螺旋階段て見るとのぼりたくなるよねっ
螺旋階段を降りていると色々な事を忘れていく。
朝のニュース、今日の日付、ふとした時の考え事、いつもの愛想笑い、昨日あった知人との会話、街で貰ったチラシ、誰かとした約束、自分の信じるもの、信じたいもの。
その中で本当に忘れたくないものなんてあっただろうか?忘れてしまった。
鼠色の雲が空を覆い、見回す辺りはうす暗い。つい横の電信柱に目をやるとたった一人、風に吹かれた男が引っかかり宙を見つめている。その虚ろな目はきっと、自身が笑っていた事の一切を忘れてしまったんだろう なんて知ったかぶった。
心にポッカリ穴があいたような、そんな空虚な気分になっていた事を思い出した。なにか、これだけは忘れたくないと思っていたものを忘れてしまったのだろうか。
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
「これさ、吉野弦の詩の一部なんだけど,なんか残酷な言葉だと思うんだよねー。生きていくには他人の存在は必要不可欠で、自分もその存在の中に入っているわけなんだけど、あるときが過ぎちゃえば虻も風も疎ましい存在になる。でもさ、疎ましいと思われることさえも他人の存在意義なんだってさー」
数年前、彼女はよく僕の住むアパートの一室に訪れては、映画の話をしたり、愚痴を言ったり、セックスしたりして。彼女はセックスが終わると決まって何かを語りだす。僕はいつも疲れてしまってこっくりこっくりうなずいていた。
「私はいつまであいつの虻でいられるかな、」
青あざのなくならない顔は、どこか寂しく笑ってて。
同棲中の男に暴行を受けている彼女の愚痴は、毎回その男の事で持ち切りだった。おかげで僕は顔も知らない男についてずいぶん詳しくなった。一度、なぜそんな奴と未だに一緒なのか尋ねたこともある。彼女は一瞬きょとんとして、それはすぐに微笑みに変わった。
あいつ、出会った頃はすごく優しく笑ったんだ
彼女は宝物のようにその事を覚えている。殴られても、笑いかけてくれなくても、いつまでもそいつは彼女にとっての風なのだ。
僕にはなれなかった。
いつの頃か、彼女は忽然と僕の部屋を訪れなくなった。彼女の住所も連絡先も知らない僕は、それっきり彼女と会うことも無かった。
そして色んな事を忘れていった。彼女の顔も名前も、話していた事も、今ではかなりあやふやにしか思い出せない。ただ彼女が何か語る時に見せた寂しそうな笑顔だけはいつまでも覚えている。僕にとってはどうでもいい話。しかしそのときだけは、僕は彼女の風になれていたのかもしれない。
きっと彼女はどこかで生きてるのだと思う。しかしどうしても幸せに暮らしているビジョンが浮かばないのは、彼女の幸福とは縁のない目が原因なのか、僕の願望なのかは分からなかった。今、彼女は僕を疎ましく思ってくれているだろうか。
ふと、強い風が吹いて虻が一匹吹き飛ばされていった。そのまま風下を見やるといつ晴れたのか、壮大な夕焼け空が目一杯に広がっていた。
そして思い出したことがひとつ。
僕は上にあがりたかったんだ。