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第十九話

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 私はリビングのソファに腰かけ、深いため息をついた。
 いつだったかもこうして頭を抱えた気がするが、今回も非常に複雑な心境である。
 非常に、非常に複雑な心境である。

 現在、私の部屋の床には四つの穴が空いている。
 そう、もはやお馴染みとなったあの『不思議な穴』だ。
 四つに増えたのは先週の事。バイトと友達の約束とで、今日までほとんど観察もせずに放置していた。
 一つ目は『プラちゃんの穴』だ。すでに一度塞いだのだが、先週再び空いてしまったのだ。位置が同じだからもしかして、と思っていたが、今朝覗いて見たところ、間違い無くプラちゃんの穴だった。
 二つ目は『グリッド線の世界』。ここは『もう一人の私』と一緒に冒険した世界だ。『私』の方の世界はおっきなドリルを小さくする事で救う事が出来た。しかし、私の方の世界にドリルは見当たらず、どうしたら良いかわからないうちに部屋に戻されてしまった。もちろん、私の方の穴は塞がっていない。
 三つ目の穴は謎の『球体の世界』。ここは正直よくわかっていない。真っ白な世界に、色んな大きさの球体がいくつも現れたり消えたり……。生き物がいそうな気配はなかった。結構難易度が高いかも知れない。
 四つ目は……、四つ目の穴は、まだ覗いてすらいない。
(だって、忙しかったんだもん……)
 そして今朝。面倒くさいなと思いつつも放置し続けるわけにもいかないので、仕方無しにカーペットを捲ると、一つの穴が拡がっている事に気が付いた。プラちゃんの穴だ。
 思わず飛び退いた。穴の大きさが拡がっているという事は、中の脅威が膨れているという事だ。うかつに近付いたら、強制的に中に吸い込まれてしまう可能性もある。たしかプラちゃんの世界は時間の流れるスピードがとても速かった。何の準備もせずには行けない。
(しょうがない……、今からなら夜には帰れるだろうし……)
 私は母へ何と言って出掛けようか、口実を考えながらリビングへ向かった。

「あんた今日休みなのよね?」
「え? うん」
 朝食の席で母が私に言った。
 父は、今日はいつもより早く出勤したらしい。
「一緒に買い物行かない?」
「買い物?」
「そう。今日パパの誕生日じゃない? 夕飯どうしようかと思って」
「あー……なるほど……」
 いや、今日が父の誕生日なのは覚えていた。だから夕食までには絶対に戻って来ようと思っていた。しかし……。
(確かにね、家にいるんなら準備くらい手伝えって話よね)
「それとも出掛ける予定あるの?」
「あ、いやあ……」
 無いわけじゃないのだから、こういう時は迷わず「ある」と言ってしまえば良いのに、つい言葉を濁してしまうのは悪い癖だ。
「あるの? ないの? あるんなら無理に来なくても良いけど」
「あー……うーん……」
 誕生日を祝いたい気持ちはある。記念日は大事にする方だ。だから出来れば一緒に買い物に行きたい。とはいえ、いつまでもあの穴を放置しておくわけにもいかないし……。
「どっちよ」
「……一緒に行く」
 おめでとうの気持ちが勝ったのではない。どちらかというと、世界を救う事の面倒くささに負けたのだ。パパごめん。
「大丈夫なの? 予定あったんじゃないの?」
「ううん。大丈夫」
「あ、そ。じゃあ、お昼食べてから行く? それとも、外で食べる?」
「行くの夕方で良いんじゃない?」
「良いけど……。あんた服とか見ない? 色々見るなら早く行った方が良いじゃない」
「いやあ、今日はそんなショッピング気分では無いかな」
「ふうん。じゃあ三時くらいに行こうか」
「了解」

 そして、今に至る。
 時計を見るとまだ十時。
 今から穴の中に行けば、ギリギリ十五時には戻れるかも知れない。
(うーん……)
 行った方が良いのはわかっている。悩んでいるのは──複雑な心境なのは、結局のところ──、
(めんどくさいなあ……慌てて救って戻って、買い物行って……うーん……)
 そう、とにかく面倒くさいのだ。
 あんなに感じていたワクワク感も今は何処へやら、だ。
 バイトは楽しいが疲れる。出来れば休日にはしっかりリフレッシュしたい。
(あー……やだなー……)
 取りあえず、自分の部屋に戻る事にした。

 部屋に戻り、カーペットを捲る。
 プラちゃんの穴は普段の倍くらいの直径まで拡がっていた。
(……)
 あの時に見た、プラちゃんの顔が脳裏に浮かぶ。
(……よし、行くか)
 大丈夫、パパッと片付ければ何とかなるだろう。
 そうと決まれば、と再び階下に戻る。
「ママ」
「ん? なに?」
「ちょっとだけ出てくる」
「あ、そ。買い物は?」
「大丈夫、行くよ。あ、でも、戻るの遅くなったら先出ちゃって良いから」
「別に無理して来ないでも良いよ?」
「ううん。私も行きたいから」
「了解。駅前のいつものとこね」
「わかった」
「お昼は?」
「うーん、いらない」
「ん」
 これでOK。
 私は自室へと戻った。

「よし」
 寝間着のシャツから幾分かマシなシャツに着替えると、気合い充分、床に這いつくばった。観察してから行った方が良いが、今は時間が惜しい。たぶん、何とかなるだろう。たぶん。
 深呼吸。大丈夫、慣れたものよ。
 そして、プラちゃんの穴に指をかけて──、
(あれ?)
 もう一度、プラちゃんの穴に指をかけて──、
(あれれ?)
 穴が拡がらない。何の反応もない。
(え? どうして?)
 少しだけパニックになり、一旦顔を穴から離す。
 予想外の展開だ。
 絶対に入れると思い込んでいた。
(えーっと……、どういう事だ?)
 もしかして、先に別の穴を攻略しなくてはいけないのだろうか。
(って、どれからよ)
 穴は他に三つもある。それら全てを夕方までに救うのは不可能だろう。
 取りあえず立ち上がり、床の上を見渡す。
 他に拡がっている穴は──、なさそうだ。
 まだ見ていない穴を覗いてみるか?
 机と入り口の間くらいに空いた穴に近寄り、しゃがみ込む。そこからゆっくりと姿勢を変え、穴に顔を近付ける。
(……)
 真っ暗で何も見えない。
 今度は『グリッド線の世界』の穴を覗いてみる。やっぱり、何も見えない。
 ならばと『球体の世界』の穴を覗いてみる。
(……)
 以前覗いた時と変化は無いように思える。
(え、え、え、どうしよう。参ったな)
 三つのうち二つは真っ暗。もし何処に入るか、と考えたら、一番無難なのは球体の穴だろう。しかし、どれくらいの速さで時間が過ぎるか予想もつかない。
 グリッド線の世界ならば、多少は時間の計算が出来るが、どうすれば攻略出来るのかがわからない。『私』の方とは方法が違うのだろうが……。
 いっそもう一つの真っ暗な穴に入ろうか?
 こうなったら、少しくらいやけくそになっても良いかも知れない。
 勢いに任せて未知の穴へと顔を寄せる。
 やはり、真っ暗。
 若干怖じ気づきながらも、穴の縁に指をかけてみる。
「女は度胸だ」
 などと呟いて、思いっ切り穴を──、
(……えー、うそだあ)
 念の為もう一度、思いっ切り穴を──、
 無反応。
 この穴にも入れないようだ。
 何だかもう、どっと力が抜けてしまった。
 床にだらしなく腹ばいになる。
(……どうしよう)
 あと二つの穴も試してみるか?
 いや、すでに完全に心は折れている。
(……)
 のそりと立ち上がり、カーペットを敷き直す。
 そしてだらしない歩き方で階下へと向かう。
「行ってらっしゃい」
 母がこちらを見て言った。
「……やっぱ出掛けない事にした」
 そう言ってソファに腰を下ろす。
「そうなの?」
「うん」
 これは本腰を入れて解決に向けて動かなくてはいけないかも知れない。
 時間を見つけて少しずつ、と思っていたのだが……。
(バイト、休めるかな……)
 出来れば来週、月曜と火曜だけでも休めれば……。
(明日相談してみるか……)
 急な休みは間違い無く迷惑だろうが、あまり悠長な事は言っていられない。
 私は鬱々とした気分のまま、ぼんやりとテレビの画面を見つめた。
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