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どうしてわたしって

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 わたしのベッドには、カオリのにおいがまだ残ってる。

 わたしが作ったカレ―や肉じゃがやスーパーで買ったお惣菜なんかを食べて、一緒にお風呂に入ったあと、電気を消してカーテンを少し開けて、わたしとカオリはベッドに横になる。カーテンの隙間から差し込む月の光は、わたしたち女の肌を照らしだす。フルートの音、聞こえない? とカオリが言ったけど、わたしには聞こえなかった。さっきから聞こえるよ、とカオリは言う。わたしは肩ヒジついてカオリの横顔を眺めながら、夜の静けさに耳を澄ませる。そうして少しすると、カオリはくすくす笑い始めた。

 わーい、引っかかった。

 わたしは呆れたように微笑む。

 ばか。

 カオリを抱き寄せ、首筋や背中や脇に鼻を押しつけ、カオリのにおいを深呼吸するみたいに胸いっぱいに吸い込む。不思議、ほんとカオリのにおいは不思議なにおいがする、とわたしは言った。カオリの白い肌からは、市民プールみたいな塩素混じりの水のにおいがした。

 わたしは、そのにおいが大好きだった。

 だけど、カオリはいなくなった。

 二週間前、なにも言わずに突然消えた。

 わたしはとても苦しんだ。なぜ大好きなものが、なんの前触れもなく消えてしまうのか、わたしはそれについて理解も納得もしたくなかった。寝ようとすると、ベッドや枕から微かに漂うカオリのにおいが気になった。なんでいなくなっちゃったんだろう、わたしがなにか悪いことをしたんだろうか、うん、たぶんそう、わたしがなにか悪いことをしてたんだ、だからカオリはなにも言わずにどこかへ行っちゃったんだ、きっとそうだ、とわたしは自分を責めて、眠れなくなった。仕事にはたびたび遅刻しそうになり、寝不足のために小さなミスが増えた。これではだめ、これではだめなの、と警告のアナウンスを自分に発して、三日前から、カオリのことは忘れようと躍起になった。

 だけど、うまくいかなかった。

 だってわたしは、カオリのことが好きなんだもん。

 いま、わたしはカオリと眠ったベッドを見下ろしている。お互い裸になって、わたしとカオリはここで愛しあった。カオリの足のあいだに顔を入れ、しっとりと濡れた襞に舌を這わせる。カオリは低くウメきそうになって、下唇を噛んで我慢する。わたしは上目でそのカオを見て、舌の動きを速めてやる。カオリは息を吐く。わたしは舐める。カオリは声をだす。わたしは舌先を襞の中心部に突き立てる。しょっぱい味の液体が襞の間から溢れてくる。気持ちいい? とわたしが聞くと、うん、とカオリは返事をする。
 愛しあうことにペニスが必要だと思ったことはない。性器を刺激する唇や舌や指も、それがあるから用いるだけで、必要だと思ったことはない。もちろんそれは、生まれてきたときには手も足もあったから、あることが普通になっていて、無くなることを想像出来ないから、必要ではないなんてことを言っているだけなのかもしれない。だけど、わたしにとって愛しあうことに必要なものというのは、欲求を満たしてくれるものであって、欲求を満たすために必要な手段のことではない。それは、愛し合う相手が必要だということではなく、わたしが真に必要だと思っているものはカオリであって、それに付属する目や耳や口ではないということだ。カオリという存在そのもの、カオリという女性の実体というのではない魂のような、そんなものが、わたしの欲していたものだった。

 ベッドに残るカオリのにおい、わたしはそのにおいを嗅ぐと腹が立った。カオリが自分以外の誰かと愛しあっているところをイメージして、吐きそうになった。目に涙が溜まっているのに気がついて、もうなんで泣いてんのよ、バカみたい、わたしってバカみたい、もうやだー、と言いながら、ティッシュ箱からティッシュペーパーを抜き取り涙を拭いた。シーツと枕カバーを洗濯して、消臭スプレーを使ってにおいを消そうと考えたが、結局わたしには出来なかった。カオリとの思いでを頭のなかから取り除こうとするのはあれほど懸命になったのに、においだけは、そっとしてあげたくなった。それは、いじらしさというか、可愛さというか、なにかこう、守らなくてはいけないもののような気が、わたしにはしたからだ。


 あくる日、わたしは仕事に出かけた。わたしは自動車教習所の広報担当として働いている。教習所を紹介するパンフレットやポスター作り、ホームページの更新やメンテナンス作業、日刊新聞への広告依頼などが主な業務だが、教習所の窓口にデスクがあるので、入所希望者の手続き処理を行ったり、電話を取って問い合わせの応対をすることもある。わたしは仕事に対してやりがいなど感じたことのない人間だが、辞めようと思ったことは一度もなかった。
 歩いて駅へ向かう途中、反対側の歩道にあるドーナツ屋と本屋に挟まれた花屋を眺めて、窓ガラスの向こうや店先に、カオリの姿を見つけようとした。だけどそこに探している人はいなかった。入口にはたくさんのプランターが置いてあって、名も知らない色彩豊かな花々が、吹いてもいない風にゆらゆら揺られていた。四十歳くらいのエプロンをした女の店員が、腰を屈めてプランターに植えられた花に水をやっている。ベージュ色のシャツの、背中のあたりが黒ずんでいて、わたしは汗をかいているんだろうかと思ったけれど、たぶんそれは、そういう柄なんだろうね。

 カオリはその花屋に勤めていて、知りあったのもそのお店だった。カオリはいつも几帳面な顔で仕事をしていて、お客が来ても、不快に思われるぎりぎりまで愛想笑いをしない子だった。わたしが花屋に訪れたのは、母の日に贈るカーネーションを注文するためだった。わたしの母親はここ一年、そのほとんどを病院で過ごしている。寝たきりではないのだけれど、発作的に起こる全身の痙攣、痙攣後数週間生じる右半身の運動神経と知覚神経の麻痺のせいで、母は普通の生活を送れなくなった。脊椎の腰椎部にある中枢神経が損傷していることが原因らしいが、その手術に耐えられる体力が母親にはないらしい。人間、いつかは病気になって、こうなるものだから、とカーネーションが送り届けられた晩、母は電話で言っていた。

 カオリはとても丁寧にカーネーションを包んでくれた。それがわたしは嬉しくて、たびたび花屋を訪れた。愛想笑いをしていたカオリが、だんだん自然に笑ってくれて、わたしはもっとうれしくなった。食事に誘ったのはわたしのほうで、カオリは喜んで承諾してくれた。

 ショッピングモール前の広場で待ち合わせをして、モールにあるバイキング形式のオーガニック料理店に入った。わたしは豆類の料理ばかり皿によそい、カオリは豆腐料理ばかり取ったので、なんだかおかしくて二人で笑った。

 お腹は満たされ、全て有機農法によって生産されたという素材で作ったバナナミルクセーキを、最後に二つ別料金で注文した。バナナミルクセーキはとてもおいしくて、カオリはもう一杯注文した。ストローで吸い込む甘いミルクに心がとても落ち着いたのか、カオリは自分のことをわたしに話してくれた。

歳は二十四で、短大を出て、四年間ひきこもったあとアパートの部屋を借り、花屋でアルバイトをしながら一人で暮らしている。ひきこもった原因は短大のときに所属していたテニス同好会で起きた事故のせいで、相手のサーブを打ち返そうとしたとき、カオリは激しく転倒し、テニスコートに落ちていた瓶ジュースの割れた破片に目の端から頬までの五センチほどを深く切った。ぺろんとめくれた皮膚を医者に縫ってもらい、二週間ほどで抜糸することになったが、縫合糸が体に合わなかったようで、目の端から頬の傷跡に痒みを伴う発疹が出た。その治療に渡されたステロイドホルモン含有の炎症抑制軟膏を、はやく治るようにと必要以上に塗布したせいで、傷は治ったが色素沈着を起こし、黒いシミが残ってしまった。人並み以上に器量の良かったカオリは、自分の顔に浮かぶ黒いシミを見るたび酷く落ち込み、内向的な性格になっていった。テニス同好会も辞め、成績も下がった。友だちも減り、更に内に引きこもるようになった。だが、彼女はそんな不遇を一年半も我慢して、学校を卒業した。
 ひきこもっていたとき、一人娘のカオリに両親はどう接すればいいのか分からず、とにかく娘の欲しいものはなんでも揃えることにした。カオリの好きなチョコの挟まれたビスケットや抹茶味のカステラや黒糖入りのキャラメルなどは毎日ストックされていたし、一眼レフカメラ、ドイツ製の蜜蝋クレパス、テレビゲームのソフト、パソコン、衝動的に欲しいと思ったものをカオリは親に言いつけ、親は二三日の内にそれを買い与えた。
 カオリは不定時に寝起きし、一日十四時間眠っていた。トイレ以外は部屋から出ることもなく、ほとんどの時間をぼんやりと過ごし、あとの時間は親に買ってもらったものを、目的も意志も持たずに使用した。性的な欲求もなく、頭はいつもズキズキと痛んでいた。
 そんな生活が、三年半続いた。ひきこもりの生活が終わるきっかけとなったのは、あるホームページを見たからだった。それは女性の作ったウェブページで、ラリグラスというハンドルネームを使っていた。〝ラリグラス〟というのはシャクナゲ科の一種の花で、ネパールの国花だということを、カオリは携帯電話でラリグラスのホームページにアクセスし、わたしに画面を見せながら教えてくれた。
 ラリグラスは十四のとき兄妹とともに両親に捨てられたらしい。アパートの一室に四人の子供を残して両親はある日突然、なにも言わずにいなくなったと書かれていた。ラリグラスと兄弟は子供たちだけでアパートの部屋に住み、十五歳の兄と姉が学校も行かずにコンビニのアルバイトをして家賃と生活費を稼ぎ、まだ四歳になったばかりの妹の面倒をみた。ラリグラスは兄と姉に学校に行くよう言われたが、自分だけ楽をしているみたいで忍びなかった。マンションの大家にお母さんは? と問われたとき、お母さんは夜働いているのでいません、と嘘をついて大家に五万二千円を渡した兄が、その夜遅く、トイレにこもって泣いているのを聞いたラリグラスは耐えられなくなって家を出た。どんな仕事が自分には出来るだろうかと、夜の街を徘徊している途中、二人の男に肩を掴まれ車に引きずり込まれた。
 ラリグラスは後部座席に乗せられて顔にナイフを突き付けられた。声を出すな、とホッケーマスクを被って顔を隠した男が言う。もう一人の男が運転席に乗り込み、車を発進させる。ラリグラスは恐怖で声も出せなかった。お腹の底に、氷袋を押しあてられたような嫌な感覚。ラリグラスは目を閉じて、この現実からなんとか逃れようと思った。履いているスカートやナイロンパンティが脱がされている感覚も、嘘であってと願った。下腹部の割れ目、そこは自分でも未知の領域だった。まじまじと見たことも、触ったこともトイレットペーパー越しにしかなかったのに、今では他人に、見知らぬ男に触られていた。目は開けられなかった。開ければたぶん、叫んでいた。叫んだとしたら、ナイフが自分の顔面を貫くかもしれないと思った。ラリグラスは死にたくなかった。今ではそれはたんなる死の恐怖とかではなくて、こんなつまらないことをする男たちに自分が殺されたくないという思いが強かった。もちろんそれは、強制のセックスだって同じくらいに嫌だった。だから、ラリグラスは必死に目を閉じて、その現実を無いものにしようとした。
 男たちの行為が終わって、ラリグラスは車外へ放り出された。そこは山だった。どこを見ても暗闇で、ラリグラスは男たちの乗る車のエンジン音を追って、山道を駆け下りた。

 そのホームページでは、ラリグラスが当時十四歳の頃、レイプをされた体験が綴られていた。真っ白な印象のホームページで、入場カウンターや小さなカレンダーやリンク集などもなく、ただ黒い文字が横書きされているだけの、簡素で寂しげなものだった。
 ページの一番下に、ラリグラスはこんなことを書いていた。



時間が経てば、全ては消えて無くなります。


 ラリグラスのことを話し終えたあと、カオリはしばらく黙って、なにか考えこんでいるようだった。わたしはストローを咥えたカオリの口元を眺めていた。濡れて、光。ミルクセーキを飲み終えたカオリは、ぽつりぽつり言った。わたしさ、このラリグラスって人の文章を読んでさ、自分もいつか死ぬんだなって思ったの。みんな知ってることなんだけど、たぶん、人よりそれを深く知ることが出来たんじゃないかなって思うの。だから、外に出られたんじゃないかなって。


 わたしはカオリの黒いシミを、目の端から頬にかけてある細長いシミを、指先で触れて、舐めてあげるのが好きだった。そんなに触ったり舐めたりしたら、あなたにもこんなシミができちゃうよ、と言ってカオリは子供っぽく笑った。
 些細なことを人は気にする。気にするからこそ他人と距離を置いて生きていられる。どうでもいいことも、どうでもよくないことも、人は気にして、なにかにつけて、他人を嫌いになろうとする。


ハッと我に帰って腕時計を見ると、五分ほども花屋を眺めていたらしい。わたしは強く瞬きを何度かして、歩き始める。カオリは歩き始めてる。わたしはカオリがいなくても、カオリのことを愛し続けたい。

 でも、ベッドのにおいは、いつか消えちゃうのかなぁ。
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