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『微笑』



 今振り返ると、ずいぶんとつまらないことが原因だった。思い出すだけで気が滅入る。
 彼女と喧嘩してからもう二週間ほど経過した。その間、連絡は一度も取っていない。喧嘩直後の数日、むかむかする気持ちになりはしたが、しばらくして胸にぽっかりと大きな穴が空いてしまったことに気がついた。もう一度彼女の笑顔を見て、幸せに満たされたい。我ながら自分勝手な性格だと自己嫌悪に陥る。
 あの時はつい感情的になりすぎた。記憶を呼び起こすため、過去に意識を向ける。自分の非からは目を逸らし、一方的に彼女の非を掘り返して強く責めたてた。愚かしいことだ。理性的であるべき人間が罵詈雑言を並べ立てるという、無様な醜態を彼女に晒してしまった。あの時の凍りついた彼女の顔は忘れられない。
 すっかり冷めた頭でまず思い浮かんだのは、誠意を持って謝罪したいという思いだった。あの時の非礼を詫びなければならない。謝罪といっても何を言えばいいのかもまだはっきりとしていないが、ただ、彼女に会いたい一心だった。
 久しい彼女への連絡手段はメール。電話で話すのは私の中で強くためらわれてしまった。通話が始まれば、頭が真っ白になってしまうに違いない。直接謝罪するために、日曜日に喫茶店に誘ってみることにした。文字を打ち込んでいくうちにこれまでの彼女とのメールをぼんやりと思い出す。送信する前に、何度も何度も文面を読み返した。やっとの思いで送信し終えると、程なくして返信が来た。
「わかりました」と一言だけ。これだけでは心情は読み取れない。一体彼女は今何を思っているのだろうか。
 決戦はやはり喫茶店だと確信した。
 それまでに言い分を整理しておかねばならない。それとは別に、何か彼女にしてやれることはなかっただろうか。
 日曜日までに考えるべきことはたくさんあるようだ。



 *


 待ち侘びた日曜日が訪れた。
 喫茶店の片隅にて、柄にもなく緊張していた。さきほどから何度もウェイターを呼び付けてはコーヒーばかりを注文している。待ち合わせの時間まで時間が少しあるのでどうにも落ち着かない。さっきからずいぶんと針の進みが遅いように感じられる……。
 待ち合わせをこの日に指定したのにも訳がある。今日は彼女の誕生日なのだ。プレゼントまで準備して、この場に臨んでいる。ベタなやり方ではあるが、私にはこれくらいのことしか思い浮かばなかった。あとはもう懸けるしかない。
 またもカップの中身が半分くらいなくなりかけた頃、ついに彼女がやって来た。その姿を見て、私は目を見開いた。
 現れた彼女は今まで私の見たことのない、鮮やかな水色のワンピースを着飾っていた。いつの間にか、私は立ち上がっていて、彼女に目を奪われていた。未だかつて味わったことのないような、人を惹きつける不思議な魔力を身に纏っている。気まずさをごまかすために片手をあげて挨拶をした。すぐに彼女も片手をあげて応答してくれた。些細なことながら、この短いやり取りがあっただけでも救われた気持ちになる。
 彼女が向かいの席に着き、私もそれに続いた。そしてお互いが姿勢を整えてから、目が合う。視線を切らないようにじっと見つめた。彼女は待ち構えている様子だった。私も決意が揺らぐのは避けたかったので、先に口を開くことにした。
「久しぶり」
「ええ、久しぶりね」
 その口調は冷ややかではなかった。顔に笑みは浮かべていないものの、突き放す印象はない。どこまで粘れるか。
 流れを感じている今のタイミングで一気に切り出すしかない。そう腹を括ると、勇気が出てきた。両手を膝小僧の上に置き、力を込めた。
「この前は俺が悪かった。本当に申し訳ないと思っている」
 いざ切り出すと、立て続けに口から言葉が湧いて出てきた。身振り手振りをも交え、必死に思い伝えようと試みる。彼女はじっと私を見据え、静かに聞いてくれた。緊張と不安で体がわずかに震える。しかし、今は喋り続けるしかなかった。誠意を尽くすしかない。
 どれくらい経ったのか。恐らく数分間ではあるが、体感時間では数時間延々と喋り通したような感覚だ。ともかく言いたいことは全て吐き出した。心労のあまり、ついついため息をつきたくなる。
 だが、ここで気を緩めてはならない。彼女の返答を聞かなければならないからだ。私は残ったコーヒーを全て飲み干した。砂糖を入れ忘れ、苦味が口に残ったために少し顔をしかめた。今、彼女は机の上に置いてある自分の両手を見つめている。何も切り出さない。一体何を見つめているのか……。
 身を刺すような沈黙。空のカップに手が伸びそうになるのを懸命に堪える。喧嘩する前と違って、私は変わることができたはずだ。いっそのこと、鞄の中にある誕生日プレゼントを取り出そうかと思ったその時、ようやく彼女は顔を上げた。
 強い意志を持っているようだ。私は身構えた。
「あなたはわたしと交際を続けたいの?」
 強い視線に気圧されながらも、こちらも負けじと返答した。
「もちろんだ」
 私の答えを聞いた彼女は一瞬顔を伏せてから、薄く微笑んだ。
「そう。あなたはまだ私と付き合っていたいんだ」
 直後、聞き取れないほどの小さな声で何かをつぶやいた。
 そのつぶやきが聞こえた瞬間、私は急に彼女のことがわからなくなってしまった気がした。
 彼女を纏うこの超然とした雰囲気は何なのだろうか。鮮やかな色のワンピースによるものなのか。一種、悟りのような気配すら感じる。彼女の中にあった悩みが全て雲散霧消したかのようだ。
 彼女は私を見つめながら微笑んでいる。ずっと見たいと強く渇望していた微笑みだ。しかし、言い知れぬ不安が私に押し寄せる。心臓がばくばくと鳴り始めた。
 なぜ、今彼女は薄く微笑んでいるのか。彼女も復縁を臨んでいるのだとしたら、なぜ、感情の起伏がここまで乏しいのだろうか。
 まだ怒っている……? いや、それなら微笑む意味がわからない。これも女心というものなのか?
 私にはわからなかった。はたして、彼女から見て、私は変われていたのだろうか。
 そして、ようやく彼女が口を開いた。運命の時がやって来る、
「わたしは……」
 刹那、彼女の微笑が一層深まったように見えた。彼女の微笑みは何を意味しているのか。かすかな声が私の耳に届いて来た。動悸があまりにも激しく、はっきりと言葉を聞き取ることができない。
 緊迫の波はピークに達し、私は彼女の口元に釘付けになるばかりだった。
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