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生き方書き方

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 花びらが散り、ひらひらと舞い、湖面に小さな輪を広げ、少しして、沈んだ。
 そんな桃色の花の名前を僕は知らず、落ちる瞬間を見ていたのも全くの偶然だった。読んでいた本から顔を上げた時、突如として叙情的風景が僕を襲ったのだ。久しぶりの幸運だった。
 途中の本にしおりを挟み、閉じる。でもきっと、もう2度と物語の続きを追う事はないだろう。本から与えられる感動が、儚げな花の舞に打ち消されてしまった。これも一種の興冷めと言えるのか。こうした自然の中での読書は意外なリスクを背負っている事を始めて知った。
 おそらく、僕にとってこの休暇は、日々の労働による損失を埋めるだけの力を持っているとは到底思えない。やる事といえば読書と、時々やってくる説法屋の相手。奴の話はもう聞き飽きたし、何より奴が僕に飽きている。どうも僕は体感主義らしく、本や話よりも目の前で繰り広げられる現実の方が命に対してより強い影響力を持つらしい。
 両腕を組み、それを枕にして寝転ぶ。あくびを1つ。2つ。しばらくして、3つ。苔のベッドは服が汚れる事を気にしなければ匂いも感触も抜群で、波の立たない小さな湖は空気の洗浄装置としてこの上ない。背の高い木々から薄く漏れる日の光が、閉じた瞼を撫でる。僕は4つ目のあくびをして、階段を1歩ずつ下るように昼寝を始める。
「あの、すみません」
 すぐ側で、囁き声がした。あまりに突然だったので、飛び起き様におでこを声の主に打ち付けてしまった。
「いてて……」
 と僕は額を擦る。相手も全く同じ事をしたので、うっかりとハーモニーを奏でてしまった。僕はその相手を見る。
 剥き出しの頭蓋骨と骨だけの身体。ああ、またか。と僕は溜息をつく。
「迷ってしまったんですけど……」
 顎の骨が動き、声帯も舌も無いのに不思議と声だけは生前の物で、背丈と総合して判断すると、どうやらそれは小柄な女の子だった。若いのに可哀想に、なんて思うほど僕は新人ではない。
「はいはい、亡者の方ね」僕は湖と反対方向にある、大きな2つの木の間を指差す。「あそこを通ってずっと真っ直ぐ行けば、きちんと死ねるから」
 僕は休暇中なのだ。口頭で案内してやるだけ良い人であり、そこに丁寧さを求められても困る。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ」
 再び僕は寝転がる。で、しばらくして、
「あの、すみません」
 再び例の声だ。今度はわざわざ身を起こす程でもなく、瞼を開けて姿を確認するだけに留める。
「今度は何?」
「根本的な質問なんですけど、ここ、どこなんですか?」
 答えてやるかどうかちょっと迷ったが、無視してここにずっと居座られても困るし、本業の癖も少しあってか、言葉は自然と出た。
「あれだよ。三途の川ならぬ三途の湖? 亡者の通り道って言うのかな、川が氾濫したり干上がったりして……まあその辺の事情は面倒だから置いておくけど、ようはあの世とこの世の間っていうのかな、まあ僕にとってはこっちの方がこの世なんだけど」
 喋りすぎたかな、と思ったが不可抗力だ。この娘が大人しく聞いているのが悪い。
「で、僕は死人の管理なんかをやってる者なんだけど、今は休暇中な訳。愛想悪くてごめんね。とにかく君はもう死んでるから、こんな所で迷ってないでさっさと本道に戻りな」
「私……死んだんですか?」
 まあ、よくある事だ。死んでる事に気づかない死者。「見りゃ分かるでしょ」と指摘すると、彼女は自分の骨だけになった手をまじまじと見ていた。
「……すみません。ありがとうございました」
 深々と頭を下げられると、なんだか申し訳ない事をした気分になる。なんて答えたら良いのかも分からないし、それより頭蓋骨が首から落ちそうで心配になる。
「じゃ、また何か機会があったら」
 定例句で打ち切ろうとした瞬間、女の子が小さく声をあげた。「あ」
「その本……面白いですか?」
 僕の隣に置かれた本。しおりの挟まった。もう2度と読まれないであろう本だ。求められた疑問に、僕は正直に答える。
「とりあえず途中までは、まあ面白かったかな」
「……まだ最後まで読んでないんですか?」
「まだ、というか、もう、というか」
「もう、読まない?」
「……多分」
 本を示す指を下ろす彼女が、ほっと胸を撫で下ろしたように見えたのは僕の気のせいだったのか、それとも長年の経験による勘か。
「どうしてそんな事を聞く? 最後がつまらないとか?」
「いえ、というより、最後まで書けなかったんです」
 書けなかった、という彼女の発言に、当然僕は食いつく。
「もしかして、作者さん?」
「はい……」
 思いがけない出会いもあったものだ。僕はこの本の売り文句を思い出す。「悲劇の女流作家、待望の遺作ついに出版」待望の遺作、という言葉に違和感を覚えた。まるでさっさと死んで欲しかった、みたいな。
「多分きっと、私が死んでいるとしたら殺されたんだと思います。私の最後の記憶は、編集さんの持ってきたお茶を飲んだ時だったので、その時きっと、毒を盛られて……」
 仕事中は、死人の事情はなるべく聞かないようにしている。こっちの世界では、情が湧けば厄介事は増え、身にもつかない。だが今は休暇中であり、目の前にいるのは悲劇の女流作家だ。
 僕は本を開き、先ほどのしおりの位置より遥か後方、背表紙まで数ページの位置まで進める。「以下絶筆」の4文字が、1ページ丸々を使って説得力ありげに置いてある。
 彼女の頭蓋骨は、無表情にそのページを見つめる。窪んだ瞳に眼球はなく、よって涙腺もない。
「えっと、書きたいの? 続き」
 何故僕がこんな質問をしたのか。根っからの仕事人間である事以外に説明はつかない。
 戯れのような僕の問いに、彼女は答える。
「あなた次第です」
 妙な答え。狼狽する僕に、彼女は続ける。
「あなたが読みたいなら私は続きを書きます」
 書きますと言ったって、彼女の手は今や尖った骨と化しているし、ここには筆も机も無い。彼女は既に死んでいる。まだきちんと魂が消化されてないだけで、その存在は酷く希薄だ。
「書けないよ。創造は生者の特権さ」
 僕の残酷な宣告に、彼女は凛として答える。
「書けます。あなたのたった一言があれば」
 迷い、瞑り、僕は想う。彼女の不可解な自信の源は、きっと創作者だけが持つ、説明不能な動力炉だ。
「良いだろう。読むよ。僕は続きを読む。君が書けるというのなら」
 その時、僕は確かに見た。
 水底から上がってくる桃色の花びら。波紋は中心に巻き戻り、湖から出た花びらはひらひらと上昇する。そして花につき、何事もなかったかのように澄ましている。
 彼女の指先に、肉が戻る。徐々にその範囲は広がり、肩まで来た時に表情が見えた。真剣な面持ちは、これから決闘に臨む者のそれだ。全身が受肉すると、長い黒髪が腰まで伸び、手にはどこからともなくペンが握られた。服は何故かパジャマだ。これが彼女のあるべき姿、いつもの執筆姿なのだろう。そしていつの間にか、僕の背後に机が現れていた。ただの事務机なのに、雰囲気は使い古されたアンティークだ。椅子には座布団が敷いてある。
 彼女は僕に一瞥もくれず、椅子に座って机に向かう。これまたいつの間にかそこにあった原稿用紙に向かい、既に僕の事など眼中にない。その横顔は、死人の癖に僕より生気に満ちており、羨ましくすらある。
 こんな話、果たして説法屋は信じてくれるだろうかと僕は悩みつつ、彼女が原稿を完成させるのを待った。とりあえず、本にしおりを挿しておいたのは正解だった。
 そして僕はページをめくった。
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