流れる刃。煌めく火花。柄が描く弧。遅れる音。閃きの刹那。滑り込み、研ぎ澄ます。冷たい緊張と、誘いの緩和。時折ぶつかり合う肉体。鼓動。淘汰。極限まで張りつめられた筋肉と、その内にある骨が軋む。言葉はない。容赦もない。一瞬だけ生を失い、永遠の死を招き入れる。
兄の太刀筋は夢にまで見る程に頭にこびりついている。もちろん兄貴もそうだろう。我々兄弟はこの儀式を、毎日欠かす事なく、きっちり同じ時間だけ、もう1年続けている。
これは稽古でもあるが、互いに互いを殺すという目的に関して本気だ。持ち物は刀1本。毎日自分で研ぐ切れ味に一切の曇りは無く、相手が人間なら骨ごと斬れる。我々の戦いを見守る者は居ないが、暗黙のルールは存在する。勝負は1日1回。騙し討ちはなし。そして決着は、どちらかが死ぬ事。陽が昇った時に開始し、陽が沈んだ時に2人が生きていれば翌日再試合。
戦っている最中、一切の言葉は無い。しかし兄貴の考えている事、次に打つ一撃、そしてどちらに避け、どこで決めにくるかは手に取るように分かる。もう何億何兆と刃を重ねてきた。それに我々兄弟は双子として生まれ、片時も離れずに暮らしてきた。呼吸までもが同期している。
どちらが言い出すでもなく、ふっと剣戟が止まった。夕日がとっぷり沈んでいた。俺と兄貴は顔を見合わせ、今日も決着がつかなかった事に対する失望と、互いに生き残れた安堵に頬を緩ませた。鏡に映った自分を見るように、兄貴の全身からは疲弊が立ち上っている。
「更に剣が早くなったな」
「兄貴こそ」
ほんの数秒前まで殺しあっていた事実など、まるでそこにないみたいに歯を見せて笑い合う。
「お見事ですね」
俺と兄貴が同時に振り向いた。瞬間、先ほどまでの緊張感を取り戻す。そこに居たのは生白い肌の痩せた男だった。
「どこから入った?」
兄貴が尋ねた。俺も同じ事を疑問に思った。我々は誰からも邪魔が入らないように一族が代々使ってきた稽古場で試合をしている。当然部外者は立ち入り禁止で、その存在さえ知らないはずだ。
男は兄貴の質問には答えずに、2本の刀の前で堂々と喋った。
「僕は説法屋。こうして人と話す事を生業としています。ある方からの依頼で、あなた達2人の兄弟喧嘩を止めに来ました」
「兄弟喧嘩などではない」
これは俺が反射的に言ったが、兄貴も同じ事を考えているはずだ。
「そうなんですか?」
とぼけたような顔で説法屋と名乗る男は我々の次の言葉を待っているようだった。
「とにかくここから出て行け。部外者が立ち入って良い領域ではない」
毅然として言う兄貴に俺も同意を示す。すると説法屋は、驚くほど呆気なく、「そうみたいですね」と無責任な言葉を零し、出て行こうとした。
「いや、待て」
疑問が1つあった。
「誰が依頼した?我々のこの儀式を知る者は少ない」
説法屋はまた何の躊躇もなく名前を出した。
その名は我々の復讐相手だった。
どちらからともなく笑い出す。「気でも狂ったか、奴は」「そうとしか考えられん」むせる程笑った後、俺も兄貴も刀を納めた。
「説法屋とやら、伝言を頼む」
「いいですよ」
「もうすぐ決着がつく。その日を楽しみに待っていろ、とな」
そう言ったのは俺だったが、兄貴も頷いていた。しかし説法屋は、ぽりぽりと頭をかきながら、
「それ、どちらが言っていた事にします?」
と尋ねて来た。俺と兄貴は互いの顔色を見た。
「どうやら儀式の事を知っているらしい」そう兄貴の目は語っていた。
「ここで殺しておくべきか?」俺は目でそう尋ねる。
「いやいや、こんな事で殺されたんじゃ堪らないですね。秘密は守ると約束しますよ」
「信用ならんな。第一、お前は依頼人の事さえあっさりと吐いた」
「吐いた? いえ、元々それは言ってもいいと言われていたんです」
「奴がか?」
「ええ。そしてこうも言っていました。『儀式が1年も続くのは異例の事だ。馴れ合いがしたいなら今すぐにその下らない兄弟喧嘩をやめて名を捨てろ』だから最初に僕は兄弟喧嘩を止めに来たと申し上げたんです」
鏡に映る憤怒の表情。拳に力が篭る。
「挑発という訳か」
兄貴の口調は表面上冷静だったが、俺が今抑え込んでいる感情を思えばかなりの無理があった。
「2人が言っていたと伝えろ。必ずお前を殺すとな」
我々の父は、奴に殺された。そしてこの決闘で生き残った方が、奴への復讐を果たしに挑むまでが儀式なのだ。
「分かりました。では、今日はこれで。また明日」
「明日に決着がつくかは分からんぞ」
「そうですね」
翌日、俺は兄貴を斬った。肩から腰にかけてを袈裟斬りに。その時見えた心臓の断面は、満開に咲いた花のように美しかった。儀式が始まってすぐの事だったので、肉体的な疲れなどほとんど無いはずだが、いつにも増して息が切れている。
「お見事ですね」
兄貴の死体の向こうに説法屋が立っていた。
「肉体、刀術、それらの実力は全く同じでも、僅かにあなたの方が怒りに対して敏感だったという事でしょう」
「奴には俺が行くと伝えておけ」
「ええ、分かりました」
説法屋が去ろうとしたのを、俺が呼び止める。俺と兄貴が逆の立場でもそうしただろうという不思議な感覚が、皮膚に纏わり付いている。
「この儀式、お前はくだらないと思うか?」
「正直そうですね」
屈託無く答える説法屋に、俺も兄貴も頬を緩める。
「だがこの儀式のおかげで我ら一族はこの世界で常に1番の武力を保っていられる」
俺は明日、奴に復讐を果たす。兄貴に勝った今の俺なら、おそらくそれは容易い事だろう。復讐こそが我々の力。鍛錬は全てその為にある。
「奴は我々の父の仇であり、父の双子の兄弟でもある」
気づくと、俺の口がそう言っていた。兄貴が言っているのかもいれない。
「我々の父は、この儀式によって殺された。そして我々兄弟には2人とも、双子の子供がいる。どちらも男で、我々よりも武の才能に溢れている」
「不思議な物ですね。負けた方の子供なのに、勝った本人より強く育つとは」
「当たり前だ。復讐こそ我らの力」
いつか俺も、今日この儀式で兄貴を斬った報いを受ける事になるのだろう。それは恐らく兄貴の息子どちらか、いや、2人によって成し遂げられる。だが兄貴を斬った今なら分かる。月並みな言い方かもしれないが、俺の中で確実に兄貴は生きている。
兄貴に4人の孫が出来るまでの間、俺は兄貴の分も人を斬り続ける。
「説法屋」
「何でしょう?」
「斬りたい奴がいたら俺に声をかけろ。その代わり、何十年後かに伝言を頼む事になる」