「この部活を辞めたいです。」
若い男はそう言った。
「そういうわけにはいかない。」
若い男はそう返した。
二人が同じように若いのも当たり前である。彼らはこの私立練馬学園高等部に通う生徒である。夕暮れに錆びた部室の中で二人はひとつの机を挟んで向かい合っていた。
「どうしてですか。もう退部届も書いてきましたが。」
退部届を机に叩きつけたのは一年二組、市原。額に脂汗をにじませながら必死の表情で退部を懇願している。
「それはこの僕が部長だからだ。」
退部届を握りつぶしたのは三年一組、桃井。見開いた目で市原を見つめながらにやりと口の端を釣り上げて退部届を投げ捨てた。
「部長であるこの僕が君の退部届を無効とみなしたから君の退部は無効だ。というか、退部届なんて僕は受け取っていないからそんなもの知らない。今僕が投げ捨てた紙くずはきっとそこらに転がっている不要なプリントを僕が惰性で投げ捨てたものと同じものであって退部届ではない。つまり君は退部届なんて提出していないんだ。そもそも、全ての生徒が何らかの部活動に所属しなければならないという校則があるこの学園においてこの部活にいた君を受け入れてくれる部活なんてないんだよ。わかるだろう。そう、僕らは――」
まくしたてるような桃井の声が部室を飛び出て廊下にまで響き渡る。嫌味たらしく相手に反論の余地を与えないように矢継ぎ早に話す桃井の不快な声を聞いた生徒達はみなこう思うのだ。
「あぁ、また『性格悪い部』か」
性格が悪いからどんなに嫌味たらしくても不思議ではない。性格悪い部の部長ともなればその性格の悪さたるや想像を絶する程であり、彼が性格の悪さを行使するために下準備として行ってきた様々な悪行など可愛いものなのである。
「一度でも性格悪い部に所属した人間が他の部活に入部出来るだなんて思わない方がいい。この部に所属していたという汚点もそうだが、僕が撒いた君の悪い噂に君はこれから縛られる事になる。安心したまえ。僕は性格がいいから『退学処分になるような噂』は流していない。せいぜい留年しないように汚名を返上していくといい。ということで君には学校を辞めるか部活に残るかしか選択肢はないのだ。部活を辞めたければ死ねばいい。実現出来る夢と出来ない夢の区別も出来ないような人間に生きる資格なんてないんだよ。ところで市原君。君には話した事があったかな。僕は弱いものいじめが大好きなんだ。強いものにいじめられるのも同じくらい大好きだが、僕がこの部で三年間を過ごし部長にのし上がったのも君のような弱い人間を握りつぶすためといっても過言ではない。僕は腕っ節が弱いからこうして権力に縋り付いて権力に縋り付けない犬共を相手するしかないんだ。そして君は何よりもいじめ甲斐がある。素晴らしき被虐の才能だよ。君ほどにいじめていて楽しい人間は生まれて初めてなんだ。僕は思ったんだ。これはきっと恋だって。僕は君の事が好きなんだ。愛してるんだ。でも僕はゲイではない。そこが問題なんだ。ところでそこのロッカーには偶然僕が用意した女装用の服が数着入っていてね。偶然にも全て新品だ。偶然にも女物の下着まであるし偶然にも全て君のサイズにぴったりだ。偶然にも可愛い服からオトナな服まで揃っている。偶然にも君によく似合うはずだ。偶然にも僕は君がそれを着れば愛してやってもいいと思ってるぜ。さぁ、『どうぞ』」
下卑た瞳を携えて下卑た笑みを浮かべながら下卑た唇の割れ目から下卑た舌を覗かせ、舌なめずりをひとつ。
恐怖戦慄不審驚愕嫌悪不快困惑その他もろもろが虹色も驚くほどに入り混じりカラフルな感情を浮かび上がらせる市原の瞳はそんな桃井を睨み付ける事しか出来ない。
市原は自分の体が震えているのか脳が働かず眩暈を起こしているのかそれとも大震災が起こっているのか判断がつかなかった。
彼に出来た事はただただ何も言わず漏れ出しそうな小便を我慢しながら踵を返し走って部室を後にすることだけであった。
一人部室に残された桃井は涙ぐんだ瞳で力いっぱい閉じられた扉を見つめ、駆け巡る快感に打ちひしがれた後それを飲み込むように肩を抱いて体をぶるりと震わせた。
「相変わらずいい目をしていたな、市原君は。甘美すぎて危うく彼に大恥をかかされる所だった。いくら性格が悪くても部室でイッてしまうなんて末代までの恥だからな。それに女装なんて用意していないし仮に着替えられても愛する自信なんてないし。何より彼、気持ち悪いし。全てが上手くいって万々歳だな。ツイてるね、ノッてるねぇ。」
古い歌を口ずさみながら桃井は先ほど指差したロッカーを開く。何も入っていないそのロッカーの中に彼はするりと体を滑り込ませ、扉の裏のくぼみに指を引っ掛けてそれを閉じた。彼は暗くて狭い場所でないと落ち着いて物事を考えることが出来ない。言い換えれば、彼には今落ち着いて考えるべきことがあったのだ。
「市原君が我が部をやめたがっている理由は既に明らかだ。さしあたって僕が盗聴盗撮尾行買収等々百を超える嫌がらせ準備スキルを駆使して集めた情報をまとめるとしよう。」
市原と彼女の出会いは今からちょうど一週間前だった。
緊急の全校朝礼を終えた後、一時限目の数学が始まる五分前の教室。たくさんの声が飛び交っていたがほとんどの生徒が話している内容は同じだった。
それは全校朝礼でも話された内容、数学の担当である古河という女性教師が急死したという話であった。
他のクラスでも同じような会話が為されていたが、このクラスの一時限目の担当が古河であった故により一層話題になっていた。
朝礼では病死と伝えられたが、前日まで授業をしていたまだ二十代後半という若さの古河の死は生徒達には病死など建前でしかないと見破られていた。
その中で流れ出した生徒や先生と寝て左遷されたという噂は思春期の生徒達の間で根拠もなく有力視されるのには十分に刺激的な内容だった。
女子の間では気持ちが悪いだのヤリマンだの散々に言われ、男子の間では俺も抱かれたいだの古河でオナニーした事があるだの散々に犯されていた。
だがしかしそんなくだらない高校生活の一場面を否定するのは赤子の手を掴むのより簡単であった。
「でもそんな事があっても学校側が死んだなんて伝え方をする方がおかしいよね。」
「そういえば古河って、性格悪い部の顧問だったよね。」
「あそこの部長会った事ないけど性格の悪さは今でも肌にビリビリ伝わってくるくらいだよ。」
「古河もなりたくて顧問になったんじゃなくて、弱味を握られて仕方なくなったって聞いたよ。」
死んだという表現が一気に有力さを帯び、不穏な空気が教室に流れ出した。一部の生徒が市原の顔を伺うように見て黙り込む。
あまりに腑に落ちてしまう気味悪さに声を発する者が一人もいなくなってしまったその時、教室に一人の教師が入ってきた。
その教師の姿を見て誰もが息を呑んだ。どう見ても、教卓に足を踏み入れたのは死んだと言われた古河だった。
生徒が誰一人声を出せないでいる中、日直の号令もなしに古河は頭を下げて言った。
「おはようございます。一年四組、演劇部の宮原優子です。学校からの依頼で授業だけは私がしばらく古河先生の代わりを演じる事になりました。はい日直、号令を。」
話のトーンも声も立ち振る舞いも古河と遜色ない彼女に気圧され、淡々と授業が始まりそれからもつつがなく進行していった。
たった五十分の授業時間は通過列車のように一瞬に駆け抜け、宮原演じる古河も流れるように授業を終えて廊下へと出て行った。
宮原の演技から解放された教室は一気に騒がしくなった。もちろん話題は「今のはなんだったのか」。あまりに非現実的で手がかりがない話で、授業前の話題が酷く生産的に見えてしまう程どうしようもない話であった。
市原ももちろん彼女を疑問に思っていた。だが彼は彼の性格からか、性格悪い部に所属してしまったからか、友達が一人もおらずそれらの非生産的な話には参加出来なかった。
だから彼は今こうして、教室を走り出て宮原を追う事が出来たのだ。
市原が宮原の背中を捉え、古河の背中に名を呼びかける。
古河らしく振り向いた宮原は市原の下へ戻ってきた。
「古河先生、いや、宮原さん。君に質問がある。」
宮原演じる古河は不思議な顔をしたがあっさりと受け入れた。
「宮原の方に?わかったわ、それじゃあもう演技はおしまい。」
と、宮原は古河の姿のまま言った。だがしかし、市原が瞬きをした瞬間に見たこともない少女へと姿を変えていた。制服を着ている事から彼女が宮原優子本体である事が推測できた。
だが市原は初めてみた彼女の姿に印象すら抱く事が出来なかった。
美少女ではない。醜女ではない。それでいて普通でもない。
垢抜けていない。地味ではない。それでいて普通でもない。
宮原優子という存在そのものが霧そのものであるかのようにすら感じられる。飽き飽きするほど現実的なこの世界で彼女は当たり前のようにそこに立っていて当たり前のように実体を持っているのに、彼女の存在が掴めないのが当たり前であるかのように市原は何の印象も受けられなかった。
不思議と突然姿を変えた彼女に驚く事もなく、それですら当たり前であったかのように市原は平然と疑問をぶつけた。
「君は一体『何』だ?」
まるで特殊能力バトル物語が展開するべく発せられる台詞のようであったが、彼は純粋に「何」であるのかを尋ねていた。そして宮原も「何」の意図もなく純粋に答えた。
「私は何でもないただの演劇部員だよ。ただ古河先生を演じて授業をしただけ。」
市原は「何」でもないし「何」の意図もないはずのその返答に「何」の疑問も抱かずにただ納得してしまった。
「あぁ、そうか。そうだよな。ありがとう。引き止めて悪かったよ。」
そういって踵を返す市原を宮原は呼び止めた。
「市原君……だっけ?君って確か性格悪い部だったよね。ってことはお昼ごはんは友達も一人もいないだろうし居場所もないだろうし一人寂しくトイレの個室で食べてるの?」
ずいぶんな言い様だが宮原には何の悪意もなかった。むしろこの程度であればまだ優しい方である。悪意のない敵意に包まれる事、それが性格悪い部に所属するという事なのだ。しかしそれでもその部活に入部する市原である。性格悪い部に入部していなくともこれくらいの罵倒は慣れた物である。
「いや、さすがにそこまでは。俺は一人寂しく屋上のペントハウスの中で食べてるよ。」
「あんな暗くて埃っぽい所で?まぁ仕方ないか。じゃあ今日は私もそこで食べるから、よろしくね。」
どうしてそうなるのか。トイレで昼食を食べていたらトイレまでくるのか。ペントハウスで昼食を食べるのは市原の小さなプライドと趣味であったがそれを初対面の宮原に共有する必要などないはずなのに。彼女が一体何の意図を持っているのか何一つ見えてこない。
そんな顔をする市原を見て微笑んだ宮原は踵を返しながら言った。
「別に何も気にしないでただお昼ごはんを食べてればいいの。市原君に興味を持った私が市原君を見にいくだけだから。いうなればただの『デート』だから。それじゃあ私は次の授業があるからいくわね。」
それから市原が瞬きをすると宮原の姿は見えなくなっていた。それは特別変わった事でもなく、宮原が市原の背景に溶け込む一般生徒を演じ始めたというだけだった。
市原にとって勝手に約束を取り付けられるのは初めてだった。というより、他人と約束をする事が初めてだった。
無理やり取り付けられた上、宮原が言った「デート」という単語にも魅力を感じられなかったが、不思議と嫌な気分はせず昼休みを告げるチャイムを背に市原はペントハウスへと階段を上り始めた。
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市原がペントハウスに到着すると、既に宮原が壁際に座り昼食を食べていた。あまり減っていないところを見ると今ついたばかりなのであろう。
「来たね。お疲れ様、さぁご飯食べよう。」
手を止めて微笑む宮原。市原は何処に座るべきか悩んだが、ほどなく宮原の右隣に数人分の隙間を開けて座った。宮原は黙ったまま目でその隙間に線を引くように見やった後、腰をずらして数人分の隙間を埋めた。
まるで恋人のように距離を詰めた、とまではいかないがいきなりパーソナルスペースを侵された市原は桃井に抱いたのと同じような不快感を覚えた。腐った食べ物を見る目で宮原を見た。宮原はそんな彼の目を見て微笑んだ。
市原は今まで女子とかかわることがなかったのだ。性格悪い部に入らなくても男女共に避けられるような彼に誰かと昼食をとることは敷居が高かったのだ。市原は顔を少し赤らめて目を逸らした。
「目を逸らさないで。もう一度そのゴミを見るみたいな目で私を見て。」
左手で弁当箱を床に置きながら宮原は市原と顔の距離を詰めた。右手で市原の顎を引き寄せて至近距離で見つめあう。大してアニメや漫画に詳しくない市原でもこの展開は使い古されたものだとわかるのだが、身を乗り出して自分に吐息を吐きかけてくる女子に胸の高鳴りを抑えられずただただ泣き出しそうな子供の目を泳がせて宮原の視線を堪えるしかなかった。
「さっきの目とは違うじゃない。まぁいいわ。少しずつ掴めてきた。」
何かを勝手に納得して宮原は体勢を元に戻して再び弁当へ箸を進めた。そんな宮原に市原は照れ隠しの意味も含めてぶっきらぼうに言葉をぶつけた。
「いきなり何だよ、何が言いたいんだよ。」
「私はね、市原君を読んだの。心とか運命とかじゃないよ?市原君の人格を読んだの。」
この女は何をいきなり突拍子もない、ライトノベルにでも出てきそうな台詞を言うのか。
市原は再び彼女を腐った食べ物を見るような目で見た。そんな市原に宮原は微笑んで言った。
「そうそう、その目。その目が読みたかったの。へぇ、そんな風に私の事見てたんだ。」
「だから読むって何なんだよ。俺の目に何か書いてあるってのか?」
「たとえるなら、そうかな。私ね、先生を演じて授業を代わりにやったりするけど演劇って苦手なの。演劇部なのにね。ト書きも含めて台本が全然覚えられなくって。みんながやってる演劇を記憶力と演技力とするなら、私のは観察力と演技力。だからフィクションがほとんどの演劇部でもあんまり大きな役は出来ないんだ。この前は木の役やったよ。木はそこらで見れるから。」
「じゃあなんだ、見た物ならさっきの授業の時みたいに見た目も何もかも完全に真似られるっていうのか?寝言は死んでから言えよ。」
棘のある市原の言葉に機嫌を損ねたのか、宮原は少しだけ市原を睨んだ後彼の目をふさいだ。数秒の後、宮原が手をどけると市原の目の前にはもう一人、自分がいた。
彼は驚きの余り座ったまま後ずさった。弁当がこぼれそうになって視線をそちらにやる。なんとかこぼさずにキャッチしてもう一人の自分に目を戻すと、そこには何も変わらない宮原がただ笑ってこちらを見ていた。
「これでわかったでしょ?別に手品でも特殊能力でもないの。ただ雰囲気を真似するのが誰よりも上手いだけ。」
「う、上手いって……。限度があるだろ。明らかに異常じゃないか。そんなの聞いた事もないぞ。」
「何でわかってくれないかなぁ。じゃあさ、市原君サッカーの才能ある?」
市原は無言で首を振った。彼は小さい頃から運動が好きでなく、体育の時間は何とかサボろうと努力をし、小学校の頃から文化部所属を貫いてきたのだ。サッカーどころか蹴鞠すら上手く出来ないだろう。
「才能がない、でもそれは実証されたわけじゃないでしょう?市原君が小さい頃からサッカーをやっていたら凄い選手になっていた可能性がある。今そうでないのは才能がないからじゃなくてやってこなかったから。人間誰でも何か得意なものはあるんだよ。それは例えばペットボトルの蓋を閉めるのが上手いなんてくだらない物かもしれないし、ファウルのないサッカーなんていう現実的に有り得ない物かもしれない。」
「ファウルのないサッカー?例えが異常に非常にわかりづらい。」
「サッカーだって人間が作ったルールでしょう?でも人間は自然から生まれたもの。人間が作った器に全ての自然が収まるわけじゃないの。何百人も切って刺して殴って殺して勝利を掴んだ大昔の戦争の英雄だって、今の時代ではその力を国を救うためには使えないの。」
「大昔のただの土器が今では凄く貴重な文化遺産となっているのと似たようなものか。」
宮原はやっとわかってくれたかと満面の笑みを浮かべた。
つまるところ、「自分のやりたい事」と「自分の才能」が一致するか、「社会の価値観」と「自分の才能」が合致するか、そしてそれがぴったり見つかったのが宮原優子である。
もしかしたらここ十年内にも宮原以上に優れた人がいたのかもしれないがその人はその才能を発見出来なかった、または日の目を見る事はなかった。そういう事なのだ。
「待て待て、そこまでの話はわかった。それで昼飯時に呼び出してまで俺を読みたがる理由はなんだ?俺と二人で飯を食うなんて事をしてでも読まなきゃいけないのか?」
「さぁ……。特にないかな。私にとっては挨拶みたいなものだし。もちろん、薄っぺらい人は読みやすいから教室で目を合わせただけでも大体読めるけどね。でも少なくとも、市原君とご飯食べるのは読むのを止めるほど苦痛じゃないっていうか、むしろ楽しいよ。」
『むしろ楽しいよ。』
そして笑顔。
市原はまたも胸の高鳴りに苦しめられる事になった。
困惑し混乱し混濁し、顔に熱が篭る。
「まーた市原君真っ赤になっちゃって。彼女出来た事ないでしょ?」
宮原が意地の悪い流し目でこちらを見てニヤニヤしている。
今俺が抱いているのは敵意なのか殺意なのか一体この女をどうしてくれよう。そんな事を市原は考えていたが、このまま黙っているというのも気が引ける。
「あぁないよ。そりゃ性格悪い部に入るような奴に彼女なんて出来るわけないだろ。」
情けないな、そう思った。黙っているのは気が引けると吐いた言葉が反論でも何でもなく屈服だなんて。
そんな屈辱がすぐに驚愕に塗り替えられるのは誰も予測していなかった。
「性格悪い部は関係なくない?部長の桃井先輩だって彼女いるよ。」
「はあっ!?」
市原は大声を上げて驚いた。自分でも驚く程の大声であったのでまたそれにも驚いた。
宮原はそんな市原を見てまた意地悪そうに笑う。
「知らなかったんだ、同じ部なのに。桃井先輩の彼女は三年の八五郎丸蛟先輩。」
「え……え?なんて?」
「やごろうまる、みずち、せんぱい。」
「凄い名前だな……。」
「みんなにはみずちーって呼ばれてる。」
「可愛い名前だな……。」
「それどころか驚く程綺麗な人なんだけど……聞いた事くらいあるでしょ?『敵意のない悪意』。」
市原は薄っぺらい学校生活を必死に繰り返し巡らせてみるが彼女に関する記憶は一切ない。敵意のない悪意というのも聞いた事がない。
市原が必死に考え込んでいるのを察した宮原は勝手に話を続けた。
「性格悪い部の人ってただ性根が腐ってるだけじゃなくて、存在が腐ってるじゃない。」
「お前それは俺を馬鹿にしてるととっていいのか?宣戦布告なのか?」
「ごめん、そうじゃないの。でもこういう事だよ。周りの人が悪意がなくても敵意を向けてしまうの。」
そういわれてみると何も不思議は感じなかった。市原はそんな人生を十数年間経験してきたのだ。同級生の誕生日会には呼ばれず、遠足等のイベントにいけば必ず雨が降り、帰り道の方向が同じ女子にストーカー扱いされ、自転車に乗れば八割方警察官に止められてきた。そんな人生。
「それに対して蛟先輩は周りに対し敵意がないのに悪意を向けてしまう。蛟先輩はそれを悪意とは思ってないけれど、周りの人から見たらそれは悪意でしかないんだ。さっきの才能の話に少し通じる部分があるね。周りから見れば存在そのものが悪意なの。」
八五郎丸蛟。その名を聞いて一歩退かない者はこの学園において彼女と交際している桃井、そして彼女をそもそも知らない市原の二人くらいだろう。
彼女は今まで出会う人全てに悪意をぶつけてきた。好意的に悪意をぶつけてきた。彼女には何が悪いのか一切わからなかったが、小学校に入って間もない頃に彼女はクラスどころか学校単位でいじめられる事となった。
朝登校すれば上履きが隠され机が廊下に置かれていた。しかしただいじめられていたわけではない。全て、その先には学校に来ないようにという加害者側の悲痛な願いがこめられていた。
学校に来て欲しくなかっただけなので別に机に落書きをされたり体操着をゴミ箱に入れられたり暴力を振るわれたりという事はなかったため、蛟は彼等の悲痛な願いに気付く事もなく、ただのちょっとしたいじめだと認識し我慢して生活してきた。
二年生に進級したある日、一人の男子児童が堪えかねて蛟を殴ってしまった。それが幼い蛟にはショックだった。みんなのために好意的に生きてきたのに、その結果が痛い目を見せられる事であった。
それでも蛟は諦めなかった。「みんなでたのしくしあわせに」。子供らしい幻想を実現するべく、彼女はその男子を殴り返した。
「これでおあいこ、握手でなかなおり。」
彼は女子に殴り返された事に驚いて放心していた。その隙にもう一発殴った。
「これで彼はもう一度私を殴れる。彼の怒りもそのうちにおさまるはず。」
女子小学生の拳でも綺麗に入ってしまったのか、彼は鼻から血を流して泣いていた。その隙にもう一発殴った。
「これで私の方が悪い子。彼はただの被害者。」
殴った。あふれ出る理由が枯渇するまで殴った。その間、怒りも敵意も覚えなかった。ただただみんなの幸せのために殴った。蛟自身、何発殴ったのかは全く覚えていない。ただ落ち着いた時、自分の拳からも血が流れていたのだけは覚えていた。
男子児童は泣きじゃくりながら必死に訴えた。
「もう許してください。もういじめたりしません。何でもいうこと聞きますから。」
その日蛟は先生からも親からもこっぴどくしかられた。完全に蛟が悪い子になった。それは蛟がはじめて経験した「好意の成立」であった。そしてその成功は思いもよらぬ効果を彼女にもたらした。
翌日学校に行くと驚く事に上履きにも机にも何の細工もされていなかったのだ。
普通の生徒同様登校し、普通の生徒同様着席し、普通の生徒同様隣の席の子におはようと声をかけた。隣の生徒は今まで目も合わせようとしなかったにもかかわらず、その日は蛟の目を見ておはようと返した。少しおびえた様子ではあったが。
その日、八五郎丸蛟は小学二年生にして「人を支配する事」を覚えたのであった。
彼女も女の子である。あれ以来今に至るまで暴力は封印してきた。それでも何とかして周囲を支配するべく努力してきたのだ。
今ではこの学園には不良生徒ですら蛟に逆らう人間はいない。
「だから桃井先輩と蛟先輩のカップルは結構有名なんだよ。悪意の塊と敵意の塊ってことで厄介だー、なんてね。」
「あらあら、随分な言い様ね。仲良くお昼ごはんはいいけれど、人の陰口はよくないわよ?一年生。」
階段の下から聞こえてきた聞き覚えのない女性の声。威圧感を孕んだその声に宮原は顔を青ざめて振り返った。
「来たね。お疲れ様、さぁご飯食べよう。」
手を止めて微笑む宮原。市原は何処に座るべきか悩んだが、ほどなく宮原の右隣に数人分の隙間を開けて座った。宮原は黙ったまま目でその隙間に線を引くように見やった後、腰をずらして数人分の隙間を埋めた。
まるで恋人のように距離を詰めた、とまではいかないがいきなりパーソナルスペースを侵された市原は桃井に抱いたのと同じような不快感を覚えた。腐った食べ物を見る目で宮原を見た。宮原はそんな彼の目を見て微笑んだ。
市原は今まで女子とかかわることがなかったのだ。性格悪い部に入らなくても男女共に避けられるような彼に誰かと昼食をとることは敷居が高かったのだ。市原は顔を少し赤らめて目を逸らした。
「目を逸らさないで。もう一度そのゴミを見るみたいな目で私を見て。」
左手で弁当箱を床に置きながら宮原は市原と顔の距離を詰めた。右手で市原の顎を引き寄せて至近距離で見つめあう。大してアニメや漫画に詳しくない市原でもこの展開は使い古されたものだとわかるのだが、身を乗り出して自分に吐息を吐きかけてくる女子に胸の高鳴りを抑えられずただただ泣き出しそうな子供の目を泳がせて宮原の視線を堪えるしかなかった。
「さっきの目とは違うじゃない。まぁいいわ。少しずつ掴めてきた。」
何かを勝手に納得して宮原は体勢を元に戻して再び弁当へ箸を進めた。そんな宮原に市原は照れ隠しの意味も含めてぶっきらぼうに言葉をぶつけた。
「いきなり何だよ、何が言いたいんだよ。」
「私はね、市原君を読んだの。心とか運命とかじゃないよ?市原君の人格を読んだの。」
この女は何をいきなり突拍子もない、ライトノベルにでも出てきそうな台詞を言うのか。
市原は再び彼女を腐った食べ物を見るような目で見た。そんな市原に宮原は微笑んで言った。
「そうそう、その目。その目が読みたかったの。へぇ、そんな風に私の事見てたんだ。」
「だから読むって何なんだよ。俺の目に何か書いてあるってのか?」
「たとえるなら、そうかな。私ね、先生を演じて授業を代わりにやったりするけど演劇って苦手なの。演劇部なのにね。ト書きも含めて台本が全然覚えられなくって。みんながやってる演劇を記憶力と演技力とするなら、私のは観察力と演技力。だからフィクションがほとんどの演劇部でもあんまり大きな役は出来ないんだ。この前は木の役やったよ。木はそこらで見れるから。」
「じゃあなんだ、見た物ならさっきの授業の時みたいに見た目も何もかも完全に真似られるっていうのか?寝言は死んでから言えよ。」
棘のある市原の言葉に機嫌を損ねたのか、宮原は少しだけ市原を睨んだ後彼の目をふさいだ。数秒の後、宮原が手をどけると市原の目の前にはもう一人、自分がいた。
彼は驚きの余り座ったまま後ずさった。弁当がこぼれそうになって視線をそちらにやる。なんとかこぼさずにキャッチしてもう一人の自分に目を戻すと、そこには何も変わらない宮原がただ笑ってこちらを見ていた。
「これでわかったでしょ?別に手品でも特殊能力でもないの。ただ雰囲気を真似するのが誰よりも上手いだけ。」
「う、上手いって……。限度があるだろ。明らかに異常じゃないか。そんなの聞いた事もないぞ。」
「何でわかってくれないかなぁ。じゃあさ、市原君サッカーの才能ある?」
市原は無言で首を振った。彼は小さい頃から運動が好きでなく、体育の時間は何とかサボろうと努力をし、小学校の頃から文化部所属を貫いてきたのだ。サッカーどころか蹴鞠すら上手く出来ないだろう。
「才能がない、でもそれは実証されたわけじゃないでしょう?市原君が小さい頃からサッカーをやっていたら凄い選手になっていた可能性がある。今そうでないのは才能がないからじゃなくてやってこなかったから。人間誰でも何か得意なものはあるんだよ。それは例えばペットボトルの蓋を閉めるのが上手いなんてくだらない物かもしれないし、ファウルのないサッカーなんていう現実的に有り得ない物かもしれない。」
「ファウルのないサッカー?例えが異常に非常にわかりづらい。」
「サッカーだって人間が作ったルールでしょう?でも人間は自然から生まれたもの。人間が作った器に全ての自然が収まるわけじゃないの。何百人も切って刺して殴って殺して勝利を掴んだ大昔の戦争の英雄だって、今の時代ではその力を国を救うためには使えないの。」
「大昔のただの土器が今では凄く貴重な文化遺産となっているのと似たようなものか。」
宮原はやっとわかってくれたかと満面の笑みを浮かべた。
つまるところ、「自分のやりたい事」と「自分の才能」が一致するか、「社会の価値観」と「自分の才能」が合致するか、そしてそれがぴったり見つかったのが宮原優子である。
もしかしたらここ十年内にも宮原以上に優れた人がいたのかもしれないがその人はその才能を発見出来なかった、または日の目を見る事はなかった。そういう事なのだ。
「待て待て、そこまでの話はわかった。それで昼飯時に呼び出してまで俺を読みたがる理由はなんだ?俺と二人で飯を食うなんて事をしてでも読まなきゃいけないのか?」
「さぁ……。特にないかな。私にとっては挨拶みたいなものだし。もちろん、薄っぺらい人は読みやすいから教室で目を合わせただけでも大体読めるけどね。でも少なくとも、市原君とご飯食べるのは読むのを止めるほど苦痛じゃないっていうか、むしろ楽しいよ。」
『むしろ楽しいよ。』
そして笑顔。
市原はまたも胸の高鳴りに苦しめられる事になった。
困惑し混乱し混濁し、顔に熱が篭る。
「まーた市原君真っ赤になっちゃって。彼女出来た事ないでしょ?」
宮原が意地の悪い流し目でこちらを見てニヤニヤしている。
今俺が抱いているのは敵意なのか殺意なのか一体この女をどうしてくれよう。そんな事を市原は考えていたが、このまま黙っているというのも気が引ける。
「あぁないよ。そりゃ性格悪い部に入るような奴に彼女なんて出来るわけないだろ。」
情けないな、そう思った。黙っているのは気が引けると吐いた言葉が反論でも何でもなく屈服だなんて。
そんな屈辱がすぐに驚愕に塗り替えられるのは誰も予測していなかった。
「性格悪い部は関係なくない?部長の桃井先輩だって彼女いるよ。」
「はあっ!?」
市原は大声を上げて驚いた。自分でも驚く程の大声であったのでまたそれにも驚いた。
宮原はそんな市原を見てまた意地悪そうに笑う。
「知らなかったんだ、同じ部なのに。桃井先輩の彼女は三年の八五郎丸蛟先輩。」
「え……え?なんて?」
「やごろうまる、みずち、せんぱい。」
「凄い名前だな……。」
「みんなにはみずちーって呼ばれてる。」
「可愛い名前だな……。」
「それどころか驚く程綺麗な人なんだけど……聞いた事くらいあるでしょ?『敵意のない悪意』。」
市原は薄っぺらい学校生活を必死に繰り返し巡らせてみるが彼女に関する記憶は一切ない。敵意のない悪意というのも聞いた事がない。
市原が必死に考え込んでいるのを察した宮原は勝手に話を続けた。
「性格悪い部の人ってただ性根が腐ってるだけじゃなくて、存在が腐ってるじゃない。」
「お前それは俺を馬鹿にしてるととっていいのか?宣戦布告なのか?」
「ごめん、そうじゃないの。でもこういう事だよ。周りの人が悪意がなくても敵意を向けてしまうの。」
そういわれてみると何も不思議は感じなかった。市原はそんな人生を十数年間経験してきたのだ。同級生の誕生日会には呼ばれず、遠足等のイベントにいけば必ず雨が降り、帰り道の方向が同じ女子にストーカー扱いされ、自転車に乗れば八割方警察官に止められてきた。そんな人生。
「それに対して蛟先輩は周りに対し敵意がないのに悪意を向けてしまう。蛟先輩はそれを悪意とは思ってないけれど、周りの人から見たらそれは悪意でしかないんだ。さっきの才能の話に少し通じる部分があるね。周りから見れば存在そのものが悪意なの。」
八五郎丸蛟。その名を聞いて一歩退かない者はこの学園において彼女と交際している桃井、そして彼女をそもそも知らない市原の二人くらいだろう。
彼女は今まで出会う人全てに悪意をぶつけてきた。好意的に悪意をぶつけてきた。彼女には何が悪いのか一切わからなかったが、小学校に入って間もない頃に彼女はクラスどころか学校単位でいじめられる事となった。
朝登校すれば上履きが隠され机が廊下に置かれていた。しかしただいじめられていたわけではない。全て、その先には学校に来ないようにという加害者側の悲痛な願いがこめられていた。
学校に来て欲しくなかっただけなので別に机に落書きをされたり体操着をゴミ箱に入れられたり暴力を振るわれたりという事はなかったため、蛟は彼等の悲痛な願いに気付く事もなく、ただのちょっとしたいじめだと認識し我慢して生活してきた。
二年生に進級したある日、一人の男子児童が堪えかねて蛟を殴ってしまった。それが幼い蛟にはショックだった。みんなのために好意的に生きてきたのに、その結果が痛い目を見せられる事であった。
それでも蛟は諦めなかった。「みんなでたのしくしあわせに」。子供らしい幻想を実現するべく、彼女はその男子を殴り返した。
「これでおあいこ、握手でなかなおり。」
彼は女子に殴り返された事に驚いて放心していた。その隙にもう一発殴った。
「これで彼はもう一度私を殴れる。彼の怒りもそのうちにおさまるはず。」
女子小学生の拳でも綺麗に入ってしまったのか、彼は鼻から血を流して泣いていた。その隙にもう一発殴った。
「これで私の方が悪い子。彼はただの被害者。」
殴った。あふれ出る理由が枯渇するまで殴った。その間、怒りも敵意も覚えなかった。ただただみんなの幸せのために殴った。蛟自身、何発殴ったのかは全く覚えていない。ただ落ち着いた時、自分の拳からも血が流れていたのだけは覚えていた。
男子児童は泣きじゃくりながら必死に訴えた。
「もう許してください。もういじめたりしません。何でもいうこと聞きますから。」
その日蛟は先生からも親からもこっぴどくしかられた。完全に蛟が悪い子になった。それは蛟がはじめて経験した「好意の成立」であった。そしてその成功は思いもよらぬ効果を彼女にもたらした。
翌日学校に行くと驚く事に上履きにも机にも何の細工もされていなかったのだ。
普通の生徒同様登校し、普通の生徒同様着席し、普通の生徒同様隣の席の子におはようと声をかけた。隣の生徒は今まで目も合わせようとしなかったにもかかわらず、その日は蛟の目を見ておはようと返した。少しおびえた様子ではあったが。
その日、八五郎丸蛟は小学二年生にして「人を支配する事」を覚えたのであった。
彼女も女の子である。あれ以来今に至るまで暴力は封印してきた。それでも何とかして周囲を支配するべく努力してきたのだ。
今ではこの学園には不良生徒ですら蛟に逆らう人間はいない。
「だから桃井先輩と蛟先輩のカップルは結構有名なんだよ。悪意の塊と敵意の塊ってことで厄介だー、なんてね。」
「あらあら、随分な言い様ね。仲良くお昼ごはんはいいけれど、人の陰口はよくないわよ?一年生。」
階段の下から聞こえてきた聞き覚えのない女性の声。威圧感を孕んだその声に宮原は顔を青ざめて振り返った。