それから。
薄荷菜月という一人の女性を犯した私の人生は、驚くほどに変わりなかった。もちろん精神面においてはあの日が大きな変化をもたらしたのは言うまでもないが、とりあえず事件が警察に発覚することはなかったらしく、すぐにまたいつもの日常が戻ってきた。いつもの、何の希望もない毎日が。
がたた。
建てつけの悪い引き戸を無理やりこじ開けて、朝の教室へ足を踏み入れた。
何百回と繰り返されてきた行為だが、きっと慣れることはないだろう。教室に入ると一瞬だけ生徒達の視線が集まって、しかし私の顔を見て無言で散ってゆく。何か悪いことをしているかのような、いわれのない背徳感。
特にあの事件以来は神経質になっていて、もしも、朝教室に入るとみんながあの事件のことを知っていたら。そんな風に考えると、過呼吸になりかけたのも一度や二度ではなかった。
――私が自分の席に座ろうとすると、その周辺に固まっている男子連中がこちらを見た。
わざわざ関わりたくもないのだろう。「ここ、座ってていい?」と聞くこともなく、黙って席を明け渡してきた。
“邪魔くせえ”。随分身勝手な言い分を吐き捨てて、彼らは窓際へと移動した。
「…………」
すぐには腰を下ろすことが出来ずに、少し立ちすくんでしまった。
彼らが窓際でまたいつものように談笑を始め、どっと笑い声が起こったのを確認してから、やっと静かに腰を下ろす。
言うまでもなく胸糞悪い。ただそれでも、以前ほど胸に黒い物を溜め込むこともない。「いざとなればお前らなんか殺してやれるんだぞ」という自信が、私の気を軽くしていた。一人一人腸を取り出して並べ、フリーマーケットで叩き売りしてやろうか。高嶋の切り落とした右足で、山本が気絶するまで尻穴をほじくってやろうか。そんな妄想に浸るだけで、すごく楽しい気分になってくる。ワイシャツの下に仕込んだ包丁を、右手でなぞるようにしてその感触を確かめた。いざとなれば自殺してしまえば良い、そう考えるともう、自分に出来ないことなど何一つないように思える。この教室で、いやこの学校、あるいはこの地区で、私が最強になったのだ。思わず漏れそうになる含み笑いを必死に殺しながら、いつものように机に顔を伏せた。
その時、担任が教室に入ってきた。伏せたばかりの顔をうっすら起こす。朝のSHRにはまだ早いはずだ。担任はすぐに目当ての生徒を見つけると、慌てて名前を呼んだ。
「加藤」
私だった。
瞬間、心臓が激しく脈を打ちだした。もしかして――。その思いが頭の中を駆け巡る。ガタガタと震える手足を操って席を立つ。もし……あの扉の向こうに警察がいたら。
担任の元へと歩む途中で、椅子に座る薄荷の顔を見た。じっと正面を見つめたまま、決してこちらを見上げようとはしない。その瞳は、どういう意志を語っているのだろうか。ワイシャツ越しに包丁の取っ手をぎゅっと握り締めた。
「お子さん、もう産まれるらしい」
「あっ」
思わず間抜けな声が出た。
あの事件で頭が一杯になっていたが、元より大して興味もなかったのだが、母の出産予定日が近いのだった。
「どうする? 一応、病院に行っても良いんだが」
「あ……じゃあ、はい。行きたいです」
別に行きたいことはなかったが、授業をサボれるなら喜んで。その程度の気持ちで教室を出る。その背中を、薄荷が睨むようにして見つめているのが感じられた。
○
教師の車に乗せられて、病院まで真っすぐ送り届けられた。ちぇ、コンビニ寄ってジャンプ読みたかったのに。母の出産よりドラゴンボールの続きが大事。そういう子だった。
病院に着く頃には、出産はもう佳境を迎えていたらしい。階段を駆け上がって廊下に出ると、産声が響いてきた。
「“コレ”ですか?」
看護師さんに尋ねると、彼女は黙って頷いた。その顔はやけに強張っている。どうしたのだろうか。
「……あのね」
看護師は静かな口調で切り出した。
「産まれるまで、あなたには黙っているように言われていたんだけど――」
駆けた。
はぁ、はぁと息を切らし、病院の長い廊下を私は駆けた。必死で駆けた。それまでの人生のいつよりも。
分娩室の扉が開き、母とその新生児が運び出されてきた。
「母さん……!」
声を上げると、一瞬だけ母と目が合った。
母はすぐに目を逸らしてしまうと、ぐっと口元に力を入れ、その瞳に涙を溜めた。
私は更に駆け寄り、産まれて来た子をこの目に捉えた。
ない。
右腕と両足が、ない。
堪え切れなくなった母がとうとう涙を溢れさせ、嗚咽を漏らして泣きだした。その嗚咽は産声にかき消されほとんど聞こえてこなかったが、その姿は私の目に焼き付いた。
これは、“不幸”だ。
奇形児として生まれ、もしかしたら母親にも拒絶されている赤ん坊。家計に余裕もないというのに、こんな子供を産んでしまった母。しっかりとした姿で産んであげることができなかった、母。
――この子の面倒は、俺が見ていきたい。
想像を越えて遥かに生々しいシーンに思わず口を覆いながら、私はそう思った。