分解されたLとOとFとTが歯車に巻きこまれ、まわりながら奏でる音楽を聞きつつ、舞奈は百貨店と百貨店の間に渡された空中連絡路の下をくぐろうとしていた。
目の前から左右へすりぬけていく人の波の中で、ひとりだけ動きを止めた水滴がいた。舞奈は彼を横目で一瞥すると、特別何か感想を抱くわけでもなく、他人と同じようにその男の目の前を通りすぎた。
ただ、舞奈は男がすこし気になった。体がいいとか、そんな浅はかな理由じゃない。
その男が、舞奈のことを凝視していたような気がしたからだ。
男は髪を一本いっぽんハネさせて、まるでハリネズミのような頭をしていた。ルーズな身なりで溢れている街の中、背広を決めているのは男の他には十人中おおくてもふたりかそこらだろう。
舞奈は薄気味悪くなったので、きもち歩く速度をあげた。別に男に見られるためにここに来たわけじゃない。とりあえず交差点まで行けば地下通路への入口がある。そこに到着すればホームへ逃げこめる。
休日の街はとても賑やかで、人の波はとても高い。もう常時満潮だった。
舞奈はスニーカーを黒くなったガムや水分を吸ってふやけたあとに四散した広告が散乱する薄汚い歩道に擦りあわせ、地下通路の入口がある交差点の先までは、ワンブロックもない。
レンタルショップが入っている巨大な液晶画面を面に貼ったビルの一階にある入口から階段を降りようとしたとき、耳元で知らない声がささやいた。
「ねえ、いいバイトしない」
ふりむくと、さっきの男が腰を据えていた。
舞奈は行動を停止した。
逃げるか、何か声をあげればよかったのかもしれないが、どうすればいいのかではなくどうするかということさえ思い浮かばなかった。
舞奈が男の目を見たまま動かないので、階段を昇り降りする人々は怪訝そうにふたりを見た。この街での少女と成人男性の組み合わせは、後ろめたいことに直結するといっても過言ではない。
男も雑踏から放たれる無数の視線に気づいたのか、舞奈との距離をひろげ、口角を上げ柔和な表情をつくってみせた。
「ここだとジャマになるし、どこか落ちついた場所で話そうか。ちょうどここの二階に、いいとこあるし」
舞奈が首を動かす前に、男は店の入口へと足を踏みこんだ。舞奈も反射的に男の背中を追っていた。
注文するカウンターは入口のそばにある。男はメニューを見ることなく、もっとも質素なメニューをオーダーした。この季節はホットでもアイスでも飲み心地がいい。
無意識に舞奈もカウンターの上にあるメニューを見あげた。歩きっぱなしだったから、正直なところ何か飲みたかったのは本当だった。
「いいよ、甘いものたのんでも。君、駅の百貨店に入ったあと、いったん線路沿いのCDショップに入ったでしょ。何階だっけ、たしかJ‐POPのフロアだったかな。で、次にさっき歩いてたところで迷って、やっと空中連絡路がある通りの先にあるホームセンターに着いたんだよね。やたらフロアの番号の振り分けっていうのかな、それが複雑だから、すぐ見失っちゃったけど。あのあとまた同じような店に行ったってことは、雑貨か画材を探していたの? あ、CDも選択肢に入るか」
男が唐突にべらべらと舞奈の歩いたルートを喋りはじめたので、舞奈はまた動きを停止させてしまった。店員は男を一瞥するが、不信感を顔には出さず舞奈の注文を待っている。
「あ、ごめん。つい話してしまった。どうぞ、詳しい話は座りながらしよう。先に注文をして」
舞奈はボソッと店員にメニューを伝えた。大きさはトール。値段を気にして、いつもは頼まない飲み物だった。
品物を待つあいだ、はじめて舞奈は男に口を開いた。
「あなたは、誰なんですか」
「うーん、上で話す」
「じゃあ、どうして私の行動を知っていたんですか」
「それも上で」
「なら、私の行動を追っていたのは」
「あ、飲み物できたみたいだよ」
男はここで質問に答えたくないようだった。その証拠に舞奈が問いかけるとき、ずっと目を逸らし、ときどき腕時計と店員に視線を移していたのだ。
男は飲み物を両手で持つと、エスカレーターに乗った。並んで乗ることができない狭いエスカレーターだった。舞奈は二階へ上がるまでのあいだ、男の背中を見ていた。
席はほとんどうまっていて、ふたりが並ぶほどの余地もなく、さっきのエスカレーターみたいだと舞奈は思った。そのなかでも男は目敏く空いている席を見つけ、腰をおろした。窓際のカウンター席で、巨大な三角形の交差点を人々と車がせわしなく往来している風景を臨むことができる席だった。
男は舞奈に注文の品を渡すと、小さくカップを傾けて軽い一口目を飲んだ。店内は街に劣ることなく騒がしい。それが他人には聞かれたくない話をするのに、ちょうどよかった。
舞奈も一口飲むと、再度男に同じ質問をした。
「ところであなたは誰なんですか」
「俺はね、スカウト」
舞奈は一瞬目を伏せた。この街のスカウトは、ときどき携帯が受信するスパムの何倍もうさんくさい。
「引いたかな。ま、しょうがないよね。むしろはっきり言わせてもらうと、俺も引いてる」
「誰に」
「君の他に誰がいるわけ」
スカウトに引かれるのも、ずいぶん失礼な話だ。舞奈は眉を顰めかけたが、男に感情を悟られまいと平然とした表情を保つことに努めた。
「だってさ、普通なら知らない男に『いいバイト』とか言われたらそそくさと逃げるよ。スカウトの俺がいうのもおかしいけど、ここのスカウトなんて百パーR?な内容じゃん。君は話しかけられたら固まっちゃったわけだよ。で、こっちが強引に引きつれようとして先に歩いたら、ついてくるんだから引かないわけないっしょ」
「あれは身体が勝手に動いたというか」
「いいよ。馬鹿にしているわけじゃないんだ。俺も女の子探すの疲れていたし。そろそろ自分の手で魚の口に釣り針ひっかけてもいいかなって、そう思っていたところの一発目でヒットしてくれたから。ありがたい話だよ」
「人を魚に例えないでください。私が生臭いみたいじゃないですか」
「面白いこというね、君。見た目はすごい地味なのにさ」
男の何気ない一言に、表情を保とうとした舞奈の顔が歪んだ。
「ごめん。気にしてるの」
「いいえ、本当のことですから。たぶん、あなたよりもこの街では浮いていますよね」
すぐさま男は口調を変える。優しいレインコートのような語り口。ずいぶん女の扱いに慣れている人なんだなと、舞奈は心内で呟きつつ、平気なふりをした。
だが、舞奈は自分の容姿にコンプレックスを持っていた。小学校低学年のころから必須となった眼鏡は、舞奈のそれを助長する要因となった。自分はどんなお洒落も似合わない。ヘアアクセサリーも、イアリングも、ネックレスも、すべて水である自分と崩せない壁を間に築く油みたいなものだと、そう思っていた。だから私服ではスカートは着ないし、服の色も地味な寒色系のものしか持っていなかった。こうして繁華街の交差点を見下ろせるしゃれたチェーン店で背広を着たスカウトの隣に座っている今も、服装は薄い青一色の服にジーンズという洒落っ気が皆無のコーディネートである。地味といわれて当然だった。
「君をスカウトしたのはさ、君が一定の条件を満たしていたからだよ」
「条件、ですか」
「そう。簡単にいえば、平均以上のルックスとスタイルだってこと」
褒められるのは悪い気がしないが、相手はスカウトだ。舞奈は飲み物で返事をする時間を埋めた。
「君は他にも質問していたね。えーと」
「どうして私の行動を知っていたのかと、なぜ私の行動を追っていたのか」
「それか。そうだね、それは俺たちの力量を見てほしかったからだよ」
男はニヤリと笑ってみせた。ブラックジャックかルーレットで賭けを当てたように。
「俺たちというと」
「俺が勤めている会社のメンバー」
「どこかの風俗店ですか」
「失礼だな。もっと高尚さ」
これ以上問答を繰り返してもしかたがないと思い、舞奈は知りたいことに直接行きつく質問をした。基本は5W1H。
「誰が、いつ、どこで、なぜ、私の行動をどのような方法で知ったんですか」
男の口角はそこでさらに上がった。満面の笑み。だが、言葉が表すのとは違い、それはもっと不気味な表情だった。
「広告代理店のメンバーの協力です。それですべての質問の答えの察しがつくはずだ」
舞奈は首をかしげた。つかない。察しなんてそれでつくはずがない。広告代理店の人間が、いったいどうすれば一市民の行動を把握できるというのだろうか。
「不思議そうな顔をしてるな。じゃあヒントをすっとばして答えをいおう。ウチの広告の媒体は人間なんだ。ウチの広告は動くし、なにしろメディアなんてものに頭を下げる必要はない。はやい話が手の込んだ口コミだ」
舞奈は眼鏡を顔から外し、服で拭いた。話が飲みこめない時に舞奈がする癖だった。