第四話「レモンドロップス」
レーベル、という言葉は一番最後に出来た言葉だ。
誰も知らないうちに生まれたモッシュピットとプレイヤーは、自らの不満を解消するためにあると考えられており、それこそ団体行動というものに大きな興味を抱いてはいなかった。
元々誰かとのコミュニケーションや、周囲の環境に対して不満を抱いていたものにとって徒党を組むという行為そのものがナンセンスなものだった。共感し得る相手と組むことはあっても行動を共にすることは決して無い。そうやってプレイヤー達は活動し続けていた。
そんな活動に一つの起点、つまりは「レーベル」という言葉が生まれたのは、一年前に起きた抗争だった。ありとあらゆるプレイヤー達のサドンデスゲーム。オーディエンス狩りに飽き、自らの力量を発揮することで「この世界で今度こそ頂点に」立とうとした者達による戦闘は、やがて一人の男性の勝利によって終結した。
奇抜な青いジャケットを羽織り、黒いリッケンバッカーを手に人の山の上に立っていた青年。闇夜にただ一人立ち尽くすその光景を、敗れた者達は羨望の眼差しで見つめていた。
だが、その結果プレイヤーの過半数がモッシュピット内のオーディエンスが消化できなくなる事態が発生する。プレイヤーの頂点に上り詰めた青年でさえ、多所に発生する空間を全て制御することはならなかった。
――結果、現実が歪んだ。
「まるで人が変わったように」という言葉をニュースで良く聞くようになったのは丁度この抗争の後だった。オーディエンスを狩ることでバランスが取れていたマイナスが現実にも影響を大きく及ぼしたのは、これが初めてだった。交差点をすれ違う人の顔が青白く、屍のような様相になっているのを目の当たりにして、彼らは「オーディエンスがマイナスの塊である事」を改めて理解した。
そうしてやっとプレイヤーは、自分がしていること、そして自分達がいなくなることで何が起こるのかを知った。
この世界のバランスの中にモッシュピットは組み込まれているのだと、自覚した。
自責からモッシュピットを辞めたプレイヤー、認めたくないとむしろモッシュピットに依存するプレイヤー等、抗争を経てプレイヤーは蜘蛛の子を散らすようにバラけ、やがて不安定な精神状態によって楽器を顕現できない者、オーディエンスに敗北してしまう者まで出るようになった。
そんな時に生まれたのが、レーベルだった。
青いジャケットの青年の発案による、プレイヤーを傘下に置くことでモッシュピットの中で出来る限り管理する状況を作った。抗争の勝者の下に就こうと考える人間は少なくはなかったし、それによって安心して活動できると考えれば、これまでの無法地帯ぶりに比べたら魅力的な提案だったのだ。
だが言えば秩序であり、そうしてモッシュピット下で制限されることを嫌う者達も同様にいて、彼らは対抗できる組織としてレーベルを立ち上げ、互いに競いあうようになった。ただ、青年にとってはそこまでが理想であり、今後のモッシュピットを行う上での希望だった。
レーベルという形を作ることでプレイヤーの全滅を防ぐこと。
「誰もモッシュピットを処理出来なくなるとどうなるか」という恐怖を理解している者達はその中で精鋭を決めて戦闘するようになり、傘下に入った下っ端はオーディエンスの処理に回される。
求めるのは世界のバランスに影響を及ぼさないようにしながら、いかにこのモッシュピットという空間を利用できるか。
青年の出した答えは、今のところ成功している。
だが同時に、それは彼らが不満を抱いてきた世界となんら変わりがないようにも思える規則であり、その矛盾は今も解決されないまま、プレイヤー達は活動を続けているのだった。
・
「……僕から言えるのは、こんなところだ」
喋り終えて、モッズコードの彼、ジョニー・ストロボは一息つくとポケットから煙草を取り出して口に咥え、百円ライターで火を付けると深く吸い込み、そして吐き出した。旨そうに目を細める彼を見て、鳴海も煙草を取り出して咥える。
「なんだ、君も吸える人か」
ジョニー・ストロボはそう言って微笑むと、ライターを差し出す。鳴海は軽く頭を下げて受け取ると、それで火を付けた。
モッシュピットを終えた現実の世界。虫の音や、車の音、明かりの点いた建物が幾つも見える。そんな住宅街の隅の公園で、二人は紫煙をくゆらせていた。
「僕はね、モッシュピットが終わった後のこの音や空気が大好きなんだ」
「終わった後、ですか?」
「真っ暗で静かで、重たい世界。そんな中で蠢くオーディエンスを全て救ってやって、その末に現実に戻ってくる。世界は何も変わっていない。自分のやった事が何もこちらに影響を及ぼしていないと思うと、とても達成感がある」
「救う、ですか……」
「変な考え方だと思っただろう?」
言われて、鳴海はどう返答したものかと口を暫く動かして、それから諦めたように頷いた。
「そんな考え方をする人もいるんですね」
「結局のところ、オーディエンスがマイナスの塊なら、消化しきれなかった不満の塊だというなら、僕達が生み出したようなものだからね。僕から見れば、苦しむために生まれた彼らは、可哀想な存在なんだよ」
ジョニー・ストロボは煙草を吸い込み、灰を落とす。
「だから、救う事にしたんだ。マイナスを吹き飛ばして欲しくて彷徨う彼らの為に、僕はオーディエンス専門のプレイヤーになろうと決めた。誰かがしなくちゃいけない事で、僕にはその力があると思った」
恐らくそれは、彼自身のドラムを模した力の事だろう。広範囲に向けての攻撃を行えるそれは、確かに目の当たりにした鳴海も、集団戦闘に適した能力だと思えた。
「プレイヤーと戦おうとは、思わなかったんですか?」
恐る恐る聞くと、彼は煙草を地面に落とし、爪先で踏みにじった。
「戦ったよ」
捻れ土に汚れた吸い殻を眺めながら、彼はただ一言、そう言った。そして続ける。
「古都原君、だったっけ。君は、戦うってなんだと思う?」
「戦う、ですか?」
「そう、戦うって何のためにあると思う?」
問いかけられて、鳴海は暫く黙り込んだ。
こういう時、なんて返すべきなのだろう。簡単な事のように思えるのに、何故か鳴海にはその簡単な事がうまく言葉に出来なかった。
「僕はね、何も出来ない子供であることが嫌で仕方がなかったんだ。酒も飲めない、煙草も吸えない、苦いものも我慢できない、甘い物が好きな子供でいることが、とても嫌だった」
彼は二本目を取り出すと火を付けて、咥える。
「両親がちょっとした事件でいなくなってね、僕は兄の家で暮らしてたんだ。兄が働いてたってのも大きかったかもしれない。出来る限りの事は手伝ったけど、所詮は学生と社会人。時間の使い方だって、お金の使い方だってまるで違う。学費は幸いどうにかなったけれど、それでも生活面でとても迷惑をかけているのは間違いの無い事実だった」
「それは、その……」
「初対面の君にこんな話をして悪いね、まあ、そんな想いから大人になりたいと思うようになったんだ。大人になれば強くなれるし、一人でだって生きていける。でも、実際働くようになってから、自分は果たして本当にこれで大人になれたのか、分からなくなった」
鳴海の煙草が短くなる。火を潰して携帯灰皿を取り出し、鳴海はそこに吸い殻を入れた。丁寧だね、と彼は微笑み、それから彼はまた煙草の吸い殻を地面に捨て、足で踏み潰す。
「辛いことを辛く無いと言えるようになった。酒も飲めたし、煙草も吸えるようになった。けど強くなれた気がしないんだよ。誰かを守れるような力を手に入れた気にもなれなかった。大人になりたいと思っていたのに、念願の大人は僕の理想とまるで違っていた」
「それは」鳴海の言葉に被せるようにしてジョニーは言った。「違ったんだよ」
「そんな想いを抱いていた時に僕はこのモッシュピットに出会った。感動したよ。目に見える力を手に入れて、誰かに勝つことも出来る。羨まれるようにもなった。自分が求めた強さが手に入った気がしてた」
「してたってことは、違ったんですか?」
ジョニーは笑った。そして三本目に手を出そうとして、やめた。
「僕は一度、強い後悔をしたことがあるんだ。自分なりに誰かを守れる強さを、大人っていう強い存在を求めて、道を踏み外してしまった。結局は子供の理想に過ぎなかったんだ」
彼はやがて鳴海に目を向けると、じっと目を見つめる。濁った眼だった。何を考えているのか分からない、疲れてすり減った眼をしていた。鳴海はその眼を見続けられなくて、思わず目を伏せてしまう。
「君は、まだ楽器を顕現出来てないんだったね」
「そうです、頭の中で音は鳴ってるのに、どうしても出てこないんです」
鳴海が答えると、ジョニーは腕組みをして思考を巡らせ、それから人差し指を立てた。
「多分それは、君の中でまだちゃんと戦う為の理由が固まって無いんじゃないかな」
「戦う理由、ですか?」
「そう、何のために戦うのか。」
「さっき、色々と話を聞いたけど、多分君がこの場所に入ってきた理由は『非日常に憧れていた』からなのかもしれない」
「憧れ、ですか?」
否定しきれない自分がいた。鳴海にとってモッシュピットは自分が幼い頃から求め続けた理想の世界で、何度も夢見た景色だった。ギターを手に敵を殴り抜くヒーロー。そんな夢を鳴海はモッシュピットに見たのだ。
「モッシュピットに来たことで、君の不満は解消されてしまった。だから戦う為の理由が考えられない。その結果が、武器の顕現にも影響を及ぼしていると考えたら、どうだろう?」
「そう、なんでしょうか……」
「あくまで僕の意見だ。だからあくまでとしておいて欲しい。ただ、君がモッシュピットで活動するなら考えてみて欲しいんだよ」
肩を竦めた後、にっこりと笑みを浮かべてみせる。
「その力を、強さを、君は何に対して向けるつもりなのか」
そう言って彼は立ち上がる。立ち上がって振り返ると、右手で銃の形を作って鳴海に向けて、撃った。
「道を踏み外した男、ジョニー・ストロボから新参者への助言だ」
それだけ言い終えると、彼は鳴海の反応を待つ。
「……かっこ良く締めてみたつもりだったんだけどなぁ」
ハズしたか、とジョニーは恥ずかしさを誤魔化すようにして髪を掻く。その仕草を見て鳴海はハッとして立ち上がる。
「いや、別にそういった意味で呆けてたわけじゃないんです! なんていうか、そんな風に考えることも出来るんだなって思って……」
「君はどうやらとても真面目な子なんだね」
あたふたと惑う鳴海を見てジョニーは笑みをこぼす。そして再び鳴海の隣にどっかりと座ると、三本目の煙草を取り出して、咥えると吸い始める。
「それで、古都原君は」
「鳴海でいいです」
「じゃあ鳴海君、君はこれからどうするつもり?」
「どうする、ですか?」
「モッシュピットで活動すると言っても、君は武器を顕現出来ない。身体的に強化されているとはいえ、オーディエンスにしてもプレイヤーにしても太刀打ちは不可能だ。それは、多分君自信が一番分かっていると思うけど」
その通りだった。これまで鳴海がモッシュピットで生きていられたのは自分の他にプレイヤーがいたからこそだ。それも恐らく随分と人の良いプレイヤーが。だがその偶然がこれから先続くわけでも無い。ムーンマーガレットと再び顔を合わせるにせよ、クリアしなければならない条件がとても多い。
発言に困っていると、ジョニーが鳴海の前に煙草を一本、差し出した。その意図を汲み取れずにいると、ジョニーはぐいと更に手を伸ばして鳴海に煙草を勧める。
「うちにおいで」
その煙草を受け取るのとほぼ同時に、ジョニーは言った。
「さっき説明したろう? モッシュピットには幾つかレーベルがあるってさ。僕はね、そのうち一つに所属……いや、代表をやってるんだ」
鳴海は驚いた顔で目の前の男を見る。細身のモッズコートを着たこの男性が、レーベルを取り仕切る人間? 実力は確かだったが……。
「ああ、安心してよ、レーベルに入ったからってオーディエンス専門を強制はしていないから。うちの中には普通にブッキングしてる奴だっている。ただ、出来る限りオーディエンスをメインに活動しているってだけの弱小レーベルさ」
「でも、俺はどっちも出来ない人間なんですよ? なんだってそんなのを自分のレーベルに誘うんです? それに、今日が会ったばかりですし……」
「強いて言うなら、面白いからだね」
「面白い、から?」ジョニーは頷く。
「楽器が出せないという君に面白さを感じた。君がこの先どんな理由で戦うようになるのかも気になるしね。若手を応援するのが僕は好きでね。そういった子達がやがて大舞台に立っている姿を想像して楽しむのさ」
「でも……」
「ライブは音源以上に人の心を掴む」
「え?」
「実際に見て好きだと思えたなら、それが全てだ。それに君は自分がどうして戦えないのかを知らなくちゃならないんだろう?」
煙を吐き捨てる。点在する星々を白濁とした煙が立ち上っていく。鳴海は煙に連れられて視線を上げた。
「実際に他の人間や景色を見て、そして探すんだよ。自分が何をしたいのかをさ」
深くて暗い黒の中で、月が輝いていた。
周囲の暗さに負けずに光を放ちながら堂々と存在するそれに鳴海は暫く見惚れていた。あの日も、確か綺麗な月の夜だった。そんな月明かりを背後に背負って、彼女は現れたのだ。真っ赤なギブソンSGを持ったキャップ帽の少女は。
真っ直ぐに、自分が自分である事、ムーンマーガレットとしての居場所を作り上げるために全力で、このモッシュピットを楽しんでいた。
そんな彼女に自分は夢見た。
いつかの夢を重ねていた。
「来週まで、時間を貰えませんか?」
鳴海は、ぽつりと言葉を口にした。
「まあそう簡単に決められることじゃない、か」
ジョニーは肩を竦めるが、隣で鳴海は首を振り、そして月に向かって手を伸ばし、拳を握った。
「ケリを付けてこようと思うんです。この場所の為に、今抱えてる問題に対して」
鳴海の言葉を聞いて、ジョニーは同じように月を眺めて、それから一度頷いた。
「来週もここにいるから」
それだけ口にすると、ジョニーは立ち上がって公園を後にする。鳴海はその後ろ姿を目で追うことはしなかった。ただ、目の前で輝く月を見つめていた。
――あの月に届くようになるまで、どれくらい掛かるだろうか。
・
【校内を歩いていれば白部律花の名前を三回は聞く事になる】
木鶴波高等学校の生徒間で囁かれているものだった。そして同時に白部律花という女子生徒がどれほど校内で名の知れた優等生であるかを示している。
新学期に転校してきた調沢弦子―しらさわ つるこ―がこの学校で初めて聞いたのがまさにその話で、いかにこの学校にいる白部律花が素晴らしい生徒であるかを周囲から飽きるほど聞いた。
受験では目覚ましい成績を残し、授業内容の把握も良く成績も上々。教師からの信頼も厚く、彼女の手がけた仕事は一つの問題も無く終わる。性格はしとやかで落ち着いており、言葉遣いも丁寧。交友関係も広く学校生活に於いて問題を起こしたことは無い。異性との関係も無く極めて清純。嫉妬する気すら失せるほどの女性。それが白部律花だった。
「白部さん、今日は放課後空いてる?」
授業の終わりに掛けられた声に律花は振り向く。鞄を持った弦子は後ろで纏め上げたハーフアップの髪を揺らしながら微笑んでいた。律花は暫く机の上のノートを見つめ、赤縁の眼鏡を両手の指先を使って上げると、にっこりと笑う。
「特に予定は無いけれど、何か?」
「特に用ってわけでもないんだけど、もし良かったら遊べないかなって思って」
恥ずかしそうにはにかむ弦子を見て、律花は笑みを浮かべると小さく頷いた。
「喜んで。私で良かったらお付き合いしますよ」
そういって笑う律花だが、その仕草、口調に弦子はどこか淋しげな表情を浮かべてしまう。そんな彼女の表情を不思議そうに眺めていた律花だが、彼女はノートを鞄にしまい込むと立ち上がり、弦子に微笑みかける。
「白部、いるか」
「何かありましたか?」
立ち上がった律花は弦子の横をすり抜け、教室にやって来た教師の下へと歩み寄ると、小言で会話を始める。またか、と弦子は首元に手を当てながら、正された姿勢のまま教師の相談を続ける律花を暫く眺めていた。
教師の会話の端で、不意に律花がこちらに目を向ける。多分、放課後に作業を頼まれたのだろう。先約がいるが、どうしようかと恐らく迷っているに違いない。
弦子は小さな溜息を一つつくと、律花の傍に歩み寄り、その肩を叩く。
「何があったの?」振り向いた律花は、酷く申し訳無さそうな顔で俯いた。
「実は文化祭の準備の関係で人員が不足しているみたいで、少し仕事を頼みたいそうなの」
「仕事って、この間も頼まれてたよね?」
先日も他の教師、生徒から文化祭に関する相談を持ちかけられていたのを弦子は覚えていた。
「そうなのか、白部」
驚いた顔の教師を見るに、どうやらその辺りの意思疎通は図れていないらしい。いつだってそうだった。気づけば白部律花は行事の裏で何かしらの仕事を受け持っている。とにかく皆白部ならと言ってまず話を持ちかけるのだ。
「先生、他の生徒もいるんですから、他を当たるべきですよ」
教師は腕組みをして唸った後、律花に軽く謝ると教室を後にしてしまった。その後ろ姿を見ながら弦子はほっと胸を撫で下ろす。
「調沢さん……」
「たまには断らないと、いつかキャパ超えした時、大変だよ」
そう言って笑みをかけるが、律花は今もまだ廊下の先の教師の背中が気になるようで、教室からチラリと向こうに目をやっている。全く生真面目さもここまで来ると病気だなと思いながら、弦子は彼女の手を取った。
「放課後、空いてるなら付き合って」
律花の腕を引く弦子の強引さに生徒達は驚いただろう。だが弦子は気にしなかった。この高校で彼女がどんな立ち位置にいるかも理解していた。でも、だからこそ弦子はこの場所から彼女を引き離したかったのだ。
「それで、どこに?」
されるがままの律花に弦子は廊下を駆けながら言った。
「暇つぶし!」
「調沢さん、転校して大分経ちましたけど、落ち着きました?」
律花はダージリンティーの入ったカップを手に取りながら、弦子にそう尋ねる。
店を選んだのは律花だった。もう随分前から通っているようで、店員にも顔が広いようだった。学校だけでなくこんな所にまで名を広げているのを見ると、本当に彼女はそういった関係を繋ぐのが上手いのだと弦子は思った。
「放課後に散歩したり、クラスの皆に連れて行ってもらったりしてるからなんとかなってるよ。これで部活の一つにでも入れてたら、ここみたいに素敵なカフェなんかも知れたのかな、と思うと三年で転校ってのが少し残念」
「随分異例ですよね。受験を控えているのに転校だなんて」
「まあそうだけど、向こうに住むわけにもいかないからねぇ……。所詮高校生なんだから、親元を離れるわけにもいかないし」
そう言いながら弦子は珈琲を口にする。
「ああ、あとあの学校、言葉遣いから何まですごく丁寧よね。私びっくりしちゃった。」
「由緒正しい校風が売りだそうですからね」
「その中でも、白部さんはすごいと思うけどね」
「……どこが?」
躊躇いがちに律花は聞く。赤縁眼鏡の奥にある澄んだ瞳に顔を覗き込まれて、弦子は少したじろぐ。どこが、と言われてどう返すのが正解なのだろう。
脳内で返答文を纏めていると、間もなくケーキがやってくる。赤いベリーソースの乗ったレアチーズケーキと、レモンケーキ。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか」
「大丈夫です」と律花。
「はい、どうも」と弦子。
「ここのケーキが好きで、よく立ち寄るんです」
「確かに盛り付けも綺麗で美味しそう。白部さんはレアチーズが好き?」
話題が逸れた事に感謝しながら弦子はタルトを口にする。律花は恥ずかしそうに頷きながら、ベリーソースの一番かかった部分をフォークで切って口に運んでいる。
転校してから弦子は律花という少女に対して違和感を感じている。丁寧な口調に優秀な成績、清楚な服装。何より堅い表情が。
だがそれを指摘することは出来なかった。周囲の生徒達の評価や、クラスの関係、それに彼女が恐らく「そうしている」理由に、やってきて間もない外部の人間が触れていいものか分からなかったからだ。
「調沢さんは」
「白部さんは」
同時に発せられた言葉に二人は目を見合わせる。眼鏡の奥の目に弦子の顔が映り込む。本当に綺麗な瞳だと弦子は思う。容姿だって、言えば身体付きだってとても整っている。
「私の事は、弦子でいいよ」
「でも」
「別に呼び捨てることが礼儀を削ぐとかは無いでしょう? 実は私、貴方のこと律花って呼びたいと思ってるの」
「私を?」弦子は頷く。
「いい?」
律花は暫く顔を伏せ、悩んでいたが、やがて俯きがちに弦子を見ると、首を振る。
「ごめんね、下の名前、呼ばれるの、苦手なの」
「そっか……。いや気にしないで。嫌なことを無理にするつもりは無いからさ」
慌ててそう言って、弦子はケーキを口にする。ふわりとレモンの酸味の効いたまろやかな甘味が広がる。
でもほんの少しだけ、苦く感じた。
カフェを出るともう陽が大分傾いていた。律花は青に滲む橙を眺めながら、週末までまだ日があることが少しだけ惜しく思う。金曜日の夜はまだ遠い。明日が憂鬱だった。
それでも、今日は少しだけ心地よかった。転校して間もないからか、自分に張られたレッテルをよく知らない調沢弦子と一緒だったこともある。
そして何より、名前で呼びたいという言葉は、正直、とても嬉しかった。
ただ、学校での事を考えると、それが果たして良いのか悪いのか分からない。特定個人との付き合いが発生すれば、他に手が回らなくなる可能性がある。もしぽろりと心を許してしまった結果、これまで作り上げてきた白部律花が崩れてしまったら……。
そんな不安を抱えた結果出た言葉は拒否だった。
「転校前の街では、もっと山が多くて、夕暮が綺麗だったんだ」
隣でそう呟く弦子を律花は見る。
暮れかけの光を浴びて陰の落ちた横顔は、どこか淋しげに見えた。
「向こうの学校が、恋しいの?」
律花は尋ねる。弦子はちらりと彼女を、次に再び夕日に目を向け、それから間を置いて、「ちょっとね」と口にした。
「良い学校だったそうですね。やっぱり向こうの環境の方が好き?」
弦子は首を振る。
「幼なじみを向こうに残して来ちゃったの。喧嘩別れしたままでね」
「それは、悲しいですね」
「その子、とても無理をする子でね」弦子は懐かしそうに目を閉じて言う。「その無理するのを止められずにこっちに来ちゃったから、大丈夫か少しだけ心配なの」
「連絡……は取れないんですか?」
「酷い喧嘩だったから、多分口も聞いてもらえないと思う」
「そうですか……」律花がそう呟くと、弦子は彼女の手にそっと触れる。驚いたが、律花は特に拒否もしないままでいた。多分、触れていたい気分なのだとなんとなく理解したから。
「それからどうするべきだったのか考えてるけど、未だに答えが出ないの。好意と迷惑の境目を探してるんだけど、見つからなくて、今も私は途方に暮れてる」
「弦子さん……」
「なんてね」
弦子は律花に向かって笑うと、舌をちらりと見せて、彼女の手に触れるのをやめてニ、三歩前にステップすると、くるりと律花の方に向き直る。
夕暮の光が逆光になって、彼女の身体は全身がすっぽりと陰に包まれる。
「今日は無理に誘ってごめんね、白部さん」
「ううん、私もいい時間を過ごせました」
「また、連れてきて貰ってもいい?」
律花は頷いて、微笑んだ。その顔を見て弦子はホッとしたようだった。小さく手を振って、踵を返すと弦子は歩いて行く。その後ろ姿を見ながら、律花はぼそりと小さく呟く。
「……余計な、お世話よ」
目を伏せて、手提げ鞄の取手を両手でぎゅっと握り締めながら、律花は自分の足元を見つめ続けていた。色褪せた煉瓦道に落ちた陰が濃くなっていく。やがて完全に日が沈めば、それが普通になる。
律花は反対の空を見上げた。濃い青の中に薄く現れた月を見て、彼女はそっと手を伸ばす。もっと輝いて欲しかった。投げ掛けられた不安を取り払ってくれるくらい、強く、強く光が欲しかった。
でも、今日の月は細くて、薄くて、頼りない光しか示してくれない。
やっぱり律花は、金曜日が、恋しくなった。
担門大学から少し離れた繁華街の更に隅に、飲食店「ハッピービバーク」はある。
個人経営の店で、店主は音楽を聴きながら酒が飲める場所が欲しいと三十後半で脱サラ、料理経験も無いのに店を開いたという逸話を持つ怪しげな店だが、量が多く値段が安いことが功を奏してか若者、特に担門生に人気のスポットとなっており、意外と繁盛している。酒の味も分からないがとにかく飲めたら最高な大学生には悪くない環境だ。
大学生御用達のそんなハッピービバークであるが、鳴海も多分にもれずこの店を良く利用しており、入学したての頃は軽音楽サークルの先輩に連れられて吐くほど飲まされた嫌な記憶もある。
更に言えば沙原と意気投合したのもこの場所であり、思い入れのある場所でもあった。
鳴海が店の戸を開けると、軽快な音楽が店内から聞こえてくる。カウンターの前で店主は黙々と準備に取り掛かっていて、ちらりと鳴海を見るが気にせずに作業に戻ってしまった。
「いらっしゃい」
奥からぱたぱたとやってきた女性は鳴海を見るなり懐かしそうに眺めて笑みを浮かべる。仕事を辞めて店を開くなんて無謀な行為に付き合い続けた彼の伴侶であり、この店で一番仕事の出来る通称「女将」だ。泣き黒子とウェーブがかった髪、そして発育の良い身体付きに魅了され、年上好きに目覚めた担門生が増えたというのはよく聞く話だ。それが真か嘘かと言えば、半々くらいだろう。確かに彼女で目覚めた奴を鳴海は二、三人ほど知っている。
「古都原君、久しぶりね。バンドの子とも一緒に飲んでる姿見ないし」
彼女はそう言って頬に手を当てながら空いた手で身体を抱き、首を傾げるように鳴海を見る。そういう仕草がファンを増やすんだと思いながら、鳴海は下がりかけた視線をぐっと堪えて「奥に居ます?」と尋ねた。誰かは言わなかったが、彼女はそれだけで理解したようで、こくんと一度頷いた。
「ビールで良い?」
「お願いします」
「お通しと一緒に持っていくね」
そう言って彼女は奥にぱたぱたと消えていった。その後姿を見送ってから、鳴海は店の奥の座敷の間へと向かう。
奥の座敷の間には、既に客が一人、ビールを飲んで料理をつまんでいる。
「よう、ナルミ。先に始めてるぞ」
「ちょっと待つ事出来ないのか?」
「お預けされるのは嫌いなんだよ。土曜日の昼っつって今いつだと思ってやがる」
「月曜日だけど、それはお前が体調崩したからだろ。三十九度も出しやがって」
「はは、思い通りにさせないのがロックだ」
「なんでもロックで片付けられると思うなよ?」
「思ってねぇよ。冗談くらい冗談で受け取れ」
「分かってるっての!」
「うるせぇなあ、折角酒飲んでいい気分なのによ」
そう言って沙原は不機嫌そうに顔を歪めるとグラス一杯のビールを飲み干して、瓶を傾けて更に注いでいく。既に空いた一本がテーブルの横には置かれている。
鳴海は溜息をつくと向かいに座る。丁度そこでお通しとビール瓶を持って女将がやってきて、彼の前に置いた。鳴海は幾つか注文するとビール瓶を手に取り自分でグラスに注いでいく。互い注ぎ合うような事はいつの間にか無くなった。それぞれ飲むペースも許容量も違うからと沙原が面倒だと言い出したのが始まりだ。
「乾杯くらいはするか?」
「何に対してさ」沙原は目を細めて言う。
「そうだな……」
それから注ぎ終えたグラスを持つと、鳴海は微笑んだ。
「互いの門出を祝って……とかどうだ?」
鳴海の言葉を聞いて、暫く沙原は動きを止めていた。じっと向かいで笑みを浮かべる彼を見つめ、口を閉ざしたまま何かを考えているようだった。その間鳴海もそれ以上何かを言わないでおいた。ここで何か言うのはなんだかフェアじゃない気がした。
黙りこんでいた沙原は、やがてグラスを傾けてビールを飲み始める。耳障りの良い音と共に喉を動かして中を乾かしていく。それを見て鳴海もビールを飲み干す。
「戻ってくると少しだけ期待してたんだけどなぁ」
次を注ぎ始める沙原はそう言って鳴海を見た。鳴海も同じようにグラス一杯に注ぎながら「実は俺もそうなると思ってた」と零す。
「理由は? モチベーションの低下か?」
「いや、というよりなんだろうな。むしろモチベーションは回復してる」
「回復? 切っ掛けは?」
言おうとして、鳴海はその言葉がのどの奥で止まったのを感じた。言いたいけど言いたくない、そんな不快な言葉の止まり方だった。何度か言ってみせようとしたが、やはりどの言葉も喉元で止まった。
「……沙原は、俺が言った昔の夢、覚えてるか?」
「ああ、あのアニメ見て憧れたんだろう?」
「ずっと夢だった世界だよ。その為にリッケンの偽物買ったくらいだし、今だって時々見直してる。何度も見たせいでたまにディスクに不具合が生じてるけど、多分これからも見続けると思う」
「お前の作ってきた曲、たまにイントロからアウトロまで全部パクったみたいなやつあったもんな。すぐに皆から没喰らって、その後練習中拗ねてたっけか」
嬉々として語る沙原に鳴海は顔を伏せ、お通しを口に運ぶ。
「偶然似ただけだったのに、あいつら次から次へとこれはどの曲のパクリだとか指摘してくるんだもんなぁ……」
「あの曲名も本気で付けてたのか?」
「当たり前だろ。それなのに影響受けすぎだとか笑いやがってさ……」
「プリーズミスタートワイライト、だっけ?」
「掘り返すなよ、俺も後でやり過ぎたって思ったんだからもう時効にしてくれ」
「嘘つけ、反省してたら次にレジスターなんて曲を持ってくるわけがない」
「没喰らった曲を次々と上げるのはやめろよ!」
からからと沙原は笑う。気恥ずかしさをどうにかしたくて鳴海はビールで誤魔化す。
「でも、お前が作った曲は、今でも皆好きなんだ」
茶化して愉快そうにしていた沙原の声のトーンが下がる。鳴海もまたその言葉を聞いて口を閉ざした。
「そんな頻繁に持って来なかったし、没も多かったけど、ライブを盛り上げてくれるのはいつだってお前の曲だった。この間お前はいなかったけど、お前の作った曲も練習したよ。やっぱり良い曲だった」
鳴海はビールに口を付ける。苦味と炭酸を我慢して強引に飲み干す。頭に響くような冷たさと、心地良い喉越しに鳴海は思わず目を堅く閉じた。
「壮平、前から言いたかった事があるんだ」
「奇遇だな、俺もだよ」
鳴海の顔を見て、沙原は微笑む。それだけで互いに意思の疎通は出来た気がした。二人は互いにグラスを突き出すと、軽く当てた。
こつん、と乾いた音と共に、グラスの底の炭酸が浮かび上がり、真っ白い泡の中に消える。
「そのうち、抜けた事後悔させてやるから待ってろ」
そう言って凄んでみせる沙原を見て鳴海は笑う。酔いが回ってきたのも理由にあるかもしれないが、脱退を示唆しているのに気分が良かった。互いに後ろ暗さも無く、この先もきっと関係は途切れずに続く気がした。
例え鳴海が道を見つけられなくても。
例え沙原が夢を叶えられなくても。
「お前はどうなんだ、やりたいこと、ちゃんと決まってるんだよな?」
尋ねられて、鳴海は頬杖をつく。
「行きたい場所があるんだ。その為に、前を向いて歩いてみようと思うんだ」
「暫くは途方に暮れる必要があるわけだな」
「でも、諦めるつもりは無い」
「いつか夢見た景色の為に?」
「夢を実現させるために」
あの月に届くまで、どれくらい掛かるだろう。赤いギターを手にしたキャップ帽の先にある目をもう一度見るためには、どんな道を進めば良いのだろう。
「どれだけ道に迷っても、行ってやる」
鳴海の強い語気に沙原は微笑む。それから瓶を持つと鳴海の空になったグラスに注ぎ入れる。
「お前、お酌するのは嫌いだったんじゃないのかよ」
「いいんだって、俺のお酌なんてレアだぞぉ? 餞別に持っていけぇ」
そう言って並々と注がれるグラスに溜息を付きながら、鳴海は再び飲み始める。今日は飲み過ぎている。大分視界がグラついている。胃の中が大分酷いことになっている。身体が宙を浮いているように軽くて、上手くコントロールが効かない。
「精一杯迷えよぉ」
沙原の口調も呂律が回らなくなってきている。けど、別に構わなかった。少し歩けば大学もあるし、別に泥酔して沙原と帰るのは慣れている。入学してからいつだってやってきた事だ。
ただ、それがこれからあまり出来なくなるかもしれないのが、少しだけ寂しかった。
「なるみぃ」
「何?」
「てめーは今日からロストマンだ」
「ロストマン?」
「そうだ、この迷子やろーが」
据わった目でそう言って沙原は鳴海を指差す。なんだそりゃ、と鼻で笑うと、沙原は今笑っただろう、と声を大にして叫ぶと、再び鳴海のグラスにビールを注ぐ。半分程消化されていたグラスがまた一杯になる。呑みが足りねぇと叱られ、グラスを無理矢理空にさせられながら、意識が半分飛びながら、鳴海は笑った。
ロストマン、ね。悪くないかもしれない。
・
ここから先、鳴海が覚えているかどうかは定かでは無い。
記憶の奥底に眠っているのかもしれないし、もしかしたら、酒の影響で、脳にバグが生じて綺麗に白紙になっているかもしれない。
ただどちらにせよ、実際に彼の身に起きた出来事だった事に違いは無い。
・
定まらない視界の中で鳴海はふらふらと歩いていた。沙原がどこに行ったのかは分からない。街の何処かで転がっているか、記憶に任せて大学に転がり込み、勝手に作ったスペアキーを使って部室に【帰宅】したかもしれない。なんにせよ彼は翌日にはケロッとした顔で起きて活動を開始するだろう。
ただ、鳴海は今自分の居場所を完全に失念していた。沙原と同じように部室に向かわなかったのは、脱退という言葉が酔いつぶれた頭の中に残っていたからかもしれない。
電車に乗ったのか、チャージは足りていたのか、定期より先に行っていたとしたら乗越金額はどうしたのか、それすら分からない。いや、最早そんな思考を持っているかも分からない。
鳴海は定まらない視線の中で空を見上げている。今日は月が細くて、光もどこか弱い。あの日見た燦然とした月はどこに行ったのだろう。鳴海は手を伸ばしながら首を傾げる。一つ、二つ、三つ……。そのどれもが求めている月とは違っていた。
やがて歩くのにも疲れたのか、歩いていた途中にあったバス停のベンチにどっかりと座ると、そのまま横になる。
車道を通る車も少なく、バスも既に終バス時刻を過ぎている。鳴海は仰向けのまま額に右腕を乗せて唸ると、左手をベンチの外に投げ出す。鞄が地面に落ちる音が聞こえたが、既に鳴海には取る気力すら無かった。
「大丈夫ですか?」
上から聞こえてきた声に鳴海は腕を退ける。
退けられた腕の奥にあった顔を見て、律花はとても驚いた。
「何してるの……酷い臭い」
ツンと鼻先を刺激するアルコールの臭いに顔を顰めながら、見覚えのある顔に向けて手を差し伸べる。きょとんとする鳴海を見て、律花は投げ出されていた手を握ると強引に引っ張った。
「酔ってる状態で仰向けは駄目なんでしょう?」
律花は酒を飲んだことがない。だから見知った程度の知識ではあるが、鳴海を起こすとベンチに座らせ、隣に腰掛けて地面に落ちた鞄を拾い上げる。それから自分のポーチに入れてあったペットボトルを差し出す。
「……?」
「ただの水よ。酷い顔してるからさっさと飲んだほうがいいわ」
鳴海は指示に従う。小型サイズのミネラルウォーターをごくごくと飲み干すと、空になったボトルを握り締めたままぼうっと前方を見ていた。その間に律花は鞄を開けて、何か身元が確認できるものは無いかと探し、やがて財布を見つけると学生証を確認する。
「住んでるとこ三つも先の駅じゃない! アンタ、なんでこんなところまで歩いて来てんのよ! というか担門大って……こんなのいるの? 今から別の大学の推薦取れないかなぁ……」
顔を顰めながら学生証を眺めていると、どさ、と律花の膝元に何かが落ちてきた。
律花が学生証から目を離すと、自分の膝元に鳴海の横顔があった。声にならない悲鳴を上げ、その頭を一発叩くと下に手を滑り込ませて持ち上げようとする。
「……追いつく……から」
ぼそりと聞こえてきた声に、頭を持ち上げようとしていた手が止まる。目を閉じたまま鳴海は動かない。ただ口だけは何かを言いたそうにもごもごと動いていた。
「……何に、追いつきたいの?」
それは、単純な好奇心だった。彼の事を一つも知らなかったのもある。あの時、自分をかっこいいと言ってくれた彼がどんな想いを抱いて日々を生きているのか、私が関係を絶った先で何をしているのか、少しだけ気になった。
呻きながら鳴海は据わった目で真上に目をやる。先にあるのは律花の顔。突然目を開いた彼に律花は少し驚いたが、黙って彼が何を口にするのか待っていた。
「……月」
「月?」
律花の頬を、鳴海の左手が触れる。
「月に触れたいんだ」
一瞬だけ触れられた手は、再び投げ出されると、やがて鳴海は目を閉じた。
「俺は……ロストマンだから……」
それだけ言い終えると、鳴海は心地よさそうに寝息を立て始める。膝の上で眠るその顔を見つめながら、律花は眼鏡を上げると、肩で息をした。
「ほんと、バカじゃないの……」
そう呟きながら、律花は鳴海の乱れた前髪をそっと撫でて直した。
律花が帰宅すると、花江がやってきて、おかえりなさい、と微笑んでみせた。律花はただいま、と返すと靴を脱いで、母に頼まれた買い物袋を手渡す。
「お父さんもお兄ちゃんもいないから頼んじゃったけど、なんにも無かった?」
「大丈夫だよ、ちょっと考え事してたから遅くなっちゃったけど」
「それは構わないけど、お父さんがいる時は気を付けなさいね。あの人律花が遅くに出歩くの嫌がるから」
そんな事はしない。母は簡単に言葉にしているが、そんなことをすれば数日に渡って説教が続くに決まっている。女性としてどうとか、仮にも優等生として通ってる生徒がとか、ありとあらゆる方面から責められるだろう。
どんなに成績を残しても、あの人に信頼しては貰えない。理解しているのに、そう思えば思う程必死になってしまう。
「頼まれなかったら、するわけないじゃない。私はそういうとこちゃんとしてるよ」
「……そうね」
律花は着替えてくると一言告げると軽くお辞儀をしてリビングを後にする。その背中に花江が物憂げな視線を投げかけていることを、律花は知っているが、振り返ることはしなかった。
自室に戻ると、深い溜息を一つ吐き出してからベッドに寝転がる。着替えないと皺になるなあと思いながら、中々動き出す気になれない。
部屋を照らす円形の照明を眺めながら、律花は自分の膝にそっと手を触れてみる。
月に触れるんだと彼は言っていた。自分の顔を見つめて、頬に手をやって、そう口にしていた。
「ロストマン、かぁ」
あれは酔っていたせいだろうか。それとも……。
・
金曜日、午後四時半。
鳴海が駅前で待っていると、先週と同じ服装のジョニー・ストロボがやってきた。
「ジョニー・ストロボさんは……」
「ジョニーでいいよ。長くて呼びにくいだろう?」
「じゃあ、ジョニー……さんはその服が勝負服とかなんですか?」
ああ、と指摘されてジョニーはモッズコートに目を向ける。中のシャツも全く同じものだ。
「まあ、気合入れておきたいのと、モッズコートが好きでね、何着か似たようなのを持ってるせいか中の服も似てきちゃってね」
「先週と違うんですか、これ?」
「違うよ、ほら、まずファーが付いてないだろう?」
言われて気づく違いに呆れる。大漁のオーディエンスを前に圧倒してみせた人とは思えないマイペースさに鳴海は、もしかして騙されているのではないかと疑いたくなる。
「さて、本題だが、本当にいいのかい?」
尋ねられて、鳴海は頷く。迷いは無かった。袂は分かってきた。この道に踏み込もうと決意をした。
その想いを汲みとったのか、ジョニーは返答も聞かず頷きを返すと、両手を広げる。
「ようこそ、俺のレーベル【オー・パーツ】へ」
そう言って微笑むと、ジョニーは広げた手を差し出す。鳴海はその手を取ると、強く握り締めた。
「さて、君が戦う理由を見出す為に何か出来ないかと考えていたんだが……」
「何かわかったんですか?」
「いいや、何も」首を振るジョニーを見て鳴海は残念そうに俯く。
「だが、少なくとも君の為になることは幾つもある。なんだと思う?」
「俺の為、ですか……?」
ジョニーは鳴海の前に指を一本だけ立てた。
「人助けだ」
「人助け?」
エンジンの回る音が聞こえる。バイクの唸るような排気音だ。鳴海はジョニーの背後にある車道に目を向けた。
「時間通りに付いたみたいだね」
ヘルメットにゴーグル、ジャケットに短パン、黄色のタイツにブーツを履いた女性だった。
ただ、それよりも鳴海の目に写ったのは、その彼女が乗ったバイクだった。
「あれ、ヴェスパ……?」
「彼女は黄色がとても好きでね、偶然見つけて買ったそうだよ。中々洒落てるものを買ったものだ」
イタリアンイエローのヴェスパはジョニーの横に止まる。ヘルメットとゴーグルで顔の隠れた女性は口に棒付きのキャンディを咥えながら、じろじろと鳴海の事を観察する。
「ジョニー、これが新入り? 使えるの?」
「さあ、僕からは未知数だとしか言えないね」
「また出た未知数。代表ならいい加減傘下のプレイヤーを元気づけられる言葉の一つや二つ言ってもらえない? 私ももう聞き飽きたよ」
溜息をつきながらヘルメットとゴーグルを外す。ハーフアップに纏められた後ろ髪が姿を現す。若干のつり目を見て少し気が強そうだと鳴海は思う。
彼女はキャンディを舐めながらヴェスパのハンドルに前屈みに寄りかかり、鳴海を見て目を細めている。
「古都原、鳴海です」
「あら、あなた本名晒しちゃって良い派の人?」
「え?」
「彼まだ呼称も無いみたいなんだ」
「本当に新人なんだ。へえ、初めて見たかも」
ヴェスパの上でにっこりと笑うと、彼女は目の前で棒になっている鳴海に手を差し出す。
「よろしく古都原くん。私はオーパーツで活動してるオーディエンス専門のプレイヤー。【レモンドロップス】って名前を使ってるからそう呼んで」
「あ、はい、よろしくお願いします」
差し出された手を握ると、彼女は嬉そうに上下に何度も腕を振る。されるがままになっていると、レモンドロップスと名乗った彼女は鳴海に袋のついたままの飴を一本ポケットから取り出すと、目の前に差し出した。
「飴要る? 生憎私レモン味しか持ってないけど」
成程、だからレモンドロップスか。
この世界での呼称で、鳴海が初めてすぐに合点のいった名前だった。