洞穴に差し込んできた光で目を覚ました。
何かが自分の体にもたれかかっているのを感じる。
無理やり立ち上がるとそれは滑り落ちてどすりと地面に倒れた。
赤。
そこにいたのは、鮮やかな赤い頭巾をかぶった人間の少女だった。
体を半分だけ起こして壁の方を向いている。
「おまえ、なぜここに来た」
俺は尋ねた。
なぜ、こいつは俺を怖がらない。
なぜ、俺の横で眠っていられた。
なぜ、なぜ……
謎でしょうがなかった。
そして、こんなに近くに格好の獲物がいるのに襲いかからない自分も不思議だった。
俺の声をきくとそいつはおきあがって、こちらを向いて座り直した。
はっとした。目の焦点があっていない。
こいつ、目が見えないのか。
整った顔立ちの中でうっすらと濁った目だけが異質だった。
赤い頭巾の少女は口を開いた。
「ごめんなさい。本当はおばあちゃんのお家に行きたかったの。」
「俺はお前の祖母では無い」
少女は微笑んだ。
「そうね、私のおばあちゃんはこんなに毛むくじゃらじゃないわ。あなたはだあれ?どちらかと言うとベスに似てる」
「ベスとは誰だ」
「私が飼っているわんちゃん。でもあなたほど大きくはない」
「俺は狼だ」
そいつはびっくりしたような顔をした。
「私、狼に始めてあったわ」
そしてまたニコッと笑った。
「ねえ、お願い。顔を触らせて。私狼がどんなものかわからないの」
「お前は俺が怖くないのか。いきなりその手に噛み付くかもしれないぞ」
「大丈夫。あなたはそんなことしない」
何を根拠にそんなことが言えるのだろう。俺は今まで実際に何人もの人を、動物を食って来たのだ。
少女はペタペタと俺の顔を触り出した。
輪郭をなぞった後に、口。その細い指が歯に当たる。
「口が大きいのね」
そして上に上がって鼻。少しむず痒くてヒクヒクする。
「冷たい、濡れてる」
少女は楽しそうに言う。
目の淵、まつ毛、最後に耳。
「耳も大きいのね」
少女は手を離した。俺は動かさないようにしていた体を細かく震わせた。
「もう気はすんだか」
「ええ、ありがとう」
「お前の祖母の家はどこだ」
少女はキョトンとした。
「なぜそんなことを訊くの?」
自分だって、なぜそんな気になったのかわからなかった。
「送ってってやる。人に見つからないとこまでだが。お前一人じゃ不安すぎる」
「……優しいのね」
彼女は微笑んだ。
それにしても、彼女は本当によく笑う。
いや……今まで俺の周りにいた奴らが笑わなすぎただけか。
他の動物たちは皆俺を恐れた。親や兄弟は呆れ果て、邪魔者扱いした。
寂しいのか?俺は寂しかったのか?
だから、俺を怖がらなかったこいつにここまで尽くすのか?
少しでも、愛に似た感情が欲しくて……。
いや、そんなんじゃない。
俺だって、もう立派な狼だ。そんなガキみたいなものは欲しがらない。
これは気まぐれだ。ただの、お遊び。
そう、だって俺はもう立派な……立派な?いや、まだ……。
「どうしたの?無理に送ってくれなくてもいいのよ」
長い沈黙を心配した彼女が声をかけて来た。
「いや、なんでもないさ。お前がどこに向かえばいいかを言わないから」
「そうね、ごめんね。とりあえず、主様の木のところまで連れて行って。そしたら後は自分でいけるわ」
「そうか、分かった。背中に乗れるか?」
俺は腰を低くした。彼女が僕の背中をペタペタと触って高さを確認してくる。
「乗るね」
彼女は俺にまたがると首にしっかりと抱きついた。
僕は体を起こして歩き出す。揺れてる、と彼女は笑う。
それからいろんな話をした。
いろんな、たわいのない話だ。
それぞれの家族の話、今通っている道の様子、おとぎ話……。
彼女の温かい家庭の話をきいて羨ましいと思ってしまう自分がいた。
俺は嫌な過去の中から、楽しかった家族の思い出をひとつ、ふたつ探し出して彼女に教えた。
素敵ね、と彼女は言った。全然、と思ったけれどそうだね、と答えた。
鳥の歌声をきいて、彼女は自分も歌が好きなのだと教えてくれた。そうして、外国の歌を歌った。意味はわからないけどね、と彼女は笑った。俺はその歌が嫌いじゃないと伝えた。正確には、彼女の歌声が好きだった。でもなぜか、言えなかった。
意味はわからないけどね、と彼女はもう一度言った。これは恋の歌なの。
そしてまた歌い出した。
俺は黙ってきいていた。
「着いたぞ」
森の中心にある大きなカシの木の前に俺たちは着いた。
「こんな辺鄙なところにおばあさんは住んでいるのか」
「そう」
この辺に小屋などあっただろうか。
疑問に思ったが、こうもはっきりと答えられてしまうと何も言えなかった。
「おろして」
俺は彼女を背中から降ろした。
「もう迷子になるなよ」
「でも、またあなたに会えるなら迷子になるのも悪くないかもしれない」
なんてことを言う子だろう。
「じゃあね、ありがとう」
彼女はそう言うと木々を手を伸ばして、触れて、確認しながらゆっくりと森の奥に消えて行った。
なぜあんな危なっかしい子を一人でお使いに行かせなどしたのだろう。俺は見たこともない彼女の両親に腹を立てた。
俺は彼女の姿が見えなくなったのを確認してもとの道を引き返した。
もうしばらくは誰かと喋ることはないだろう。ひょっとしたらもう二度と言葉を使う機会はないかもしれない。
まあ、少なくとも「ありがとう」なんて言ってもらえるのはこれで最後だろうな。
俺は後ろを振り返った。
もちろん、そこに少女の姿はなかった。