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傷痍軍人

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   3 傷痍軍人

 朝方脅迫文がポストに投げ入れられた。新聞紙の切抜きだ。宛名が■■■・■・■■様とタイプされているが私の名前ではない。どうやら家を間違ったようだ。隣家に入れてやろうと外に出ると、往来に三メートルおき位に同じものが捨てられている。無差別だ。私は仕事に行く準備をすることにした。先日のおばさんに「考えさせて下さい」という返事をしてから音信不通とし、公衆衛生局の下請けの職を探し出した。一言で言うと清掃業だが良く分からない黒いドロドロを掃除させられている。仕事場は中心部と外郭部の境目の街、雑居ビルの地下にあるコンクリートの正方形の部屋だ。隅に水を流す溝がありそこに黒いドロドロを流す。水溶性のドロドロは完全に洗っても翌日になるとまた復活している。誰がこびりつけているのか分からない。私は通勤のために生まれて初めて定期というものを買った。地下鉄は暑くて嫌だ。が他に通勤手段がない。駅への階段は毎日どんどん長くなっている気がした。

 仕事をしていると立ったまま寝ているのか覚醒したままの白日夢か分からないが、灰色の映像が目の前に現れる。巨大な団地。迷宮のようにいびつな高さも幅も違う建造物が無限にとも思えるくらい広がっている。反対側を向くと海。白い海だ。空には雲はなく淡い青色のスクリーンのよう。海辺にガラクタや動物の骨が散らばっている。一人の少年がそこにいた。■■■だ。彼の足元に生物の死体。血がまだ乾いていない。どこかの家のペットが殺されてしまったと私は思った。少年の■■■は違うと言った。それは昨日も今日も一年前もそのかたちをしていた。血は乾かないし腐らない、蝿の一匹も集らない。それは殺されたのではなくずっとそうだった。それはそういう生物だ。彼はそう言った。それが■■■と最初に会った日だった。彼と私の誕生日は同じだった。我々は双子のようにそこに立ち尽くしていた。

 仕事もようやく終わりそうな頃爆発音がして部屋が少し揺れた。上司の草臥れた小父さんがやって来てもう帰ってよいと言った。地上に出ると遠くで黒い煙がもうもうと上がっている。テロルだ。行き交う人々の中にはそれを見て「ハ・ハ・ハ」と笑っている人が多い気がした。私はそれを見て自由へ跳躍するためにはやはり武力によって無政府状態を作り出すことが必要かもしれないと思った。電車に乗る。目の前に傷痍軍人がいた。顔や手足に包帯を巻いていてまだ血が滲んでいる女性だ。先ほどの爆発でそうなったのかもしれないが過去の団地に横たわっていた生物のようにそういう人なのかもしれなかった。傷が永遠にいえることがなくそうしているのだろう。その傷を負う原因というものは存在していないに違いない。彼女は私と同じ駅で降りた。その人のことをじろじろ見ていたせいで話しかけられた。
「おたくは■■■革命党の軍服を着ているけど党の人間かしら?」「いえ今は違います」「そう。最近は天気が優れないことが多く気温もそれほど上昇しないから傷が痛くて仕方ないわ」「街に出て人々の中に黒くて大きい影を見ることは無いですか」「それは政府広報」「政府広報?」「放送。二十四時間続いている彼らの連絡だわ。その意味を知ることができる人間はかなりかぎられているけれどおたくはそれがまだ完全にできていないのでしょうね。わたしは隣家の電話のベル・それも長い間誰も出ないししかも同時に目覚まし時計も鳴り始めてだけど留守だからもしくは意図的に出ないか分からないけど延々鳴り続くそれを聞くような気分。あの放送たちはかなり雨の日には受信状態が悪くなってその場で酔っ払いみたいなふらふらとしたダンスを始めるのよ。ああ隣家の人はわたしが人を何十人殺したか把握しているわ。おたくもきっと把握しているでしょう」私はためしに「七十五人」と言ってみた。「把握していないみたいね。隣家の人も本当は分かっていないのかも。ところがそれでも分かっているふりをするからあの人は」「朝に脅迫文がばら撒かれたのを知っていますか」「それは太陽の黒点に関する話題?」「いえ」「薬指に関する話題?」「いえ」「どうして革命党をやめたの?」「独立する自信が湧いたからです」これは嘘だ。「彼らを哄笑する準備ができた、という言い方をするほうがひょっとすると適切かも」
「自らに自信を持つのはいいことだわ」と傷痍軍人は言った。
 彼女は顔面のほとんどを覆っていた包帯を解いた。ついさっき縫った様な傷。まだ出血している。
 右目がなかった。そこには真っ黒い洞窟みたいな闇がある。その中から蝶が出て飛んでいった。三匹。
 私はそれを見送ってから今のは幻覚かと思った。だけど彼女の顔には碧の鱗粉がついている。この人も幻覚かもしくは蝶が実際にいたということだ。
 私は翌日仕事をやめた。
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