その日、私は本当にどうしようも無い理由で家を出るのが二十分遅れた。
目が覚めた時間がいつもより十分遅かったこととか、お母さんがいつもより少し機嫌が良くて、朝食が少し張り切ったものだったこととか、普段ならすぐに直る筈の寝癖がどうやってもハネていたりとか、そういう些細な出来事が幾つも重なって、結果として二十分家を出るのが遅れてしまった。
私の家から駅まではバスで十分。いつも少し早めのバスに乗って行っているから、普通なら間に合う気がする。でも、その日は大通りが渋滞していて、私がいつも乗っている二十分前のバスが少し遠くに見えたから、このままじゃ間に合わないと思った。
兄の自転車と、駐輪場の番号は覚えているから、玄関の靴箱の上に適当に置かれていた鍵を勝手に拝借して、ダッフルコートの前をしっかりと留めてから、サドルに跨って、私は勢い良くペダルを漕ぎ始めた。
ひと漕ぎ、ふた漕ぎする度に私は脳裏に彼の姿を思い浮かべていた。どうしよう、間に合うかな、遅刻かな、あの電車の、あの車両で、本を読む彼に会えるかな。
前バスケットに投げ込まれた学生鞄がカタン、カタン、と揺れる。タイヤが回って、スポークの線が薄い円になって、しゃあ、という軽快な音を生み出す。
渋滞に巻き込まれた自動車の横を一つすり抜ける度に、十分間の遅れを取り戻せる気がして、私の心はなお一層逸った。
腕時計の時刻は午前七時五十秒。規則正しく動く秒針に恨めしい気持ちを感じながら、私はペダルを強く踏み込んだ。
でも、間に合ったとして、私は結局あの窓越しに彼を見るだけなわけで……。
はらりと崩れたマフラーを後ろに乱暴に回す。それがなんだというのだ。見ているだけで何が悪い。だって、彼のことを私は何一つ知らないのだから。一つも知らないのに、どうしてか好きになってしまったのだから。
そんな小さな恋に全力を出してしまう自分が恥ずかしい。でも、これが私だから。
彼がどんな人なのかとか、彼女はいるのかとか、何が好きなのかとか、いつもどんな本を好んで読んでいるのかとか、毎日妄想してる。
多分私がしてる妄想と全く彼が違う人でも、私は変わらず恋してしまう気がする。
このペダルみたいに、正直に、漕いだだけ速度が出るみたいに、まっすぐな気持ちを抱けたら、どんなに良いだろう。
そうしたら、あんな窓越しじゃなく、直接彼に話しかけられるのだろうか。
午前七時十四分。駅はまだ少し、遠い。
駐輪場に自転車を停めて、乱れたマフラーを巻き直し、すぐ隣のミラーの付いた自転車で髪を直した。朝からずっと強情だった髪がまたぴんと跳ねていて、冷たい風に沢山当たったせいで鼻の頭と頬が真っ赤だ。
鼻を啜ったらずず、と情けない音が出た。おまけに少し目が潤んだ。
午前七時三十分。
いつもの午前七時二十四分発の電車は、もう行ってしまった。私は鼻水を啜って、鍵をダッフルのポケットに突っ込むと、学生鞄を手に提げて、何も言わずに駅の改札を通った。定期は今週中に切れるらしい。お母さんに言わないと。ついでにお小遣いの日も近いから、一緒にお願いしよう。
大事なものが過ぎ去ってしまった後って、どうしてか不思議と頭がすっきりする。漕いでいる間は彼のことしか思い浮かばなかったのに、毎日のように見ていたあの読書姿しか思い浮かばなかったのに、今は彼以外のことしか浮かばない。
きっと、もう発車してしまったからだ。過ぎ去っていく電車の姿を想像しながら、自分の気持ちも一緒に遠ざかっていくような気がした。
電光板を見上げると、次の電車の到着時刻が表示されている。
私の乗る○○行きは、次は三十四分着らしい。その次の電車に乗っても、学校には多分間に合うと思う。
すぐ隣の電光板には、彼の利用している線の次の時刻が表示されている。同じく三十五分。
改札を入ってすぐ手前の階段を登れば、いつものプラットフォームだ。
でも、その日、私は、その階段を通りすぎて、奥の階段へ向かっていた。
彼がもう行ってしまったから。去ってしまった後のプラットフォームだから。いつもは踏み出せない一歩が、彼がいないという確信があるだけで、こんなにも普通に踏み出せるとは。本当に、気が小さいなあ、と思いながらマフラーに口を埋めて、鼻を啜る。
一段、一段、ペダルを漕ぐように踏みしめて上っていく。彼はいつも、どの駅で降りるんだろう。そういえば高校はどこに通っているんだろう。いつも制服を見ているのに、それを調べようとは思わなかった。
違う、知るのが怖かったんだ。
何か一つでも知ってしまったら、知りたくなかったことまで一緒に出てきそうな気がして、怖かったんだ。私は、私の知りたい、都合のいいことだけ知りたい。だって実るはずのない片思いなんだから。接点の無い一目惚れなんだから。実らない分、良い思いだけさせて欲しい。
階段を登り終えて、私はいつもの位置へ向かった。午前七時二十四分発八両編成の、前から三両目が停まる位置へ。
彼がいつも乗っている辺りに立って、私は顔を上げた。
三十五分発の電車の扉が閉まって、滑るように走りだす。いつもの位置に彼の姿は無かった。分かっていたけれど、胸が痛くなった。
走り去った電車を見送って、私はマフラーに顔を埋めたまま下唇を噛みながら、再び正面を見た。
そこに、彼がいた。
向かいのプラットフォームに設置されている青色のベンチの、左から二番目。彼はそこに座って、一人本を読んでいた。
どういうことか理解がうまくできなくて、私は暫くぼうっとしたまま彼の姿を見て、立ち尽くしていた。
彼が、顔を上げた。
私と、目が合った。
彼は本に栞を挟み、鞄にしまうと立ち上がって、そのまま黄色い線の前までやってくる。私のいつも乗る、午前七時二十四分発八両編成の後ろから三番目が停まる辺りに。
彼と私は、暫くじっとお互いに見つめ合っていた。
何か言わなくちゃ、そう思っても、なかなか言葉が見つからない。聞きたいことは沢山あるのに、どうして、そこにいるんですか、とか。いつも見ていることに気づいていたんですか、とか。いつも何の本を読んでいるんですか、とか。
真っ白になった頭の中で、ふと一つ浮かんだ言葉があった。
私はマフラーを手で押し下げて、埋めていた口を晒す。頬が赤いのは、寒さのせいだ。鼻が赤いのも、寒さのせいだ。身体が暑いのは、必死に自転車を漕いできたせいだ。言葉が出ないのも……。
違う、全部、彼のせいだ。
「あの、おはようございます」
「その、はじめまして」
重なった言葉に、私も彼も目を丸くする。きょとんとした彼の顔が可愛くて、私は胸がどきんとして、それから、この状況がなんだかとてもおかしくなって、私は思わず笑ってしまった。
彼はそれを見て、少し恥ずかしそうに顔を赤らめてから、笑い返してくれた。
「ごめん、実は、ずっと君を見てた」
「ごめんなさい、私もずっと貴方のことを、見てたの」
じゃあ、一緒だ。
彼が照れくさそうに、そう言うのを私は聞いた。
互いのプラットフォームの時計は、午前七時四十四分を指し示していた。