雨傘くらいの幸せ
雨傘くらいの幸せ
雨の感触が好きだった。
私は彼の傘に潜り込んで、ただ傍にいるだけ。
平静を装いながら、でも胸はすごく高鳴っていて、内側からじんわりと広がる暖かさがまるでチョコレートみたいだなんて思った。
「天峰さんは雨、好きだったっけ」
尋ねられて私が頷くと、彼はそれっきりまた黙りこんでしまう。
校門を出て間もない小路を、私達はいつも歩いていた。帰り道がほとんど同じなのもあった。通学路を逸れた住宅街を横切って、小さくて流れの穏やかな川に架かった橋を渡って、Y字路で別れを告げる。とても短い帰り道。
元々彼に興味を持っていたのは確かだった。女友達から言わせたら、そんなにハンサムでも無くて、話が面白いわけでもなければ、聞き上手ってわけでもない印象の薄い男子らしい。
けれど、なんだろう。私はそんな彼の不器用だけど、穏やかに日々を繰り返す姿が、魅力的に映った。私はいつもなんでも気になって仕方がなくなってしまう方だから、何事にも動じず、マイペースを貫き通す彼の姿を見て、ちょっとだけ羨ましさを感じた。
一つ傘の下で互いに口を閉ざしたまま私達は橋を渡る。ほんの十五歩くらいで終わる小さな小さな橋だ。川は雨で少しだけ水かさが増えて、流れも少し早くなっている。けれどその中で魚達は何事もなく泳いで、隅では小さな緑色の蛙が欠伸でもしそうな顔をしている。
「蛙だ」
私がそう言うと、彼はそうだね、とだけ口にしてまた黙ってしまう。私は返事が貰えた事が嬉しくて、にやにやと歪む表情を見せないように川の方に顔を向けた。低くて、落ち着いた彼の声と、喋る時に動く彼のくっきりとした喉仏が好きだ。ちらりと横目でそれを見て、喜んでしまう私はきっとかなり単純なのだろう。
犬じゃなくて良かったと時々思う。だって尻尾があったら、出会ってすぐに彼にこの気持が気付かれたに決っている。
橋を渡り終えて、とうとうあのY字路がやってくる。大分にやにやが落ち着いた私はちらりと彼を横目に見て、それから透明なビニール傘越しに空を見上げてみた。
どんよりとした分厚い灰色が空を覆って、沢山の雨を降らせている。小さな粒はひゅるると落ちて、傘にぶつかるとぽつ、ぽつ、と音を立てて跳ねて、それからつるると滑ってまた落ちていく。
私の横を滑り落ちていく雨粒を眺めながら、ふと彼の方に目をやると、彼の右肩はすっかり青黒く湿って、重たそうな色に変わっていた。私の左肩と、彼の右肩の違いを見て、少しだけ申し訳なさを感じてしまう。
「貴方ばかり濡れてる」
ごめんなさい、と続けて口にしようとしたけれど、彼はそれを首を振ることで遮って、再び前を向いて歩き出す。だから私もそれ以上何も言わなかった。それこそ彼に対して失礼な気がしてしまったから。
コンクリートの道路には幾つもの水たまりができていた。靴先を濡らすくらいの小さなものから、すっかり濡れてしまいそうな大きなものまで様々だ。
仄暗い色のまま水たまりは直ぐ側の民家を映していて、雨粒が落ちる度に波紋が、切り取られた風景を揺らす。ぽつん、ぽつんと幾つもの円が広がっては消えていくのを見ながら、私はなんとなく気分が良くなって鼻歌を歌ってみせた。
すると彼は私の鼻歌に反応し、暫く考えてから、
「ペニーレインだ」
と口にした。
頷くと、彼は不思議そうに空を見上げる。
「でも、今日は雨だ。空は青くはないよ」
「そんないじわる言わないで」
私がそう言うと、彼は納得できないように眉を寄せてまだ空を見つめていた。
好きだから少し歌っただけなのに、彼は真面目な顔で返してくる。いつだって彼はそうだ。私が変なことをするとすぐにそのおかしさを指摘して、理解しようとして、でも結局納得できずに首を傾げてしまう。
「君の考えていることはいつも不思議で、難しい」
「貴方が難しく考えているだけよ」
そう、彼が考えているほど、私はそんなに難しいことは考えてなんていない。
雨が綺麗だとか、水溜りに映る景色が好きだとか、ふとペニーレインを歌ってみたいなと思って鼻歌で歌ってみたり。
その全てに何も意味は無い。ただ気分が良くなったからそうしているだけ。
彼はきっと私の頭の中を理解しようとしているのだろうけれど、多分、きっと、そんなことはこれから先も出来ないだろう。彼はとても穏やかで、マイペースだから、他人の考えを察して先を歩くような事なんて決して出来ない。
だって、もし彼が私を理解できていたら、この鞄に入っている折り畳み傘だってきっと見つけてしまっただろうし、今日、彼の出てくる時間に合わせて玄関口で困った顔をしていたのだって、すぐに察していたに決っている。
「そろそろ、Y字路だね」
彼の言葉に顔を上げると、橙色のカーブミラーが分かれ道の中央に少し屈むようにして立っていた。もう随分前からこんな調子だ。すっかり腰を悪くしたミラーに映る私と彼の姿を見ながら、私はあっという間だな、とスカートの裾をぎゅっと握り締めた。
透明なビニール傘に、頭一つ分違う男女が並んで入っている。彼の右肩から足にかけてはすっかりずぶ濡れで、きっと靴の中も水で一杯になっている。対して私はほんの少し湿ってはいるけれど、それだけだ。
「随分濡れちゃったね」
彼は自分の帰路を見つめながら、うん、と頷いた。それから私の行く先を見つめながらもう一度うん、と頷く。
「ここからはすぐだから。本当にありがとう」
彼に向かってはにかんでから、私は彼の傘を出ていこうと一歩足を踏み出す。
「天峰さん」
名前を呼ばれて、一緒に腕も引かれた。
珍しく彼が大きな声を出すものだから、私はそのどちらにもうまく反応できなくて、そのまま体勢を崩して彼の胸に飛び込むような形になってしまう。外見で見るよりも堅くて、広い胸だ。とくん、とくんと脈打つ音が、何故だか心地よかった。
「傘、無いんだよね?」
「うん」
「まだ、雨は降ってるよ」
「うん」
「……送っていくよ」
うまく反応できない私にそれだけ言うと、彼は私を立たせて、それからY字路の左側に向けて歩き始める。私もその傘の中から出てしまわないように慌てて彼の隣に付いて歩き始めた。
「ありがとう」
返事は無かった。横目にちらりと彼を見ると、少しだけ頬を赤らめた顔が見えて、それがなんだか恥ずかしくて、身体の奥底からじんわりと熱が上がってくるのを感じた。
なんとなく、そっと彼の握る柄に手を添えると、彼の左手が小さく震えた。
「やっぱり、雨の日は好き」
「そんなに?」
「うん、大好き」
そう言って微笑むと、彼は一度小さく咳払いをして、それから私の鞄を見た。
「また忘れそう?」
その言葉に、私は驚いてしまう。
なんだ、私は思ったより彼のことを甘く見ていたみたいだ。
「私ね、忘れっぽいから。また忘れちゃうかもしれないなあ」
彼は声を出して笑う。
初めて見た顔に、私は嬉しくて彼に身を寄せた。
雨は好きだ。
だってこんなにも私と彼の世界を狭くしてくれるのだから。