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 双子の兄、達也が死んだ。
 ようやっとそのことを和也が理解できたのは、山の麓にある村はずれの火葬場で、兄であった何かが野焼きにされている、そんな最中のことであった。
 葬儀は村長の家のものである。村人のほとんどが葬儀に参列しており、村の家々には囲炉裏の灯りもない。夜の暗闇が村を覆うなか、葬儀場の炎だけが煌々と燃え上っていた。山の頂上を仰げば、兄の喪に服すような青鈍(あおにび)の空に、より一層、色濃い山の輪郭が鎮まっていた。きっと、あの山の天辺に充満していた死の気配が、いよいよ兄のもとにまで降りてきてしまったのだと、燃え盛る火の前で和也はぼんやりと思っていた。
 その山から冷たく厳しい颪(おろし)が降りてきて、兄を荼毘(だび)に付す火を揺らしている。激しく揺らめく火先はまるで無数の蛇がのたうつようで、火そのものが何か得体の知れぬ意思を持っているような感じがして、和也は恐ろしかった。
 ひょっとすると、苦しみに身を激しく揺らすその蛇たちは、労咳(ろうがい)に体を蝕まれ、床に伏せり、夭折(ようせつ)するほかなかった兄の無念の情ではないだろうか。
 生前は何かを悟ったように泰然自若(たいぜんじじゃく)として、血色の悪い青い顔に常に微笑を浮かべていた兄を思い出す。揺蕩(たゆた)う水のように掴みどころのない、そしてどこかこちらを暗に突き放してくるような趣のある人だった。
 己の内に秘め、ついぞ周りに見せることのなかった兄の想いが、その身を焼かれている今となってやっと外へと解放されている。
 葬儀の参列者に囲まれ激しく燃える火を目前にして、和也はそう思わざるを得なかった。
「あいつなら、良い名主(なぬし)になってくれるってぇ、俺ぁ、思ってたのによう」
 隣では、兄弟共に幼い頃から誼(よしみ)を結ぶ耕太郎が、広い背中を丸めて俯きながらそう零して、その太い親指で目尻を拭っていた。
「みなみもそんなに泣くんでねぇ。こんなにも泣き腫らしてたんじゃ、達也の奴も浮かばれねぇばい」
「だってぇ……、だってぇ」
 耕太郎の足元では、みなみが嗚咽に喉をしきりに揺らしながら膝をついている。大人しい性格のみなみは、物静かな達也とも馬が合い、よく読んだ本の意見交換などをしては仲良く話し込んでいた。田舎の村という閉ざされた世界で幼い頃からずっと親しくしてきた仲だ。きっとみなみは兄のことを好いていたのだろう。二人とは嗜好の異なる和也にも、慟哭(どうこく)するみなみの心中を察するに難くなかった。
 そしてまた、兄もみなみのことを少なくとも憎からず思っていたのだろう。
 ――和也。もし僕に何かあったら、みなみさんに渡して欲しいものがあるんだ。
 兄は自分の死期を悟っていたのだろうか。最後の喀血(かっけつ)の二日前に託された紙束を和也は握っていた。確かな厚みを持ったそれを握る手に力が入る。火炎の熱気に晒される紙片たちは、食い込む和也の爪に、乾いた悲鳴を微かにあげた。
 和也はその紙束の中身を知らない。兄がみなみに宛てたものである。そこに何が記されているのか気にはなったが、彼の良心が兄のみなみへの想いを覗き見ることを良しとしなかった。
 ただ、薄い原稿用紙を重ねたその厚みだけで、兄のみなみへの並々ならぬ想いは窺い知ることができる。
 和也は、それが面白くない。
 ――僕は兄に、死人に、嫉妬しているというのか。まるで面目がないじゃあないか。
 火を囲む者たちの多くが頬を濡らすなか、唇を噛み締める和也のそれは依然として乾いたままであった。別段、兄が嫌いだったという訳ではない。寧ろ、強く愛してすらいたのだ。しかし、手に持つ紙束ただ一つで、素直に涙を零すことができない自分がいた。
 ――僕は、私利私欲に塗れた、非情な人間だ。
 忸怩(じくじ)たる思いをその身にひしひしと感じながらも、燃える兄の前、地べたで小さくなり、哀しみに身を揺らすみなみを見ると、和也の心はざわついた。
「畜生、なんでだ。なんで、死んじまったんだよ」
「和也……」
 やっとのことで口を衝いた言葉は兄への恨み言であった。背後の耕太郎が慰めるように、和也の肩に手を置く。
 ――そうじゃない。そうじゃないぞ、耕太郎。
 僕は慰められるような、そんな立派な思想なんか持ち合わせていない。
 兄が死ななければ、勝手に達也が逝ってしまわなければ、こうしてみなみが嘆き悲しむこともなかったし、僕だって、死人相手に恨めしく思うことも、兄の死を素直に悲しめない苦しみに襲われることだってなかった。
 正々堂々と、あんたとみなみを取りあってやったさ。
「ちくしょう」
 肩に置かれた耕太郎の手を振り払い、和也は手の紙束を再度強く握って、それを思いっきり振り上げた。
 兄を恨むようなことは決してしたくなかった。だから、せめてこの紙束を恨んでやろうと思った。紙束に恨み辛みを込めてもなにも変わりやしないが、この場はそれで済ましてしまおうと――そう思った。
 和也は大きく頭(かぶり)を振って、手の紙束を兄のもとへ、火のなかへ投げ返そうとする。背後で耕太郎がなにかを叫んでいた。
 そのとき、いっとう強い山颪が降りてきた。
 あまりの風の激しさに、反射的に和也は目を強く瞑る。その拍子に、瞳から何かが溢れて、火を前に熱くなっていた目尻を冷たく掠めていった気がした。颪に飛ばされていった涙の水沫(すいまつ)が、振り上げていた紙束の表面に叩きつけられる。強風に晒された紙たちは、折り曲げられた手風琴ように蛇腹状に広がって、一斉にばためいていた。
 颪に負けじと和也は目を見開く。
 視界の端では、風に翻(ひるがえ)り、垣間見えた紙面で兄がみなみに宛てた字が躍っていた。
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