序
私の最初の記憶は、
かちゃかちゃという小気味よい音と、
少しくすぐったくて、温かな感触。
しばらくの間は何も見えなくて、
音だけを聴いて過ごしていた。
香りも、かなり古い記憶の中に残っている。
まだ、体も手足も無かった頃だ。
今思えば、あれは春だったのだろう。
花色の風が、植えられたばかりの髪を揺らしていた。
眼が見える様になったのは、初夏。
若い光が窓の外の景色を濡らしていた。
私は傾いた視界の中に、
自分に与えられた偽りの永遠を見た。
父──と呼ぶべきであろう方の事は、
あまり、覚えていない。
優しく肌を撫でる繊細な手の感触は、
今でもすぐに思い出せるのに、
顔も、
声も、
思い出せない。
何故だろう。
やっぱり、思い出せない。
○
はっきりとした記憶は、
あの子に初めて抱きしめられた日から始まる。
私と同じようにおめかしをした、
私と同じ位の年齢の女の子だった。
髪の色はきれいな金色。
瞳の色は青色で、
雨上がりの空を切り取った様だった。
いっぽん欠けた前歯が、
可笑しくて、
愛おしかった。
あの子は私を抱きしめて、
「はじめまして」
と笑った。
何も言ってあげられないのがもどかしかった。
「あなた、とってもきれいなドレスね」
(あなたもよ)
と胸の裡で呟く。
「かみのけも、しろくてふわふわしていて、うらやましい」
(あなたの髪も、木漏れ日の様で素敵よ)
触れ合わない会話でも、楽しい。
「さとうがしみたいね、あなた」
「そうだわ、あたし、あなたを『さとうがし』とよぶわね」
こうして私は、
あの子の『砂糖菓子』になった。
○
私が、
自分が『人形』で、
あの子とは違う時間を生きているのだと気付いたのは、
哀れなことに、出会いから数十年も経ってからだった。
その頃にはもう、
あの子はとうに、
子供でも、
少女でもなくなり、
家族から知った顔は減り、
知らぬ顔が増え、
私を抱くのも別の少女に変わっていた。
何の為に私は生まれたのかと、
一度だけ考えたことがある。
でも、それは一瞬の事。
私を見つめる無垢な少女の瞳に、
答えは星空の様に散りばめられていた。
○
その後、私はずいぶん長い旅をした。
色々な場所で、
色々な少女に愛された。
不思議と、
どの女の子も私を『砂糖菓子』と呼んでくれた。
お気に入りの名前だったから、
素直に嬉しかった。
たくさんの花に飾られた。
たくさんの風に揺られた。
たくさんの梢に身を寄せた。
たくさんの夢を聞かせてもらった。
私は、
幸せだった。
○
「──ごめんね」
○
最後に、
誰かに抱かれたのは何時だったろう。
少なくとも、
これだけ部屋が荒廃する程の時間は経っている。
カーテンのレースは風に千切れ、
何時の間にか割れた窓から飛び込んだ、
季節と虚ろが至る所に積もっている。
チェストの上で傾いて座る私は、
右目で窓のその向こうを、
左目で時間に洗われた部屋の中を、
もうずっと、
ずっと、
見つめていた。
私の髪は縮れて縺れ、
ドレスもくすんで乱れている。
もう誰も、
砂糖菓子とは呼んでくれなかった。
噛んだ唇の様に、
心が燃えた日もあった。
でも今は、
この部屋の様に、
ただ、
無慈悲に、
静かだ。
まとめて読む
壱
こつこつと、
窓を叩いたのは鳥だった。
「開いているわよ」
嬉しくて、嫌味を言った。
「呼んでいるんだよ」
鳥は笑って、窓枠に止まった。
「何か、用かしら」
「うん、そう、そうなんだ」
「あなたは、渡り鳥ね」
「そうだよ」
「私に用って言うけれど、私はあなたみたいに動く事は出来ないし、きっとずうっとものを知らないわよ」
「うん、そうだね。そうかも知れない」
「何も、否定しないのね」
「ああ、うん、ごめん」
鳥は、小さく羽ばたくと、
私の隣へ舞い降りた。
「あなた……片眼が無いのね」
「うん、そうなんだ」
つぶらな、木の実の様な瞳は、
私から見て左側だけが輝いている。
「怪我を、したの?」
「うん、一昨日の嵐で」
「仲間とは? はぐれてしまったの?」
「うん、一昨日の、嵐で……」
「それで、私に何を?」
「君の眼を、くれないかな」
鳥は頭を下げ、申し訳なさそうに言った。
「良いわよ」
私が即答すると、
鳥は、驚いて顔を上げた。
「良いの?」
「良いわよ。その代わり……」
「その代わり……?」
鳥は、少し不安そうに後ずさりをした。
「左目にしてちょうだい」
「左目?」
「そうよ」
「なぜ?」
「時が止まっているのなら良いのだけれど……」
私は荒れた部屋を見ていた。
「手の届かないところで、無慈悲に過ぎゆく時間なんて、いらないわよね」
○
「それで、どうやって私はこの眼をあなたにあげれば良いのかしら」
私の問いに、
鳥は困った様に一声鳴いた。
「わからないのね?」
「うん。君も?」
「わからないわね」
二人はため息をついた。
○
「あなた、名前はあるの?」
私たちは、少しだけ話をした。
「くつくつ、と呼ばれているよ」
「くつくつ?」
「君は?」
「私は……砂糖菓子と呼ばれていたわ」
「砂糖菓子か……美味しそうだね」
「あら。それなら、少し食べてみる?」
私が冗談めかして言うと、
くつくつは真剣な顔で頷いた。
「それなら、その、左目を」
○
「どうかしら」
私の左目をつつく彼に問いかける。
「美味しいよ」
「美味しいの?」
「うん」
「なら、良かったわね」
「うん。甘くて……ほんとうに砂糖菓子みたいだ」
私は、少しだけ照れくさくて、
黙っていた。
○
「……終わった?」
「うん」
「どう?」
「……見える。見えるよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」
鳥は、
私の右目に、
自分の両目を映して見せた。
濡れた夜の様な双眸が、
吸い込まれそうな程、きれいだ。
「……行くのね」
「うん」
「そう……」
「ありがとう」
「どういたしまして」
○
羽ばたく音が、遠ざかる。
私は、
良い事をしたのだ。
枷になっては矛盾してしまう。
だけど、
寂しかった。
だから、
強がって、
一言、
「良い旅を」
こつこつと、
窓を叩いたのは鳥だった。
「開いているわよ」
嬉しくて、嫌味を言った。
「呼んでいるんだよ」
鳥は笑って、窓枠に止まった。
「何か、用かしら」
「うん、そう、そうなんだ」
「あなたは、渡り鳥ね」
「そうだよ」
「私に用って言うけれど、私はあなたみたいに動く事は出来ないし、きっとずうっとものを知らないわよ」
「うん、そうだね。そうかも知れない」
「何も、否定しないのね」
「ああ、うん、ごめん」
鳥は、小さく羽ばたくと、
私の隣へ舞い降りた。
「あなた……片眼が無いのね」
「うん、そうなんだ」
つぶらな、木の実の様な瞳は、
私から見て左側だけが輝いている。
「怪我を、したの?」
「うん、一昨日の嵐で」
「仲間とは? はぐれてしまったの?」
「うん、一昨日の、嵐で……」
「それで、私に何を?」
「君の眼を、くれないかな」
鳥は頭を下げ、申し訳なさそうに言った。
「良いわよ」
私が即答すると、
鳥は、驚いて顔を上げた。
「良いの?」
「良いわよ。その代わり……」
「その代わり……?」
鳥は、少し不安そうに後ずさりをした。
「左目にしてちょうだい」
「左目?」
「そうよ」
「なぜ?」
「時が止まっているのなら良いのだけれど……」
私は荒れた部屋を見ていた。
「手の届かないところで、無慈悲に過ぎゆく時間なんて、いらないわよね」
○
「それで、どうやって私はこの眼をあなたにあげれば良いのかしら」
私の問いに、
鳥は困った様に一声鳴いた。
「わからないのね?」
「うん。君も?」
「わからないわね」
二人はため息をついた。
○
「あなた、名前はあるの?」
私たちは、少しだけ話をした。
「くつくつ、と呼ばれているよ」
「くつくつ?」
「君は?」
「私は……砂糖菓子と呼ばれていたわ」
「砂糖菓子か……美味しそうだね」
「あら。それなら、少し食べてみる?」
私が冗談めかして言うと、
くつくつは真剣な顔で頷いた。
「それなら、その、左目を」
○
「どうかしら」
私の左目をつつく彼に問いかける。
「美味しいよ」
「美味しいの?」
「うん」
「なら、良かったわね」
「うん。甘くて……ほんとうに砂糖菓子みたいだ」
私は、少しだけ照れくさくて、
黙っていた。
○
「……終わった?」
「うん」
「どう?」
「……見える。見えるよ」
「ほんとう?」
「ほんとう」
鳥は、
私の右目に、
自分の両目を映して見せた。
濡れた夜の様な双眸が、
吸い込まれそうな程、きれいだ。
「……行くのね」
「うん」
「そう……」
「ありがとう」
「どういたしまして」
○
羽ばたく音が、遠ざかる。
私は、
良い事をしたのだ。
枷になっては矛盾してしまう。
だけど、
寂しかった。
だから、
強がって、
一言、
「良い旅を」
弐
こつこつと、
窓を叩く音がした。
北風の仕業だろうかと、
閉じることの出来ない瞳に、
意識を通わせた。
ひとりの時間が長すぎたからか、
なかなかうまくいかない。
心が錆び付いたのか、
凍り付いたのか。
しばらくしてから、
光は私に再び世界を与えた。
窓を叩いていたのは、
一羽の美しい鳥だった。
白い翼が雪の様だ。
薄紅の嘴は花弁を思わせ、
冷え切ったこの景色を、
ほんの少しだけ暖めている。
「何か、ご用かしら?」
冷たい、
冷たい、
私の声だ。
ずいぶん長いこと口を閉ざしていたせいで、
どうやら声までが凍り付いてしまったらしい。
「用……いや、用は無いんだ……でも、困っていて……」
「それはつまり、用があるって事ではないかしら?」
「うん、そうだね……でも……」
「否定が多いのね」
「いや、うん、そうだね……」
久しぶりの生ある会話だというのに、
私は少し苛立っていた。
「用が無いのなら、何かお話でもして下さらない? 私、とても退屈なのよ」
「ごめん、だめなんだ。僕は、急がないといけないから……」
「なら、早く用件をおっしゃって下さいな」
「うん……」
鳥は、
おずおずとこちらへ近付いて来た。
僅かに、
片足を引きずっているようだ。
「怪我でもなさったの?」
「ああ、いや……うん、そうなんだ」
「はっきりしないのね。お空の雲よりも曖昧だわ」
私の言葉に、
鳥は寂しそうに笑った。
「どうかして?」
「ううん……あ、いや、僕の名前がね」
「名前?」
「うん、もくもくっていうんだ」
○
「──それでね、くつくつに聞いたんだ」
「まあ、懐かしい名前ね。彼はお元気?」
「うん、元気だよ。今頃は空の上さ」
「あら、あなたは行かなくてもいいの?」
「それがね……」
もくもくは、
小さな嘴から、
小さなため息をこぼした。
「足を怪我してしまったから……」
○
「ねえ、砂糖菓子」
「いきなり呼び捨てなんて失礼だこと」
「ああ、ごめん……」
「冗談よ。それで、私に何を?」
「君の足を、食べさせておくれ」
○
「いかが?」
「美味しいよ」
「急に素直になったわね。おかしいわ」
「おかしくなんてないよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
○
「どう?」
「うん、前よりも、ずっと、良いよ」
もくもくは、
私の前でぴょんと跳ねて見せた。
夕焼けに照らされた羽が、
ガーネットの様に眼に刺さる。
「それじゃあ、ほら、お行きなさいな」
「うん……」
「どうかしたの?」
「君は、お別れは苦手じゃないの?」
「私は……」
○
私は、
また独りぼっちになって夕日を見ていた。
何かが足りないのだけれど、
それがわからなかった。
ただ、
血を求めるバンパネラの様に、
乾いている気がした。
だから、
そんな気持ちを振り切るように、
私は言った。
「良い旅を」
こつこつと、
窓を叩く音がした。
北風の仕業だろうかと、
閉じることの出来ない瞳に、
意識を通わせた。
ひとりの時間が長すぎたからか、
なかなかうまくいかない。
心が錆び付いたのか、
凍り付いたのか。
しばらくしてから、
光は私に再び世界を与えた。
窓を叩いていたのは、
一羽の美しい鳥だった。
白い翼が雪の様だ。
薄紅の嘴は花弁を思わせ、
冷え切ったこの景色を、
ほんの少しだけ暖めている。
「何か、ご用かしら?」
冷たい、
冷たい、
私の声だ。
ずいぶん長いこと口を閉ざしていたせいで、
どうやら声までが凍り付いてしまったらしい。
「用……いや、用は無いんだ……でも、困っていて……」
「それはつまり、用があるって事ではないかしら?」
「うん、そうだね……でも……」
「否定が多いのね」
「いや、うん、そうだね……」
久しぶりの生ある会話だというのに、
私は少し苛立っていた。
「用が無いのなら、何かお話でもして下さらない? 私、とても退屈なのよ」
「ごめん、だめなんだ。僕は、急がないといけないから……」
「なら、早く用件をおっしゃって下さいな」
「うん……」
鳥は、
おずおずとこちらへ近付いて来た。
僅かに、
片足を引きずっているようだ。
「怪我でもなさったの?」
「ああ、いや……うん、そうなんだ」
「はっきりしないのね。お空の雲よりも曖昧だわ」
私の言葉に、
鳥は寂しそうに笑った。
「どうかして?」
「ううん……あ、いや、僕の名前がね」
「名前?」
「うん、もくもくっていうんだ」
○
「──それでね、くつくつに聞いたんだ」
「まあ、懐かしい名前ね。彼はお元気?」
「うん、元気だよ。今頃は空の上さ」
「あら、あなたは行かなくてもいいの?」
「それがね……」
もくもくは、
小さな嘴から、
小さなため息をこぼした。
「足を怪我してしまったから……」
○
「ねえ、砂糖菓子」
「いきなり呼び捨てなんて失礼だこと」
「ああ、ごめん……」
「冗談よ。それで、私に何を?」
「君の足を、食べさせておくれ」
○
「いかが?」
「美味しいよ」
「急に素直になったわね。おかしいわ」
「おかしくなんてないよ」
「そうかしら」
「そうだよ」
○
「どう?」
「うん、前よりも、ずっと、良いよ」
もくもくは、
私の前でぴょんと跳ねて見せた。
夕焼けに照らされた羽が、
ガーネットの様に眼に刺さる。
「それじゃあ、ほら、お行きなさいな」
「うん……」
「どうかしたの?」
「君は、お別れは苦手じゃないの?」
「私は……」
○
私は、
また独りぼっちになって夕日を見ていた。
何かが足りないのだけれど、
それがわからなかった。
ただ、
血を求めるバンパネラの様に、
乾いている気がした。
だから、
そんな気持ちを振り切るように、
私は言った。
「良い旅を」
参
とっ──と、
鈍い音で目が覚めた。
眼を開いたままなのに、
何も見えずにいたのは、
人でいえば眠りそのもの。
人形でいえば、
死に似た、
何か。
玩具の体は、
求められなければ意味が無い。
飾られたままでは、
生きているとは、
いえない。
また、長い間、
独りぼっちでいたせいで、
頭の中の時計が出鱈目になってしまったらしい。
今がいつなのか、
いつで時が止まっていたのか、
何もわからない。
私は窓の方を見た。
外は、
明るいようだ。
風が冷たいのを感じる。
意識がはっきりしてくるにつれて、
死の色に濁っていた視界も、
生命と時に彩られ、
意味を持ち始める。
窓枠の上に、
一羽の鳥が倒れていた。
「どうか、されて?」
音ならぬ声を投げかける。
「助けて、欲しい」
鳥はうめきながら、
そう言った。
○
「僕は、さんさんっていうんだ」
「綺麗な名前ね。羨ましいわ」
「君だって、素敵だよ。砂糖菓子」
「あら。どうして私の名前を?」
「くつくつに聞いたのさ」
「いやだわ、言い触らして回っているのね」
「助けて欲しい」
彼は苦しそうに言った。
自分の事で必死なくせに、
思いやりのある会話が、
何だかひどく胸に刺さった。
「羽が、折れているのね?」
「そうなんだ」
彼の右の翼は、
いびつに曲がり、
北風にはためいている。
「私に翼は無いわ」
「わかっている」
立ち上がりながら、
彼は言う。
「君の、その、腕を」
○
てんてんと跳ねて、
彼は少しずつ、
こちらへ近付いて来た。
「大丈夫?」
「もどかしいよ」
「そうね、もどかしいわね」
「……君は、ずっとそうして動けないままなのかい?」
「ええ、そうよ。自分では歩けませんからね」
遠い記憶が頭を過ぎる。
そういえば、
昔はずいぶんと色んなところへ連れて行ってもらった。
独りぼっちになってから、
何処かへ行く事なんてすっかり諦めてしまっていた。
「……植物は、ずっとそこにいて、退屈では無いのかしら」
「わからない。わからないけれど、きっと退屈だと思うから、僕たちは種を運ぶのさ」
「あら、じゃあ私の事も何処かへ連れ去って下さる?」
「花のうちに摘んでしまっては、枯れてしまうよ」
「摘まなくたって、何時かは枯れるわ」
「枯れるまで、待たなくっちゃ駄目さ」
「そう、それじゃあ──」
私は、
笑って言った。
「枯れない花は、何の為に咲くのかしらね」
○
「右腕で、良いのね?」
「ああ」
「治る保証なんて無いわよ?」
「ああ」
「私にも翼があれば、食べさせてあげるのに」
「僕には、見えるよ」
「……馬鹿にしないでちょうだい」
○
「少し、くすぐったいわ」
「くすぐったいって、感じるんだね」
「馬鹿にしないでちょうだいってば」
「美味しいよ」
「ほら、また……」
○
「どう?」
「うん。これなら行けそうだよ」
「不思議ね」
「ありがとう」
彼は、
窓枠へと華麗に飛び乗ると、
こちらを寂しそうに振り返った。
「ごめんよ」
「ほら、また……」
○
寂しい、と思った。
遊んでもらって、
私は、
また少しずつ玩具に戻っているのだろうか。
時間の止まった部屋の中、
ただの物と成り果てていた私の心に、
小さくて、
取り返しのつかない、
ひびが入っている。
少しだけ、
怖くなったから、
もう誰もいない景色に呟いた。
「良い旅を」
とっ──と、
鈍い音で目が覚めた。
眼を開いたままなのに、
何も見えずにいたのは、
人でいえば眠りそのもの。
人形でいえば、
死に似た、
何か。
玩具の体は、
求められなければ意味が無い。
飾られたままでは、
生きているとは、
いえない。
また、長い間、
独りぼっちでいたせいで、
頭の中の時計が出鱈目になってしまったらしい。
今がいつなのか、
いつで時が止まっていたのか、
何もわからない。
私は窓の方を見た。
外は、
明るいようだ。
風が冷たいのを感じる。
意識がはっきりしてくるにつれて、
死の色に濁っていた視界も、
生命と時に彩られ、
意味を持ち始める。
窓枠の上に、
一羽の鳥が倒れていた。
「どうか、されて?」
音ならぬ声を投げかける。
「助けて、欲しい」
鳥はうめきながら、
そう言った。
○
「僕は、さんさんっていうんだ」
「綺麗な名前ね。羨ましいわ」
「君だって、素敵だよ。砂糖菓子」
「あら。どうして私の名前を?」
「くつくつに聞いたのさ」
「いやだわ、言い触らして回っているのね」
「助けて欲しい」
彼は苦しそうに言った。
自分の事で必死なくせに、
思いやりのある会話が、
何だかひどく胸に刺さった。
「羽が、折れているのね?」
「そうなんだ」
彼の右の翼は、
いびつに曲がり、
北風にはためいている。
「私に翼は無いわ」
「わかっている」
立ち上がりながら、
彼は言う。
「君の、その、腕を」
○
てんてんと跳ねて、
彼は少しずつ、
こちらへ近付いて来た。
「大丈夫?」
「もどかしいよ」
「そうね、もどかしいわね」
「……君は、ずっとそうして動けないままなのかい?」
「ええ、そうよ。自分では歩けませんからね」
遠い記憶が頭を過ぎる。
そういえば、
昔はずいぶんと色んなところへ連れて行ってもらった。
独りぼっちになってから、
何処かへ行く事なんてすっかり諦めてしまっていた。
「……植物は、ずっとそこにいて、退屈では無いのかしら」
「わからない。わからないけれど、きっと退屈だと思うから、僕たちは種を運ぶのさ」
「あら、じゃあ私の事も何処かへ連れ去って下さる?」
「花のうちに摘んでしまっては、枯れてしまうよ」
「摘まなくたって、何時かは枯れるわ」
「枯れるまで、待たなくっちゃ駄目さ」
「そう、それじゃあ──」
私は、
笑って言った。
「枯れない花は、何の為に咲くのかしらね」
○
「右腕で、良いのね?」
「ああ」
「治る保証なんて無いわよ?」
「ああ」
「私にも翼があれば、食べさせてあげるのに」
「僕には、見えるよ」
「……馬鹿にしないでちょうだい」
○
「少し、くすぐったいわ」
「くすぐったいって、感じるんだね」
「馬鹿にしないでちょうだいってば」
「美味しいよ」
「ほら、また……」
○
「どう?」
「うん。これなら行けそうだよ」
「不思議ね」
「ありがとう」
彼は、
窓枠へと華麗に飛び乗ると、
こちらを寂しそうに振り返った。
「ごめんよ」
「ほら、また……」
○
寂しい、と思った。
遊んでもらって、
私は、
また少しずつ玩具に戻っているのだろうか。
時間の止まった部屋の中、
ただの物と成り果てていた私の心に、
小さくて、
取り返しのつかない、
ひびが入っている。
少しだけ、
怖くなったから、
もう誰もいない景色に呟いた。
「良い旅を」
継
きい──、きい──。
遠くから、
音が聞こえる。
自然の音では無い。
私には、
わかった。
もうすっかり、
頭も、
心も、
時に曝され削られて、
すっかり禿びてしまったが、
どうやら、
まだ、
私は生きているらしい。
きい──、きい──。
古い記憶が、
頭の中から零れ落ちていく。
最近は、
こうして意識がある時の方が珍しいが、
目覚める度に、
思い出が、
マッチの火の様に、
目映く朽ちていく。
お父様の温もりが、
消えていく。
あの子の声が、
消えていく。
私はもう、死にかけていた。
○
こつこつ、と、
音が聞こえた。
心の眼を開く。
「どなた?」
と、呟く。
「僕だよ」
と、声が返ってくる。
「ごめんなさい。あまり、よく見えないの」
とっ、とっ、っと、
跳ねるような音がした。
「近くに、いるのね」
「うん」
「どなた?」
「くつくつ、と呼ばれているよ」
それは懐かしい名前だった。
少しだけ、胸に光が灯る。
ああ、
またマッチが朽ちていく。
「懐かしい名前ね」
「覚えていてくれたんだね」
「今は、まだ、ね」
○
「外は、春かしら?」
「ううん。ずいぶんと、寒くなってきたよ」
「あら。それならあなたはどうしてここに?」
「……良いんだ」
「渡り鳥が飛んで行かずにどうするの?」
「どうも、しないよ」
真夜中のような彼の瞳が、
艶やかに光る。
「そう……あなた、もう……」
「そう。冬が、くるんだ。僕にもね」
○
「それじゃあ、寂しい同士、お話しでもしましょう」
「ううん。今日はお別れを言いにきただけだから」
「あら、やっぱりどこかへ行くの?」
「ううん」
きい──、きい──。
遠くから、音が聞こえる。
何だろう。
「僕は、さっきからずっと見ていたんだ」
がちゃり。
「行くのは君だよ」
○
「わあ、みてママ。お人形」
私に、触れる感触。
誰?
「あら、だめよ。そんな……汚らしい……」
「そんなことないわ。この子、とても可愛いわ」
頬と頬が触れる。
そして、
優しくて、無邪気な口づけ。
私の中の氷が溶けていく。
埃まみれの思い出達は、
本当に必要なものだけを残して、
この新しい風に散っていく。
「あなた、甘い味がするわ」
目の前の少女が、
いたずらっぽく唇を舐めて言う。
「そうね……砂糖菓子。あなたの名前は砂糖菓子よ」
私は、
くすり、と笑った。
○
片眼と、
片手と、
片足と──。
私が失ったものは少なくない。
しかし、
残った片眼と、
残った片手と、
残った片足とで、
私が得ることが出来るものも、
まだあるらしい。
窓枠の上で、
くつくつが笑っている。
「良い旅を」
きい──、きい──。
遠くから、
音が聞こえる。
自然の音では無い。
私には、
わかった。
もうすっかり、
頭も、
心も、
時に曝され削られて、
すっかり禿びてしまったが、
どうやら、
まだ、
私は生きているらしい。
きい──、きい──。
古い記憶が、
頭の中から零れ落ちていく。
最近は、
こうして意識がある時の方が珍しいが、
目覚める度に、
思い出が、
マッチの火の様に、
目映く朽ちていく。
お父様の温もりが、
消えていく。
あの子の声が、
消えていく。
私はもう、死にかけていた。
○
こつこつ、と、
音が聞こえた。
心の眼を開く。
「どなた?」
と、呟く。
「僕だよ」
と、声が返ってくる。
「ごめんなさい。あまり、よく見えないの」
とっ、とっ、っと、
跳ねるような音がした。
「近くに、いるのね」
「うん」
「どなた?」
「くつくつ、と呼ばれているよ」
それは懐かしい名前だった。
少しだけ、胸に光が灯る。
ああ、
またマッチが朽ちていく。
「懐かしい名前ね」
「覚えていてくれたんだね」
「今は、まだ、ね」
○
「外は、春かしら?」
「ううん。ずいぶんと、寒くなってきたよ」
「あら。それならあなたはどうしてここに?」
「……良いんだ」
「渡り鳥が飛んで行かずにどうするの?」
「どうも、しないよ」
真夜中のような彼の瞳が、
艶やかに光る。
「そう……あなた、もう……」
「そう。冬が、くるんだ。僕にもね」
○
「それじゃあ、寂しい同士、お話しでもしましょう」
「ううん。今日はお別れを言いにきただけだから」
「あら、やっぱりどこかへ行くの?」
「ううん」
きい──、きい──。
遠くから、音が聞こえる。
何だろう。
「僕は、さっきからずっと見ていたんだ」
がちゃり。
「行くのは君だよ」
○
「わあ、みてママ。お人形」
私に、触れる感触。
誰?
「あら、だめよ。そんな……汚らしい……」
「そんなことないわ。この子、とても可愛いわ」
頬と頬が触れる。
そして、
優しくて、無邪気な口づけ。
私の中の氷が溶けていく。
埃まみれの思い出達は、
本当に必要なものだけを残して、
この新しい風に散っていく。
「あなた、甘い味がするわ」
目の前の少女が、
いたずらっぽく唇を舐めて言う。
「そうね……砂糖菓子。あなたの名前は砂糖菓子よ」
私は、
くすり、と笑った。
○
片眼と、
片手と、
片足と──。
私が失ったものは少なくない。
しかし、
残った片眼と、
残った片手と、
残った片足とで、
私が得ることが出来るものも、
まだあるらしい。
窓枠の上で、
くつくつが笑っている。
「良い旅を」