第1章「正義が勝つ」
「フリーザとセルって、どうして仲間にならなかったんだろう」
そう言って皆野英雄(みなのひでお)はロフトベッドからテレビのリモコンを投げ捨てた。お目当てのテレビ番組を見る、という目的は果たしていたので、テレビを消した時点でリモコンは無用の長物、二人だけの空間であるロフトベッドの上では障害物でしかなかった。
カシャン。リモコンとフローリングの床が鳴らした無機質で甲高い音に、英雄の隣でうとうととしていた勇気(ゆうき)はびくんと身体を震わせて目を覚ました。
「ん……今、何か言った?」
「だから、フリーザとセルって、どうして仲間にならなかったんだろうって」
「フリーザ? セル? ……何それ?」
低血圧の勇気は朝が弱い。加えて、せっかくの日曜日を早朝に起こされたことで機嫌が悪いようだ。眠気と苛立ちでまぶたが下がり、その鋭い目つきからは緩やかな殺気が感じられた。普段は丸みのある人懐っこい口調も、今はひどく刺々しく投げやりだ。
英雄は勇気の朝の弱さをちゃんと知っている。知り合ってから半年、こうして裸で寄り添い朝を迎えるようになって二ヶ月、お互い社会人で平日はもちろん休日でもなかなか時間が合わず、それでもできる限り会うようにしている仲なのだ、知らないはずがない。
それでも英雄には勇気を無視してテレビを見る理由があった。日曜日の七時半から一時間はスーパーヒーロータイムと呼ばれる、スーパー戦隊シリーズと仮面ライダーシリーズが続けて放送される時間帯があり、この時間は恋人を起こすことになってもリアルタイムで視聴し、ツイッターで『実況』しなければならないのだ。
「え、フリーザとセルだよ。ドラゴンボールの」
「ドラゴン……なに?」
「あれ? 話したことなかったっけ? もう半年だよ? ぜったい一回は言っていると思うけど」
「聞いたことない、覚えてないし」
「そんなはずないよ、忘れているだけだって。あのドラゴンボールだよ? 僕と同い年なんだ、絶対知っているはずだよ」
「……ごめんなさい。なら、もう一度教えてもらえないかしら?」
寝起きで苛々している上に、英雄の人を小馬鹿にした口調が癪に障り勇気は声のトーンを落としたが、英雄は勇気の様子に気づかなかった。スーパーヒーロータイムで盛り上がったテンションが、恋人の些細な変化よりもドラゴンボールに意識を向けさせていたからだ。
「ドラゴンボールっていうのは僕とユーキが小学校入学前に大流行した漫画で、ドラゴンボールという七つの珠をすべて集めるとどんな願い事でも叶えられるという世界観の、主人公の孫悟空とその息子、仲間やライバルたちが織りなす王道の少年漫画なんだ。最近では原作者によるオリジナルカット版アニメや十八年ぶりとなる映画の公開、ゲームも出たしハリウッドにも進出していたけど、それでも知らない?」
「知らないって」
「じゃあ、教えてあげるよ」
英雄は寝癖で少し跳ねた勇気の長い黒髪に指を絡ませた。手入れに気を使っているだけのことはあり、カーテンの隙間から差し込む朝日で鈍い光沢を帯びていて、一本一本さらさらと手からこぼれ落ち、柑橘系の爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。これは勇気がわざわざ英雄の住まいにも置いている専用のシャンプーの香りで、他にもトリートメントやドライヤーなど一式を揃えていることから、並々ならぬ髪へのこだわりが感じられた。
勇気の髪の香りを嗅ぐたび、英雄は抑えがたい劣情を催してしまう。それはベッドの上に限った話ではなく、英雄にとってこの香りは勇気とのセックス、あるいは前後の時間の象徴であり、パブロフの犬のように身体が反応してしまうのだ。
――ごくり
英雄は口の中に溜まった生唾を飲んだ。それは性欲スイッチが入った瞬間だった。
「主人公の孫悟空は当時、みんなの憧れのヒーローだった。もちろん他にも魅力的な登場人物はたくさんいる、でも孫悟空が一番なんだ。学校の休み時間や放課後はドラゴンボールごっこをよくやったもんだよ。かめはめ波……ああ、孫悟空の流派、亀仙流の必殺技なんだけど、その練習も数え切れないぐらいしたし、ボールを使って元気玉や繰気弾を真似してみたり、お風呂上りに湯気が立つ自分の身体を見て界王拳なんて言ったっけ」
「ああ、私の学校にもそんな同級生がいたような気がする。それで、フリーザと……えっと、あと一人は忘れたけど、それは?」
「フリーザとセルだよ。フリーザはナメック星編の悪役、ラスボスだよ。宇宙の帝王と言われていて、圧倒的な存在だった。戦闘力が五十三万と言われたとき絶望のどん底に叩き落されて吐き気がしたよ、これは誰もが同じだったと思うけど。それに三回の変身、パワーアップができて、孫悟空をスーパーサイヤ人に目覚めさせるきっかけを与えたのがこのフリーザだ。声優はアンパンマンに出てくるバイキンマンの人だよ」
「ふーん……」
「それでセルっていうのは、バイオテクノロジーによって生まれた人造人間。登場人物たちの細胞が組み合わせられていて、ピッコロの再生能力や鶴仙流の太陽拳などの登場人物の特性や必殺技が使えるんだ。初登場時は未成熟だけど、人造人間十七号と十八号を吸収することで完全体へと変貌を遂げる。セルはフリーザのあとに出てきた悪役で、サザエさんに出てくるアナゴさんと同じ声優だよ」
英雄は勇気の首の下に腕を通し、肩を掴んで抱き寄せた。突然のことに勇気は反応ができず、されるがまま英雄に身体を預けた。勇気の小さな息づかい、じっとりと汗で濡れる柔らかな肌、張りのある豊満な乳房、自分よりもやや高い体温。それらが英雄の性欲を刺激し、朝の生理現象に加えて下半身の硬度が増していく。
拘束するように勇気の腰を抱き締め、空いた手で髪を撫でる英雄。一方、勇気は英雄に目を合わせないように顔を背けていた。そのため勇気がこれまで以上に不機嫌な、苦虫を噛み潰したような苦々しい表情を浮かべていることに英雄が気づくはずもなかった。
「ドラゴンボールのジャンルはバトル物、王道の少年漫画だから、強大で魅力的な悪役との戦闘が必要になってくる。フリーザとセルはそのうちの二人だけど、それ以外にも悪役、ライバルは多くいた。ヤムチャ、クリリン、天津飯……今挙げた登場人物たちは最初こそ対立していたけど仲間になったんだ」
「負けたらそこで終わりじゃないのね」
「劇場版は省くとして、原作では命が絶たれる悪役って少ないよ。下っ端の悪役ならともかく、ラスボスの位置づけではフリーザとセルぐらいかな」
「そうなの?」
「今言った登場人物以外なら、例えばピッコロ。ナメック星人で、身体の組織を変化させて巨大化や腕を伸ばすことができて、負傷しても頭の核が残っていれば再生することも可能なんだ。あとはベジータかな。永遠の若さと命を得るために地球に来たサイヤ人のエリート、ドラゴンボールの中では孫悟空の一番のライバルだ。この二人も初登場時はかなりの悪役だった。二人とも孫悟空との激闘の末に敗北したんだけど、フリーザやセルのように命を絶たれることはなく、いろいろあって仲間になった」
「ふーん……その、ピッコロとベジータ、だっけ? その二人はフリーザやセルより前に出たの? 後に出たの?」
「二人とも先に出ているよ。ピッコロ、ベジータ、フリーザ、セルの順番で」
「じゃあ、出てきた順番が悪かったんじゃない? ベジータが仲間になったところで定員オーバーで、それ以上は展開の都合で受け入れることができなかった、とか」
「ところがそうでもないんだ」
髪から手を離し、人差し指を勇気の背中に突き立てた。そのまま爪を立ててゆっくりと腰、お尻へ這わせると、勇気はぴくん、ぴくんと身体を震わせた。勇気の性感帯が背中にあり、どのように触れれば反応するかを英雄は熟知している。指先を何度も往復させ、甘く痺れる刺激を勇気に与え続けた。
「ん、やめてよぉ……んっ、そんな気分じゃないの」
「しばらくしたら、そんな気分になるって」
「今は嫌なの、眠いし……それで、話の続きは?」
「ああ、えーと、どこまで話したっけ? ……そうそう、出てきた順番は関係ない、という話だね。フリーザやセルの後に出てきた魔人ブウという悪役がいるんだけど、そいつは最終的には仲間になった」
「最終的には?」
「魔人ブウは途中で善と悪が分離して、そのうちの善が仲間になって悪が消滅したんだけど、その悪の部分もウーブに生まれ変わって仲間になった」
「ん、ん? よくわからないけど……仲間になったのね」
「魔人ブウ以外なら、セル編が終わるときに人造人間十八号とも和解していたっけ。しかもクリリンの嫁さんになるだなんて、誰が想像できただろう」
背中を擦っていた手が止まり、次に英雄は小さいながらもぷくりと膨らんだお尻を鷲づかみにした。もちろん愛撫の範囲内の力加減ではあったが、勇気は虫を払うように英雄の手を叩いた。
じんじんと痛む手の行き場がなくなり、英雄はしかたなくその手で頭を掻いた。腰からお尻に移動するにはまだ早すぎたのだろうと軽く考えていたが、事態は着々と悪化していた。ずっと眉間に皺を寄せていた勇気だが、今は無表情だった。そこから勇気がどのような感情を抱いているのか、読み取ることは困難だ。もっとも、顔を背けられている英雄は見ることもできなかったが。
「で、僕はわからないんだ。なぜフリーザとセルは仲間にならなかったのか」
そもそも、この疑問は突然思いついたわけではない。英雄自身覚えていなかったが、子供のころは悪役が敗れることに何の疑いもなかったので、ある程度成長してから思いついたのだろう。ずっと忘れていた英雄だったが、最近ドラゴンボールの単行本を読み返していたときに思い出した。それからは眠っているとき以外は、勇気とセックスをしているときでさえ考えていた。
「ユーキはどう思う?」
「どうって、別に何も……」
勇気はもごもごと、聞き取りづらい声で答えた。自己主張の強い英雄の下半身が身体に当たり、離れたくてしかたがなかったのだ。しかし英雄がそのことに気づくはずもなく、勇気の無関心な返答に腹を立てていた。
「別にってことはないだろう。最近、反応冷たくない? この前だってアニメイトに行ったときも先に出ちゃうし、深夜アニメだって始まる前に寝るしさぁ」
「あーはいはい、わかりました、言えばいいんでしょ……話を聞いて思ったけど、フリーザとセル、あと悪の魔人ブウは、救いようのない悪役だったんじゃないのかな。改心なんてとんでもない、主役にやっつけられるだけの存在、絶対悪だったとか」
「それは違うと思う」
無理やり言わせた勇気を、英雄は即答で切り捨てた。
「フリーザは惑星を暴力で地上げをする奴だし、セルはドクターゲロの悪意が込められたモンスターで過去や未来をめちゃくちゃにした。悪の魔人ブウも破壊衝動に身を任せて息をするように地球を吹き飛ばした。たしかに救いようのない悪役たちだけど、他の登場人物でも同じことなんだよね。ピッコロは当初、親であるピッコロ大魔王の意志を継いで世界征服を目論んでいたし、ベジータも似たようなものだった。魔人ブウはバビディに従っていただけだから少し違うけど……だいたい邪悪さは似たようなものなんだ」
「……そこまで否定されたら気分悪いよ」
「ごめんごめん、否定したいわけじゃなくて、僕は答えがほしいんだ」
「じゃあ、ヒデはどう思っているの?」
「僕? 僕は……」
英雄が答えようとしたとき、勇気は英雄の拘束を無理やり抜け、上体を起こして英雄を見下ろした。いや、見下した。その目は格下の存在を見るようにとても冷ややかで、そんな只ならぬ雰囲気に英雄はようやく恋人の異変に気づいた。
「きっかけが、なかっただけだと思う」
異変には気づいていた。それなのに、英雄の口から出た言葉は恋人に対する気づかいではなく話の続きだった。
「ピッコロは地球侵略にきたサイヤ人、ラディッツを倒すために、孫悟空を殺してしまった。そのあと、孫悟空の息子の孫悟飯を修行させることにしたんだ。最初はそれほどいい気分ではなかったと思う、何せ宿命の敵である孫悟空の息子なんだから。でも漫画を読んでいるとわかるけど、次第にピッコロと孫悟飯の距離が縮まっていくんだよね。ピッコロは異星人である自分に偏見なく付き合ってくれる孫悟飯に心を開き、孫悟飯はそんなピッコロが持つ優しさに慕うようになる。ベジータもそうだ、ナメック星編のときは利害の一致というだけで仲間になった。でもフリーザに殺されようとしたとき、孫悟空にサイヤ人を滅ぼしたフリーザを倒す、その願いを涙ながらに託したし、魔人ブウとの最終決戦のときに孫悟空がナンバー1ということを認めた。ブルマとの間に息子のトランクスを授かって家族愛を理解するようにもなった。僕が思うに、ピッコロもベジータも宇宙人なんだけど、地球人に近づいているんだよね、心境が」
「でもフリーザやセルには、それがなかったと」
「そう。フリーザやセルにはきっかけがなかった。最初から最後まで孫悟空たちと対峙したまま散っていった。何かきっかけがあればフリーザとセルも元気玉のために元気を分ける、そんな仲間になっていた可能性だってあったはずだ」
「でもさ、手当たり次第仲間にしていたら、少年漫画としてはおもしろくないんじゃないの?」
「そりゃそうだけど……わかっているよ、それぐらい」
こんなとき、英雄は勇気に苛立ちを募らせる。悪役すべてが仲間になっていたら少年漫画として成り立たない、展開のために犠牲となる悪役が必要なことは百も承知である。英雄は漫画談義やたらればの話したいだけで、それなのに勇気は現実的な話を突きつけることが多々あった。それを英雄はどうしても許せなかった。
「……あのさ」
「あ、そう言えば」
勇気が何かを言いかけようとして、英雄がそれをさえぎった。
「思い出したけど、ピラフや桃白白も仲間になっていなかった。ピッコロ大魔王……ピッコロの親に当たる悪役も幼少の孫悟空に命を絶たれていたし、さっき言っていたラディッツもそうだった」
「あのさ」
「忘れているだけで、仲間にならなかった敵は案外多いのかも。ユーキ、誰か思い出せない?」
「あのさ!」
「……何だよ、さっきから」
英雄は苛立った口調で言葉を浴びせ、勇気を睨みつけた。この英雄の行為が引き金となった。勇気は睨まれたことによる驚愕、睨まれた原因がわからないことによる相手への疑問と憤怒、そしてそこから一気に温度が下がり、何かに吹っ切れた様子。そんな変化が十秒にも満たない時間で行われた。
勇気は無言でロフトベッドを降りて、床に脱ぎ散らかした下着や服を拾って着始めた。
「あれ、帰るの? シャワーぐらい浴びて行ったら?」
いかにも親切心による言葉に聞こえるが、実際のところ英雄にそんな意識はなく、むしろ下心しか込められていない。昂ぶった性欲とそそり立つ下半身を残したまま帰すわけにはいかない、朝からセックスは面倒なので手なり口なりで射精させてほしい、そんな下衆な心情だった。ところが勇気は英雄を相手にしない、無視し続けた。そして服を着替え終えると、ロフトベッドの上にいる英雄を見上げて言った。
「あのさ、別れてくれない?」
英雄がそれを理解するまでに数秒要した。興味のないジャンルの音楽が右から左に抜けていくように、頭を素通りしてしまったからだ。かろうじて言葉を拾い、理解できたときにはまず自分を疑った。これは何かの聞き間違えではないのだろうか、と。けれど、そんなはずはないと理性が否定してしまう。この耳で聞いた、間違いない。
「え、え、は、はぁ、はぁ、はぁ?」
英雄は呼吸を忘れてしまうぐらい言葉を詰まらせた。慌てて飛び起きたので天井に頭をぶつけ、転がり落ちるようにロフトベッドを降りた。全裸で、しかも股間の一物が雄々しく屹立している姿は非常に情けなく、服を着た勇気はそんな英雄に軽蔑の眼差しを向けていた。
「おい、どういうことだよ、いきなり別れるだなんて。冗談にしてはひどすぎるぞ」
ひとまず昨夜脱ぎ捨てたボクサーパンツとシャツを身につけ、一応の体裁は整えたが動揺は収まりそうになかった。
「ずっと考えていたの。いつ言おうか、いつ言おうかと悩んでいたけど、今日ようやく決心ができたの。もうヒデには愛想が尽きた」
「何が、どうしたって言うんだよ……」
「どうしてわからないの!」
悲鳴を上げるように勇気は叫んだ。
「ふざけないでよ! いつも、いつもいつもいつも漫画の話ばかり! もうウンザリなのよ!」
ヒステリックな声は部屋の中にきんきんと響いた。こんな勇気の姿を英雄は見たことがなかった。出会ってから半年の間、喧嘩は何度もしたし一方的に怒らせてしまったこともあったが、今の様子はそのときの比ではない。ヒュウヒュウとか細い呼吸にがたがたと身体を揺らす様子は、怒りよりも錯乱に近いように見えた。
「ウンザリって……楽しくなかったの?」
「限度があるのよ! 最初は楽しかった、これは本当よ……でも、でもね、それだけなんてあんまりよ……いくら楽しそうに話してくれたところで、興味がない漫画の話なんて聞きたくない。お互い働いているから休日だけ、その休日もたまにしか会えないのに、ずっと漫画を読むかゲームをするか、セックスだけ……! ねえ、私はヒデのなに? 単なる性欲処理の道具なの……?」
「外にだって出ているじゃないか、たまにだけど……」
「行き場所なんてアニメグッズや同人誌を売っているお店かネットカフェ、どちらにしても漫画のことじゃない! しかもそれを交互に繰り返すだけ、私が行きたいところには連れて行ってくれない……ウィンドウショッピングやカフェでランチとかしたいのに、すごく嫌な顔して……こんなの、ひどいよ……」
途中で勇気は涙声になり、それでも最後まで言い終わると両手で顔を覆ってすすり泣いた。
英雄はショックだった。勇気との出会いは共通の知人からの紹介で、英雄とその知人は学生のころからの友人、勇気とは会社の同僚だ。そのときの自己紹介で英雄は勇気の口から『私も漫画やアニメが好きなんです』と聞いた。これは聞き間違えではなかったし、知人には『漫画やアニメが好きな女の子』を条件に紹介してもらったのだ。最初のころはお互い嬉々として漫画談義に花を咲かせていたことを、英雄はしっかりと覚えている。
思えば、時間が経つにつれて漫画やアニメの話題に対する勇気の反応が冷たくなっていった。英雄はその理由はわからなかったが、二人の間には埋められない温度差があった。勇気の『漫画やアニメが好き』というのは「現在連載をしている、または放映されている作品をたまに見ている」程度であり、英雄は「好みの登場人物がいたら見る」「好きな声優が出ていたら見る」「ヒット作を出している制作会社が作っていれば見る」という筋金入りの『漫画やアニメが好き』なのだ。
英雄は自分が楽しかっただけで相手のことなんて考えなかった。それが今、こんな形となって返ってきている。まさに自業自得だった。
「ご、ごめん……ちょっと自分勝手だったよ。わかった、これからは気をつける、改善するようにするから、別れるなんて」
「私ね、もう付き合っている人がいるの」
これは意外にも簡単に理解することができた。付き合っている人、もちろん自分のことだが、あえてこの場で言うようなことではない。つまりもっと深い意味がある。
――自分以外の誰かと付き合っている。
「おま、お前、それ何だよ……それ、浮気じゃないのか?」
「そうね、二股していたの。でも私は悪くない、全部ヒデが悪いのよ」
先ほどのヒステリックな様子から一転、抑揚がほとんどない諭すような口調になった。そこに悪びれた様子はなく、英雄には勇気が同じ人間と思えず、残酷な行為を平然と告白する、血の通っていない人形のように見えていた。
「誰だ、誰だよそいつは……!」
「知りたい? 知らないほうがいいと思うけど……」
「いいから教えろよ!」
「……正義(まさよし)くん。いえ、正義よ」
「ま、正義……!」
英雄が驚くのも無理はなかった。この正義という人物こそが、英雄と勇気を巡り合わせた相手、共通の知人なのだ。
「最初はね、相談に乗ってもらっていたの。ヒデの漫画談義には付いていけない、つらいって……そうしたら正義、すごく真剣に考えてくれた。辛いこと、悲しいことを聞いてくれて、私の涙を拭ってくれた……私の気持ちが傾くのは、早かった」
「何だよそれ、紹介しておいて……最低じゃないか」
「正義は何も悪くない! ……私が先に想いを告げたの。最初は断られた、ヒデに悪いからって。でも私は諦めなかった。ずっと想いを伝え続けた。何回も遊びに誘って、突然キスをして無理やり振り向かせようとした。肉体関係を迫ったこともあった。それでも断られ続けた。でも、でもね、先月、正義が私の想いを受け取ってくれたの。正義、ヒデに申し訳ないってすごく後悔していたよ。でも私には関係ない、あのときほど嬉しいことはなかった。あの日のセックスほど、幸せな気分になれたことはなかった」
恋人と友人の惚気話なんて聞きたくなかった。つい先週、英雄は正義と会っていた。特に変わった様子もなく英雄がよく知る正義だったが、その時点で勇気を寝取られていたなんて思いもしなかった。
もう正義とは以前までの付き合いはできそうにない、英雄は吐き気と頭痛で倒れそうになった。正義は顔が良くてコミュニケーション能力も高く、誰とでも仲良く接することのできる『リア充』だった。正義にとって英雄とは多くの友人の中の一人にすぎないかもしれないが、英雄にとって正義は一番の親友だった。それがたった今、恋人によって崩されてしまった。
それでも、英雄は勇気のことを手放したくなかった。正義のことは諦めるとしても、勇気だけは取り戻したかった。勇気は初めての恋人で、風俗以外でセックスをした唯一の女性だった。自分の社交性や活動範囲を考えたとき、勇気が最後の恋人になるかもしれないと危機感を抱いていたからだ。
「か、考え直してくれよ……」
「無理よ。もう決めたことなの」
「そう言うなよ、漫画談義は控えるし、ウィンドウショッピングにも付き合う、カフェでランチもする。あと、セックスの回数も減らすから……そ、そうだよ、話し合おう。正義を入れて三人でさ、そうすれば元通りに」
「無理なものは無理よ。ヒデ……ううん、もうヒデとは呼びたくない」
勇気は優しく微笑んだ。勇気にとってそれは自らの罪悪感を軽減するための、英雄へのせめてもの償いだったが、英雄はひさしぶりに笑顔の勇気を見たような気がして、いかに自分勝手に振舞っていたのかを痛感した。
勇気が自分の中から消えていく、そんな感覚だった。
「英雄。あなたのヒロインは、もう正義のものなのよ」
この日、英雄は愛と友情――勇気と正義を失った。