あの川をわたると
半袖の薄い白シャツから伸びた二の腕から、なだらかな上腕を下って、ほんの少し華奢に見える手首から細く繊細な指先へ。その指先が摘んだ線香花火の先端がぽとり、と落ちた時、ああ、私は彼に恋をしているんだと自覚した。
彼はしばらく落ちてしまった線香花火の残骸を見下ろしていた。今にも事切れそうなのに、その火はまだ煌々と、冷徹な夜のコンクリートの上で呼吸をしていた。
私は隣で浴衣の襟を引き上げる。線香花火は彼よりとっくの前に落ちて、燃え滓は私のサンダルの下で蹲っている。
川を挟んだ土手の先で、屋台の明かりが強く灯っている。どこからともなく聞こえる鼓笛の音が蝉の音混ざって風に乗り、奥の森の木々を揺らす。
「ねえ、上京するってほんと?」
これまで言えなかったことが、すんなりと口にできたのは、どうしてだろう。隣で彼が口を小さくぱくぱくと阿呆みたいに続けた後、やがて頷いた。
ふうん。私はコンクリートにぺったりとおしりをつけて、足を投げ出した。土手の奥でちびっこたちが威勢のいい花火を片手に駆け回っている。斜めに茂った雑草が太腿を撫でている。とてもくすぐったいけれど、ひんやりと冷たくて悪くない。
「それって、どうしても大事なの?」
「大事って、上京することがってこと?」
「そうだよ、それ以外にないでしょ」
我ながら身勝手な質問だ。でも、もう彼はそんな私の身勝手で奔放なところを知っているからか、それほど気にする様子もなく、ただ遠くを見つめて、口元に手を当てている。もう十年近く見てきた癖だ。言葉に詰まると彼は必ずそうする。
「やりたいことをするためには、必要なことなんだ」
「ここを出ないとできないことなんだ」
「そうだね、ここの生活もいいけど、できることとできないことの取捨選択はちゃんとしなくちゃいけない。僕はここで一生を過ごすのは、多分無理」
「それを、卒業後もこの町に居続ける私の前で言う?」
また言ってしまった。でも言ってしまったことはしょうがない。口を尖らせて拗ねたふりをしてみせると、彼はまた困った顔をして、口元に手を当てていた。
小さな頃はもっと深くて、気持ちの良かった川は、今では浅く、ちびっこたちの足首を舐める程度になっていた。昔はここで釣りをした。夏の熱い日は、すぐ傍の小橋から飛び降りたりもした。
あの頃のキラキラは、どこへ行ってしまったのだろう。
すっかり擦れてしまった私と、この町にいる意味をなくした彼と。まるで平行線を辿るような先の道を、私は目を細めて見つめていた。
「たまには帰ってくるよ」
きっと、随分と考えて、削ぎ落とした末に出た言葉なのだろう。
「ほんと?」
「ほんとだよ」
私たちのうしろをかき氷を片手にちびっこたちが駆け抜けていった。サンダル特有のひきずるような足音が抜けていく中で、彼は顔を上げると、私をじっと見つめる。
「だって君はここにいるんだろう」
「そうだよ、私は、ここにいるよ。多分、一生」
「一生、っていうのはちょっと違うかもしれないよ」
彼はそう言って、微笑んだ。ずるいな。私は口を結んで彼から目を背けると、川辺に目を向けた。
「どれくらいかかるの?」
「さあ、四、五年くらいじゃないかな」
「忘れそう」
「忘れないでよ」
「じゃあ、忘れられないよう努力してみせてよ」
そう言って顔を上げてからのことを、私はすぐに理解できなかった。
ずるいなって思った。
あれだけ、長い間幼馴染として線を引いて、距離をとっていたのに。
どれだけ浅くなったとしても、彼はこの川辺を渡ってくることはないと思っていたのに。向かい側の土手から眺め合うだけで終わる気がしていたのに。
君はもうすぐいなくなるのに。
こんな風にもどかしくされても困るのに。
ゼロになった距離の中で、私は彼の胸に触れて、シャツをぎゅっと掴む。
いつもあんなに頼りなかったのに。
彼の体は、今だけはぴくりともしなかった。