れたような気持ちでいた。
 自分の頭がおかしくなった、という考えはぬぐい去れない。病院へ行き、医師へ相談した方が良いのかも知れない。しかし、その前に自分で出来る事は試したいという、今まで一度も湧いてこなかったような闘志があった。
 カーペットを捲ると、穴の数は七つ。さて、どの穴から覗いてみようか……。
 今まで覗いた事がある穴は四つ。妖精さんの住む小屋、ピンク色のファンシーな部屋、洞窟、水中──。
 どうせなら覗いたことのないところからにしようか。
 私はその場に這いつくばると、すぐ足下にある洞窟の穴の、隣の穴へと顔を寄せた。心臓が高鳴るのは、恐怖からだろうか、それとも好奇心からだろうか。深呼吸をして、落ち着かせる。そして、ゆっくりと穴へ目を近付ける。
(……何も、見えないなあ)
 その穴の向こうには真っ暗な世界──いや、何処とも繋がっていないのだろうか。
(もしかして、他の穴もこうなってたりとか?)
 放置している間に異世界との接続が切れてしまったのだろうか。
 少し体の向きを変え、すぐ隣の穴を覗いてみた。
 するとそこにはいつかみた洞窟の景色が広がっていた。
(あ、大丈夫だ。じゃあ、何でだろう)
 やはり、真っ暗な世界なのだろうか。
 念のため、他の穴も確認してみる。
 今まで覗いた事のある穴からは、全て以前のままの光景が見えた。
 では、覗いた事のない穴に異変が起きたのだろうか。
 ベッドのサイドテーブルの横の穴。これは覗いたことがない。恐る恐る覗いてみる。
(あらー、ここも真っ暗だ)
 以前から真っ暗なのかどうかはわからないが、真っ暗な穴が二つもあるのは何だかおかしいような気もする。
 覗いていない最後の一つも確認する。
「おおっ」
 思わず声が出た。真っ暗な穴とは対象的に、そこは目映いくらいに真っ白な空間が広がっていた。
 目がちかちかするので、いったん顔を離す。
 さあて、いったい何からどう手を付けたら良いのやら……。

 その時、机の方からぽとっと小さな物音が聞こえた。音のする方へ目をやる。ここからは何も見えない。
 立ち上がって机へと近付くと、その上に小さく丸められた便せんが落ちていた。間違い無い『私』からの手紙だ。
 そっと拾い上げ、開く。ほんの少しだけ、手が震えた。
 便せんには──明らかに私の字で──こう書かれていた。

『昨日は準備不足でごめんね。
 知ってるかも知れないけど、穴の向こうにはこちらとは全く違った世界が広がっています。そして、穴の向こうの世界は、それぞれ何かしらの悩みを抱えています。その悩みを解決することが、穴を塞ぐ唯一の方法です。
 私は、あなたの部屋に空いた穴のうち、五つの穴についての解決法を知っています。解決するには順番も重要になるから、一つずつ教えるね。』

(五つ……?)
 どういう事だろう。
 あちらの世界とこちらの世界では穴の数が違うのか? こちらの世界の方が大変な事になっているとでもいうのだろうか。それは……、私がずっと放置し続けたせいなのだろうか。

『まずは穴についての基礎知識を伝えます。

 ・いつの間にか空いている。増えることもある。
 ・大きさは直径2センチくらいでまんまる。大きさは変化することもある。
 ・深さはひとさし指の第一関節よりちょっと深いくらい。奥まで入れるとちょっと痛い。
 ・縁はすべすべしている。指を掛けてぐいっとすると、拡がって中に入ることが出来る。(解決するまで帰って来れないから注意してね!)』

(中に、って……。えええ、まじで。解決法って……、もしかして向こうの世界へ行って何かするの? いやいやいや、無理でしょー、それは……)
 覗くまでだって2ヶ月以上かかったのだ。中に入るなんて、ハードルが高すぎる。
(『もう一人の私』はずいぶんチャレンジャーなんだなあ……。解決するまで帰って来れないとか、恐ろしすぎるでしょ。いやあ、『私』は私と同じ人間とは思えない。本当に私かあ?)
 便せんにはまだまだ穴についての情報が書かれている。私はもやもやする気持ちのまま、その続きへと目を滑らせた。

『・こちらからあちらを覗くことは出来るが、向こう側からこちらを見ることは出来ない。
 ・お互いの声や音も聞こえない。
 ・中に物を落とすことが可能。(でも危ないから絶対やっちゃダメだよ!)』

(……危ないから、って書いてあるってことは、やったのか? そしてその結果、何かが起きた、と?)
 便せんを読む前に感じていた闘志は何処へやら、私の心は不安でいっぱいになってきた。

『・中から物を持ち帰ることも可能。(これ、解決のための重要ポイントね!)
 ・穴の中の時間は、その穴によって流れる速さが違う。(今お仕事とかしてる? 気を付けてね!)』

 ニートの私には辛い質問である。
 聞いてくるということは、向こうの私も無職なのだろうか。それとも……。

『・穴の中とこちらでは、物理法則が異なる。(火とかは絶対に持ち込み禁止だからね!)』

 これも知っているということは、何かしら体験済みということか?
 どうせ書くなら、もっと具体的にどう危ないのか書いてくれれば良いのに……。

『・穴の中で私は不思議な力を使うことが出来る。(これはまた改めて教えるね)
 ・穴は私にしか見えない。(少なくともママには見えない。パパは未確認)
 ・穴の中から持ち帰ったものも、私にしか見えない。

 他にもあるけれど、重要なのはこれくらいかな。
 穴の世界の攻略法は次の手紙から書いていくね。

 最後に──、今私は机の少し上(机に登ってしゃがんだ高さぐらい)の壁に現われたヒビからそちらを覗いています。そっちからは見えないみたいだけど、もし良かったら、壁にポスターとか貼っておくと良いと思います。じろじろ覗いたりはしないけど、なんか、ちょっとヤだよね? たぶんそれで塞げると思うから。ただ、手紙が送れるように、ポスターは上部分だけを留めてね。

 それじゃあ、一緒に頑張ろうね!』

 手紙を読み終わった私は机の壁の方へと目をやった。
 ここから、こっちを見てる?
 ……いつから?
 もしかして、今も?
 恥ずかしいのと怖いのとで、体が熱くなったり冷たくなったりするのを感じた。
 だらだらごろごろしているところや、あんなことやこんなこと(って言っても別に何をしていたということもないが……)をしていたところを見られていたのか?
 ……まあ、今更焦っても仕方あるまい。相手は多少の相違はあれ『私』だ。手紙にある通りじろじろ覗いたりすることはないだろうし、最悪、見られたとしても他人に見られるよりはずっと良い。
(取りあえず、手紙の返事をするか……)
 机へと向かい、適当な紙に返事を書いた。
 書き始めると、だんだん子供のようにわくわくしてきた。
 異世界──パラレルワールドってやつだろうか──の自分とのお手紙交換。客観的に考えれば、まるで物語の主人公にでもなったみたいじゃないか。
 気持ちがのってくると、筆もすらすらと進む。
 あっという間に返事は書き上がった。

『お手紙ありがとう。
 段取りが悪いのは、どこの世界の私も同じだねえ(しみじみ)。
 色々教えてくれて助かる!
 後でよく読み返しておくね。

 穴が現われてから今まで、誰にも相談出来なくて辛かったんだ。
 怖くて、まだ一つしか覗いたことないんだけど、真っ暗でよくわからなかったし……。
 同じ私なのに、そっちの私は勇気あるね。
 助けてくれると、本当に心強いです。
 私も頑張ってこの穴を塞がないとね。

 最後に、自分相手に変だけど、一応自己紹介……的な?

 今仕事はしていません。
 そっちの私は仕事続けてるのかな?
 私は今年の始めに仕事を辞めてしまったので、今は恥ずかしいけどニートしてます。
 この穴を塞ぐことができたら、また仕事しようかな。

 ごめんね、ぐだぐだな手紙で(汗)。
 もっと色々話したいけど、それはまた今度……。

 では、次のお手紙待ってます!』

 取りあえず、誤字はないようだ。ちょっと馴れ馴れしいような気もするが、相手は『私』だ。問題無いだろう。
 ちょっと考えて、机の上のブックエンドに手紙を貼り付けた。そしてそれを壁の方へと向ける。
(これで、向こうから見えるかな?)
 しばらくすると、壁から突然にょっきりと丸めたメモ用紙が生えてきた。
(おおっ! びっくりした。うわあ、すごい、やっぱホントに繋がってるんだなあ)
 変に感心しながら、机の上に落ちたメモ用紙を広げる。するとそこにはこう書かれていた。

『ごめん、もうちょっと壁に近付けて』

 なるほど。
 ブックエンドを壁の方へ少し近付けた。これで大丈夫だろう。
 このままここで待っていても仕方がないので、ひとまず机から降りると、そのままベッドに飛び込んだ。何だか、妙に興奮している。
(いやあ……すごいなあ。これ、夢じゃないんだよね?)
 手に持っていた手紙を再び開いてみる。
(これも、きっとママには見えないんだよね……。あれ? 映像は見えなくても、ビデオテープ自体は見えてたよね……。手紙の場合は、文字だけが見えないとかかな? うーん、いまいちルールがわからん)
 紙がカサカサと手の中で音を立てる。触れた感触は、間違いなく手紙がここに『ある』んだと主張していた。
 何となく、自分の頬に触れてみる。
 上気した肌は温かく、私が確かにここに『いる』んだと、教えてくれていた。

   2

 私は、悩んでいた。
 今、私の目の前には一通の便せんがおいてある。
 先程『私』から送られてきたのだが、その内容はこうだ。

『こんにちは。
 書き出し、ちょっと悩むね(苦笑)
 
 さっきは穴を塞ぐ方法を教えるって言ったけど、ちょっと色々考えて、方法を直接教えるんじゃなくて、アドバイスだけを伝えていくことにしました。
 いじわるとかそういうんじゃなくて、私はその不思議な世界を観察して、悩んで考えて、そして勇気を出して行動して……その結果すごく成長出来たから。
 だから、あなたにも、そうして欲しいと思ったからです。
 この、普通はぜっっったいに経験できないような不思議な出来事を、楽しんで欲しいと思ったからです。

 不安に感じるかも知れないけど、大丈夫。
 同じ『私』だもん。
 私に出来たんだから、楽勝だって!

 それでは、最初のアドバイスね。
 まずは、怖がらずに全ての穴の中をよく観察してみてください。(安易に中には入らないようにね!)

 もしも何か迷ったりしたときは、またお手紙ちょうだいね!
 時々、そっちを覗くようにするから。

 ごめんね。解決法を教えるって言ったのに。
 でも、絶対後悔はしないはず。

 またお手紙書きます。
 じゃあ頑張ってね!』

(これは……、困った事になったぞ)
 見捨てられた、とまでは思わないが『攻略本を片手にさくっとクリア』みたいな流れをイメージしていただけに、どうにも前向きな気持ちでは捉えることが出来ない。
(えー、マジかあ……。いや、うん、『私』の言いたいことはわかるんだけどさ。うーん……。あー、自分でやらないとダメですかあ?)
 ここで「そんなこと言わないで教えてよ」と返事を書けば『私』は塞ぐ方法を教えてくれるかも知れない。しかし、自分相手とはいえ、そんなのは情けなさ過ぎる。私にもささやかなプライドはある。
 穴の方をちらっと見る。今はカーペットに覆われていて見えないが、穴はまだそこにあるだろう。捲って確認。うん、まだある。
 深呼吸をしてから穴を覗く。ここは、何の穴だっただろうか……。
 穴の向こうにはピンク色の部屋が広がっていた。なるほど、ここはファンシー部屋の穴だったか。
 少し、じっくり覗いてみようか。
 中の様子を観察する。
 壁や床はでこぼことしていて、色は全面薄ピンク色。素材は……、何だろう。石ほど硬そうには見えない。部屋の中には家具と呼べそうなものは何もない。もしかしたら、部屋では無くて単なる四角い空洞なのかも知れない。壁に出入り口のようなものや窓も見えない。ということは、やっぱり部屋──住空間ではないのだろうか。部屋の中は明るい。壁がうっすらと光っているようだ。壁自体が発光しているのか。それとも天井に照明がつけられているのだろうか。この位置から天井の様子はわからない。部屋の広さは、死角になっている部分もあるのではっきりとはわからないが、そこそこ広そうだ。
(……何だか、ちょっと楽しくなってきたかも)
 今までは得体の知れない恐怖が先に立ってしまっていたが、『私』の「怖がらないで」という言葉が妙な勇気を与えてくれている。よく考えれば、確かにこんな不思議な体験、しようと思って出来るものではない。楽しまないのはもったいないかも知れない。
(ん? あれはなんだ?)
 その時、ファンシー部屋の隅に何か動くものが見えた。
 それは、全身をピンク色の毛で覆われた生物(?)だった。ふるふると小刻みに震えながら、部屋の真ん中へと移動している。手足や顔のパーツは見てとれない。フォルムだけ見れば、子供番組でお馴染みの赤い雪男の色違いといった感じだ。
(おおお、すごい! 生き物発見!)
 一気にテンションが上がる。
 山小屋風の部屋の中に妖精さんを見つけた時はただただ驚いたものだったが、今回はワクワクしてたまらない。
(うん、これなら楽しんで出来るかも)
 私は穴から顔を離し、壁の向こうの『私』へとガッツポーズを決めて見せた。
(女は度胸、ってね)
 根が楽観的な私は、あっという間にやる気になったのだった。

 その後、小一時間観察を続けた私は『私』に返事を書いていなかったことに気付き、慌てて机へと向かった。そして書いた手紙をブックエンドに貼り付け、壁の方へ向けた。

『アドバイスありがとう!

 ずっとこわくて放置しちゃってたけど、あなたからの手紙を見ていたら、何だか急に穴の向こうの世界が気になってきちゃいました。
 今はわくわくしています。
 あなたにできたなら、私にもできるよね。
 だって、同じ自分だもん。
 では、頑張ります!

(もしわからなくなったら……その時は助けてね)』

 勢いで「助けてね」の後ろにハートマークを付けてしまったが、冷静になって考えると『自分』相手の手紙にハートマークはちょっと気持ち悪いかも知れない。
 そんなことを考えていると、壁から小さな便せんがにょきっと生えて机の上に落ちた。
 拾い上げて、手紙を開く。
 そこには『頑張ってね!』と一言。
 私は再び壁に向かってガッツポーズを決めて見せた。

 ──さあ、こうなったらまごまごしてはいられない。
 ノート片手に、私は穴の詳細な観察を進めることにした。
 さて、どの穴から始めようか……。
『私』からの手紙には、穴を塞ぐには向こうの世界の悩みを解決すればいいと書いてあった。
(悩み……か)
 ファンシー部屋のことを思い出す。あそこにいた、あのピンク色のモップみたいなやつに、いったい何の悩みがあるというのだろうか。いや、見かけによらず、我々人間よりずっと高尚な生き物なのかも知れない。だとしても、私にモップの悩みがわかるだろうか。手紙にはお互いの音は聞こえないとも書いてあった。声が聞こえたところで意思の疎通が取れるとも思えないが、こうして観察をするだけで、果たして本当に彼等の悩みなどわかるのだろうか?
(……やっぱり、不安だな)
 とはいえ、今更『私』に助けを求めるわけにはいかない。それに、『私』も同じルールの下、この穴を塞ぐことが出来たのだ。やって出来ないはずがない。
(取りあえず、簡単そうなところからにしてみるか)
 私はベッドの足下の方へと移動した。確かこの穴は妖精さんのいた穴だ。妖精さんなら、人間と姿形も近いから、見ただけでも悩みの推測は出来そうだ。
 よし、と気合いを入れ、穴に顔を近付ける──。

「ああ、疲れたあ!」
 そう言って、勢いよくベッドに飛び込んだ。
 あの後、頑張って観察を続けた私だったが、一時間もすると目が痛くなり、頭痛やめまいがしてきたので一度休憩することとした。これは、慣れるまではなかなかの重労働になりそうだ。
 しかし、頑張った甲斐もあって、わかったことは幾つかある。
 まず、あの山小屋には二人の妖精さんが住んでいるようだ。一人は男の子っぽい容姿と服装、もう一人は女の子っぽい容姿と服装をしている。恋人同士か、はたまた夫婦か。どちらにせよ、羨ましいことだ。
 そして、どうやらあの世界はずいぶんと寒いようだ。二人は寄り添うように椅子に座っていた。部屋の中には暖炉のようなものも見えたが、火は入っていないようだった。もしかしたら火種が無いのかも知れない。マッチでも落としてあげれば解決するのでは、とも思ったが、向こうにものを落とすことは危ないから絶対にダメだと『私』が言っていた。浅はかな行動は避けるべきだろう。
 ならば、どうやって向こうの世界を暖めれば良いのか……。『私』は、むこうの世界からものを持ち帰れる、ということが重要だと言っていた。と、いうことは──。
(他の穴に、解決のヒントがあるのかな?)
 私は疲れた目を擦ると、再び穴の観察を始めることにした。
 道のりはまだ、長そうである。

   3

 観察を始めて二日。私はひとつの決心をした。
(大丈夫。『私』に出来たんだから。大丈夫、大丈夫)
 七つの穴をじっくり観察した結果、三つの世界についてはその悩みの検討がついた。
 まず、妖精さんの穴。あの世界の悩みは『寒さ』だろう。いつ覗いても、妖精さん達は寒さに震えており、暖炉の方を見つめてはため息をついている。何らかの方法であの世界を暖めることが出来れば、解決出来るだろう。その方法は、まだわからないが……。
 次にベッド脇にある、真っ暗だと思っていた穴だ。あの世界には、驚くべきことに、植物人間のような生物達が暮らしていた。植物人間、というよりはほぼ樹木そのものだが、彼等は真っ暗な世界の中、僅かな光を頼りに暮らしている……ようだ。おそらくこの世界の悩みは『光』。これも何らかの方法で世界に光をもたらすことが出来れば、解決出来るに違いない。
 最後に水中の世界。どうやらここは水槽の中らしい。水槽の中にはピンク色の尻尾のような海草が揺れている。水槽の外には人影が見えるが、よく観察すると、このピンクの尻尾を見て怯えているような素振りだ。だからこの世界の悩みは『ピンク色の尻尾』……。これが何だかはわからないが、とにかくこれを何らかの方法で取り除いてあげれば良いに違いない。
(何らかの方法、ねえ……)
 どの世界についても、具体的に解決方法がわかっているわけではない。しかし、このまま観察を続けていたところで、さらなる情報が得られるとは思えなかった。
 そこで、思い切って穴の中へ入ってみることにしたのだ。
 手紙には、穴の中の世界では不思議な力が使えると書いてあった。それがどんな力なのかは見当もつかないが、きっとその力でずばっと解決出来るのだろう。
(さて、どの穴から行けば良いかな)
 解決するには順番が重要と『私』は言っていた。そして、中に入ったら解決するまで帰って来られないとも言っていたし、穴の中の世界はこちらと時間の進む早さが違うとも……。
(……やっぱり順番だけでも聞こうかな)
 一応、母にはちょっと遠出をしてくると言っておいた。場合によっては泊まるかも、とも言っておいたので、もしすぐに帰って来られなかったとしても大丈夫だろう。たぶん……。
(……『私』はどうして解決する順番がわかったんだろう。もっとよく観察したらわかるのか? いや、何となくそれはない気がする。ってことは、偶然正しい順番で穴の中に入れたってこと? ……あ、もしかして)
 私は妖精さんの穴に近付き、四つん這いになった。中を覗くと、部屋の中には誰もいないようだった。
 呼吸を整え、お腹に力を入れて気合いを注入。
(よし)
 そっと穴の縁に指をかけ、おそるおそる穴を拡げようと力を入れた。
 しかし──、
(やっぱり……。びくともしない)
 念のため、他の穴でも試してみる。
 どれで試すか迷ったが、思い切って近くの穴──洞窟の穴に指をかけてみた。
 やはり、びくともしない。ほっと胸を撫で下ろす。
(なるほどね)
 おそらく、穴の向こうへは解決する順番でしか行くことが出来ないのだ。あるいは解決出来る準備が整わないと行けないのかも知れない。
(ってことは、何もびくびくせず、拡げて拡がった穴に入れば良いってことか!)
 あくまで推測の域は出ないのですっかり安心は出来ないが、少しだけ気持ちが前向きになった。
(よし、ひとつひとつ入れるか試してみるか)
 さて、どの穴から試そう。この場合、植物人間の穴か水槽の穴から試すのが妥当だろう。
(んー……)
 少し悩んだ結果、私は植物人間の穴から試してみることにした。
 立ち上がり、ベッドの向こう側へと向かう。
 その時、
(……あれ?)
 部屋の真ん中から机寄りに空いている穴──真っ暗なだけの穴だ──に何か違和感を覚えた。近寄って見てみる。どことなく……、他の穴よりも大きい気がする。
 部屋の中を見渡し、他の穴もよく見てみる。間違いない、この穴だけ少し大きい。
 前回覗いた時には、大きさについては何も感じなかった。
 そういえば『私』からの手紙に、穴の大きさは時々変化することがあると書いてあった。
 床に這いつくばり、穴に顔を近付けてみる。
 すると──、
(え! うそ、や、だ……)
 突然、勝手に穴が大きく拡がり、私の体を飲み込んだ。
 ふ、と重力から解放された体は、闇の中へと吸い込まれて行った。

 ──。
 ────。
 ──私は、今まで経験したことのない浮遊感に包まれていた。
 目を開けているはずだが、何も見えない。音も、何も聞こえない。
 暑さ寒さといった感覚もなく、「死んだらこんな感じなのかな」と何となく思った。
 しばらくすると、爪先に何か硬い感触。地面だろうか。ほどなく両足に体重を感じた。
 しかし、何も見えない。
 上から見えていたのと同じように、やはりこの世界は真っ暗なのか。
(どうしよう……)
 鼓動が早くなる。
 いくら目を凝らして見ても、何も見えない。
(どうしよう、どうしよう)
 恐怖から体が硬直する。
『私』が言っていた『不思議な力』とは、どうやって使えば良いのだろう。
(やばい、やばい)
 暑くものに、汗が噴き出してきた。額をつたった雫が、目に入る。
 ごしごしと、服の袖で目を拭った。
 再び目を開いたが、やはり、何も見えない。
 私は、その場にしゃがみこんだ。立っているのも怖かった。
(……)
 後悔と自責と同時に、行き場のない憤りを感じた。
 私の推測が正しければ、この世界に来られたということは、現段階で悩みを解決することが出来るということのはずだが……。何も見えなくては、何も出来ないではないか。
(どうしたら良いの……)
 おそるおそる手をのばし、足下に触れてみた。硬い、ただ平らなだけの地面。地面というよりは、まるでタイルのような感触だ。思い切って、這うように進んでみた。数センチずつ移動し、そこに地面があることを確認していく。もし落とし穴でもあれば、取り返しのつかないことになるだろう。
(誰か!)
 叫んでみたが、それが音となることはなかった。
(誰か……)
 膝を引き寄せ、うずくまる。
 何も聞こえない。
 何も見えない。
 どうすれば良いかもわからない。
 味わったことのない恐怖が、闇が、ゆっくりと心を蝕み始めていた。
(死んだら、こんな感じなのかな……)
 と、また思った。
14, 13

  

第十五話

   1

 ──心臓の音がうるさいな、と思った。
 鼓動に、血の巡る音。暗闇の中感じるものは、鼓膜を直接震わせる、それくらいだった。
 どれくらいこうしているのだろう。携帯を持って来れば良かった。そうすれば時間もわかるし、もしかしたら明かりだって……。
 いや、やめよう。こんな『たられば』は意味がない。
(助けて……)
 呟いてみるが、声にはならない。
(帰りたい……)
 声帯が震える感覚すらない。ああ、きっとここには空気がないのだ。しかし、息苦しい感じはない。どうなっているのだろうか。
(誰か……)
 その時、ふと目蓋に温もりを感じた。涙、だろうか。
 いや、何かが──誰かが触れている?
 私はいつの間にか閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。
 ──見える。
 何が、起こったのだろうか?
 はらりと垂れた前髪が、両手で抱えた震える膝が、そして──誰かの影が見える。
 誰?
 私を助けに来たのだろうか。
 それとも……。
 私はゆっくりと顔を上げた。
 そこには、『私』が立っていた。
 鏡?
 いや違う。
 これが、もう一人の、『私』か。
 視線と視線が重なる。
『私』はこちらへ手を伸ばし、私の耳と口にそっと手を当てた。
 何の意味があるのかと考えるよりも早く、その理由は判明した。
「助けに来たよ」
 声、だ。声が聞こえた。
 そう思った瞬間、大量の涙があふれ出した。
「──」
 私は声を上げて泣いた。
 その声もはっきりと聞こえる。
 良かった。
 助かったんだ。
 私……、私……。

 私が泣き止むのを待って、『私』が口を開いた。
「お待たせ」
 その言葉にまた泣きそうになった。
「怖かったよう……」
 袖で涙を拭く。
 改めて『私』の顔を見ると──当然なのだろうが──私と全く同じ顔だ。体型も、服の上から見る限りほとんど変わらないように見える。
(何だか……、不思議)
 一卵性双生児とは、常にこんな気分なのだろうか。
「ごめんね。ここ、私も知らないところなんだよね。もう少し、教えてあげれば良かった」
 申し訳なさそうに『私』が言う。
「ううん。不用意に入り込んだ私が悪いんだよ。でも、ほんとに怖かった……」
「もう安心だからね。一緒にここから出よう」
「うん。あ、ねえ、今のってどうやったの?」
「今の、って?」
「目、見えるようにしてくれたでしょ?」
「ああ、そのことね。それなら……、ええっと何て言ったらわかりやすいかな」
「何となくでわかるよ、たぶん。『私同士』なんだから」
「たしかに。わかりにくかったら言ってね」
「うん」
「えっとね、例えばこうやって目をこすると──、目が良くなるの」
「良く?」
「いや、違うな。見えなかったものが見えるようになるの」
「さっきみたいに?」
「そう、さっきみたいに。で、例えば足をこすれば──」
「すごい速く走れる?」
「疲れにくくなったりとかね」
「すごいね、私。そんなこと出来るんだ」
「他にも色々出来るから、試してごらん」
「私にも出来るかな?」
「もちろん。絶対出来るよ」
「わかった。覚えておくね」
 笑って答えると、『私』もにっこり笑ってくれた。
 自分の表情をこんなにまじまじと観察したことはなかったが……、もしかしてなかなか可愛いんじゃないか? 私。……なんてね。
 あんまりじろじろ見るのは、自分相手とはいえよそう。
『私』がその場に座り込んだ。
 私も倣って腰を下ろした。
「はじめまして」
『私』がちょこんと頭を下げた。
「はじめまして」
 私もぺこりと頭を下げる。
 声も一緒だから、目をつぶったら独り言みたいに聞こえるだろう。
「私達って、どれくらい同じなんだろうね」
 これは私。
「うん。少し少し違うみたいだね」
 これは『私』。
「隣同士の世界だし、ほとんど一緒なのかな?」
「SFとかだとそうだよね」
「でも、私は穴を放置しちゃったから……」
 きっと私達の世界を決定的に分かつのは、その点だろう。
「大丈夫。まだ間に合うよ」
『私』が明るい声で言った。
 それから立ち上がり、私に手を差し伸べる。
「行こう。この世界を二人で救おう!」
 世界を、救う。
 その言葉の響きに、私の胸がとくんとはねた。
 不安や恐怖は、もうほとんど感じない。
「……うん!」
 私は『私』の手を取り立ち上がった。
 そして、手を繋いだまま歩き出す。
 前を行くのは『私』。もうこの世界を救う方法を見つけたのだろうか?
 改めて、周囲を見渡してみる。
 真っ暗だった世界は、今はもう遠くまで景色が広がって見える。
 私は「まるで古いコンピューターゲームのような景色だな」と思った。
 真っ暗な中に深緑のグリッド線が縦横無尽に走っている。その線は1メートル四方の格子状になっていて、私の足下に凹凸なく広がっている。今のところ、壁のようなものは見えない。上を向いても同様だ。天井は見えない。私達はただ果てなく広がるグリッド線のタイルの上を歩いている。
「で、どうやって救うの?」
 しばらく歩いてから、私は『私』にたずねた。
「ええっとそれは……ごめん。まだわかんない」
 予想外の答えに私は思わず思い切り驚いた表情をしてしまった。
 いけない。
 危険を冒してまで助けに来てくれた相手に対して、過度な期待は逆に失礼だ。
「そっか……」
 私はうまい返事が見つからず、黙ってしまった。
『私』も何だか申し訳なさそうに黙って歩いている。
 自分相手に気を使うのも何だかおかしな話だが、こうして黙っているのは気まずい。
 何か話題を──、と思ったその時、足下に何か違和感を覚えた。
「ねえ、何か感じない?」
「何か、って?」
 振り向いた『私』が首を傾げる。
 感じないのだろうか?
 いったん足を止めてみる。
 ──気のせい?
 ……いや、違う。
「足下に……あ、ほら、何か振動してない?」
「振動……」
 話ながら再び歩き始める。
 振動は進むにしたがって、どんどんと大きくなっていった。
『私』もはっきりわかったようで、先を行くスピードが少しずつ速くなっていく。
 しばらく歩くと、私達二人の前に振動の原因である物体が、その異様な姿を現した。
「これは……」
『私』が驚いた表情で立ち止まる。
 隣に並んだ私は、口を開けたままそれを見上げた。
「すごい……おっきい……」
 それは地面に突き刺さり、極めてゆっくりと回転する巨大なドリルだった。
「すごい……すごいすごい!」
 私は思わず大きな声で言った。
 あまりにも現実離れした光景に、ただ無邪気に心が弾んだ。
「すごいね! ねえ、これって現実なんだよね?」
「もちろん。夢じゃないよ」
『私』がにっこり笑って答える。その表情は何だか姉か母親のような感じだったが、嫌な気はしなかった。
「わあ……ゲームの中にいるみたい……」
 私はこの世界に来て初めて『来て良かった』と思った。
 すごい。
 すごいすごい。
 心の中で何度も繰り返した。
 こんな凄い世界をずっと放置していたなんて、私は何てバカだったんだろうか。
「ねえねえ、これをどうにかすれば良いのかな?」
 いつの間にか一歩後ろに下がっていた『私』にたずねた。
 はしゃぎ過ぎて引かれてしまっただろうか?
 少しだけ、反省する。
「これはねぇ──、よし。じゃあ色々試して見てごらん」
 悪戯っぽく笑って『私』が言った。
 なるほど。
 せっかく『先輩』と一緒なのだから、色々試して失敗してみるのも良いだろう。
 失敗しても、きっと『私』が助けてくれる──だろう。たぶん。
「あ、危ないかも知れないから、触ったり不用意に近付いたりはしないようにね」
「う、うん。わかった」
 危ない、と言われると躊躇ってしまうが、ひとまずじっくりとこのドリルを観察してみることにした。
 うーん……。
 でかい。
 うちの家よりも大きい。
 高さだけではなく、太さもすごい。
 てっぺんの方は平らになっているようだが、小さな公園くらいの広さはありそうだ。
 その反対側──ドリルの先っぽは地面に突き刺さっている。角度から見るに……、たぶん2、3メートルくらいは刺さっているのではないだろうか。
 回転するスピードはずいぶんとゆっくりだ。このペースじゃ一回転するのに一時間はかかるだろう。
 ふいに、背後から笑い声が聞こえた。
 振り向くと『私』がくすくすと笑っていた。
「わ、私なんか変なことした?」
「ううん、違うの──」
 一歩前に出て、私と並んでドリルを見上げる。
「楽しくて」
 そう言った『私』の目は、何だかきらきら輝いて見えた。
 私も今、同じような目をしているのだろうか?
「確かに、ほんとすごいね」
「すごいねえ」
 二人して、しばらくドリルを見上げていた。
 私は改めて、『この世界に来て良かった』と思った。

   2

 あれから数分。
 観察を再開した私の頭の中に『私』の声が過ぎった。

『他にも色々出来るから、試してごらん』

「──あ、もしかしてこれを小さくしたりって出来るのかな?」
 私が声をあげると、『私』は意地悪そうに笑って言った。
「さあて、どうでしょう」
「正解でしょ? 態度がわかりやす過ぎるよ」
 うーん、さすが『私』。嘘が下手なところもそっくりだ。
「よし、じゃあやってみようかな」
「──ちょっと待って」
 ドリルに向かって両手を広げた私を『私』が呼び止めた。
 振り向くと、『私』はむつかしい顔をしてこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「あのね、たぶん、小さくするのが正解だと思うの」
「それで?」
「うん。それで、小さくしたら……この世界は救われました、って感じになるのね」
「そうなんだ」
「あ、いや、別に何が起こるわけでもないかも知れないけど……とにかく、たぶん小さくしたら終わりなの」
「小さくしたら、終わり……それで良いんじゃないの?」
「良いんだけど……」
 何が言いたいのだろうか。この世界を救おうって、さっき言ってたばかりなのに。
『私』が少し躊躇いながら口を開く。
「そうしたら……来た時みたいに体がふわっとなって、部屋に戻されちゃうんだよ」
「強制的に?」
「強制的に」
 ──なるほど。そういう事か。
「そうしたら、お別れ、だからさ……」
 うん。やっぱりそういう事だった。
「ヒビを通って、私の部屋には来れないの? あれ、そもそもどうやってここに来たの?」
「ヒビを通って来たんじゃないの。拡げようと思ったんだけど、出来なくて……。それでどうしようって思ってたらね、床に──穴が増えてたの」
「ひとつ?」
「ううん、ふたつ。ここの世界の穴と、もうひとつ」
「どうしてこっちの穴だってわかったの?」
「どうして? うーん……、勘、かな」
「すごーい」
「いやいや、賭けだったんだよ。──それでね、穴の中に入ったら、その世界にもヒビがあって、そこを通ってこっちに来たの」
「そっちのここの世界と、こっちのここの世界との間にもヒビがあったってこと?」
「そう。よくこんな説明でわかるね」
「私だもん」
 お互いに、くすっと笑う。
 しかし、すぐに表情を暗くして『私』が言う。
「……たぶん、これで部屋に戻ったら、壁のヒビも消えると思うんだ」
「お別れ……」
 まるで、兄弟と、親友と永遠に引き裂かれるような気持ちだった。
 それは『私』も同じらしい。
 さっきまでの楽しさは何処へやら、二人は黙り込んでしまった。
「──少し、お話ししよっか」
『私』が言った。
「もちろん良いけど……ドリルは? 早く何とかしなくて大丈夫なの?」
 お話しするのは大賛成だが、このまま放っておいて大惨事になったら大変だ。
「うん、たぶん、少しくらいなら」
 根拠はないが……、まあ『私』が言うのだから、大丈夫だろう。
「じゃあ……取りあえず、座る?」
 私の提案に『私』は頷いてこたえた。
 二人でその場に腰を下ろす。何だか、ふわふわとした奇妙な感触だった。

 それから二人で色々なことを話した。
 色々と言っても、ほとんど違いのない『自分同士』。お互いの世界にもっと違いが無いか、間違い探しのような会話だった。
 くだらない会話と言われればそれまでだが、楽しかった。
 しかし、話題がお互いの友人関係についてになった時、それまで笑顔だった『私』の顔が突然曇った。
「……どうしたの?」
「ううん、何でも──」
 言葉とは裏腹に、何か言いたげな様子。言いたいけど言えない、そんな表情だ。
 誰かとケンカでもしたのか?
 私はあえて何も言わず、『私』が口を開くのを待った。
 何度か躊躇う仕草を見せてから、『私』は話し出した。
「……あのね、私、友達……いなくて」
「え……それって、どういう……」
 予想外の展開だ。
 私には、友達と呼べるような人間が幾人かいる。ちょうど今名前をあげて『私』に話したところだった。もしかしたら少しくらい顔ぶれが違うかもとは思ったのだが……。
「……今名前あげてくれた子達と、私、もう連絡取ってないんだ」
「どう、して?」
 どうして、としか聞きようがなかった。
 ひきこもり状態の私にとって、友人達は外の世界と繋がるための大事な存在だ。彼女達(残念ながらボーイフレンドはいない……)がいなかったら、私の生活はもっと自堕落なものに成り下がっていただろう。
 ほとんど変わらないと思っていた私と『私』の世界に、こんな大きな差があるなんて……。本当に、予想外だ。
「どうしてだろう……。自然消滅っていうのかな? 私から積極的に連絡取ろうとしなかったからかも知れないけど……」
「そう……そうなんだ……」
 何と返事したら良いかわからず、思わず黙ってしまう。
 いけない。
『私』が私を助けに来てくれたように、私も『私』に何かしてあげたい。
「……じゃあさ、連絡してみれば良いんじゃない?」
 悩んだ挙げ句、私は一番シンプルな方法を提案してみた。
「……へ?」
「だってさ、前は仲良かったんでしょ? それとも……最初から仲悪かった感じ?」
「う、ううん。学校にいた時とか、会社にいた時とか、仲良く、してたよ」
「じゃあ大丈夫だよ。久し振りー、って連絡してみなよ。連絡先、わかる?」
「あ、ええと……高校の時の子は、どうかな……」
「会社の子は?」
「あっちがアドレス変えてなければ」
「私の方の世界では、あの子、ずっとアドレス変えてないから、たぶん大丈夫じゃないかな? 元の世界に戻ったら、さっそくメールしてみなよ」
 我ながら、なかなか良いアドバイスではないだろうか。
 いや、アドバイスなんて大げさなものではない。私に出来ているのだから、『私』だって出来るはず。後はただ背中を押してあげれば良いはずだ。
「あのさ……友達いない、って……ゼロってこと?」
 これだけは聞いておこうと問いかけた。
 少し悩んでから『私』は言った。
「ううん。ゼロでは、ないよ」
「そっか、良かったあ」
 良かった。
 さすがにゼロからのスタートでは大変だろうが、どうやら『私』も人付き合いが苦手というわけではないようだ。
「そんなに安心しなくても」
 口をとがらせて『私』が言う。
「するよお。他人事じゃないもん」
「確かに。間違いなく、他人ではないよね」
 どちらともなく、ぷっと吹き出した。
「私、帰ったらメールしてみるよ」
 ようやく笑顔になった『私』が言う。
「うん、うん。あの子、話してみるとけっこう気が合うよ」
「ほんと? でも、いきなり久し振りってメールして、びっくりしないかなあ」
「驚くに決まってるじゃん。もちろん、良い意味でね」
「そうかな」
「大丈夫だよ。久し振りならよけい、話題にも困らないじゃん」
「そうかも」
「そうだよ」
「あ、ねえ」
 ふと思って口を開いた。
「なに?」
「友達ゼロじゃないって言ったけど、その友達って、誰なの?」
「ああ、それは──」
『私』が言いかけたその時、突然、目の前のドリルが回転のスピードを増した。
 お尻の下に感じていた振動が強くなる。
「わ、わ! これ、大丈夫なの?」
 慌てて立ち上がる私と『私』。
「ええっと……わかんない!」
「小さくすれば良いんだよね!」
 私は叫んで、両手を開いた。
 ……で、どうすれば良いんだ?
「そう! そのまま、その手を──」
「その手を?」
「え……えい、ってやって!」
「わかった!」
 何だかよくわからないが、私は「小さくなれ」と念じながら、拡げた両手の距離をすっと狭めた。すると、その手の動きに合わせて、ドリルはみるみる縮んでいった。どうやら正解だったらしい。
「やったあ! ねえ、これで良いんだよね?」
「うん、やったね!」
 私達はハイタッチでお互いの健闘を讃えた。
「ドリル、どうなったかな?」
 小さくなったドリルは穴の中へと落ちて行ったのが見えた。
 二人でおそるおそる穴の縁に近付き、中を覗き込む。
 穴の一番深いところに、親指大まで縮んだドリルが落ちていた。
 転ばないように気を付けながら、穴の中へと二人手を繋いでゆっくり降りる。
「触っても大丈夫だよね?」
「止まってるみたいだし、たぶん」
 転がっているドリルをつまみ上げた。
「──あ、大丈夫そう」
 しばらく持ったまま硬直していたが、何も起こらない。
 よかった……。
 その時、ふいに私の体を光が包んだ。
 ふわっと浮き上がる感覚。
『私』の方を見ると、同じく淡く発光しながら宙に浮いている。
「ねえ、これって──」
 私の声に頷く『私』。
 こんなにすぐに、帰されてしまうのか。
「これ、ちょっとタンマって出来ないの?」
『私』は首を振って答えた。
 どうしよう。
 まだ、全然話し足りないのに……。
 ああ、ダメだ。
 どんどん体が……。
 何か……、何か言わなくちゃ……。
「ありがとう!」
「ありがとう!」
 二人の声が重なり、私達は思わず笑ってしまった。
 光が視界を白く塗り替えていく。
(またね!)
 最後にもう一度叫んだが、その声はもう音にはならなかった。

   3

 ──気が付くと、ベッドの端に腰掛けていた。
 部屋の中を見渡す。
 見慣れた部屋。
 夕日に染まった、私の部屋だ。
 もしかして『私』の部屋では、と一瞬考えた。
 しかし、部屋の中には間違いなく私一人しかいなかった。
 ふと、おしりの下にチクリとした感触を覚えた。
 何だろうと手を入れると──、
(もしかして、これって……)
 それは小さくなってはいるが(あの有名なとんがりお菓子くらいの大きさだ)、紛れもない、あのドリルだった。
(くっついて来ちゃったんだ)
 そういえば『私』が、向こうの世界から物を持って来る事が出来るとか言ってたっけ。
 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。
 慌ててドリルをポケットにねじ込んだ。少し、痛い。
「あんた、いるの?」
 ママの声だ。
「あ、うん、いるよー」
 私の返事を待たずに、扉を開けて母が入って来た。
「あんたいつの間に帰って来たの?」
「え、と、今」
「出掛けるのは良いけど、あんた『行って来ます』とか『ただいま』とか言いなさいよね」
「うん。ごめん」
「何処行ってたの?」
「それは……」
 しまった、言い訳を考えて無かった。本当の事を言ってもまた心配させてしまうし……。何か、心配させないような理由を──。
「あの……、ちょっと……、仕事を探しに……」
「……仕事?」
 あ、しまった。
 母の眉がぴくりと上がる。
「──ふうん」
 それは、色々な言葉を飲み込むような『ふうん』だった。
「ま、まあ、まだ見つかってないんだけどね」
「……ま、焦らないでも良いんじゃない?」
「う、うん、ありがと」
「夕飯は? まさか食べて来ちゃった?」
「ううん。食べてないよ」
「もう少ししたら作り始めるから、下来て手伝ってちょうだい」
「わかった」
 バタン、と扉が閉じるのに合わせて、私はベッドに仰向けに倒れた。
(しまったあ……)
 さっきの母の顔が浮かぶ。
(ぬか喜びは、させられないよなあ……)
 引きこもっていた娘(しかも我ながらいい歳だ)が仕事を探し始めたと聞いて、喜ばない親はいないだろう。たぶん、母は夕飯の席で父にも話すに違いない。
(まあ……、良い機会かな……)
 このまま一生働かないつもりでいるわけじゃない。重い腰を上げるには絶好の機会だ。
(『私』にも、友達作り頑張れとか偉そうに言っちゃったしね。私も頑張るか)
 気合いを入れて上半身を起こし、そのままの勢いで立ち上がった。
 うーん、と伸びをすると、体の色んなところがポキポキと乾いた音を立てた。
 視線の先には机。そこの壁に、私の世界と『私』の世界とを繋ぐヒビがあったわけだ。
(……もう、塞がっちゃったのかな?)
 試す方法は無い。
 ふと思ってカーペットを捲った。
 床に空いた穴の数は六つ。
 あのドリルの世界の穴は、もうそこには無かった。
(本当に、塞がるんだ……)
 疑っていたわけでは無いが、素直に驚いた。
 しかし、この穴が塞がっているという事は、もう──。
 ──でも、もしかしたらまだ間に合うかも知れない。
 何の根拠も無いが、何となく、間に合うような気がした。
 私は慌てて机に向かうと、『私』への手紙を書き始めた。

『私へ

 ありがとう。
 助けに来てくれて、本当に嬉しかった。』

 あの時の事を思い出して、思わず泣きそうになってしまう。
 本当に、嬉しかった。

『穴の向こうの世界を私も救うことができて、
 他の穴にひとりで立ち向かう勇気が出ました。』

 そうだ。仕事探しもしなくちゃいけなくなったけど、まずは床の穴を塞ぐ事が最優先だ。

『部屋に戻ったら穴が塞がってて、びっくりしたあ。
 そちらの壁のヒビも塞がっちゃうのかな?』

 ……無駄な一文だったかも知れない。
 しかし、悩んで書き直す暇も無い。

『もっともっとお話ししたかったけど……、
 ううん、そんなこと言ってたらキリがないよね。
 ほんの少しの間しか一緒にいられなかったけれど、
 一生忘れられない思い出になりました。
 奇跡って、あるんだね。』

 奇跡。
 そう、これこそ正に奇跡だろう。
 異世界に繋がる事と、パラレルワールドの『自分』に出会う事とどちらの方が珍しい出来事かなんてわからないが、私にとっては『私』と出会えた事が最高の奇跡に思えた。

『慌てて書いたから、汚い字でごめんね。
 この手紙が見えてると良いな。

 じゃあ、またね。

 友達が出来るように祈ってます。
 ぜったい大丈夫だよ!』

 少しだけ考えてから、手紙はこうしめた。

『もう一人の私より。』

 私は書き上がった手紙をブックエンドに貼り付け、壁の方へと向けた。
 ……見えて、いるだろうか。
 すでにヒビが塞がってしまっていた場合、この状況は何とも虚しい。
 しかし、ヒビが塞がったかどうか確かめようがない以上、このまましばらく待つしかないだろう。
 と、考えていたら、突然壁から小さく丸めた便せんが落下した。
 返事だ!
 どうやらヒビはまだ塞がっていなかったらしい。
 私は慌てて便せんを拾い上げた。
 そこには、こう書いてあった。

『ありがとう。
 またね。
 お互い頑張ろうね。』

(またね……)
 またね、その言葉が何だか妙に嬉しくて、心の中で何度も繰り返した。

   ***

「この子、今日行って来ますも言わずに出掛けてね──」
 夕食の席。案の定、母は父へとこの話題を振った。
「それでね、何処にも見当たらないもんだから、郵便受けの中まで探してね──」
 母の悪い癖で、話がのってくるとついこういったつまらない嘘を盛り込んでくる。
 しかし、父は母のそんな話を真面目な顔で聞いていた。
「でね、どうやら仕事を探しに出掛けてたらしいのよ」
「何だ、お前働く気になったのか」
「……まあ」
「どうなの、何か良さそうな仕事はあった?」
 母が身を乗り出して聞いてくる。
「まあまあ、そんな焦らせちゃいかんよ」
 父が母を制する。こういう時、父の優しさが本当にありがたい。
「働くといっても、しばらくはバイトで良いかな、って」
 一応自分なりに考えてみたが、働くのは良いとしても、まだ正社員でバリバリ働く気にはなれなかった。それに、せっかくだから今まで経験した事のない仕事をしてみたりするのも良いかと思う。
「バイトねえ……。ま、良いんじゃない。家でごろごろしてるよりは」
 何を思っているのかわからないが、母は喜んでいるような落ち込んでいるような顔でお味噌汁をすすった。
「さっきも言ったが、焦る必要はないからな」
 父が煮魚に箸を伸ばしながら言う。
「うん。ありがと」
 私は笑ってこたえた。
「年が明けてからでも良いんじゃないか? もう今年も少しだし」
「そんな悠長なこと言ってると、あっという間に年が明けちゃうわよ。時間は待ってくれないんだから」
「う、うん」
 私が今やらなくてはいけない事は二つ。
 穴を塞ぐ事と、バイトを探す事。
 優先すべきは……、穴か。
 本来なら仕事が優先のような気もするが、そうは言っていられないだろう。仕事を始めてしまっては穴に取りかかる時間は無くなってしまいそうだし、何よりこれ以上放っておいては何が起こるかわからない。母の言う通り、時間は待ってくれないのだ。
「ごちそうさま」
 私は空いたお皿を流しへと下げ、自室へと向かった。
(さあ)
 私は心の中で気合いを入れた。
 階段を上る足にも力がこもる。
 改めてここから、私の冒険が始まるのだ。
 そう思うと、小さく胸が弾むのを感じた。
 不安?
 それともワクワク?
 たぶん、そのどっちもだった。
第十六話

   1

「──っと、え? もうこんな時間なの?」
 植物人間の世界(心の中では『ドリアードの世界』と呼んでいる)から戻って来た私は、時計を確認して思わず声を上げた。
 穴に入ったのは昼前だったが、もうすでに部屋の中は夕日に満ちていた。まさか何日も経っていないだろうかと携帯を確認する。大丈夫。経過したのは五時間程度だ。
(こんなに穴によって時間の流れるスピードが違うのか……。怖いなあ)
 自分の体感では、あちらの世界には一時間もいなかったように思う。
 ドリルの世界は、暗闇の恐怖もあって体感時間は掴めなかったが、そんなにこちらの世界と大きな差はなかったと思う。先日行った水槽の世界はこちらの世界とほとんど時間の流れに差はなかった。
(うーん……やっぱママに出掛けるって言ってから穴に入ろう)
 今回の植物人間の世界には自分の意思で入ったが、水槽の時は急に穴が拡がって強制的に飲み込まれてしまった。その場合は「行って来ます」の言いようもないが、自主的に穴に入る時は一応声をかけるようにしよう。
(失踪届とか出されても困るしね)
 両親は心配性な方だ。警察に連絡でもされたら何と説明すれば良いかわからない。
 その時、不意に視界を白い光が横切った。
 何かと思いよく見ると、そこには小さな光の玉が浮かんでいた。
(玉が……増えた)
 今、私の周りには光の玉とピンクの球が踊るように浮かんでいる。
 穴を塞ぐ度にこうして玉が増えるとでもいうのだろうか。
(七つ集めたら願いが叶うとか?)
 ちら、と机の上に目をやる。そこにはあのドリルが置いてある。
(あれは……、玉とは言えないか)
 小さくため息を吐いて、私は階下へと向かった。

 ドリルの穴から戻って二週間が経った。
 戻ってすぐは一気に穴を塞いでやろうと息巻いていたのだが、なかなかそうもいかなかった。専業主婦の母が家にいる以上、あまり頻繁に姿を消すわけにもいかない。仕事探しもしなくてはいけないが、今日日職探しなどネットでも充分出来る。毎度「仕事探して来る」と出掛けるのも不自然だ。友達と遊びに行くと言い訳しても良いが、もし何かあった場合、友達に迷惑がかかるのは困る。口裏を合わせるとしても、友達にはどんな嘘を吐けば良いのか、思いつかない。「彼のうちに泊まりに行くから」なんてとてもじゃないが柄じゃ無いし、そもそも嘘は大の苦手なのだ。
 そうなると、とにかく観察を続け、ここぞというタイミングで(それがいつなのかはわからないが)穴の中に入るしかない。
(うーん……、ちょっとペースが遅すぎるかなあ……)
 むき出しの床の上には穴が四つ。まだ半分も塞げていない。
(これは年を越しちゃいそうだな……)
「あんた、さっきから何ぼーっとしてるの?」
 母に声をかけられ、はっとする。
 どうやらお箸を片手に固まっていたらしい。
 慌ててカキフライに手を伸ばす。
「悩み事?」
「ううん。何か、単に、ぼーっとしてた」
「まったくもう……、あ、そういえばね──」
 そこで母は私の幼なじみの女の子(いや、一個上だから『子』という歳でもないか……)の名前を言った。その子は私が高校に上がる前に引っ越してしまったが、その後も年賀状のやり取りを続け、携帯を持ってからはメール等でも(近況報告程度には)連絡を取り合っており、一二年に一度くらいは二人で食事に行くこともある。小さい頃はずいぶんお姉さんに感じていたが、二十歳を超えて久しぶりに会った時には、むしろ私より若々しく見えた。というより、すでに社会人だった私から見て、当時大学生のその子が、悪く言えば『子供っぽく見えた』ということなのかも知れない。
「で、あの子がどうしたの?」
「子供出来たって」
「え? 嘘? マジ?」
「マジマジ」
 彼女は五年前に結婚している。私も結婚式に出席したが、小さくて可愛らしい感じの旦那さんを見て「こういう人がタイプだったのか」と驚いた。
「誰から聞いたの? 私聞いてない」
「あちらのお母さんから」
「会ったの?」
「電話よ」
「電話とかするんだ」
「たまにね」
「ふうん」
 母親同士にそんな交流が続いているとは知らなかった。十五年以上お隣さんだったのだから、それくらい親しくしていてもおかしくないのかも知れないが。
「三ヶ月ですって。一昨日くらいにわかったらしいわよ」
「三ヶ月かあ……」
 何だか不思議な気分だった。
 この歳になれば自分の周りに子供を産んだ友達は少なくない。
 しかし、そこそこ大きくなってから仲良くなった友達が妊娠したのと、物心つく前から知っている子が妊娠したというのでは何となく感じ方が違う。「ああ、自分ももう大人なんだ」と改めて突きつけられたような気がする。
「後で電話してみたら?」
「……うん」
 凄く嬉しいはずなのに、何となく、もやもやした。

『やだあ、もー、お母さんったら。まだひとに言わないでって言ったのに』
 夕食後、部屋に戻った私は彼女に電話をかけてみた。
『三ヶ月くらいじゃ、まだどうなるかわかんないでしょ? あんまり言い触らして「ダメでした」ってのもつらいじゃない?』
「うん。そうだね」
 上手い返事が見つからず、私は電話越しの相手に頷いてみせた。
『──そっちはどうなの?』
「どうって?」
『彼とかいるの?』
「ぜんぜん」
『そっかあ……』
 気を遣わせてしまっただろうか。私のもやもやした感じが伝わってしまったのかも知れない。だけど仕方がないのだ。こんな時、妙齢の独身女は繊細なのである。
『やっぱ出会いがない感じ?』
「だねー」
『バイトでもしたら? 漫画じゃないんだから、家に籠もってても彼氏は降ってこないんだからね。外に出なきゃ出会いはないよー』
「うわー、辛辣だなー」
 彼氏が欲しくないわけではない。時々無性に欲しくなる時もある(大抵ゲームか漫画の影響だが……)が、長い間シングルでいると、いざ恋愛をしようとなると何だか小っ恥ずかしくなってしまう。仕事をしていた時も、職場に気になる男性はいたが……、結局ただの同僚で終わってしまった。告白なんぞ幼稚園以来していない。
 なので正直、彼氏が空から降ってこないかと、半ば本気で思っていた。
(空から降ってはこなかったけど……)
 ふと『もう一人の私』のことを思った。
『私』は、こんな風に連絡を取り合える友達を作ることが出来ただろうか。
(家の中にいたって、出会いはあるんだもんね。まあ、相手は女だけどさ……)
 しかも『自分自身』。どうあがいても恋愛対象ではない。
『でもなあ……』
 彼女がいきなり声のトーンを落とした。
「なに?」
『ん? 子供が出来たのは嬉しいんだけどさ……』
「不安もある?」
『ちゃんと育てられるのかなー、とか、思わなくはないよね。旦那も忙しいし』
「でも今旦那さんの実家の近くに住んでるんでしょ?」
『私、産休育休取るつもりだし、家にいる以上そんなに頼れないよね』
「仕事はいずれ復帰するつもりなの?」
『いや、まだ会社にも話してないから。何て言われるかによるよね』
「復帰は難しい感じ?」
『制度としては育休取ってもちゃんと復帰出来るようになってるけど……、どうかな。実際そのまま退職しちゃう人も多いしね』
 そういえば、私が働いていた時も、そういった人間は確かにいた。どんな理由で復帰を諦めたのかわからないが、きっと親になると色々なことが待ち受けているのだろう。
『あたしがママになるのかー』
 彼女の言葉が胸に刺さる。
 大学を卒業して就職して、結婚して子供が出来て……。
 方や私は高校を卒業して就職して、今は無職で恋人もいない。
 いったい、彼女の人生と私の人生、何処でこんなに違ってしまったのだろう。
 お隣同士、物心つく前から知っていて、中学までは一緒の学校だった。と、なると高校からだろうか。高校から私達の人生には大きな差が出来たのだろうか。別に、どちらの方が幸せだとは思わないが……、何だか急に取り返しのつかないようなことをしてしまった気分になる。
『お腹大きくなる前にさ、遊びに来てよ。産まれたら、たぶんしばらく遊べないだろうからさ』
「うん、そうだね……」
 ちら、と床に目をやる。
 もしかして、異世界をどうこうする以前に、自分の世界を何とかしないといけないのかも知れない。
 少しだけ、男に生まれたかったな、と思った。

   2

 私は悩んでいた。
 ドリアードの世界から戻って二日。その間、自分の周りをくるくる回る二つの玉とドリルを眺め、私は次に行く世界を決めた。
 水槽の世界で手に入れたピンクの球。これは元々、あのファンシー部屋の毛玉と同じ様なヤツを、私の力で小さくした物だ。恐らく、こいつをファンシー部屋に帰して(「帰す」という表現が正しいのかはわからないが……)やれば良いのではないか。
 光の玉の方は、たぶん妖精さんの世界で使うのではと思うが……、確信は無い。
 ドリルに至っては、未ださっぱり使い道がわからない。
 と、すれば、ここはファンシー部屋の世界に行くのか無難だろう。
(でもなあ……)
 悩んでいる事は、行き先では無い。
 前回、ドリアードの世界の世界から戻ると、体感ではあちらの世界に一時間もいなかったと思っていたのだが、自分の世界に戻ると五時間以上も経過していた。
 ファンシー部屋の世界はどうなのだろう。あちらの一時間がこちらの一年に相当してしまう事は無いだろうか?
『私』からの手紙にも、あちらとこちらで時間の流れる速さが違うとは書いてあった。しかし「気を付けてね」と書いてあっただけで、どの程度の差が生じるものなのかは一切書かれていなかった。それはつまり、心配する程の差は無い、という事だろうか。流石に戻って何日も経ってしまうようなら、いくら『私』でも書くだろう。たぶん。
(うーん……)
 時計を見ると、まだ午前九時を回ったところ。朝食を食べて、洗濯を手伝ったところだ。
(……ええい! 気合いだ、気合いだ!)
 私は母に「行って来ます」を言うべく、階下へと降りた。

「ママ」
「何?」
 リビングへ入ると、母はテレビを見ながらお茶を飲んでいた。
「ちょっと出掛けて来る」
「あっそ。行ってらっしゃい」
 行き先を聞かれるかと思ったが、あっさりした返事のみが返ってきた。
 まあ、行き先を心配されるような歳では無いが……。
「何時頃帰る? 夕飯は?」
「あ、ええと……」
 夕食までは少なくともまだ九時間はある。たぶん……、帰って来られるだろう。
「うん、うちで食べる」
 あのピンクのふさふさしたのに食事を振る舞われる事はあるまい(あっても食べないけど)。
「そしたら帰りにキャベツ買ってきて」
「あ、うん、わかった」
 あちらの世界にはキャベツは売っていないだろう。こちらに戻って来たらこっそり家を出て、買い物をして来るしかないか……。
「あと何か甘い物も買ってきて」
「はいはい」

「よし」
 部屋に戻った私は、気合いを入れ、床に空いた穴と向き合った。
 この穴で四つ目。残りは三つ。
 さっさと全て塞いでしまおう。
 穴の世界は不思議で魅力的だけれど、そろそろ自分の世界も何とかしないといけない。もう充分にニートは満喫した。
 自分の周りを浮遊する二つの玉を確認。よし、ちゃんといるな。これでピンクの球を忘れてしまっては無駄足だ。
 ドリルも持って行こうかと思ったが、恐らく不要だろう。余計なものを持っていくのは、それはそれで心配だ。
 今回は腕時計も付けて行く事にした。
 携帯電話も持って行こうか悩んだが、何か向こうの世界に影響を与えてしまいそうなのでやめた。電磁波とか、心配だ。
 深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。
 目を瞑って、もう一度「よし」と呟いた。
 鼓動が、いつもより早い。
 穴の位置を確認してしゃがみ込む。ファンシー部屋の穴は、ここで間違い無い。
 穴の縁に指を掛け、そっと、拡げ──。

 ──。

 ──浮遊感。
 それ以外は『何も感じない』としか言い様の無い、不思議な感覚。
 穴の中に入るのはもう四度目だが、いまいち慣れない。
(……)
 爪先に何か触れる感覚。
 着いたのだろうか。
 何だか、前回のドリアードの世界の時より長くかかった気がする。
 水槽の世界の時はあっという間についてしまった気がしたのだが……。穴によって、その『深さ』が違うのだろうか。
 もしそれが時間の流れと関係あるとしたら……、不安だ。
 徐々に視界が色づき始める。
(……うーん、やっぱりファンシーだなあ)
 そこは上から見えていた通り、壁も床も天井もピンク色な部屋だった。
 腕時計を確認する。
(止まってる……)
 何故だろう。しかし、これで時間の確認は出来ない事がわかった。
 辺りを見渡す。
 ピンクの球は私の周りをふよふよと漂っているが、光の玉は見当たらない。別にピンクの球だけ握りしめて来たわけではないので、光の玉は勝手に元の世界に残ったという事だ。それはつまり、この世界を救うのに光の玉は必要ないという事だろう。こんなにわかりやすい、クリアのヒントもなかなかない。まったくもって親切設計だ。
 改めて部屋の中を見渡す。
 この部屋の主(?)であるピンクの毛玉ちゃんは不在のようだ。
(しまった……)
 毛玉ちゃんが時々何処かへ行ってしまう事は、上からの観察で把握していた。穴に入る前にいるかどうか確認しなかったのは、明らかにミスだった。
(やばいなあ、すぐ帰って来るかなあ)
 この世界の時間の進む速さがいったいどれ程のものかわからない。このままずっと待ちぼうけとなると……、元の世界に戻って何日も経っていたらどうしよう。
 上から観察していた時の事を思い出してみる。
(たしか……、消えてる時間は長くても三十分くらいとかだった、ような、気がする……。たぶん)
 あやふやな記憶だが、少なくとも何時間も毛玉ちゃんが不在だった事はなかったと思う。
(……しゃーないか)
 こうなったら仕方ない。持ち前のポジティブを武器に、この世界を楽しむしかない。
 再び、部屋の中を見渡す。
 およそ10メートル四方の部屋の壁や床には、所々窪みがある。しゃがみこんで足下近くの窪みを覗き込んでみる。深さは数センチ程度のものから、肘くらいまでありそうなものまで様々だ。目の前の窪みの中には、床と同じ色の石ころが数個と糸くずのようなものが何本か溜まっていた。触ってみようかと思ったが……、やめた。さすがに少し怖い。かわりに床に触れてみる。まるでゴムのような弾力を感じた。思わず、手の臭いを嗅いでしまった(悪い癖だ!)が、特に臭いは感じなかった。
 立ち上がり、他の穴も覗いてみる。
 窪みにつまずかないように気を付けながら移動し、再びしゃがみこむ。
 窪みの中はどれもほとんど変わらず、小石や糸くずが散らばっているだけだった。
(……あれ? この溝)
 いくつ目かの窪みを覗いた時、ふと違和感を覚えた。
 幅30センチ程。他より幾らか大きな窪みのその側面に、何か溝のようなものが走っている。こんな溝は他にはなかった。底はいびつに盛り上がっているが、その溝の部分は、まるで人工的に削ったかのような形状をしている。それはまるで──。
(ドリルで削ったみたい……)
 その時、背後に気配を感じて振り返った。
 壁際に、毛玉ちゃんの姿が見えた。
(良かった! おかえり!)
 思ったより早く帰って来てくれた。これならそこまでのタイムロスにはなるまい。
 私は慌てて立ち上がる。
 毛玉ちゃんとの距離は──、だいたい十歩くらい離れているだろうか。あちらから近付いてくる気配はない。その場でふるふると震えるだけだ。
(警戒されてるのかな……?)
 様子を窺う。思っていたよりも、毛玉ちゃんは大きい。ピンクの球の子よりも少し大きいんじゃないか?
(こっちから近付くの……、怖いなあ……)
 しかし、迷っていても埒があかない。
 このままどんどん時間が過ぎてしまうのは危険だ。帰ってから恐ろしい事になる。
 なるべく驚かせないよう、ゆっくりと、一歩前へ踏み出す。
 特に反応なし。
 私は抜き足差し足、毛玉ちゃんの方へと近付く。
(これくらいで、良いかな……)
 2、3メートル離れた位置で立ち止まり、ピンクの球を手元に引き寄せた。
 おそらく、これを大きくすれば──。
(──いよっ、と)
 球に向けた両手をゆっくりと広げる。
 すると、その手の動きにあわせて、ピンクの球は元の毛玉ちゃんのサイズに膨らんでいく──。
(よし! これでどうだ!)
 対峙する二体の毛玉ちゃん。
 大きい方の毛玉ちゃんが、ゆっくりと小さい方の毛玉ちゃんへと近寄る。
 感動の再会──、と思ったその時、
(えっ!?)
 突如、大きい方の毛玉ちゃんの体の真ん中くらいから、数十本ものピンク色の『触手』が『タマちゃん(小さい方の毛玉ちゃん)』へと向かって飛び出した。
(うわっ、なに、超きもい!)
 触手はものすごい勢いでタマちゃんへと巻き付いた。そして毛玉ちゃんは、タマちゃんの体を自身の方へとゆっくり引き寄せていく。
 抵抗もせず、じりじりと引き寄せられていくタマちゃん。
(ああ……。ええ……?)
 私の頭の中を無数のハテナが飛び交う。
(何これ、どういう事?)
 戸惑う私の気持ちを余所に、ついに毛玉ちゃんはタマちゃんをきつく触手で抱き締めた。
(……愛の、抱擁?)
 そんな風に見えたのも束の間、まるで粘土同士をくっつけるかのように、タマちゃんの体は毛玉ちゃんの体へとめり込んでいった。
 そして、後には一回り大きくなった毛玉ちゃんだけが残った。

   3

 元の世界に戻ると、部屋の中は真っ暗だった。
(うわっ、やばい! 今何時!?)
 慌てて時計を確認する。短針は『4』をさしていた。
(四時? 四時って夕方?)
 それにしては真っ暗だ。
 恐る恐る、携帯電話で日付を確認した。
「──!」
 思わず、絶句。
 午前四時、日付は一日進んでいた。
 何と、穴に入ってから二十時間も経過していた。
(やばい……、どうしよう)
 手が震える。
 そのはずみで、知らぬ間に握りしめていた手が開く。
 すると、何かがぽとんと床に落ちた。
 見ると、それはファンシー部屋の窪みの中にあったピンク色の石だった。知らぬ間に持ってきてしまったのだろうか。
 しかし、今はそれどころではない。
 なるべく足音を立てないよう気を付けながら、私は階下へと向かった。
 リビングから、明かりが漏れている。
 ……まずい。
 母か父か、心配して起きているようだ。
(どうしよう……)
 リビングは玄関から真っ直ぐにのびた廊下の中程右手にあり、階段はリビングの入り口より少し奥にある。リビングの扉は開いていた。ごめんと謝るのはもちろんとして、階段側からリビングに入るところを見られるのはまずい。玄関側から入らなくてはつじつまが合わない。玄関へはどうしてもリビングの入り口を横切らないと行く事が出来ない。廊下の、玄関と反対の奥は左手がお風呂とトイレ、右手がキッチンだが、どちらからも外に出る事は難しい。
(二階から、降りるか……)
 窓から出て、屋根から飛び降りる。危険だが、それしか方法は無い。飛び降りた時に音がするかも知れないが、そこは何とか誤魔化すしかあるまい。
 再び息を殺し、二階に戻ろうとしたその時──、
「──?」
 私の名を呼ぶ、母の声が聞こえた。
「あんた、いつの間に帰って来たの?」
 為す術もなく固まった私の姿を発見した母が、心配と怒りとが入り交じったような声で言った。
「た……、ただいま」
 無意識に、引きつった笑いが顔に浮かぶ。
「……大丈夫?」
『どこ行ってたの?』でも『何してたの?』でもなく、まず『大丈夫?』と聞いてきた事に、母の愛を感じた。胸が痛む。
「ごめん……、友達と、偶然会って……、それで、飲みに、誘われて……」
「……なら、連絡の一つくらいしなさいよね!」
「はい……」
「まったく……、もうちょっとで警察に連絡するところだったわよ」
「ごめんなさい……」
 頭を下げるしかなかった。本当に、申し訳ない。
「そりゃもう親にとやかく言われるような年齢じゃないかも知れないけど、一緒に住んでるんだから『遅くなる』の一言くらい言いなさいよね」
「はい……」
 つい二日前にも同じように怒られたばかりだ。別に毛玉ちゃんに罪はないが、こうなると何だか行き場のない憤りを感じてしまう。
「何だ、帰ったのか?」
 その時、階上から父の声が聞こえた。
「あ……、うん。ごめんなさい……」
「いやあ、良かった。心配したぞお前」
「ごめん……」
 父の顔を見上げると、パジャマは着ているものの、充血した目が寝ていなかった事を物語っていた。明日(もう今日か)も仕事だろうに、大変申し訳ない。
「しかし……、お前ももう親にとやかく言われるような年齢じゃないかも知れんが、一緒に住んでるんだから、遅くなる時は遅くなると連絡ぐらいしなさい」
「はい……」
 母とまったく同じ事を言う。
 怒られると、自然に正座をしてしまう。廊下のフローリングが、脚に冷たい。
「で、何処行ってたんだ?」
「友達とばったり会って、飲みに行ってたんだって」
 私の変わりに母が答えた。
「飲みに?」
 父が怪訝そうに私の顔を覗き込む。
「お前、本当に酒飲んで来たのか?」
 私はあまりお酒に強くない。飲むと顔が赤くなってしまうのだ。
 もちろん、今の私は素面である。顔を見て不信に思うのも仕方がない。
「いや、あの、私は飲まなかったの。ほら、私、お酒弱いから」
「そうか」
 父は言葉では納得した素振りだが、何となく腑に落ちない様子だ。
 それも仕方ない。どうみても、朝方近くまで飲み屋にいたようには見えないだろう。見た目だけでなく、匂いも。
「とにかく──」安心して眠くなったのか、あくびをしながら母が言う。「何か危険な目にあってたとかではないのね?」
「うん! それは間違い無く!」
 明らかに嘘くさい言い回しになってしまったのは、一瞬あのピンク色の触手が脳裏をちらついたからだ。
「……まったくもう」
 母が私の頭を小突いた。
「あんたのせいで、ロールキャベツの予定が餃子になっちゃったんだからね」
 どうやら、夕飯はしっかり食べたようだった。

「……さて」
 両親が寝室に入るのを見届け、私も自室に戻った。
 まさか、こんなにも時間が過ぎているとは、予想以上だった。こんなに時間が過ぎてしまうなんて……、『私』も一言手紙に書いておいてくれれば良かったのに!
 それとも、『私』の方の世界では、ここまで時間のズレがなかったのだろうか?
 そんな事を考えながらベッドへと向かった。
 時刻は午前四時半を少し過ぎたところ。
 頭も体もくたくたに疲れている。
 ニートの特権で昼まで寝る事も出来るが、それでは両親に申し訳ない。
 せめて朝はきちんと起きて、朝食の仕度や洗濯くらいはやらせていただこう。
 そうすると、今から眠れるのは二時間が良いところ。
 ずっと起きているという選択肢もあるが、つい居眠りしてしまった時の事を考えれば、自主的に仮眠を取った方が起きられるだろう。
 部屋の真ん中を過ぎたところで、爪先に何かコツンとぶつかった。
 見ると、あのピンクの小石だった。
 拾い上げて、ベッドサイドのテーブルへと投げ出した。
 調べてみるのは明日にしよう。
 お布団に入ると、ひんやりとした感触が目を醒まさせる。
(くーっ)
 頭が少し、はっきりする。
 最初に思ったのは──、
(さて……、次はどうしたものか)
 残っている穴は三つ。
 今回のような事を後三回も繰り返すわけにはいかない。
 きちんと準備をして行かねば。
 でも、どうやって?
(んー、友達を使うかなあ)
 誰かの家に泊まりに行くという事にすれば、まあ一晩くらいは問題ないだろう。
 でも実際に泊まりに行くわけではない。相手には私の嘘に付き合ってもらう事になる。
 それには、事情を説明しなくてはならないだろう。
 理由を聞かずに引き受けてくれるかも知れないが、それで余計な心配をかけるのも申し訳ない。とはいえ、事情を説明したところで──、
(信じてもらえるわけないし……)
 その時、ふと一人の女の子の顔が浮かんだ。
 会社の後輩で、いつもにこにこしているので、私が『ニコちゃん』と呼んでいた子だ。
 ニコちゃんとは、今でも時々メールをしたり、たまに一緒に出掛けたりする仲だ。在職中は先輩後輩という関係性もあってそこまで親しくはなかったが、私の送別会でべろべろに酔っ払ったところを家に泊めてあげた事からぐっと仲良くなった。
(あの子なら、もしかして……)
 家に呼んで、この床を見てもらおうか。
 もしかしたら、父や母のような壮年の人間には見えないだけで、私のように若い……、あ、いや、ある程度若い人間には穴が見えるという可能性も──。
(でもなあ……)
 わざわざ家に呼んで、カーペットを捲って見せて、何も見えないと言われたら、いったい何と言い訳すれば良いのか……。
(……ああ、どうしよ)
 もう穴の事は忘れてしまおうか?
 いやいや、その結果どんな事が起こるかわかったものではない。
 それに『私』にも申し訳ない。
(んー、んあああー)
 頭が痛いのは、疲れのせいだけではなさそうだ。
 時計を見ると、もうそろそろ五時。
 寝なくてはと思うほど、色々と考え込んでしまう。
 悪循環の末に眠った私は、結局昼過ぎまで眠り込んでしまったのだった。
16, 15

  

第十七話

   1

 ──妖精さんの世界から戻った私は、慌てて携帯電話の日付を確認した。
(……良かった)
 時刻はまだ昼過ぎ。穴に入ってから四、五時間程度しか過ぎていなかった。
 今回、念のため両親には「日帰りで小旅行に行ってくる」と嘘を吐いてみたが、むしろこの場合裏目に出たと言える。
(……お土産でも買って来ますか)
 泊まるとは言わなかったが「もしかしたら泊まるかも」とは言った。泊まらないとしても、「少なくとも遅くなる」とも言った。「何となく帰って来ちゃった」で片付ける事も出来るだろうが、あれこれ訊かれたら困る。
 私は部屋の窓から、こっそり外へと抜け出した。

 今日は金曜日。
 駅前に来ると、スーツ姿の人達が多く見られた。
 時間的に、昼休みなのだろう。どこの飲食店も混み合っている。
 私は目的地までの切符を購入し、改札をくぐった。
 遠出をするのは久しぶりだ。
 両親に告げた行き先は、最寄り駅から電車で一時間半程にある、所謂『観光地』。
 母は「私も一緒に行こうかしら」と言ったが、何とか上手く躱した。
(んー……、ああ、疲れたなあ……)
 がらがらの電車に乗り込み、シートに腰掛け、伸びをする。
 向こうの世界には、体感では一時間もいなかったが、実際は四、五時間も経過していたのだ。恐らく、体にはそれだけの負担がかかっているに違いない。
(……眠くなってきた)
 目的地までには一度乗り換える必要があるが、乗り換えの駅まではまだ四十分以上ある。少しくらい寝ても大丈夫だろう。それに、寝過ごしたとしても時間に追われているわけではないのだから構わない。
(……)
 温かすぎるくらいのシートは、あっという間に私を眠りへと誘った。

 ────。
 ──目が覚めると、ちょうど乗り換えの駅のひとつ手前だった。
 会社員時代から、不思議と手前の駅で目が覚める。この体質はニートになっても健在のようだった。
(よく寝たなあ)
 いびきでもかいていなかったかと不安になるくらい、熟睡してしまった。すっかり疲れが取れている。
 何か夢をみたような気がするが、思い出せなかった。
 乗り換えの駅に到着。
 アナウンスを聞きながら、隣のホームへと移動するために、階段を駆け上がる。
 体が軽い。
 まるで夢の中のようだ──。
(あれ?)
 ふと、遠くの景色に違和感を覚えた。
 何がおかしいのだろうと目を凝らして見る。
 町並みの向こうには、枯れ木色の山々が見える。
 山々……?
(えっ?)
 おかしい。
 明らかにおかしい。
 山というのは、普通上に行くに従ってどんどん細くなっていくものだろう。あんな風に──麓に行くに従って急激に窄んでいく山なんて見た事が無い。
 あれではまるで……、
(ドリル……?)

「──、──」
 電車のアナウンスで目が覚めた。
 何処の駅かと外を見れば、乗り換えの駅のひとつ手前だった。
(夢……?)
 どうやら夢をみていたようだ。
 それにしても、妙にリアルな夢だった。
 窓の景色を見る。
 遠くに見える山々は、所謂『山』の形をしている。先程夢にみたような逆三角形の山など、あるはずがない。
(……)
 もやもやする気持ちを抱えたまま、私は走る車内で、何となく立ち上がった。

   ***

『先輩! どうしたんですかあ?』
 その夜、外で夕食を済ませ帰宅した私はニコちゃんに電話を掛けた。
「あ、うん。ちょっとお願いしたい事があってさ」
 ベッドに腰掛け、落ち着きなく縦に跳ねる。
『先輩の頼みでしたら何でも任せて下さい! 空だって飛んでみせます!』
「ははは、ありがとう」
 ニコちゃんは相変わらず元気いっぱいだ。俗に言う『アニメ声』が耳にこそばゆい。
『で、何でしょう?』
「えっと、あのね、今度ちょっと出掛けるんだけどね」
『デートのお誘いでしょうか!?』
「あっと、いや、ちがくて」
 話す事はシミュレーションしていたのだが、上手く言葉が出て来ない。
 やっぱり、嘘を吐くのは苦手だ。
「……ええとね、ちょっと泊まりで出掛ける予定なんだけど」
『お泊まりデートのお誘いですか!?』
「あ、いや、だからね……」
 残り二つの穴の中へ向かうにあたって、また今回の様に『小旅行』と嘘を吐いても良いのだが、もし予想以上に帰りが遅れた場合、警察に連絡されては大事だ。今回は無事だったものの、何度も危険な橋は渡れない。
 それに職探し中のニートがそうたびたび小旅行に行くわけにもいくまい。
 なので、ニコちゃんの家に泊まった事にしてもらえば、もしも予測より早く戻ってこられた場合は本当にニコちゃんの家に泊まれば良いし、予測より遅くなった場合はニコちゃんにうちの親に連絡してもらえば良い。遅くなると言っても、そう何日も経過してしまう事はないだろう。学生みたいな作戦ではあるが、一番リスクが少ない方法だと思う。
「ちょっとあてもなく一人旅なんて良いかな、って思ったんだけど、うちの親、心配性だからさ。ニコちゃんの家に泊まりに行くって言っておけば、ほら、心配じゃないでしょ?」
『……本当に一人旅ですか? 何か、彼と旅行に行く学生の言い訳みたいですけど』
「本当、本当。私にそんな相手いると思う?」
『……少なくとも、私は聞いてないです』
「残念ながらいません。本当にひとり」
『わかりました。了解です! 何泊の予定ですか?』
「ありがとう。一応、一泊の予定。あ、でももしかしたらふらっと二泊とかしちゃうかも知れないから、私から何の連絡もなかったら、ニコちゃんからうちの親に連絡してもらって良い?」
『それは、先輩がした方が良いのでは?』
「うーん、それはそうなんだけどね……」
 したくても出来ない状況もあるのだ。
「たまにはさ、ほら、携帯の電源も切って、見知らぬ土地で孤独を満喫したいわけよ」
『何か大人ですね、そういうの』
「でも……、どうかな。もしかしたら寂しくなって、すぐに帰って来ちゃうかも」
 正直、一人旅は性に合わない。大勢でわいわいというのも得意ではないが、私には家族旅行くらいの人数が一番楽しい。今日も、やっぱりちょっと寂しかった。
「その時は、本当にニコちゃんの家に行って良い?」
『良いに決まってるじゃないですか! もちろん大歓迎ですよ!』
「ありがとう」
 よし、ニコちゃんには申し訳ないが、これで準備はOKだ。
 残りの穴を一気に片付けてしまおう。
「じゃあ、明日の昼前にそっちに行く予定で」
『えっと、ほんとに来るわけじゃないんですよね?』
「あ、うん、そう。そういう『てい』でってこと」
『了解です』
「ごめんね。わがまま言って」
『いえいえ、喜んで、ですよ』
「ありがとう。お土産買って帰るからね」
『はーい』
 電話を切って、ベッドに横になる。
 ふーっ、とひと息。
(あ、しまった)
 今、余計な約束をしてしまった事に気付いた。
(お土産、何処で買おう)
 残っている穴は、『洞窟』の穴と『真っ白な世界』の穴。真っ白な世界は、謎の球体が現れたり消えたりする事がわかっているが、どちらの世界も、お土産屋さんがあるようには思えない。無論、あったとしても買えるわけもない。あちらの世界のお金など持っていないし、そもそもお金という概念があるかどうかさえ疑問だ。
(うー、余計な仕事を増やしてしまった)
 とはいえ、協力してくれたのに何のお礼も渡さないわけにも行くまい。ニコちゃんの喜びそうなお菓子でも買って行こう。
(よし、じゃあ今日は早く寝て、明日に備えるかな)
 両親にニコちゃんの家に泊まりに行く事も伝えねばならない。ついでにお風呂に入って、今日はさっさと寝るとしよう。
 時刻は二十時になろうかというところ。
 後半日も過ぎれば、私の最後の冒険が始まる。
 寂しいようなほっとしたような、何とも言えない気持ちで私は階下へと向かった。

   2

(よし、これで良いかな)
 仕度を終え、鏡で服装をチェックする。
 旅行に行くと嘘を吐いた以上、多少はそれっぽい服装をしなくてはいけない。と、言ってもいつもより少しましな服を着て、着替えをカバンに詰め込んだだけだが……。
 コートのポケットには残ったアイテム──ピンク色の小石とドリルを入れた。
 時刻は朝の九時過ぎ。少し早いが出掛けるとしよう。
 階段を降り、リビングにいる母へ声を掛ける。
「いってきまーす」
「あら、もう行くの?」
 玄関で靴を履き始めた私の背中に、母が声を掛ける。
「うん。仕度出来ちゃったし。どうせなら早く出た方が良いじゃない?」
 当初は単にお泊まりに行くシナリオだったが、なるべく早く出発するためには、まずは一緒に出掛けて、そして夜はお泊まりという方が自然だろうと思い変更した(もちろんニコちゃんにも報告済みだ)。
「気を付けてらっしゃいね」
「うん」
「あの後輩の子と一緒なんでしょ? ちゃんと面倒見てあげるのよ?」
「そんな、彼女も子供じゃ無いんだから」
 母もニコちゃんに会った事がある。まあ確かに童顔ではあるし、母が心配する気持ちもわからなくは無い。彼女は何というか……『守ってあげたくなる』タイプだ。
「帰る時は連絡してね」
「わかってる」
「じゃあ、気を付けて」
「はあい。いってきまーす」
 玄関を開け、一先ず家の前の道路へと出る。背後で、母が扉に鍵を掛ける音が聞こえた。
(さて……)
 もちろん、このまま出掛けるわけではない。
 これからこっそり、自分の部屋に戻らなくてはならない。
 玄関を通るのは危険だから、何とかして二階の窓から侵入するしかない。一応、自室の窓の鍵は開けて、裏庭へとロープを垂らしておいたが……。一番心配なのは、ロープを上っている姿を誰かに見られる事だ。母に見られるのももちろんまずいが、ご近所さんに見つかったり、見知らぬ人に通報されたりするのも怖い。
(まったく……、今日は朝から大冒険だな)
 真っ白なため息が、ほわんと視界を曇らせた。

   ***

 何とか無事自室に戻った私は、念のため部屋の内鍵をそっと掛け、カーペットを捲った。
 入る穴は決めてある。
 洞窟の穴だ。
 どちらの解決法もまだ明確にはわかっていないので球体の穴の方でも良かったが、比較的こちらの世界に近い雰囲気である洞窟の穴の方が攻略に時間がかからないだろうという判断だ。何としても今回で一気に全て塞いでしまいたい。時間がかかる方を先にしては、次の穴に入る際に躊躇いが生じる可能性がある。
(よし!)
 気合いを入れ、洞窟の穴の縁に指をかけた──。

 ──、いつもの浮遊感。
 さすがに、この感覚にもだいぶ慣れてきた。
 この穴で五つ目。それなりにベテランである。
 思いの外あっさりと、爪先に感触を覚えた。
 もう着いたのか。
(これなら、そんなに時間の流れに差は無いかも……)
 ここでの距離が、時間の流れに影響しているのでは、というのが私の推測だ。
 徐々に眼が慣れてくる。
 まず見えて来たのは、上から見ていた通りの洞窟の岩肌。
 次に辺りを見渡してみる。左右に延びた洞窟の直径は、縦にも横にも5メートルくらいだろうか。洞窟の壁は焦げ茶色で、薄い色と濃い色が交互に重なって層を成している。見た目にはまるでチョコレートケーキのようで、少し美味しそうだ。恐る恐る触れてみると、ザラザラとした感触だった。足下は対象的に光沢のある質感で、触ってみるとゼラチンのような見た目の通り、つるつるというよりペタペタした感触がした。
 今立っている位置から見て、右手の方へはトンネルが続いている。暗くてあまり先の方までは見えないが、奥に向かって緩やかに下っているようだ。
 左手の方には外への開口部(出口と表現するべきなのかな?)がぽっかりと空いている。まずは外の様子を確認しようと、出口(出ないけど)の方へと近付く。
(……恐竜でもいそうな景色だな)
 最初空しか見えなかったが、近付く毎に世界は姿を現していく。大きく茂った木々に羊歯。遠くに見えるのは火山だろうか。まるで恐竜映画の中に迷い込んだようだが、視界の中に生き物の姿は見られなかった。
(まあ、いたらいたで困るけどさ……)
 見るからに暑そうな景色だが、特に暑さ寒さは感じない。完全に冬服で来たので、これはありがたい。
 縁まで歩き、下を覗く。どうやらこの洞窟は断崖絶壁に空いているようだ。おそらく、地面まで数十メートルはありそうだ。これは、下に降りるだけでもなかなか大変そうである。
(さて、どうしようか……)
 一先ず、ポケットからピンク色の小石とドリルを取り出してみる。
 このどちらかを使えば良いという事は間違い無い。はず。
 試しにピンクの小石を床に置き、取りあえず大きく出来ないか試してみた。石の方に向けた両手を、ゆっくりと左右に開いていく。……無反応。ドリルも同様に試してみようと思ったが……、止めた。急に足下を削り始めても困る。
(うーん……)
 このままじっとしていても、おそらくどうにもなるまい。
 となると、『外に出る』か『奥に進む』の二択を選ばなくてはいけないが……。
(外は、怖いな……)
 景色は視界の限りずっと続いている。今のところ植物以外の生物は見当たらないといえ、この中を探検するのはあまりに大冒険過ぎる。
 とはいえ洞窟の中をあても無くさ迷うのも怖い。どれだけ複雑な構造かわからないし、もしも迷ってしまったら……、今度も『私』が助けに来てくれるとは限らない。
(ロープくらい持って来いよな、私……)
 間抜けな事に、カバンの中には普通のお泊まりセットしか詰めて来なかった。服を繋げたところで、大した長さにはならないだろう。せめて懐中電灯くらいあれば──。
(あ、そうだ!)
 両手で目をごしごしと擦る。そして洞窟の奥の方を見て見ると──、
(よし、見える見える!)
 思った通り、暗くて見えなかった洞窟の奥の方まで、まるで灯りをつけたかのようにはっきりと見る事が出来た。
 その目で、今度は洞窟の外を見てみる。景色に変化は見られない。
(消去法で……、奥かな)
 出口に背を向け、奥に向かって歩き始める。
 ふと思いつき、足をこすってみた。すると足がふっと軽くなり、少しの力で歩けるようになった。
(おっ、良い感じ)
 まるで跳ねるように、どんどん奥へ進んでいく。今のところ分かれ道は無い。ゆるやかに下る一本道だ。
 歩き出して数分経った、その時、
(ん? なんだ?)
 何かが、視界の隅を横切った。
(何……?)
 恐る恐る、辺りを見回す。
 すると、目の前に突然、ヒト型をした『白い影』が現れた。
 驚いて後ろに下がると左右にも、振り返れば背後にも影がいる事に気付く。しまった、囲まれた。
 影達との距離は2メートルも無い。
 影達は、立ちすくんでいる私の方へまるで幽霊の様に(幽霊見た事ないけど)ゆらめきながら、ゆっくりと近付いて来た。
(どうしよう……)
 囲まれているので、逃げる事が出来ない。輪の切れ目から駆け出す事は出来るかも知れないが……、やはり安易には動けない。
(こんな時は、どうする……?)
 考えるが、何も思い浮かばない。軽いパニックになっているのかも知れない。
「えっと……、あの、ごめんなさい」
 取りあえず、謝ってみる。もしかしたら、何か入ってはいけないところに入ってしまったのかも知れない。
 すると、私の声が聞こえたのか、影がその動きをぴたりと止めた。
「あ、ああ、ありがとう。あ、あのね──」
 何はともあれ自分が敵で無い事を示さねば。
「私は、えっと、この世界を救いに来ました」
 と言っても、どう救うかは自分でもわかっていない。
「あ、そうだ、あの、これ……」
 そう言ってポケットからピンク色の小石とドリルを取り出した。
 すると、今まで動きを止めていた影達が、明らかに驚いた様な動きを見せた。
 しかし、それがどちらの物に対する反応なのかがわからない。
(えーっと、どっちがキーアイテムなんだ?)
 私がおろおろしていると、ふいに一体の影がこちらへ近付いて来た。
 怖くて思わず逃げそうになるが、ぐっと堪える。
 影は私のすぐ目の前──数十センチのところで立ち止まった。
 何をするつもりかと固まっていると、ふいに私の掌からドリルをひょいと取り上げた。
(おっ?)
 と、思ったのも束の間──、
(うわっ!?)
 影の手の中、ドリルが突然音も無くはじけ飛んだ。
(えっ、うそ、なに、どういうこと? ──って、痛っ)
 驚いたはずみで尻餅をついた私に向かって影は、今度は手招くような仕草を見せた。
 そして、ゆっくりと洞窟の奥に向かって移動を始めた。
(──何なんだよ、もうっ)
 少しだけ腹を立てながら、立ち上がってお尻をぱんぱんと払う。
 よし、ついてってやろうじゃないか。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず、というやつだ。
 私は数体(何故か何度数えても何体いるのかわからない)の影に誘われるまま、更なる深みへと歩みを進めた。

   3

 しばらく歩くと、ふいに開けた空間へと出た。そこは非常に大きな空洞で、壁や天井はまるで円形のホールのような作りになっている。高さは数十メートル近くありそうだ。大きな声を出したら気持ちよさそうだが、余計な事はしないようにしよう。
 なかへ入ると、影達はそのゆっくりとした歩み(ちょっといらいらするくらい遅かった)を止めた。どうやらここが目的地のようだ。
 さて、ここで一体何をすれば良いのだろう。
 ドリルは破壊されてしまったから、ピンク色の小石を使うのは間違い無いだろう。
 ふいに影達が再び動き始めた。ホールの入り口で突っ立っている私を置いて、どんどん奥へ進んでいく。さっきまでよりも、移動速度がずっと速い。早くしろという事だろうか。
(のろのろ歩いてたのは自分達じゃん)
 私は彼らの後を早足で追った。
 歩きながら改めてホールの中を見渡す。ホールといっても、別に特別な装飾が施されているわけではなく、床も壁も天井もここに来るまで通った洞窟と同じ岩肌だ。つまり殺風景な、ただただ広いだけの空間である。自然に出来た空洞なのか、人工的に作られたものなのかは判別出来ない。明かりが入って来るような穴は見当たらないから、私の不思議な力を使っていなかったら、おそらくここは真っ暗なのだろう。
 部屋の中央まで来ると、影達はまた立ち止まり、輪になって広がった。
 足下を見ると、そこにはまるでカーペットにいちごミルクでもこぼしたかのようなピンク色のシミが広がっていた。実際に液体が広がっているわけではなく、どうやらそこの岩にだけ色が付いているようだ。濡れて見えるのは岩の質感のせいだ。シミの直径は1メートル程。いびつな楕円形をしている。
(ここで石を使うのかな?)
 私はポケットから石を取り出し影達に見せた。
 影達の白い霧のような体が、かすかに瞬く。「YES」という意味だろうか。
(で、どう使うんだ?)
 取りあえず石を軽く振ってみる。
 何も起こらない。
(……と、なると)
 あのピンクのシミに何か意味があるのだろうか。
 石と見比べて見ると、ほぼ同じ色をしている。
「え、っと……」
 影にジェスチャーで問いかけようとして、止めた。普通に話し掛けてみよう。
「この石を、そこに置けば良いの?」
 結局身振りは入ってしまったが、私の言葉に影は再び瞬いて答えた。
 やはり、ここに石を置けということらしい。
 深呼吸をしてしゃがみ込む。
 果たして、何が起こるのだろうか。
(……大丈夫。危ない事なんて──、大丈夫、きっと危険はないはず)
 自分に言い聞かせながら、私はシミの中央にピンクの石を置いた。
(──ん?)
 予想に反して、石はうんともすんとも言わなかった。
 しばらく様子を見たが、何も起らない。
(何も起きない? 置き方が違うのかな……)
 戸惑う私を置き去りに、影達は元来た方へ移動を始めた。
「え? あ、もう。何だよ、待ってってば!」
 慌てて後を追う。来た時とは違ってずいぶん早足だ。
 影達はどんどん移動のスピードを速めていき、しばらくすると後ろ姿も見えなくなってしまった。ここまでは一本道だったから迷う事は無いが、置いてけぼりは心細い。やっと追いついたかと思ったら、影達はもう入り口のところまで辿り着いていた。そこで止まっているのは、もしかしたら私を待っているのだろうか。
(外に出て行くのかな?)
 やっと入り口に到着する。影達と並んで穴の縁に立った私は、何気なく向こうの景色を見た。
「……う、っわあ……」
 思わず息を飲んだ。
 先ほど洞窟の外を覗いた時、そこにはまるで恐竜時代の様なジャングルが広がっていた。しかし今、外の景色は先ほどまでとは一変していた。
「きれい……」
 洞窟の外には満点の星空が広がっていた。と言っても、時間が過ぎて夜になったのではない。星屑は空にだけではなく、見下ろせば足下にも、見渡せば遙か彼方までにも広がっていた。あの原生林の大地は影も形もない。そう、そこは宇宙空間そのものだった。
「すっごおい……」
 思わず身を乗り出した。
 一瞬呼吸が心配になったが、問題無いようだ。息苦しさは微塵も無い。
 闇は、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、無数の星屑で埋め尽くされていた。テレビなどで見た宇宙の映像なんかより、ずっと沢山の星が瞬いている。これだけの星があれば、どんな星座だって描けてしまいそうだ。
 視界の向こうを何かが横切った。
 それは流れ星──、いや流星群という奴だろうか。
 幾百、幾千もの星が光の尾で闇を切り裂いていく。
 私は願い事をする事も忘れて立ち尽くした。
 何て、美しい景色なんだろう。
 きっと、こんな景色を見た事がある人間は私くらい──、いや、私と『私』くらいのものだろう。
 ──どれくらい見とれていたのだろう、ふいに、私の方へ一体の影が近付いて来た。
 目の前まで来ると、その霧のような体から、細長い影がこちらへするすると伸びてきた。
 手、だろうか。
(握手、かな?)
 そう思って手を伸ばそうとした瞬間、影の手の上に見覚えのある物が出現した。
 それはドリルだった。
 小さなドリルが、まるで独楽のようにくるくると回っている。
 よく見ると、どうやら実際にそこにあるのでは無くただの映像のようだ。ホログラムというやつだろうか。
「えっと……」
 どういう意味かと問いかけようとすると、影はその体の色を赤く点滅させ始めた。
「……気を付けろ、って事?」
 私の感覚からすれば、赤は危険を示す色だ。それが共通認識なのかどうかはわからないが、私に何か伝えようとしている事は間違い無いだろう。
 私の言葉に影は、今度は白く点滅し始めた。
 やはり、ドリルに気を付けろという事なのだろうか?
 しかし、どう危険だというのだろうか。
 何をどう気を付ければ良いのだろうか。
 問い質そうと口を開きかけた私を無視して、影はすっと手を引いた。
 そして一箇所に集まると、軽く床を蹴るようにして、宇宙空間へと旅立って行った。
「ちょっと待って──」
 影達は赤く、ゆっくりと点滅している。
 みるみる遠ざかって行く姿を見つめながら、私は美しい景色も忘れて立ち尽くした。
 心にシミのように不安が広がっていく。
(ドリル……、ドリルが何だっていうの?)
 小さくして、破壊されて、無くなっておしまいでは無いのだろうか?
 まだ何処かに──、何処かでドリルが関わってくるのだろうか?
 次第に体が光に包まれていく。
 私の冒険は、後どれくらい続くのだろうか──。

 ──。
 部屋に戻った私は、慌てて時計を見た。
(……え?)
 今度は携帯電話で日付を確認してみる。
 何と、穴に入ってからたった三十分程しか経っていなかった。
(良かったあ。これなら予定通り一気に残りの穴を……)
 床を見て、絶句した。
(……増えて、る?)
 洞窟の穴に入る前、床には二つの穴だけが残っていた。
 ひとつは部屋の真ん中くらいにあった洞窟の穴。これはもう塞がったらしく、そこにはもう穴はない。
 もうひとつは、部屋の入り口あたりに空いた球体の穴。これはまだ残っている。
 新しい穴は、机と入り口の間くらいの場所に空いていた。
(え、ちょっと困るんだけど……)
 後ひとつ、と思っていたところにこの展開は精神的に痛い。
 さて、どうする。
 新しい穴の観察をするか、それとも球体の穴を塞ぐか。
 ……悩んでいるヒマは無い。
 せっかく嘘を吐いてまで長時間家を空ける口実を作ったのだ。まずは球体の穴を塞いで、新しい穴の事はその後で考えるとしよう。
(ああもう、まいったなちくしょう!)
 心の中で悪態を吐きながら、私は球体の穴の縁に指を掛けた──。
第十八話

   1

 ──。
(これで最後、と思ってたのになあ……)
 体を包む浮遊感に反して、気持ちはずーんと沈んでいた。
 まさか、後一歩で完全攻略、というところで新しい穴が空くとは思わなかった。
 と、いうか、もう穴が増える事はないと勝手に思っていた。
(もしかして、これからもどんどん増えてくとか……ないよね?)
 そんな事『私』は言っていなかったが……。
 いや、そんな恐ろしい妄想は止めよう。
 ──、だんだんと世界が姿を現し始めた。
 今はこの世界をどうすれば良いか、それだけを考えるようにしよう。

「……白っ」
 上から見ていた以上に、この世界は真っ白だった。目をこすってみるが、変化は無い。本当に真っ白な世界のようだ。
(まいったな……)
 辺りを見渡しても何も見えない。黒い球体は、今は地面に沈んでいるらしい。
(……)
 急に球体が現れて、体に触れた場合危険は無いのだろうか?
 たぶん大丈夫だとは思うが、やっぱり怖くて歩き出した。じっとしてても変わらないだろうが、気持ちの問題だ。
 歩いても、景色が変わらないので、歩いているという実感がない。
 どれくらいの広さがある世界なのだろうか?
(……あっ)
 その時、足下──視界のいたるところに黒い水玉模様が出現した。
 自分の足下を見る。良かった、足の真下にはない。
 数秒の停滞の後、球体は音もなくその姿を現した。
 一番近い球体は、私の目の前数十センチのところにある。思っていたよりもずっと大きい。直径は、私の身長よりもあるだろう。つるつるとした質感は、まるでビニールボールのようだ。
(えっと、で、これを……)
 どうしようか。
 手持ちのアイテムは何も無い。
 と、いうことは自らの能力でどうにかするという事か。
 もしかしたら、ここで得た物が次の穴を塞ぐ為のアイテムになるのかも知れない。
(よし)
 まずは小さくしてみようと球体に手を伸ばした。
 すると、球体にはまるで逃げるかのように地面に吸い込まれてしまった。
「あっ、もうっ」
 思わず声が出た。
 真っ白な世界にひとり。
 少し心細くなる。
「あーああー、どうしたもんかなー」
 こんな時は大きな声を出してみる。
 虚しい限りだが、一番効果的だ。
 じっと待っていても退屈なので、また少し歩いてみる。
 退屈な景色。
 今までで一番、ワクワクしない世界かも知れない。
 ……次の世界はどんな世界だろう。
 あまり考えたくないけれど、考えてしまう。
 人生ってこんなものかしら、なんて事も、思ってしまう。
 なんだかんだいって、退屈な日々よりも刺激的な日々の方が楽しい。あんまり刺激的過ぎて、辛かったり哀しかったりするのはイヤだけど。
 たぶん、きっと、私が仕事を辞めた理由も、そういう事なんだと思う。
 ちょっと、ちょっとだけ、刺激が欲しかったんだと思う。
 まあ、こんな常識外れな刺激を想定していたわけではないけれど。
 それでも、やっぱり……、次の世界の事を考えてしまう。
 やだなあ、って思うんだけど……、どこかで、これから先も冒険が続けばと、期待してしまうのだ。
(ハマってるなあ……私……)
 だって、しょうがない。
 こんな体験、他の誰にも出来ないんだから。
 そう、私はゲームをラスボス手前で止めるような人間なのだ。
 クリアを惜しんで、エンディングを放棄するような人種なのだ。
(ま、クリアするけどさ)
 とはいえこれは現実。現実問題、世界を救っても報酬を得られない以上、そろそろ全クリして社会復帰せねば。
 そんな事を考えていると、再び球体が現れた。
 よし、焦ってはいけない。
 そーっと、そーっと、両手を伸ばし、ゆっくりその間隔を狭めていく。
 すると、目の前の球体がすーっとそのサイズを縮めていった。
 よし、よし、良いぞ、上手くいった。
 目の前の球体は徐々にその大きさを変えていき、あっという間に手の平サイズまで縮んで地面に転がった。
 しかし、周りの無数の球体達に変化は無い。
 ……、もしかしてこれは、全ての球体を小さくしないといけないという事だろうか?
 と、考えていると、また球体は地面へ沈もうと動き出した。
(あ、ちょっと待って!)
 慌てて足下に転がった小さな球体を、大きな球体に投げ付けた。
 すると、小さな球体は大きな球体にすっと吸い込まれ、共に地面へと消えていった。
(おっ、とっ、っと?)
 咄嗟に浅はかな行動をしてしまったと反省したが、もしかしたらあながち間違っていなかったのかも知れない。
 何はともあれ、次にまた球体が現れるまで待つしか無い。
(んー、作業ゲーではあるけど、まあレトロゲーみたいで楽しいといえば楽しいかな)
 無論、ゲームと違ってゲームオーバーは許されないので油断するわけにはいかないが。
 目の前の球を小さくして、近くの球に投げて、徐々に集めていく。
 まあちょっと時間はかかるかも知れないが、作業としては楽勝だ──。

 ──。
 ──お……、
(終わらない……)
 しばらく『小さくして、投げ付けて』を繰り返してみたが、見渡す限りの黒い球体は一切減った感じを見せない。これは……、これは何か間違っているのでは無いだろうか。
 再び目の前に球体が現れる。
 ダメだ。
 何か、他の方法を考えねば──。
 そう思っていると、再び球体はその体を地面に沈めようと動きを見せた。
(ちょ、ちょっと……待って!)
 慌てて拡げた両手をさらに拡げ、勢いよく閉じた。
 すると、見える限りの球体が、手の動きに合わせて『キュッ』と一カ所に集まったではないか。そして球体は一個の大きな球体になると、そのまま地面に沈んでいった。
(おおっ!?)
 もしかしたら、これは……、これが正解なのではないだろうか?
 それでもまだ周囲には無数の球体が残っていたはずだ。まだ、焦ってはいけない。
 慌てず騒がず、球体が現れては──。
(集めるっ!)
 現れては──。
(集めるっ!)
 そうこうしていく内に、球体はその数を減らしていき、見渡す限りはあと数個となった。そのサイズもずいぶん大きくなり、もはや見上げるほどだ。
 再び球体が出現──。
(集めるっ!)
 これでついに、見渡す限り全て(全てであって欲しい)の球体が一カ所に集まった。
(よし! どうだ?)
 一先ず様子を見る。
 球体に動きは無い。
 地面に沈む様子も無い。
(何だー? 何だー、私のリアクション待ちかー?)
 球体を小さくすれば良いだろうか?
 いや、それはどうだろう。
 取りあえず試して、大きくすれば良いだろうか?
(えーっと、じゃあ、えいっ!)
 思い切って球体を縮めてみる。
 球体は素直に小さくなったが──。
(ダメ、か?)
 私の体が光に包まれる様子は無い。
 縮めただけではダメなのだろうか?
 それとも方法が間違っていたのか?
 それともまだ他にも球体が?
(ああ、もう!)
 リセットボタンがあれば、一旦リセットして他の方法を試してみたいが、それは叶わない。となれば、ここから何とか正解へ持って行かねばならない。
(ああ、もう。『詰み』とか無いよなこのゲーム)
 ゲームで無いのは重々承知だが、そう思ってしまう。たぶん、どこかで現実逃避をしているのだ。
 と、思っていたら──、
(あれ? え、え、え?)
 急に私の体が光に包まれ、いつもの浮遊感に包まれた。
(え? これで良いの? ほんとに? クリア?)
 混乱する私に何の答えも示さぬまま、真っ白な世界は光の中に消え始めた──。
(うっそぉ……。終わり? これで?)
 結局、不思議な穴の向こうの世界は、この段階まで来ても、私にとっては理解不能な世界だった。
 視界の果てに、黒い、巨大な球体が静かに鎮座している。
 私はこの世界の、何を救ったというのだろうか?
(……ん?)
 ほぼ光に飲み込まれた視界の中、黒い球体が、突如として音も無くはじけ飛んだように見えた。
(え? せっかく集めたのに?)
 はじけ飛んだ球体は、白い景色に消えていった。
 それは、まるで球体自身が白く姿を変えたかのように見えた──。

   2

 ──部屋に戻った私は、すぐさま壁の時計に目をやった。
 短針は『2』を少し過ぎたところ。
 部屋の中は真っ暗だから、深夜二時ということか。
 携帯電話で日付を確認。うん、何日も経ったりはしていない。
 とはいえ、思ったより時間が過ぎている。
(お泊まりすることにしておいて、正解だったな)
 軽いめまいを覚え、そっとベッドに腰掛ける。
 さすがに、疲れを感じた。
 二つの穴へ連続で入ったのは初めてだった。
 床に目をやる。
 球体の世界の穴は今まさに塞がらんとしていた。
 ゆっくりと立ち上がり、もう一つの穴を確認する事にした。
 立ち上がるとまた、くらっと視界が回った。バランスを崩しはしたが、踏みとどまる。少しだけ、頭痛も感じた。
 今夜はもう終わりにするか?
 いや、体が心配ではあるが、どうしても今夜中に全ての穴を塞ぎたい。
 緩く頭を振って、痛いのを『とんでけ』する。
(……あれ?)
 新しい穴に近付くと、何か違和感を覚えた。
(何か、この穴変だな……)
 カーテンの隙間から射す月明かりだけが頼りなのでよく見えないが、確かに、新しく空いたばかりの穴は、今まで見てきた穴と何かが違うような気がした。
 部屋の明かりを点けるわけにはいけない。携帯電話を懐中電灯代わりに、私は這いつくばり、穴に顔を近付けた。
 ──覗くまでもなく、違和感の正体は判明した。
(……塞がってる?)
 穴自体は空いているのだが、何かがその口を塞いでいた。
 携帯のライトでよく照らしてみる。
(これ……球、かな?)
 どうやら、先程の世界で見たような黒い球体が、穴にぴったりとはまっているようだった。球体は縁から少し顔を出しており、黒いので暗闇の中上から見た時はよくわからなかったが、這いつくばって横から見てみると、少し床より盛り上がっている。
(……どうしよう?)
 これは『塞がった』という事になるのだろうか?
 今まで異世界から物を持ち帰った事はあったが、こんな風に穴にはまっていた事なんてなかった。
 大抵は机の上に転がっていたり、手の中にあったり──。
(……ん?)
 無意識にポケットへやった手に、何か硬い物が触った。
 恐る恐る取り出してみる。
 感触の通り、それは目の前の穴にはまっているのと同じ黒い球体だった。
 と、言う事は、このポケットに入っていた球体も何かに使うという事だろうか?
 これで全ての穴が塞がったら、球体が一個余ってしまう事になる。
 思い出に、と取っておきたい物では無い。
(何……? どういう事? どうしろっていうの?)
 くらくらする頭を押さえながら、そっとベッドへ腰を下ろした。
 混乱している。
 ダメだ、落ち着かなくては。
 座ったまま暗闇に目を凝らし、穴を見つめる。
 ──心なしか、穴のサイズが小さくなっている気がした。
(塞がってる?)
 しばらく見ていると、徐々に穴は塞がっていっているように見えた。
 穴が塞がっていくのをちゃんと見るのは初めてだった。
(えーっと……、じゃあ、この球は余りって事?)
 立ち上がろうとするが、上手く力が入らない。それでも何とか気力で立ち上がり、穴に近付く。
 顔を近付けようと屈んだ時には、もう穴はほとんど塞がりかけていた。私はその様子をじっと見守る。
 手持ちぶさたに握った球体の表面を指でこする。つるつるして、ちょっと気持ちいい。
 穴は、あっという間に塞がった。
(……これで、おしまい?)
 球体の世界の穴の方を見ると、もうすでに塞がった後だった。
 と、いう事は、この穴(結局どんな世界に繋がっているか見る事もなかった)が塞がった事で、床に空いた穴は全て塞がった事になる。
 つまり、この不思議な体験もおしまいという事だ。
(何か……、あっけないな)
 ふと寂しい気持ちになって、床に寝転んだ。
 暗い部屋の中、カーテンの隙間から射し込む月明かりだけが私を照らしている。
 初めに穴が出現したのはもう何ヶ月も前の事とはいえ、『私』と出会い、穴を塞ぎ始めてからはまだひと月も経っていない。もう、ずいぶん昔の事に思えるけれど……。
 手の中の球体を玩びながら寝返りをうつ。
 全ての穴を塞いだら、もっと、こう、達成感があるものと思っていた。
 実際の結末はあまりにもあっけなく、達成感というよりむしろ──、
(胸に、穴が空いた感じ……)
 目を閉じると、今までの不思議な体験が走馬燈のように駆け巡った。

『私』からのビデオレター。

 初めての異世界で怖かった事。

 妖精さんやドリアード、ピンクの毛玉ちゃん。

 洞窟の世界であった幽霊さん。

(そういえば……、あのドリルって何だったんだろう……?)

 手元に残ったこの球体もそうだが、残った謎もたくさんある。
 そもそも、異世界は私に何も教えてはくれなかった。
 けれど、知ろうと努力をする事で少しは理解出来たのかな、と思う。
 何もかもがすっきり解明される事なんて、現実世界でもめったにない。
 子供の頃はそんなすっきりしない部分を必死に調べたり、逆にすんなり受け入れたり出来た。例えば、近所の歩道橋の階段が何段あるかが気になって調べに行った事があったし、空想の友達とお話している時期もあった。そういう『不思議』が世界には当たり前にあったのだ。
 しかし大人になると、調べる事を煩わしく思って経験から決めつけてしまったり、変化や未知を受け入れきれずにずっと居心地の悪い思いをしたりしてしまう。
 今回の経験から、何だか童心に帰れたというか、初心を思い出したというか……、上手くいえないけれど、大切な気持ちを思い出せた気がする。
 ──ゆっくりと上半身を起こす。頭はまだ痛んだ。
 さて、これからどうしよう。
 今すぐ眠りたい気分だがそうはいかない。
 私は今ニコちゃんの家に泊まっている事になっている。
 朝になって親に見つかったら、どうしているのか聞かれるだろう。
 夜中や早朝に帰って来たと誤魔化しても、詮索されたらボロが出るだろう。とにかくこれ以上嘘は吐きたくない。
 とはいえ、外に出るのも困難だ。
 階段を降りて玄関へ向かうだけでも物音を立てないのは至難の業だし、玄関を開ける時にも多少の音はするだろう。人間、眠っていてもそういった音には敏感に反応するものだ。
 窓から出るのはもっと難しい。窓の開閉音はもちろん、庭に降りるには飛び降りるしかない。最近少し体重が増えた私には、忍者のような着地は望めない。
(うーん……、まいったな……)
 何か役に立ちそうな物はないかと、すっかり暗闇に慣れた眼で部屋を見渡す。
 その時──、
(……ん?)
 ベッドの足下寄りの床に、何か、黒いものが見えた。
 何か、といったが、見た瞬間に本当はわかっていた。
 鼓動が、スピードをあげる。
 緊張?
 恐怖?
 それとも──?
 呼吸を整えながらゆっくりと『それ』に這い寄る。
 頭痛は治まっていたが、かわりにこめかみがドクドクと脈打っていた。
(……やっぱり)
 思った通り、それは穴だった。
 手の中の球体をぎゅっと握りしめる。やはり、これを使わないまま終わりのはずがない。
(えっと……、この球で穴を塞げば良いのかな?)
 穴の直径と球体の直径はぴったり同じサイズに見える。
(……)
 少し考えてから、まずは穴を覗いて見る事にした。
 たぶん球で塞ぐ方法で間違いはないだろうが、油断は禁物だ。それに、今度はしっかりと、この異世界との別れを名残惜しみたかった。別に急ぐ理由はないだろう。
 穴に顔を近付け、中を覗く。
 これで最後かと思うと感慨深い。
(──あれ?)
 近付けた顔をいったん離す。
 ちらりと見えた景色には、見覚えがあった。
 穴の空いている場所も──、同じだ。
 深呼吸をして、再び穴の中を覗く。
 ……間違い無い。
 そこには、すでに救ったはずのドリアードの世界が広がっていた。

   3

(どうして?)
 頭の中に無数のハテナマークが飛び回る。
 目の前に──穴の向こうに広がる世界は間違い無く『ドリアードの世界』だった。
(え? なんで? ちゃんと救えて無かったって事? それとも……)
 もし、世界が危機に陥る度に穴が空くのだとしたら、私はこの先ずっとこれらの世界を守り続けなくてはいけないというのだろうか?
 冗談じゃない。
 神様じゃあるまいし、こんな事、一生続けられるはずがない。
 それに、私だって……、私にだって自分自身の生活がある。
 怒りとも哀しみともつかない感情が、私の目頭を熱くさせる。
 ……ああ、いけない。
 ダメだ、落ち着こう。
 無意識に振り上げていた拳をそっと下ろす。
 夜の冷気がまつげを震わせる。
 床に這いつくばったまま、深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。吐いた息で唇がほんのりと温かい。
 冷静にならなくては。
 まず、何をしなくてはいけないか。それを考えなくてはいけない。
 そうだ、きっとこの手元に残った球体がヒントだ。
 これでこの穴を塞げば良いのか?
 いや、きっと違うだろう。この球体を使う場所は、この穴の向こうにあるに違いない。
 根拠のない確信が、私にはあった。
 そうとなったらまずは穴の向こうを観察しなくては。
 穴へとそっと顔を近付ける。
 ──うん、間違い無い。ドリアードの世界だ。
 今度はいったい何が起きたのだろうか?
 前回のように闇に包まれてはいない。
 世界は光に包まれている。
 体勢を少しずつ変えて、さらに観察してみる。
 すると、視界の隅に人影(いや『樹影』か?)が見えた。影はひとつではない。複数のドリアードが集まっているようだ。
 何をしているのだろう。
 そこまでは見えない。
 無理な体勢で頑張ってみるが、枝(『手』にあたる部分か)の一部が見えるだけで、表情をうかがう事も出来ない。
(やっぱり、中に入るしかないかな……)
 穴から顔を離し、時計を見る。
 眼がチカチカして、少しだけくらっとする。
 少しずつ時計にピントが合ってくる。短針は真横を向こうとしていた。
 たしか、前回ドリアードの世界へ行った時、あちらで過ごしたのは一時間くらいだったにもかかわらず、実際には五時間以上経過していて驚いた記憶がある。今回はどれくらいで戻って来られるだろうか。
(中途半端に朝方戻って来るのもな……)
 母は毎日午前中に家の掃除をする。私の部屋は「自分でするから」と言ってあるが、入ってこないとも限らない。言い訳が色々面倒なので、部屋にいるところは見られたくない。戻ったところでばったり、という状況は避けたい。
 とはいえ、こちらに戻る時間を調節するのも困難だ。『ファンシー部屋』に行った時は腕時計をして行ったが、時計はピタリと止まってしまっていた。ドリアードの世界では試していないから、もしかしたら時間経過を確認出来るかも知れないが……、期待は出来ない。結局、体内時計に頼るしかないだろう。
(うーん……、どれくらい時間かかるかなあ……)
 現状、向こうで何をすれば良いのかは想像もつかない。あの時より知識も経験も増えたとはいえ、油断は出来ない。
(ゲームだったら、前回はノーマルモード……、いや、イージーモードか?)
 そう、二週目はハードモードと相場が決まっている。
 ゲームのセオリーが現実(これを現実と呼ぶのも抵抗があるが……)に適用されるかはわからないが、簡単に帰って来られるとは思わない方が良いだろう。
 と、なると──。
 携帯電話に手を伸ばす。
 ニコちゃんにもう一泊する事にしておいてもらった方が安全だろう。
 電話、と思ったが、流石にこんな時間に電話は申し訳ない。メールを打つ。

『件名:遅くにごめんね

 本文:明日の朝で良いから、うちの母にもう一泊するって連絡しておいて!』

 ──打ったメールを見つめてふと思う。この文面を見て、彼女はどう思うのだろうか。こんな深夜に、何かあったのかと心配させてしまうだろうか。
(……)
 少し考えてから、送信ボタンを押した。悩んでいる暇はない。
 くぅ、と小さくお腹が鳴った。
 異世界に行っていても、腹時計は現実世界の時間を正確に刻んでいたようだ。
 緊張の糸がふっと弛む。思わず苦笑い。
 気にせず行こうかと思ったが、向こうの世界で空腹で倒れては洒落にならない。あちらで何かを食べる事は出来ないだろうし、出来たとしても『よもつへぐい』となるやも知れない。お腹壊しても困るし。
 仕方ない、と机の引き出しに隠してあるチョコバーを静かに取り出す。
 音を立てないように頬張ると、口いっぱいに甘みが広がった。
 ナッツを噛んだ音が鼓膜に届く。
 香ばしい匂いが鼻を抜ける。
 ああ、生きている、と何となく思った。

 さて、と改めて床に這いつくばる。音を立てないようにゆっくりと、だ。
 眼を閉じて、深呼吸。
 不思議と、もうそんなにドキドキはしていない。
 口の端をちょっと舐めると、甘い味が残っていた。
(よし)
 小さく呟いて、穴の縁に指をかける。
 左手で黒い球体をぎゅっと握りしめる。

 そして──、

 私は新たな冒険へと旅立った。
18, 17

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